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盛岡市のパニック障害カウンセリング
パニック障害について。

パニック障害における医学的な精神療法としては、認知行動療法が薬物と同等の効果をもつと紹介されています。
(但し、個人的な意見としては認知行動療法と薬物療法を同等と位置づけする捉え方もまたどうかなと思います。)

この認知行動療法というのは、不安の予兆に対し、いつも最悪の事態を予測してしまうクセ(認知の歪み)に気づくことであり、「これはいつもの不安のためだ、時間がたてば自然に治まる」などと、言葉にして自分に言い聞かせることによって受け止め方の修正をはかるようにする方法のことであり、自分でできる簡単な認知療法だと説明されてはいます。(多少は有効な方法であるとは思いますが、それほど単純なことではありません)

実際のところはパニック障害を自分で克服できている人は非常に少なく、むしろ皆無に等しいといえるかもしれません。


したがって認知行動療法は個人でできるほど簡単ではなく、良く訓練をうけた専門家による指導が必要といわれていますが、その専門家もまだ十分でないのが現状です。

治療ガイドラインでは、急性期の治療では、薬物でパニック発作やそのほかの不安症状を出来るだけ軽減させ、それでも広場恐怖などの症状が続く場合は、認知行動療法を取り入れた取り組みになるとしています。

広場恐怖に効果のある治療法だとして「段階的な訓練療法」があります。

広場恐怖の対象を、その不安の度合いによって段階づけし、容易な段階から挑戦して、出来たらその上を目指すというやり方で行動練習を行うやり方が一般的かと思います。

たとえば一人で乗り物に乗れない場合は、はじめは家族が一緒に乗ってみるとか。

慣れてきたら家族に別の車や電車に乗ってもらい行動を共にするとか。

その次は一人で一駅だけ乗ってみて、それが出来たら二駅三駅と距離と時間をのばしていくといった具合です。

無理せず、少しずつ成功体験を積み重ねることによって、自信をつけていくのがコツ。

と、こういうふうに訓練法を紹介していますが、なかなかマニュアル通りにはいかないのが現状です


ここまでのパニック障害に対する記述は医療現場での取り組みであり、そのマニュアル的な手法を紹介したものです。

だが、これらはとても対処療法的な感が否めないというのが正直な感想です。

その理由ですが、方法論によってパニック障害を改善しようとする傾向にあり、一番大切なところの、なぜパニック症候群に陥っているのかという根本的な原因を究明するところが足りていないこと。

さらに体と精神の関りをどこまで深く理解しているかという点においてはとても十分な内容ではなく、お粗末な取り組みだと客観的に感じること。

肉体的に健康状態が不調なためにパニック状態に陥っているケースや、精神的な部分に主たる原因があって肉体的な不調を表すパニック状態もあるということ。


これらの因果関係を究明して本当の原因を知るにはクライアントの生活状態や個性(性格)をよく理解する必要があります。

その人の心の傾向性がどういった流れにあるのか、方向にあるのか、どういった心の癖を持って今日まで生きてきたのかを知るためにもご本人の幼少の頃まで遡っての環境を把握する必要があります。

その時に初めて人間像が見えてきます。

ここまで進んだ時にこそ真のカウンセリングが可能となります。

クライアントさんの実態を把握しないままに薬物療法を奨める現代医療の手法が必ずしもベスト選択とはいえないと思うのです。


特に精神が絡んでくる症状の改善については、セカンドオピニオンという観点からも薬物療法以外の選択肢があっていいのではないでしょうか。

宗教
整体

友人からの電話(感動実話からの転載)2018-8-23(木)


昔付き合ってた彼女。
すごく人あたりが良くいつも笑顔で友達もたくさんいて。
明るくて俺にだけ少し我儘で、でも大好きだった。

順調に1年付き合い結婚の二文字もちらついてたある日友人から報告。

彼女がラブホにいたと。
自分らの方を見てあって顔したんで間違いないと。

半信半擬だがこの友人は嘘でこんなこと言うやつではない。
悩んだが直接聞こうとメールした。

「話がある。時間ある?」
彼女からしばらくたってかえってきた。


「わかった。明日お休みだからいつでも大丈夫だよ。」

翌日彼女の部屋へ。
ドアを開けるとなんだか憔悴しきったような彼女が出てきた。

無理矢理な笑顔を作り俺を部屋へあげる。

しばらくとりとめのない話をし、俺が口火を切った。

「友人からラブホで見たって言われたんだけど。」

瞬時に固まる彼女。
反応からああ事実なのかと悟る。


正座に座り直し「…その通りです。ごめんなさい。」まさか、だって浮気とか有り得ないて思ってたし、彼女からは「なにそれ、見間違い・・・」とか言われると思ってた。

でもうなだれる彼女が現実。
俺は切れた。大人の対応なんて出来なかった。

「ふざけんなてめぇ、この槍万が!俺よりそんな親父が良かったのか!まじ死ね!」思い付く限りの酷い言葉で罵った。

彼女は何も言わずずっと俺の言葉を聞いてた。
顔を上げる事もしなかった。
それが余計に俺をいらつかせた。

「何か言う事ないのかよ、ここまできてさ。」

怒気を含んだ言葉で聞くと「全て事実です。本当にすみませんでした。」と土下座された。

「糞うぜえ。死ね。槍万が。」

彼女の部屋を出た。
号泣しながら家に帰った。

許せないのと裏切られたのと、色々な感情でパニックになりつつ。
友人にも話し、慰められながら彼女の事を忘れると決意、全部着信拒否した。

あの日以来彼女から連絡が来ることはなかった。

「あー俺そんだけな存在だったんだな」って泣けた。

やさぐれながらあっと言う間に1年が経った。

友人何人かの飲み会があり参加した。

そこで彼女の近況を聞くことになる。

「あの女、入院してるらしいぜ。ざまぁ・・・・」彼女が体が弱いのは知ってた。

その頃裏切られたと思いつつまだ俺は彼女の事を気にしてたんだろうな。

入院の言葉が引っ掛かって、病院教えてもらってとりあえず様子見に行ってみた。

教えてもらった病院に行くと彼女の弟を発見した。

ものすごく気まずい。

あたりさわりのない挨拶をしたあと、彼は「姉ちゃんに…会いに来てくれたんですか?」と聞いてきた。

「いや、うんまあ」と曖昧に返事。

弟はしばらく考え、少し話があると俺を連れて外へ出た。

人気のあまりない場所に来ると「この度はご迷惑をおかけして本当にすみませんでした。」と深々と頭下げられた。

俺が戸惑ってると弟は色々話をしてくれた。

彼女が学生の頃に両親が他界。
姉ちゃんは自分の為に身を削り働いていた。

自分の大学の学費も払ってくれて、高卒でそんな高給は無理だろうに仕事掛け持ちで働いていた。

そのせいで体を壊したと。
俺には自分のせいで二人を引き裂くような形になり本当に申し訳ないと。

俺の頭の中で何か繋がった気がした。
俺が彼女と知り合ったのは彼女が俺の会社に派遣としてきたのがきっかけ。

派遣に珍しく仕事は一生懸命やってくれて、そこに俺が惚れたんだ。

彼女には両親のことは聞いてなかった。

「うち貧乏でさー」くらいしか言わなかったから。

弟にとりあえず彼女と話がしたいと告げると、「…今の姉ちゃん見ても、普通に話して下さい。お願いします。」と言われた。

病室に入ると痩せほそった彼女がいた。

俺の姿を見て酷く動揺し、「え?なんで?」みたいなこと言ってた。

ベッドの横にある椅子に座り「…久しぶり。」と声懸けると無言でうつむいてしまった。

酷いとは思ったが聞いてみた。
「なんであんなことしてたんだよ。何か理由があんだろ。話してくれよ。」しばらく無言だった。

でも何か決意したかのように一つ深呼吸をしてぽつぽつ話だした。

弟を育てるために掛け持ちで働いてたけど、自分の体が弱いためにそれも出来なくなった。

途方にくれてたが自分が働かなきゃ弟の未来が潰れてしまう。

背っ羽詰まった彼女は風俗に行く事を決意。

それで何とか弟の学費捻出、高卒で何のスキルもない自分にはそれしか思い浮かばなかった。

俺と出会い、好きになる気持ちを止められず付き合ってしまった(俺は2度彼女に断られてる)優しい俺に甘えて傷付けてしまった。

最後の方は泣きながらだった。
何度も何度も傷付けてごめんなさいと言われた。

彼女は本当にいい子だったんだ。

目撃した友人も信じられない、みたいな感じで悩みに悩んで俺に伝えたし。

彼女は自己犠牲精神が強いようには感じてたが、それが弟とかいろんなもの背負っての事なんだって俺は気付かなかった。

ほんと馬鹿。
一緒に泣いた。

分かってやれなくてごめん、あの時ちゃんと話しも聞かず突き放してごめんって。

いいの、違うよ、俺のせいじゃないからって優しく笑う彼女にまた泣けた。

「ここに来てくれて本当にありがとう。
凄く嬉しかった。

私いっぱい傷付けたのに。
本当にごめんなさい。

そんな優しいあなただからこれからいっぱい幸せになってね。
幸せになんないと許さないよ」

涙でぐちゃぐちゃなのに彼女笑ってた。

自分が死にそうなのに俺のこと責めたりしないで、しかも俺の幸せ願うって。

馬鹿かよ。
ちくしょう。
更に涙でるだろうが。

彼女は俺が病室出るまで謝ってばっかだった。

「好きな人と付き合えたからそれだけで幸せだったけど、結果的に俺を苦しめただけだった」と繰り返す。

俺は言った。
「お前と付き合えた間、俺幸せだったから。
すげえ幸せだったから。
だから気にすんな。
弟のこともまかせろ。」

ここで彼女号泣させてしまい看護師が飛んできた。

なんか知らんが騒ぎになってたらしく。

彼女泣いてるし俺も泣いてるし、その時きた弟も「俺大丈夫ですから。

姉ちゃん頼むよ、もう俺のこと気にしなくていいんだよ」て号泣するし。

看護師は気遣いながらまた改めてって言われその日は帰った。

知らせてくれた友人にその日のうちに伝えた。

ヤツは「あぁそうか…ごめんな、俺のせいでお前らを引き裂いた」と泣いた。

俺も泣いた。

それから半年後彼女は亡くなっった。

毎日見舞いもした。

一度「結婚しよう」と言ったんだが「これからいなくなる人にプロポーズすんな・・・・健康な嫁もらうんだよ」って涙目で言われた。
弟には「姉ちゃんの最後まで付き合ってくれてありがとう。
俺さんのこと、姉ちゃん大好きだったから今頃天国で幸せだと思うんだ。」

俺が慰められてどうすんだ馬鹿。

弟は彼女が風してたの知らない。

これから俺がばらすつもりもないし、これは俺が墓場まで持っていく。

弟は就職してるが今は俺の本当の弟みたく家にも来る仲になってる。

俺の両親も承諾済みだ。

弟は彼女の血を受け継ぎ人に優しい子だから俺の親にもすんなり受け入れられた。

彼女の変わりじゃないが、これから弟の成長を見守りたい。

彼女は辛い事全部背負って生きてそのままなくなった。

俺はその手助けさえ出来なかった。

今でも後悔しまくってる。

いっそ彼女がビッチ(尻軽女)ならここまで思わなかったが、彼女と弟を見ると彼女の生き方は胸をはって言える。

全うに育った弟と、死ぬまで自分を押し殺し他人を気遣う彼女はビッチではない。

誰がなんといおうと。

天国で彼女が幸せに過ごしていることを願う。


ポジティブ思考

ネガティブ思考からの脱却 2018/8/1(水)
なんで嫌なことって続くんだろ?
嫌なことが重なると、考え方も暗くなりがちになりませんか?

そんな時こそ、気持ちを切り替えることがとても大切です。

考え方を変えることで流れが変わることはよくあります。

いわゆる運気もアップしてきます。

相談してもネガティブな受け答えしか返してこない人。

こういう人に相談すると、さらに気持ちが暗くなるばかりですからやめておくほうが無難ですね。

そういう意味では交友関係を見直しておくことは後々のこともありますからとても大切です。

気持ちが落ちている時や嫌なことがあった時こそ、その気持ちを理解してくれ、前向きな意見を言ってくれるポジティブ思考の人ならば、気分をアップさせてくれます。

もっと大事なことは、日頃から自分の心の癖を把握しておくこと。

これは意外とわかっているようで実はわかっていない。

他人のことはよく見えるが、しかし、自分の事となると他人を見るほどには見えていないのが人間の姿でもあります。

自分の短所、長所をもう一度見つめなおす。

こういう時間があってもいいと思います。

一日の終わりに、静かな時間を数分から十数分でいい。

雑音から離れた時間をつくることが自分の姿、つまり精神性といいましょうか、個性といいましょうか、癖が見えてきます。

自分のネガティブな傾向性を変えていくためには素直に自分と向き合うことが欠かせません。

これを避けて自分が変われることはほとんど難しいでしょう。

何故なら、嫌な自分、短所のある自分、ネガティブ思考の部分をもつ自分を認めなくてはならない作業だからです。

順調なときはニコニコ顔でいるいい人なのに、突然「ムッとした顔」で暗い表情をする傾向のある人は感情の起伏が大きいということに気づいていないことが多く、周りの人が戸惑うこと多々ありです。

こういう傾向のある人は何かと円滑さを欠く人間関係に陥っている場合がありますね。

これまでの人生経験からしても、多くのカウンセリング経験からしてもそうですが、自分が変わることほど難しいことはないと思っています。

成長するということは自分が変わることではないだろうか。

余分な持ち物を処分することでスッキリする断捨離は、ただ単に気分転換におさまらず、物事の視点を変えることに大いに役立ちます。

それと同じように心の中に抱えている不要な想いを捨てる断捨離があってもいいのではないのか。

いかがでしょうか。

盛岡 頭痛 偏頭痛

頭痛とストレスについて。 2018/7/19(木)
私たちは毎日の生活のなかで気楽な日ばかりではなく、逆に厳しい条件下でストレスを感じながら生活している部分が多いのではと思います。

ある程度のストレスは必要であることも確かのですが、そのストレスが過剰になると体に不調をきたす場合があります。

但し、ストレスは同じ環境下にあってもその感じ方には個人差がありますね。

その違いは何かといいますと、その人の心の傾向性(思考の癖)にあるといえます。

さて、きょうは頭痛について述べてみましょう。

一体どのようなメカニズムでストレスから頭痛が誘発されるのでしょうか。

その原因と対処法についても述べてみます。

ストレス性頭痛メカニズムは?
頭痛というと脳に痛みが生じているのだと考える人がいるかもしれませんが、実は脳には痛覚がありません。

ですから、頭痛は脳の痛みではなく頭蓋骨内外の膜や筋肉・血管などと一緒に走っている知覚神経が存在し、それが痛みを発しているわけです。

例えば、ストレスを受け止めるとき、自分の容量を超えると過剰に交感神経が刺激され、身体は常に緊張状態を強いられることになります。

そうなると全身の血管が収縮して血の流れが悪くなり、それが頭痛の一因になるということがあります。

逆に、ストレスという緊張状態から解放された際にリラックス作用のある副交感神経が刺激され、血管の拡張によって血流が一気に頭部・及び全身に流れ込むのも頭痛の主な原因の一つでもあります。

こういう状態は、緊張状態に対応できる状態にない理由があるということを知っておかなくてはなりません。

それは、首の状態、つまり、頸椎の圧迫が強くあること。

もう一つは、頸椎の椎骨が左右どちらかに捻じれがあるということ。

但し、頭痛外来、脳神経内科外科でもこの点には注目しておりません。

長年の治療経験・臨床例がそれを証明しています。もう一つは、ストレスによってホルモンバランスが乱れた場合も自律神経の乱れにつながり、やはり頭痛を引き起こす可能性が高くなります。

ここでいうホルモンバランスですが、ストレスがかかってきたときにどう向き合うか、どう受け止めるかによって脳内のホルモンであるドーパミンの出具合が違ってきます。

例えば、「嫌だな」と考えてしまうとドーパミンが分泌されなくなりますが、「よしっもう少しだ」と前向きな考え方をする人はドーパミンの分泌量が活発になります。

つまり、ドーパミンの分泌は感情のあり方によって影響を受けて分泌されるかどうかが違ってくるということです。

脳内で分布されたドーパミンは交感神経を通っていくなかでノルアドレナリンに代わりながら副腎の髄質までたどり着きます。

そこで副腎からのみ分泌される酵素によってアドレナリンに変化します。

このアドレナリンが痛みを緩和するホルモンとして全身にいきわたり痛みが緩和されるというのが人間に備わった痛み対処のメカニズムです。

こうして説明してわかるように、精神状態のあり方、物事の受け止め方のいかに大切であるかが理解できると思います。

ネガティブ思考の癖がある方はポジティブ思考に変えていく学びをしたいものですね.


盛岡頭痛 整体

前回投稿した記事の続きを今回載せることにしました。
2018/6/26(火)

精神的腰痛の根本的原因
ストレスをどのように受け止めているか。

これは受け止め方が人によって様々であることは皆さんも承知のことかと思います。

例えばですが、非常に喉が渇いているときに目の前にコップ一杯の水をいただいたとしましょう。

半分ほど飲んだ時に、「アッもう半分しかない」と思うのか、あるいは「おっまだ半分ある」と思うのかでその人の思考性が見えてきます。

40Kmマラソンの折り返し地点20Km地点に到達したとき、「ああっ疲れた~」と思うのか、「よしっ、あと半分でゴールだ」と思うのか。

これはただの思いではなく、そこに心の働きがあることを考えれば実際はとても重要な問題です。

仕事の場合もそうです、「ああ~疲れた~」よりは、「今日も充実した一日だった(頑張ったな~)」の方が充実感もあり、体の疲労度もストレスも大きな違いとなってきます。

職場の人間関係においても、上司の言葉にイラっとする前に、「上司もいろいろと大変だな!」という考え方をすることで自分の思考習慣が変わってきます。

思考の習慣しだいでストレスは軽減できる。
あなたはプラス思考の習慣がありますか?

マイナス思考の癖はありませんか?

思考に気をつけましょう、それはいつか言葉になるから。
言葉は周りを変えます。

言葉に気をつけましょう、それはいつか行動になるから。
行動は模範になる。

行動に気をつけましょう、それはいつか習慣になるから。
習慣は人生を楽しくします。

習慣に気をつけましょう、それはいつか性格になるから。
性格は自分を成長させます。

性格
に気をつけましょう、それはいつか運命になるから。
運命は変えられます。そのためにも性格を少しだけ変えていきましょう。

寝る前の10分が自分を変える。
一日の出来事の一部をノートに書く。

できたこと。
よかったこと。
辛かったことはどうしてなのか。
どこに原因があったのか。
これらを箇条書きでもいいですから簡単に、書き記す習慣をつけてみてください。

寝る前の10分間は心に残りやすく、それが潜在意識に働きかけて自分を変えていくことになります。

思考の習慣

盛岡腰痛
腰痛とストレス 2018/6/21(木)
観身堂には毎日多くの腰痛患者さんがおいでになります。

問診と身体の検査をしていくなかでほとんどの方は原因を特定できますが、まれにはこれといった異常が見当たらないのに腰痛を訴える方もいます。

腰痛の原因にはさまざまな要素(骨盤の歪み・股関節の不具合・疲労・姿勢・体の酷使)があるので、痛みの原因がストレスによるものだと簡単に決めつけることはできませんが、精神的ストレスと腰痛が多少なりとも関係しているのは事実です。

もし、慢性腰痛が続いて病院で診察してもらっても明確な原因が見つからない。

あるいは整体院で上述の要素以外に特にこれといった原因が特定できないというならストレスが関係しているのかもしれません。

そのメカニズムをご紹介しましょう。

まず最初に、脳と痛みの関係について考えてみます。

実は、痛みに対する感じ方の程度は人によって多少の違いがあります。

ケガをしているのにそれほど痛がらないでいる人。
腰の状況が悪いのにそれほど苦にしない人。
大した怪我でもないのに痛みを極限状態のように訴える人。
いわゆる痛みに弱い人、この差はどうしてなのか。

先ずは痛みのメカニズムについて述べてみます。
1.ケガや腰痛を例にあげますと、腰から痛みを感じる信号が脳へ伝わる。
2.
痛みによって脳内でドーパミンという神経伝達物質が多量に放出される。
3.
ドーパミンよって、痛みを抑制するセロトニンノルアドレナリンが放出される。
4・ノルアドレナリンは交感神経の中でアドレナリンに変化する。
5・
そのアドレナリンの働きによって痛みの信号が遮断され、痛みを感じにくくなる。

これがドーパミンシステムと呼ばれるもので、人間の体に備わった「痛みをコントロールするシステム」です。

ところが、精神的ストレスを受けた状態が続くと、このバランスが崩れてドーパミンが放出されにくくなり、結果的にアドレナリンの生成がなされず、痛みを感じやすくなることが近年分かってきました。

それはドーパミンを作り出す脳の深部が感情をつかさどる部分でもあるため、メンタルの影響を受けやすい場所であるということ。

心が硬くなると、体も硬くなる
また、ストレスを感じて心が緊張状態にあると、自分が意識している以上に体にも力が入っています。

それでは、どのような精神状態が、腰の痛みに影響を与えやすいのか述べてみます。

・不満に思うことが多い。
・イライラしたり、緊張することが多い。
・泣きたくなることが多い。
・なんだか自分だけ不幸な気がする。
・なかなか眠れない日がある。
・小さなことに腹が立つ。
・あまり食欲がわかない。
・腰痛がひどくなりそうで、何をするのもビクビクしてしまう。
職場の人間関係や家庭の問題、仕事や学校の悩みなど、ストレスの原因は人によってさまざまですね。

現代社会を生きるほとんどの人は、何らかのストレスを感じていると言えるでしょう。

そのようななかでも、ストレスを感じやすい、あるいは強く感じる人。とそうでない人がいるのはなぜなのでしょうか。

そこにはストレスの受け止め方・扱い方に違いがあります。

思考の癖を変えることで,程度の差はあっても痛みから解放されることも可能です。

ただ、考え方や感じ方は人それぞれで、何かの出来事や他人の行為に対して、怒りを感じる人もいれば、軽く流せたり許せたりする人もいます。

その違いは「考え方」の違いというところが大きい。

考え方が先にあって、その次に感情がやってくる。
感情が先に来てしまうと冷静な判断ができなくなります。

ですから、この「考え方の癖」を少しでも変えていくことで「感情」がバランスよく働くわけです。

次回は考え方を変えていくための具体的な方法について掲載してみたいと思いますのでお待ちください。


腰痛

お守り

お守りに入った念波動 2018/4/22(日)

キリスト教の教会の信者として熱心に活動する女性(76歳)Aさんがいた。

その息子(50歳)が久しぶりに所用があって実家に行ったときに母(Aさん)から紙包みを渡され、家に帰ってからその紙包(お守り)を娘に手渡した時から娘が髪を振り乱して発狂しだした。

娘は自分が何をしているかさえも分からない状態になった完全憑依である。

家庭内が大騒動になった。

そういう状況下で娘のお母さんから私に緊急の連絡が入った。

何をおいてもすぐに遠隔浄化を始めた。

そして五分後くらいに再び連絡が入った。

「娘が排泄をもよおしてトイレに入って全部下してでてきました。いつもの娘に戻りました。ありがとうございます。」と。

この事件はキリスト教の某協会の盲信者である女性に主たる原因があったのだが、まだその背景がある。

Aさんは布教と称して長きにわたって様々な活動をしてはいますが、この教団自体が非常に金銭欲に汚染された教団であるために、聖書とはかけ離れた霊的に邪悪なエネルギーにあふれている。

金は計り知れないほどある邪悪なカルト教団といっていいだろう。

こういう教団の指導者や信者から洗礼を受けたらそれこそ人生を狂わせてしまいかねない。

宗教はアヘンであるということの真意を考えてみなくてはならない事件でした。

盲信・狂信になるように洗脳されていることにすら気づけないままに深みにはまっていく事例は数限りなくあります。

日本国内にもカルト教団といわれるような大きな宗教団体は相当数存在します。

そして家庭破壊になったケースはたくさん存在します。

中に入って被害にあわないとわからないくらいに巧みに洗脳していきます。

盲信してしまうと自分が被害にあって生活を狂わせていることにすら気づけなくなってしまう。

宗教・拝み屋・霊能者・占いなどには十分に気を付けなくてはならない。


線

パワハラ

職場内の人間関係 2016-3-31(土)
上司のパワハラに悩んでいる人は決して少なくない。

上司のパワハラに追い詰められて会社を辞めてしまう深刻なケースもあります。

男性同士のパワハラ、男性から女性へのパワハラ、女性同士のパワハラもあります。

理不尽なパワハラですが、その実態を詳細に把握していきますと、被害を受ける側にも上司からすればそれなりの理由が見受けられる場合もあります。

いずれにしてもパワハラは良くない。

パワハラ上司への対処の仕方や工夫によってはその被害から逃れられたりパワハラが減ったり無くすることも可能です。

どうにもならないときは退職、転職、移動願いも一つの選択肢にはなりますが、自分なりのベストを尽くして、その上で判断をしたほうがいいでしょう。

パワハラをはじめとした不適切な行為に苦しめられている場合、どういうふうに対処したらそのパワハラから身を守る事が出来るのか。

今回はその対策を少しご紹介します。

「できるだけ多くの人に相談する」
相談する相手は、可能ならば友人や知人、家族、学生時代の先輩などなど、できるだけ幅広くすることが望ましいでしょう。

相談を受ける相手がパワハラを受けた経験がなくても、同じような事例を知っているということもありえます。

また、パワハラ上司に悩まされているのは自分だけではなく他にも「被害者」がいるケースがあります。

一人で悩んでいるより、同じ被害者といっしょに何かしらの対策を考えるほうが、支えあえるし行動を起こしやすくなります。

可能であれば、社内の担当窓口などへの相談もよろしいかと思います。

もし社内に、コンプライアンス(企業倫理・法律順守)専門の部署や、「相談室」のような窓口があるなら、そこに一度相談してみるといいかもしれません。

ただし、すべての会社にそうしたセクションがあるとは限りません。

たとえば人事部に相談して、それが上司の耳に入ってしまうという事態も想定出来るでしょう。

その不安がある人は、人事部などよりも組合に相談することも選択肢ですが、これも、会社によって組合組織の強弱にかなりの差がありますから、あまり有効な手段にならないこともありえます。

それでも一度、組合に相談してみることは、むだにはならないはずです。

「厚労省のサイトや窓口を利用する」

社内のコンプライアンス部署などで解決できない場合は、厚労省のサイトや窓口を利用することも可能です。

個人的に弁護士に相談するという方法ももちろんありますが、知り合いに弁護士がいる人以外は敷居が高くて困難が伴いますし、金銭的負担は避けられません。

その点、厚労省の窓口であれば、「一度話を聞いてもらおう」という、より気軽な気持ちでアクセスできるはず。

厚労省には、各都道府県の労働局に「総合労働相談センター」という窓口があります。

一度チェックしてみるといいでしょう。
これで解決しないようなら、転職も選択肢に入れた判断をするが必要な場合もあります。

。参考のために私(観童)の無料カウンセリング(60分)の窓口を掲載しておきます。Kandou0822@yahoo.co.jp

口相談は直接面談となります。


「パワハラの事実を記録しておく」

多くの場合パワハラだと気づいたり、確信するまでにも多少の時間がかかっています。

よく考えればもっと以前からパワハラの被害にあっていることもあるのですが、その記録をとっていないことがほとんどです。

どう考えてもこれはパワハラだと感じたら、日時と内容(言葉・態度)をすぐに記録すること。

大事なことは、忘れないうちにその場でできるだけ詳細な記録がとってあることです。

メモや携帯型のコンパクトなICレコーダー、周囲で立ち会っていた人の名前も記録しておくとよいでしょう。

パワハラを行っている人は、パワハラと気づかずにやっていた、ということはまずないでしょう。

はっきりと認識した上でハラスメントをしています。

加害者は被害者の顔を見て、困ったり泣いたり傷ついたりする様子に優越感を持ったり、部下に怒ることで地位を誇張したり、自己満足したりしていますが、この程度ならまだ大丈夫とか、多少のエスカレートは問題ない、と自己判断しながら行っています。

そして被害者に対しては「本人にハッキリ言うことの何が悪い」と都合よくハラスメントを正当化するわけです。

こういったことの一因に、被害者が抵抗しないことを挙げる加害者がいます。

また、被害者がパワハラだと明言しないことで周囲が「ただモメているだけ」という認識で終わってしまい、パワハラを阻止できないことも多々あります。

上司の上司や人事部のハラスメント担当に、これまでの記録を提示した上で報告することも有効でしょう。

パワハラ相談の時は、落ち着いて事実だけを話すこと。

これまでずっと我慢し続けてきた、という気持ちはわかりますが、感情的になって泣き出すようなことになっても相手にはその詳細が伝わりません。

また、パワハラの解決には落としどころが必要になります。

パワハラの加害者に対して何を希望しているのか、会社への要望、これからのことも話し合わなければなりません。

「加害者をクビにしてください!」ではなく、厳正なる処分を求めますという意思を伝えるなど、社会人としての最低限のマナーを踏まえないと、被害者側にも何らかの理由があるのではと思われてしまいます。

実際にパワハラや学校におけるいじめ問題などの相談では被害者にも多少の落ち度があることもありました。

「上司の上司に相談する」
パワハラについて社内で相談する場合は、まずは上司より上の立場に当たる人に相談してみてはどうだろうか。

但し、口頭で悩みを相談しただけでは、事の深刻さが伝わりにくいものです。

ですから、いったいどのようなパワハラを受けているのか、それが本当に起きているのか、客観的に判断できるような証拠をしっかり提示できなくてはなりません。

パワハラは、部下を指導するという名において怒鳴ったりという形で現れる場合が多いので、証拠を集めやすいとも言えます。

必要以上の罵声や恫喝などは、上司であっても許されるわけではありませんから、実際に怒鳴っている様子を録音するなどして、証拠として提出できるようにしておくといいですね。

実際に怒鳴り声を聞いてもらい、客観的な判断をしてもらうという事が重要です。

「専門の窓口に相談する」

上司の上司に相談しても、拉致があかないと感じた場合は、会社内でそういう問題を専門に扱っている窓口がないか調べてみましょう。

ある程度大きな会社の場合、社内の専門医や人事部などでそういう問題を扱っている場合もあります。

相談できる窓口があるなら証拠を提示して相談し、上司の行動がパワハラに該当するかどうかを客観的に判断してもらうのです。

その上で、この問題の解決を依頼してみましょう。

あからさまなパワハラは、現在では犯罪行為です。

実際に起きている事を社内で明らかにして、上司に対する指導をお願いするべきでしょう。

「社外の専門の窓口に相談する」

会社内でそういった相談窓口がないような場合、社外の相談窓口を利用してはどうだろうか。

最近は最初の一回は無料で相談に乗ってくれるといったところがあったり、無料で電話相談を受け付けている所もあります。

そういうところに実際上司がパワハラを行っている様子の証拠を提示して、本当にパワハラになるかという事を判断してもらえば現況がはっきりしてきます。

社外の専門機関においては、法的なアドバイスもできるよう、いろいろな情報が集まっていたりします。

自分の状況ではどのような対処が望ましいか、それを相談して適切なアドバイスをもらって対応できます。

今回は、上司のパワハラ対処の方法について述べてみました。

大切なのはそういったパワハラを隠してしまったり、自分一人で抱え込んでしまう事のないように第三者の客観的な判断を参考にするということです。

基本的には、パワハラを行うのは、受ける側の問題ではなく行う側の上司が問題です。

しかし、実情を詳しく把握していくと、受ける側が加害者に対する対処を変えていくことでパワハラが減ってくる、あるいは無くなるということもあります。

すべての原因は加害者にありと決めつける前に、職場内における自分自身の言葉や態度などに落ち度はないのか省みることも大切なことです。


人間、気づかずに相手の感情に添えていないことが多々あるものです。

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介護

地裁が泣いた介護殺人 2018-03-20(火)

デーリー新聞20161116日から転載させていただいた記事です。

2006
21日、京都市伏見区の桂川の遊歩道で、区内の無職の長男(事件当時54歳)が、認知症の母親(86歳)の首を絞めて殺害、自身も死のうとしたが未遂に終わった「京都・伏見認知症母殺害心中未遂事件」をご存じだろうか。

一家は両親と息子の
3人家族だった。
1995年、父親が病死後、母親が認知症を発症。

症状は徐々に進み、
10年後には週の34日は夜間に寝付かなくなり、徘徊して警察に保護されるようにもなった。

長男はどうにか続けていた仕事も休職して介護にあたり、収入が無くなったことから生活保護を申請したが、「休職」を理由に認められなかった。

母親の症状がさらに進み、止む無く退職。

再度の生活保護の相談も失業保険を理由に受け入れられなかった。

母親の介護サービスの利用料や生活費も切り詰めたが、カードローンを利用してもアパートの家賃などが払えなくなった。

長男は母親との心中を考えるようになる。

そして
2006年真冬のその日、手元のわずかな小銭を使ってコンビニでいつものパンとジュースを購入。

母親との最後の食事を済ませ、思い出のある場所を見せておこうと母親の車椅子を押しながら河原町界隈を歩く。

やがて死に場所を探して河川敷へと向かった。

「もう生きられへんのやで。ここで終わりや」という息子の力ない声に、母親は「そうか、あかんのか」とつぶやく。

そして「一緒やで。お前と一緒や」と母親が言うと、傍ですすり泣く息子にさらに続けて語った。

「こっちに来い。お前はわしの子や。わしがやったる」。

その言葉で心を決めた長男は、母親の首を絞めるなどで殺害。自分も包丁で自らを切りつけて、さらに近くの木で首を吊ろうと、巻きつけたロープがほどけてしまったところで意識を失った。

それから約
2時間後の午前8時ごろ、通行人が2人を発見し、長男だけが命を取り留めた。

京都地裁は
20067月、長男に懲役26月、執行猶予3年(求刑は懲役3年)を言い渡した。

裁判では検察官が、長男が献身的な介護を続けながら、金銭的に追い詰められていった過程を述べた。

殺害時の
2人のやりとりや、「母の命を奪ったが、もう一度母の子に生まれたい」という供述も紹介すると、目を赤くした裁判官が言葉を詰まらせ、刑務官も涙をこらえるようにまばたきするなど、法廷は静まり返った。

判決を言い渡した後、裁判官は「裁かれているのは被告だけではない。

介護制度や生活保護のあり方も問われている」と長男に同情した。

そして「お母さんのためにも、幸せに生きていくように努力してください」との言葉には、長男が「ありがとうございます」と応え、涙をぬぐった。

この事件が一地方ニュースに留まらず、ネットなども通じて「地裁が泣いた悲しい事件」として日本中に知られることになる。

親子の境遇や長男に同情する声や温情判決に賛同する声などが広がった。

それから約
10年後の2015年。
毎日新聞大阪社会部の記者が、介護殺人に関するシリーズ記事の一環としてこの長男への取材を試みた。

しかし弁護にあたった弁護士も行方を知らず、数少ない親族を探し出して訪ねると、彼はすでに亡き人になっていた。

事件の後の足跡について親族は口が重く、なぜ亡くなったのかも不明のまま。

行き詰った末に探し当てた長男の知人という人に彼の死を告げると、絶句して、判決後に長男が落ち着いた先の住所を告げた。

やがて判明した死因は自殺だった。

琵琶湖大橋から身を投げたという。
所持金は数百円。

「一緒に焼いて欲しい」というメモを添えた母親と自分のへその緒が、身につけていた小さなポーチから見つかった。

地獄を味わった彼の言葉やその後の人生が、在宅介護に限界を感じ、絶望している人への何らかの助けになるのではないか。

そう考えて必死に動いた記者を待っていた、悲しすぎる結末だった。

厚労省によると、要介護(要支援)認定者数は
620万人。

要介護者を抱える家族が増える一方、後を絶たない介護苦による悲しい殺人事件。

なぜ悲劇は繰り返されるのか。

どうすれば食い止めることができるのだろうか……。

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生活保護
真っ当に生きている人が、本当は生活保護のお世話になって迷惑をかけたくはないが、やむを得ない事情で生活保護の申請をしても役所に断られるという事例は数多い。

その反面、ずる賢く立ち回って法の弱点を突いて生活保護を受けながら普通に働いてそれなりの収入を得ている人間もいます。

いわゆる不正受給している人も知っています。

財源は国民の税金です。
また働ける状況なのに生活保護に頼った生活をしている人間も結構いるようです。

今回の記事にもあるように、悲しい親子の出来事で終わらせてはいけないことだと思います。

行政の在り方が問われている大きな問題だと思えてなりません。矛盾の多い世の中です。


認知症

成仏

傲慢夫の行く末 2018-3-15(木)

「俺が食わしてやっているだろ!」と妻に対してこの言葉を実際に吐く夫がいる。

なんとも大きな口の利き方ですが心は非常に小さいとしか言いようがない。

こういう男性に限って妻に先立たれたときに元気がなくなり、身なりもボロボロになって生活が荒れていく人が多いようです。

60代半ばの男性でしたが、もともと気性が荒く、誰にでも暴言を浴びせるような男性でした。

奥様ともケンカが絶えずに、暴言を浴びせておりました。

それでも何十年と夫婦を続けてこられたのだから不思議です。

お互いが争いながらもどこかで依存していたのかもしれませんね。

それはそれで良いとして夫が居て妻が居てという当たり前の毎日が、ある日を境に変わってしまいます。

前日まで元気だった奥様が心不全で突然死をされました。

残された夫は、妻の死に目を見て「なんで死にやがった。」と暴言を浴びせたのです。

死に目にまで暴言を浴びせていたにも関わず、数日後には「俺も死にたい」と情けないことを言うのです。

そして、昼間から酒を浴びるように飲み、肝硬変で入退院を繰り返すほどボロボロに・・・・・

飲んではいけない酒を飲み「死にたい死にたい」と繰り返す日々
男は、身の回りのことはすべて奥様に任せっきりでした。

それを当たり前のように威張り散らしていたにもかかわらずいざ奥様を失うとなすすべなく堕ちていったのです。

この話をどう思うでしょうか?

残された男性が可哀想ですか?

私は、残された男性よりも亡くなられた奥様が気の毒でなりません。

亡くなった人が望んでいるのは、残された人がしっかりと生きていくことだと思うからです。

自分が亡くなって、ボロボロになっていく夫を見て成仏できますでしょうか?

成仏とは心から安心してこの世のしがらみから解放されることでもあります。

男性が酒に溺れてボロボロになり、荒んでいる姿をみたら奥様の成仏の妨げになっていることは明らかです。

現にその家には、奥様の幽霊が出るという話もありました。

本心では連れ合いのことを頼ったり思ったりしているのに死を悲しみ、生きることを投げ出しては、故人の希望とは相反する生き方にしかならず、亡くなった人の足を引っ張ることになるだけです。

奥様を失ったことは辛いですが「俺は大丈夫やから安らかにそちらで暮らしてくれ。」と言うのが本当の供養になります。

しかし、それができないことの多くは「自己愛」によるものが多いでしょう。

自己愛というのは自分の都合が優先で本当の意味で相手のことを考えないことです。

奥様がいなくなった悲しみもあると思いますが「自分がこれからどう生きていけばいいのか」という自分への不安が大きく、向かうべき方向性を見失い生活が荒れているわけです。

厳しいですが、酒に溺れて自暴自棄になるのは小我です。

小我とは心が小さいということ。

心が小さいとは、自己都合が優先でその思考でしか考えられない、行動できないという心です。

慰めてほしい、誰かに助けてもらいたいといった依存心があるからこのように荒れてしまうのです。

依存心を捨て自立した考えを持つなら、新たな人生を歩もうという意志が持てるはずなのですが。

私もそうですが、特に団塊世代(第一次ベビーブームつまり終戦後19471949に生まれた世代)の男性の場合、責任感を強くするのは良しとして、夫は仕事、妻は家庭、「俺が食わしてやっている」と傲慢に振舞う傾向があります。

しかし、いざ妻が亡くなると惨めなものです。

威張れる相手に威張っているのは、経済的に自立をしていたとしても精神的な自立をしていない証拠です。

心が広く、真の意味で自立している男は威張ることをしません。

奥様が亡くなってから痛いほどそのことに気づかされますが、そうなる前に気づくべきだと思うのです。

炊事洗濯掃除だって必要となった時点で奥様がしてくれたことを自分がやってできないはずはないのです。

今までしてこなかったことにチャレンジする。

「新しい生活を始める!」と思い、楽しさを見出せれば、また違った幸せに気づくことでしょう。

こういったことは夫を失った奥様にも言えることですね。

傲慢

夫婦

子どもが産めない 2018-3-11(日)

A
子さん20歳。
今付き合ってる彼氏とは去年の夏、ナンパされて知り合った。

彼氏の見た目はいわゆるチャラ男で、それなりに遊んでる感じ。
絶対好きになんてならないと思ってた。

でも、よく笑うとことか優しいとことか、一緒にいればいるだけ好きになってしまった。

彼氏も、
A子さんを「好き」と言ってくれた。

でも、付き合うとか彼氏と彼女という関係にはなれなれなかったけど雰囲気に流されてエッチしてしまった。

それから何ヶ月か、そんな関係が続いた。

こんなの、人に言えないと思った。

それでも、私は彼氏が大好きだったし、そんな関係はつらくて
「このままの関係なら、もう会えない」って伝えた。

彼氏は真剣に話を聞いてくれて、それから
A子さんと彼は真剣に付き合うようになった。

二人は付き合って半年経った頃「子供は女の子がいいね」とか「結婚して何年経っても一緒にお風呂はいろうね」とか他愛のない同じ未来を思い描いていた。

A子さんも彼も子供が好きだし、当たり前のように子供を授かる事ができるってそう思って疑わなかった。

1ヶ月経っても2ヶ月経っても生理がこなかった。

おかしいなって思ったけど、妊娠の可能性は低い。
彼氏は絶対に避妊してくれるから。

とりあえず、妊娠検査薬をつかった。
でも、陽性反応はなかった。

次の日、会社を休んで産婦人科へ行った。
不妊症と言われた。

信じられなかった。
なんで私が?そればかり考えた。

涙はでなかった。
先生が間違った判断をしてるだけだと思った。

そんなはずはないのに。

やたらに先生にむかついた。

なんでこんな事言うの?って思って腹立たしかった。

次の検査の予約を無理やりとらさせて、この日の検査は終わった。

車のエンジンをかけると、彼氏の大好きなケツメイシの曲が流れた。

その瞬間、涙がものすごい勢いであふれだした。

どうしよう。
どうしよう。
どうしよう。

泣きながら彼氏に電話をかけた。
彼氏も仕事中のはずだ。

出る訳がない。
頭では分かっているのに、何度も何度も電話をかけた。

ひとりぼっちなのが、とにかく不安だった。

昼の
1時すぎ。
彼氏から着信があった。

電話のむこうは、お昼休みなのか騒がしかった。

私は泣いていて、なにも言えなかった。

彼氏は
「話せるようになるまで待ってるから」って言って泣いてるだけの私の電話を切らずに、ずっと待っててくれた。

でも、それでも話すことが出来なかった。

「ごめんなさい...私がこう言ったのが、彼氏にちゃんと伝わったかは分からない。

その日の夜、作業着のまま彼氏がうちにきた。

「すぐ来てやれんでごめんな」私の頭を撫でながら、彼氏がそう言った。お気に入り詳細を見る

「あたし、子供産めんて、そうゆう病気なんだって」


彼氏はポカンとしてた。
こいつ何言うてるん?って顔してた。


「何言うてるん?」

「分からん」

「分からん訳ないやろが」

「先生がそう言うた。あたしも信じられんもん」


...まじかよ」彼氏はそう言ったままなにも言わんかった。

別れることは覚悟していた。

子供が産めない私は、彼氏と一緒にいたらいけないと思った。

大好きな人だから、幸せになってもらいたいと思った。

でも、離れるのは嫌だった。

ずっとずっとそばにいてほしかった。

「ごめんな」彼氏を見たら泣いていた。

彼氏が泣いたとこなんて今まで見たことない。

いつもにこにこしてて、弱音も吐かない彼氏が泣いていた。

「ひとりで病院なんか行かせてごめんな彼氏は私の手を強く握ってた。

「大丈夫だよ、あんたがおらんくてもあたしは大丈夫だから
精一杯の強がりだった。

今すぐ抱きしめて欲しいのに、くだらない意地が邪魔をした。


「別れよう」
私の顔は化粧がぼろぼろに落ちて涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。

「ぶざけんな!勝手に決めんなよ!」
はじめて彼氏が大声で怒鳴った。

「ずっと一緒だって言うたやろ


「でもあたしとずっと一緒におっても人並みに幸せになれんのは、あんただって分かってるやろ


悲しそうな顔をしてた。

「俺、ガキなんかいらん。」
嘘だ。
ほしいって話何度もしたのに。

女の子がいいねって言ってたのに。


「明日、渡そうと思ってたんだけど」
彼氏は作業着の中から箱を取り出した。

箱を開けると、指輪が入ってた。

彼氏は私の左手の薬指に指輪をはめると、ちょっと笑って

「結婚しよう」
って言った。

この日は私たちが付き合って半年になる記念日の
1日前。

「ガキいなくたって幸せな家庭は築けるんやて」彼氏はめちゃくちゃ笑顔だった。

「お前さ、料理うまくないやんか。

俺もそんな得意じゃないけん、ふたりでやればなんとかなるやろ」

「あと、お前は強がりで素直じゃないけん俺はお前が何考えてるかよう分かる。」

「それとかさ、この前の
DVDのさ、記憶が消えてくって病気あったやん?もし、お前がそれになっても心配ないで。

俺がお前の忘れたくない事全部覚えとるし」

この日の何日かまえ、彼氏と頭の中の消しゴムのDVDを見たばっかだったからなんだか笑ってしまった。

「なんか話ズレとるよ?」

泣きながら笑った私を見て、彼氏は汚い作業着のそでで私の涙を拭いた。


「やっと笑ったっ」
にこにこしてる彼氏の顔を見たら安心した。

それから、正式に婚約をしました。

大好きな彼はいつもそばにいて私を支えてくれています。

辛い事もあるけど、彼がそばにいてくれるから頑張れます。

一緒に泣いて一緒に笑って、すごく幸せだなぁと思います。

不妊治療、頑張ります。


不妊治療

愛

彼女に振られた男 H30-2-22(木)

男は付き合って3年の彼女に唐突に振られた。

「他に好きな男ができたんだ~。じゃあね~。」

就職して2年、そろそろ結婚とかも真剣に考えてたのに、目の前が真っ暗になった。

俺は本当に彼女が好きだったし、勿論浮気もしたことないし、そりゃ俺は格別イイ男って訳じゃなかったけど、彼女の事は本当に大事にしてたつもりだった。

なのに、すっげーあっさりスッパリやられた。

どーにもこーにも収まりつかなくて、電話するも着信拒否、家行ってもいつも留守、バイト先も辞めてた。

徹底的に避けられた。
もーショックですげー荒れた。
仕事に打ち込みまくった。

それから半年、お陰で同期の中でダントツの出世頭になってた。

彼女の事も、少しずつ忘れ始めてた、そんなある日。

携帯に知らない番号から電話がかかってきた。

最初はたいたずらだと思って無視ってたんだけど、何回もかかってくる。

仕方ないから出た。
別れた彼女の妹を名乗る女からだった。

その女が俺に言った。

「お姉ちゃんに会いにきてくれませんか?・・・・」

彼女は白血病にかかっていて、入院していた。

ドナー(骨髄液の提供者)がやっと見つかったものの、状態は非常に悪く、手術をしても助かる確率は五分五分だという。

入院したのは俺と別れた直後だった。

俺は、病院へ駆けつけた。

無菌室にいる彼女をガラス越しに見た瞬間、俺は周りの目を忘れて怒鳴った。

「お前、何勝手な真似してんだよっ!俺はそんなに頼りないかよっ!

彼女は俺の姿を見て、しばらく呆然としていた。

どうして俺がここに居るのかわからない、という顔だった。

その姿は本当に小さくて、今にも消えてしまいそうだった。

でもすぐに、彼女はハッと我に返った顔になり、険しい顔でそっぽを向いた。

俺は、その場に泣き崩れた。

たまらなかった、この期に及んでまだ意地をはる彼女の心が愛しくて、悲しくて、涙が止まらなかった。

その日から手術までの2週間、俺は毎日病院に通った。

けれど、彼女は変わらず頑なに俺を拒絶し続けた。

そして手術の日。
俺は会社を休んで病院に居た。

俺が病院に着いた時にはもう彼女は手術室の中だった。

手術は無事成功。
けれど、安心は出来なかった。

抗生物質を飲み、経過を慎重に見なくてはならないと医者が言った。

俺は手術後も毎日病院に通った。
彼女は、ゆっくりではあるけれど、回復していった。

そして彼女は、相変わらず俺の顔も見ようとしなかった。

ようやく退院出来る日が来た。

定期的に検査の為、通院しなくてはならないし、薬は飲まなくてはならないけれど、日常生活を送れるまでに彼女は回復した。

俺は当然、彼女に会いに行った。
お祝いの花束と贈り物を持って。

「退院、おめでとう」そう言って、花束を手渡した。

彼女は無言で受け取ってくれた。

俺はポケットから小さい箱を取り出して中身を見せた。

俗に言う給料の3ヶ月分ってヤツ。

「これももらって欲しいんだけど。俺、本気だから」

そう言ったら、彼女は凄く驚いた顔をしてから、うなずいた。


「馬鹿じゃないの」
彼女の肩が震えていた。

「うん、俺馬鹿だよ。
お前がどんな思いしてたかなんて全然知らなかった。本当にごめん」

「私、これから先だってどうなるかわからないんだよ?」

「知ってる。色々これでも勉強したから。で、どうかな?俺の嫁さんになってくれる?」

彼女は顔を上げて、涙いっぱいの目で俺を見た。

「ありがとう」
俺は彼女を抱きしめて、一緒に泣いた。

ウチの親には反対されたけど、俺は彼女と結婚した。

それから2年。
あまり体は強くないけれど、気は人一倍強い嫁さんの尻に敷かれてる俺がいる。

子供もいつか授かればいいな、という感じで無理せず暢気に構えてる。

——後日談——-
嫁さんのお腹に新しい命が宿ってるってわかった。

「子供は授かりものだから、無理しないでのんびり構えとこう」とか言ってたけど、正直諦め気味だった。

まだ豆粒みたいなもんなんだろうけど、俺と嫁さんの子供が嫁さんのお腹の中にいる。

そう思っただけで、何か訳の分からない熱いものが胸の奥からこみ上げてきて、泣いた。

嫁さんも泣いてた。

実家に電話したら、結婚の時あんだけ反対してたウチの親まで泣き出した。

「良かったなぁ、良かったなぁ。神様はちゃんとおるんやなぁ」って。

嫁さんの親御さんは 「ありがとう、ありがとう」 って泣いてた。

皆で泣きまくり。
嫁さんは身体があんまり丈夫じゃないから、産まれるまで色々大変だろうけど、俺は死ぬ気で嫁さんと子供を守り抜く。

誰よりも強いお父さんになってやる。

でも、今だけはカッコ悪く泣かせて欲しい。

愛
愛に形はない。

あるのは相手を思いやる心だけ。

このカップルは形や常識を超えた愛の尊さを示してくれています。
病室での彼女は意地をはったのではなく、彼の将来を考えた愛ゆえに彼から去ったのでしょう。

いじらしいほどに素敵な愛ではありませんか。

整体

H30年2月19日(月)の読売新聞の『医療ルネサンス』から一部転載いたしました。以下

『行き過ぎ手術?痛み残る』
腕のよい整形外科医が院長になったらしい。

女性(78)は地元の葛西中央病院(東京都江戸川区)を訪ねた。

腰が激しく痛み、座り込んでしまう。

2014年11月のことだ。
撮影したレントゲン写真を見て、院長の土谷明男さん(44)が、驚いた顔をしたような気がした。

その4年前、別の病院の脳外科で腰部脊柱管狭窄症の手術を受けた。

職場のコールセンターで同僚が「いい先生がいるみたい」と薦めてくれた。

焦っていた。
煩わしい腰痛を完璧に治し、まだ一線で働きたい。

だが、半年後、消えていた痛みがぶり返した。

しばらくすると、病院は巨額の赤字を抱えて破綻。

執刀医と連絡は取っていない。
背骨の腰部分(腰椎)は、5個の骨が縦につながっている。

腰椎の中央にはトンネル状の神経の通り道「脊柱管」がある。

加齢により腰椎や軟骨、靱帯 などが変形すると、脊柱管を狭め、なかの神経を圧迫する。

手術では、腰椎5個のうち4個の背中側を縦に切ってごっそりと取り、空いた空間にセラミック製の人工骨を四つ、かませた。

土谷さん(医師)にはこの手術が「やり過ぎ」と映った。

症状を引き起こす神経の圧迫部分だけを取り除く手術法がある。それなら、腰椎を4個も手術する必要はなく、人工骨もいらない。

下肢のしびれなど危険な症状がないのに、手術をする発想も疑問だ。・・・・・・・・。
まだ記事は続くのですがここまでにしておきます。

私はこの事例と類似するような患者さんを幾度も診てきました。

結果論でしかないと言われればそれまでのことです。

しかし、観身堂では手術を勧められた患者さんに対して『整体施術を受けてみて改善されなかったらでも遅くないのではありませんか?』ということで手術を回避できて痛みもなく元気に働けるところまで回復したケースは数知れません。

ホームページの中にも書いてありますが、根本的に整形外科医学とは視点が違うというところがキーワードであろうと思います。

決して整体が万能であるという意味ではありません。

観身堂の整体は、骨格全体のバランスを重要視しているということ。

筋肉は骨格に付いているものであって、骨格に従うものだという事実がそこにはあります。

一方、西洋医学では椎間板ヘルニアがあるから神経を圧迫することで痛みが発生するといいます。

あるいは、脊柱管が狭窄しているから神経が圧迫されて痛みが発生する。

といいます。

現実には、椎間板ヘルニアがあっても、脊柱管が狭窄状態にあっても整体施術で痛みが軽減、もしくは消失する事例はたくさんあります。

そうなると必ずしも痛みイコールヘルニア・脊柱管狭窄とはいいきれないですね。

患者さんは西洋医学に頼るということが常識となっている現実では上記のような『手術のリスク』は致し方ないかもしれません。

民間療法の整体ではありますが、その業界においては先生方の技術のレベルは千差万別・ピンキリであることも事実です。

しかし、現代医学もリスクはあります。

民間療法もピンキリです。

手術前にセカンドオピニオンということをお考えになってみることもリスクを回避できる方法ではないだろうか。

整骨院・マッサージ・針灸・電気療法・牽引・カイロプラクティック・等々、治療法もたくさんあります。

整体もそのなかの一つの選択肢かと思います。

痛みに諦めずにお試しになってみてはいかがでしょうか。

盛岡

心の花 2018-2-12(月)
自然界の花には季節がありますが、私たち人間の心には季節が無いようでいても実はあります。

ありますとは心で感じるということです。

自分の生き方ひとつで、春夏秋冬いつでもどこでも咲ける花が心の内にあります。

相手の立場を理解すれば人間は他者のためにいろんなことができます。

人生の中で経験する悲しみや苦しみは時の流れが癒してくれることもあります。

時間も必要なプロセスですね。

私は健康に関する仕事に携わっていますからよく理解できるのですが、人間の身体は体力が弱っていたり、病気をしているときなどは痛覚が増して敏感になります。

そういうときの体は痛みの感覚が弱い程度のものであっても、八にも十にも痛いと感じたりします。

もちろん、痛みに関しては個人差があります。

これと同じように、人は、不幸という痛みのときは辛さや悲しみについて一を十にも思いながら嘆きます。

そして幸福のときは当たり前のようにそれに馴れてしまって、十分に幸せであっても一のように思って不平不満を言ったりします。

ほんとうは誰もが、苦しんだ分だけ、深い愛の心が育つはずなのですが、そこに気づけない。

気づけないほど自分の感情にどっぷりと浸かって本当の自分を見失っています。

後で冷静になって初めて些細なことで自分を失っていたと気づく。

しかし、気づけない人もいるでしょう。

それだけに、本当の自分、すなわち人を愛せる自分、人を許せる自分、苦しみのなかでも消えることのない愛に気づいたときの喜びは言葉で表現できないほど大きい。

他人のために心を尽くしても決してお返しを期待しない、感謝の言葉も求めない、ただ淡々とやってこそそこに喜びがある。

それが本当の奉仕であって、その原点は愛。

心に何もないから美しいのでしょう。

ですから、心に余分なことをたくさん持てば持つほど真実から離れ、言葉で説明すればするほど愛からは遠ざかり、キレイな大輪の花を咲かせることができない。

何故なら、説明しようとするする背景には自己主張の心が見え隠れするから。

煩悩という言葉はそれをいうのでしょう。

ぼたん

今はまだ深い雪の下ですが、我が家の庭にはボタンの木があります。

時期が来て蕾がたくさんついてきたら、まだ蕾が小さいうちに、一枝に一個だけ残してあとは全部摘んでしまいます。

これは全体の三分の二くらいの蕾を捨てることになりますから勿体ないと思うのですが、美しい大輪の花を楽しむには欠かせません。

そうすれば、大輪の花を咲かせることができます。

私たちも牡丹の花のように美しい大輪の人生にするにはどうしたらいいのでしょうか。

ここでいう大輪の人生とは心に大きな花を咲かせることの意です。

寛容で大きな愛を育てることです。

それには、心の中にある余分なものを捨てることができれば可能になります。

余分なものを抱えてしまって苦悩するのが人間の自我であることは、人類の抱えている課題だと思うのです。

不要な思いを抱えていながらもそれを心から離すことができない。

捨てることができない心とはいったい何でしょうか。

それこそが自我という執着心です。

自分の思いを通したい、というエゴがその背景にあります。

執着、拘りは幼少の頃から家庭環境のなかで大人になる過程で形成されていく。

やがて大人になったとき、社会の中で否が応でも人とのかかわりがうまれてくる。

しかし、そのような思いが強ければ強いほど対人関係において苦しみの淵から抜け出すことはできません。

それでは、拘り、執着という心はどういうかたちであらわれてくるのだろうか。

不満、愚痴、怒り、過度な依存心、責任逃避、傲慢、誹謗、中傷、妬み、恨み、独善、背金転嫁、排斥、差別、自己顕示欲、自意識過剰、自己満足、自己否定、卑下、良く思われたい、悪く思われたくない、周りの目を過剰に気にする、高いプライド、過剰な不安感と恐怖心、物やお金の偏重主義、肉体への執着等々。

こういった心は自分自身の心を毒して苦しむだけではなく、他人をも苦しませることになっていきます。

何故なら、こういった心と行動は自我心に根があるからです。

拘りと執着の想念は、愛と慈しみの心から最も遠い距離にある。

したがってそこには心の自由はない。

何をするにもやる気がなく、気力が湧いてこない、人が楽しそうにしているの見ると腹が立ってくる、いつも体調が悪い、自分がこうなのは親のせいだ、他人のせいだ、という20代の青年に問いかけた。

「自分が変われるのは親にあるのではないんだよ。自分のなかにあるのだよ。だからいつだって最後のところでは自分なのだよ」と。

そしたら「わからない。どうして俺なんだよ。親が俺の言うとおりにやってくれないからだよ」という。

ここ一年間カウンセリングを親子ともども受けてきたがほとんど進展はない。

それだけの原因がある。

あまりにも家族間の自我が強すぎてお互いを非難しあって人生の意味すら考えられない。

人と関わるときに秘訣があるとすれば、それはまずこちらが相手を認めること、そして理解を示すことではないでしょうか。

これは、自分が嫌いだと思っている人から好かれる道理がないように、相手もまた、あなたを嫌っていたらあなたから好かれる道理もないということになります。

相手の言葉、心の内にある思いを寛容な心で受け止めることができれば相手の立場、存在を認めることになり、それがまた、自分の身にかえってきてお互いの人間関係を円滑にすることになるだろうと思うのです。

でもこれができない人は多い。

毎朝顔を洗う時に鏡に映る自分の顔がどんな表情をしているだろうか。

心にわだかまりがない時は、鏡にうつった自分の表情がいきいきしています。

その笑顔をもって、相手の立場を想像し、理解する力、相手の欲することを与えることができるなら、それは何にも勝る寛大な「愛」となりえます。

誰もがたった一つの尊い命をもってこの世に生まれた大切な存在です。

相手が今何を求めているか、何に苦しんでいるかを想像することが思いやりで、その思いやりが大切ですね。

相手が何を欲しているかを考えてみたい。

相手の身になって自分にできる範囲でしてあげたいものです。

男女のなかで要求する心が多くなると破綻に近づくことになります。

これは家族でも夫婦でも親子でも同じでしょう。

ここにも自我心が垣間見えます。

私もいろんな別れを経験してきました。

別れの辛さに馴れることは決してありません。

幾度繰り返しても、別れは辛く苦しいものです。

それでも、私たちは死ぬまで人を愛さずにはいられません。

だから人間であり、それが人間なのでしょう。

人生にはいろいろなことがあります。

しかし、悲しいことは時が助けてくれることもあります。

辛いことはじっと耐え忍んでいきたい。

必ず安らかな心になれるときが訪れると信じて。

それがこの四苦八苦の世を生きる唯一の方法ではないかと思います。

もし、人より素晴らしい世界を見よう、そこにある宝にめぐり逢おうとするなら、どうしたって危険な道、恐い道、リスクを伴った道を歩かねばならないことがある。

また、そういう道を求めて歩くのが、自分を開花させる人の心構えであり、より高いステージに自分を成していく道のりだと思うのです。

人間は生まれた時から一人で生まれ、死ぬ時も一人で死んでゆきます。

そういった意味でいうなら、孤独は人間の本性でしょう。

だからこそ、人は他の人を求め、愛し、肌であたため合いたい。

反面、孤独は人間の心を深く、強く、広く、そして大きく育む時間です。

そして、人は所詮一人で生まれ、一人で死んでいく孤独な存在。

だからこそ、自分がまず自分をいたわり、愛し、かわいがってやらなければ自分自身が反抗しますし、本当の意味で人を愛せないでしょう。

これは自分を甘やかす自己保存とは違います。

人間は自分本位なところがあります。

そういう人は、自分中心に周りが動いていると錯覚するところがあって、思い通りにならない現実に腹を立てて愚痴ばかり言ったり、嫉妬に苛立ったりします。

しかしそれは単なる自己愛であって、自己中心主義です。

自己愛には、人や社会のせいにして自分の殻に閉じこもる傾向があり、責任転嫁がみられます。

平和も戦争も個人の心から始まり、家庭から始まり、集団から始まり、組織から始まり、国から始まる。


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漬物

食べられた漬物 2017-12-16(土)

岩手山麓は晩秋ともなると朝晩の冷え込みが厳しくなってくる。

農家の産直では白菜やキャベツ、人参、里芋、大根などの野菜が並べられている。

何気に白菜の漬物が食べたいと思って買って帰った。

スーパーに行けばどのような漬物も店頭に並んでいるのだが自分で漬け込んでみたかった。

小さな漬物樽と重石をホームセンターで準備した。

初めての試みです。
食べられるかどうか心配だったがやってみた。

白菜2玉、塩150グラム、南蛮二個、だし昆布一枚、ニンニク2切れ。白菜を4等分して樽に敷いて塩をふりかけ、だし昆布をハサミで切って散らしまた白菜を乗せた。

重石を乗せてフタをし車庫の寒いところに置いた。

一週間経って様子をみると水分が浮いてきている。

ちょっとだけ味見をしたがまだしょっぱくて食べられない。

更に一週間置いてから味見をした。

大分味がまろやかになってきていた。

更に一週間後には漬物になっていた。

美味しかった。

私のお袋は漬物が上手な人だった。

私が子供のころ漬物樽から大根や白菜の漬物を取り上げて食卓に乗せるのは私の役目だった。

自分が漬け込んだ白菜を食べた瞬間にお袋の顔が浮かんで涙が込み上げてしまった。

こんなことで涙ぐむなんて『年だなあ』と思った。

でも今こうして治療の現場にて働けることはこの上ない幸せなことです。

患者様に必要とされていることほど幸せなことはない。

また白菜を食べて元気をもらおう。

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怒りと愛 2017-11-23(木)

今更いうまでもありませんが、『人』という文字の形状が示すように人間はお互いが支えあって成り立っています。

相手のことなど考えない人は、自己保存心の強い偏った心だといえます。

俗にいう自己中心者がそれですね。

自分にとって都合のいいことのみを主張して相手の立場など考えようとしません。

仮に考えたとしてもそれ以上に自分の都合を優先するということです。

また、自分にとって都合の悪いことを忠告されたり、指摘されたりすると猛然とまくし立てたり、自己弁護をするための言い訳を並べ立てることもあります。

自分の評価がマイナスになることを極端に嫌がる人。

人から称賛されることを望み、それを期待する人。

忠告に対しては感情的になり、怨みの念を持ち、報復を考える人。

経済力で人々から尊敬されようとし、過信し、その行為には心の調和がなく偽善ができる人。

いつも誰かに愚痴をこぼし、誰彼の区別なく批判の口調で他人を裁いている人。

言葉に優しさがなく、家族や他人に対しても、言葉でグサッと刺しても自分自身の至らなさに気づけない人。

常に自己中心的にものを考え、目先のことにとらわれて物と金に固執する人。

他人を信じることなく、自分を信じさせようと金品を使ってつなぎ止めようとする人。

他人に裏切られると恨みを持つが、自分は他人を詮索し、裏切りを平然と行なう人。

人間は実に愚かなところがあるものです。

心に慈しみや愛がなく、驕りや自己中心的な心で物事を進めていくならばやがては没落していくことになる。

そういう生き方をしているときの人間には心に安らぎがなく、やがては不信の念を持たれるようになり、最後は孤立してしまう。

素直に生きるということは、執着せず心を調和して生きるということをいうのであり、曲がった生き方、すなわち偏った生き方はカーブを無理な速度で走ろうとする車のようなものですね。

事故を起こすのは目に見えています。

一組の夫婦が離婚の危機に至っています。

双方の言い分があるのはわかります。

片方だけが一方的に悪いということではない。

服を着るときに左右正しくボタンをかければ何のことはないのですが、ずれて掛け違いの状態だから見た目も着た感じもしっくりこないわけです。

この二人はお互いの真意がうまく伝えられていないところもあるのですが、それ以上に妻の形式的なことへの拘り、物欲、言葉遣いの粗雑さが恐怖心と不信、不仲の要因となっている。

家もあり、マイカーもあり、はた目には経済的にも困った状況にはみえないが、いつも要求することが多い妻の欲には際限がない。

これではご主人も気苦労が多くて安らぎなどないだろう。

私が折に触れてよく使う言葉に『足ることを知る』という言葉があります。

はた目には恵まれた環境にありながらも当事者は不満と愚痴と要求の日々。

これでは幸せなどあろうはずがなく、足ることを知っているとは言えない。

折を見て、怒りと罵倒の言葉は破壊につながることを伝えてきましたが、残念ながらほとんど心には届いていなかった。

上の子の時の離婚、そして今度は一歳に満たない幼子が片親になることで二度おなじ過ちを繰り返すことになる妻。

心貧しい生き方は子供たちまで悲しい思いをさせ我が身を蝕み人生を衰退させます。

『夫を愛している』とはいうが、最後まで夫を許せなかった妻の心は大蛇がとぐろを巻いてそそり立つ姿に似て嫉妬が渦巻いていた。

夫は妻の言動に恐怖心を持つようになり、過去に一度だけ浮気をしてしまった。

しかし、彼は本当に反省して自分の行いを悔いた。
以来、妻と向き合うための努力をした。

その様子は懺悔といえる内容であると思う。
起床のあとの子供の世話、帰宅後の身の回りの世話、食事の準備、お風呂に入れてあげる。

しかし、妻の言動は相変わらず激しい物言いで要求し、責めたて、罵倒することが治まらない。

『愛している』とはいうが、これは愛ではなく嫉妬に狂って感情のままに激情しているだけである。

当たり前のことに感謝できず、いざ離婚となって初めて後悔の念に苛まれることになってからでは遅すぎる。

怒りは疾風の如く走るが、愛は春の日差しの如くやわらかくありたい。

心の平安を願わずにはいられない。
合掌


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心の世界 2017/10/27(金)

霊

今はブログの投稿を休止していますが、昨年までは見えない世界についての記事を様々な角度から数多くの事例で述べながら書いておりました。

私自身は臨死体験もしておりますし、あの世の光景も見てきております。

あの世の事をやみくもに盲信する必要はありませんが「見えないものは信じられない」「非科学的な話は信じられない」というような言葉を何度も聞くにつけ唯物的な思考に偏ることの寂しさを禁じえませんでした。

非科学的というよりも、科学では証明できていないだけの四次元世界だと理解してほしい。

そして、見えないことは一般的なことですから致し方ありませんが、私たちの肉眼では見えないけれども、この見えない宇宙空間に存在していることのほうが見えるものよりもはるかに多いということに気づいて頂ければと思います。

例えば、空気中の酸素が一定割合で存在しているからこそ生命の維持が可能なわけです。

この恩恵にあずかっている酸素でさえ見ることができません。

生命を維持できている根源的なものがもう一つあります。

それは水です。
この水は液体と固体にあれば認識できますが、蒸発して気体となればもう認識ができません。

氷点下になれば固体となり、温度が+となれば液体となり、上昇すれば気体となり肉眼では認識できません。

しかし水は形を変えても宇宙空間に無限に存在しています。

教育が行き届いた現代ではこの摂理が分からない人はいません。
しかし、それでも肉眼で認識できないものは信じないという思考の人は多いのです。

水には一切の執着・偏りがなく、どのような器にも環境にも従ってすべての生命を育んでいます。

改めてこう考えると、当たり前のように飲んでいる水がこれほどありがたいものだと思わずにはいられません。

きょうは医師という科学者でありながらも自らの奇跡的な体験によって唯物思考では解明できない世界を実感し、霊の世界に関する著書まで執筆した矢作直樹(やはぎなおき)さんのことを紹介したいと思います。

以下・読売新聞の医療・健康・介護『こころ元気塾』から転載しました。

矢作直樹(やはぎ・なおき)1956年、神奈川県生まれ。

金沢大医学部卒。麻酔科、救急・集中治療、外科、内科など経験し、2001年から、東大医学部救急医学分野教授、同大病院救急部・集中治療部長。

著書に「人は死なない」(バジリコ)など。

最先端の救急医療に携わりながら、霊や神といった科学の枠を超えた存在について語り、話題になっているのが東京大病院救急部・集中治療部長の矢作直樹さん(57)。

仕事の性質とは相反するような思索の理由を聞いた。

聞き手(藤田勝)
2011年9月に「人は死なない」というタイトルの著書を出版し、その後、気功や超常現象の専門家との対談本まで出されましたね。

「最初の本は、知人の作家の出版記念会で出会った出版社社長に、個人的な関心から調べたり、考えたりしていたことを話したら『面白い。本にしたい』と勧められたのがきっかけです。

タイトルは、<肉体は滅んでも霊魂は残る>という意味です。様々な霊的な現象や研究を紹介しているのでキワモノに思われそうですが、日本人古来の死生観からすれば、そんなに理解できない内容ではないと思います」

――医師としての仕事とは関係があるのですか。

「最近、人はいつか死ぬという当然のことを忘れているように見受けられる患者さんやご家族が増えました。病院に来れば治ると思い込み、いざ死に直面するとあわててしまう。

いくら医療が進歩しても死は避けられないのです。

生と死についてもっと深く考えて、豊かで幸せな人生を送ってほしい。
医療はサービス業の面もありますから、とにかく患者さんやご家族に少しでも満足してもらえたらと思います。
それが執筆の大きな動機です」

――なぜ死や霊に強い関心を持つようになったのですか。

「何度か、死を覚悟した経験が大きいです。

小学校3年生の時に車にはねられて、病院のベッドで医師と母親の会話を聞きながら『死ぬんだ』と思いました。

幸い助かりましたが、以来、死がとても身近なものになりました。

大学では単独登山に熱中し、冬山で大きな事故を2回経験しました。

最初の墜落事故では、落ち始めた瞬間に死ぬと思いました。

奇跡的に助かったのに懲りず、同じ年、また冬山で滑落しました。

その時も助かって下山した後、どこからか『もう山に来るな』という声が聞こえたのです。

以来、ぱったりと登山をやめました。

あの声は単なる幻聴だったとは思えないのです。」

-----医療現場でも不思議な経験はありますか。

「治療がうまくいったはずの患者さんが急変して亡くなったり、逆に助からないはずの患者さんが回復したり、現代医学で説明できないことは多くあります。

いわゆる臨死体験を患者の口から聞くこともあります。
光を見た体験などを語るのです。

脳内ホルモンの作用で説明されることがありますが、それだけで説明し切れない場合もあります。

代替医療としての気功に関心を持ち、講習に参加したことがあります。

物理法則では説明がつかない力があることに衝撃を受けました。

科学は現象のメカニズムは説明しますが、例えば、なぜ宇宙があるのか、という根源的な問いには答えません。

この世界は神秘に満ち、人が知りうる部分はわずかです。

欧米では著名な科学者が心霊研究に取り組んできた歴史がありますし、今も代替医療などへの関心は高いのですが、日本は明治時代に古来の思想を捨ててしまいました。

――もっと宗教を大事にすべきということですか。

「特定の神様を信じる必要はありません。

人知を超えた大きな力の存在を意識すればいいのです。

それを宗教では神と呼びますが、私はそれを『摂理』と呼んでいます。

日本人はよく無宗教だと言われますが、古来、森羅万象に神々の存在を感じ、死者の霊の存在も信じてきました。

そうしたすばらしい感性は、今でも残っていると思います。

摂理によって人は生かされており、肉体は滅んでも霊魂は永遠である。

亡くなった人の霊に、いつも自分は見守られている。

そのように考えれば、生きている限りは感謝の気持ちを持って生きられ、死に直面してもあわてずに済むのではないでしょうか。

危険な宗教には近寄ってはいけません。

見分けるのは簡単です。

心身を追いつめる、金品を要求する、本人の自由意志に干渉する、他者や他の宗教をけなす、そんな宗教は危険です。
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ここまでが転載させて頂いた記事の内容です。
上記の内容には「摂理」という言葉が出てきました。

私のブログでもかなり前から「摂理」という言葉で宇宙の秩序・すなわち「神」という存在を表現しております。

同じような受け止め方・説明の仕方に非常に共感を覚えました。

今回、医師という立場の科学者が霊世界・見えない力の尊さに触れておられたことに安堵感さえ感じたところです。

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神

戒名

戒名について 2017/10/12(木)

先月、知り合いの葬儀に行ってきました。
葬儀社で手配した曹洞宗の僧侶が三人おいでになって式を終えました。

のちに戒名料が
50万円だと聞いて驚いた。
通常の料金だといってしまえばそうかもしれませんが、決して安いものだとは思わない。

また別な葬儀の時ですが、臨済宗の僧侶にお願いした折「戒名料はいくら差し上げればよろしいでしょうか?」という喪主の問いに、僧侶は「それはいくらと指定はしませんのでお気持ちでよろしいです。」

「それでは
5万円ほどでよろしいでしょうか?」
「はい。よろしいです。」ということだったと聞いた。

こういうお話しをどう感じたでしょうか。

きょうは戒名のことについて少し詳しく触れてみたいと思います。

さて、戒名は戒(いましめ)を受け出家して得度し、仏門に入った者に与えられる名前だというのが本来の意味合いだといわれております。

法名(ほうみょう)、ともいわれています。

本来、戒名はこのように出家者に対して生前に授けられるものであったのですが、後世になると、死者に対して、葬儀を行う際に僧侶がつける、いわば死後の名前という認識が通常となったわけです。

これは後の代になってから、生前になんら仏教に入信していない人でも、葬儀を仏式で執り行うことで死後は仏教帰依(きえ)者として扱い、形式的に授戒作法を行い、仏門に属する者と同様に葬儀を執行したことに由来するのだが、ここには個人の意思に関係なく、お寺や僧侶たちの都合、遺族の都合や見栄、世間体などの都合ということもあるわけです。

僧侶の説明では、戒名によって位が違うから戒名料が違います。ということになってくる。

但し、この戒名をつけるにあたっては、これまでトラブルこそ少ないが、苦情や批判が多いのが現状であります。

僧侶やお寺からの請求があって高額な戒名に戸惑っている人たちは多い。

近年は葬儀に関しても価値観が変わってきており様々な簡略化、簡素化した形態、形式が新たに生まれてきています。

密葬、自然葬、合葬、樹木葬などと多種多様ですが、これらは墓石をつくらないで簡単に埋葬できて費用も少なくて済むというメリットがあります。

核家族が進んだ現代ではお墓を作ってもそれを見ていく人がいないために無縁墓地となってしまう可能性があります。

ここで、私がハートスクールで講義した戒名に関する質問や答えたその内容を紹介します。

1・お釈迦様は民衆に戒名をつけたのか?またそれを有料にしたのか?

釈迦の時代に戒名はありませんでした。
勿論、金銭で戒名をやり取りなどしていない。

インドから仏教の伝わった当時の中国では自分の名前を他人に知られることを好まず、そのため実名の他に
あざな、字 を付けてそれを使う社会的習慣があったといわれています。

出家の際には僧侶としての戒律を守ることを誓うと共に、「
あざな を付ける習慣から仏弟子、つまり釈迦の弟子になった「 しるし として、師から新しい名前を授けられた。

それが戒名の起源だとされています。

2・戒名の格付けであの世の居住地が決まるのか?

「葬式仏教」という言葉で揶揄(やゆ)される現代の仏教界を表した言葉だけに、見逃すことができない問題だと思います。

この世の人間の都合で付けられた戒名の格付けによってあの世の天国、地獄が決まるならば、全く宇宙の法則あの世の仕組みは粗末なものとしかいえないことになります。

どれほど格の高い戒名を付けても地獄でのた打ち回っている者が現実にいるのです。

葬儀の弔辞では「安らかに・ゆっくり眠ってください」などといいますが、実際はそんなことはなく、生前と同じようにあの世で生きています。

亡くなった方のあの世での段階的居住地は、戒名で選別されるのではなく、自身の心の調和度で決まるものだということを知っていただければと思います。

3・戒名がなければ成仏できないか?

「立派な戒名をつけてあげることであの世で困らずに成仏できます。」という僧侶の実話があります。

これなどは幼稚極まりない間違った教えであり、一般民衆を盲導する商売のための言葉でしかない。

死にゆくものが戒名をつけてもらえなければ成仏できないとなると、世界の死者のほとんどは成仏できないことになる。

戒名は日本独自の文化に過ぎない因習といえます。

例えば、仏壇に向かって「お母さん・おばあちゃん・お父さん」と呼びかけることはあっても仏壇に向かった時でも一般的に故人を呼ぶときは戒名で呼ぶことはないはずです。

慣れ親しんだ本名で呼びかけたり、お父さん、お母さんと呼びかけることで十分にコンタクトされます。

4・戒名は個人(故人)の徳を讃えることになるか?

戒名を付けるから徳を讃えることになりますという僧侶の話もありますが、付けなければ讃えることにならないとするなら、戒名という文化のない国々の人たち、故人たちは徳を讃えられないことになります。

故人の徳を讃えるということは、後世の人たちの心に残っている故人の人間性や人格、為したことに対して称賛する行為のはずです。

事の本質は戒名にあるのではないですね。

5・死後の戒名は自分で付けることは可能か?

最近は自分で戒名を決めて、死後にこれを位牌に書き込んでほしいという人がいるようです。

そのこと自体は何ら問題があるわけではありません。

葬儀会社や菩提寺の住職に相談することで可能となるはずです。
ただ、僧侶に申し訳ないという考えがあればこの話はなくなります。

6・死後も自分の名前でよいと考えていますが、それでは駄目なのか?

本来はそうあることが望ましいことだと考えています。

後はそのことによって遺族の方々がトラブルにならないように根回しをしておく必要がありますね。

7・豪華に葬式しないとあの世に行けないのか?

私の母は自分の葬式は質素に慎ましくやってほしい、何も要らないと時々話していましたが、母の生きざまが質素そのものであったし、その通りに祭壇も最低限のものにして送りました。

葬儀は遺族の見栄や世間体に対する思い込み、拘りが強いほど豪華で高額なものになるだけだということは理解しておく必要があります。

8・戒名を付けないと地獄に落ちるのか?

地獄に落ちる人の真実の原因は、生前の足ることを忘れた欲望、不満だらけの心、愚痴をいって自分の心を汚し、人の心に毒を食べさせた生き方、エゴからくる怒りの心、このような不調和な心をもったままに人生を閉じた場合です。

つまり、生涯のなかで自分が築いた心の財産がすべてだということです。

財産があるから豪華な葬儀にしたとはいっても、心が不調和なままに亡くなれば然るべき天上界にはいけない。

9・戒名がないと何となく不安な気分なのですが、実際のところはどうなのでしょうか?

日本の、これまでの葬儀は必ずしも正しいことばかりではなく、現代の価値観にはそぐわないところも多々あります。

伝統や文化、しきたり、というものは、時代時代によって変化をしていくものですが、古い因習を変えるということは、これまでの慣れ親しんできた流れを変えることですから、当然そこには抵抗という心の反作用が生じるでしょう。

最終的には個人の価値観をどのように行動に移すかということに尽きます。

戒名もひとつの形ではありますが、霊的には何ら意味を成さないものであることは事実であります。

戒名の格付け事例
「院居士・院大姉」
100万円超
「居士・大姉」
3050万円程度
「信士・信女」
1530万円程度
ひとつの目安でが上限下限があります。

出家ってどういうこと?
出家とは、家を捨て、家族と別れ、財産を捨てて、自己の修行のために仏の道に入ることが本来の出家であったが、現代ではビジネスとしての出家者や宗教が増えている。

だから出家はしても財産は捨てないし、手放さないどころか金集めに奔走している団体や個人が多い。

戒名については寺の都合や遺族の都合なども絡み、金銭に対する欲望や、遺族たちの虚栄心なども拍車をかける原因となる。

故人の供養や天国に昇ることには何ら関係のない戒名であるが、全ては欲絡みの問題に過ぎない。

この機会に戒名について考えてみるのも、やがてゆく道の障害回避の参考になれば思います。

ちなみに私自身は密葬を希望し、お墓は建てずに合葬で戒名も無しで俗名でと願っております。

その理由は、死後の遺骨はただの抜け殻であって一切執着しないから。

長い文章にお付き合いありがとうございます。

観童


葬式

母からのビデオ 2017/10/4(水)
A君は小さい頃に母親を亡くしている。

思春期の中学生の頃、恥ずかしいくらいにぐれた。

父の留守中、家に金が無いかタンスの中を探しているときにビデオテープがあった。

親父のエロビデオとかかな?なんて思って見てみた。

そしたら・・・病室のベッドの上にお母さんが写っていた。

『〇〇ちゃん二十歳のお誕生日おめでと。
なにも買ってあげられなくてゴメンね。
お母さんがいなくても、〇〇ちゃんは強い子になってるでしょうね。
今頃、大学生になってるのかな?もしかして結婚してたりしてね・・・』
10分くらいのビデオテープだった。

A君は泣いた、本気で泣いた。

そして次ぎの瞬間、父の髭剃りでパンチパーマ全部剃った。

みんなにバカにされるくらい勉強した。

一浪だけどマーチ(大学)に合格した時、父はまるで
A君が東大にでも受かったかのように泣きながら親戚に電話していた。

そして、二十歳の誕生日に、案の定、父は
A君にテープを渡した。

また、よく見てみたらビデオを撮ってる父の泣き声が聞こえてた。

お母さんは、笑いながら『情けないわねぇ』なんて言ってた。

A君はまた泣いた。

父も辛かったんだろうな、父にそのこと言ったら、知らねーよなんて言ってたけど、就職決まった時、父は『これでお母さんに怒られなくて済むよ』ていった。

このビデオテープがあったからまっとうに生きられてる。

A君は心からそう思った。

お父さん、お母さん、ありがとうございます。

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両親がそろっていても家族に不満をいいながら、社会に出て行けずに言い訳や、自分に不都合なことがあれば人のせいにして前にすすめないでいる青年もいます。

理由はいろいろありますが、根本的なところでは本人の気づきがなければ一歩が踏み出せない。

A君は亡き母の愛によって気づかされのではと思う。


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人類誕生の意味 2017/09/28(木)
人間は、本来完全な存在であるともいわれます。

しかし、実際は未熟な存在として生まれ、未熟な人生のなかで何度も過ちを繰り返して生きています。

なぜ私たち人間が生み出されてきたのか。

完全な存在であるはずの天からすれば、人間も、私たちが住むこの地上世界も、不完全で未熟な存在。

天が完全性や完璧さを求めるのなら、私たちのような人類を生み出す必要は無かったのかもしれません。

では何故、私たち未熟な人類を創造したかと考えると、人類の成長を喜びとする天の意思としての肯定があったのではと思われるのです。

動物の世界をみていてもわかるように、生まれたばかりの赤ちゃんは親の擁護がなければ生きていられません。

やがて成長して自分の力で自立していきます。

人間の成長も同じです。

ただ、人間は創造と智慧が備わっているという違いがあります。

感情と本能だけなら動物の世界ですが、人間世界は理性と智慧が加わります。

理性は感情の暴走を抑える心です。

子供の成長する姿を見るとき、親はこの上ない喜びを感じるもではないだろうか。

それと同じように天も、私たちの魂(心)が成長していく姿をみて喜びを感じているだろうと思います。

いろいろな過ちを犯す人間ですが、何度も何度も転生を経て、少しずつ心の学びを深め、魂が向上していく姿を、天は喜ばないはずがありません。

故に、人間は何度も生まれ変わりを望み、許され、繰り返し転生していく存在としてお創りになられているのでしょう。

また人間は、自分の過ちを反省し、偏った思考や生き方を軌道修正していける力と、人々に積極的に幸せをもたらす為の愛と慈しみの力を授かっている存在です。

肉体をもった人生ではありますが、本来は魂の旅を歩みながら向上していくためにいただいた肉体であり、創造主から人間に授けられた道具が、この愛と慈しみであり、自分を取り戻すための反省の力でしょう。

人間はこの世での営みが終わっても時期が満ちて再び転生してきます。

それは春夏秋冬が繰り返されるように魂としての生命は永遠に続きます。

天の意思のもとに成される循環の法則。

その中で生かされている生命体、それが人間といえるだろう。

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葬儀

死ぬまで鎮痛剤を使わなかった祖父 2017/09/25(月)

ある家族のお爺さんは末期になっても、一切治療を拒み医者や看護婦が顔を歪めるほどの苦痛に耐えながら死んだ。

体中癌が転移し、せめて痛みを和らげる治療をと、息子(父)や娘たち
(伯母)が懇願しても絶対に首を縦に振らなかった。

葬儀の時、親しかったご近所の将棋仲間が家族に宛てたお爺さんの手紙を渡してくれた。

お爺さんが生前用意していたものだという。

手紙の中には自分が家族を悲しませ、苦しませるのを承知で苦しみながら死んだ理由が書かれていた。

20年近く前、孫の一人が生存率20%を切る難病で闘病していたとき、お爺さんは神様に誓ったのだそうだ。

『自分は今後どんな病気や怪我になろうとも、絶対に医者にもかからないし薬も飲まない。だから孫を助けてくれ』と願を掛けたのだそうだ。

幸いその孫は無事手術も成功し、成長して成人もした。

『孫の成長を見届けることができたのだからもう思い残すことはない。あとは神様との約束を果たすだけだ。だから家族は悲しまないで欲しい。自分は満足して一生を終えるのだから。』そう綴られていた。

孫は当時一歳にもならない赤ん坊で、病気だったことなど覚えていない。

お爺さんは自分の決意を貫いて一生を終えた。

その孫が手紙の内容を知って葬儀の席であたりかまわず号泣した。

もちろん、兄弟もみな泣いた。

お爺さんは愛情が深いだけではなく、信念を貫いた尊敬すべき男だった。という。

愛の深さは言葉にするほど薄れてしまうこともありますが、語らずとも、信じたことや約束を果たす姿をみることで教わる愛もある。


自然葬

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楽に生きるために 2017-09-12(火)

人は人生で、ふと立ち止まる時があります。

そして、何故こんなにあくせくするのか。
いったい自分はどこに行こうとしているのか、という自問自答に陥ることもあります。

社会をみると日本の経済事情に限らず世界の情勢が混とんとしています。

個人だけではなく国同士が戦っていて憂いに満ちた問題を問いかけている。

人間はどうしてこうまで苦悩して争うのだろうか。

心の苦はどこからくるのか。
何故、苦が生まれるのか。
人生は相手との戦いではなく自分との戦いではないのか。

こういうことを静かに考えてみると、苦悩には一つの大きな原因が見えてきます。

その原因をいくつか挙げてみます。

一つは、他人と競っている自分。
切磋琢磨という言葉はお互いを進歩向上させるという意味においてお互いが励みになります。

しかし、相手を意識する余りに自分が冷静さを欠いたり、嫉妬心をもったり、自分を卑下したりするようではよろしくない。

相手を意識しすぎると他人との違いを自分が受け入れられなくなることもあるわけです。

一つは、自分を否定していないか。
これは完璧を求める気持ちが強ければ強いほど現実とのギャップに苦悩することになります。

宗教家にいわせると本来人間は完全な存在だといいます。

それもわかります。

しかし、実際は完璧なものではなく、不完全なところをたくさん持ち合わせた人間として生涯を学びの人生としているはずです。

至らない自分、未熟な自分をそのまま認めることは大切なことで、そこからすべてが始まります。

できない自分を否定するのではなく、当面の目標設定を低くすることでクリアできるでしょうし、クリアできた経験を積み重ねることでステップアップできるように進歩もするでしょう。

一つは、他人を認める。
社会のなかでは相手があなたを認めるかどうかは相手に決定権があります。

同じように相手を認めるかどうかはあなたに決定権があります。

ここに相互関係があるわけです。

お互いが相手の存在をそのまま認めること。

受け止める気持ちをもつことは社会の中では欠かせない条件ですね。

一つは、他人を否定していないか。
お互いの価値観が全く同じということは少なく、むしろ違う価値観をもってはいても尊重しあう、協調しあうことが望ましく、人を立てる人は人から立てられることになるわけです。

苦悩、葛藤、トラブルにはその他さまざまな原因があるかと思います。

いずれにしても根本は物事に対する受け止め方、考え方、処し方であって、偏った判断や行動に起因することが多い。

自己の利益、物、お金のように形のあるものに心を向けすぎず、形のないところの大切さに気付けば随分と自分自身が楽になり、人間関係も社会も穏やかになれるだろうと思うところです。


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子どもを愛せない親 2017/08/30 (水)

親から愛情をもらうことができなかったお母さんの場合、子どもにはどんな影響を及ぼすのか。

先ずは、育児の様子を見ていて「不安が高い、感情のコントロールがうまくできない、自尊心が低く自分を大切に思えない、対人関係がうまくいかない」などの影響がでてしまう可能性があります。

「自分の愛情不足のせいで、子どもの成長に影響が出てしまう」と悩んでしまいそうだが、実は反対の心理も存在します。

「愛せない」という自覚や問題意識を持つこと自体が、子どもを気にかけ、大切に思っている証拠だともいえるからです。

子どもを愛することにパーフェクトである必要はありません。

常に、いつも子どもを愛せなくてもいいのです。

自分を責めるのはやめて、まずはそう思っている自分を受け入れることが大切。

今の自分を受け入れることから始めることで前進することができます。

これはどういうことかというと、愛することに執着してならないということです。

24時間常に愛情を注がなければと考えることは逆に拘りでしかなく、愛情の在り方としては執着に近いものです。

「こうあらねば」はやめてゆっくりな子育てが望ましいでしょう。

家事と育児で心と体に余裕がなく、心身がつらいならいのなら、まずは物理的サポートを得ることも必要です。

写真の様な子育て無関心な夫も困りますが、まわりに協力を求めて、手伝ってもらえないかどうか。

子どもから離れて睡眠をとったり、叶うならときには外出を楽しんだりすることもいいでしょう。

精神的サポートを得る事も大切です。

相談できる仲間、夫や家族はもちろん、誰かとコミュニケーションできたらいいですね。

一生懸命になりすぎて、がんばりすぎているなら手を抜くことも必要。

「~するべき」と無理をするより、自分自身が子育てのなかで楽しめることを子どもと一緒にすることもいいでしょう。

こうしてみると工夫によって克服できる問題点が多いと思います。

子育ての中で一番大きなパワーは、ご主人からの労いの言葉ではないでしょうか。

逆に日頃から労いの言葉をかけておくと自分も労いの言葉を頂けること請け合いです。

夫婦の愛情が幸せを感じさせ、それが子育てに愛情を注げる源となることは間違いありません。

夫婦がお互いの気持ちを優先させるほどに愛は遠のきます。

そこには望ましい子育ての光景がみられることはありません。

尊い命を育むということは、愛を育むことだろうと思います。

何故なら、命は愛によって生まれたからです。
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悩み

試練の中で成長する心  
2017/8/8(火)

人は皆、自分の人生をより良きものしたと願っていることでしょう。

例えば、体が病んでいる人にとっては何よりも健康になりたいと願うでしょうし、お金に困窮していればなんとかして今の暮らしを楽にしたいと願うでしょう。

苦しい思いをしている人に鞭を打つつもりはありません。

しかし、生きることのなかで特別解決しなければならない問題もなく、チャレンジするような目標もなく、また超えていかなければならない課題もない生活には、人間の心の深奥に秘められた無限の可能性が目覚める機会は少ないと思うのです。

誰も好き好んで悲しみを求め、苦しみを求める者はいませんが、しかしこの悲しみも苦しみも、私たちが内在している無限の可能性を目覚めさせるためにはむしろ最大のチャンスであります。

言い換えるなら、苦況が進歩のチャンスということです。

私自身のこれまでの人生然り、何一つとして偶然というものが無く、すべては自分が為した通りの必然からうまれた結果がついてまわるということだと考えています。

自分の内面を大切にし、その内面に目覚めた時、これまでに理解できなかったことが徐々に理解できるようになります。

そして不安が減り、動揺も少なくなります。

今の季節は野山の緑が素晴らしい。

山野には営みが溢れており、流れがあり、囚われがなく、執着がなく、ありのままで滞りがありません。

自分の心もそうありたい。

そうすれば自然界のエネルギーが私たちの心を通して偉大な力となって発揮されます。

地上の星
大自然に沿った心というものを大切にしてくると、やがて心はこの世的な価値観の縛られることなく偏らず、精神的な充足感を大切にするようになってきます。

そして、不安感が薄れ、恐怖心もなく日々の生活ができ、悲しみ、苦難にも必ずや自分が生かされていることに気づくようになってきます。

私たちは苦難にも悲しみにもくじけてはなりません。

何故なら、心の力はどのような物の力にも勝るからです。

心の力、尊さを知った者を何人なりとも傷つけて侵すことはできません。

ですが、不安感や恐怖心こそ人間が健康に暮らすとき、心安らかに生活する人間の最大の敵であることは忘れてはならないでしょう。

いつも感じることですが、悩んでいる人の心には常に不安感や恐怖心があります。

恐怖心は人の心を蝕(むしば)みます。

恐怖心は理性をくじき、人間を弱くしてしまいます。

恐怖心は苦難を克服させるための力を打ちひしぎ、無力にします。

恐怖心は、心を乱し、感情が不安定になり、理性を欠き、調和を破壊し、動揺と疑念を呼びおこします。

恐怖心は肉体的安全への執着と、未知未来への不安などから発生しますが、つとめて恐れの念を打ち消すための心の調和を学ばなければなりません。

目の前の出来事に心が動揺するとそのまま不安感につながってしまいます。

動揺する人間の心には大きな視点というものが欠けています。

物事を大きな視点でとらえる習慣を身に着けると全体を観るようになり、自身を客観的に観るようになり、小さなことでは動揺しなくなってきます。

そうして心が調和されてきますと私たちの心は地上に光る星となってお互いを照らすでしょう。

心の力
何度も言ってきましたが、心が鍛えられ、内在する無限の可能性に目覚めるのは、苦難の中においてこそです。

夜明け前に暗黒の闇夜があるように、心が輝くときも暗闇の体験がなくてはならないでしょう。

自分がいま心身共に苦況にあるとするならば、このような状況下で重要な事は、自分の為すべきことを忠実に、無駄を省きシンプルに、知識に翻弄されず、そして行動することで最善を尽くし、自分の心の内面を見つめながらその意識に全幅の信頼を置くことです。

内なる心の覚醒を手にした者は、挫折も失敗も、試練も逆境も、自分が成長するためのプロセスだと受け容れるでしょう。

自然界には+と-が存在し、陰と陽、作用があれば反作用があり、これらは同時に一体不離のもの、不二一体、いわば硬貨の表と裏のような存在として働いています。

裏表一体であるということは、片方は欲しいがもう一方は要らない、というわけにはいかないのと同じように、人生の禍福も選りわけて手にすることができません。

自分にとって不都合だから要らないというわけにはいかない。

人間の場合は、心の進化向上のために表と裏の体験、つまり成功と挫折、試練と順境の双方を体験するように仕組まれた社会の中で生活があります。

私たちにはいかなる場でも如何なる時も学びが基盤です。

恐怖心、信念の欠如、懐疑の念は、せっかくの調和された自分の内面を粗雑で荒い波動に降下させてしまいます。

太陽が燦々と輝き、やることなすことが順調で、お金にも不自由がないときなら感謝するのは容易かもしれません。

しかし真の意味で感謝すべき時は、辺りが真っ暗闇の時であり、逆境にいるときであり、大切な気付きをいただいたその時こそではないだろうか。

余命を宣告されても何かしら人のためにと活動していた知人がいます。

その人は命が尽きるまで笑顔でいました。

夜空を見上げれば月明かりが神々しく、満天の星も光り輝いています。

雨の日も、晴天の日も私たちの心を潤してくれるのは私たちの心の在り方であり、受け取り方にあります。

人間は上ばかりをみつめ、目指し、探すのですが、光り輝く星は空にばかりあるのではなく、私たちの足元、地上にもあります。

あなたが光り輝き、一人ひとりが光り輝いたなら地上もまた満天の星で満たされることになるでしょう。

きれいな花が咲くにしても、養分がそろっていても太陽と水がなくてはなりません。

人間にとってその心が光り輝く条件とは辛苦であり、悲しみであり、苦痛であり、試練であり、逆境であり、暗闇の体験です。

だが何も心配することはありません。

この暗闇さえも一点の光によってやがてはs消え去るからです。

一点の光とは、自分自身の心の内にある光源泉のことであり、その光は自分自身が一切の執着、不安、恐怖心、驕りから離れたときに自ら発する心の波動エネルギーそのものです。

何もかもがうまくいき、鼻歌まじりののんきな暮らしの連続では、心に潜在する霊性の開発は望むべくもありません。

だが、試練、逆境のなかにおいても決して諦めてもならないし、卑屈になってはいけない。

困難と努力の末にいったん内面に目覚めると、その時からその人は自然界と一体となり、その美しさ、優しさ、その輝き、その気高さ、その厳しさを発揮しはじめることになるでしょう。

それこそが愛であろうか。

このように目覚めた神性はもう二度と失うことはありません。

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盛岡整体
一番いい死に方 2017/07/26(水)
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認知症で施設にお世話になっていた90歳近いお婆さんが先日脳梗塞になって病院に搬送されました。

通常の意識は確認できないようです。

家族にお医者さんが、「延命処置しますか?栄養のある物を体に入れますか?」と聞かれたそうです。


遠方に住む長男である脳外科の医師が「通常の点滴だけにしてください。あとは一切の延命処置はしないでください。」ということで特別な処置なしということになったと聞きました。

本人の体力がどこまで持つかの問題です。

私も自分の死に方は自然死が望ましいと思っていますし、自然死は病気ではないと受け止めています。

言葉にびっくりされるかもしれませんが自然死はある意味で「餓死」ではないのか。

人間は誰しも死が近いづいてくると物を食べなくなり、水さえも自力では飲まなくなってきます。

そして飲まず食わずの状態になってから一週間から十日ぐらいで息を引き取っていきます。

これは動物も同じです。

私は犬が好きでこれまで五頭飼っていましたからその辺の様子はよく分かっています。

皆同じです。

飲食しないから死ぬのではありません。

死期が近づいたから食べなくなり飲まなくなるのです。

本当に死期が近づくとお腹も減らず、喉も渇かなくなってきます。

こうなると人間はこれまで体に蓄えてきた栄養分や水分、体力を使い果たして死んでゆく。

これが自然死です。

餓死というとその言葉の持つイメージからして惨めに感じかもしれません。

しかし、こういう死に方が一番安らかな死に方だといえるでしょう。

何故なら、無理に医療の手を加えて延命処置をすることによって体にかかる負担が大きすぎて本人は辛い思いをしなくてはならないからです。

人間の体は飢餓状態になると脳内にモルヒネ様の物質が分泌されて痛覚が薄らぎ、それがある種のリラックス効果を生み出します。

これと似たような現象が断食をしたときに現れてきます。

併せて、水分が不足して脱水状態になると意識レベルが低下してボンヤリとしてくることは医学的にも証明されています。

呼吸が十分にできなくなると体内に炭酸ガスがたまります。

酸素不足は脳内にモルヒネのような分泌を引き起こし、炭酸ガスには麻酔作用があります。

以上が人間の体が自力で生きられなくなったときに起きてくる自然現象です。

「大往生したければ医者と関わるな」とまで言ったお医者さんがいます。

考えさせられますね。

私は関わるなとまでは言いませんが、最後の死に方ぐらいは自分で決めて自然死ができたらと日頃から思うところです。

 

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災い 2017/07/19(水)

大分前の話しですが、私の母は自分が『霊感がある』と言ってるという娘さんからの相談をいただいたことがあります。

『母が高額で様々な御利益グッズを次々と教団から買い自分のところに持ち込んでくるのですが、その度に私はいつも頭痛がしたり具合が悪くて困っています。必要のないものを持ちこんで増えるばかりでどうしたらいいですか?』という内容でした。

私はこれまで霊感があるという方のお話しも聞いたり、そういった霊的な能力があるという方に直接、会う機会も
10数名ほどありますが、尊敬できるような方にお会いできたのはお1人だけでした。

また霊能者といわれる人たちが出版した著書についてはリサーチの意味から百冊を超えて読んでみた。

しかし、実際のところ能力の高低はともかく、著書の文面から人間的良識を感じ取れる人は数人だけだった。

10数年前に、一時期テレビで報じられた女性霊能者の書いた本を読んだときに私は大いに、この霊能者の人格に疑問をもったことを記憶しています。

その女性霊能者いわく『私は若いころから筆舌に尽くせないほどの辛酸をなめてきたが、ある日を境に霊能に目覚めた。

そして今はベンツを所有するまでになった。・・・・・・』と続く文面を読んで大いに疑問をもった。

この霊能者という人は何を勘違いしているのだろうか。

ベンツを買えたことが著書に乗せるだけの意味をもつことなのか、ビジネスの成功談義をのせて自己アピールしたいだけの実に幼稚で小さな器の精神性がうかがえる。

直感的にこの女性霊能者の先々に危険性を感じてしまった。

その数年後やはり問題は起きた。

体の健康祈願と除霊の費用を6百万円ほど支払ったが何も改善されないため疑問を持った信者が訴訟を起こした。

この女性霊能者はテレビに出ることで有名にはなったが、心は欲望のためにまっ黒くなってしまっている。

しかし、このような人間を公共の電波に乗せて視聴率アップと利益をもくろむテレビ局側にも大いに疑問を感じたものです。

私たちはテレビのショーアップされたこの手の番組に踊らされてはならないし、視聴者が知らないカラクリが巧妙に仕組まれているという点についても注視したいところです。

必ず後から問題が噴出している。

ある日突然、霊能に目覚めたという人の場合は特にそうですが動物霊の憑依による影響か、もしくは地獄霊の憑依による低次元の霊障の場合が殆どといってもよい。

これは本来の霊能とは異なるものです。

本来の正当な霊能といわれるものは心の完成度に準じて副次的に覚醒した能力でなければなりません。

調和された心の学びと実践を行っていないものが霊的な能力だけに魅了されてこれを求めることは、その心の隙間を狙って低次元の霊に憑依されやすいため最も危険なことです。

ある日突然霊能力が目覚めたというケースなどは最も危険なパターンといってもいいでしょう。

反対に心が調和された良識のある人は普段の生活も極めて普通人ですし、ベンツを買ったとか、豪邸を建てたとか、公(おおやけ)に自分を吹聴(ふいちょう)することはしない。

特に神仏を口にする仕事に携わる人間の場合、仮に正当な働きでお金を得たとしても、本来はそれに執着することなく世に還元することを考え、行わなければならないでしょう。

相談にきた主婦には、人間の都合でお守りやご利益グッズ、お札などを買い込んだりすることの愚か、狂信、盲信することの危険を伝えたうえですべて持参していただき、私が処分させていただいた。

私は一般の人々には穏やかに、心の安らぎを得ていただけることを念頭にお話をさせていただきますが、自称、霊能者、拝み屋、占い師という人がお金を頂いている場合は相当に手厳しくその言動をみておりますし、直接お会いした場合は何が正しい事かをお話ししたこともあります。

何故なら、プロとしてお金を得ているものが人の心の世界に立ち入り、誤った導きをしてはならないと思っているからです。

霊障がどうの、心がどうのと言って説いている者が人の弱みに付けこみ欲望をもって暴利を貪ることは断じて許されることではありません。

だが、自分の足元を見ずに、自分のこれまでの言動を省みることもなく簡単に他に依存してしまうところに心の隙ができるから狂信、盲信になりかねないわけです。

そういう意味では、被害は自分が蒔いた種でもあるという反省を忘れてはならないと思うのです。

「触らぬ神に祟りなし」とはよくいったものです。

触らぬとは関わりを持たなければという意味です。

但し、障るようなものは神であろうはずがなく邪霊でしかない。

結局、人間の依存心、他力本願の弱さが招いた災いということでしょうか。


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また自然災害 2017/07/12(水)

昨年の春3月末頃に大きな地震が来て建物が崩れていく山が崩れていく夢をみた。

目が覚めた後もこういう類いの夢ははっきりと記憶に残っているのがいつものことです。

そして、「また大きな災害が発生しなければいいな」と心配をする。

それから月を超えてまもなく4月14日21時26分、熊本地方でM6.5の地震が発生し、「平成28年 熊本地震」と命名された。

今年に入って再び怖い夢を見た。
殆ど同じような内容の夢で大きな山が崩れてがれきが飛んでくる夢だったことを鮮明に記憶している。

2月28日に福島県沖でマグニチュード5.7の地震発生。
6月20日に豊後水道でM5.0の発生。
6月25日長野県南部でM5.6の発生。
7月1日に北海道の胆振地方中東部でM5.1発生。
7月2日に熊本県阿蘇地方でM4.5発生。
そして九州北部の豪雨。
7月11日に鹿児島湾でM5.3発生。

九州北部の豪雨から1週間が経過した本日12日、福岡、大分両県では計1000人以上が避難生活を送っている。

大量の土砂や流木などの影響で被害の全容は明らかになっておらず、生活再建の見通しも立っていない。

福岡県朝倉市で新たに
4人が心肺停止状態で発見され、うち2人の死亡が確認された。

豪雨被害の死者は
27人となった。
行方不明者は
21人となっている。

今回のこの北九州地域における自然災害の現状をニュースで知るたびに思い起こすのが、
2011年(平成23年)311日に発生した東北地方太平洋沖地震とそれに伴う津波、およびその後の余震により引き起こされた大規模地震災害です。

東日本大震災の死者は
15,893人、重軽傷者は6,152人、警察に届出があった行方不明者は2,553人という大規模災害でした。

きょうは五年ほど前に投稿したことのある記事から一部を抜粋して再度アップしてみたいと思います。

「ある警察官の話」
以下

その言葉は私の胸に静かに染みわたった。
東日本大震災の発生翌日から、遠隔地(大阪府)の警察官ながら宮城県石巻市へ派遣された私にとって、東北弁独特の言い回しで物悲しささえ残るその言葉は、その時の私が置かれた状況と相まって、時に強く訴えるものがあった。

ご遺体を安置所に運び込む
出発前、『一人でも多く被災者を助けるぞ!』と固く心に誓って現地入りした私たちの行く手に立ちふさがったのは、怪物のような瓦礫(がれき)の山と何十、何百という老若男女のご遺体だった。

バール一本で瓦礫(がれき)と格闘しながら海岸や家屋の中でご遺体を発見しては安置所に運び込む毎日を送ることになり、死因を特定する検死が終わるのを待って納棺し、線香と花を手向けて合掌する日が続いた。

そして必然的なことだが、ご遺体の数だけご遺族がおられた。

現地ではあまりのご遺体の多さに葬儀業者も手が回らず、遺体が高齢者の場合で運べない時には私たちが車まで運んだ。

ドライアイスでの保存が効かなくなれば指定の場所に穴を掘り、仮埋葬して番号だけの墓標を立てるなど、初めて経験する任務となった。

派遣が終わり、元の職場に戻った時、その任務内容を聞いた同僚達は、『そんなことまで!何でそこまで!』と驚いた。

上層部に至っては『遺体に長く触れると感染症になるじゃないか!』という者までいた。

連日のように安置所で号泣される遺族の悲鳴を耳にし、あの悲惨で哀しみの極致に居合わせなかった者が言う資格はない。

しかし、私がどれほど言葉をつくしてみてもその哀しみは伝わらなかった。

私たちが現地で行ったことは任務ではない。

人間としての使命感だったのだ。

そして、そんな時に必ず遺族の口から聞かれた言葉が『お世話様です』という言葉だった。

普段、私たちが耳にする『ご苦労様です』、『お疲れ様です』という儀礼的なものではなく、冒頭に記したように東北派遣中は至る所でこの『お世話様です』を聞いた。

この言葉を聞く度に私の胸は張り裂けそうな感覚が支配した。

きっと、最初に決意した『必ず被災者を助けるぞ!』という意気込みが現実の厳しさを前に挫折して諦観にも似た感情に移っていったからだろう。

大津波や地震で犠牲となられた方や遺族から私たちは『お世話様です』と言われる立場にあるのか、という思いがそこにはあった。

だがその中でも最も哀切極まる、私を支えてくれた『お世話様です』を言ってくれた人がいた。

魂を揺さぶった幼児の一言
あれは何体目に搬送したご遺体だっただろう。

長い髪の若い女性だった。

津波に襲われたその女性は、衣服のポケットにあった診察券から身元が判明し、遺族であるご主人と幼稚園児の娘さんが安置所で対面された。

号泣されるご主人の横でただ寄り添い、佇(たたず)むことしかできない私だった。

パパの傍らで棺の中に横たわるママの顔を覗き込むお嬢ちゃんは、しきりにママに囁いた。

『ママ。ママ。起きて。帰ろう。ね?』そう無邪気な声で囁いた。

ママは今すぐ起き上がるのでは、と思うほど綺麗な顔をしていた。

私にとって長い長いご遺体確認の時間が終わり、明日引き取りに来る二人を出口まで見送った時だった。

『お世話様です』とパパと手を繋いでいた手を離し、お嬢ちゃんは気をつけの姿勢となって、『おまわりさん。お世話様です』そう言ってペコリとお辞儀をしたのだ。

一瞬、その子の顔が家で待つ自分の娘の顔と重なった。

突然、ぐっと迫ってきた涙を堪え、私はしゃがみ込んで、お嬢ちゃんの頭に手を置いて撫でてあげた。

そうしなければ、私はきっと耐えられなかっただろう。

『えらいね。こちらこそ。お世話様です』泣き笑いの顔だったけれど何とか言えた。

お嬢ちゃんは嬉しそうな顔をして私に向ってバイバイし、何度も振り返っては頭を下げられるとパパと一緒に帰って行った。

東北への長い派遣を終えて元の生活に戻った今、仕事先から帰る途中に夜空を見上げることが多くなった。

澄みきっていた星を見上げながら思う。

あの子のママもあの星のどれかになって、あの子をずっと守り続けてほしい。

そして最後にこう呟く。

『お世話様です』戦後に対比される災後という言葉までが生れた東日本大震災。

我が国未曾有の困難に際し、被災地で多くの犠牲者の死と残された遺族の生を間近で見て、歯を食いしばりながら野辺の送りに寄り添った。

そして固く誓った。

この事実を語り継ぐことを。

それがせめてもの手向けになるのだと信じて。

『お世話様です』私を支え、魂を揺さぶった言葉である。

以上が震災の地に派遣された警察官の手記内容です。

絶体絶命と思われるような窮地に際して人間の本質が現れる出来事に、心打たれて学ばされることが多い。

今回の北九州地区でも川の氾濫によって、あるいは山崩れや土砂災害によって命を落とされた方々がいらっしゃいます。

まだ消息不明の方々もいます。

小さなお子さんを胸に抱きしめて遺体で発見された妊婦さんもいました。

もうすぐ出産を控えての災難でした。

「神も仏もないのか」号泣する周囲の人たち。

心から哀悼の意をこめてご冥福をお祈り致します。

災害現場では支えあい、協力し合う人々の絆が今を乗り越える救いなのだろうと思う。

そして国でも一刻早く支援の手を売って欲しいと願わずにはいられない。


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ほんとうの敵 2017/7/9(日)
私たちにとって敵とは、自分以外の対象にあるのではなく「自分を疑う心・自分を信じることができない心」ではないだろうか。

自分で自分をこんな人間だと思ってしまえば、それだけの人間にしかなれないと思うのです。

よくあるケースなのですが、何かにつけて些細なことで相手とトラブってしまう人がいます。

「お母さんはいつも自分のいうことが正しい。」
「お母さんは自分のいうことを曲げない」
「時間にご飯が出てこなかった」
「テレビがうるさくてイライラした」
その他様々な小さな理由を並べて不満と愚痴と怒り狂うこと頻繁な毎日で本人は疲れないはずはない。

いつも体調不良を訴えてくる。

確かにそのお母さんは口調が荒くて穏やかさが足りないということはわかります。

しかし、成人をとっくに過ぎた大人でありながら相手の足りないところばかりを指摘して不満、愚痴、怒りをあらわにしている姿はそのお母さんの激高しているときの姿と全く同じ状態だということに自分自身が気づいていない。

年齢的には成人してはいますが心は成人に至らず幼さが残っている。

体調不良の原因もいつも周りのせいにして自分の努力の不足にはまったく思いが至らない。

親子の会話を聞いていても会話がまともに成立せず、お母さんはいつも激しく、要望ではなく半命令口調で語っている姿を見る時、この青年はお母さんから穏やかな愛情をもらえずに戦々恐々として育ってきたことが色濃くうかがえる。

正に「親の因果が子に移り」ではないか。

社会に出ることもできず、生きることについて自分で考察することもなく、毎日を家族に不満と愚痴と怒りをぶつけて暮らす日々は地獄であろうと思うと不憫でならない。

週一のカウンセリングを始めて
3ヵ月になる。

当初の状態に比べれば体も徐々に快方に向かいましたが心の傾向性はまだまだこれからという所です。

自分の人生を誰かが代わりに生きることはできません。

過去に拘り後ろ向きでは生きられない。

毎日が新しい日を迎えるのに過去にばかり心を向けて他を批判しても、そこには何も生まれることはないでしょう。

耐える心にこそ新たな勇気が湧くものです。

病める人よ。
体は病んでも心まで病まないでほしいと願う。


s
精神科 心療内科

薬を卒業した看護師 2017/6/25(日)

この記事は県外に住む女性からの相談を受けて以降、ご本人の努力によって完全に薬から離れて社会生活が出来るまで回復した方の事例です。

ご本人が快諾してしてくださり今回掲載できることになりました。参考にしていただければと思います。

以下。ご本人の文章です。

薬の離脱症状が激しかった時お世話になった方に
1年に1回会いに行っています。

いまからもう
3年ほど前になるだろうか。

「自分は一生このままなのではないか」と思い込んでいた時期がありました。

とにかく誰かに話を聞いてもらいたくて、何かアドバイスをくれる人はいないかと必死に探していると、あるブログにたどり着きました。

数あるブログを見ましたが、その中でも内容がとても心に響くものだった。

その頃は心身ともに安定しておらず働けずにいたため、自由になるお金もなかった。

無料で電話相談をしていると知り、怪しいとは思いながらも思い切ってかけてみることにした。

様々なお話しをしているなかで、院長さんが患者さんを何人も真摯に診てきているんだなということが伝わってきたし、自然に自分の心も前向きになっていきました。

その電話相談の中で「よくここまで生きてこれたね」と声を掛けていただいたことがとても印象に残っていて、その言葉を聞いた瞬間、肩の力が一気に抜けました。

「このくらいの症状でへこたれてはいけない、自分で自分をほめたり、認めるなんてばかばかしい」とずっと思っていたが、院長先生と何度となくお話しをしているうちに考えが柔軟になって、生きるのが楽になったのです。

薬をやめたばかりの頃は首・肩がガチガチで頭が全く働かず、ぼーっとしていて我ここにあらず・・・といった状態でした。

冒頭で書いたように「自分は一生このままなのでは」という想いがとても強く、それと同時に「このままではいけない」という想いもあった。

服薬当初は薬を飲んでいれば徐々に症状は軽くなると信じていたが、向精神薬の副作用で脳細胞が破壊されるだとか、身体がボロボロになるだとかネットを見ると恐ろしいことがたくさん書かれていた。

しかし、治療方法はたくさんあるはずだし「絶対によくなる」という気持ちでいた。

私の場合、家族が精神障害という言葉に関心がなかったので、障害者認定を受けるいうことは全く頭になかった。

意識はあるし、身体がある程度動くからこれくらい大丈夫という気持ちでいたのです。

薬の量は少なかったが、服用していた期間がちょっと長かったためか、減薬、断薬したときの離脱症状がひどかった。

そのため、看護職を離れ、アルバイトをしていた。

周りの人たちはスムーズに動くことができるのに動けない自分にイライラしてしまったし、会話の面でもなかなか適切な言葉が出てこず浮いてしまった。

それでも周りに必死についていこうとして、はじめはキッチンの洗い物だけだったが徐々に調理にもやらせていただけるようになり、ホールの仕事までできるようになった。

何事も諦めないで前向きに捉えて、地道にやっていけば良い方向に向かっていくんじゃないかと思った。

また、他のことに意識が向き、マイナス思考になっているときは必ず自分に言い聞かせることがある。

それが「私は私だ」という言葉。

自分勝手にという意味ではなく、自分の人生なんだから自分を生きなきゃ損。

自分に余裕がないのに他の人・物に意識を向けてばかりでは、自分が潰れてしまう。

「まずは自分のことからはじめよう」って自然と思えたときに「薬をやめよう」と決心がついた。

院長さんに会えて本当によかったと思っています。
感謝です.



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カウンセリング
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怒り 2017/6/16(金)

「キレる」という言葉を知らない人はほとんどいないだろうと思われるくらい知られた言葉だろうと思います。

この言葉はどちらかというと若い世代に向けられた言葉でした。

しかし、最近のニュースでは、駅員に暴言を吐いたり、タクシー運転手に横柄な態度で接したり、公共の場で「キレる老人」が取り上げられるようになった。

職場や公共の場でもどうしても感情を抑えられない人がいます。

一度私も経験があります。
スーパーに買い物に行ったときのこと。

ちょうどいいタイミングで正面入り口脇の駐車スペースが空いていたからスムーズに車を停められたとおもった直後に、何やら外で
60代後半かとおもわれる女性がわめきながら私の運転席側に近寄ってきて怒鳴っている。

窓を開けると「私が停めようと待っていたのに何であなたが先に止めるのよ!」と物凄い形相で怒り狂っている。

「それはすみませんでした。気づきませんでした。どこで待っていたんですか?」と尋ねると。

「そこですよ!」と指さした場所がスーパーの正面入り口ドアの前に玄関をふさぐように駐車してあった。

ドアの前には「入口につき車を駐車しないでください。」と立札ある場所だった。

この人には話すことも無駄だと思って
「すみませんでした。いまここから車を出しますからどうぞ停めてください」と言ったら
「もういいです。」と買い物もしないで勢いよく駐車場から走り去った。

何とも後味が悪く気の毒にさえ思えた。

日々カウンセリングをしていて見えてくるのは「怒り」という感情が相談者やその家族、あるいは関わっている人たちのなかにも至るところに渦巻いているということ。

しかも、自分自身が何に対して怒っているのか明確にわかっていない方が少なくありません。

だからこそ、常にイライラしていて、些細なことがきっかけで怒りを爆発させるわけです。

いわゆる「キレる」人が増えているように思えてなりません。

何故キレるのか。
上述の様なケースは、自分が停めようとしていた場所に後から来た車が停めてしまったことに激怒しているわけですが、ご本人は自分の駐車していた場所が他のお客様方のご迷惑になることなどは全くお構いなしです。

つまり、自分の傲慢さ故に駐車してはいけない場所に車を停めても迷惑だということにさえ気づけないわけです。

こういう人間は自己中心的な気持ちが非常に強く、自分の思い通りにいかないことがあるとすぐにキレてしまいます。

だから気の毒と思ってしまうのです。

自分が見えていない人ほど感情的になります。


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エゴ 2017/6/10(土)

男と女であるが故に、ともに必要とし、ともに暮らしながらも行き違い掛け違い、傷つき、ようやく大切なことに気づく人もあれば、離れて別な人生をゆく人もいます。

この地上生物、特に動物植物は雄雌があり男性女性があり、それは互いに相反するようなかたちをとりながらも実は共存関係にあるということがわかります。

ですから男と女が相互協力しなければ子孫の繫栄もなく、家庭の調和もないでしょう。

こうなると人類は滅びるだろうし、この絶対的な仕組みは何人も侵すことができません。

愛と憎しみは別な心の現れ方ですが、どちらも私たちの心の内に同時存在しています。

「愛」は相手があって育むものですから時間がかかります。

一方「憎しみ」は一瞬の自我感情で起こりうるものですから瞬時にして破壊のエネルギーとなって影響を及ぼします。

「愛」が一転して「憎しみ」に豹変する場合もあるわけです。

しかし、愛が相手に受け入れられない時、その愛が憎しみに変わるといいますが、実はこれは「愛」ではなく身勝手で自己中心的な想いでしかない。

感情的になりやすい人と穏やかに対処できる人の違いはとなると、自分本位の傾向がどの程度強いのかだろうと思います。

押し付けの想いは真実の愛ではないし、自己都合による愛の押し付けは、拒絶と不信感を持たせ、双方の間に大きな壁をつくってしまいます。

争いや憎しみは個々の持つ愛のあり方や価値観の違いから発生するものです。

しかし、厳密にいえば愛に行き違いがあってはならない。

相手の想いを受け止められているのか、相手の心に寄り添えているのか。

本当の愛はこのような行き違いを超えたところに信愛として在るものだと思います。

人間は何故に争い憎しみ合うのか。

自分の想いを通したいというエゴの心がそうさせています。

幸せだ。不幸だ。といいます。

自分を通したいエゴの強い人は幸せの心に気づくことはきわめて難しい。

是非は別にして、「あるがままに愛しむ」「無条件に受け入れる」このことが愛の原点であると確信します。

「憎しみ」は「攻撃」の感情です。

自分に「愛」が注がれていないことに気付いた時に発生する感情として生まれるのが憎しみでしょう。

ですから、「憎しみ」は他者を破壊する感情であって、自らの存在を維持する為の他者攻撃ということができます。

憎しみが本能的感情であるのは明白です。

おわかりかと思いますが「憎しみ」は自己保存に原点があります。

憎しみは互いに憎しみを呼び連鎖します。

愛が憎しみを生ずるというのは執着心にほかならず、自己愛を本質とするものです。

人間の心のなかにある愛、そして憎しみというエゴ、それらは武器を持ってわたしたちに襲いかかってくるわけではない。

それなのに、私たちはそれらのものを制御できず、知らず知らずのうちにその虜となり、召使いとなってエゴの命ずるままに動かされていきます。

いったいなぜだろうか?

心に執着という重いものを持っていると軽やかで暖かい愛で接することができません。

惜しみない寛大さ、寛容さこそ愛の原点だと思います。
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才能と品性 2017/6/2(金)

「才能は静寂の中で養われ、品性は世の嵐の中でつくられる」とゲーテの作品のひとつにあります。

この言葉は私自身の自戒として大事にしているものです。

人それぞれには個性があるように、得手不得手もあるだろうし、持ち得る才能の種類も大きさも千差万別でしょう。

騒々しい環境のなかでは自分を見失う可能性があるくらいのささやかな自分の才能。

まして品性となるとまことに低劣となるおそれすら大いにあります。

バタバタして仕事をしているときに限って仕事が見えずに、仕事から離れた時に仕事のことが見えてくることがあります。

そういう時は決まって心静かなときです。

静寂の中でひらめくことがあるのはそういうことなんだと気づきます。

逆境のなかで経験することで初めて品性が養われるのは良しとして、人によっては逆にいじけたり他人を恨んだり自分を卑下したりと心が歪んでしまうこともある。

同じ環境にいても別々な生き方をするのが人間なのでしょう。

別々な生き方をする根っこにあるものは何かと考えると「想い・心の器」という言葉が浮かんできます。

想いというのは自分の人生観とでも言いましょうか。

心の器とは、物事に対するときの考え方や対処の仕方の違いだろうと思います。

仕事はただお金のためだけに働くのでは虚しくなりますし、不満もでてきます。

例えば、仕事に取り組む姿勢としては、まず心を磨くというか、ものの考え方を成長させるという大前提が必要なように思います。

そのような意味から、苦難がくればそれもよし、順調ならば更に良し、という心づもりを常に持ち、人一倍の働きを積み重ねてゆくことが大切ではないだろうか。

そして何年かして気が付いてみれば成長している自分に嬉しくなることもあります。

生きていく様々な局面で、一方は「これで十分だ」と考えるが、もう一方は「まだ足りないかもしれない」といつも前向きに未来を見据えて考える。

そうしたいわば紙一枚の取り組みの差が、大きな成果の違いと心の成長であり、品性という心の器の差を生むのだろうと思います。

正に、努力に勝る天才はいないという所以なのでしょう。


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不妊症について 2017/5/29(月)

子どもが欲しいけどできない。
これは当事者にとっては深刻な問題のようです。

そのことが原因で離婚されるケースもある一方で、深く幸せの意味を考えて絆を深めていく夫婦もいます。

医学的な解釈では受精可能な卵子・精子を排出することができない状態、もしくはそれらを受精させることができない状態のことをいいます。

私の院に来院された人たちのなかに、お医者さんから「不妊症です」といわれて子供を産むことができた人がいます。

その一方で、まったく異常がないといわれながら、子供を産めなかった人もいます。

子供を産めない理由、原因はいろいろあるでしょう。

単に肉体的なところに起因するケースもあれば、家庭環境に起因するケースもあり、夫婦の問題に起因するケースもあります。

当院の整体施術を受けることで長期間不妊治療していた人が妊娠した事例がいくつもあります。

また少し視点を変えてみますと、不妊症であることは、今世で経験しなければならない理由があるのかもしれません。

そういう人たちの中には、単に結婚したら子どもを産むものだから、あるいは親が早く孫の顔を見たいというからという理由で子どもを欲しがる人もいるでしょう。

また、ある女性たちは、単に自分が女性であることをもっと感じたいために子どもを産もうとします。

しかし、子どもがいようがいまいが女性性は本来自分のなかにあるはずです。

この時点では、まだ自分の女性性を完全に認識していないといいますか、女性性を真に理解して受け入れられていないわけです。

つまり、不妊の女性は、たとえ子どもがいなくてもありのままの自分を受け入れて幸せに人生を終えられるということを学ぶために不妊を選んだ可能性があります。

この選択は、自分がこの世に生まれてからのことではなく、生まれる前から、すなわち、あの世で暮らしている段階の方針として計画された人生だともいえます。

また、子どもが欲しいのに子どもを産むのが怖いために子どもを産めない女性たちもいます。

このように、不妊症は、子どもを持たないための無意識的な口実として潜在的に使われている可能性があるわけです。

しかし、それでも子どもを欲しい場合は、「子どもが欲しい」という気持ちを大切に持ち続けるべきでしょう。

何事においても望んでいることなのに結果を得られない人、自分を非生産的だと責めている気持ちがある人の場合も不妊症になることがあります。

心の面でマイナス思考は現象となって肉体にまで影響を及ぼす場合があります。

「親から子どもを産むことの辛い話を聞いたことはないだろうか?」

「子どもを産むと誰かが自分の元を離れていくと思っていないだろうか?」

「子どもを産むことで体系が崩れるのは嫌だと思っていないだろうか?」

「子どもを産んだら育児が大変だし自分にできるかしら?と考えていないだろうか」

こういう気持ちを持っている女性の場合、自分の願いと恐れのどちらかを選択する勇気と決断をしなければなりません。

あとは自分が決めたことの結果を受け止める覚悟を持つだけです。

これでも自分を卑下する気持ちがあるなら、自分の周りの人たちから聞いてみる事もいいでしょう。

彼らも自分と同じように考えているかどうかをです。

「後ろに未来はありません。
人生は前に進むことで進歩というのでしょう。」


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「備わった愛」


娘がママになってくれた家族の話し! 
2017/5/22(月)

もう
10年も前の話妻が他界して1年がたった頃、当時8歳の娘と3歳の息子がいた。

妻がいなくなったことをまだ理解できないでいる息子に対して、私はどう接してやればいいのか、父親としての不甲斐なさに悩まされていた。

実際私も、妻の面影を追う毎日であった。

寂しさが家中を包み込んでいるようだった。

そんな時、私は仕事の都合で家を空けることになり、実家の母にしばらくきてもらうことになった。

出張中、何度も自宅へ電話をかけ、子供たちの声を聞いた。

2人を安心させるつもりだったが、心安らぐのは私のほうだった気がする。

そんな矢先、息子の通っている幼稚園の運動会があった。

“ママとおどろう”だったか、そんなタイトルのプログラムがあり、園児と母親が手をつなぎ、輪になってお遊戯をするような内容だった。

こんなときにそんなプログラムを組むなんて・・・「まぁ、行くよ♪」、娘だった。

息子も笑顔で娘の手をとり、二人は楽しそうに走っていった。

一瞬、私は訳が分からずに呆然としていた。

隣に座っていた母がこう言った。

あなたがこの間、九州へ行っていた時に、正樹はいつものように泣いて、お姉ちゃんを困らせていたのね。

そうしたら、お姉ちゃんは正樹に、「ママはもういなくなっちゃったけど、お姉ちゃんがいるでしょ?」

「本当はパパだってとってもさみしいの」

「だけどパパは泣いたりしないでしょ?」

「それはね、パパが男の子だからなんだよ。まぁも男の子だよね。」

「だから、だいじょうぶだよね?」

「お姉ちゃんが、パパとまぁのママになるから。」そう言っていたのよ。

何ということだ。

娘が私の変わりにこの家を守ろうとしている。

場所もわきまえず、流れてくる涙を止めることが出来なかった。

10年たった今、無性にあの頃のことを思い出し、また涙が出てくる。

来年から上京する娘、おとうさんは君に何かしてあげられたかい?

君に今、どうしても伝えたいことがある。

支えてくれてありがとう。

君は最高のママだったよ。

私にとっても、正樹にとっても。ありがとう。


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教師の過労死。 2017/5/19(金)
つい先日30代の男性教師が「お話しを聞いて頂きたい。」と相談にみえられました。

担任の仕事以外にも部活の顧問に加えて若手同僚教師のまとめ役、毎日の事務的な整理、翌日の準備で毎日夜の10時過ぎまで学校に残って仕事しなければ追いつかないというのだ。

こういった話は以前にも何度か聞いたことがある。

「子供が産まれたばかりで家内に協力したいのですがほとんどできていない」。

「日曜日の休みしか家族に時間をとれなくて自分の時間なんて取れる状況ではない」

この学校は県内でも有名なほど教育熱心な方針や体制をとっているのですがその結果は教師たちに相当な負担を強いている。

民間企業ならブラック企業とレッテルを貼られそうなほどサービス残業が蔓延しています。

こういう問題は何も限られた学校だけということではなく、今や社会問題化してきていて、精神疾患に陥って体調を崩し休職や退職を余儀なくされている教師の方々とも向き合ってきました。

きょうは教育現場での問題についてふれてみたいと思い「神奈川新聞・5月14日」を転載させていただきましたので参考にしていただければと思います。

以下。


労働被災者”になる前に相談を-。
過労死で大切な人を失った家族らが25日、「神奈川過労死等を考える家族の会」を設立する。

長時間勤務など過重労働に起因して命を落とすケースが後を絶たない中、当事者や家族の苦しみを共有し悲劇を繰り返さない社会を目指す。

「突然命を奪われて立ちすくむ人たちの支えになりたい」。

過労死した夫の公務災害認定まで5年半を要した工藤祥子さん(50)は、自身の経験に重ねて支え合う大切さを呼び掛ける。

熱血教師だった。
工藤さんの夫・義男さんは2007年6月、修学旅行の引率から帰宅した直後に体調不良を訴え、くも膜下出血で10日後に死亡。

当時40歳、4月に赴任した横浜市立中学校で生徒指導専任と学年主任を兼務する激務を抱えていた。

地方公務員災害補償基金(地公災)が公務災害と認定したのは、死亡から5年半後。

祥子さんは08年に地公災県支部に申請したが、10年5月に「職務は通常の範囲内だった」などとされ不認定に。

同7月に同支部審査会に不服を申し立て、高度の精神的・肉体的負荷と死亡との因果関係が認められた。

「過労と激務を立証するため夫が死に至るまでの日々をたどり、生前を思い出しては泣いた。夫を止められなかった自分を責め、どうしようもなかった」と振り返る祥子さん。

公務災害認定のハードルの高さを目の当たりにし、同じ境遇の遺族らとさまざまな場で制度の改善を訴えてきた。

全国過労死を考える家族の会メンバーとして活動を続ける中で痛感したのは、県内の被害の深刻さだった。

神奈川過労死対策弁護団によると、県内で過重労働に起因した精神障害の労災請求件数は年間120~130件で、認定件数とともに全国の約1割を占める高水準で推移している。

一方、労災認定手続きの負担などを理由に泣き寝入りするケースも後を絶たないのが現状で、家族の会は突然の事態に備えるためのサポートにも取り組んでいる。

神奈川の家族の会は、首都圏では東京に次ぐ2カ所目で、全国14カ所目。

25日に設立総会と「結成記念の集い」を横浜市中区で開き、工藤さんが代表に就く予定だ。

今後は交流会や勉強会などで公的支援につなげるほか、シンポジウム開催などにも取り組んでいく。

問い合わせは、神奈川総合法律事務所電話045(222)4401。

◆教員の過労死認定遺族には険しい壁。

小さな2人の娘を抱え、絶望に暮れた。

夫は、40歳の若さで亡くなった。

工藤義男さんは横浜市立あざみ野中の教員だった。

2007年6月にくも膜下出血で死亡した。

過労が原因だと、公務災害(公務員の労働災害)の申請を決めた。
その作業は傷口をえぐるような辛苦だった。

妻の祥子さんが振り返る。
「過労と激務を立証するため、夫が死に至るまでの日々をたどっていく。

生前を思い出しては泣き、夫を止められなかった自分を責める。
娘たちのつらさまで受け止める余裕がなく、どうしようもなかった」。

工藤さんは結局、5年半の歳月を経て過労死と認められた。

その間に家族関係が悪化し、両親に同居を頼んだ。

それほどまでして、やっと認定にこぎ着けた。

教員の場合、労災は労働基準監督署ではなく、地方公務員災害補償基金(地公災)が審査する。

被災後の給与や年金、治療費などを補償する機関であるはずの地公災はその実、被災者や遺族にとって高く険しい壁となって存在する。

それは、数字からも明らかだ。

05~09年度の5年間で比較すると、脳・心疾患の労災認定率は民間の44・5%に対し、地公災は20・3%と半分以下。

死亡事案で比べても、46・9%と25・5%と大幅な開きがある。

教職員に限ると、この5年で「過労死」と認められた件数は、わずか14件しかない。

過労死弁護団全国連絡会議幹事長を務める川人博弁護士は、「この数字は氷山の一角にすぎない」と指摘する。

「教師の場合は労災申請に学校長、教育委員会の承認が必要になるが、監督責任を問われるため協力が得られにくい。

実際に校長が申請書類をずっと隠していたケースもあった。

心理的負担に耐えられず、泣き寝入りする遺族も多い」。

加えて被災者や遺族を苦しめるのが、審議の遅さだ。

06年に都内の小学校女性教諭が自殺したケースでは、2年近く地公災に何の動きもなかったため、遺族は違法性を確認する「不作為の違法確認請求訴訟」を東京地裁に起こした。

その後審理は進んだが、遺族代理人の平本紋子弁護士は「ここまでしないと地公災は動かない。

民間の労災審理はスピードアップが進む中、遺族の感情を考えない、あり得ない対応だ」と批判する。

厚生労働省が過労の認定基準を見直した01年以降、民間企業での認定件数は跳ね上がった。

一方、地公災はほぼ横ばいが続く。

民間では広がったセーフティネットから、地方公務員は抜け落ちている。

川人弁護士は糾弾する。
「数字を比較すれば、地公災の対応は意図的に労災認定を抑えていると捉えられても仕方がない。

申請手続きから審理の方法まで、地公災はあり方を根本から見直す必要がある」
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欲望
 2017/5/15(月)
警察官、教師、医師、僧侶、宗教家などによる犯罪が社会のメディアで取り上げられる機会が増えてきました。

社会では「警察官が、教師が、医師が、僧侶が、教祖が、公人なのに」というような厳しい批判が聞こえてきます。

何故このような犯罪がおこるのだろうか。

社会的にも地位も知識も資格もある人たちです。

だが、よくよく考えてみますと犯罪は資格の有無で起こるのではなく、その人間の心の発動によって起こったことでしょう。

その時の精神状態がどうであったかということを考えて出る答えは「欲望・自己中心・身勝手」ということが背景にあるとわかります。

きょうは「欲望」という人間の根源的な心の領域に触れてみたいと思います。

まず「欲望」は「本能」という意識体に存在する働きでありますが、本能は人間だけではなく動物が生存して子孫を残していくために与えられた意識活動であり根源的な行動だといえます。

この点では人間もその他の動物も共通するところですが、人間はその本能に人間独自の意識が働きます。

それが「欲望」です。

理性の働かない欲望は野生動物以下の行動をします。

最悪は殺人まで犯すわけです。

理性は子供時代の学校教育や家庭内の躾によって身についていきます。

しかし、調和された家庭環境が欠けていることによって理性が育たぬままに社会に出ていくとどうなるかというと、先の事件のようにいざというときに欲望や自己中心、身勝手という心にブレーキがかからずに犯罪を犯すことになるわけです。

こうしてみると本能の領域にある欲望という意識をコントロールできるのは理性だということがわかりますね。

突発的な出来事や思い通りにいかない出来事の際に非常に感情的になりやすい人間はこの「理性」が育っていないともいえます。

人から指導を受けて自分を変えていく場合もありますが、根本的には自分の長所短所を知って自らの心がけをもって努力する姿勢がなければ「理性」は育たないでしょう。

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グレてた息子の親孝行。 2017/5/10(水)

おれは中学・高校と結構ぐれていた。

そんなおれもついに社会人!そして初めて迎えたお母さんの誕生日。

「いつもありがとう」ってプレゼントを渡したかったんだけど照れくさいし、もし選んだプレゼントが気に入ってもらえないと怖かったからデパートへ連れて行った。

「何でもいいから好きなの買えよ」と言うと、「高いエプロンだけどいいの?」とおずおずと見せに来て、値札見たらたった
3000円だったんだ。

「こんな安物かよ」と後ろ向いて、泣きそうな顔を見られないようにレジに走ったおれ・・・・。

ブランドでもバックでも何でもあるだろ、財布の中に給料全部入れてきたんだから・・・。

涙が出たけど、トイレで急いで顔洗って、知らぬ顔で袋をお母さんに渡した。

しかもお母さんがうれしそうにそれを抱きしめたのを見て、また泣きそうになったんだ。

今でも実家帰るたびにそのエプロンつけてご飯作ってくれて、ありがとうな。

ほんと美味いよ。

いつも素直になれなくてごめんね。

マザコンとよばれてもいい!お母さん大好きだ。

本当にいつもありがとう!

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とある家族の話し 2017/5/5(金)

腹違いの兄貴。

俺小学5年、兄貴大学生の時に子連れ同士の再婚。

兄貴とは一回り近く年が離れていたせいか、何だか打ち解けられなかった。

それから6年たって俺が大学入試の時、入学金の事親に言えないでいたら、兄貴が知らない内に払っていた。

俺「気を遣わないでよ。いざとなれば働けば…」

兄貴、「馬鹿野郎。俺はお前の兄ちゃんだ。」

後でちょっと泣いた。

兄貴の娘が大怪我した時、俺は限界まで輸血した。

兄貴、「もういい止めろ。死んでしまう」

俺、「うるさい。俺は○子の叔父さんだ」

義姉共々泣かした。

お返しだ。ザマミロ。

姪っ子の結婚式の時、「私にはお父さんとお母さんと、叔父さんの血が流れています」って言われて図らずも号泣。

兄貴夫婦以上に号泣。
大恥かいた。

姪っ子綺麗だったなあ…。

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夫婦調和の原点と心理的根拠 2017/4/18(火)

結婚を出発点として、人間は夫婦生活を理想的なものとするために何が大切かとなると、お互いが相手の心にどれだけ寄り添うように協力できているかだと思います。

夫婦は協力関係にあるわけですから、男女の役割が違うからとはいっても、男性が主で女性が従だという考え方は偏っています。

役割の違いはその違いだけであって、どちらが偉くてどちらが劣っているというものではないでしょう。

往々にして男性中心の封建主義的な考え方は、儒教の教えと日本の武士道が結びついてつくられた道徳からきている色合いが濃い。

儒教や武士道の教えにもいいところはあるのですが改めなくてはならないところもあるように思います。

但し、男女の役割の違いを差別だと考えてしまって、その役割まで否定してなくそうとすることは自然の法則を人間の力で変えようとするもので、これまた正しいものとはいえないのではないか。

役割は違っていても人間は本来平等です。

自然を破壊すると公害が発生するように、男女の役割を無視すると家庭破壊の道を進むことになります。

夫婦愛を完全なものにしてゆくには知恵と工夫が必要です。

そして知るべきことは知っていなくてはと思います。

「神は愛なり」とキリストがいいました。

ということは、「愛は神なり」ということになります。

人類愛も動物植物相愛も、親子愛、夫婦愛、兄弟姉妹愛、親戚間の愛、職場への愛も、すべてが神の愛の実現といえるでしょう。

これらのすべては愛であるが、性生活を伴う夫婦愛だけが悪だということはない。

性生活がなかったら私たちの肉体が誕生することはできません。

肉体が誕生できなければ魂が宿ることができません。

魂が宿ることができなければこの世での心の学び(修行)ができない。

そうすれば人類が破滅します。

人類が死滅することは神の心ではないはずです。

夫婦愛を完成してゆくのに、営みに対して後ろめたい気持ち、罪悪感をもつ必要はないでしょう。

愛の実現方法については夫婦でよく理解しあえばいいこと。

そのためにも先ずはお互いが心身ともに健康でありたい。

身体の健康は努力によってある程度何とかなるものですが、問題は心の健康です。

これが難儀です。

心の健康とは偏らずにバランスのとれた状態のこと。

日頃から物に執着し、足ることを覚えず不満をいう暮らしは心が健康だとはいわない。

何か自分の思い通りに行かないことがあるとパートナーにキツイ言い方をしてしまう。

そういう相手の言動に気持ちが萎えてしまって営みをする気持ちになどなれないでいると、またチクリチクリと嫌味を言われる夫。

今流のいいかたをするなら「デリカシーが無い」ということだろうか。

病気や健康について、あるいは精神疾患だけではなく、いろんなご相談をいただくのですが、夫婦問題についてのご相談も時々あります。

夫婦がいい関係で生活するためにはいくつかの条件がありますから述べてみましょう。

1・愛のない営みはよろしくない。
営みはあくまでも愛の延長上にあって然るべきであって、さらに愛を確認するためのふれあいであるということ。

どちらか一方だけの欲望のはけ口になってはいけない。

2・すべてに対して足るを知ること。
これがすべてに対して感謝の心を持てる要になるからです。

常に不平不満・嫉妬・愚痴・怒りをもって日々の生活をしている夫婦もいましたが、やはりうまくいっていないし離婚になってもおかしくない状況である。

その理由は、求めることが多いから。
この一点です。

いくら話してもそのことに気づけない。

それは自分の心が欲求だけで満ちていて相手の気持ちなど推しはかるという心づかいが欠けているからです。

「つぶやく者の恋は成就しない」という諺があるように、常に不平不満の気持ちで幸せ探しをしてもその可能性は限りなくゼロに近い。

十のうち九つ幸せな人が、一つだけ不幸なことがあったとします。

その一つのことを「自分はなんて不幸なんだ」とつぶやいていると間違いなくこの人は不幸な人生になっていく。

その反対に、十の内に九つが不幸で一つしか幸福なことがなかったという人がその幸福を「私は幸せだ・何て私は幸せなんだろう」といっているとそのうちに十とも全部が幸せになってくる。

足るだけの生活をしていながら、それでもまだ足りないと上ばかり見て自分の欲求をドンドン相手に押しつけている自分に気づけない人がいるのです。

自分を省みることのできない女房も夫も自分を知ることが先です。

人間関係も夫婦関係もお互いの良いところをみてやる心が大切ですね。

そして、やたら「プライドが高くて困ります」という相談もありました。

自尊心というものは本来、品格ある人間性を保つ心のことをいいます。

他人から注意をされたり、指摘をされた程度で「プライドが傷ついた」といって怒りだすというのは正しい自尊心(プライド)ではなく自我心が強いだけの心ということになります。

相手から尊敬されるためには、先ず自分自身が偏りのない調和された自尊心を自覚することだと思います。

自尊心を傷つけられといって、些細な事に立腹するのは自尊心ではありません。

ただの未熟な感情から発した怒りに過ぎません。

一方で自分を卑下することもいけません。

これも過ぎると相手の愛を受け入れられなくなります。

3・愛する人の自尊心を傷つけてはならない。
特に夜に寝室に入ってからかねての不平や愚痴をいってはならない。

営みは愛を表現する至極の手段ですから細心のいたわりをもって大胆におこなうべし。

4・愛は奪うものではなく、与えるもの。
これは営み然り、日頃のパートナーに対する思いやりも然りです。

5・夫が夜の生活をしてくれないと不満をいうケースがあります。
理由はいろいろあるかとは思いますが、そのなかの一つに、「日頃からなじられ夜のことも不満を言われることが多く気持ちが向かない」というご主人がいました。

女が大胆に要求してくると男は逆に気が引いてしまうところがあります。

恥じらいといいましょうか、ある程度の羞恥心をもっていたほうが夫の愛を誘うことになるでしょう。

6・妻に対して過度の性的行為を求めることはよくない。
何事も節度が必要です。

健康のために食事もコントロールが必要なように夜の営みもそれが必要でしょう。

7・夫婦生活が罪であるように教えられたクリスチャンが、夫から愛されたときに一切の声を押し殺して唖になっているということがありましたが、これは間違っています。

男性は自分の与える行為がどれだけ妻を満足させられたか、その妻の喜びがかえってきたときに初めて満足するものです。

ですから夫の行為に対して応えることは罪ではなく、愛される喜びであると理解しなくてはならない。

今回の投稿内容は細かいことまで立ち入って述べさせていただきましが、男と女が愛し合うことは自然界の法則に沿った生命活動のなかの営みとして理解すべきでしょう。

それだけにお互いを尊重する心を忘れずにいたいものです。

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sen「縁の活かし方」 207/04/11(火)

世界の人口を調べてみましたら(米国勢調査局と国連データー推計)
739千万人以上とありました。

人生
80年として私たちが初めて会う人が一日何人いるのか、一年に何人の人と巡り会うのでしょう。

例えば一日
5人の人と初めて会うとして世界の人口すべての人と会うには、約400万年ほどかかる計算になります。

実際に巡り合う人は限られた人数でしかないと思います。男女の比率が五分五分だとすれば半数の
369000万人が男であり女でありということになります。

国際結婚ということもありますから人はいつどこで巡り合わせがあるか未知数です。

そのなかで巡り合った二人が結婚すればこれは大変な縁だといわざるを得ません。

どんな人の人生もさまざまな縁の触れ合いです。

人間社会は人間と人間のふれあい、関わり合いという縁のなかでお互いが生かされるような仕組みになっているわけですね。

「人」と「間」が繋がって「人間」となるように、真に言い得て妙なる言葉だと感心します。

ただ、世の中善もあれば悪もあるように、縁にも喜ばしい縁もありますが、反対にあまり好ましくない縁というものもあります。

それでもその縁に対して素直な心で対処することができるならば一見悪縁と思われるようなことでも良縁に変わっていくものです。

そういう意味においてはどのような時も縁に流されてしまうのではなく、穏やかに冷静に相手を尊重して事に対処する心をもっていたいものですね。

「縁」というと何かしら特別なものと思われがちですが決してそうではなく、毎日の生活のすべてが縁だということを認識していただければと思います。

今食事をしていることも、誰かと話していることも、用事があって歩いていることも、目的地に向かって車に乗っていることも、職場で働いていることも、こうした生活一つ一つの全てが「縁」であり、その縁に対する向き合い方であり、それによる結果がうまれてくるということでしょう。

こうしてみますと、結果は必然だといえます。この結果が次の「縁」を生み出します。必然の縁に如何に対応するかによって結果が変わり、次の縁がまた巡り合わせてきます。

「縁」に対する選択と対処の繰り返しが新たな「縁」を呼びます。

縁に対してどう対処するのか、人の行動のすべては、自分が意識的にしても、あるいは無意識的にしても、「心」によるものであることは間違いありません。

ですから、どんな縁でもそれを好転させるかどうかはその人の心に掛かっていると思うのです。

ということは、人生を決めるのは縁ではなく、その縁をどう活かすかという「心」だということになりますね。

つまり「こころ」こそ「縁」の支配者ではないだろうか。

ですから日頃から心を育てることに対して意識を向けておくことも大切かと思います。

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「縁」 2017/4/01(日)

何かを判断して決めなければならない局面でなかなか決められない、自分では判断がつかないということがあります。

ただ、そういうことがいつでもそうだとなると少し考えなければならないと思います。

例えば「優柔不断で!」という問題や、その人の「性格的な特性」ということもあるでしょう。

高校を卒業して進学や就職する青年、大学を卒業して進学や就職する青年たちの場合、性格や特性という前に「選択」「決める」ということに慣れていないということもあるでしょう。

判断するだけの経験も少ないだろうし、決めるとなると深刻に悩んだりすることもあるでしょう。

そうして社会に出れば様々な経験をします。

この経験がその人の特性や価値観などによって「判断」、「決める」ということに影響してきます。

人によっては「縁」で選ぶ場合もあります。

「初任給」「待遇」「社員数」「福利厚生」といった、数字やデータで表すことのできる指標で頭がいっぱいになっているなかで選択する、決めるということもあります。

言うまでもなく、就職先を決めるときに、それらの数字やデータは大切です。

でも、そういう数値で表せるような「客観的な情報」というのは、最終的に何かを「選ぶ」ときには決め手にならないことが多々ある。

私も若い時に給料の高低で職を選んだ経験があります。

しかし、その仕事は長くは続けられませんでした。

人生を左右するような選択の際には、損得勘定だけではなく、「自分の夢・希望」そして「縁で選ぶ」という感覚を身につけることをお勧めしたい。

今だから言えるのでしょうが、本当に自分がやりたいことというのは月日年月経っても「心から湧き出る・消えない」ということを実感します。

それでは縁とは何か。

それはお金や物のように計量することができないもの。

且つ、非常に感覚的かつ個人的な尺度といえるかもしれません。

一年間働いて年収がいくらだとか、客観的に比較できるものではなく、自分自身が「なんとなくこっちがいいなあ」「これがやりたい」と感じる直観的なところから始まる、それが「縁」です。

物事が成されるときはいつも元なる原因があって、それに関わる働きがあって初めて一つの事が成されていきます。

例えば、マッチ棒に火が付くためには、擦るための成分が含まれたマッチ箱が必要です。

この二つが擦るという働きを縁として火が燃えるという結果がうまれます。

このような働きこそが関わりであり、社会の中の人間同士の「縁」でしょう。

自分だけの価値観ではなく、社会の関わりのなかでその「縁」を大切にしていく生き方がどれだけ自分の人生を好転させるだろうか。

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挑戦 2017/3/09 (木)

限りなく成長していく人と、何とか一定のところまではいくがそこから更に成長できないという人では何が違うのかということを考えてみることがあります。

分かることは、「どうしてこうなのだろう」「何かがまだ足りない」「他に方法があるはずだ」「まだ道があるはずだ」といった探究心や工夫の気持ちが常にあるかないかだけの違いだと思います。

こういった気持ちがあるかないかでは、同じように指導いただいていても成長の度合いが違ってきます。

しかし、それ以前にもっと大切なことは、頭でばかり考えていて行動しなければ進歩につながってこないということ。

不安だ、心配だ、失敗したらどうしよう、と後退する考えに頭がいっぱいになってしまっている人がいます。

そういうときは、チャレンジせずに失敗を恐れるよりも、自分が何もしないことを恐れること。と言いたい。

こうしてみると、何事もやはり自分の気持ちというか、モチベーションといいましょうか、取り組むときの心構えがいかに大切であるかというように思うのです。

話は変わりますが、山にいってみると大木が強風に耐えてたくましく生きている姿が目に入ってきます。

なぜあの大木は倒れないのか、枝葉よりも大きな根っこが支えているからです。

しかし根っこは見えません。

見えませんけど見える幹や枝の部分をしっかりと支えています。

人間も木と同じで、それを支えるのは見えない心だと思います。

体も人生も、それを支えるのは心からだと思うのです。

心ってすごいですね。

表に出なくてもしっかり役目を果たしているもの。

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努力は何かにつながる。 2017/2/24(金)

この世の中、自分が努力したという割には報われないと思うことがたくさんあるだろうと思います。

しかし、その時はすぐに結果が出なくても、長い人生の中で必ず「何か」につながります。

それは、自分の心が強くなれたり、

いつしか成長できたなと思えたり、

気づいたら周りの人たちから信頼されるようになったり、

新たな人生の展開があったりと様々です。

30代で会社員を退職して自営業を始め、そこそこ生活はできていましたが、どうしてもその当時の自営業に満足できず健康に関する医学書を独学でコツコツと学んでいました。

そうしているうちに整体という技術に関する専門知識を得たいという思いが湧き出して消えることなく
3年が経ち、決心して東京の整体スクールに入学して学ぶことにしたのです。

かなりの勇気と決心が要りました。

スクールでの勉強は基礎的なことがほとんどで実際に患者様にその技術で対応するとなると結果的にはあまり期待できない施術内容です。

実はスクールに入校するまえからあちこちの整骨院、整体、カイロプラクティック、鍼灸、マッサージなどで自分の体で治療してもらうことも学びだと思って渡り歩いていました。

私にとってはそれが何よりの生きた技術の習得になったと思っています。

先生方によって得手不得手もあります。

対応もさまざま。
そこには個性や人間性が見えてきます。

施術後の結果も千差万別。

そういったことの一つ一つが最高の教材でした。

技術を実践するために人の体を借りて無料で施術したものです。

これらの体験はすべて在学中のことです。

やがてお客様が「お金を払うからやってくれ!」というようになりました。

嬉しいと思いました。

気が付けば医療現場で治癒できないような症状も改善できるようになっていて患者様の数も相当な数になっていました。

コツコツと繰り返した努力は特別なものではなく、本当に地味な作業だったと思っています。

ただ、そういう中において「どうしたらこの部分の症状が改善できるのか」ということについては常に試行錯誤しながらも探求心をもって臨んでいました。

やってみなくては結果がでるのか出ないのかわかりません。

考えながら同じことを試してみる毎日、それで結果が出なければ別な視点から考えて別な技術で試してみる。

こういった姿勢が現在の私の技術や接客姿勢をつくりあげたのでしょう。

私の様な治療家としての職業は探求心がなかったら成長はなく、コツコツと弛まず、諦めず、努力を重ねる以外にない。

そこには必ず道が拓ける。

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幼子の愛 2017/2/10(金)
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ある家族の出来事。

6歳の娘がクリスマスの数日前から欲しいものを手紙に書いて窓際に置いておいたから、早速何が欲しいのかなぁと夫とキティちゃんの便箋を破らないようにして手紙を覗いてみたら、こう書いてあった。

「サンタさんへ おとうさんのガンがなおるくすりをください! おねがいします」

夫と顔を見合わせて苦笑いしたけれど、私だんだん悲しくなって少しメソメソしちゃったよ。

昨日の夜、娘が眠ったあと、夫は娘が好きなプリキュアのキャラクター人形と「ガンがなおるおくすり」と普通の粉薬の袋に書いたものを置いておいた。

朝、娘が起きるとプリキュアの人形もだけれど、それ以上に薬を喜んで「ギャーっ!」って嬉しい叫びを上げていた。

早速朝食を食べる夫の元にドタバタと行って「ねえ! サンタさんからお父さんのガンが治る薬貰ったの! 早く飲んでみて!」っていって、夫に薬を飲ませた。

夫が「お! 体の調子が、だんだんと良くなってきたみたいだ」と言うと娘が、「ああ! 良かった~。これでお父さんとまた、山にハイキングに行ったり、動物園に行ったり、運動会に参加したりできるね~」

……っていうと夫がだんだんと顔を悲しく歪めて、それから声を押し殺すようにして「ぐっ、ぐうっ」って泣き始めた。

私も貰い泣きしそうになったけれどなんとか泣かないように鍋の味噌汁をオタマで掬って無理やり飲み込んで態勢を整えた。

夫は娘には「薬の効き目で涙が出てるんだ」と言い訳をしてた。

その後、娘が近所の子に家にプリキュアの人形を持って遊びに行った後、夫が「来年はお前がサンタさんだな……。しっかり頼むぞ」と言ったので、つい私の涙腺が緩んで、わあわあ泣き続けた。

お椀の味噌汁に涙がいくつも混ざった。

その後、この親子はどうなったのか気になります。

ガンを克服して健康になっていてほしいですね。

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母の愛
 2017/2/7(火)
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さんは娘が産まれるまで夫の暴力に耐えて苦しんでいた。

そんな家庭環境のなかではあったが、産まれたばかりの娘を抱いて、
この上ない喜びで泣きに泣いたのでした。

娘が
1歳の誕生日のときに夫は借金を抱えて自殺で亡くなった。

幼い子を抱えて夫の残した借金を返すために死に物狂いで働いた。

昼はパートで夜は居酒屋での毎日、寝る間も惜しんで働いた。

保育園の遠足のとき、おやつは雑穀のおはぎ。

小学校の時は給食費を払えない月もたびたびあった。

修学旅行のときのおみやげはご当地のキーホルダー一個。

それでも嬉しくてしかたがなかった。

中学の時の制服は親戚のおさがり。

高校のときのお弁当はいつもご飯に梅干しと海苔だった。

娘が無理を承知で大学へ行きたいと頼んだ時、
お母さんは何も反論することなく理解をしてくれた。

お母さんはごみ処理場にいって廃棄処分の参考書をもらいうけてきたという。

お金がかかるから私立は受けることができない。

国立専願受験で頑張った。

娘はセンター試験の前日に生まれて初めてお寿司を食べさせてもらった。

結果、センター試験に失敗したけど、お母さんは諦めないようにと励ました。

相当なプレッシャーと前期に落ちて責任を感じたのだろう、娘は自殺をしかけた。

母は娘に謝り続けた。

娘もまた母に謝り続けた。

ごめんね。ごめんね・・・・。

そして娘は気持ちを切り替えて後、その後も頑張って勉強して、なんとか後期に合格することが出来た。

母は、「おめでとう。おめでとう。」と泣き続けた。

「ありがとう。ありがとう。」

母娘は抱き合って泣いた。

しかし、運命のいたずらにしては状況が悪すぎる。

入学の日に母は倒れて病院に運ばれた。

医者は、「癌が全身に転移していてこれから一週間が峠だと思います」といった。

娘はあまりのショックに只々泣き崩れるしかなかった。

母は言った。
「この身体の傷やガンの一つ一つがあなたを育て上げた立派な勲章なのよ」と微笑みながら言った。

この母の何と心優しくも強いことか。

真の強さとはこのような心をいうのだろう。

まことに潔いとしか言えない。

母は最後まで泣くことも、苦しむこともなく静かにこの世を去った。

娘は現在、医者になるために毎日毎日勉強に励んでいる。

「母の命を奪った癌患者のために手助けしたい」という熱い志が娘の心を掻き立てて支えている。

娘は心から思った。
『私が生まれ育った環境は決して恵まれたものではなかったけれど、あなたの娘として生まれ、育てられて本当によかった』と。

ありがとうお母さん。ありがとう。

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いつの世も愛を言葉にし、語るのだが、語れば語るほど愛が希薄に思えてならない。

人の心は渇いていることが多いもの。

要求する愛もあろうが、与える愛ほど崇高な光はない。

愛即ち行

行即ち光り


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あまりにも多い「医者から薬をもらう習慣」
2017/2/1(木)

夜間外来に連れて行った幼い子供の診断をした先生が「大丈夫、39度に熱があがったらまた連れてきてください」とお母さんにいって何のお薬も出さずにそのまま返したといいます。

いまの常識では風邪薬を出す、抗生物質をだすということが当たり前のようになっています。

しかしほんとうに必要なお薬なのだろうか?

ある医師は、子供が風邪で熱を出したからといって連れてきたお母さんに「こういうふうにして体を冷やしてあげなさい。三日たって熱が下がらなかったらまた連れてきなさい」といって解熱材も出さずに返したといいます。

実際はこういう医師は非常に少ない。

日本の医療では保険証一枚あれば全国どこに行っても個人病院から大学病院まで自由に医療が受けられ、薬も有り余るほどもらえるようなフリーアクセス制度になっています。

欧米では先ず家庭医がいます。

日本でいうところの統合医療の教育を受けた医師のことです。

内科、外科、小児科、出産にも応じられるようにトレーニングを積んだ家庭医に最初に診てもらって、そのうえで必要があれば専門医のところに紹介されるという仕組みになっているようです。

オランダなどでは、家庭医と専門医の区分けがはっきりしていて薬も極力使用しない方針になっているといいます。

日本の医療現場はまったく逆の対応です。

たとえば抗生物質をみてもそうですが、風邪のウイルスにはほとんど無意味なことなのに処方されています。

抗生物質は手術の直前に使用するだけで用が足りるのに、術後にも感染予防という名目で何日も点滴で使われ続けています。

このように過剰な薬の投与、処方箋があたりまえのごとく使われているのが日本の医療だということを知っておいてもいいのではないでしょうか。

私の院においでになる患者さんのなかにも薬を6種類から9種類も毎日服用している人たちがいます。

明らかに不必要な薬と思われるのにです。

随分と薬を減薬させましたし、断薬もさせてきました。

結果はとなると以前にも増してすこぶる健康体になっていくのはいうまでもありません。

断薬によって命拾いした人もいます。

減薬、断薬を勧めるだけではなく、薬の弊害も具体的に説明して理解を深めていただくようにしています。

しかし、薬をもらわないと納得しない患者さんがいるのも大きな問題だと考えています。

これは長年の医療の在り方によって患者さんが医師の指導を受けてきた影響が大きいところは否定できません。

なぜなら、今の医療でも多量投与、多種投与が常態化しているからです。

「この薬を飲まないと治らないよ」といって処方されたお薬の種類が、眠剤と抗不安薬、抗うつ剤が二種類、頓服の安定剤の5種類です。

カウンセリンによって気づいたことですが、明らかに副作用によって自分の意識がハッキリせず、混濁した状態でモウロウとしているのがわかります。

治るどころか、食欲がなく顔色が悪く、、気力が萎えて、昼夜が逆転し、人にも会えなくなり、幻覚を見るようになり、どんどん廃人に近づいていきます。

こういう患者さんをたくさんみてきました。

薬の服用は少ないにこしたことはありませんね。

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先ずは一歩 2017/1/25(水)

目の前の問題をどうしようかと迷ったとき、冷静に考えることはもちろん一番大事なことです。

ただ、十分に考えたら先ずは行動してみる事。

頭でっかちになって理屈ばかりいっていても事態は進展しません。

行動するということが知恵を働かせてくれます。

その知恵は行動する前の考えとは異なるもので、行動したから心が動いた創意工夫によるものです。

あーでもない、こうーでもないと頭や口だけ動かしても目の前の問題解決になろうはずがありませんし、知恵がうまれてくるはずがない。

迷っている時に人から言われた何気ない一言で背中を押してもらい、気持ちの切り替えができて前に進むことができるときがあります。

言葉というものは、人間の心を動かす力があります。

その力は人の心の力を削ぐこともあります。

励まされるのも言葉。

気力を削がれるのも言葉。

あとは自分の心の持ち方の問題だけ。

具体的に行動してみると具体的な結果がついてきます。

恐れることはない。

答えは行動したそこにあります。

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夫婦の姿 2017/1/17(水)

例え経済的に恵まれていても、マイホームのある若い夫婦であっても、お互いが疑問や不信感をもって生活していたら幸せなはずはない。

ほんとうに些細な事が大きな誤解を招いたり、不信感まで発展したりすることもあります。

お互いの真意が伝わっていないのでしょうか、かけ違いのボタンのようにちょっとズレているだけ部分を掛けなおせば楽にスマートに着られる洋服みたいなことがあります。

相手に対して望むことは実は相手も望んでいることだったということを感じたことはないだろうか。

分かっているはずなのに相手の気持ちを受けとめてやるより先に、自分の思いを押し通してしまう。

これでは長い人生を共に暮らすことに疲れてしまいかねない。

相手の至らないところや失態を責めてしまうケースはよくあるのだが、自分の我を通していることに気づけないまま「愛しているから」といって自分を正当化してしまう。

こういう姿は真の夫婦愛とは言いがたい。

本当の愛を求めるなら、まずは自分自身が本当の愛をもって接することが先だと思うのです。

本当の愛とはとなると、相手に自分を偽らずに語り接すること。

不必要な遠慮をしたり、自分を取り繕うこともしてはならない。

ありのままの自分を受け入れてもらうことが大事ですから、不安感や不要な恐怖感は抱えないことです。

お互いの良いところばかりを探すというのも無理があります。

そういう意味では相手の短所もよく理解して目を背けずに語り合う姿勢こそが真実の愛を育むのだと思うのです。

誰もそうですが、いつも自分が正しいわけじゃなく、妻のいうことだけ、夫のいうことだけが正しいということはありません。

完璧な人なんていません。

至らない点や足りない部分は補い合って、ともに同じ方向を見て歩み、学び、成長していくことが大切ではないだろうか。

夫婦が二人で目的に向かって生きることで信頼関係が生まれてきます。

己の欲せざる所は人に施す勿れ
(孔子・中国の思想家)
己の欲せざる所は人に施す勿れとは、自分がして欲しくないと思うことは、他人にとっても同じなのだから、他人にすべきではないということ。

己の欲するところを人に施せ(新約聖書)
自分がして欲しいことは他人にもしてあげなさい。

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一年の計は元旦にあり 2017/1/5
(木)
の故事を知っている人は多いと思います。

あえて説明するまでもないでしょうが、物事を始めるにあたっては、最初にきちんとした計画を立てるのが大切だということを意味した言葉だと思います。

私は観身堂という院名で整体の仕事を
始めて今年は26年目に入りました。

社会をみますと必ずしも明るいニュースだけではなく、暗いニュースや経済事情も不安定なニュースが多々あります。

そういったなかにあってもお陰様で今日までたくさんの来院者からご支持をいただき、ここまでやってくることができました。

これはひとえに皆様のご厚情によるものと心から感謝して励む決意を新たにするものです。

本年もどうぞよろしくご指導、ご鞭撻のほどお願い申し上げます。

さて、私は年もだいぶ重ねてはおりますが未だに夢があります。
そして希望をもっています。
そんなわけで、年頭にあたって「目標・目的」とは何かと考えてみました。

目標、目的
よく聞く言葉ですが、目標というのは、目的を達成するための当面の段階、つまりステップのように思います。

そういう意味では目標は目的を成し遂げるための一つの道筋といえるかもしれません。

目的があるから当面の目標が存在すると思うのです。

そうすると、目標の先にあるのが目的といえないだろうか?

人生を幸せにとか、豊かに、というように目的が概念的、抽象的なものであっても、その目的をある程度達成するためには、当面の具体的な目標がなくてはなりません。

例えば、どういう方法で、いつまでにここまでクリア達成するかというようにです。

目的というものは抽象的な要素があるものですが大きなテーマを含んでいるものです。

ですから目的を課題にするとその分クリアすべき目標も増え、目的を叶えるための消化作業がいくつも必要となってきます。


もう少し目的と目標について述べてみましょう。

例えば、陸上のハードル競技選手の場合。

目的はオリンピックで金メダルの獲得で世界一になることだとしましょう。

そのためには、競技中に目の前のハードルを、速さと一定の高さを超えてクリアするという目標があります。

この目標を超えずして世界一の座は達成できません。

このように目的はまだ見えませんが、目標はしっかりと見えているわけです。

一つ一つのハードルを越えた時に自分の目的に向かった道筋が間違っていないことが認識できるわけですね。

目的に到達するまでには、みな一様ではなく、個人差があります。

それぞれに能力の差があります。

そして得手不得手があります。

その個人差によってクリアしなければならい課題の大きさや数が違います。

大切なことは、ウサギと亀ではないが、怠ることなく、ゆっくりと、しっかりと歩を進めること。

目標は最終のものにして、目標はたくさんの手段でもあり、方法だと思います。

目標を達成するための手段や方法がいくつもあるとするならば、これをやってみたけどどうしてもこれでは先に進めないとなったら別な方法、手段を選ぶことがあっていいでしょう。

一つの方法を試してみて結果的に成果が無くても目的を諦めたわけではないということですね。

自分がクリアできる目標を立てて消化していき目的に近づくことが大事なところですね。

千里の道も一歩からといいますが、そうは言っても、人間は弱いもの、一人だとくじけることだってあります。

何事もそうですが、途中にいるから中ぶらりんなのであって、一度、失敗して底まで落ちて地にしっかりと足が着けば今度こそ本当に覚悟も決まるし、心から落ち着くものです。

だから落ちてみるのも悪くはありません。

落ちることで見えてくるものがありますから。

失敗は必要な過程です。

失敗の数だけ成功に近づきます。

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『山川草木悉有仏性』

2016/12/28(水)
私の居住地は岩手山麓で比較的標高の高いところにあり、平地に比べると天候も変化しやすい。

自然界には常に風が吹いていて無風ということはありません。

人生にもまた風が渦巻いています。

利益が出たとき、損をしたとき、人前で褒められたとき、けなされたとき、厳しい環境におかれたとき、恥をかいたとき、有頂天になったとき、思わぬ失敗をしたとき。

こういった様々な苦や楽があったときなど、まさに追い風もあれば、向かい風もあるでしょう。

今時期の空気は冷たく澄んでいます。

晴れた時の夜空をみれば、満天の星と光々と輝く月があります。

人生どのような風が吹こうとも天に輝く月のように、清々と生きたいもの。

自分を見失いそうになったときは、天の月の視点から覚めた目で眺めれば、自分自身が冷静さを見失いかけていることに気づかされ、改めてその出来事を冷静に受け止められます。

自然界によって心洗われることのなんと多いことか。

常緑樹を除いてはすべて葉が落ちてしまったこの時期、裸になった木々の姿は一抹の寂しさを感じます。

しかし、それでもよくよく枝を見ますと来年の芽が少しずつ膨らんでいってるのが確認できる。

ゆっくりと寒さに耐えながら来春を待っている姿にも教わることがあります。

こうして自然界の営みと人生を重ねてみれば幾多の試練にも耐えられよう。

感謝

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「且緩々・しゃかんかん」2016/12/19(月)

だいぶ昔のお話しです。
とあるお寺で修行していたお坊さんが少しでも早く悟りたくて、お師匠様に次々と矢継ぎ早に質問をするのでした。

お師匠様はまずは一言、「且緩々・しゃかんかん」と弟子をたしなめたといいます。

且は、且つ、というような使い方もしますが、「ひとまず・とりあえず」というような意味があります。

緩は、「ゆるめる・ゆるやかに」という意味があります。

そうすると
「且緩々」は「落ち着きなさい。

慌てず、焦らず、ゆっくりと」こんな意味が込められた言葉だと理解できます。

私たちも日々、少しでも早く良い結果をだそう、出したい、物事を早く片付けてしまおうと、焦る必要もないのについ気持ちが先走って空回りしてしまうことがありますよね。

慌てている自分に気がついたら、自分を見失っている自分に気づいたら「且緩々」と心の中で呟いてみてください。

物事につまずいたり、さほど難しくないことなのに失敗をしてみたりということは誰もが経験していることでしょう。

ゆっくりと、冷静に向き合った方が着実にということが多いことに気づかされます。

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「和光同塵・わこうどうじん」2016/12/9(金)
「其の光を和(やわら)げて 其の塵(じん)に同ず」という詩があります。

光を和らげての光とは自分には実力が備わっていてもそれを表に出さずに「塵に」つまり周りの人々と「同ず」調和する。

という意味を含んだ老子の言葉だと思います。

人間のできた人、懐の深い人、寛大な心をもった人というのは自分を必要以上に誇張するような言動はしないものですし、逆に人の言うことをしっかりと受け止めてくださいます。

そのうえで意見を言い、手を貸し、人を生かそうとする気概に溢れている。

「同ず」すなわち和していけるわけです。

こういうことと似たような教えが仏教にもあります。


「菩薩がその威光を和らげて、塵にまみれた俗世に仮の姿を現して人々を苦から救う」
というお話し。

『観音経」のなかにある観音菩薩がその代表的なところでしょうか。

塵にまみれたとは、煩悩に苦しむ衆生(人々)のことで、その人々のなかに和して済度(助ける)、すなわち慈悲心で心を救済していくというお姿こそがまさに菩薩行という言葉で表現されるのでしょう。

よく仏閣や寺院を巡りますと観音像の前で手を合わせて頭を垂れている人の姿を目にすることがあります。

実は、観音像そのものは木造ですからそこには心はありません。

ただ、そのお像の姿を通じて観音菩薩のお心というものに触れるという所作のなかに仏心が存在するわけです。

つまり、木造に手を合わせているご自身の心にこそ観音様と同じ仏心があるのですよということ。

観音さまからすれば、私の姿を排してくださっているあなたの御心こそが仏心なのですよ。

と観音さまは微笑んでくださっています。

このように観ることはできないだろうか。

観音菩薩とは、心が慈愛に満ちていて世俗的な価値観に囚われない心の境地まで成長した方のことを表現する言葉です。

菩薩界の人びとは、文字通り慈悲の心、愛の行為が先に立ちます。

常に天の心を尺度として、愛行に一身を投げ出す人をいいます。

人びとの喜怒哀楽に心を動かすことなくひたすら、愛と人びとを生かすことに人生の目的を求める姿はそう簡単にはマネのできることではありません。

しかし見習いたいものですね。

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sen
2016/12/5 (月)

虚を致すこと極まり、静を守ること篤し
これは老子のことばですが、『虚を致すこと極まり』とは、徹底して心を空にして、というふうに解釈しました。

そして『静を守ること篤し』とは、深い静けさをしっかりと守る、というふうに解釈できます。

雑念を追い払い、静寂を保っている“からっぽ”の心。

そこに見えてくるものは…、ズバリ、「真理だ」と老子は説いているのではないでしょうか。

私がもっている講座のなかで「心を空っぽにしたら自分ではなくなるじゃないですか。」と質問した人がいました。

なるほどそういう考えもあるかもしれません。

しかし、人間は本来、心を空っぽにしろといわれたからといってそう簡単に空っぽにできるものではありませんね。

ここでいゔ空っぽの心゙というのは、自分の個性や人間性を無くすることではありません。

余計な分別をもたずに物事をありのままに観るということを教えています。

物事や現象を正しく判断するには不必要な価値観や偏見や拘りをもたずに「ありのままに観る」ということが欠かせません。

先の質問者のように、心を空っぽにすることは、決して自分を無くするのではなく、逆に自分を生かすことになるわけです。

何故なら、心に執着や自分だけの価値観、偏った欲、エゴという非常に不確実な思いがないと、冷静でかつ正しい状況判断ができるからです。

心を空っぽにすることなどできませんが、できるだけ平静な心で対処したいものですね。

これが表題の「虚を致すこと極まり」です。

仏教的には煩悩とも言えるでしょう。

「無心」という言葉もありますが、これも心を無くすることではなく、自分を否定することでもありません。

ありもままに対処するには、ありのままの心で向き合う姿勢が問われます。

ここでもあれこれと損得勘定が働いたり、自分の立場を優位にというような分別が働くと「無心」とかけ離れてしまいます。

人間は知恵ある動物であるからこそ霊長類の頂点に位置するのでしょうが、しかし、その人間が、執着、偏見、自己中心、傲慢、驕り、身勝手というエゴに支配されたときに弱い立場の者をいじめたり殺したりと動物以下の行動をするのも人間です。

感情的にならずに最低限の理性を見失わずに生きたいものですね。
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心を亡くする 2016/11/25(金)
心静かに坐っていると、聴こえてくるのは紅葉を終えた木々の枝を通り過ぎる風の音。

日々何かと心が忙しい私たちはそんな音に気づいても心を向けることなど滅多にありません。

また茶の湯では、釜の湯が煮えたつ時の音を「松風」と呼ぶそうですが、今、この一瞬を大切にするという、禅の教えが込められています。

「忙しい」とは「心を亡くす」と書きますが、日々急ぎすぎ、忙しすぎて、たくさんの大切なことを見落とすことはないでしょうか?

仕事をすること、物事の処理、そして何事についても少しでも早く結果を出さそうと焦る日々。

それほど焦る必要もないのについ気持ちばかりが先走って空回りしてしまうことがあります。

慌てふためく自分に気がついたら「慌てない・慌てない」と心の中で呟いてみると落ち着いてくるから不思議です。

きょうは自分自身が慌てずに、焦らずに、心静かに歩める自分でありたいとの願いをもって述べてみました。

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「人生の岐路  2016/11/18(金)

「さてどっちにしようか?」
このように二者択一の選択を迫られた経験はないだろうか。

若い人の場合は進学や就職、そして結婚というものがあります。

仕事上の判断有り、人間関係の判断有り、病気をして入院や手術することもあるでしょうし、死に直面する場合もあるかもしれません。

そんな人生の岐路に立った時、考え抜いた結果として一歩前に踏みだすために「覚悟を決める」という方法があります。

ところがこの「覚悟を決める」ということ自体がその局面にたったとき、様々な感情に押し潰されそうになって簡単には決断できない。

難しい状況にたったときほど即決しがたいものだということでしょうか。

人に相談したとしても参考にはできるが最終決断は「自分自身と向き合う覚悟」で成されるようになっています。

他人や身内、友人に頼ることができない極限状態ということもあります。

ということになるとやはり、最後は勇気をもって決断するしかない。

自分自身と自分の大切なもののために。

ただ、先を考えすぎて決心する前に見通しをつけようとしたり、結果を望む気持ちが優先してしまうと「覚悟」はできなくなります。

先ずは、小さな勇気こそが後の人生を明るいものにできる唯一の意思決定となる。

何事もそうですが覚悟に勝る決断はありません。

勇気というのは、あえてリスクをおかす意思決定であり、苦しみや、ときにはや失望をも受け入れる覚悟でしょう。

こうしてみると勇気と決断は前後左右の両輪のような関係にあって作用していることがわかります。

勇気と決断。
あとは天に任せるというやはり覚悟です。

今の時代は長寿国なって
8090歳で健康な人たちも珍しくはない。

一億総勢、健康志向が強く『生きながらえる』ことを考える人は大勢いても、『命を使い切る』ことを念頭に置いて人生を生き貫く人は多くはないように思われます。

私は仕事でたくさんの人たちとお話しをさせていただく機会が多いのですが、それぞれの人生模様をみるにつけ考えさせられます。

人生を全うするということは生に執着するよりも、いかに生きるかではないかと。

ここでもまた「覚悟」
が問われてきますね。

如何に生きるかは、そのまま、如何に死ぬるかにつながっています。
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春夏秋冬にみる真実 2016/11/7(月)

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月はいって数日、朝夕がめっきりと肌寒くなり霜が降りるようになりました。

上着も少し厚めのものを着るようになってきました。

こうして季節の流れに目を向けますと、一年という歳月の流れがとても早く感じられます。

春夏秋冬の四季は私たち日本の風土を育み。心の情操にも強く影響を与えてきます。

この自然界はどれほどの恵みを与えている計り知れません。

太陽は人類誕生以前から今日まで何の見返りも求めずに地上に光とエネルギーを与え、国境や人種差別もなく、そして分け隔てなく照らしてくれています。

人類誕生以降、歴史は繰り返すと言いますが、個人の争いがありそして国同士の戦争があり、人類にはいつも戦いの場があります。

人の一生は良くも悪くもいつも新たな経験に彩られ、様々な人生を描いてゆくのが定めのようです。

楽な時よりも苦しい時の方が長いかもしれない人生。

しかし、それでも新しい経験を重ねるほど私たちの心は豊かになり、以前にも増して、より広い寛容な心が開いていくものでしょう。

迷ったり悩んだり、試行錯誤しながらの人生は私たちにとって多くの気づきを与えてくれますが、人によっては迷妄と執着をつくり、返って心を小さくさせ、人生の意義と目的を見失わせることもある。

否、そうした人生も多いかもしれません。

苦しさに耐えきれず心病む人もいるでしょうし、恵まれた環境に気づけずに不満や愚痴をいって日々心不調和な暮らしをする人もいます。

差もない目先のことにとらわれて大きな流れをみることができないのもまた人間であろうか。

この世的な視点でものごとを捉え行い、それに執着しやすいという側面もあります。

つまり物や金や名誉や地位、そして知識や資格を鼻にかけて生きる愚かさもあります。

言い換えれば、目に見えるものや出来事には価値観をもてるが、かたちに表れてこないことに関しては価値観を見いだせず、否定的であるということもあるでしょう。

執着から離れるには調和された心を常に忘れぬ生き方をすることで事態の悪化や難を最小限度にとどめることが可能となるものです。

目に見えないことを大切にするというのは、心を大切にするという意味ですが、これを非現実的ととらえるのではなく、常に自分自身の考え方価値観、そして言動を客観的な視点で見ることも大切ですね。

私たちは大自然のなかでこそ生かされているのであり、その大自然の秩序はそのまま人類調和の為の支柱であることを忘れてはならないでしょう。

春夏秋冬に見ることができる季節感にも人間の心が育てられていると実感できるはずです。

そうなると人間の精神も肉体も、大宇宙のはからいによって創造され生かされていることは明らかです。

このことを深く心に落とすならば、この宇宙の恩恵に私たちがどう報いるか、生きるか、思考するか、そして行うかによって、真の人間の在り方があるのではないだろうか。

正しい生き方、正しい心の在り方は一つの法則として、春夏秋冬にみられるような真実と大地のうえに立つものでなければならないでしょう。

大自然界にみられる法則と秩序、人は決してこの法則から離れて生きるわけにはいかない。

自然界の法則はそのまま人間の調和された心の在り方として存在しているものであって、この法則から離れたときに怒りが生まれ、世界が争う戦争にまで発展してしまう。

真実というものは素朴で平凡な事実の上にこそあるものだと私は何度も実感しました。

そして真実というものは、知識や理論のなかにあるのではないということも実感しました。

自然界には私心のない正しい教えがあり、それこそが私たちの心に気づきの機会を与えてくださいます。

私たちは大自然の秩序、宇宙の法則に沿った生き方を心の支柱として生活していかなければなりません。

願わくば、絶望や失意、委縮、悲しみ、怒りに心を向けるのではなく、明るいものに目を向けて生きたい。

明るいものとは、発奮であり、忍耐であり、挑戦であり、勇気や少しの努力です。

心に光を灯すということは特別な事ではなく、前を向く小さな勇気です。

そして窮地に立ったときでも「もう駄目だ」ではなく、「まだ駄目だ」という気持ちを持つことであり、前を向く心の勇気だと思うのです。

辛くて涙が出そうなときは空を見上げるといいい。

空の深さと広さは疲れた心にひとときの安らぎと慰めを届けてくれます。

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人生を楽しく生きる 2016/10/26(水)

実は、人生をつまらないと感じていたことが過去(少年期)の私にありました。

何のために生まれてきたのか?

何のために生きていくのか?

この世に生まれてきたことが恨めしく思えていたこともありました。

しかし少年期の私には何の答えも出せようはずがありません。。

勉強しなければならないことにも意味を見いだせずにいたのです。

ただ、働いて自分の力で生きたいという思いだけは強くあったことを記憶しています。

学校で教わることは勉強に関してのことであって、生きるための術を学ぶことはできませんね。

やがて社会に出て私が気づいたことは、たった一度しかないこの今の人生を楽しく送るのもつまらなく送るのも、すべては自分に委ねられているということ。

そうなると自分の生き方次第で、楽しくもなるし、つまらなくもなるわけです。

ですが、人生の意味も深くは分からぬままに、ただただ生活するために一生懸命に働いていたように思います。

30代に入ってから人生のあり方を深く探求するようになりました。

何のために生きるのか、どのように生きるのがいいのか。

何故生きなければならないのか。

同じ生きるなら楽しく生きる方がいいに決まっている。

35歳の時に禅宗の僧房に朝の五時から通って座禅三昧になった時期が三年間。

随分と価値観が変わったものでした。

物や金に執着する気持ちが薄らぎ、どう生きたら人生を楽しめるのか、心が楽に生きられるのかと探求しました。

まずは自分がやりたいことを明確にする。

つまり目標を定めるということ。

社会に目を向けてみますと人生を楽しく生きている人たちは、一生のうちに必ずやりたいことを明確にしています。

 人生をつまらないと感じている人はこういう目標を立てることがないようです。

人の人生を見て「いいなあ~羨ましいなあ」と憧れることはあっても「自分には無理」といって諦めている場合が多いように思います。

社会に出たばかりの私にもそういう時期がありました。

そういう時期を乗り越えたのは「小さな目標設定」でした。

大きな目標を達成できなくても小さな目標なら何とかクリアできるものです。

少しだけ頑張ってみることはとても大切なことです。

たとえ小さな目標でもそれを達成できた時の喜びは大きなものです。

そしてまた小さな目標をたててそれをクリアする。

こういうことを何度となく繰り返していると自然に徐々に少しずつ大きめの目標をクリアできるようになってきます。

改めて人生を楽しくなんて考えなくても、こういう小さな成功体験を積み重ねることで、人生を楽しくすることができるようになるから不思議ですね。

どんなことでもいいから自分の目標を立ててみてはどうでしょうか。

何事もやる前から諦めてしまっては行動できようはずがありません。

人生を楽しめる人は。

挫折を乗り越える勇気を忘れていない人。

過ぎたことに心を縛られない人。

まだ起きてもいない先のことを心配して不安感に翻弄されるようなことをしない人。

いま為すべきことに専念できる人。

こういう考え方、対処の仕方ができる人ですね。

人間は時々、悲しみ、苦しみ、

悩みに耐えられないこともある。

とても絶望的な気持ちになるときもある。

それでもわたしは、

生きることは素晴らしいことだと知っています。


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sen

眠れない夜 2016/10/15(土)

人は眠れない夜を過ごすことがある。

少し意味合いは異なりますが、小学生の頃に明日が遠足だということで楽しみから気がはやって寝付けなかった経験があります。

私は幸いにして不眠で困るということはありませんが、年を重ねるにつれて眠りが浅くて心配だ、不安だといってくる人がいます。

運動量が減ってくると睡眠が浅くることはよくありますが、これはごく自然の生理現象であり、体の仕組みであります。

様々な悩みや心配事が増えて寝付けなくなるという話しもよく聞きます。

悶々として寝返りを繰り返しながら夜が更けていく経験を何度となくされた人もいるでしょう。

眠れない、睡眠が浅い、不安だ、心配だ、こういう状態がつづくと体のリズムが徐々に狂い始めてきます。

実際は先のことをあれこれ思い煩っても状況が一変するわけでもありません。

このことをしっかりと認識することが大切です。

考えることは大切なことですが、しかしそれも程度が過ぎると執着になるし、拘りになります。

この拘り、執着が人間の精神を狂わせ、強いては体調のリズムまでも狂わせていきます。

解っているかと思いますが、精神状態がアンバランスになると身体のリズムまでアンバランスになってきます。

五体、内臓を支配しているのは運動神経であり自律神経であります。

その自律神経、運動神経を支配しているのは脳という指令塔なのですが、更にその脳を支配する存在がという司令塔です。

したがって、心の在り方いかんによって体調が良くもなり悪くもなるということがご理解いただけるかと思います。

そういう意味では何事も覚悟をもって臨むということ、事の判断を決めたらあとは時と運命に身をゆだねるほかない。

何かしらうまくいかなくてもその時にまた考えればいい。

先のことをいま心配して不安になったり怖がったりしてもどうしようもありません。

思いを定めて任せるという気持ちが大切ですね。

人間生きている限り、悩みや心配事が尽きるということはありません。

誰でもそのことに囚われ、心を惑わせがちですが、自分からそのルツボにはまっていかないようにしたいものです。

きょうはきょう。明日は明日。

よくよく考えてみれば、こうして暖かい布団のなかで眠れることだけで十分幸せなことです。

年を重ねて、ものの分別、考え方がしっかりしていれば生き方も穏やかであろうはずですが、逆に些細な事にうろたえてくよくよと不安に苛まれ、自ら体調不良になっている人もいるのです。

そうならないように私自身も柔軟な心で、素直に生きていたい。

体の使い方、運動の大切さ、日々の心の在り方を忘れずに暮らしていきたいものです。

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sen
あの世のお姿
先日、私の10年来のソウルメイトが他界し、その二日後の七日夕方からお通夜に列席させてもらった。

棺に納められた彼女のお顔は生前のお顔より痩せ細ってはいましたがとても穏やかで柔和な表情でした。

参列した方々のなかには目を赤くしてハンカチを口元にしている人たちがいます。

僧侶の読経による供養が始まって間もなく、祭壇の左側、つまり肉体の自分が納められている棺の足元に亡くなった彼女が立ってい列席者に頭を下げている。

にこやかに、すっきりとした表情で緩和ケア病棟に入院していたときの辛そうな表情はどこにもない。

心のきれいな人は肉体から離れて次元の異なる世界にはいるとこうまできれいなお顔になるのかと感心してしまった。

それはまぎれもなく魂の美しさであり、心が調和されている証であるということでしょう。

執着のない心、拘りのない心、人にも家族にも優しく慈愛をもって接していた人間の魂は本当にお顔に現れてきれいなものだということを実感した。

反対に自我が強く、他人の嫌がることもお構いなしに自分の思い通りに行動するような人があの世のいくと表情は険しく、怨みや悲しみ、そして憎しみの心が見にくい形相となってしまい災いさえもたらすこともある。

僧侶の御勤めが終わってまもなく解散になったのだが、やはり別れという気持ちから一抹の寂しさを感じずにはいられなかった。

Sさん。また来世でね」そういって棺の肉体に挨拶をして帰路に就いた。

あたりはすっかり暗くなって秋の涼しい風が顔をなで、すすきの穂をゆらしていた。

さて、人間の容姿はあくまでもこの世では肉体の話であって、お顔が美人だからハンサム、イケメンだから心がきれいだということではないですね。

一方、人間の心というものは肉体をもったこの世では通常ならば見ることができません。

ですが、肉体生命が終わって次元の異なる世界に移動した時点で私たちの心のままの姿になるようにできています。

それは四次元以降の世界では肉体がないからこそ心の実相が霊体の姿となって表れるというわけです。

つまり自分の心の実相を隠せる物(肉体)がないということがあの世の姿だということですね。

それだけに日頃から心を調えるような訓練といいましょうか、学びといいましょうか。

心がけということが大切かと思います。

自分の意のままに生きるのはいいのですが、自分の我というものに気づかずに生きているようでは決して身も心もきれいなお姿になることはありません。

あの世では尚更のことです。

sen

友の死 2016/10/5(水)

互いに深い精神的な繋がりといいますか、縁を感じる大切な人のことを「ソウルメイト」ともいいます。

本日
2016105日の夕方、胸騒ぎの直後にKSさんのご主人から電話をいただいた。

「これまでお世話になった人に丁重にお礼を言っておいてくださいとの妻の言葉でしたので連絡させていただきました」とのことだった。

礼儀正しく心配りの生き届いた方です。

私にとってソウルメイトでもある
KSさんは55歳の若さで逝去されました。

進行性の高い乳がんを発症し手術を受け、抗がん剤を投与していましたが再発と治療を繰り返しながら状況は徐々に深刻になっていったのでした。

二カ月ほど前に緩和ケア病棟に入院して静かに残された命を精一杯いきているところに連絡が取れ、友人と二人で訪問をさせていただいた。

とても静かな一人部屋で私たち三人の時間が過ぎていく。

お互いに表面を取り繕った言葉など必要ない。

ふり絞ってかけた言葉が
Sちゃん。また来世でも一緒に勉強しようね」でした。

彼女は「先生。またぜひお願いします。一緒に勉強させてください」といった。

心の勉強をした人間だからこそこのような言葉を交わせるのだろう。

三人とも気持ちは同じだった。

お互いが目にいっぱい涙をためて手を握り合い、声を殺していた。

彼女の胸の内を思うと心が痛んだ。

しかし、私は感謝の気持ちがあった。

こういう心根の穏やかで優しい人間との巡りあわせに。

そして私自身も彼女の生きざまに学ばせてもらったことに。

右腕は太ももぐらいに腫れあがり痛々しく、皮膚はただれてジクジクとして痛むという。

体はやせ細り元気なころの面影とはかけ離れた姿だったが、しかし彼女の目はそれとは別に優しく穏やかで澄んでいた。

元気なころの目とは違う目です。

覚悟が決まっていると私は感じた。

すべてを精一杯やりつくした満足と納得がなければこういう顔ができようはずがないと心から思えた瞬間でした。

彼女はヨガの講師をしながらもエステサロンをやり、整体技術を取り入れたいと友人と二人で私の院に整体を勉強しに
3カ月ほど通ってきたことがあった。

なかなかセンスの良さがあったし、彼女の持つ優しい精神性が施術のなかにも表れていたものだった。

かけがえのない「ソウルメイト」と言える存在であった。

愛別離苦という言葉があります。

親愛なる人、大切な人、かけがえのない人と別れ離れることの苦しみを表現した言葉です。

「愛別離苦」ということについて釈尊は、生ある者は必ず死すること、どんなに愛すべきかけがえのない者であっても死などでの別れは避けられないことを教えておられます。

諸行は無常であること、諸法は無我であることへの気づきのきっかけをお与えになられた言葉でもあります。

KSさんご夫婦はとても仲のいいご夫婦でした。

ご家族が協力し合う姿も存じております。

覚悟ができているとはいっても別れは辛いものです。

まして家族のつらさはどれほどのものかと察するに余りあります。

私の友人であり、ソウルメイトである
KSさんのご冥福を心からお祈り申し上げます。
同時にご家族の心安らかなることをお祈りいたします。

KSさん。
肉体をもって生きるがゆえに辛いのであって、肉体から離れた今なら痛みの苦痛から解放されて楽なはずです。

覚悟のできたあなたであればこそまっすぐに光り輝く天上界まで昇天していくことでしょう。

Sさん。ありがとう。

また会える日まで。

合掌。
観童


sen

心の成長 2016/09/19(月)

自分が成長するために
心が成長するというのはどういうことでしょうか。

例えば「心の広い方だ!」「器の大きい人だ!」というような表現をきくことがあります。

社会生活のなかで一番難しいのは人間関係だと思うのですが、その人間関係のなかで意見が合わないとき、あるいは些細なことで行き違いがあって問題が発生したとき、理不尽な出来事があったとき、その他さまざまな問題が発生したときにそのことに対してどう対処するのか。

こういうときこそその人の心の広さや、器の大きさがあるのかどうかが試されるタイミングだろうと思います。

難しい人間関係のなかでいつもトラブルが発生しやすい人、そういう場面に出くわす人、または自らがそういう問題を引き起こしやすい人、だけども原因を他人のせいだと思っていて自分は正しい、間違っていないと思っている人。

こういう考えや思いの人の場合は心の成長がかなり難しいものになってきます。

何故なら、自分の思いや行動を省みるということをしないし、改めようともしないからです。

人の迷惑を考えることもできず、考えようともしない、まして自分が迷惑をかけていることなど気づけもしない。

これは他人どうしの関係に限らず夫婦関係においても同じです。
こういう状態では「心の成長」なんて進みようがありません。

反対に年を重ねるごとに尊敬できるような人間になっていく人というのは、いつも自分を省みる習慣を忘れていませんし、何よりも生涯学びだというスタンスをもって生きているものです。

年月は「心の器」という大きな差をつくります。

心が成長していくために先ずは自分を知らなくてはならないでしょう。

この自分を知るという大前提があればこそ初めて今後の成長に大きな結果をもたらすことになると思っております。

まずは第一に「自分の感情・気分を知る」こと。

具体的な方法としては、少しだけ自分を省みる時間をもつようにし、生活の中での自分の感情・気分を振り返って、次のような自問をしてみればいいでしょ。

「どういう時に、どんな場面でどんな悪感情が湧いたのか?」

例えば、怒り、憎しみ、イライラ、嫉妬、不安、後悔、暗い気もち、落ち込み、相手を責める気持ち、自分の非を認めたくない感情、等々。

そしてどういう時に、穏やかな感情、幸せな気もちになれたか、等々具体的にノートに書きだすとさらに明確になり有効な成長方法となります。

自分の心の中に湧きやすい悪感情を知ること、そしてそれを封印するのではなく、否定するのではなく、しっかりと認めるところからが本当の成長へのスタートになります。

いいことばかり考えていれば成長できるというものではなく、自分の悪しき癖を認めてそれを謙虚に受け止めて改める努力をするところから成長が始まるということ。

自分の良くない癖、気分にその場で気づくことは、はじめは難しいかもしれません。

でも、あとで振り返ってみれば、気づけることも多いはず。

自分はこういう時、こういうことがあった後、こういう気分になりやすい、自分の思いを通してしまう、相手の都合や迷惑を考えずに行動してしまう、いや、迷惑はわかっているが自分中心の行動をしてしまう。

このように具体的に自分の悪しき癖、傾向性を再認識することができ、そういう再認識を習慣化するようになれれば随分と成長が加速されてきます。

自分の悪感情の癖、傾向に気づいても、決して自分を責めたり落ち込んだりすることはありません。

自分を省みるのは、自分を育てるため、そして幸せを実感できるようになるためです。

幸せは外にあるのではなく、自分の心の内にあります。

否定からは何も生まれてはきません。

認めることの大切さを理解したいものです。

自分を否定し、相手を非難するような心をもった人間の目は、非常に奥底で青白い閃光を放つような険しいものがあります。

そしてその人の心から発する波動は鳥肌がたつようなおぞましいエネルギーとなって伝わってきます。

そばにいることが苦痛なものです。

それだけに私たちは自分自身の心が温かく優しく、そして寛容で慈愛を忘れぬ心でいたいもの。

それができれば傍にいるものに安らと光で満ち溢れた無言の癒しを感じてもらえるでしょう。

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sen

今日を生きる2016/9/7(水)
人間は楽しかったことよりも悲しかったこと、苦しかったこと、悔しかったこと、他人に言われて傷ついたこと、腹立たしかったこと等々、自分にとって受け入れがたいことや思い通りに行かなかったこと、自分にとって不都合なことを思い、引きずることのほうが多いようです。

こういう時の心は苦しみや怒りに満ちています。

これまでも何度となく聞かれたことですが、『あの世はありますか?』という質問です。

あると言っても質問者自身が「ない」と思っている場合はそう簡単には信じられないようすです。

形のあるものなら目の前の物を見て確認できますが、あの世の存在にはこの世のもののように形がありません。

ですから一般的には誰も確認のしようがないわけです。

しかし、実際は「あの世」はあります。

大事なことは、確認のしようがないあの世の存在の是非を問うことよりも、いま生きている自分自身が存在しているという事実の一点です。

これだけは疑いようのない確かな現実です。

だから私たちに大切なのは、確かな事実である今の時間をどのようにして実りあるものにして生きるかということではないでしょうか。

変えることのできない過去に拘り、その過ぎた時間や出来事に心向けて悩まされ、大事な時間を浪費することや、「死んだらどうなるのだろう」という不安に苛まれて日々悶々と暮らすのはもったいない話です。

であれば、今を大切に精いっぱい生きることが明日の幸せにつながるでしょう。

だからこそたくさんの汗を流し、優しさを分け与え、今をひたすら生きることが尊いと思うのです。

過去を引きずったり、先を心配したりするような生き方をする傾向にある人ほど今という時間、日々を苦悩しながら暮らしています。

死後の世界の良し悪しなどは、あの世の「有る、無し」を心配するよりも、いかに今を良い人生にするかで決まってしまうものだということ。

何故なら、「あの世」はあくまでもこの世の延長上にあるからです。

今を良く生きられないのに、あの世で良く生きられようか。
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sen

gazou
うつ病 2016/8/27(土)

うつ状態になると様々な症状で辛い思いをする場合があります。

例えば、朝の起床が非常に辛い、主婦の場合は家族のために食事の支度をする気になれない、掃除をする気力が湧かない、人に会いたくない、スーパーに買い物に行くのがおっくうだ、怖い、感動がない、テレビを見たくない、活字をみたくない、無味乾燥で気持ちが沈む、等々の症状を訴える。

50代男性の話をきかせていただいた。

彼は心療内科でうつ病と診断され抗うつ薬を
2種類と安定剤と眠剤を処方されたが抗うつ薬はどうしても飲む気になれず服用していないという。

一時間ほどお話を聞いたり、アドバイスをさせていただきましたが、私は、彼には抗うつ薬は必要がないと判断した。

人事異動があり慣れない仕事を一生懸命やって家に帰っても仕事が頭から離れずに悶々としている日々で、精神的にも疲労困憊しているのですが、うつ病という診断をされて抗うつ薬を飲まなくてはならに状態とは明らかに違いがみてとれます。

私はたずねました。

「あなたの長所と短所を言ってみてください」
と。

彼はしばらく思案している。
「生真面目なところはありませんか?」と問うと「長所はわかりませんが、短所は一つのことに拘るところ。周りに真面目すぎるといわれます」といった。

ここがうつ病を患う人に共通する心の傾向性だといえます。

私がこれまで相談にのってきたうつ病診断を受けた方々の精神状態を根底からみますと、どうしても偏った心の使い方をしていることが発見されるのです。

頑な、生真面目、融通が利かない、自分を責める、一人で抱え込む、過ぎたことに拘る、先のことを必要以上に心配する、こういう傾向の方に発症しやすいことが多いようです。

心の癖を少しだけ修正できれば、考え方、受け止め方、対処の仕方を少しだけ変えていく工夫をすればうつ病を発症しなくて済みます。

この男性は抗うつ薬を服用していない分だけ自分の意識がしっかりしていましたし、現在も仕事についています。

自分の傾向性をよく知って少しだけ変えていく努力ができれば何ら問題なく生活していけるでしょう。

心療内科での対応と内容を確認させていただきましたが、
『最初は10分ほどの時間でした』とのこと。

次回からは症状を聞いて薬を処方するという流れで
5分かからないという。

こういうケースはとても多いですね。

患者さんの生活状況や精神状態、深層心理まで把握することを考えれば時間的な不足は明らかです。

医院のほうにもいろいろな事情があろうかと思いますが、状況を把握してアドバイスしていくには少なくても
30分とか1時間程度は要するのではないだろうか。

精神的に参っている時というのは「仕事のストレスで!」といってくるのですが、そもそも社会の中で生きるということはストレスがつきものです。

同じ仕事を同じ職場で、同じフロアで働いていながらもそれほど身に堪えずやっていけてる人と、精神的に参ってしまう人との違い。

職場内での人間関係も大いに関係あることは理解していますが、これは一言でいうとストレスに対する受け止め方、対処の仕方の違いがあります。

ここに見えてくるのが「個性・傾向性」というものかと思います。

仕事のストレスとか、人間関係のこじれとか、これらはみな生きる過程の中で起こりえることです。

しかし、原因はそこだけではない。
このようなことは発症のきっかけであって、あくまでも根本的原因はその人の心の深層部分にある傾向性だと捉えています。

何故なら、これまで多くの方々のカウンセリングをおこなってきて言えることは、自分の傾向性(心の習慣、癖)を知り、それを受け入れて認め、自分の努力で軌道修正をしていく方は回復に向かっていくからです。

薬で治るものという考えの背景には、どうしても依存的な思考性が強くあり、根本的改善の妨げになる場合があります。

徐々に薬を減らす勇気と決断が抗うつ剤から卒業できる最大の薬となることに気づいていただきたいものです。

うつ病は、自分自身の心から発する症状だという基本に立ち返って対処することで克服できるでしょう。
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sen
「力」について2016/8/21(日)
強いものに憧れるというのは内容こそ違え男も女も共通のところがあるかもしれません。

そういう意味では人間は力というものに憧れを持っているところがあります。

例えば力ですが、権力、金力、体力、気力、瞬発力、行動力、眼力、腕力、能力、目には見えないが霊能力といったものまで、力という言葉はさまざまな意味を内在しています。

人間の心から発する意識も一種のエネルギーです。

力に憧れるのは人間である以上、当然のように思われるのですが、しかし、正しい生き方、協調や調和という観点からすれば力=正しさでもなく調和でもありません。

力は人類の助けにもなりますが、力によって破壊され滅ぼされることはたくさんあります。

目に見える力も見えない力もそうですが、力は自分の分をわきまえて駆使することが大切かと思います。

自分を知らず、自分の分をわきまえずに無視した力への憧れや行動は、やがては必ず我が身を滅ぼすことになりかねません。

力はエネルギーであり、そのエネルギーというものは何らかの意思、意識の作用があって、はじめてその力を発揮するものですが、その目的とするところは協調であり、平和であり、世界の大調和にあらなければならないでしょう。

たとえば、原子エネルギーを平和利用に使うか、戦争兵器に使うかは、私たち人間の判断に任されているのと同じことです。

人類が探し求めた科学的なエネルギーに限らず、人間の周囲にあるさまざまな力は、各人が意思し、意識として働くことによって生じてきます。

先に述べた、権力、金力、暴力、体力、気力といったものはすべてそうです。

心に思うこと、念ずること、意識することから、こうした力関係が生じてくるわけです。

生まれたての赤子のように、自然のままに生かされた状態、親に委ねられた状態では、こうした力関係は生じてきません。

狩猟生活の原始民族をみてもわかるように、力に憧れるのは人間である以上、必然の成り行きといえますが、しかし、社会を不調和にする力は、やがて循環の法によって淘汰されます。

権力、金力、暴力といったものは、社会に歪みをつくり、争いを生むので、その離合集散はまことに目まぐるしく、やがてはわが身に降りかかってくることになります。

一方で、霊的なエネルギーというものは、見えないエネルギーの集中された働きですが、これもまた調和された意識から発動するエネルギーでなくては相互に身の破滅になります。

つまり、霊能力とは、他を生かす慈悲と愛の発意によってのみ行使されるものであって、邪心、野心、欲望、怨み、妬み、怒り、エゴから発動する念や力は間違いなく循環の法則によって己自身の崩壊につながっていくことになります。

法力と霊力、魔力というものは、外見は非常によく似ていますが、その中身は大分違ってくるわけで、心の歪みを持ったままで霊力を行使すると、やがてその反動がやってきて、先に述べたような法則によってその人をうちのめしてしまうでしょう。

法力と魔力のちがいは、愛があるかどうか、欲望という執着があるかないかであり、それは自分の心を冷静にみつめればハッキリするはずですね。

どれほど素晴らしい、巧みな言葉で人を引き寄せてもその根底にお金儲けや地位や名声になどに執着した欲望が潜んでいるならば必ずそういった言動が表面化してきます。

またそのような人間の背後で加担する霊はみな、邪悪な霊達や、低次元の動物霊(祭られた蛇霊や狐霊)か地獄霊ばかりだということ。

古来より霊的能力に憧れるのは人間の願いのようですが、まず大部分は欲望に根ざしているので注意が肝要です。

日ごろ正しい生き方をせず、心不調和なままに無理に霊的能力を求めると、結局は断食や滝行、読経、荒行に走ることになるのだが、これらの無理な行は心に隙間ができるため相当に危険が付きまとうし、一生を棒に振る者もいます。

行者の末路が悲惨だったという事例は枚挙にいとまがない史実をみてもわかるとおりです。

力を望まずして力が生み出されるもの、それが法力というところの大調和からか発せられるエネルギーです。

この大調和の本質は愛であり、慈悲以外のなにものでもない。

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sen

2016/8/18
愛と怒り

一番難しいのは?


人間は本来、人を愛し、人に愛されていくなかで喜びを感じるもののように思います。

それは人間には心があるからでしょう。

その一方で乱暴な言葉、乱暴な行動、乱暴な文章というものはどこから発するものなのかと考えてみますと、それはやはりその人の心から発するものです。

何かわからないけれどいつもイライラしている。

ちょっとした事に必要以上に腹を立てたり、キレたりする。

自分にとって不都合なことがあると相手が嫌がっていることなどお構いなしに執拗に関わってきて自分の意思を通そうとする。

こういったことの背景にはその人の自我心という非常に厄介な心の癖があります。

性格という言葉がありますが、この性格という固有の心(魂)は二三日でできあがったものではありま
せん。

この世に生まれてから今日までのあいだに時間をかけて今の自分の性格ができあがったものです。

もっと厳密にいうならばこの世に生まれる前の前世からの癖が修正できていないままに今世でも再び表面化してきたといえるでしょう。

人間は強いようでありながら反面、弱い精神面も持ち合わせています。

だからこそ自分の心磨きのために再び地上にうまれるという貴重な時間をいただいていることを気づけず、あるいはわかったつもりでいても自分の悪しき業に負けて他人の都合を無視した言動をとってしまうのが人間でしょうか。

しかしこれではあの世の低次元の世界にいってから「しまった。またやってしまった。」と後悔することになります。

おそらく心の奥底では「これはするべきではない」とわかっているはずです。

なぜその心の声を信じて従わないのか、そのように行動しないのか。

ここが善と悪の分かれ目、良心と邪心の分かれ目、調和と不調和の分かれ目となります。

結局、自分の悪しき我に負けるのか勝つのかという問題でしょうか。

自我心というものは、人の失敗をことさら取り上げたり、罵(ののし)ったりしますが、自分の非を認めようとしないとなるとこれはもう論外ですね。

こういう人たちというのは、悪い意味でパワフルですが概していろんな場面で人生そのものが人との和に欠けた状況となって発生しやすいものです。

周囲の人たちからすれば「自己中心的な人だな」と思っているのですが、ご本人はまったくそう思っていないから厄介です。

では何故、そういう人は、それほどまでに自己中心的なのでしょうか。

人が何かをする時の背景には二通りあるように思います。

一つは悦び。
そのことをすることによって心の充足を感じることが嬉しいし自分が成長できると解する人。

もう一つは怒り。
過去において人間不信に陥ったり、あるいは自分自身の未熟によって受け止め方が歪んでいるために周りとの関係に衝突してしまうケース。

心が未熟であればあるほど怒りそのものに突き動かされて行動してしまうところがあります。

人間には得てしてこういう傾向がありがちだからこそ「心を成長させたい・大人になりたい・寛大な人間になりたい」という思いがなければ、心という器は成長できないものです。

怒りの心を自分自身に向けたらどうなるだろうか。

先ずは自らの心身に影響が出ます。

精神的な疾患(パニック障害、自傷行為、鬱、
ストレス性の疾病、重度のアレルギー疾患、対人恐怖症、分裂病 その他)や、不登校、引きこもり、自己否定感などに悩まされることになる場合があります。

そして怒りを行動に出せば、非行、犯罪、暴力、虐待、いじめ、依存症、摂食障害、様々な依存心、誹謗中傷、等です。

さらに怒りを他人や社会にぶつけると、自己中心的、身勝手、対人関係のトラブル、出世や昇進、名誉などへの固執、社会批判、執拗な議論をふっかける、過激な改革論をかざすなどが考えられます。

もちろんこれらの事象が全て怒りを動機にしているとは言い切れませんが、怒りを背景にこれらの言葉や行動、そして症状を生み出している人たちもいるということです。

この中でも、人に対しての攻撃性が激しく、自分ではまったく悪いと思わず、怒りを自分以外の他人にぶつけてくる人の場合がトラブルとなりやすいわけです。

また、上記のようなタイプの人の場合、過去において、あるいは幼少時の家庭環境において心にダメージを受けた経験からくる不満、寂しさ、憤りから、強い人間不信を形成しているケースもあります。

人間不信というのは、言い換えますと自己不信からくる他者不信でもあります。

自分の心の中に怒りや複雑な偽りがあるため、人の心の中も自分の心の中と同じように複雑で怒りに満ちた信用できないものだと思ってしまう。

また、そうした根の深い不信感から、「自分は愛されなかったのだから、世の人たちも自分を受け入れてくれるはずがない」と思って、人間不信、社会不信に陥っていくということもあります。

ここでいう複雑な偽りとは、自分の心の奥底では「これは間違っている、こうすることが正しいことだ」という分別がついているのに何故か相手に対して敵対してしまうという自我心に負けた言動をすることを偽りというのです。

怒りが更なる怒りを生む
このような怒りのメカニズムから考えると、そういう人は相手に対して怒っているのではなく、自分を愛してくれなかった親や周りに対して怒りをぶつけているという深層心理をみることもできます。

こうしてみると、怒りをあらわにしやすい人というのは自分の幼少の頃からの家庭環境、親子関係のなかに決して調和されていない心の葛藤が背景に存在する場合が多々あります。

目の前にいる相手や出来事に苛立ち、怒っているようで、実はその原点は自分が過去においてよく思わなかった人間への怒りに自分を失っているということもあります。

噴き出してくる怒りによってイライラしたり、何故イライラするのかもわからない自分自身にジレて増々イライラして負のスパイラルということになれば自分一人では収集がつかなくなってしまいます。

こういう人の場合は他人がどうこうできるというレベルを超えてしまっていますからその時は対処のしようがありません。

冷静な時にゆっくりと時間をかけて話し合うという積み重ねが大切です。

もしくは何かしら社会の中で手痛い経験をしたときに「これではダメだ、何とかしなくては」という自らの気づきがなければ対処のチャンスがないと思います。

いい大人なのに周りを批判はするが、自分はいい子で仕切りたがりやの目立ちたがりや、自分を大きく見せることに躍起になるのですが、一つ注意されると駄々っ子のようにふくれっ面してすねているという人もいます。

褒められると天狗になるが、注意すると鬼の形相になるようでは、浅い心の器が見えてしまいますね。

いつも他人と自分を比べ、優越感を感じていないと嫌な顔をする人間は実は非常に心の狭い小さな段階だといえます。

幼少の頃からわがままを通して生きてきた結果がそうなる場合もあります。

親の言動をまねてそういうふうに育つ場合もあります。

友達が少ないと言って淋しそうな顔をする人もいますが、私なんかはとても友達が少ないほうです。

また多くの友達を欲しいとも思いません。

千人の友より一人の親友。

これが私の信条です。

ここが人間関係を考えるポイントではないでしょうか。

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sen

ohaka

お盆 2016/8/6(土)
お盆が近付くと決まって何かしら原因の特定できない体調不良におちいるという人たちをこれまでたくさんみてきました。

その人たちは毎年そういうことを経験することによって、自分は「この季節が苦手なんだ」という受け止め方をしていることが多いようです。

とうぜん体調が思わしくなければ病院に行って診察していただくのですが、「更年期による自律神経失調症でしょう」と言われましたで終わるケースが多々あるようです。

ある程度の年齢に達した人の場合はそういうふうに言われるのかもしれませんが、若い人でも原因の特定できない体調不良の人たちの場合は更年期障害による自律神経失調症とはいえないわけです。

そういう人たちに関しては、「原因がわかりません」という診断が下されて心療内科を勧められたり、または向精神薬を処方されたりというケースが多々見受けられます。

なぜお盆が近づくと毎年体調が思わしくなくなるのかということについて述べてみます。

先ずはお断りしておきますが、この世がすべてであって、人間が死んだらあの世での存在は信じないという考えをお持ちの方はこの話題はスルーしてください。

さて、あの世の人たちのなかには、自分が生前におこなってきたような傾向の行動をあの世にいってもまだ続けようとする人もいますし、子孫にも自分への供養を期待するような、比較的魂ステージの低い霊達もいます。

生前において人様に迷惑をかけても平気でいるような人はあの世に行っても同じようなことをする傾向にあります。

悪は悪を為し、善者は善を為すということの傾向はこの世でもあの世でも何ら変わるものではありません。

古来の伝統によって為されてきた供養の習慣を私たちが行うことによって、またそのことをお盆や彼岸などの時期に意識することによって霊界の故人、先祖たちのなかでも同調する魂の場合、普段にもまして騒ぎだします。

このような霊たちの波動が地上で生活する人間にとって、自分の弱いところに身体症状となって表れるから辛いということになってくる。

したがって、そういう人を浄化してやると、これまでの辛い身体症状がスウーと抜けます。

霊界の住人達のなかでも地上の人間にかかわってくるほとんどがまだまだ心が調和されていない、何かに執着のある魂だといえるでしょう。

それと平行して良くも悪くも、この世の人間の想念、意識のあり方によって影響を受けるのがあの世の霊人だということを知ってほしいと思います。

「供養」
丁度この時期でありますから、もう一つ供養について述べてみます。

供養というと、昔から仏とか先祖の霊に物を供える、お香を焚く、読経をする、ご法事をすることのように思われ、そういう習慣を行ってきていますが、真の意味での供養とは少々異なります。

先ず、供養の意義は「先祖の霊よ安かれ」とする子孫の祈り心が大前提になくてはなりません。

ですから「何々をお願いします。」は供養ではなく先祖霊に対する呪縛以外の何ものでもないということ。

物を供え、読経する、和尚さんを呼んでご法事をする、それでよしとする考えだとするなら真の供養からほど遠いものとなってしまいます。

私たちが現在こうして肉体を持って生きていられること自体、親、その親と、それぞれの先祖が私たちを生み育ててくれたからであり、それに対する感謝の心は報恩となって形(行い)の上に現われてこなければ意味を成さないことになります。

どこの親も、子どもが健やかに暮らしていればそれを最大の喜びとするのが人情ですね。

子孫が「見守ってください。何々をお願いします」といわなくても故人たちが高いステージにおられるのであれば見守ることができるのです。

ということは、このブログを読んでくださっているあなたがあの世に行った場合、あなたの子ども、すなわち子孫が心身ともに健やかに、幸せに生活している姿をみたならどれほど喜びであり、安心の境涯になれることでしょうか。

子孫の祈り心という供養の真意はそれゆえに、故人が生前、学びもせず、理解もしていない哲学的な経文の読経をすることではなく、物を供えるということではなく、まず私たち地上の人間が家庭の和合と調和にあることだといえるわけです。

人間の霊魂は、死という肉体機能の停止によって、あの世で生活をはじめます。

人によっては肉体が灰となれば人の魂まで無に帰すと思っている人もいますが、それは事実と異なります。

霊の存在に関する諸現象の知覚については程度の差こそあれ人間である以上誰しも備わっています。

霊現象は、すべてこの世の人の心と、あの世の霊の心とが作用しておこるものです。

魂の永遠不滅と、転生輪廻ということも単に人間の願望としてではなく、事実として存在します。

この世は三次元世界ですが、あの世は四次元以上、多次元の世界であり、それだけに、普通はある人には認知できても、ある人には全然わからぬということになってきます。

だからといって否定できるものでは決してないのです。

私たちの肉体機能では知り得ない
4次元以上の世界を認知するには心の目で観るしかありません。

ご法事で物を供えることは、本来、気安めにすぎませんが、死ねば無になると思いながらも、物を供えるその心や習慣を省みたり、確かめてみる必要があろうかと思います。

家庭の和合、調和が先祖の最大の供養という意味は、あの世に帰った先祖の霊が、その子孫の家庭をたえず見守っているということを知っておくことから理解していただければと思います。

もしも先祖のなかの誰かが地獄に堕ちて自分を失っていたとしても、子孫の調和ある家庭を目の当たりにすることにより、己自身の不調和を改め、その霊をして昇天させる原動力となるからです。

つまり、親や先祖の霊達に安心していただけるような生き方を示すことを私たちが実践することですね。

子の幸せを思わぬ親はいないはずです。

しかも、その子が親より立派であり、家庭が円満に調和されていれば、親は子に励まされ、その子に恥ない自分になろうとするのが人情ではないでしょうか。

あの世もこの世も、人の心に少しも変わりはありません。

もちろん、なかには例外がありましょう。

生前の心の不調和とその行いによって地獄に堕ちれば文字通り苦界にあえぎます。

類は類をもって集まる喩(たとえ)で、その霊は自分と同じ思想、価値観、考えを持った人と波長が合い助けを求め、いわゆる、憑依作用となって人の体や心(意識)に憑いてしまいます。

邪悪な宗教団体、カルト教団に属している人が、同じ宗教に入信していた故人に憑依される事例があるのはこういう事情があるためです。

すると憑かれたその人は、言動に感情の起伏が強く現れたり、病気をしたり、精神的な疾患に陥ったり、自殺したりする場合もあります。

意外と思われるかもしれませんが、霊的な場として大変なのは精神病院や心療内科、総合病院という側面もあります。

特に精神病院の場合は、看護師さんたち自身が精神疾患に陥っているケースが多々あり、相談にみえる方もありました。

実際に精神科に勤務する看護師さんたちの告白でその実態を知ることにもなったわけです。

それと、本来秘密裏になっている精神科の医師の鬱病発症や自殺者が間々見受けられることも霊的な視点からは無視できない重大な事案であります。

「薬を飲みたくないんだったらもう来なくていいよ」という言葉でショックを受けました。といってうつ病診断をされた方が泣き泣き相談に見えたことがあります。

驕り高ぶらず、医師自身がよほど心の調和を図っていないと、精神疾患者の出入りによって蔓延する未成仏な霊たちに蝕まれていきかねません。

これらの原因は不調和な霊たちの霊波動、及び、憑依による悪影響そのものです。

しかし、その根本は影響を受ける側、憑依される側の心にも同調するだけの原因があるのです。

地上が調和されると、あの世の不調和な霊たちも調和されますから、私たち自身が心穏やか生き方をしなければならない理由はここにあります。

あの世とこの世は、いわば相関関係にあって、個々別々に独立して存在するものではないということ。

先祖の供養というものは、このように、まず個々の家庭が調和されることであり、その前に個人個人が調和されることであり、調和こそ最大の供養ということを大事にしていきたいですね。

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sen

幸せのかたち 2016/7/21

「孤独感が襲ってくると淋しくて、不安で、いてもたってもいられません。どうしたらいいでしょうか?」というお話をいただきました。

孤独感からくる寂しさや不安感という感情は人によって感じ方が違うものです。

通常は一人だと感じたときに寂しさがつのってくるものですしょうが、人によっては複数、大勢の人のなかにいても孤独感を感じて淋しいと思う場合もあるようです。

こうしてみると淋しいと感じることの条件も様々なように、幸せと感じることも人によって様々です。

一人ぼっちではないと実感できるときに感じる幸せ観。

一人で生活していても幸せを感じている人もいます。

幸せはその人の心の状態によっても異なるわけです。

孤独感や不安感があるときは特にそうですが、人は言葉によって支えられたり勇気づけられたりします。

そういうときに感じる安心感や幸せもあります。

「一念三千」

人間の心はどのようにも変化するものだし、自分の心次第で試練や逆境のなかにあっても何時でも幸せだと思えるものです。

心はその状態、持ち方に如何によってどのような世界にも通じるものだし、その境涯にもなれるものだということを表現した言葉が一念三千という言葉です。

三千とはすべての世界に、あらゆる世界に通じるという意味で三千世界という言葉が仏教にはあります。

そういう意味でも、自分は幸せだと思える人ほど人との繋がりや信頼関係が築かれ、良い人間関係が広がるものだし、深くもなるものです。

しかし、これは決して人数の多さではありません。

私自身は友人が多い方ではありませんが、しかし信頼のおける友人ばかりですからありがたいことだと思っています。

勿論、感謝もしてるし、幸せだと思います。

少ない友であっても、それを有り難いなぁと思えることが幸せではないかと思うのです。

人生はいつも出会いがあります。

生涯を通じて多くの人たちとの縁があります。

そのなかで出会って良かった、巡り会えて良かったと思えること、また思ってもらえることがどれほど幸せなことなのか。

生まれた環境や境遇によってその時は周りを呪い自分を呪うこともあるかもしれません。

しかし、やがて時がたち、自分の人生を省みるとき、自分にも持って生まれた幸せがあるのだと悟るときがきます。

その幸せはすべて自分の心の中にあるということを決して忘れてはいけません。

人間、どのような境涯にあっても、気づくことで幸せを実感できるものだからです。

ということは、気付くことが大切なのですね。

逆に不幸なことは喜びを喜びとして感じられないことだろうと思います。

他人にはわからないご苦労もあるでしょうが、よくよく話を聞いてみると、客観的にみて、幸せのなかにいても幸せと気づいていない人もいます。

私の持論ですが、幸せは求めるものではなく、気づくもの。

何の試練もなく、苦労もなければ、幸せを深く感じることや気づくことは少ないでしょうし、喜びも少ないものです。

また、今の小さな幸せを喜べない人、そして「何が嬉しいことか知らない人は、喜びが訪れてもその幸せに気付かない」かもしれませんね。

幸せだから不幸を知らないということはないし、不幸だから幸せを知らないわけでもないはずです。

幸せだけしか知らなければ、何が本当の幸せか分かりません。

「幸せ」だと言えない時があるからこそ、『幸せ』が分かるのではないだろうか。

相反する境涯があるから幸不幸があり、喜びや悲しみを理解することができるのでしょう。

「幸せ」というものを比較の概念で判断する人もいます。

他人との比較、
過去、現在、未来、の比較、物の多寡、金銭の多寡で幸せを計る人、こういった比較の幸せ観は「真の幸せ」からは遠くなります。

そういう意味で言うならば本当の幸せを知らない人は、たとえ幸せが訪れてもその幸せに気づけない。


では、本当の幸せとは何だろうか。

小さな喜びをどれだけ「有り難い」と感じることができるかかもしれませんね。

人一倍恵まれた環境にいながらも、「有り難い」と思えない人もいます。

傍目(はため)に大変なご苦労をされていながらも「有り難い」といって感謝の心と言葉を忘れない人もいます。

この違いは何かというと、やはり心のステージが違うということです。

言い換えれば、「感じ取れる」という魂向上の段階の差ということだと思います。

どのような時も「学ばせていただいている」という謙虚で、前に進むことを忘れない生き方の人をみると、見習うことがたくさんあります。

自分もこう生きたいものだと。

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sen
罪 2016/7/17(日)
「キリスト教に入信したら私の罪は許されるのでしょうか?」と質問してきた人がいました。

この世の律法に反する犯罪をすれば裁きを受けるのは承知のとおりです。

しかし、心に思ったことだけでは法律で裁かれることがありません。

また心の罪は宗教に入信したから許されるというものではないでしょう。

社会のなかで罪を犯した人間が更正してしっかりと立派に生きている姿をみたらあなたは許すのではないだろうか。

同じように、自分が罪を犯したときダメ人間と自暴自棄になるのではなく、心も、体も、言葉も、行動も、しっかりと改めた生き方をするならばその生き方こそが自分が許されたことになるでしょう。

これは律法に反する罪であっても、心にもった罪であっても根本的には軸を同一にするものです。

僧侶のなかには、本来、悪はないと悪の存在を否定し、全ては善であり、悪に見えるものも実は善が悪を装っているに過ぎないと説く人がいますが、はたしてそうだろうか。

人間の魂は本来、神の子として神仏に連なるものだとは思うのですが、悪を為すものがいることは紛れもない事実でもあります。

この世の人生を終えて霊界へ行ったからと言っても、地上の生活と何ら変わるものではありません。

自分の好み、その偏った心の傾向性、執着した思い、その習性、というものをそのまま携えてあの世のいくことになります。

変わるのは肉体を棄てたということだけです。

ですからあの世での生活は、この世で持っていた肉体にかわる霊体をもって生活するということ。

従って、その人のもっている日頃からの思考や価値観、心の癖というものは次元のことなった世界にいっても変わらないんです。

逆に純粋にして高潔なる魂の場合は、この世から離れてあの世にいったときその魂がそのまま光り輝く魂として高い次元の生活をすることになります。

宗教関係の指導者たちは、唯一なる存在を憎み善に背を向け、罪深き魂も、懴悔(ざんげ)一つにて心が清められ天に召されると説きますが、実際はどうだろうか。

きょうこの記事を読んでくださっているあなたも考えてみてください。

短気な性格を持った人間が、一夜にしてその癖、傾向性を、色を塗り替えるが如くに変われるとお考えだろうか。

ペイントで色を重ねて塗り替えれば新たな色に変わりますが、塗り重ねたその下には前の色が隠されたままです。

まして人間の心は色を塗り替えるような簡単なものではありません。

魂の成長は一日一日、一刻一々の生き方によってのみ築かれていきます。

すぐに剥がれ落ちる上塗りであってはならないでしょう。

鋼(はがね)をつくるには鉄に熱を加えて叩き、冷まし、何度もその繰り返す工程が必要なように、魂の成長も日々の勇気と弛みない努力が為されなければ向上しないということです。

本当に成長したかどうかは、人を許せるようになったかどうか、自分にとって不都合なことが発生したときでも冷静に寛大な心で行動できるかどうかでわかります。

煩悩に負けた心はその奴隷となるでしょう。

煩悩とは自我心のことです。

そうなったが最期、純なるもの聖なるものを避け、他人を裁き、いつも心がざわつき、安らぐことなど無く、死後もかつての地上の苦悩の様を演ずることになるが、これは魂が我というスモッグ曇りきっているが故であります。

罪というのは身体を以って為した悪だけが罪というのではなく、心に思った不満、愚痴、怒り、妬み、そねみ、誹謗、中傷、嘘、欺瞞(ぎまん)、傲慢、驕り、高ぶり、これらも紛れもなく心の罪といえるでしょう。

自我心の強い人間ほど善に対抗し、それを妨げんとする言動をするものです。

人間、心を調えることほど難しいものはないのかもしれませんね。
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sen
akusyu

ちょっとスピリチュアルなお話し。2016/7/10(日)

人間の心の世界は大宇宙のごとく無限に広い!

私たちの思ったことは、次元の違った世界にも自由自在に通じていきます。

といってもピンとこないかもしれませんね。

でもこれは事実です。

それは思った内容、善悪という程度の相違によってそれに比例した世界につながっていきます。

心は送信機であり受信機でもあります。

比例した世界とは、非常に調和されたユートピアに通じるか、反対に低次で不調和な奈落の底ともいえる地獄のような世界に通じるかということです。

人間の想念は時間的な制約を超え、空間的距離的な制約を超えて瞬時に相手にも、場所にも届きますし、それがまた現象となって顕われるものです。


このことはただ単に知識として述べているのではなく、実際に経験してきたことや起こったことを話しています。

こういった現象はすべてが人間の心から発生する現象です。

ところが、人間の想いそのものについては立法がありませんから全くの自由です。

この社会には立法があって罪を犯せば罰せられますが、心の想いについては規制がありませんから罰することができないわけです。

ただ、こういうことを思えばこう苦しむのですよ、こういうことを思えばいい結果が出るのですよ、といような教えや働きはあるのですが、しかし、この思うということについては全くの制約がありません。


つまり、社会生活に立法があるようには、心の世界には立法がないということですね。

ここに問題が発生してきます。

人間の心はバランスを崩すと苦しみとなるようにできています。

ひとつのことに対して悩み、不安を感じ、恐れをいだくことで心が辛くなるでしょう。

それが長じてくると肉体的な不健康状態にまでなる場合もすくなくありません。

例えば、精神的疾患者の根本的原因は、自分の思っていることの歪み、偏り、正しい基準を失った生活行為、拘り、頑なな心、こういった心の使い方から発生してきます。

それは、本来の調和された人間の心の状態から離れた偽りの我です。


自分は正しい生き方をしてきたとはいっても、実際には非常に言葉にも行動にも不調和なところがあるのにそのことに気づけていない場合があります。

そういった意味でも、人間は他人をみて批判はできますが、以外と自分自身の本質をみることができていないことが多いものです。

ここで偽りの我について述べておきましょう。

私たちの心の中には偽我と善我というものがあります。

どんな状態でも、人間は自分に絶対に嘘のつけないところの善我があります。

良心といってもよいでしょう。

他人に対して一時的に偽ることができても自分の心まで偽ることはできないわけです。


自分では良くないことだと分かってはいても自我心が強いために我を通してしまうことはよくあることです。

しかし、善なる心の我こそが本当の人間の心であり、この心こそ神の子の証といえるでしょう。

これはこの世の人間だけのことではなく、亡くなって次元の低い地獄に落ちても同じであって、地獄の霊達も必ず心の奥底には善我を持っています。

ところが、彼らは自分さえよければいいという自己保存の固りであるがゆえに、地上の生活よりもちょっと厳しい地獄の世界で暮らさざるを得ません。

何故なら、あの世はすべて心のステージの違いによって生活する段階、空間世界が違うという仕組みになっているからです。

この世が華よ!
死んでからなんて関係ないよ!

しかし、人間死んでからでは遅すぎます。


いまをどれだけ調和して生きているかがすべてです。

偽我心のあるときの人間は、相手が迷惑に思っているのにそれを無理押しして自己都合の行動をしても自分は正しいと言ったりします。

これは明らかに不調和な生き方といえるでしょう。

偽我とはこうした生き方のことであり心の不調和をいいます。

人間の心に善悪があるように、社会にも善悪があるように、そして白黒があるように、正邪があるように、相対的な心をもって暮らすのが人間であるとみることもできます。

心に感謝以って働く人がいる一方で、自分の義務や責任を怠る人もいるでしょう。

何事も謙虚な姿勢で学ぶ人がいる一方で、傲慢に振る舞い少しばかりの豊かさ故に驕り高ぶる人もいます。


執着せずに今日に生きる人がいる一方で、昨日のこと、過去の出来事に心奪われて苦しみ、悲しむ人がいます。

自分を律して調和を忘れず生きる人がいる一方で、何かと自分以外の人を責めたり、相手のせいにして生きる人もいます。

他に対して愛深き人がいる一方で、いつも他に愛を求めて生きる人もいます。和合、協調を心がけて生きる人もいれば、争いの種を蒔く者もいます。

これらはすべて己の心から発するもので、それがそのまま自分の生き方となり結果となり、現象となります。

やはり、人間は自分の我を通すような生き方をせずに、愛深き生き方をしたいものだと思います。


sen

gazou

ちょっとした心の切り替えで人生は変わる 2016/7/2

「どっちでもいいこと」に心を向けすぎない

意外と誰もが、余計な選択に時間をかけてしまっている場合があります。

例えば、日常の中でどちらを選ぶべきか迷った時に、まず「そもそも迷う必要があるほどのことなのか」となると、それほど「大事な選択」というのは意外と少ないものです。

どっちでもいいことで迷わずに、そして拘らずに過ごせればどれほど楽な生活ができることか。

そういう習慣ができていればこそいざ大事な選択をすべきときに冷静に、且つ適切な判断ができると思うのです。

周りの人に依存しない。

勿論、人を信用してはならない、という意味ではありませんが、人生を生き切る究極的な意味では、自分が信用できるのは最後のところでは自分だろうと思います。

依存心が強い状態のときほど自分の意に反するような結果がでてくると失望したり、あるいは絶望したり、人によっては人間不信に陥る場合もあります。

それがたとえ自分に非がなくても結果が自分の期待通りではなかったことに対する執着や、拘りがあればそこで自分が苦しむことになります。

こうしてみると何かに依存していて楽だなあと思ったとしても、幸せだなあとおもっていてもそれは結局長続きしません。

依存ではなく「共存」できるよう、自分もしっかりアイデンティティー(主体性)を持つ、生き方を日頃から意識していかなければなりません。

そして、周りに期待しない、というのは一見辛いことのようですが、実は自由で楽だという側面があります。

人間は本来、一人で生まれ、一人で死んでいきます。

どれほど親しい関係にあろうとも自分の主体性を忘れないで共存する生き方、協調する生き方のほうが真の意味で自立するということではないでしょうか。

兄弟姉妹でも争いはあります。

親子でも争いはあります。

血のつながったもの同士の争いがあります。

理由は様々あるでしょう。

その理由の一端には「依存心」から発生する自己都合ということもあるのです。

過剰な期待が寂しさや怒りにまで変化することもあります。

仲が深まれば深まるほど、相手に期待や依存するのではなく、感謝していきたいですね。


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sen
賢い人&愚かな人 
2016/6/25 (土)

人は生涯を通じて人と関わりながら生きていくことになりますが、「俺は人の世話にはならない」という言葉を言われたという方がいました。

そうとう意固地になっているか、嫌なことでも経験しているのか、あるいは人間不信に陥っているのでしょうか。

人の世話にはならないとは言っても、直接的にも間接的にも人様のお世話にならないということはありえません。

そもそも自分が死んだらその死体を埋葬してくれる人たちのお世話にならなくてはなりません。

どんなに片意地を張ったって最後の最後にお世話にならないわけにはいきません。

それでなくたって日ごろの生活でも人様がつくった食材をいただいて今の体をいじできているわけだし、着るものにしたって誰かがつくったものを買って着ています。

住まいにしたって誰かが作ってくれたものです。

こうしてみると衣食住すべてのところで誰かのおかげ様ですね。

「おれが自分のお金で買ってるんだからいただいたものではないし、人の世話になんかなっていない」という考えがあるとすればこれはもうまことに偏狭な心でしかない。

お金だって自分が働いたものに間違いありませんが、職場があるから働けるし、職場でも誰かと関わりあいながら働けているはずです。

こうして突き詰めていきますと人間はお互いが助けられていることに気づかされます。決して自分一人での存在というのはありませんね。

「嫌な人」と思っている人のお世話にもなっていることになります。

やはり心を広く、懐を深くできるように日ごろの気づきは大切にしていきたい。愚かな人は、ただ騒がしく、むだ口をたたくが、賢い人は、どのように答えたらいいかを考えます。

愚かな人は、感情的で良くない言葉を吐き出します。

賢い人は、正しい知恵をもって行うが、愚かな人は、批判や妬みが好き。

賢い人は、優しさや愛をもって接するが、愚かな人は、憎しみや争いの元となる言動をします。

賢い人は、隣人を生かし助けようとするが、愚かな人は、隣人を滅ぼそうとします。

賢い人は、少しの野菜でも幸せを感じる心と術をもっているが、愚かな人は、たらふく肉を食べても、満足せず日ごろから不満をいう。

賢い人は、知恵をもって行動するが、愚かな人は、自分の愚かさにさえ気づかずに行動する。

賢い人は謙虚さをもっているが、愚かな人は、怒りやすく自信過剰で自己主張が強い。

賢い人の心は、穏やかですが、愚かな人の心は激しい。

賢い人は、人の意見や注意を聞きけるが、愚かな人は、忠告やマナー、規律を無視する。

やはり和やかに暮らしたいですね。



ajisai


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sen

人材 2016/6/18
主体性と自主性いう言葉があります。

この「自主性」は、やるべき事を人に言われる前にやるということ。
ですが、その問題、そのことに対して自分で物事を考え、判断するという習慣はついてこない状態をいうようです。

この自主性に類似するような言葉で
「主体性」という言葉があります。

「主体性」は、やるべきことを自ら進んでやるだけにとどまらず、場合によっては今までやってきたことが効果的では無いからやめると判断することもするし、状況判断によっては別な対処もできるという選択と判断ができることを言うようです。

非常に簡単に言ってしまえば、この
2つの言葉の大きな違いは自分の頭で物事を考えるか、考えないかにあり、且つ、応用がきくかどうかということでしょうか。

自主性よりも主体性の方がより一歩踏み込んだ行動を示すものですが、そこには責任も伴ってくることもわかります。

私の院においてたくさんの人材を育てて世に送り出してきましたが、自主性をもって仕事をできる人は優秀な人材です。

しかし、更に主体性をもって仕事をする人は安心して仕事を任せられる人材です。


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つもりの人生 2016/6/12

あるつもりでもないのがお金、そしてないつもりでもあるのが欲だろうと思います。

古来より、人間は業が深いともいわれますが、浅いつもりでも深いのがこの欲なのでしょう。

更に、自分はあると思っていますが、実際はそれほどないのが常識や分別。

それだけに自分を省みる習慣は忘れないようにしたい。

こんな自分ですから、人の落ち度は笑ってはならない。

そして持ってはならないものは妬み。

持たなくてはならないものそれは寛容と人情。

忘れてはならないもの、それは受けた恩と感謝。

忘れなくてはならないもの。それは人にしてやったこと。

自分はこういうことがどれだけできているだろうか。

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roujin

老い方
 2016/6/4
年をとったらでしゃばらず、にくまれ口に、泣き言に、人のかげ口、愚痴いわず、人のことは褒めて、聞かれたことなら教えても、余計なお世話にならぬよう、知ってることでも知らんぷり。

無理に丸くなる必要もないが、さりとて、とがって生きることでもない。

人生を長くやってると有難味が本当にわかってくる。

だからこそ意識せずとも自然に「ありがとう」の言葉がでます。

地獄の沙汰も金次第というが、総じて世の中金がなくてはできないこともあります。

しかし、分不相応なお金の欲は捨てたほうが楽だ。

それは自分のいまある境涯において足ることを知るということ。

いくらお金を持っていても死んだら持っていけません。

お金で徳を積むということではないが、あの人はいい人だったといわれるように、生きているうちに人のためにバラ撒いてたくさんの徳を積むのです。

勿論、ばら撒くお金があればの話ですよ。

後期高齢者の人間にとっては、私らの時代は過ぎたと言いたいところですが、どっこい、仕事でも必要とされていますし、まだまだ若い人たちから頼りにされている今は引退はできない。

しかし、いくら頑張り力んでみたって身体がいうことをきいてくれないあたりは体力の限界が身に染みる。

あんたは偉い、私はあかん。

そんな気持ちで若い人をたてて老いていきたいものです。

しかし、いくつになっても男は男を捨てちゃいかんでしょ。

たとえ白髪になっても女は女を磨くことですよ。

外見だけが魅力なのではなく、内面の充実が表面に出ますね。

内緒話ですけど、見えないところに下着などのオシャレをすると心が熱くなり若返ります。

特に女性はそうじゃないかな。

身だしなみ、着る楽しみ、食べる楽しみ、出かける楽しみ大いに結構。

心は年をとらないものですよ。


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20165/28
hana

育む

何事もそうですが一生懸命になりすぎて、かえって事態を複雑にしてしまうことがあるように、子育ても一人の子供を育てるために目が行き過ぎて過干渉になり、かえって子供の心が抑圧されていたという事例があります。

口を開けばいつも正論ばかりをいう親御さんの言葉に辟易(へきえき・嫌気がさすこと)していたお子さんがいた。

そうかと思えば、「どうしてできないのよ!」「ダメな子ね」「違うでしょ!」

このように批判と否定を受けて育った子はやがては他を非難ばかりするようになっていました。

敵意に満ちた中で育った子は誰とでも戦いをするようになります。

妬みを受けて育った子は悪事をするようになりがち。

心が寛大な環境下で育った子は辛抱強くなります。

励ましを受けて育った子は自分に自信を持てるようになります。

褒められて育った子は他に対しても感謝の心を持つようになります。

公明正大の中で育った子は人生に大切な仁義という人間同士の関わりの大切さを忘れません。

思いやりの中で育った子は、愛と慈しみを心に宿し、信仰心を持ちます。

認められて育った子は自分を大事にし、他人をも大事にします。

仲間の愛の中で育った子はすべての世界に愛を見つけ、すべての世界に愛を示していきます。

この世で一番難しいこと。

それは「育てる」ということでしょうか。


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sen

自己を知る 2016/5/21
私が心がけていること、シンプルですがそれは健康の元は腹八分の教えです。

食べすぎはお腹が苦しいばかりではなく、消化器系統への負担にもなり内臓の健康を損ねるし、肥満の原因にもなります。

これは食べ物を摂るときの話ですが、すべてに応用ができる心構えだと受け止めています。

すべてのことに対していえることですが、自分の欲を満たすために我がまま、気ままを尽くしても、心の中は空虚という穴だらけです。

限りない欲望は満たされることがありません。

味が濃いものを食べ、満腹になるまで食いあさっても次から次とグルメ三昧を繰り返した結果、糖尿病になるまで気づけない欲望は餓鬼そのもの。

病気になって味わう痛み辛さに貴賤上下の差別はありません。

病気をすれば誰もが痛み苦しみを味わいますが、そうなる前に日ごろから足ることを知った生活をしたいもの!

人間の心には善もあり、悪もあります。

本来は人間の心に悪はない、とする教えもあります。

解ります。

しかし、現実には邪悪な心が顔をだすのも人間の一面ですからきれいごとばかりでは済まされない。

十も百も、千も、万も一から書き出すように、物事はすべて自分の心から始まります。

一を知る人は百もわかるでしょう。

自分の心を知る人は他人の心も思いやれる。


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tabidati
旅立ち 
2016/5/15
骨壺には値段によって上中下とあって、なかには高価なものもあるらしいけど、でも入るお骨に上下があるわけじゃない。

最近は墓石にお金をかけないようにする風潮がでてきましたけどとてもいいこと。

自然葬に合葬に、家族葬、密葬、生前葬まである。

お墓だって豪華絢爛に作ってもお骨には関係ないこと。

お葬式にお金をかけてどれだけ立派な祭壇にしようが、大勢の坊さんを呼んでも、お経を唱えてもらっても、死んだ本人には意味を成さないこと。

日ごろ信仰心のかけらもない自分、お経の何たるかを学んでいない自分が死んで戒名を付けられても、あの世に行って戒名で呼ばれても返事のしようがない。

それに生前にさんざん人様に迷惑をかけたり、人に対して冷たかったり、自己中だった人間が心に垢をいっぱいつけて死んで何が立派な葬式だよ。

そんなことで成仏できるほどあの世もこの世も甘いものじゃない。

俺は日本太郎だ。


お経を唱えなくても、娑婆にいるときに心は調えてあるよ!

葬式も戒名もいらない!

家族と親しい友人に送ってもらえたら申し分ない。

俺は死んでいない!

旅立ちをしただけだ!

また生まれ変わってくるまでちょっと不在にするだけだよ!

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sen

生きる気力 2016/5/10

悩みや挫折のために、あるいは体調不良のために、いろんな理由で生きる気力が萎えてくることってあると思います。

誰でも気持ちが萎えているときにやたらと元気を出してというだけの励ましや説教を受けたとしてもあまり前向きになれないどころか、かえって苦しく思うことがあるのではないだろうか。

さりとて辛いことから逃げることもまた問題解決とならないばかりか、その状態や新たな問題が発生する可能性さえもあります。

今というこの時間は戻ってきません。

生きていく中では避けては通れない場面もあります。

この避けては通れない状況は自らの想いや行動で乗り越えていかなければならないこともあります。

病気の問題もそうですが、心の感情には波があるもので、今は落ち込んでいてもいつか必ずまた心地よい感情がやってきます。

問題が目の前にあるときは憂うつでやり場がなくても、少しの辛抱と努力によって、一番つらい時期を乗り越えますと、やがては先には一筋の光が見えてきます。

辛い時期にはすべてを諦めていたことであっても、あとになればあのときの自分はなんて恐ろしいことを考えていたのだろう、あのときあきらめなくて良かったと語るものです。

体調不良の時というのは、周りの事や、先のことや人生の重大事を決定するには状態がふさわしくありません。

重大な決定は体調が回復してからゆっくり冷静に考えても遅くありません。

自分の生き死に関することなどは、なおさら勿論のことですし、人生の重大な決定事項についてはなおさらのことです。

慌てる必要はなにもありません。

むしろこういうときこそ心静かに落ち着くことが大切です。

目先の出来事にうろたえますと大事なことを見失ってしまいます。

癒されない心の傷はないと思いますし、人は幸せになれると信じています。

そして幸せは心で気づくものであり、自分が決めるもの。

時間がかかるとしても、きっとそうなると信じていきたいものです。

生きる意欲は回復します。

今は、苦しくて、身の置き場がないとしても、苦しくて、生きる意欲がないとしても、今は、苦しくて休みたいと感じていても。

休みたいという思いは心身からのサインです。

良くなるために今は休息が必要だと心と体が教えてくれています。

休息は大切です。

『心を病まない生き方』はあります。

また
『病気にならない生き方』は難しいけど『なりにくい生き方』はあります。

心も、体も無理をせず調えて生きることかと思います。

そもそも人間は生きるということだけで苦しみがつきまとうものでしょう。

大切なことは、どういう受け止め方をして生きるかで違ってくるものだということ。

難しいことではありますが、ここが要です。

物事に対して必ずしも「ベスト」選択や判断である必要もなく、様々な選択肢、判断がある「ベター」でいいのではないかと思います。

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sen

心は創造の達人 2016/4/30

前回の投稿で「禍福は糾える縄の如し」ということの意味についても触れさせていただきました。

人生には、幸せな運命もあれば、禍や不幸や様々なトラブルもやってきます。

運命とはいってもそれは勝手にやってくるものではなく、自分が為してきたことの延長上にある結果と受け止めたいところです。

ナポレオン・ヒルが言った『思考は現実化する』では人間は自分が考えているような人間になるとあります。

イギリスの謎の哲学者ジェームズ・アレンの大ベストセラー『原因と結果の法則』には、心は創造の達人ですとあります。

これらは人間のもつ可能性を表現した言葉であると同時に、他人には責任転嫁できない自己責任があると理解することも大切ではないかと思うのですがどうでしょうか。

人間には誰にも心があり、その心によって思いという力を用いて自分の人生を形づくり、そのなかで様々な喜びやまた悲しみを自分で生み出しています。

この生み出すものが心であり、口(言葉)であり、行動です。

で思い。
で色々としゃべり。
で色々と行う。

ということは、思いと、言葉と、行動という一連の働きこそ自分の運命・人生を創っていくということがわかります。

仏教の教えにもあります「身口意・しんくい」と。

そしてこの心、口、体の三つの中でも、最も重要なのがです。

なぜなら、口や体の行いは、心が元になっているからです。

人間は心が思わないことを言ったりしないし、心が思わないことをやったりもしないでしょう。

口が悪いことを言ったら、それは心にもないことを言ったのではなく、自分の心が命じたこと。

体が悪いことをしたら、それはやはり心が命じたからです。

その意味で言葉や体より心を重要視するのは大切なことです。

未来の自分を知らんと欲すれば、現在の自分を見よです。

実り多き人生を望む自分が今、何をしているのか。

「未来の運命」をより良いものにしたければ、現在の自分の思いと姿を見つめたいところです。

本当の自分の心はどんな姿をしているのか。

「自分のことは自分が一番よく知っている」と、みんな思いがちです。
ところが、本当は、自分ほどよくわからないものはありません。

例えば、お互いに問題も無くいい関係でいるときは自分も相手もいい人でいられますが、何かの都合で自分に不都合が生じた場合に相手に不満をぶつたり、言葉で攻撃をしたりすることもあるでしょう。

しかし、相手を責めるような人に限って感情的になりやすい性質を潜在している場合があるものです。

ギリシャのデルフォイの神殿には、
2000年以上昔から、「汝自身を知れ」という格言が刻まれているとされています。

人間は古来よりそれほど、自分自身がわからないものなのでしょう。

日本でも、ことわざに
「なくて七癖」と言われますが、どんなに癖のない人でも七つの癖がある。といいます。

では、「自分の癖はどんなくせ?」と聞かれたら、すぐ答えられるでしょうか。

おそらく即答できない人が多いかもしれません。
でも他人の癖ならいくらでも並べられます。

私たちは、人のことはわかりますが、自分についてはほとんど無知だといっても過言ではないでしょう。

これは他人のことに関しては客観的な視点でみるからわかるのであって、自分自身を客観的にみるという習慣がないからでもあります。

自分自身がわからなければ、私たちは本当の意味での向上も進歩もありませんから、気づきもないでしょうし、真の意味での幸せにも気付けないでしょう。

真の意味での幸せとは、今の状況が不幸だと思っている人でも実は大切なことに気づけば実際は幸せなところがあるという気づきです。

人間生きている以上は幸福にならなければなりませんが、そのためにも先ずは、幸せの条件をそろえるのではなく、真実の自己を知ることが非常に重要なことだと思うのです。

1000年前の源信和尚は、
『よもすがら仏の道に入りぬれば 我が心にぞ たずねいりぬる』という歌をよんでいます。

夜を徹して一筋に仏の教えを学べば自分の心にたどり着くということですが、最後は自分の心の実相を知らされてくるのです。
かつてゴーダマ・シッダルタが悟られて釈迦如来となられたように。

では、真実の自分の姿をどのように知ればいいのでしょうか。

世の中には、自分の心をうつす鏡が3枚あると言われます。

他人という鏡
自分という鏡
覚者という鏡の3枚です。

では、これらは一体どんな鏡で、それぞれ、どんな自分の姿が映し出されているのだろうか。

1・他人という鏡は
社会生活の中で、相手の言動に自分の言動が現れてくるというとらえ方。

つまり、人間はお互いが関わりの中で影響し合っているからこそ自分の行動いかんによっては相手の自分に対する対応が変わってくるということでしょう。

2・自分という鏡は
自分の心の姿と理解したい。
つまり、自分の心次第で人間関係も、社会生活も、人生も変わっていくということかと思います。

3・覚者という鏡は
心の自由をどれだけ得ているかということ。
心の自由とは、人生における喜怒哀楽によって執着しない心のことであり、拘りを持たない心、偏りのない心の状態をいいます。

「拘り」という言葉を近年は良い意味に使う習慣もあるようですが、本来の拘りという言葉の意味は「気にしなくてもいいことを気にする・些細なことを気にして心を不自由にしている」という解釈が正しいかと思います。

「こだわりの一品」などという物づくりの場合に使われるこだわりは本来なら、「手塩にかけて・心を込めて・精一杯」というような表現であったほうが良いのではと思います。

ともあれ、鏡を心に置き換えてみますと鏡という不思議な働きの実相が観えてきます。

他人は自分を映す鏡でありますが、同時に自分の想いが言葉になり、行動になり、他人の心に作用していきます。

ということは、自分の鏡、つまり心の在り方が何をおいても大切なことがご理解いただけるかと思います。

「物事は心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につき従う。

荷車をひく牛に車輪がついていくように。」法句経より引用



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tikyu

偉大な愛というエネルギー 
2016/4/16

先ずは、熊本地震によって亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに、被災された方々へ心からのお見舞いを申し上げます。

五年前の三陸津波によって多くの犠牲者が出たときも、被災しながらも「やはり海しかない」といって再び海に帰って行って仕事に励んでおられる方々もいました。

自分たちが生まれ育った土地への愛着は、災害によって大きな損失を被っても消えるものではないのでしょう。

今回の熊本地震においては避難を余儀なくされている多くの人たちがいます。

不安と恐怖とライフラインの不足による不便な生活を強いられています。

一刻も早く復旧できて人々の生活が落ち着かれるようにと願わずにはいられません。

自然というものは時には猛威を振るって災害となりますが、その反面、人類の科学や化学が及ばないほどの多大な恵みを与え、人類はその恩寵(おんちょう)にあずかっています。

そういった恵みがあるからこそ人間は自然に対して感謝の念をもって生きるのだと思います。

「禍福は糾える縄の如し・かふくはあざなえるなわのごとし」という言葉が示すように、災いと福は交互にくるものだということでしょうか。

つまり、幸せと不幸は表裏一体のものであって、別物ではないということなのでしょう。

さてきょうは、人間の愛と自然界の姿に潜む愛について述べてみたいと思います。

物は形や大きさ、そして重さを測ることができます。

地上においては距離を測ることもできます。

しかし、この世には計り知れないことがあります。

人間のもつ現代の科学や医学をもってしても解明しきれないもの。
それは心です。

そして、宇宙大自然界の偉大な力であり、その原動力となっているものが何か。

人間の心の源泉である愛は無限大であり、大きさを測ることができません。

重さを測ることもできない。

どれほど優れた機械器具をもってしても分析することはできません。

心は形としては見えませんが、それでも心の中の愛は厳然として存在しています。

人類愛は、人間の心を人間たらしめる唯一のエネルギーだと思うのです。

人間の心の内にある愛はどこからうまれたのだろうか。

私たちの内にある愛も、大自然界を機能させる原動力も愛の力だと私は信じています。

もう一歩踏み込んで言わせてもらえば、愛あればこそ全大宇宙が存在すると申し上げたい。

この場合の愛というのは、自然界における営みの原点ともいえるエネルギーのことであり、唯一絶対的な普遍のエネルギーとでもいいましょうか。

普遍とはすべてに及ぶほどの広く偏りのないエネルギーということです。

その原点は愛という意識だと思います。

宇宙がその宿命を成し遂げ、全存在がそれぞれの宿命を成し遂げていくその背後には、この意識である愛の力が存在すると信じるところです。

愛は、生命活動の原動力であり、すべての障壁を克服していくのも愛の力。

よく人間は神の子といいます。

であるならば神の子の証でもある愛をより深いものにするために、自分の心から少しでも「不満・愚痴・怒り」の三毒というエゴを減らすべく、物事を正しく見ること、正しく思うこと、正しく語ることを基本とした生活を忘れないで生きてゆきたいもの。

私たちが自分の成長を願い、自己の内面を見つめるとき。
昼のあとには夜が訪れるように。

春のあとには夏が訪れるように。

種子を蒔(ま)けば芽が出るように。

苦労のあとの大きな喜びを実感するように。

心は着実に眼を開き、一歩一歩その存在意義のなかで成就に向けてゆっくりと階段を登ります。

日常の煩雑(はんざつ)な生活の渦中にあって、時にはわずかな時間を割いて心の静寂の中に目を向け、己れが存在する原動力であるところの魂がチャージできる機会を与えてみてはどうだろうか。

心にある不安や恐れを拭い去るためにも一時の瞑目は大切であり必要なことです。

宇宙は無限・無窮(むきゅう)の愛と慈悲のエネルギーによって存在しております。

しかし、こういう受け止め方、解釈、理解ということになると、地上人間の圧倒的多数がそのごくごくわずかしか感識していないでしょう。

否定する人さえおります。

それは知識を得れば納得するというものではなく、受け入れる気根(心のステージ)という条件が整わないからです。

ですから私たち人間は、その宇宙を司る意識による恩寵(おんちょう)を存分に受け入れるべく、精神と魂を広く大きく調える方法を学び、且つ、実践しなければと思います。

それには信念と信頼と穏やかさと落着きを身につけることから始めたい。

そうしたものによって揃ってくる条件によって、無限のエネルギーから莫大な力が心の内に遍満して豊かさを増すことができる。

それが愛の出発点である唯一なるものの摂理であり仕組みだと感識するものです。

信じて受け入れ、体と心で呼吸する能力に応じて、エネルギーが配給されるということ。

決して単なる呼吸のことではありません。

魂の息吹です。

私たちの心の受容力が増せば、それだけエネルギーも増します。

悲哀の念が消えるに従って、また乱れた感情や、反発的な怒りが消えることによって、魂を取りまいていた想念帯の暗雲が晴れ、静かに輝く陽光がふんだんに差し込み、心が満たされるでしょう。

宇宙に様々な存在を与えたのは唯一なるものの愛です。

宇宙が存在し続けるのも、この愛があればこそです。

全宇宙を司(つかさど)り、全存在を支配しているのもその愛ゆえにです。

その愛の波長に触れた者が、自分の愛する者だけでなく、血縁によって結ばれていない赤の他人へも手を差しのべんとする同胞愛に、そして人類愛に燃えます。

愛は自分より不幸な者へ向けて只自然に手を差しのべさせるでしょう。

しかし、愛を拒む人もいます。

ゆえに、求められなければ与えられない愛もあります。

全生命の極致であり、全生命の基本であり、全生命の根源であるところの愛は、より一層の進歩を求めて、人間の一人ひとりを通して地上に流れ込んでいます。

そして、いつの日か、全宇宙が唯一なるものの愛によって温かく包まれ、争いのない地上とるなることを願う。

好感を覚える人を愛するのは容易いことです。

しかし、そこには徳性も神聖さもあるとは言い難い。

好感のもてない人を愛することの難しさ。

これが厳しい現実であります。

しかし、これが昇華されるほどに魂の霊格の高さが言動にもにじみでてきます。

内面の美しさがその人のかもし出す光であり豊かな魅力となります。

自分が気にいらない人のために手を差しのべること、これは容易なことではないし、遥かに難しいことです。

しかし、私たちは常に理想を目標としなければならない。

他人に出来にくいことをする、これが奉仕の奉仕たる所以だからでしょう。

傲慢や驕りではなく、ただ単に可哀そうにと思える人に優しくする、これは別に難しいことではありません。

気心の合った人に同情する、これも難しいことではありません。
が、敵を愛する、これは実に難しいことです。

しかし、本来は敵というものはないはずです。

最高の徳といわれたら、それは利他愛だと思います。

愛すべきだから愛する、愛こそ唯一なるものの意識である摂理を成就する。

そして、そのことを知るが故に愛する。

これです。

自分にとって都合のいい人に愛想をふりまく。

これも容易いこと。

自分の利益のために愛想をふりまくことも容易いこと。

愛らしい顔をした子供たちを治療してあげる、これは容易いことです。

しかし、年老いたしわだらけの老人や、奇形の顔をした気の毒な人、ぞっとするような容貌の人を治療するのは並大抵の心がけではできないでしょうし、それが奉仕の心です。

真の愛には大小優劣の判断が存在しません。

愛するということ以外に表現の方法がないから愛するまでです。

例えば、すべての生命体は太陽のエネルギーによって生かされていますが、宇宙の大意識は無限なる愛であり、自己のために何も求めません。

私たちは幼いわが子に愛を求めるだろうか。

代償を求めるだろうか。

しかし、年頃になった子供に対して「してやったのに」と言葉を吐き捨てる親もいます。

成長したいという思いを忘れずに日々生活をしている人間は、進化向上の階段を登るにしたがって己のために何も求めず、何も要求せず、何も欲しがらぬ高いステージの世界に辿り着きます。

その過程には孤独があります。

その孤独は寂しい感情もありますが、孤独は自分を成長させてくれる通過点でもあります。

上のステージに行くほど孤独との戦いになります。

愛は、ただ施すのみの世界。

願わくば、地上人類の世界がみな是非そうあればと願うものです。

学問のある人ということを聞きます。

それは、本を読んで多くのことを知識として得ている人のことでしょう。

教養のある人ということを聞きます。

それは、その時代の社会のなかにおいてに最も普及している知識やマナーを心得ている人のことでしょう。

徳のある人ということを聞きます。

それは、自分の人生の目的や意義を理解し、人に施したことは忘れ、人から受けた施しを忘れない人のことでしょう。

いつも訪問していただいてありがとうございます。観童

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運命 2016/3/31
なにげに「運命」という言葉を使ったり聞いたりすることがあります。

もし、「運命」という言葉によって自分の人生が決まっているのであれば努力することの意味もなく、必要もなく、また無駄なこともあるかもしれません。

しかし、実際には誰もがその都度、その場面において判断をし、選択をし、行動に移して生きてきたと思うのです。

そういう過程において出会いや別れがあり、人生の機微もあじわいながら心豊かににもなり、辛い思いをすることによって逆に心貧しくもなったりすることもあるでしょう。

こういった様々な流れこそが「運命」という言葉によって表現されているのではないだろうか。

流れは変えることができます。

否、流れは変わってこそ流れであり、それは自然界の事象をみれば語らずとも示しています。

人生という流れが変わらないとすれば、それは人間の意思によってそのようにしているだけではないだろうか。

だとすればそれは運命を好転させる自然な生き方にはなっていないということもいえるように思うのです。

心が自然の流れに沿うような生き方をできたらどれほど素敵な日々が過ごせるだろうか。

人間が言うところの「幸運」も「不運」も、それは後からいえることでしょう。

大切なことは、自分が良かれと思うことを勇気を持って一歩を踏み出すことだと思います。

運命に偶然はないと聞きますが正にその通りで、誰もが運命と思えることに出会ったとき、それも実は自分がこれまで為してきたことの結果ゆえのこと。

運命をいいものにしていくためにも、現実を超えていくためにも自分を創造していくことが大切かと思います。

運命は迎えるものではなく、自らが前に歩を進めることだとではないだろうか。

視線を大空に向けてみると、
今という時間を笑顔でいたいと思う。

生きていたらどんなときもある。

辛くて淋しいとき、
涙があふれて切ないとき、
きょうが思うようにならなくても、

明日に希望をつなげて生きたい。

誰かのためにもいいけど、
自分のために生きたら、
それが誰かのためになるかもしれないと。

私は大空を自由に飛び回る鳥ではないが、そのような心でいつも飛んでいたい。

希望を捨てずに。

風をうけて大空高く、
ときには低く。

ときには地上に降りてやすみながら。


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sen

kenkou
健康の基本と呼吸の恩恵 
2016年3月22日
観身堂に来院される方々のなかには、体の不調(腰痛 片頭痛 肩こり ぎっくり腰 スポーツ障害 その他)でおいでになる方がたくさんおられます。

その一方で、医学的には心身症と言われているような(動悸、息切れ、倦怠感、異常発汗、寝汗、パニック障害、過呼吸、過敏性腸症候群、胃潰瘍、神経性胃炎、神経性嘔吐、狭心症、月経不順、高血圧、不整脈、緊張性頭痛、慢性疼痛、間接リュウマチ、円形脱毛症、その他)様々な心理社会的な因子が密接に関係することで発症して来院される方々もいらっしゃいます。

心身症は、その人の体の機能的な問題と器質的なところが根底にあり、そこにその人のもっている精神性なども影響しているところもあるように思います。

心身症になりやすい人の性格傾向として、自分の感情を正しく認知していないことやコントロールできていないことも影響しています。

こういう場合、不満や不安などの感情を意識(心)で認識、コントロールできない分だけ身体に対して様々な症状となって現れてくるメカニズムが考えられています。

ここまでは解っているのですが、現代医学ではこういった症状に対してすぐに投薬治療を優先させているのですが、ここにもそれだけでは改善できない現実があります。

ですからもっと根本的な対処していく必要があるという考えから、観身堂では整体を通じて根本的なアプローチ(骨格バランス・自律神経系のチェック)をして施術を行っています。

特に頸部は、脳と胴体をつなぐすべての神経系統のすべてが通過しているターミナルポイントでもあり非常に重要な部分と位置付けて施術します。

併せて精神的な部分でもカウンセリングを行ってきました。

当院のスタッフは高度な指導を受けており、的確なアドバイスもできるように教育しております。

人間の体は、その人の精神性が体現されるものであるということは否定できないところではないでしょうか。


例えば「自己主張が強く攻撃的な性格の人は循環器系(心臓)の疾患になりやすい」など、その人のパーソナリティ(人間性)と症状が表れる身体部位が関連するという説もあるように、これは的を得た説かと思います。

今回は自律神経と心について述べてみたいと思います。

先ず、健康は「快食、快眠、快便」からとよく言われていますが、私たちの体は起きていても、眠っていても内臓や体の全器官が休みなく働いてくれていることを改めて認識しておきたいところです。

神経は下記のような二つの神経に大別されます。
中枢神経(脳神経・脊髄神経)
末梢神経(体性神経・自律神経)

末梢神経のなかの体性神経は意識で動かせることのできる運動系の神経です。

末梢神経のなかの自律神経は意識では動かせない神経

自律神経は、自分が意識しなくても動いてくれているのですが、逆に言うと、自分の意思通りには動いてくれないということもいえます。

胃も腸も、心臓も腎臓も、私たちの内臓は自分が意識しなくも動いてくれる代わりに、自分の思い通りにはならないということを理解しておく必要があります。

呼吸だけは別
自分が寝ていても呼吸をしているように、普段、呼吸は私たちが意識しなくても自律神経がちゃんとコントロールしてくれています。

そして、呼吸は自分が意識してコントロールすることもできます。


自律神経は本来、自分でコントロールできないのですが、自律神経がコントロールしている「呼吸」を介することによって逆に自律神経をある程度自分でコントロールすることもできるのです。


●亢進させる働きである神経(交感神経)が緊張していると、呼吸は早くなりますし、浅くもなります。

●逆に安らぐ働きである神経(副交感神経・弛緩)が優位に働くことで呼吸はどうなるでしょう?


ゆっくりとした呼吸で、深い呼吸になります。

つまり、副交感神経が働くと呼吸はゆっくり深くなります。

安らぐ神経である副交感神経を働かせたり、リラックスしたい時には、意識的に深くゆっくりとした呼吸をすればいいわけです。但し、疲労によって背中が張り過ぎていると肋骨の開きもよくなく、呼吸が浅くなり、息苦しくもなります。

腹式呼吸法の二次的効果として、体に新鮮な空気、つまり新しい酸素を含んだ空気が送り込まれることで全身の細胞に変化が生じてきます。

同時に深い呼吸によって体内から血液を介して循環されてきた有害物質や不要なものを体外に吐き出す作用に注目していただきたい。

「腹式呼吸」という言葉を聞いたことがあるかと思いますが、腹式呼吸は深くゆっくりとした呼吸に適しています。

腹式呼吸の「コツ」
まずは口から息をゆっくりと吐ききります。
そして、鼻から息をゆっくり吸い込みながら、お腹に息が入ってくるかのようにお腹を膨らまします。
それからゆっくり口から息を吐きます。

すると、お腹にたまった空気が口から少しずつ出ていくかのようにお腹がへこんでいきます。

最初は5秒間で吐き、それから5秒間で吸います。

一般的な腹式呼吸は、息を吸う時間よりも息を吐く時間を長くするよう指導しています。


しかし初心者には、同じ時間(間隔)で呼吸をすることをお勧めします。

なぜなら、効果もさほど変わりませんし、やりやすいからです。
吐く息の長さと吸うときの息の長さは個人個人の心肺機能の能力差もあり一様ではありませんが、自分の能力に応じて8で吐いて5で吸うでもいいでしょう。

ここで守ってほしいのは吐く息を吸う息よりも長くするということ。
その理由は、吐く息のときに副交感神経が働き、吸う息の時に交感神経が優位に働くように人間の体ができているからです。

日ごろの生活の中ではどうしても交感神経のほうが優位になりがちなものです。

それだけに副交感神経を優位に働かせる少しの時間をつくることは自分の健康づくりを考えたときに欠かせない要件だと思うのです。

耀は、長続きさせるのがコツで、自律神経は習慣的な動きをするため、「できることを続ける」ことが重要になります。

腹式呼吸が身体にいいからといっても一度に1時間もやってあとが続かなければなんにもなりません。

一度に行う時間よりも、一度におこなう呼吸の回数を目標にやられることをお奨めします。

吐いて吸うことを一回として、それを30回ワンセットに。

時間の取れる方は一日二回2セット日中と寝る前にできれば申し分なしです。

そして、腹式呼吸をするときの意識はヘソの下におければ最高です。
これは身体エネルギーを上昇させないための意識コントロールとして欠かせない条件です。

これが一ヶ月継続できれば体に変化を感じてきます。
心肺機能がアップする。
血流がよくなる。
免疫力がアップしてきた。
息切れしなくなってきた。
体力が持続するようになった。
不眠が改善されてきた。
のぼせが減ってきた。
身体が軽くなってきた。
内臓機能の具合がよくなってきた。
動悸が減ってきた。
頭痛が軽くなってきた。
老化の予防。
ホルモン分泌の活性化。
うつ病改善。
精神的安定と執着からの解放。
等々そのた様々な改善が期待できます。

腹式呼吸をするときの姿勢を紹介します。

立ち姿勢の腹式呼吸
kokyu

仰向けの呼吸法
aomuke

座位の腹式呼吸
zai

腰が楽な座布団使用
zabu