金儲けの善悪

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世の中には、どんなにきれいごとを言っても、社会ではお金を儲けた者が勝ちだと思う人もいるかもしれません。

たしかに世界の経済は「資本主義」に基づいて成り立っています。

したがって現在の社会制度の中では、善悪に関係なく多くの成果を得た者が、よりたくさんのお金を儲けるということはやむえないところです。

そういう意味では、成果を得た者、たくさん働いた者、そういう環境を得た者が勝ちと言えるかもしれません。

しかし、それを当然と受け止めずに、自分の人間形成のため、そして一般の社会のために働いている中の一人であることを自覚する必要があるのではないだろうか。

働くことの最終的な意味をつきつめてみると、「大いに働け。大いに儲けよ。大いに蓄えよ」というものがあります。

これは、戦後の日本人がまさにやってきたことではないでしょうか。

しかし、ドイツの社会学者ヴェーバーは最後に「そして、大いに施せ」と付け加えているのです。

ここが日本人と違うところで、日本人は大いに働き、大いに儲け、大いに蓄えて、そのまま自分のポケットに入れてしまってきました。

それでは、エコノミックーアニマル(利益ばかり追求する動物)でしかないように思うのです。

この「大いに施せ」という部分に、「エコノミックーヒューマン」という働く者の人間的価値を高める要素があると思います。

大いに施すことによって、生きる糧のために働くことが、そのまま自分の人間性を成長させることになると信じるところです。

利益を自分のものにするだけの個人主義の考え方であってはならないと思うのです。

勿論、私自身も、正当に働き、正当に儲け、正当に働く者たちに還元するという経営姿勢であり続けたいと願っています。

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清く優しく生きるということ

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私は昨夜、寝る前に布団の上でしばしの反省瞑想をおこなった。

しばらくして、私は自問自答した。

おまえは何を望むか。名誉か、地位か、それとも財産か。

私はすぐさま、地位は欲しいとは思わないと答えた。

また、名誉も欲しいとは思わない。

そして、財産は日頃の生活に足りたらよいと思った。

しかし、それよりもどうしても欲しいものがある。

それは「謙虚」だ。

日頃は心がけてはいるのですが、こうして改めて時間をとって自身を省みると、決して謙虚になりきれていない。

次には何を望むのかと問うた。

「親切を」、と心に広がる。

さらに何を望むかと問うた。

「無明」という言葉が浮かぶ。

しかし、何故に無明なのだろう。

無明という言葉は、迷いのことであり、真理に暗いことの意です。

本来、志のある者ならば、成長したいとか、悟りたい、とか思うのが一般的なはずなのですが。

ここでまたしばらく何故、無明なのかについて思いをめぐらせた。

結果、「いつも心を下におきなさい」ということに辿り着いた。

迷っても腐らず、怒らず、愚痴らず、志を忘れずに生きたい。

まだまだ、私は心の内に潜む驕(おご)りを捨てなくてはならない。

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信仰者の苦悩

読経

志津子 のコメント: 2015年1月24日  3:43 PM

初めまして。
こちらのサイトを紹介いただき初めて拝見しております。

私は某宗教団体に入信して一年になります30代の教員です。

入信の切っ掛けは、私自身が体も弱く、病弱であるばかりでなく、どうしても誰かに頼る癖があり、何かしら問題があるとすぐに誰かに相談したくなり、自分で時間をかけて解決策を考えようとしません。

そんな自分に後から嫌悪感が襲ってくるのですが、問題が発生したときはいつも心が動揺して冷静さを見失っている自分がいます。

友人に誘われるままに集いに参加して信者と一緒にいることで安堵感があり、事あるごとに支部の方に出向くようになっていきました。

しかし、月日が増す毎に中の様子がわかるようになり、信者仲間の陰口を聞くようになってきました。

それと同時期頃から私の体に異変がおきはじめ、体調が段々思わしくなくなってきたのです。

仲間は、朝夕にお題目をあげてごらんなさい。
そうすればそのご利益によってあなたの体調が上向いて救われますよ。といいます。

疑いを持ってはならない。
信じて唱えなさい。
と、言われるままに実践しているのですが、やればやるほど私の体調が悪化してきているのが良くわかります。

最近は、朝起きが辛くなり、夜の睡眠も浅くなり、日中の仕事の時間にも集中力が薄れてきています。

このままではもしかすると仕事ができなくなるかも知れないという不安感が強くなってきました。

私の入信を知った従兄弟からは、その教団はやめた方がよいと再三言われるようになりました。

それをきっかけに教団の悪口や、これまで知らなかった様々なスキャンダルや事件の話も聞かされました。

真偽のほどはわかりませんが、私の中でたくさんの疑問が湧きだしてきております。

観童様からみれば、私の信仰は他力信仰でしょうか?

もし、他力信仰だとするならば、なぜ他力信仰はいけないのでしょうか?

信仰の浅い私にも分かるようにご教示頂ければ有り難く存じます。

宜しくお願い致します。

尚、名前は匿名で記しましたので公開して頂くことには支障がありません。

 

質問へのお答え

先ず、人間の意識活動は、その全体量のわずか10%しか表面にでて働いていないということについてはこれまでもブログ上で述べてきました。(想念領域・(表面意識・潜在意識)

通常は、このわずか10%の意識活動のため人間は先のことがわからないことのほうが多いということ。

それと、人の心の癖、つまりカルマというものが、ちょっとや、そっとで修正しにくいところに他力の発生、即ち依存信仰の原因があるということ。

こういう理由からすれば、神仏や教祖に向けた祈り(願い)や念仏が、こうした人間の弱さから生まれ、今日の信仰形態が、仏教、キリスト教を問わず、他力に変形していったのも、無理はないと思われます。

しかし、無理はないといっても、他力という、依存した心、精神では、気づきや、本願(悟り)を絶対に得ることはないということも覚えておかなくてはなりません。

なぜならば、人間の心の歪みは何かに委ねるという他力では修正できないし、また、心はそのようにはできていないからです。

人間の魂は、私たちが思う以上に無限の可能性を秘め、徳性をもったものであり、自分の心の在り方次第で如何様にも可能性を拡げていけるという、この事実をまず認識して、自覚を持たなくてはなりません。

このような特性を、神性仏性といってもよいでしょう。

あるいは、神の子といってもよいでしょう。

では、どうして神の子かということですが、先ずはその前に、この大宇宙森羅万象は、神が創造したものという大前提をここにおかなければなりません。

神が、その意思と自らの力で大宇宙森羅万象をつくられた。

そうして神は天地創造と同時に、創造した現象物質界に、永遠の調和をめざすことを意思されました。

人間の心をみればわかるように、目標のない意思は意思として働かないし、運動のない生命は、生命として生きてこないことは科学的にも説明がつきます。

永遠の調和、生命の転生輪廻(循環の法則)は、そうした意思のもとに始まったと表現してよいのではないでしょうか。

こうしてみると、神の意思の継承者は人間でありましょう。

この点は避けることができませんし、私たちは人間に生まれたことを素直に、謙虚に感謝すべきです。

そして人間は、神が果たされた天地創造のその働きを、こんどは人間が果たしてゆかなければならないと思うのです。

この能力こそ、神性仏性であり、神の子の証しですし、動物とは異なる理性と、知恵と、勇気と、愛と慈しみを備えた魂であります。

こうした意味で、私たち人間は自ら意志し、善なる己の力、能力、すなわち自力によってのみ、神の子としての目的と使命を表わすことができるものでしょう。

何かにすがるようにお題目を唱える心こそ、私たちの精神を弱体化する行動でしかありません。

世の中には信仰という信仰を持たなくてもしっかりと人生を正しく、偏らずに、人々や社会と調和しながら生きている人たちがいますし、私の周りにもそういう人間がたくさんいらっしゃいます。

必ずしも特定の宗教団体に属さなくても学びはできます。

私は宗教が悪いとは考えておりませんが、教義を教団の都合のいいように歪めて教える指導者や幹部に問題があることは明白です。

宗教で金が儲かること自体がおかしいのです。

真の正しい道は、大宇宙、森羅万象に表される神の心にもとづいた想念と行為を教え、調和という大目標に向うことを示すものではないでしょうか。

祭っている神仏や、歴史に残る宗教指導者や、あるいは教団の教祖に向けて委ねる他力依存の読経や祈りは誤りであり、人間が生まれながらにしていただいている無限の可能性を持った神性仏性に眼をふさぐことになります。

疑いを持ってはならない。
信じて唱えなさい。

これらは、自らの心にある能力の芽を摘むものです。

宗教ばかりではなく、何事においても疑問をもつことは、事の真理を覚るためにも必要なことであり、鵜呑みにすることは盲信、狂信そのもので危険この上なく、長じては自分の精神破たんまできたす可能性もあります。

他力で、安心が得られ、悟れたという人にはいまだにお会いしたことがありません。

日本の他力は、古くは、法然、親鸞によって開かれたことになっていますが、仏教を大衆化し、衆生の中に根を下ろすには、時代背景からすれば、こうした方法をとるより他に手段がなかったように思います。

ですが、例えば「南無阿弥陀仏」にしても「南無妙法蓮華経」にしても、お題目を唱えて悟れるようには人間の心はつくられていません。

唱えているときだけ心の安定が図られているという錯覚は、決して悟りにつながるものではないでしょう。

人間、他力では開祖でも悟れないとすれば、大宇宙を動かしている偉大な能力と、その能力を感知できる自分自身を、ふりかえってみる必要があるのではないだろうか。

尊大な自分の心を信じて、日々の行いのなかで、自分の心の癖(傾向性)を改めていく努力こそが大きな心の調和となり、悟りへと近づき、何事にも囚われない自由な心を得ることになるでしょう。

あなたの信仰している教団については言わずとも、聞かずともわかります。

そして、もうひとつ踏み込んで言わせていただくならば、はっきり申し上げて、非常に不調和な教祖、教団、幹部であるばかりではなく、霊的視点からすれば、背後には常に邪悪な存在が渦巻いていることも申し上げておきます。

あなたの身体が表しているサインを信じて、それがとても重要な意味をもっていることに気づかなくてはならないでしょうし、早期に脱会することをお奨め致します。

あなたの健康、そして人生をよりよいものにすることは、先ずは今の信仰を捨てることでしょう。

そのことによって邪悪な霊的背景からも遠ざかることで解放され、やがてはあなた自身の心の調和と共に本来の自分に立ち返ることができるでしょう。

あなたの本当の人生はそこから始まると思うのです。参考になりましたでしょうか。

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心のステージアップ法

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「観照」という文字を国語辞典で調べますと、 「主観をまじえないで物事を冷静 に観察して、意味を明らかに知ること。」と説明してあります。

それでは自己観照とはどういうことかとなると、自分で自分をみつめること。

それは他人をみるように、他人に接するような態度で自分自身を客観的に感情的にならず、冷静に観察してみること。

つまり、自分から離れて第三者の立場で自分自身を眺めてみるということだろうと思います。

何かしら問題が発生したり、自分にとって都合のよくないことがるとすぐに感情的になったり、相手の立場を考えずにものを言ってしまう。

こういうことは皆さんも見たり、聞いたり、直接そのような場面に出くわしたことがないだろうか。

私自身も未熟者ではありますが、感情的なやり取りは、お互いにとって決して気分のいいものでもなく、お互いのためにもなりません。

そうなるとお互いが素直な気持ちで対処するということがとても大事だということがわかってきます。

私自身も、仕事を通じて人を育てる立場にありますからわかることですが、学ぶことに関して、不必要なプライドや、人の前で恥をかきたくないという気持ちや、先輩だから後輩からは言われたくないとか、人から良く見られたいとか、こういった心というものは、実は自己保存の心であって、学びや進歩にはとても邪魔なものでしかありません。

人間、素直な心を養うためには、たえず自分の心の動きということを忘れずに、自分自身を客観的に観察し、正すべきを正してゆくことが大切だと思うのです。

自我や我執、エゴ、カルマ、業という言葉があります。

これらは同義語と理解していいかと思いますが、人間は、意識しないまでも、つい自分自身にとらわれるというか、自分にとらわれるほどに自分で自分がしていることを正しく観ることができないことが多いものです。

ところが、人は「自分のことは自分が一番知っている」といいます。

たしかに自分の心の内を他人がうかがいしるということは難しいということはいえるでしょう。

そういう意味では他人よりも自分のほうがよく知っているといえます。

しかし、自分の考えや行動が果たして独善ではなく、自我我欲の言動ではなく、道理にかなっているのかどうか、社会的にみても正しいことかどうか、また人間としての心の機微に適したものかどうかをみてみると、これはまた別だと思うのです。

こういったことになると、むしろ、他人のほうがよくその人物を解っている場合が少なくないでしょう。

どうしてかというと、自己中心的という言葉が示すように、人間は、どうしても知らず知らずのうちに自分中心に、あるいは自分本位にものごとを考えがちになって、他者からみたときには随分おかしいことでも、本人にとっては一生懸命に考え、それを正しいと信じている場合が多いからです。

こうなると、自分自身にとらわれた自己本位の考え方を押し通そうとすればするほど人間関係も、物事も円滑に運ばなくなってきますし、遅かれ早かれ必ずといっていいほど問題が発生したり、他者から批判されたり、人が離れて行ったりすることになってきます。

こういった自分にとらわれた思いや行動というものは、他人が傷つけたり、あるいは自分が傷つくということになってくるでしょう。

更に、その考えが社会の正義を脅かすようなことであったり、共同社会の幸せに背くようなことならば、やがては我が身を滅ぼしてしまうことにもなりかねません。

しかもその人が、社会の指導的な立場に立っていたならば、単に自分を滅ぼすだけでなく、指導される人びと全体の思考や人生を間違った方向に導くことになり大切な人生を誤らせてしまうことにもなってきます。

特に、私が宗教家や思想集団の指導者を厳しい目でみるのはこの辺の理由があるからであります。

かつてのヒットラーやムッソリーユ、あるいは旧日本の軍部指導者の考え方のなかにも、こうした自己中心的傾向のために暴走して戦争を起こしたことは否定できないと思うのです。

つまりそういう人たちは、自分の考えこそが絶対に正しいと信じこみ、知らず知らずのうちにエスカレートし、自己本位の勝手な考えなり行動に陥っていることに気づかなかったのでしょう。

あるいは、気づいてはいてもエゴの為に、あるいは保身のために引き下がれなかったということもあっただろうかと思います。

その我執が、自分だけでなく周囲の多くの人びと、あるいは国全体を迷わせ、そこに多大の損失と犠牲という不幸を招くことになってしまったのだといえましょう。

こうした経験は大きすぎる犠牲者を出しましたが、私たちの日頃の生活の中でお互いに多少なりとももっているのではないかと思います。

さて、それではどうすれば自分自身にとらわれない素直で謙虚な心づくりができるのだろうか。

先ずは「観照」を心がけたらどうでしょうか。

これは、冒頭に述べたように、いわば自分の心をいったん外に出して、その出した心で自分自身を見直してみる、つまり客観的に自分で自分を観察することを心がけるということです。

昔から、鹿を追う者は山を見ずという諺が示すように、目先の利益 を追っている者は、それ以外のことが見えなくなり道理を忘れてしまうことがあります。

ということは、一 つのことに夢中になって、他のことに余裕がなくなること。

山の本当の姿は、あまり山の中に入りすぎるとわからなくなってしまいます。

山の中にはいろいろな草木もあれば、石ころもある。それらも山の一部ですが、しかしそれだけが山の姿ではありません。

山の全貌を正しく知るには、やはりいったん山から離れて、外から山を見るということもしなければならないと思うのです。

遠くからばかり山を眺めていてもその山の細かい様子はわかりません。

こうしてみると、やはり、どちらか一方に偏ってしまった状態というのは事の真実を見失うということだろうと思うのです。

自然の世界の成り立ちや出来事は、そのまま人間の心についても、これと同じことがいえると思います。

自分では気づかなくても、誰しもそういうことをある程度はやっているかもしれません。

例えば、自分が何かを夢中になってやっているとき、フッと我に返る場合があるように、自分は何をやっていたのだろうと、冷静に思い返してみるというようなこともあるでしょう。

それをいつも冷静にできるように心がけ、また普段の生活の中で実際にやっていくわけです。

もちろん自分の心を内から外へ出し、そしてそれを眺めるということは慣れないうちはなかなか難しいことです。

しかしそれを心がけ、継続して訓練していくことによって、しだいにできるようになってききます。

要は、そういう自己を観照、つまり客観的に自分の考えや行いを観ることによって、自らのとらわれ、執着、自我、我欲、エゴ、自己中心などに気がづく習慣を増していくということです。

自分自身を正しく把握することは、自分本位に陥らずに、偏りのない判断力を身につけるということでしょう。

そういった意味で、この「観照」は、拘り、執着のない、謙虚で素直な心をつくることになります。

そうしてその謙虚で素直な心をしだいに高めていきますと、つねに物のほんとうの姿、すなわち実相を正しく把握することができるようにもなると思います。

最後に自己の観照とは、素直な心を養うための一つの実践手段であり、人間対人間の相互関係をよりよくする最高の訓練法であり、ステージアップ法だと思います。

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出家と悟り

結跏趺坐AKIO様の質問 平成27年1月20日

私は団塊世代の男性で定年後の人生を模索している者です。

昨年こちらのサイトを知りましてから訪問して勉強させていただいております。

私の場合は、会社員として働いておりましたときに様々な問題について深く考えているひまなどないくらい忙しく、ただただ仕事を消化するだけが精一杯でした。

いまこうして退職してみますと、かつての生き方に虚しさを覚えるほど突っ走ってきた事に気づかされ心のやり場に困惑しているところもあります。

これから先の人生を考えるときに、これまでのような生き方にはしたくないという思いがあり、出家でもしようかなと考えたりします。

人間は出家しなければ悟れないものでしょうか?

私の同級生に僧侶がいます。
彼は家がお寺だから相続のために僧侶になったのであって、道を求めて僧侶になったのではないようです。

その事は、学生時代のクラスメートであった私も良く彼の気質を知っておりますから望んで出家したのではないことが理解できます。

また、私の家の檀家寺の住職は酒もギャンブルもやりますし、地域では有名な遊び三昧の人間です。

出家することと、心に悟りを得ることは一緒ではないと思えてなりません。

私の人生観はゆっくり、穏やかに、そして執着せずに生きたいという思いがあります。

しかし、今の自分は心に様々な迷いがあり、どのようなことから始めたら良いのかさえわからないのです。

何とぞご指導をお願い致します。

托鉢AKIO様の質問にお答えします。

あなたのメール内容を拝見して、定年まで必死に働いてこられた様子がうかがえてとても他人ごととは思えず、よくぞ勤めあげられましたと称賛したいと心から思います。

それだけにやり遂げた後の虚脱感といいましょうか、ひとつの目標を失ったことによる心の隙間に、はっきりとご自分でも気付かれたのではありませんか。

出家という言葉を口にするあなたは、実はとても自分自身の心の動きというものに対して探究心がある方なのでは思うのですがどうでしょうか。

その証拠に、「かつての生き方に虚しさを覚えるほど突っ走ってきた」ということをいっておられます。

こうしてみると、あなたの心の内では、物やお金や地位による充足感ではなく、ほんとうの心の安心、平和、そして調和というものを求めておられるのではありませんか。

それでは、あなたのご質問にありました、出家と悟りということについて、とても大きく重要な問題ですが触れてみたいと思います。

インドのブッダ(釈迦)の時代は、家庭を捨てて出家しました。

出家することによって、人間のあり方の理解をより深めていったことは事実だと思います。

在家のままだと、家庭や社会に対する責任や義務が生じてきて、それが心をしばります。

人間の心と人間社会の理解を深める思索なり、瞑想も容易でありません。

ことに人間は環境に流される性質を持っていますので、心を縛るもろもろのわずらわしさから逃がれたいと、誰しも考えると思います。

だが、よく考えてみたいのですが、人間は社会的生物です。

社会を離れて人間の生活はないし、第一それでは生きる意味が非常に希薄になってしまいます。

人間との関わりを絶った孤島に一人で生活するとなれば、その時点で悟るとか、悟らないとかの必要性が起こってくるかどうかです。

人の心が自己保存に流れ、エゴに執着するのも、人と人との関係のなかで生まれてくるものでしょう。

つまり、社会生活があるから、悩みや苦しみが生じてくるわけです。

人と人との関係を断ち切り、一人生きるなどということは、すでに、それ自体、人間否定の考えであり、山にこもって世俗を離れ、仙人生活で仮りに悟ったとしても、いったいその悟りはなにを意味しているのでしょう。

悟るということは、具体的には、個人と全体とのつながりを知り、個人と全体をよりよく生かす調和の生活行為しかないではないでしょうか。

社会生活を離れて個と全体を知ったとしても、それを社会に生かさなければ、なんにもならないと思うのです。

インド時代の出家には、さまざまな理由があったと思います。

まず、当時は戦乱の時代であり、カースト制度という人種差別があり、今日のように治安が保たれた家庭生活を営むことがむずかしかった。

そのため、家庭を持つより独身を通すとか、出家して俗界を離れることに、人びとの心が向いたことは容易に推測できます。

ことに当時は、僧侶を頂点として制度化されたカーストがとられ、盗賊でも出家僧を襲うことはなかったようです。

出家僧はなにひとつ物を持っていませんでしたから、襲う必要がなかったともいえましたが、ともかく、食べ物でも山に行けばたくさんあったようだし、村や町に出れば、村人たちが布施してくれました。

ですから、生活があまり困らないし、着るものも黄衣一枚あればこと足りたし、寝るところは洞窟か大木の下でもすごせたわけです。

気候は日本とちがい、年中温暖でしたから、生活が非常に楽だったことでしょう。

このような状況から、男子ばかりか、女子までも出家したのです。

釈迦集団も女子の出家を認め、身の安全をはかってやったこともあったようです。

といって、釈迦集団が出家だけを目的として、身一つの生活だけをよしとし、社会生活からまったく隔絶してしまったかいいますと、そうではなく、村や町に出て、伝道して迷い、悩める人びとを導いていったわけです。

つまり伝道という仕事を積極的に行ない、在家信仰を推進しようとしたのです。

そうして社会の平和を求めて歩いたわけです。

一人山にこもり、社会生活を離れて、悟ることのみを目的としたものではなく、悟りは、第一段階の目的であり、悟ることによって、第二段階の社会の平和を目ざしたのです。

この点を間違え、悟ることが最終目標と考えたら大変です。

また出家しなければ悟れないという考えも間違いでしょう。

在家にあっても立派に悟ることができるし、また在家のなかで、ごく普通の生活をし、自分を調和させ、人びとを調和させることが人間のあり方でしょう。

気をつけなければならないことは、既成観念にとらわれず、五官六根に翻弄されぬ自己を確立するよう努力していきたいものです。

出家して僧職にあっても煩悩のままに酒やギャンブルと遊戯三昧と世間にみられるなら世も末です。

人はそれぞれに役目を担って生まれてきているはずで、万人が万人、一人残らずあるものだと思います。

そうしてその使命は、現在置かれているそれぞれの立場、環境の中で立派に果たしていけるものではないでしょうか。

役目と言うと何か特別な役割のように聞こえ、思いがちですが、本来そういう特別なものではなく、現在自分に与えられている環境を、明るく、正しく、調和された世界にしていくことで新たな人生が開けてくるものでしょう。

人間は、朝、睡眠から覚めて起きたら、新たな生命の誕生と何ら変わりのないほどの価値と意味のある人生のスタートできます。

それだけにきょう生きていられる事の尊さに感謝の心を忘れてはいけないと思いながら生活していきたいものです。

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この世の死刑・死のない?あの世

克雄様からの質問 2015年1月17日

いつも拝見しております。
観童様のブログは考えさせられる内容のことが多く、いつも読みなおしてみたり、過去の記事を拝見しております。

質問をさせてください。
この世では立法があり、それによって秩序が保たれているところもあるのですが、法のもとに死刑判決があり、処刑される人もいます。

ところで、あの世では神の意に反するような魂でも抹殺されることはないのでしょうか?

ノアの洪水はあの世にもあると言うようなことが、とある本に書かれてありましたが、もし、そうであれば抹殺されることになるのかなとも思われますが、実際のところはどうなのでしょうか?

もうひとつだけ、双生児の魂はひとつではなく別々の魂なのでしょうか。

思考や行動がよく似ているところを見ますとどうなのかと不思議でなりません。

唐突な質問で困惑されるかも知れませんが、できる範囲で結構ですので宜しくお願い致します。

 

ノアの箱舟

克雄様の質問へお答えします。

この世で肉体をもって生きている人間には必ず死があり肉体は朽ち果てるときがきます。

勿論、人間だけではなく、あらゆる動物、昆虫、その他の生命体には死とともに生命再生の循環がなされていることはご承知のとおりでしょう。

しかし、あの世には死はありません。

例えば、あの世の修羅界や餓鬼界というような、いわゆる地獄の世界の場合、その住人達はいつも戦い、物に飢え、心が飢餓状態のなかにあります。

こういう世界に住することになったのは、生前に非常に物欲、地位、名誉欲、いつも怒りのままに生きた人間、足ることを忘れた強欲な心をもったまま死んでいったからであります。

彼らはお互いを罵(ののし)り、ときには殺しあうのですが、殺されても間もなく再生し、同じ修羅界、餓鬼界で苦しみます。

この原理はどういうことかといいますと、先ほども述べたように、この世では肉体があるから肉体死があるのであって、あの世では霊体(あの世での肉体)と魂だけの世界ですから3次元(この世)的な肉体死がありません。

それはちょうど、私たちが夢の世界で様々な経験をするのですが、それが現実の事ではないことに、夢から覚めたときに気づくことと、とても良く似ているのです。

それでも夢の中にいるときは、夢中になっていたりするのですが、もがき苦しんだり、とても怖い夢をみて、それが現実のことのように思っているのが夢の世界です。

しかし、夢は単なる夢ではなく、次元の異なった世界に行て様々な経験をし、そこから学び取らなければならないことがたくさんあるのです。

心が調和されていれば、上記のような地獄の世界に行って怖い夢を見ることはありませんし、いわゆる天国というにふさわしい非常に調和された美しい自然環境のなかにいる自分に無上の喜びを感じることでしょう。

阿修羅の世界、餓鬼道の世界にいる諸霊たちは、本人が心を調和して、かつての足ることを忘れた煩悩から離れ、悟るまでその界にとどまることになります。

あの世は実在する世界であって、永遠に消えてなくならない世界であります。

一方、この世は諸行無常というように、時間か経つとすべて大気や土、自然環境に同化していきます。

このように、一つ一つの生命もそうですが、マクロの世界では、私たちが住んでいる地球でさえも、ある時間が経つと大宇宙のエネルギーと化してしまいます。

しかし、実在するあの世ではそういうことはありません。

仮に、ノアの洪水が起こり、人びとが水の底に沈んでも魂は死ぬことはできません。

それだけに、心不調和な者は苦しみがつづきます。

この世は病気で苦しければ鎮痛剤を使用したり、睡眠薬で眠ることができ、肉体的なその苦しみからいっとき解放されることができます。

ところがあの世はそうはいかず、その苦しみからのがれるためには、苦しみの原因をとり除くしかありません。

あの世に行っても、いまだに生前の肉体感覚に囚われてもがき苦しむ諸霊たちは特に、苦界からの解脱のために、苦界に陥った自らの心にある原因を正さなければなりません。

魂の死は永遠にめぐってきませんから、生きるための調和をはからなければなりません。

この世では、死を称して永眠といわれますが、残念なことに、あの世では永眠などということは絶対にないのです。

この世の価値観は、あの世の価値観に比べると、とても人間的であり、感情と欲望が肉体に左右されたものでもありますが、あの世の場合は、次元の高い世界ほど愛と慈しみだけがすべての世界であります。

そういう世界であるだけに、この世的な人間の価値観によって立法化された法によって人間を処刑し、抹殺するというようなことはありません。

双生児

さて、ご質問の双生児についてですが、双生児の兄弟は魂の似た者が一緒に宿ると理解してよいでしょう。

決して、一つの魂が二つに分裂して双生児となるということはありません。

現実には、双生児の兄弟は体も、考え方も、仕草も似ています。

肉体は遺伝しますから、お母さんが一緒なわけですから当然の理ですが、魂はそうではありません。

成人して一人が死ぬと、残されたもう一人がそのあとを追うように死ぬこともありますが、これは思考についても似た者同士であるように、双生児の場合はカルマも非常によく似ているので、生ばかりでなく死まで似てしまう場合が起こりうるわけです。

よく道を歩いていて、知人や友人にウリニつの人と出合い、間違って声をかけたりした経験のある人もあろうと思います。

顔、形の似た人というのはなにも双生児とはかぎらず、よくあるものです。

また、考えも、仕草も似ているという人も間々あります。

ですから双生児にかぎらず、似た人はよくみかけるものです。

双生児は同じ環境で育ち成人しますから、ますます似てきてしまっても何の不思議もありません。

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エゴと人間・正しさの基準

怒り

エゴと傲慢

相手の立場や状況を考えず自分の都合だけで話す癖があり、相手の気持ちが引いていることに気づけない人。

また人間関係に毒をもたらす人はどこにでもいますし、自分の身の周りでそういう人がいることを誰でも1人や2人は知っているかもしれません。

職場の同僚であったり、上司であったり、知人として知っていたり、あるいは一緒に暮らしていたりと…。

もしこのブログを読んでいるあなたが、これまで言動に毒のある人と時間を過ごしたことがあるか、もしくは相手が余りにも寡黙すぎて自分の世界にだけ生きているような、何を考え、生きているのかさえ理解しかねるような経験があるならば、彼らがいかに理解しあえない人であるか、建設的でないか、あるいは破壊的で人を疲労させるかを、ご存じのはずです。

調和ということは大切な心の基準ではありますが、しかし、だからといって自分の心の限界を超えてまでそういった人との調和のために自己犠牲をして自分の精神を病ませることは真の意味での調和に沿うものではない。

私たちは、時にそんな人との接触をある程度は制限し、自分で身を守る必要があります。

これは逃げではなく、自分の心身の調和のためであり、相手のためでもあるのです。

重要なことは、何故、相手が言葉やその行動に毒を持っているのか、コミュニケーションを図ろうとしないのかです。

同時に私たち自身の落ち度によって相手がそのような言動になっていないのかどうかを深く知る必要があります。

相手を変えることは非常に困難であり、できないことのほうが多いのですが、自分が変わることで相手が変わっていくという状況であればまだ、その関係はまともな状況だといえるでしょう。

不要なプライド

自信と傲慢の間には言葉の意味がもつ大きな違いがあります。

自信は何かを創造し、生じさせますが、傲慢は人を萎縮させ、場をネガティブな空気にします。

傲慢な人はいつも知識や物事を誰よりも一番良く知っていて?、他人より優れていると感じで押してきます。

こういう人は周りの人をほめたたえることは決して無いでしょう。

彼らの自尊心が邪魔をするからです。
エゴと被害者意識

話しをしていていつも言葉にするのは、自分は「された、言われた、やられた」という自分は可愛そうな立場だというアピールをする人がいます。

周りにいる中で最も危険な人の1人は、いつも犠牲者ぶる人です。

こういう傾向のある人は、自分の問題や間違いに直面すると、常に非難できる他人を見つけることで自分を犠牲者にし、自分の内にある問題点を他に責任転嫁する癖に気づいていません

理不尽な上司から、溺愛を愛とはき違えている親、そして愛情のわからない両親まで、彼らは決して、自らの人生の責任を自分で取ろうとはしないのです。
エゴと支配

支配したがる人は、物知りであり、何をするにも一番合理的な方法を知っていると思っています。

しかし、常日頃はとても不安のなかで生活しているのです。

こういう人は周りの人たちの声を聴いたり、意見を求めることなどなく、周囲の人たちの自主性を持った行動をさせてはくれません。
エゴと妬み

嫉妬で悩む人は、自分の持っているものに決して満足しませんし、他人に良いこと、幸せなことがあっても、起こってもそれを素直に喜ぶことがありません。

ましてや他人が成功したり、成長したり、進歩しても、それを素直に称賛することができないのです。

彼らに何か良いことが起きるなら、自分に起きるはずだと感じていることも多いのです。
エゴとウソ

人がいる限り、ウソは存在します。

実は嘘が存在するのではなく、ウソをつく人がいるのです。

しかし、常習的にウソをつく人は、害を及ぼします。

周りの人が何を信じたら良いかわからなくなるからです。

こうなると、彼らの約束や言葉をあてにすることはできないでしょう。

こういう人は、他人についての根拠のないウソを口にし、あなたについての根も葉もないウソを他人に言うのです。
エゴと消極性

いつも怒っていて、自分を主張し、不満と、愚痴を言葉にし、何事も疑ってかかり、人を信じることができない人に心当たりはないでしょうか。

ネガティブな態度は人間関係をつくれないだけではなく、壊すような、物事に否定的な人と時間を過ごしていると、自分の活力が奪われるのがわかります。
エゴと欲望

この社会のルールは「もっと欲を出し、もっと成功し、もっと稼げ」という効率優先主義の社会構造です。

そういった欲求や向上心は、正しくもって働くことで善にもなるでしょう。

しかし、人が自分のものだけでなく、他人のものや、それと同じもの、同等のものまでを欲するようになると、足ることを忘れた偏った、執着した欲望に支配されるようになります。
エゴと批判

批判には客観的で洞察力に基づいた進歩向上のためのものと、ただの自己都合による否定的な批判があります。

批判的な人は、常に結論をすぐに決めつけます。

彼らは人の話をあまり聞きませんし、話し合いが上手ではありません。
エゴと噂(うわさ)

井戸端会議とはよくいったものです。

おしゃべりな人にとって、三面記事や他人のゴシップの情報交換は楽しく時間をつぶせる会話でしょう。

こういった世間話、噂話しは、自分の不安を鎮めるためであり、憶測と推測、事実、ウソの区別がありません。

人間関係において、うわさ話しほど破壊的なものはないでしょう。
エゴと人格

誠実さや正直さが欠けている人、盗んだり、ウソをついたり、巧みに他人を操ったりする人は、自分の目的を達成するためなら躊躇することはほとんどありませんし、見事に演じ切ります。

こういう人に邪魔者と見なされたら、もう大変、彼らは持っている力をすべて駆使して追いまわし、音を上げて立ち去るまで画策してくるでしょう。

ここまで紹介したような個性や特徴を持っている人があなたの周りにいるなら、まさに今苦しめられている最中かもしれません。

もし、そうなら先ずは苦しみを軽減するためにも距離を保つことから始めることです。

て、それでは上記の内容に関連して、きょうは「正しさ」について述べてみます。

自分は正しいと考えても、第三者が正しくないということがある場合もあるだろうし、そういう経験をされた方もおられるかと思います。

正しいと思っても実は正しくないことがある。

人はそれぞれ過去世における心の成長、調和の度合、経験、知識によって、今世におけるその尺度がどうしても違ってくるということもあるでしょう。

ほんとうの正しさの基準ということがどこにあるのか、どのようにあるべきかという、正しさのあり方について述べてみます。

私はこれまで「正しい心の在り方」についても何度か述べてきました。

正しい心の在り方は、心の目的が右にも左にも、上下にも片寄らない心(中道)にあるわけですから、自分の立場を離れて、常に第三者の立場で、ものを見る、聞く、語るということが大事になってきます。

すなわち、正しさの規準は、自分の心と他との全体調和ということになります。

そうしてその調和は、より高い次元の調和を尺度とすることはいうまでもありません。

そこでその規準の例を挙げてみましょう。

その規準というのは、人によって正しさの尺度がどう違うか、心と生き方の尺度は、どの辺の尺度を指しているかということです。

どの辺の尺度かということについて、この世の価値観をちょっと離れていただいて、あの世精神段階からみてみることにします。

あの世は、大きく分けると、分かりやすく表現するならば、地獄界、幽界、霊界、神界、菩薩界、如来界の六つに区分できるでしょう。

つまり、六つの区分にはそれぞれの精神段階における正しさが支配しています。

短気

地獄界

非常に拘りが強く、不満、愚痴、怒り、妬み、恨み、傲慢、などのエゴ(自我)で心を曇らせて自我のままに生きた人のいる暗黒の精神世界である。

幽界

この世界は、自分と言う立場が正しさの尺度になっています。

自分さえよければ人はどうでもというエゴの精神世界であり、自己保存の立場が強調され、自己保存を損なうものは正しくない、つまり、悪につながるという考え方です。

この世での現実の社会は、まさにこの幽界の正しさが支配している場面が多いようです。

霊的な視点からこの世をみるならば人類の約三分の一の人たちと思われますが、これは国によっては三分の二となっている治安のよくない国もあると感じられるところもあります。

霊界

この世界は、いわば持ちつ持たれつで、人に与えたものは与えられる、しかし与えたものが返ってこないと気持がスッキリしないという精神性が支配しています。

きわめて生前における常識の観念が、ここでは価値の尺度になっています。

まだまだ形や形式に拘りがある精神性が見受けられます。

緑

神界

この世界は、人から損害を与えられても人を非難しない。

人を非難する前に、まずその原因をふりかえり、二度と再びその原因をつくらないよう努力する世界。

つまり、「正しさ」の尺度を他に求める前に、自分に求め、第三者の立場で常に前向きにつとめてゆく人びとの集団、社会、これが神界の精神性をもった人々といえるでしょう。

こうみてきますと、ほんとうの正しい生き方の尺度というものが、どの精神段階にあるべきなのか、大体おわかりと思います。

地獄界は論外ですが、幽界、霊界ではなくて、やはり神界以上精神境涯になくてはならないでしょう。

もしあなたが、これまでその「正しさ」を霊界に求めていたとすれば、真に自分の心を正しく掌握することはできないと思います。

なぜかといいますと、己の心にないものは、自分の周囲に現われることがないからです。

この原理原則をまず、かみしめていただきたい。

喜びも、悲しみも、私たちの想念がっくり出しています。

つまり、思うこと、念ずることが、私たち自身をつくり出しているということです。

もう一つ大事なことは、人の心は二つとないということ。

小説や芝居を見て、悲しい場面が出たときに、あなたは笑いますか。

反対に、笑う場面に変ったとき、あなたは怒ったり、泣いたりしますか。

そういうことはまずしないでしょう。

つまり、人の心というものは、みな同じだということがいえます。

とすると、自分の心を知ることは、人の心も理解できるということです。

神界という精神境涯の尺度で已の心の動きをみつめてゆきますと、人の心がわかってきて、人の悲しみは自分の悲しみにつながり、人の喜びは自分の喜びにつながってくるものです。

しかし、エゴが強い精神境涯ほど人の心をわかってやれなくなります。

それが霊界の精神境涯であり、更に、幽界の精神境涯であり、地獄界ともなると人の心さえ忘れて動物化した精神境涯となってまったく自分だけの世界でしかありません。

托鉢

菩薩界

菩薩界の人びとは、慈悲の心、愛の行為が先に立ちます。

それは幽界、霊界の心では、自分の心が痛み、いわば天にツバする行為と変らないことが、実感として感じられてくるからです。

つまり、人の心は一つであり、現象化した現われの世界は別々でも、人の心に二つはなく、心は天につながっているので、その神性を汚すことは、自分を苦しめ、人を悲しませるなにものでもないからです。

菩薩は、常に天の心を尺度として、愛行に一身を投げ出す人をいいます。

つまり、菩薩の「正しさ」は、形ある人びとの間というより、人びとの毀誉褒貶(きよほうへん・ほめたり、けなしたりすること)に心を動かすことはなく、ひたすら、愛と人びとを生かすことに人生の目的を求めます。

価値の尺度は天の意識といってもよいでしょう。ウソもエゴもない人びとの心です。

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如来界

如来といわれる人の心はどうかといいますと、ここへきますと、神の意識と表裏をなすものですから、衆生済度、つまり、人々を生かし、助けるという愛と慈しみの心しかありません。

俗世間的な価値の尺度はここで消えてしまい、宇宙と己の心は不離一体です。

その宇宙に不純な波動があれば、その波動を正純なものに変えなくてはなりません。

このため、一定のサイクルで降臨されて法を説き、地上に光を与えていく存在であり、偉大な光の天使です。

如来の境地まで悟って解脱すれば転生してくることはないという説をいう人もいますが、決してそんなことはありません。

正しさの規準について参考になりましたでしょうか。

あなたはどのような規準で「正しさ」を求めておられましたか。

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「ダンナの実家の墓には入りたくない」年末年始の帰省で心に巣くう“女の本音”

お墓

葬儀、埋葬、追善供養の多様化

核家族化と少子化が進み、先祖からの墓地、墓石を守る習慣も薄れて、お寺の収入源である葬儀、追善供養、ご法事と言った習慣が薄れてきたためにお布施や戒名料などの収入が減り、檀家寺が自己破産するような時代になってきました。

近年、お墓に対する価値観も非常に多様化してきており、必ずしもこれまでのように高価な墓地を求めたり、百数十万の墓石を買って自分たちがそこに埋葬してもらうということでもなくなってきたのです。

また、これまでのように先祖代々のお墓に埋葬してもらうことを希望せず、自然葬や樹木葬のように、一切のお墓を設けずに土に還すことを希望したり、お骨の一部を自然に散骨したり、あるいは、専門の業者による小さな納骨堂に収めたりというようなかたちをとるようにもなってきました。

いつの時代も時の流れと共に価値観が変わっていくのは自然のことであり、葬儀、埋葬、ご法事、追善供養、こういったことについても随分と様変わりしてきました。

きょう紹介する記事は産経新聞の記事であり、上記のような埋葬に関する価値観とはまた別な問題かもしれませんが、人間の感情部分が埋葬に関わっているという点では関連性があろうかと思います。参考になさってください。

以下、産経新聞 1月11日(日)8時5分配信

「夫の家墓(いえはか)に入りたくない」こんな声が、女性の間でしばしば聞かれる。

「先祖代々の墓」「○○家の墓」に眠っているのは夫の先祖や祖父母でも、妻にとっては知らない人ばかり。

核家族化で「家」意識も希薄になっている。

ところが、年末年始の帰省時にお参りをすると、家と向き合うことになり心の中に葛藤が生まれるようだ。夫には言えない妻の本音を探ってみると…。(寺田理恵)

入っているのは知らない人ばかり

東京都の会社員、上田幸子さん(43)=仮名=は毎年、正月に関西にある夫の実家に帰省したとき、墓参りに行くのが憂鬱だ。

「ダンナが長男だからといって、関西に住んだこともない私が、何でこんな知らない人のお墓に入らないといけないのか。自分の実家の父にそう言ったら、『家族だろう』と叱られました」

墓参り自体が面倒なわけではない。北関東にある自分の実家に帰ったときは墓参りを欠かさない。

祖父母が眠っていると思えばこそ墓石を磨き、草をむしり、花も替えて祖父母を思い出しながら手を合わせる。

一方、義父母とは確執はないものの、しばしば価値観の違いを感じるという。

「ダンナの実家は郊外の閑静な住宅街に住み、子供は幼稚園から私立へ通わせるような家庭。私の実家は庶民なので、何となく合わない」と悩ましげだ。

「家」意識が重い

年末年始の墓参りが憂鬱なのは千葉県の会社員、山本洋子さん(47)=同=も同じだ。

「ここに入るのかと思うと、漠然とした抵抗を感じます。入っているのは他人ばかり。お参りの作法も私の実家とは違う」

隣の県にある夫の実家では、親族総出で先祖代々の墓にお参りする慣習がある。

驚いたのは、墓石に水を掛けて掃除することだ。自分の実家では、「ご先祖さまの頭から水を掛けるようなもの」と戒められ、乾いた布で磨き上げている。

「いわゆる嫁扱いをされたことはないし、義母とは仲良し。でも、お墓の話になると、自分は夫の家の人間になったと思い知らされるから、まだ話題にしたくない」

戦後の昭和22年に民法が改正され、「家」制度が廃止されたものの、お墓は「○○家の墓」が一般的だ。

高度経済成長期に伴って核家族化が進み、長男といえども親世代と同居しない家庭が増えたが、長男が墓を継承する慣習は根強く残っている。

上田さんも山本さんも「長男の嫁」ながら義父母と同居していないうえ、共働きで顔を合わせる機会が少ないためか義父母と軋轢(あつれき)はない。

お墓を大切にする気持ちはあるだけに、家墓を前にすると日頃は希薄な「家」意識と向き合わざるを得なくなるようだ。山本さんは「夫婦や個人の墓だったらよかった」と漏らす。

東京都の会社員、木村恵子さん(46)=同=は、夫の実家の墓が東京から新幹線を使っても片道5時間かかる遠隔地にある。

夫にとっても、ほとんど縁のない場所だ。「知らない人ばかりの墓」に入ることに抵抗を感じる。そのうえ、墓を受け継ぐべき子供はいない。

「子供でもいれば待っていられるかもしれないけど。自分の実家の墓に入るなんて言ったら、しゅうとめと確執があったと誤解されそう。でも今、死んだらダンナの手で田舎の墓に入れられてしまう。でも、今のうちから嫌とはいえないし」と堂々巡り。

お墓をめぐっては、内閣府(旧総理府)が平成2年に実施した調査で散骨を容認する人が少なくないことが判明し、話題になった。大都市圏への人口流入が進んだうえ、少子高齢化の進展もあって、地方にある墓の継承者がいない問題もこの時期に顕在化してきた。

それから四半世紀が過ぎた今、墓の継承は50歳前後となったバブル世代に身近な課題となっている。上の世代より、きょうだいの数が少ないだけに深刻化しているようだ。

少子化で継承者なく

東京都の会社員、山田優子さん(52)=同=が夫の実家の墓に入りたくないのは、両家の墓の継承問題があるからだ。

義父母も自分の父母も、男の孫は山田さんの長男と次男だけ。

2人はそれぞれの墓の継承者として期待されており、山田さんが夫の方に入れば、自分の実家の墓を継承する方の息子だけが家族と離ればなれになる。

いずれ息子たちがそれぞれの家庭を持つと理性で分かってはいるが、今は4人家族で一人だけ墓が別になるのは避けたい気持ちが強いという。

「夫や子供たちと一緒に入るのは、女性の普遍的な願いでは。でも、事前に意思表示しないと私は夫と一緒に入れられてしまう。かといって、違う墓に入るといえばひと悶着(もんちゃく)ありそう」

墓の継承者は今や貴重な存在だ。神奈川県の会社員、鈴木美香さん(47)=同=も、両家の孫世代は鈴木さんの一人息子だけ。義父の本家は九州で、生前に義母が用意した墓も九州にある。往復するのに時間も交通費もかかるので、墓参りはもっぱら夫と息子だけが行く。

「夫が長男なので、子供のいない親族たちの遺骨も引き受けています。義父のお墓に手を合わせる息子の姿を見て、未婚の叔母が『男の子がいるからお参りしてくれる』といって一緒に入りたがりました。

その場で『どうぞ』と答えましたが、息子一人に全てを背負わせたくないのが本音」

先祖は「自分の近親者」

墓の形態は家墓が主流でも、「家」をめぐる意識は変化した。

第一生命経済研究所が平成21年、35~79歳男女600人を対象に実施したアンケートによると、「先祖とは誰か」(複数回答)について、「自分の親や祖父母などの近親者」と答えた人が73・2%で最多。「配偶者の親や祖父母などの近親者」(45・5%)を上回った。

「誰とお墓に入りたいか」では、「先祖代々のお墓」(39%)が最も多かったものの、男女別にみると男性が48・6%いたのに対し、女性は29・9%にとどまり、男女間の意識の違いが鮮明に出た。

次に多いのは「今の家族で一緒に入るお墓」(25%)で、男性の23・4%に対し女性は26・5%と比較的高かった。

3番目の「お墓はいらない」(20・5%)は男性では14・7%と低かったが、女性では26・2%を占めた。同研究所は「女性では墓に対する意識が多様化している」と分析した。

こうしたニーズに対応し、血縁や地縁に関係なく入れる共同墓や、記念樹の周りに合葬する樹木葬など、墓石を必要としない形態も増えている。

ただ、女性の社会進出が進み、ライフスタイルが変化する一方で、先祖供養と墓を大切にする気持ちを無碍(むげ)にもできず、口には出せないネガティブな感情が心に渦巻いているようだ。

以上。ここまでが産経新聞からの転載です。

今回の転載記事を読んでもわかるかと思いますが、故人の供養、先祖の供養という姿をみますと、旧来の伝統に沿ったかたちの内容であることがうかがえるかと思います。

これは長い歴史のなかで営まれてきた檀家制度によるもので、それが社会通念として私たちの暮らしに溶け込んでいたものですから個人の問題ではなかったということであります。

しかし、今日、確実に葬儀や埋葬方法、追善供養についての価値観の合理化が進み、かつ多様化してきました。

同時に、本当の供養という意味合いからすれば、必ずしもこれまでの伝統や文化、習慣による供養の姿というものが真の供養になっていたかとなると、そうは言い難いものがあります。

以下。ここに過去の記事、供養についてリンクしておきます。参考になればと思います。

「供養」

「供養」

「お経と真の先祖供養のあり方」

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人生を妨げる毒

殿中

悪に生きるものは悪と思わずに生きられるかもしれませんが、人間、正しく生きようとすれば心の悪が見えてくるのは皮肉なものです。

その代表的なところのひとつが、深く限りない欲望。

そして第二に、怒り。

第三に、無知ゆえの愚かに気づけないこと。

この無知ゆえの愚かを仏教では「痴」と表現するようです。

物事や現象には必ず何かの原因があり、その原因の働きによって結果が生じるという法則というものがあります。

自分の足ることを忘れた際限のない欲望の為に堕落したり、大切な仕事まで失ってしまう人もいます。

足ることを忘れた深い欲望は、全てのことを破壊して流してしまうような濁流のようなものかもしれません。

そして、怒りはあらゆるものを焼き尽くしてしまう劫火です。

ものの道理、事の真実ということについて無知ゆえの愚かさは、何が正しい事なのかという判断力を失わせ、人間の心を闇の中に迷妄させます。

昔から怒りの為に人生を無駄にした事例はたくさんみられます。

例えば、武士道(もののふ)の世界では美談として年末の番組などでよくとりあげられてきた忠臣蔵。

松の廊下において吉良上野介(きらこうずけのすけ)の陰湿な言葉に愚弄(ぐろう)された浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)が我慢しきれずに吉良上野介を切りつけたが打ち損じて、後に幕府の長、徳川綱吉の命によって切腹となり、結果的には藩を滅ぼすことになりました。

まさに怒りの火が全てを焼き尽くしたのです。

こうしてみると、人間の欲望は限りないものではありますが、その欲望を捨てることなどできない相談のように思うのです。

であれば、捨てるのではなく、どのようにコントロールするかが重要になってくるのではないだろうか。

よく煩悩を滅却するとか、断滅するとかいいます。

この「滅却、断滅」するという言葉は語源がサンスクリット語で「ニロドハ」というそうですが、調御するということで、コントロールそのものをいうようです。

しかし、この滅却とか断滅という言葉を不可能な事として追いやることもないでしょう。

何故なら、煩悩は心の成就、気づき、悟りの肥やしになるからです。

一般的には煩悩と言うと悪い事の代名詞のように使われた言葉だと思うのですが、しかし、この煩悩を身を以って実感すればこそ心の成就、すなわちたくさんの気づきが得られるということもまた事実でありましょう。

言葉を変えるならば、マイナスをプラスに転じて昇華していくというところに人生の価値があるということでしょうか。

よく整えし己こそ

己を整(調)えるとは、すなわち、身体を整え、心を調え、ものの言い方を調え、身のこなしを調え、考え方を調えるということで、いわゆる正しく、偏りなくコントロールということでしょう。

そのためには何をおいても先ずは、心が一番の元となりましょう。

怒りにまかせて乱暴を働いたり、悪口雑言を吐いたりしてしまうことのないように心の整頓が必要不可欠ですね。

ここにも煩悩は断滅するのではなく、コントロールするものであるという意味があろうかと思います。

煩悩は無くならないものであるから、人間としては偏りなく、正しくコントロールすることのほうが理想的だし、現実的だと思うのです。

五官と意識(六根)

五官と意識と煩悩の関係についてもう一度説明してみます。

仏教ではよく取り上げているのですが、煩悩は「眼・耳・鼻・舌・身と意識を併せて六つが根元なり」としてありますが、この辺のところを少し詳しく述べてみます。

先ず、五官について説明しますと、五官とは、眼・耳・鼻・舌・身(全身)の五つをいいます。

その意味で五官とは純然たる肉体を指します。

ご存知のように意識は肉体ではありません。

意識とは、精神、自我、魂、心などの総体をいいます。

私たち人間の構造は、肉体と霊体と魂から成っており、意識が脳を支配し、肉体を通して生活しますので、肉体と自分(意識)は同一のものと考え、両者を一緒くたに考えてしまいがちです。

しかし、そうはいっても人間は生身の身体ですから、肉体的な疾患によって脳に障害が出てしまうと、その影響は身体の運動機能や思考、記憶にも影響してくることは致し方ありません。

心が健全であっても、肉体、特に脳に障害があるとその影響は大きなものがあります。

次に、六根というものは、肉体である五官に、意識である魂が、自我心のためにとらわれ、執着し、目に見えた現象の姿を真実の姿と見たり、あるいは考えの基本においてしまうので、意識の中に煩悩を生ぜしめ、その欲を重ねることになってしまうのです。

たとえば、洋服をみれば素敵だな、欲しい、自分のものにしたいとする、ブランド品を見ては欲しいとする眼を通しての煩悩が起こり、人の噂に怒りを覚える耳を通しての煩悩もあります。

このほか、嗅覚(鼻)による煩悩、食べもの、言葉による煩悩(舌・口)、肉体保存(身)にまつわる煩悩かあるわけです。

こうした足ることを忘れた煩悩は、肉体五官ではなく、すべて、意である自分の意識の中につくられていきます。

煩悩とは、物や物事に執着した迷いのこと。

迷いに陥った自分を偽我といいます。

私たちは、この偽我に自分を託しすぎるから、争いがつきないないことになってしまいます。

そこで六根とは、五官を通じて生ずる心の迷いの五根と、偽我の自分を加えた総計をいうのであり、これをきれいにしないと、いつになっても平和な心を得ることがでないということを深く心に落すことが大切かと思います

偽我の自分とは、表面意識の小さな自分です。

各人の意識は表面意識と潜在意識があり、表面意識の量はわずか10%しか働いていないのですから、小さな自分になってしまうのも当然といえば当然でしょう。

大きな自分になるには、五官にふりまわされない自分をつくることと、大きな心をつくることを心がけなければならないでしょう。

大きな心とは、先ずは拘らない、囚われない、執着しない、素直で謙虚、そして寛容な心かと思います。

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涙の必要

きょうは過去に投稿した記事を少しだけ手直しして再度アップさせていただきます。

以下。

海

陸地と海の比率は29:71といわれていますが、これは地表測定と海面の測定から、約7割が海と考えて差し支えないでしょう。

その海ではどれほどの人たちが漁をして生活をし、その恵をどれだけの人たちがいただいているのだろうか。

ほとんどの人たちがそうであるように、そのおかげで私も命をつないでいられます。

海は多くの生命が育まれる源でもあり、その恩恵は計り知れないもの。

その水平線の彼方に顔を出す太陽の輝きは、それ以上に私たちに多くの恵を施してやまない。

そんな太陽から学ぶ愛の本当の姿は無償という言葉で心に響き広がります。

お腹を痛めて産んだ赤ちゃんが、お母さんのオッパイに吸いつき、お母さんはその姿に優しい笑みを浮かべているだけ。

与えて喜び、いただいて満足する母子の姿。

きっと、無償の愛の原点はここに始まるのでしょう。

親子だから無償の愛が為せる?

他人だからそれができない?

違います。

無償の愛が為せる人は、自他の心に境界をつくらない。

心から嬉しいとき、どうしようもなく悲しい時、やりきれないほど淋しい時に涙をながすことは悪い事じゃないし、恥ずかしいことでもなく、負けでもないから我慢することはない。

もうすぐ3月で春と共に別れの季節がやってきますが、ここにもたくさんの涙がある。

そして、4月は新たな出会いがはじまり、心にも桜の花が満開となる。

どんな辛いときも、涙を流せば心の曇りを一緒に流してくれる。

涙は、胸の内に抱えきれなくなった感情を表に解き放ち、心のバランスを図ってくれる。

空の雲もやがて雨となった後には澄み切った晴れの大空が広がります。

だから涙を流すことはとても必要なこと。

涙は心に元気と勇気を取り戻してくれる。

涙は命の源。

涙は元気を育む一滴の海。

涙は世界で一番ちいさな海。

走っても、歩いても、一日は一日。

走ってばかりじゃ疲れきってしまうし、動かなければ進めません。

歩いたり、走ってみたり、立ち止まってみたり、ときには戻ってみたり、自分のペースで過ごせればそれでいいじゃないですか。

どんなに体が辛く心が萎(なえ)ても、どんなに自分に嫌気がさしたり、自分を否定したりしても、自分を必要としている人がいることに気づいてほしい。

あなたの身に何かあれば寂しく思い、悲しみに涙する人もいることを忘れないでほしい。

みな必要だからこの世に生まれてきたのであって、必要でない人は誰もいない。

身体の病気、心の病気で動けない、働けないのは実は天がくれた休息の時間。

昇る朝日を浴び、しずむ夕日に照らされてみると、

生きることの勇気や淋しさ、孤独、悲しみを強く心に感じるのは心が生きているから。

太陽から頂くもの、海からいただくもの、山野からいただくものはいつも無言の働きかけ。

静かに向き合わないと、そのことには気づけないで過ぎてしまう。

動いてばかり、走ってばかりじゃ気づかない。

無言の働きかけは太陽だけじゃない。

お月様も同じ。

夜空の星も。

満月も三日月もとてもきれいです。

感じる心は生きています。

野花

野の花一輪だって誰に注目されずともひっそりと花を咲かせている。

そう思うと身の周りの全てが愛おしく有り難く思えてくる。

朝の陽に 何がおわすか しらねども ただ有り難く 涙あふるる

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