心の眼を開く・偏見からの脱却

心眼を開くということは、いつ如何なる時でも正しい判断ができることでもある。霊視、即ち見えないものを見ることだけが心眼ではないし、『私は見える』と公言する人の殆んどは心に執着をもっているものだ。

またその人の背後には邪悪なものがいることに気づいていない。心豊かに冷静で、かつ偏りのない人は『私は見える』と公言することはない。見えることが尊いことではないのだ。

人間は他人のことはよく分析するが、自分のこととなるとなかなか正しく見ることができないものです。

自分を見る時も他人を見るときのように客観的に、第三者の立場でみると、よくその実態がわかってくる。

但し、客観的な見方のなかに私心、エゴ(偏見)があっては事の真実をみることは敵わない。私たちは毎日の生活のなかに心の目を開くチャンスがあるのです。

日ごろは3次元的視点(肉眼)からものを思い、判断するのですが、心眼を養ってくると4次元的視点が養われることになり、他人の心の内が容易にわかってきます。

きょうはその為の基本的条件を述べてみます。また今という瞬間が最良のチャンスであることに気づくためには、後にも先にも自分を省みることが重要かつ大切である。

さて、それでは本題にはいりましょう。

私たちの普段の生活を見ると、眼と耳を通して得た情報によって得た自らの体験と知識は、実は我欲を土台にした価値観と偏見になっている場合が多いのである。

そのために、家庭生活と社会は、様々な矛盾と執着をつくり、大自然が教える中道の心、つまり偏りのない調和された営みから離れているのだ。

真実が意味不明なものになってわからなくなってしまった感がある。

尖閣諸島や竹島の問題も然り、国と国との争いについても、モトをただせば自分の利益に執着した結果の欲望である。

自国の利益だ。自国の利益が失われる。あるいは、より大きくするために他国を侵略する。そうして、勝ったり、負けたりの繰り返しである。

勝ち負けの輪廻は、その渦中から抜け出さないかぎり、永遠に続くだろう。

すなわち、苦しみの輪廻は、その苦しみの中に想いが止まるかぎり、果てしなく続いていくものである。

中道(偏らない生き方)にそった調和を、私たち人類が志さない限りは、真の幸福に気づくことができない。

まず人間は

1・正しく見る目を養うこと。エゴ(我欲)を去った調和ある見解を持つよう努めることであろう。それには、己という立場があっては、正しさを求めることはできない。

正しさの尺度は、男女の別、老若の別、地位、名誉の別、こうした立場を捨て去って、一個の人間として、大自然のなかの己として、そしてその心の目で、ものを見る、相手を見る、現象を眺めることである。

調和の基本は、まず何はさておき、見ることの正しい評価にあるといえるだろう。

現われた現象(結果)の背後には、必ずその現象を映し出す原因がなければならないからだ。

また、自分に直接関係のある諸問題が発生したときは、他を非難したり、責任転嫁をするまえに、まず自分自身の心の姿想いを見ることが大事だ。

自分の価値観を無理押ししなかったか、判断の背景に自己都合の欲望がなかったのか、自分の利益を優先した想いではなかったのかなどである。

肉体の眼を通して外界の動きを正しく見るためには、その眼の奥にある心眼(偏り、執着のない心)がキレイに磨かれていないと肉眼に映った諸現象もゆがんでしまうからである。

各人の心は鏡である。その想念という鏡をたえず掃除しておくことだ。掃除は反省を通してはじめて磨かれてゆくものである。

正しく見ることにつづいて、

2・思うことについても中道の尺度は欠かせない。
思うことも、自己中心になると人との衝突はさけられないし、思うことは具象化するからである。

親愛の心を持って人に接すれば、人もまたそれに応えてくれるだろうし、食べ物も、食器も、家も、着物も、テーブルも、橋も、馬車も、車も、新幹線も、旅客機も、宇宙船もすべて「思う」ことから出発し発明化している。

それゆえ、思うことが自己本位に流れると、人と人との調和を崩し、争いの種をまくことになろう。この原則は過去も、現在も、未来も変わることなく永遠に続き輪廻していく心の法則である。

3・「言葉」にしてもそうだ。
ヒョウタンから駒が(意外な所から意外な物が出ることで、ふざけて言ったことが現実になることのたとえ)・・・・・という個人の経験的な教訓は、一面の真実を語っている。

相手を見下す言葉、野卑な言葉を使っていると、いつしかその言葉に自分の心までが犯され、相手の心を刺激し、争いの原因をつくる。

言葉は言魂であり、生きた波動である。謙虚な言葉、いつくしむ言葉、優しい言葉、勇気ある言葉、思いやりの言葉など、正しく語ることの重要性は、人間が社会生活を営むかぎり、絶対に欠くことのできない要件の一つである。

そこで
4・「正しく働く」ことを考えてみた。
「仕事」は、自らの生活を助けると同時に、人々の生活にうるおいをもたらすものである。健康で、快活に仕事が出来るのは、自然の恵みと、人々の協力の賜であろう。
正しく仕事をするには、まず感謝の心が大事である。そうして、その感謝の心は、報恩という施しの行為となって実を結ぶものであろう。
私たちの調和は、この「仕事」に対する心構えによって大分ちがってくる。感謝と報恩を軸として、勇気と努力、それに智慧が三位一体となって働くときに、この地上はより一層の豊かさを増してくるだろう。
5・「正しい生活」は、人生の目的と意義を知った生活であろう。人間の生活は、大自然が調和されているように、調和にあるはずだ。助け合い、補い合い、笑いのある生活であってほしい。
それにはまず己自身の調和をつくってゆく。自分の長所を伸ばし、短所を修正してゆくものだ。
自分が円満になれば周囲も丸くなるはずである。自己をみつめる厳しい態度をはずして、正しい生活はあり得ないものだ。
6・「道に精進」するとは、親子、兄弟、友人、隣人に対する人間としての在り方であろう。
人間は大自然と人との関係を通して、はじめて自分自身の大きな自覚に到達できるものである。
大自然もない、自分以外の人間も存在しないなどと考えるのは愚かなことだ。同時に、自分以外のあらゆる存在は、自己を認識するための材料であり、魂の向上に不可欠なものであろう。
親子、友人、隣人の関係を通じて、自己の心(魂)を正しく磨いてゆける地上は、天が人間に与えてくれた慈悲でなければならない。
道への精進は、人間の特権であり、天の慈悲である。動物にはみられぬ偉大な要素を持った者が人間であるからだ。
7・「正しく念じる」、念は願いである。念のない人生、念のない生活はあり得ない。
人は今日より明日を思うから生き甲斐が生まれるのであり、明日のない人生は死を意味しよう。今日に生きるものは強者だが、人間は、死の瞬間まで希望を託して生活していくものだ。
その希望が自己本位に傾くと人との調和が崩れ、自分自身も立ってはいられない。
念のあり方も調和という中道に適ったものでなければならないし、「正しき念」は無制限に発展する欲望をコントロールし、足ることを知った、人生の目的を自覚した願いでなくてはならない。
ここで念と祈りについて考えてみよう。
念も祈りも、ともにエネルギーの働きから生まれる。
ものを考える、思うことが出来るのは、人間の五体の中に、そうした創造能力を生み出すエネルギーの働きがあるから可能なのである。
睡眠中は、こうした能力は働かない。これは、エネルギーの休息であり、同時に、エネルギーの補給のために、人間は、睡眠中に、次元の異なる世界に旅立つからである。
魂というと、否定するものもあろう。しかし、魂のない人間は一人もいないのだ。
魂とは個性を持った意識をいうのである。睡眠は、魂と肉体との分離であり、このため、グッスリ眠ると鼻をつままれても、地震が起きても、わからないのである。
眼がさめるとは、魂が肉体に入ることである。考える、思うことは、肉体がするのではなく、魂を形成しているエネルギーの働きがあるから、可能になってくるのである。
念も祈りも、個性を持った魂の働きによって行われる。念は、人間の目的意識を表した働きである。
誰々と結婚したい、出世したい、事業をひろげたい、老後の生活を安定させたい、子供が素直に育って欲しい、というように。
人間である以上、こうした目的意識を持たぬ者は一人もいない。目的意識があるから、文明や文化が育ち、社会生活がエンジョイされてくる。
ところが人間は、肉体を持つと、肉体にまつわる想念に支配されてくる。自己本位になってくる。
これは俺のものだ、人に構っていると生きてゆけないというように。争いのモトは、こうした自己本位の想念、つまり、そうした目的意識を持った念の働きが作用する為に起こってくる。
そこで人間の目的は、魂の向上のために日々調和に努めること、調和とは、喜びをわかち合うことなのだから、人間の目的意識も、ここに焦点を合わす必要があるのである。
正念は、こうした調和という尺度を通してなされるものであるし、正念の次元は、それゆえ、魂のステージとしては非常に高いものになってくる。
仕事について考えると、仕事そのものは、社会に、従業員に、家庭にたいして、その生活を保障し、うるおいをもたらすものだ。仕事に忠実であることは、正念のあり方に適ってくる。
このことは、主義や、主張や、社会制度に関係がない。社会主義であろうと、資本主義であろうと、仕事に忠実に打ち込んでいく態度は、そうした制度とは本来無関係であるからである。
問題は、それによって生み出された利益、収入をどのように使っていくかによって、それぞれの念のあり方がどのようなものであったか違ってくる。
つまり欲望を満たす自己本位のためだったか、それとも、その利益を家庭に、従業員に、社会に還元する為だったか。
足ることを知った念の在り方は、人間は自己本位に流れやすいので、正念を生かす一つの尺度として、必要なことなのである。
正念の在り方、生かし方は、こうした足ることを知った考え方を踏み台にして、昇華してゆくものである。
つぎに祈りについて考えてみると、祈りは感謝の心を表し、その心で生活行為をしていく思念である。
人間は、一寸先闇の中で生活している。明日がわからない。いつ災難がふりかかり、あるいは喜びごとがあるかも知れない。隣の人が今、どのように生活しているかもわからない。
そうした中で、健康で、楽しく、明るく生活できることにたいして感謝する気持ちが湧き上がってきたときに、私たちは祈られずにはいられない気持ちになるものだ。
しかし通常は、願い事に終わっていないだろうか。神社仏閣にいって、こうして欲しい、ああして欲しいと手を合わせる。
正しき生活行為、つまり調和に向かって努めているときには、自分の想いや願いごと、祈りはたいてい叶えられる。
正しき「祈り」は、次元のちがったあの世の天使の心を動かし、その願いを叶えてくれるからだ。
この意味から「祈り」は天使との対話であるといえる。奇跡は、こうした「祈り」によって起こるものである。
人間生活にとって、「祈り」のない生活は考えられないし、独裁者が自分以外の人間のこうした思念を押さえようとしてもおさえることはできない。心は自由であり他人に支配されるものではない。
ただこれまでの「祈り」は、我欲のそれに使われ、祈っておればタナボタ式に、なんでも叶えられると思われている。念仏を唱えればうまいことがある。祈っておれば救われるという風に考えられてきた。そんなものではないのである。
こうみてくると念は、目的意識であり、創造活動の源泉であり、祈りは、生かされている感謝と報恩の心、進んでは天との対話であるわけである。
そうしてそのどちらも、エネルギーという力の波動によって為されていることが明らかになったと思う。
さて
8・「正しく禅定する」についてですが、正定(禅定、瞑想)の根本は反省であろう。
反省は安楽世界に住するかけ橋であろう。ねたみ、怒り、そしり、そして諸々の執着から離れるには、反省をおいてほかにはない。
反省を積むことによって、心と肉体の調和が生まれ、進んでは己の心と大宇宙の心との合一がはかられよう。
反省をせずして、調和せずして心を空にすると未成仏霊、動物霊、自縛霊などに支配され、自分の心を悪魔たちに売り渡してしまうことになる。正しい禅定は反省という止観の行為でなければなるまい。
一年365日の過去をふりかえり、その想念と行為について、黒白をつけてゆくことは、大変なことである。黒白をつけるには、中道を根本として第三者の立場で自分を眺めなければならない。
身びいきがあっては意味を持たない。これでは反省にならないからだ。それだけに、反省が厳正なものであればあるほど、愚かな自分が浮彫されてくる。人に話すこともできない。
反省して悪いと自認したとしても、その事実を消すことはできない。要はその事実を、これからの人生の課程において、改めてゆく以外にないのである。
また、過去のその善悪について、それに執着を持つと、これからの行動が束縛されてくる。本来の自由性がそこなわれてしまう。とくに悪の行為について、「悪かった・・・・・・」と認めたまではいいが、それにとらわれると暗い想念をつくりだしてしまう。
この点も中道(偏らない)の心が大事である。過去の全体験は、心(魂)の修行の一過程であるからである。反省の結果は反省後の中道の実践にかかっている。
心(魂)成長は心身の調和という姿で現れてくる。

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