逆境で咲く心の花

蓮華草試練のなかで感動

エンジンの回転がスムーズでないと車は機能しない。6年前の4月に私が倒れた時の原因は、過労による心臓の異常頻脈だった。

病気という病気は一切見つからなかったが、歩くことができないほど心臓が疲れ切って息切れしていた。

5月に入っても立って歩けば動悸するから四つん這いになって庭を歩いていたのだが、ふと目の前に蓮華草が咲き始めていたことに気づいた。鮮やかなピンク色の綺麗な花が強烈に目に入ってきた。

これまでは特段、意識することはないのに、この時は花、自らが眼に入ってきたように強烈に感じた。

私が見向きもしなくても蓮華草は咲いていたであろうに、四つん這いになって手足で歩くことで、初めてその静かに咲いている偉大な存在に気づいたのである。

そして思わず上に眼をやるとしだれ桜の花が咲き始めていたのだった。体調が良くないことで上を向くことを忘れていたのである。

謙虚さも忘れ、足もとで咲いている花にさえ眼をやる余裕がなかったことに改めて気づかされた。

以来、毎朝、庭の花を見ることが楽しみとなった。

あるがままの姿を観、それに同調するとき、心は風を感じ、空気の匂いを感じ、緑の鮮やかさを体いっぱいに吸い込むことができる。

起床して、ブログを投稿して、日課のウオーキングを済ませ、いっとき、庭に咲く花に目をやるとき、一輪の花にも広大で深遠な風景が広がっていることを実感することができる。

ささやかな至福の時間である。

どんな場所でも幸せはある

自分の置かれた環境、職場、家庭に対し不平不満を持ち、他人の出方で幸せになったり、不幸になったりするようでは、私達は環境の奴隷でしかない。

「人に生まれること難し」というが、人間として生れたことは、自らが望んでこの世に出生できたのであるが、そのこと自体たいへん尊いことなのです。

私達は、どんな所に身を置いても、そこの環境下で、そこの主人となり、自分の花を咲かせなくてはなりません。

それは「自分が変わる」ことのみによって可能となるものです。

自分の花を咲かせるということは、「仕方がない」と諦(あきら)めることではありません。

それは、自分が笑顔で幸せに生き、家族や周囲の人々も幸せにすることによって、自分がここに生れ、ここにいて良かった、有り難い、と証明することなのです。

自分がいる場所、置かれた環境で心の花を咲かせる、これはすべての人々に必要な、生きるための心得ではないだろうか。

進学しても思うようにいかないこと、就職しても困難にあえぐこと、結婚しても、子育てをしても「こんなはずじゃなかった」と思うことが色々と出てくるでしょう。

そんな時にも、その環境下で勇気をもって努力してほしいものです。

しかし、どうしても心に花を咲かせることができない時があるでしょう。

そんなときは、無理に咲かせなくていいのです。

その代わりに、心の根を下へと降ろして張るのです。

根を下へ降ろすということは、心に偏ったところが無いかを点検することです。

どのような出来事に対しても偏った思考をすれば根を張ることができません。

根を張ることができなければ、水分、養分を吸い上げることができないのです。

養分を吸い上げることができなければ、綺麗な花を咲かせることができないでしょう。

根を張ることは、次のチャンスに、より大きく花を咲かせるための準備なのです。

今、自分が置かれた立場、環境が、理不尽、不条理な仕打ち、憎しみの的、信じていた人の裏切り、年をとって片隅に追いやられている人もいるかも知れません。

こういった厳しいものであるならば、私たちは、より大きな花を咲かせ、その花をもって天に帰ることができるでしょう。

私たちに与えられた多くの試練を有り難く両手を広げていただき、自分しか作れないオリジナルな心の花束にして、笑顔で天に持ち帰りたいものです。

自分の偏りのない心を、真の神性仏性と信じて、人々と調和して生きること、これこそが真の信仰だといえるでしょう。

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