大きな木になるには

働く就職活動を称して就活というようですが、若い人たちの仕事への取り組みや事情をみていますと、数か月で仕事を変える、あるいは契約期間が切れるから次の仕事を探さなくてはならない、等々、割と短期間で変わることも多いようです。

企業の事情も30年前とは随分と変わってきてはいますが、若い人たちの仕事に対する考え方も変わってきたように思われます。

一つの仕事を長く働くという意味では、今の時代は必ずしもそういう考えばかりではないところも伺えますし、企業自体の雇用形態が随分と様変わりしました。

本当は安定した職場環境を誰もが望んでいるのでしょうが、現実はそうもいかないところもあります。

厳しい世の中ではありますが、「職場は変わっても職種は変えない」こういう一つの考えをもっていることのメリットはとなると、その道のプロになれるという点だと思うのです。

職場というのは、どうしても、人間関係の不一致から我慢して、我慢して働くこともいつかは限界がくることもあります。

しかし、自分がこれまで続けてきた仕事の内容まで簡単に捨ててしまうのはどうかと思うのです。

やってきた仕事に誇りを持ち、次の職場でも同じ仕事を続けていくことで、「〇〇のことならあいつに任せよう」というくらいになる。

自分が辛抱して続けてきたことが報われる瞬間です。

信頼を得るということは辛抱して自分のスキルに磨きをかけることでしょう。

そうしてこそ初めて、職業という幹の太い樹になれると思うのです。

大樹になるには四季の風雪に耐えて成長する過程が欠かせません。

自分のなかで、これで十分だと考えるか。

いや、まだ足りないと考えるか。

こういった紙一枚の考えが、

大きな成長と成果の違いを生みだしていくのだろうと思います。

よく聞く言葉ですが、「何をしたらいいか」という模索です。

しかし、「何をしてはいけないか」を知ることも大切だと思うのです。

そして、いくらになるかと、お金の勘定が先にありきも解りますが、そうではなく、人にどれだけのことをしてあげられるか、という姿勢も人間が大きくなるには必要でしょう。

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無心

蝶

明日26日は秋彼岸の明けです。

彼岸花の咲きどきに蝶が彼岸花を訪ねています。

まるで魂が楽園(彼岸)に舞い降りたように。

花 無心にして 蝶を招き、 蝶 無心にして 花を訪ぬ。

花 開くとき 蝶来たり、 蝶 来たるとき 花開く。

われもまた 人を知らず。

人もまた 吾を知らず。

知らずして 帝則ていそくに従う。

上記の詩は良寛さん(江戸時代後期の僧侶、歌人、書家)ことばです。

花は、蝶を招こうとして咲いているのではなく。

蝶に、花を訪ねようという心があるのでもない。

花が咲くと、蝶が飛んできて、蝶が飛んでくる時に花が咲いている。

自分も、他の人々のことは知らないが、他の人々も自分のことを知らない。

互いに知らないながら、天地の道理に従って生きています。

花は意志をもって蝶を招くのではなく、蝶も意志をもって花を訪ねてはいない。

花は、咲く時節がきたら咲き、蝶は飛ぶ時節がきたなら飛ぶのですね。

ただそれだけのことで、それが自然の摂理なのでしょう。

蝶は花から蜜をもらい、蝶は花から花に花粉をつけてやります。

自然とその関係で互いの子孫の繁栄につながっているというこの素晴らしさ。

それこそ自然の仕組みの見事さなのでしょう。

私たちが何かをするとき、良い結果を出そうとか、良くやろうとして張りきると、どうしても肩に力が入り、やること為すことがぎこちなくなってしまう。

どんなに力んでみたって、自分のもっているもの、その人のもっているもの以上のものはそう容易くでてくるものではありません。

心が無心で、これまで蓄えられたその人の持ち得たもの、能力、経験、心、というものが素直に表現されたとき、人が感動するようなことができあがってくるのではないかと思っています。

無心とは、自分がもっとも素直になれたとき、あれこれ思い煩うことなく一つに専念できた時、精神バランスも偏りがないときのことをいうのでしょう。

言い換えるなら、自分らしくあるときでしょうか。

自分らしくあるためには他と自分を比較しないことと心得たい。

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憑依と思いこむことの間違い

おんぶ「子どもの様子がおかしいからみてください」といってくるケースがあります。

あるいは幼児から大人まで「憑依されたから何とかしてください」と連絡をしてくるケースが時々あります。

ところが実際に調べてみると憑依ではないケースがあります。

この「憑依」という言葉の意味はどういう状態をいうのか、人によってその解釈も理解もマチマチで随分と違いがあるようです。

本来の憑依というのは、霊が乗り移ること。

乗り移るというのは憑(つ)くことを憑依、というのであって、それは私たちが体をもっているから体に憑くのであって、体がなければ憑きようがないわけです。

それではなぜ体に憑くのかというと、実はその人の心に憑いているのであって、結果的に体が霊の依代(よりしろ)となるということです。

この原理、原因はどこにあるのかというと、体にあるのではなく、憑依される人の心にあるということを正しく理解しておかなくては憑依は続くことになります。

憑依は、その人の心に影響を与え、思考が不安定、不調和になってきます。

思考が不安定になるということは、心が影響を受けた結果として憑依霊の不調和な精神状態が憑依された人の表に出るのであって、強いては感情の起伏が激しくなる、言動に一貫性が無くなる、気分にむらがある、自分では正常だと思っていたとしても他から見ると極めて冷静ではない人間に見えているわけです。

また、このことによって体調が思わしくなくなることも多分にあります。

憑依とは言っても、その実態は様々であって、浅い憑依であれば、自分の理性も働いてなんとか日常生活をできているケースがあります。

深い憑依となると精神状態が通常の自分ではいられなくなるために理性が働かなくなり、精神的な疾患にまで陥っているケースがあります。

一日24時間の憑依ということは少ないのですが、ちょくちょく憑依されることを繰り返すことによって、霊道ができてしまい、何かしらちょっとしたきっかけがあると豹変することにもなりかねません。

ときどき不安定になる人、荒れる人もいますが、全てを霊のせいにしたり、憑依のせいにすることもできません。

それ以上に、自分自身の業(カルマ)人間性、個性、傾向性、によって翻弄されている場合がありますから、これは自分自身が気づいて修正していく努力をしなくてはならないでしょう。

よくあることですが、自分にとって不都合な事や、意に沿わないことがあると言動がおかしくなるということがあります。

これはやはり、その本人が自分自身を冷静に客観視して修正していくしかありません。

憑依についてもう少し述べておきます。

もう一人の自分がいるとか、誰かが私に話しかけてくるとか、あれこれ意味不明のことを言ってみたり、果ては「神様が語りかけてきた」「龍神がこう言っている」「お稲荷様が言っている」等々、神や仏を語りだしたら最悪の状態だといってもいいでしょう。

神様や龍神、お稲荷さまについてはこの場は割愛させていただきます。

このように誰かが耳元で語りかけている、囁いている、その人と会話している、こういった状態は憑依の進んだ状態とみていいかと思います。

特徴としては、耳元で聞こえてくる音声(言葉)は低級霊の為す行為です。

逆に、次元の高い霊の場合は耳元で語りかけるというようなことはありません。

高次な霊からのメッセージは、言葉や想いが、胸の中に湧き出るようにして広がりがあり、何よりも安らかな境涯になれるものです。

その点、耳元で語りかけてくる霊の場合は、この安らかな境涯になることはなく、いつも心が不安定で、イライラしたり、落ち着かず、悲しくなったり、淋しくなったり、急に怒りの感情が湧き出たりする傾向にあります。

憑依の現象としては、人によっては非常に貪欲になり、何事にも自己堅持欲や自己主張が強く、飽くなき欲望の権化となってしまうこともあります。

この憑依について世間では、神降ろし・神懸り・神宿り、等とも表現しているところがありますが、本来は違うと思います。

憑依は邪悪な霊、未浄化な霊、浮遊霊、地縛霊、自縛霊、つまり悪霊が憑いた状態をいうのであって、神降ろし、神懸かり、神宿りという言葉の意味とは本質的に異なります。

ですから憑依と神懸かりは別に考えたいのですが、社会では一緒にまとめて解釈されているところもあるようです。

ここでもう一つ述べておきたいことは、「神懸かり」という言葉の意味合いについてです。

例えば、シャーマンが自らの意思によって徐々にトランス状態になり、関わってきた霊体の意思をメッセージとして代弁するというシャーマニズム

実は、このシャーマンにも人それぞれに魂のステージがあって、そのステージの差異によって関わってくる霊界者の次元が異なってくるということ。

したがって、神が人間に直接降りることは無く、神だと思っているのは実は霊界において使命をもった霊人が指導している光りの天使だと理解すべきでしょう。

そもそも、この辺の事情については、高次な霊人とのコンタクトがとれる人間ならばよく解っているはずです。

次元の差はあっても、霊界とのコンタクトの原理を例えていうなら、人間の魂(心)は受信機であり、送信機だといえばわかるでしょうか。

ラジオを聞くには、自分が聞きたいチャンネルに周波数を合わせる必要があります。

この周波数を高次な世界にコンタクトさせるには自分の心のステージを日頃からアップしておかなければなりません。

したがって、自分の心のステージの高低がどの位置にあるかが、憑依になるか、高次な霊とのコンタクトになるかを決定づけることになります。

否、高次な霊とのコンタクト云々という必要もなく、自分の心の安息をつくりあげることが何にも増して重要だと思います。

過去には「卑弥呼」という人が邪馬台国にて女王に君臨し、政治をおこなっていいました。

卑弥呼は、(日巫女・ひみこ・太陽に仕える巫女)(日御子・ひみこ・太陽神の御子)(姫子・ひめこ・姫御子)とも解釈され、シャーマンとして高次な霊界と交信しながらそれを政治にも反映していたとされています。

卑弥呼に関しては諸説あり、人物像が不祥なところもありますが、2世紀後半から3世紀前半に活躍された人物として紹介されています。

霊界とコンタクトできる人、コンタクトしやすい人、されやすい人、人の波動を敏感に感じやすい人、人の波動や場の波動を体で感じやすい人、霊波動に負けて心乱しやすい人と様々です。

中には憑依そのものは軽度のものでしかないのに、言動がとても乱れてしまう人もいます。

こういう人の場合は、基本的に自分の心に不調和な想念があるため、浅い憑依や他人の邪気波動を被っても精神を取り乱す傾向にあります。

こうしてみますと、「憑依」と一言にはいってもその実情は多岐にわたります。

大切な事は、他人の邪気を被った場合も、憑依された場合も、それを解除するために浄化をしてもらったとしても、そのことで根本的な解決にはならないということ。

こういった現象から根本的に解放されるには、先ずはその実態をよく理解すること。

そして、自分の心の調和を実践すること。

その為の学びをすること。

これなくして、「私は憑依体質です」「私は霊媒体質だから」といって自分の心の傾向性を改めなければ何ら改善されることは無いでしょう。

憑依は体質だから、といって体のせいにして自分の心の不調和や未熟に蓋をすることだけは改めなくてはなりません。

私がこれまで接してきた人たちのなかで、霊的なトラブルに遭遇している人の場合、感情の起伏がある人、自我心の強い人が最も深刻であるケースが多くみられました。

最後にお伝えしたいことは、憑依然り、邪気の霊波動に翻弄されること然り、これは体だけの問題では済まされない問題だということです。

邪気波動を被ったときも、憑依されたときも、いずれも自分の体調の良くないところに強く作用して症状を自覚するものでもあります。

それだけに日頃から自分の健康管理を心掛けておくことが肝要です。

またそれ以上に心の健康に努めていきたいものです。

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天に心を向けることの効用

Relax and Yoga Outdoors人となりを表現する言葉として、個性、性格、人間性、タイプ、徳性、といったものがあります。

幼いころから人前に出ることが苦手だったり、自分から積極的に行動することができなかったり、誰かに引っ張ってもらわないと何かができないというケースもあります。

そういう人でも、「これをやってみたらどうかな?」と段取りをしてやると動き出す。

積極性に欠けるといえばそうですが、自分のもった性格というものはなかなか変えがたいものです。

こういう人の場合は、自分は何のために働くのかという基本的なところを心に落としておくことで気持ちが前に進むことができるところもあるようです。

もう一歩踏み込んでいうならば、「自分は何の為に生きているのか」という人生の原点まで掘り下げて自覚すると、更にブレのない前向きな気持ちがうまれてくるものです。

人間はたくさんの失敗をします。

しかし、昨日の失敗からは多くの気づき、学びがあります。

今日を精いっぱい、一生懸命に生きることで、初めて明日に期待がもてることになります。

何かを成功させたかったら、成功するまで失敗を繰り返すことに憶病にならないこと、と私は思います。

そういう必死な生き方をするとき、また、している人をみると必ずその人は見えない光りを放っています。

そういう人は、やがて人生の生涯においても光りを放つものとなるでしょう。

長い冬を越して、やがて春の日差しを感じる体は、冬の寒さを知っているからこその温もりを実感できます。

人生も苦境・試練を経験しているからこそ人様の温もりを有り難く思えるのでしょう。

人間は人間同士の関わり・つき合いのなかで助けられ生かされていますが、反面、人間を相手にするからこそ、失望もしたり、争いにもなったりします。

こういう時に自分の心を乱さないためには、人を相手にするのではなく、もっと大きなもの、例えば宇宙の意識、宇宙の法則、自然の法則、といったところの天に心を向けて人生を考えることも自分を取り戻す手段、方法となります。

眼の前の小さなことに心を動揺させて、大切なもの、大きな目的を見失うのは勿体ないことではないだろうか。

いつもカウンセリングをしていて、私自身が思うことは、「これをやれるか、やれないか」ではなく「やる気があるのか、ないのか」だけだと。

ですから、目的地までの距離が問題なのではなく、初めの第一歩が、踏み出すことの大切さとしてすべてだと思うのです。

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夢に向かって一歩を踏み出す

登山相談者のなかには色々な悩みを抱えてみえるのですが、こうなりたい、こういうふうにしたい、と、夢は誰もがもっているものだというのがよくわかります。

そして、病気を治したいといいます。

だが、実際には、でも、しかし、だって、けど、という言葉が先にでてくる人は多い。

大切なのは、自分の心にムチ打ってでも明るい言葉を口にして、先ずは一歩を踏み出すこと。

その夢を実現させようとするなら、漠然とした考えだけで、頭でっかちになるのではなく、自分に気づいたときに行動をする勇気です。

それが自分づくりであり、自分らしさの表現であろうと思います。

その夢が小さな夢であろうが、大きな夢であろうが、どちらにしても、それをを成し遂げるには、日々、身を粉にして働かなければならないということもあります。

そして、そのことを誰もが理解すべきです。

努力が伴わないビジョンは、単なる夢にとどまってしまいます。

意味のある努力、すなわち、正しい目的意識もった、たゆみない努力をを続けることなしに、価値ある目標が達成されることはありません。

人生には近道も、楽々と得られる幸せなどあろうはずがありません。

自分の足で、一歩ずつ歩いていかなければ頂上に辿りつけないのが登山ですね。

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仕事に情熱をもてますか?

仕事仕事を辞めたいと思った時、新たな仕事に就いた時、人生の辻々思わず立ち止まってしまったとき、いままで自分のしてきた仕事でも、プライベートな時間でも更に情熱をもって積み重ねて行こうと思ったなら続ければいい。

しかし、何かが間違っていると気づいたら、別な仕事をやってみるのもいいだろうと思う。

同時に、自分の都合が優先するあまりに、せっかくのチャンスを失うばあいもあるから、その辺は冷静に判断基準を検証してみることが必要でしょう。

新しい場所で仕事をする情熱が湧きだしたら、自分自身を発見することになるかもしれません。

先ずは、避けるのではなく、逃げるのではなく、行動してみること。

働いてみること。

そこに、自分の才能が眠っているかもしれない。

大事な事は、情熱がもてるかどうかだと思う。

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永遠の未完成

夢「永遠の未完成、これ、完成なり」

という宮澤賢治の言葉があります。

これで完成、と思えば自分の成長が止まります。
これで完成、と満足したところで、なにも見えなくなる聞こえなくなることがあります。

完ぺきで無いという現実。

欠陥だらけであるという現実。

他者のほうがより優れているという現実。

こういった経験はたくさんしてきました。

これらの現実から目をそらさず、その現実をわかった上で、

「永遠に完成に向かって前進し続ける未完成」でありたいと思います。

夢もまた、永遠にかなえられることなく、しかし、毎日毎日、より大きく育ち、

ひとの一生をより大きく育てていきます。

そういう未完成の日々の集大成がひとの人生という、大きな完成像を、形成していくのでしょう。

現実は、人生は、試練もたくさんありますが、じつは夢の対極にあるのではなく、私たちの夢を持続させ、育ててくれる、大きな環境であろうと思っています。

その環境に対して上手にありがとうと言える心こそが、夢をもてる人。

夢は、賢く、勇気のあるひとだけが見ることができるのだと思う。

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偽我は本当の自分ではない理由

16904699_T3本当の自分って何ですか?、本当の道って何ですか?と聞かれたことがあります。

よく聞く聞く言葉ですが、まことのことわり即ち真理、不変の法則というものを知っていて少しでもそれに沿った生き方をしている自分が本当の自分だろうと思います。

日本人は、永い間「罪悪深重の凡夫である」と自分のことを思ってきたところがあるようです。

罪悪深重とは、人間は、重く罪深い、迷える生き物だという意味でしょうか。

しかし、そういうことは本当の自分ではないということを知っている真我、つまり、まことの自分こそが本当の自分だと思うのです。

言葉を変えるならば、「自己の確立」は、「真我なる自分」を自覚することではないかと。

ですが、自分を知ることほど難しいことはありません。

偽我なる自分を自分だと思って、この偽我なる自分をよくしようと思っても、それは手にくさいものを握って、臭くないようにしようと手を振り廻しているようなもので、臭くないようにしようと思ったら、手に握っている汚れたものを捨てればよいだけのことでしょう。

これと同じように、偽我なる自分は本当の自分ではなかったと気づいたら、その手から、その心から放してしまって、真我こそ本当の自分であったと心から自覚し、以降は発想の転換をすることが大事だろうと思います。

心の大きさ、豊かさ、明るさは、この世の人生だけで築かれるものではなく、前世、その前の過去世と、永い輪廻転生によって、どの程度、真我なる自分、もっと深く言うならば、「宇宙即我」なる自分を自覚できるか、自覚しているか、その自覚の程度によって決まるだろうと思うのです。

その自覚を深める為には、心を静めて、自分を省みる瞑想、禅定、を必要とします。

だいぶ昔に教育テレビでおこなった「瞑想の時間」という番組で、瞑想は壁に貼ってある曼荼羅を半眼で見つめて無念無想になるという説明がありましたが、これは必ずしも正しいやり方とはいえないところもあるようです。

私が思う正しい瞑想禅定は、自分が「神の子である、真我である」ということを、念を集中するのではなくて、まったくそのまま、素直に認めることから始めることだと思います。

この瞑想禅定によって、その人の心の大きさ次第で自分から離れて自分を、そして他の世界を客観視できるものです。

ですが、私自身が今もってそうですが、外界のことに心を乱してしまうと、冷静さを見失い、本当の自分を見失ってしまいます。

本当の自分、真我なる自分のままでいることは容易いことではありません。

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徳・業とはどんなもの?

178-179A-A-B16K親の徳により子どもの運命が変わるという教えがあるようですが、はたしてこれはほんとうなのでしょうか。

それならば、親の徳とはどういうものなのか、子どもの徳とはどういうものだろうか。

きょうは徳について述べてみたいと思います。

徳とはなんでしょう。

私が思う徳とは、心に偏りがなく、正しく、人に善をつくしてゆくものではないかと思っております。

特に宗教の世界では、これみよがしの「徳を積みなさい」が多いと思いますが、そうした徳は徳とはいわないように思うのです。

他人に気づかれず、ただ黙々として、慈善を行っている人も知っていますし、まさに文字通り陰徳を積んでいる人、こういう人こそが徳行の人というのではと思います。

例えば、小さなことかもしれませんが、道路や電車の中に紙や新聞紙が落ちていて汚れている、人にいう前に、そうしたものを黙って拾い、町や車内を明るくする人、そういう人をいうのでしょう。

それではそういう私自身はどうなのかといいますと、小さなことではありますが、春と秋に二回ほど、自宅から学校までの道路脇の側溝からゴミ拾いをし、通学路を守るために草刈りなどを楽しみます。

草刈りをすれば道路がきれいになり見通しもよくなり、子供たちの安全にもいいし、とてもすがすがしい気持ちになります。

私の住んでいる岩手山麓は、道路整備が行き届いていますから交通量も相当なもので、車の窓からポイ捨ての空き缶やビン、お弁当の食べカラ、雑誌までと様々なゴミが道路わきに溜まっていきます。

何よりも自分が毎日通る道ですから、清掃したあとは気持ちがいいものです。

さて、徳の話ですが、徳の多い人は、人から慕われるであろうし、歓待をもうけるでしょう。

徳は心の財産であり、人間として尊敬もされるでしょうし、他に対しても穏やかに接しようとする姿勢を忘れていないと思います。

しかし、徳を積むとはよく聞きますが、その歓待を期待して徳を積むわけではなく、尊敬されるために徳を積むことであってはいけない。

町や車内を明るくすることが、自分にとっても、町や車内にとっても気持がいいからするわけです。

そうしてそのことが、間接的には人びとの心を明るくするわけです。

人びとの関心を集めるために、または徳のために徳を積むわけではないということ。

ある宗教団体では、その教団に奉仕することが徳を積み、子孫を繁栄させるものだと教えられ、暗黙に強制しています。

こういう教えが存在することをどう思うでしょうか。

しかし、徳というものはそうした特定の場所だけしかないというものではないだろうし、社会のいたるところに転がっていて、その機会も限りなくあるでしょう。

神を語り、仏を語り、教団に奉仕することが徳を積むことと指導することに疑問をもたずに奉仕する姿は、純粋というより、何かしら不可解な観が否めません。

徳を積むことは決して特定の場所や、人がいる、いないに関わりなく為せることです。

もしも、神仏の加護、守護指導霊の加護があるとするならば、それはその人の徳に応じて、あなたを守り、あなたの家を守ってくれるでしょう。

徳は心の調和の現われであり、そうした心と行いの家庭が不調和になることは少ないと思います。

徳を持っているのも人間、業を持っているのも人間、とするならば、何かしら問題があっても徳の部分が業を上回るだけのものであれば、やがてはそれを乗り越えていくでしょう。

人間は今の姿、今の状況をみて人となりを判断しますが、実は、今の姿はこの世に生まれてからの人生だけでできた徳でもなければ、業でもありません。

前世、その前の前世(過去世)という連綿と続いてきた魂の輪廻のなかで培われてきた魂の姿が今のその人の姿でもあります。

人によっては輪廻転生の過程において黒い想念を身につけていく人もいるでしょう。

逆に、よくよく自分を省みて自分の悪しき想念、つまり黒い想念に引かれないように心して少しずつ心をきれいにしていく人もいます。

自己のなかにある黒い想念は、人の意見が正しいと思っても、その意見にあえて逆らい、反対方向へと自分を持って行ってしまいます。

奇癖、頑固、優柔不断、執着、これらはみな業のなせる作用、すなわち魂の癖といえます。

業にしろ、悪想念にしろ、執着にしろ、私たちは、大なり小なり、その影響を受けながら生活しているのが現状でしょう。

こういった自分の魂の癖から抜け出す方法は、ただ一つ、何を行うときも心には中道の物差しをおいて、それに照らし合わせて思い、行動するすることだと思うのです。

いつの時代も家庭の問題、親子関係において悩みはつきず、その背景には、親も子も輪廻のなかで、それぞれの人間形成がなされてきたのであって、今の姿だけをみて人生を憂いて悲しむ必要もありませんし、悲観してもならない。

十代、二十代で人生につまづいても希望を失くすることなく、やがてくるであろう雪解けの春を待っていたいものです。

前世、過去世からの、ある程度の徳をもって誕生したとしても、子どもは両親の感化を非常に受けやすく、その意味においては親が日々の調和を忘れることなく生活する必要があります。

したがって、両親の徳、不徳(不調和、業)が子どもに影響を与え、その子どもの将来に強く影響してゆきます。

つまり、子どもの運命に大きく作用してつくり上げてゆきます。

俗に「親の光は七光」といいます。

親の徳が子供や子孫の生活に影響を与えることはたしかですが、子ども自身の魂に徳がないと、恵まれた環境にあっても、親の徳は長続きしません。

基本的に、親と子の魂はそれぞれ異なっており、同一ではないので、その運命のあり方も、当然、違ってくるからです。

親子といえども、肉体こそ親からいただいたことは間違いありませんが、魂だけは親から授けられるものではありません。

すなわち、親の修行と、子の修行は、同じ環境下で生活しながらも目的や使命、役目、といったものはおのずと別であり、子どもには、子どもとしての人生の目的なり、使命があるからです。

子に対する親の役目は、子どもが成人し、社会人となって、人間としての道をはずさない立派な一員になるよう導くことであり、それ以上のものでも、以下のものでもないでしょう。

子は、自分の人生を自分の足で歩んでいかなくてはなりません。

また、親もいつまでも子どもの足取り、手とり、金を与えて自立心を削ぐような、節度を超えた溺愛は避けなくてはならない。

親の想い、想念は、愛と思っておこなっていても、それが偏ったものであれば、その想念によって子どもを縛ってしまうこともあり、煩悩的に子どもの安全のみを願うと、かえってそれが災いし、子どもを不幸にすることになるから気を付けなくてはならない。

たとえ愛とはいっても、過ぎた想念はかえって人間の自由を奪う想念となることを知っておかなくてはならない。

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