続編ドキュメント・心の師を求めて2

進化の道きょうは一昨日に投稿した『ドキュメント・心の師を求めて』の後半部分を掲載します。

2013年8月20日 受信

先生、すぐに返信をしていただき、本当にありがとうございます。

今回、思い切ってご相談させていただき、本当に良かったと感じています。

心に鬱積していたことを聞いていただき、適切な言葉をいただき、視界が開けてきたように感じています。

申し訳ありませんが、もう少し、自分のことを話させていただきます。

家庭環境のことですが、私はありがたいことですが、祖父母、両親の元でオブラートに何重にも包まれたように過保護に育てられたように思います。当時はそれが普通だと思っていましたが・・・

20歳の時に縁があり結婚をしましたが、相手は定職もなく、私が義母の元で働くしかありませんでした。

過保護に育てられ、世間知らずの私は、相手の言いなりになるしかなく、奴隷のように働き、当時誰にも相談出来なかったのですが、時々結婚相手から暴力を受けていました。

張りつめた中での生活でしたが、最後には精神が崩壊するほどにボロボロになってしまいました。

最終的に、相手に新しい女の人が出来、私は捨てられる事になりましたが、今ではかえって幸運だったと思っています。

結婚生活は長野でしたが、私の田舎は栃木にあります。

一度は実家に戻りましたが、親戚が多く、出戻りという立場で人と話すのが苦痛で、また長野に戻り一人暮らしを始めました。

人は鏡ということでしょうか、今は先生に思いやりがあると言っていただけますが、当時の私の中には結婚相手と同じような我儘さ、身勝手さが本当はたくさんあったように思います。

今思い返せば赤面するほどです。

何年か経って今の主人と知り合い、2度目の結婚をしました。

最初の2年位は性格や価値観の違い、お互いの未熟さからぶつかることが多く、そのころに鬱病と、パニック障害を発症しました。

主人との関係を修復できたのは、主人が仕事で独立をして個人で仕事を始めてからです。

事業を営んでいる主人の会社でその仕事を手伝い、職場では友人ができなかったこと、協力しあうしかなかったことが、お互いを深く理解することにつながったと感じています。

ただ、当時は個人事業で食べてゆくのは並大抵ではありませんでした。

仕事は非常にきつく、アルバイトを雇ってもすぐにやめてしまったり、また仕事に追われたり、不景気のあおりで急に仕事が何か月もなくなったり・・・

それで、私も一緒になって現場で働くようになりました。

男のする仕事を一緒になってやる労働はとても体にきつく、いつも疲労困ぱいしていました。

5年ほどたつと、仕事が嫌で嫌で仕方なくなったりもしましたが、そのころは真理の勉強を始めていましたので、これは自分にとっての修行だと受け止めるようにしてきました。

辛くなればお釈迦様の言葉を頼り、シルバーバーチやホワイトイーグルの本に答えを探し、慰めを求めてきました。

主人もなるべく私が現場に出なくてもいいようにと抜けさせる努力をしてくれましたが、私が抜けようとすると、問題が発生したり、結局10年以上やりました。

私は長い間、生きることを辛いと感じてきました。

では、私だけが辛いのかと自問すればそうではなく、祖父母のことなどを思うと、戦前戦後の中で私より数倍辛い思いをしてきた話を聞いていましたし、世界に目を向ければそれを上回る苦悩が存在するのだと思います。

その一方で快楽や欲望を追究している少数の人もいる。

目に見えている世界だけがすべてならば、あまりに不公平だと感じ、それ以外の真実があるはずだという思いからも、真理を追究することに取りつかれていたように思います。

数年前に病気が発症し、現場に出れなくなったのですが、ちょうどリーマンショックでその後仕事も減り、今はなぜか仕事に追われることもなく、主人一人でも仕事をこなせるようになっています。

今は、この猛暑でも働いてくれている主人に毎日感謝しなければという気持ちでいます。

今、ぽっかり穴が空いたような時間の中を3年ほど過ごしてきましたが、前述したような気質の問題もあり、人付き合いもわずらわしく感じ、まるで世捨て人のように何も気力がわかない中で生きてきました。

先生のおっしゃる通り、私はバランスが取れないのだと思います。

そして自分を追い込んでしまい、自分で窮屈にしてしまっている。

ご指摘いただき、今気づきましたが、本当にその通りだと思います。

先生のブログの中の、水と塩の話も、とても、とても、わかりやすいです。

一度自分を捨てる・・・これはなんとなくわかりますが、実際の行動は、何かを追究することをやめ、ありのままを受け止める、ということでしょうか?

とても大事で、今私に必要なことだと感じますが、上手くできるでしょうか。

焦らず、取り組んでみたいと思っています。

自己浄化の資料もありがとうございます。

印刷して暗記し、今日から毎日続けてみようと思います。

また、長々と書いてしまいました。

読んでいただき、本当にありがとうございます。

また、経過を報告させていただきます。

 葉月公美子

2013/8/21(水) 21:42返信

葉月様

あなたは最初の結婚をしてからが苦労の日々でしたね。

結婚生活は、生まれ育った環境の違いによって習慣、価値観の違うものどうしが一つ屋根の下で暮らすことになります。

私事で恐縮ですが、家内とは40年の生活を共にしております。しかし、価値観が全く同じということはありません。

共通の価値観を持ち合わせている部分もありますが、別な価値観もお互いがもっているところが多く、これが自然のことだと今は受け止めております。

私は、家内の心に土足で踏み込むようなことはしませんし、マナーとしてそのようなことはしませんが、家内は思ったことをストレートに口に出す人ですから、ときにはそれが私の心に、弓矢が疾風の如く走るように突き刺さることがあります。

私も若い頃は、突き刺さる言葉に我を見失い感情的になることもありました。

しかし、感情的になるほどに心が痛むことを体験してきたのでした。

感情に負けて怒りの心をもつことがどれほど人間の心身を苦しくさせるかといことを、身を以って知らされたものです。

年を重ねてみると、どのようなことであっても相手のせいにしているうちは自分の心の調和や安息を得ることができないのだということを気づくようになりました。

今では喧嘩になりません。なりようがないのです。私が受け流すことを身に着けたからです。

結婚以来40年を過ぎた今日でも私の行っていることに家内は興味もなく、そのくせ時折中身を知りたがる時もありますが、話してきかせても賛同も共感も得られることはありません。

しかし、それでも夫婦にはちがいありません。

別なところで家内は努力してくれておりますから、それに対しては感謝の心と報恩の行いで示しているところです。

価値観に完全一致はなく、そうあるべきと思うとすれば、そこからが行き違いの原因をつくることになるものです。

夫婦の価値観は一つの価値観が共有できれば由として、三つの価値観共有があったらでき過ぎと思わなければなりません。

そうなると完全な価値観の一致などあるはずがありません。

価値観に拘ると夫婦の溝が深まることはあっても、親愛な夫婦の絆を得ることはできなくなるでしょう。

「自分を捨てる」ということはどういうことかとなると、これまでのような習慣による物事の判断をいったん改めることから始めること。

目の前の出来事に対して分別する心、判断して結論を出す心は、自分自身の経験値や、知識、自我などが背景にあって為されることで、これは必ずしも中道の判断に基づくものとは限りません。

偏りのない中道の見方、思い、言葉、行いをするにはが必要です。

この間を大切にしてください。

間はとりすぎると、悩みに進展し、機を見失いますが、間が足りないとトラブルの原因ともなり得ますし、チャンスを無効にして、これまた機を失うことになるものです。

ここにもやはり、中道の精神が必要なのがお分かりかと思います。

つまり、これまでの見方、思い方や、簡単に言葉を発するのではなく、客観的に見る癖、思い、話す習慣を身に着けることができれば、おのずと自分を捨てることになってくるのです。

捨てるということは、偏った物事の見方、思い、言葉を捨てるということであって、それが自我を捨てること、煩悩を捨てることにつがるのです。

必要以上の追及は他を批判する想念に発展するでしょう。

心が調和されてくると、周りのできごとに心が左右されず、感情の乱れが少なくなってくるものです。

これは無関心ということではなく、和して動ぜずの心と言ってもようでしょう。

観童

2013年8月23日 金曜日 午前11:09受信

観童先生 様

お返事ありがとうございます。

先生と奥様とのお話を聞かせていただき、ありがとうございました。大変参考になりました。

先生でもやはり長い時間をかけて心を磨いてこられたのですね、とても感慨深く読ませていただきました。

先日、お話していただきました、孤独や不便の中で心が育つもの、というお話も含め、大変心に沁みております。

○○会なども自分からやめてしまい、このような話を人に話したのは、もう10年近くありませんでした。

先生に、その時の判断は正しかったと言っていただき、ホットしているところですが・・・

先生にいただいたお返事を何度も何度も読み返し、改めて自分の心を見つめなおしております。

本と自分の経験だけを頼りに今までやってきましたが、状況が変わり、気が付いてみれば随分と閉鎖的になってしまっている自分がいて、

しかし、どう打開したらよいのか、わからずにいました。

心の在り方の勉強をしていたはずなのに、人や社会を避けてしまっている自分がいて、

先生のおっしゃる間のお話ですが、今回長くなりすぎたのかもしれません。

このままで良いのだろうかと、いつの間にか悩みにつながってしまいました。

自分の感じ方、判断の仕方、ことあるごとに一歩引いて、客観的に見つめなおしてみることから始めてみようと思います。

和して動ぜずの心

この様になれるには、かなり時間が必要かと思いますが、少しづつでも自分の心の幅を広げていくように内的努力をしてまいります。

コツコツやっていくしかないことだと思いますが、また、いろいろな迷いが出てくると思います。

勝手ですが、またこれからもご連絡させていただきたいと思います。

どうか、これからもご指導よろしくお願いいたします。

自己浄化法ですが、とても心強く感じています。

今回のご縁には、本当に感謝しております。先生、本当にありがとうございました。

ブログのほうも、これからも拝見させていただきます。

追伸・・・昨今の天変地異についての記事も大変興味深く読ませていただきました。

先生の夢の通り、世界中が洪水であふれていますね。

いったい地球はどうなってしまうのでしょうか。

東北も雨が多いようですが、どうかご自愛くださいますように・・・

葉月公美子

2013年8月24日 土曜日 午後9:25返信

葉月さま。こんばんは。

いつも夜分に失礼いたします。

仕事が終わって夜にならないと自分の時間がとれないものですから申し訳ありません。

あなたのこれまでのメールを今一度、最初から拝見させていただきました。

そして、しばし瞑目したところ、次のような言葉が私の心に大きく響きました。

『気づかば、為し、悟らば、世に交わるが道』

『気付いたら行動に移し、悟ったら人と交わるのが人の道、すなわち人生』と、私は解釈しましたが、この言葉が意味することは何なのか、是非あなたにも一考いただければと思い、お知らせしたく返信をさせていただきました。

あなたは、これまで長きにわたり、お一人、ご自分で勉強されてきました。

その内容も正統派の方々の教えだと思います。

お互い、ゆっくりと着実に実践してまいりましょう。

観童

2013年8月25日 日曜日 午前10:09受信

観童先生、お忙しいなか親身になってお考えいただきまして、本当にありがとうございます。

実は、昨日なんとなく心に浮かんだ考えですが、

もう少し成長出来たら、いつかは先生のように、絶望を感じたり、苦しんだりしている人の役に立てるような、

少しでも心を癒せるような活動が出来たらいいなと感じていました。

先生からいただいたメッセージを読んで、「そのように進みなさい」と答えをいただいたように思い、少し驚いております。

と、言いましても改めて自分の心の癖を直そうとしているところですから、それを目標に日々を生きてみようと改めて希望が湧いたところです。

先生のブログの記事の中で、精神科医が心を病んでいるお話がありましたが、

「心に残さず、一日を終えられるような心づくりができていないと、カウンセリングはできない仕事である。」という一文がとても心に残っております。

人の、または自分の、感情に流されない。強く感受しても動じないような心づくりをしていきたいと思います。

それにはやはり常に客観的に自分の心をみまわし、その度、修正していくしかないですよね。

あとは、水のお話(自然界の心)のように、物事をおおらかに調和して受け止められるように、

何事にも拘りすぎないで・・・

簡単には直らないと思いますが、焦らず実践してみたいと思います。

先生、いつもありがとうございます。

葉月公美子

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ドキュメント・心の師を求めて

k3128315ある女性からメールをいただいた。

この女性は、お一人で仏陀(お釈迦様)の教えを学びながらも、生きることの苦悩と、孤独のなかで、思うようにならない人生や、自分の生きることに対して疑問を持ち、真理を追究しながら、人の道を求め、心の師を探しておられたようだ。

今回は、ご本人から快く承諾を頂き、メールでのやり取りを、原文のままに掲載することができましたが、皆さまにも一考頂ければ私の願いは叶うことになります。

2013年8月18日 メール受信

観童先生 様

数か月前からブログを拝見させていただき、勉強させていただいております。

たくさんの相談が寄せられてお忙しいのではないだろうかと何度か躊躇いたしましたが、お時間が空いた時で構いませんので、ご指導いただけたらと思いメールをさせていただきました。

私は47歳の主婦で、今、○○県で夫と二人で暮らしております。子供はいません。

20代の終わりに自分のカルマに翻弄され、酷く鬱症状、パニック症状になったことがあります。

それがきっかけでなぜ生きなければならないのか、という疑問を強く持ち、中村元先生のブッダの言葉やその他系統の精神世界の本などを読みながらその答えを探し続けるようになりました。

観童先生のおっしゃる意味の大切さが身を以てわかるのですが、当時お釈迦様の言葉に導かれ、自分の心を見つめなおしてみますと、自己顕示欲の強さ、我の強さなどに気づき、自ら反省することで何とか鬱、パニック症状からは抜け出すことができました経験があります。

しかし、中道の心を保つことが大切なことは頭ではわかりますが、実践するとなると非常に難しいと感じています。

前置きが長くなりましたが、まだまだ心に厄介な癖がありどう打開していいのか悩んでおります。

私は、人の感情というのか気というのか、そのようなものにすごく影響を受けてしまうように感じています。そして、ものすごく疲れてしまいます。

今までに何度かあったのですが、強い怒りや、恨みなどの感情を持っている人と一緒にいると、その後熱を出したり、吐いてしまったりということがたびたびありました。

最初はたまたま体調が悪かったのだと思っていましたが、何度かあるうちに偶然ではないのではないかと思うようになりました。

20代のころに霊能者と名乗る人のところに数回訪れたことがありましたが、そのころにその方のところに訪れるたびに、自分の感情をコントロールできなくなり、わけもなく泣き続けたり、落ち込んだり、ということもありました。それは一時的なものでしたが。

また、人の心の裏側みたいなものを無意識に読み取ってしまったりする癖があります。

私に、霊能力があるわけではないので、これは感受性の強さだろうと思うのですが、そのような訳で人と対することがとてもつらい時があります。

数年前からアレルギー症状が出るようになりました。酷い鼻炎と、時々血管の炎症が起こり頭痛、吐き気に襲われました。

一年程前に病院でやっと病名がわかりましたが、白血球の中の好酸球というものが出すぎてしまう免疫異常の病気だということで、今ステロイドを飲んでいます。

でも、この病気の根本的な原因は不明ということです。

対処療法のステロイドで症状は出なくなりましたが、ステロイドの副作用で前にもまして疲れやすく、風邪などにかかりやすくなってしまっています。

そのようなことに加えて、職人であり、事業を営んでいる主人の会社でその仕事を手伝い、職場では友人ができなかったこと、生まれ故郷から離れていること、子供がいないことなどの状況があり、今は病気で仕事から離れ、ほとんど半引きこもりのような生活をしております。(家事はやっております、夫とも問題はありません)

今の状況に孤独感があり、辛いと思う反面、楽でもあり、あきらめのような気持ちもあり、そんな自分を我儘(わがまま)だと思うときもあります。

数か月前から観童先生のブログを拝見させていただき、今の病気や引きこもりも自分の未熟さから引き起こしているのではないかと思うようになりました。

出来れば、自分の弱さや心の癖を克服し、社会や他人から逃げているようなこの状況を変えていけたらと思っております。

ご指導をお願いできますでしょうか?

このように荒れた世の中ですので、多分たくさんのご相談を寄せられ大変お忙しいと思います。

私は今どうしてもという切羽詰まった状況ではありません。

鬱やパニック症状で苦しんでいる方を優先していただき、どんなに遅くなっても構いません。アドバイスをいただけたら幸いに思います。

簡潔に書こうと思い、かえって支離滅裂な乱文になってしまったかもしれません。

申し訳ありません。

葉月 公美子(仮名)

2013年8月18日 日曜日 午後10:09 返信

葉月 公美子様 こんばんは。

初めまして。よくぞご連絡をくださいましたね。

あなたがおっしゃる、「自己顕示欲、我の強さ」とお書きになってはおられますが、しかし、あなた文章の随所には、「思いやり」というお心が見えて、何とかこの方には早くお返事を差し上げなくてはと思い、下手なパソコンに向かった次第です。

貴方がこれまで生きてきた47年間の人生を、今回いただいたメールですべて理解することはできませんが、しかし、私には、あなたのご苦悩がうかがえて察するに余りあるものがあります。

過去には、ご自分を省みて、うつや、パニック症状から抜け出した経験があるのであればなおさらのこと、心が体に与える影響の大きさは承知しておられますね。

しかし、心の学びは到達点がありません。一生涯をかけて共に継続していきましょう。

あなたが、そう思うように、私も試行錯誤して中道を生きることに努めております。

完成はないのですよ。

人生はプロセスです。登山をして頂上にたどり着くまでの過程が人生です。

あなたが中道の難しさを実感するときというのは、どのようなときでしょうか?

この辺をもう少しお話しいただければ、少しは具体的なお話しに展開できるかと思います。

「人の感情、気、そのようなものに影響を受けてしまうように感じています。そして、ものすごく疲れてしまいます。強い怒りや、恨みなどの感情を持っている人と一緒にいると、その後熱を出したり、吐いてしまったり・・・。」

このことの原因をあなたは特定できておりますか?多分その訳を知っておられないのではないでしょうか。

私の判断に間違いがなければ、人のエネルギーや霊的なエネルギーを体で感じやすい方だと思うのです。

人間の心から発するエネルギーは心の調和された人ならばとても安らぎをおぼえるものだし、反対に、怒りや恨み、妬み、愚痴、不満のエネルギーは、傍にいる人の体調にまで悪影響を及ぼすものです。

このような意味からして、あなたがお会いした霊能者の場合、当時を振り返ってみて、あなた自身はどのように判断されるでしょうか。

霊能者の影響だったとは考えられませんか?

私のところにおいでになる相談者の多くも泣きます。

しかし、その涙は歓喜の涙です。理解された喜び、認められた喜び、悔い改める心、こういった心からの涙です。

そして涙を流した分だけ心が洗われていき、再び希望を見出していかれるのです。

人のエネルギーを感じる、感じない、ということには個人差があります。

感じる人の場合、自分の体調が良くなければ余計にはっきりと感受反応がでやすいものです。この感受反応は苦しさを伴います。

それだけに、あなたのように感じやすい人の場合、健康管理はしっかりしておくことも大事です。

それと、特定の場所に出向いたりしたときに具合が悪くなることはありませんか。(急に背中や肩が苦しくなる、重くなる、頭痛がし始める、目がショボショボする、お腹が痛くなる、胸が苦しくなる、呼吸がしにくい、心拍数があがる、拍動が強くなる等々)

例えば、ショッピングセンターや、人の多く集まる施設や、建物、場所などです。

もし、そのような経験がおありなら、やはり、あなたは感受反応が体に出やすい体質なのだと思います。

つまり、邪気を被ったことが体に反応として出てくるということです。

でも、それであれば被った邪気を自己浄化して除く方法がありますけど、御存知でしょうか。

何かしら御自分で工夫されておられますか?

あと、いまのあなたの症状ですが、これ以上ステロイドを服用すれば本当に体をボロボロにしてしまいかねません。

大事なことは自分でできる健康法を実践して、なるべく薬に依存しない生活を確立することです。

体質は努力によって改善できるものですよ。

もし、御主人の理解が得られるならば、 できることならば一度、お会いしたいものですね。

とりとめのない文章にて失礼いたします。

観童 取り急ぎ用件まで。

2013年8月19日 受信

観童先生 様

お忙しい中、早々にお返事をいただき、ありがとうございます。

親身にお話を聞いていただき、本当に感謝いたします。

「心の学びは到達点がありません。一生涯をかけて共に継続していきましょう。 あなたが、そう思うように私も試行錯誤して中道を生きることに努めております。完成はないのですよ。」

先生のこのお言葉に、とても心強さをいただいております。

鬱の症状が出た当時、自分が人と比べてばかりいることに気づきました。

人によく思われたい、人より良くなりたい、そんな競争心と、完璧主義な気質をまず反省しました。

一時期の「死んでしまいたい、消えてなくなりたい」そればかりが頭の中を廻ってしまう状態には早く脱することが出来ましたが、それでも10年位は常に揺れ動いていたように思います。

中道を難しいと感じるのは、生まれながらに神経質な部分があり、細かいことを気にしやすい質で、人が気づかなかったり、気にしないことなどにもすぐ気持ちが引っ張られてしまいます。

心が狭く、拘りが強いのだと思います。

このような部分は、頭ではいけないとわかっても気が付けば神経をすり減らしたりしてしまいます。

そのような性質と、深く物事を掘り下げて考えてしまったり、人の感情に流されやすかったりするため、自然に人と距離を置いてしまい、孤独を好むようになってしまっています。

先生のブログの中で、善への拘り という話がありましたが、とても考えさせられました。

わかりやすいお話でしたので、スット心に落ち、理解できましたが、自分ではそれが偏りになって悪い結果を招いていることにはなかなか気づけないものではないかと思いました。

そのように、自分では気づけていない部分もまだあるかもしれません。

人のエネルギー、霊的なエネルギーを受けやすい というご指摘ですが、

自分でも漠然とそうではないかという気がしていました。

人の多くいる場所や、電車の中などでは、急に肩や腰が重くなり立っているのもつらくなったり、頭痛がよくおこります。

また、特にお酒を飲むような集まりが苦手です。ストレスを発散するどころか、異常に疲れてしまいます。

しかし、自分が霊的なものを感じたり、人のエネルギーがわかる訳ではありませんので、どこからどこまでがそのような影響で体に負担がかかっているのか、よくわからないまま生きてきてしまいました。

そのせいで、長い間出不精になってしまっています。

今は用事がない以外あまり外に出るということはありません。

己浄化の方法があるということも知りませんでした。

ご指導していただけたら、こんなにうれしいことはありません。

霊能者のことですが、その方のところに何度か足を運んでいたのはもう20年以上前で20代半ばのころでした。

女性の方で、人の紹介で伺いました。その方も霊能力を使って人の相談に乗るということを、まだ始めたばかりのころで、初はとても人柄がよく、5000円という値段で2時間以上かけて話を聞いてくれるような感じでした。

その方が知っているはずもない、亡くなった先祖の容姿などを言い当てられ、私にもまだそのような知識もなかったので、信頼し何度も足を運ぶようになりました。

しかし何か月たったか、何年たったか覚えていませんが、

いつのまにか、その方は段々と人が変わったようになってしまいました。

自分の自慢話を延々としたり、当時、○○○子さんがよくテレビに出ていたのですが、○○○子さんの悪口を言ったり、人の批判が多くなりました。

また、相談料も徐々に値段が上がっていきました。

私も行く度に気持ちが落ち着かなくなり、心がざわざわしたり、イライラしたり、むやみに悲しくなってどうしようもなかったり、感情をコントロールできなくなるようになりました。

先生のおっしゃる歓喜の涙とは程遠い状態です。

その霊能者の方は、途中から動物霊か、または低級霊に支配されてしまっていたのではないかと今は思っています。

その方とはもう何年もお会いしたことはありません。

自分のカルマが原因だと思いますが、20代、30代は私にとって、辛いと感じることの多い道のりでした。

そのため、真理を求める気持ちが強くありましたが、宗教などは敬遠してきました。

ですから、拠り所と言ったら、「ブッダの言葉」と スピリチュアリズムといわれる分野の「シルバーバーチの霊訓」「ホワイトイーグルの霊訓」などを読み、日常生活の中でたどたどしいながら実践していくぐらいしかできておりません。

ネットや本屋を覗くと、あふれるほどにそのような情報がありますが、他力本願的なものは信じないで来ました。

ルバーバーチの言葉には魂の琴線に触れるものが多く、生きてゆく中でとても勉強になりましたから、一度、○○会のようなものに参加したことがあります。

しかし、どんなに内容の良いものでも、人が多く集まると、新興宗教のような色を帯びてきてしまうものだと感じて行くのをやめました。

やはり孤独ですが、自分の生活の実践の中で一歩一歩小さいながらも悟っていくしかないのだと思いながら過ごしてきました。

真理を勉強しながら、少しでも魂の成長をしたい、そしていつかは少しでも人の役に立つような者になりたいと思ってきましたが、47歳となって今振り返ってみますと、あきれるほどにたいした進歩もなく、今病気にかかり、ますます自分の殻に引きこもるような現実に憤りを感じていました。

そんな中で観童先生のブログと出会い、矛盾や妥協のない記事を拝見し、とても感銘を受けました。

そして、毎日のように読ませていただいていた次第です。

今回メールを書く前から、近ければすぐにでもお伺いしたいと主人にも話していたところです。

主人もお会いしてみたいと話していたので、秋ごろに旅行を兼ねて伺えないかと、今朝主人に話してみました。

都合がつきましたら、その節は是非よろしくお願いいたします。

今回、お忙しい中メールをいただき、本当にありがとうございます。

ずっと心の師と思える方がいないかと切望しておりました。

勝手ながら、どうかご指導よろしくお願いいたします。

葉月公美子

2013年8月19日 月曜日 午後10:57 返信

葉月様。こんばんは。

詳しくお話しいただいてありがとうございます。

多分、心の内の一番話したくない部分かもしれない核心のところを話してくださったのでしょう。

「人によく思われたい、人より良くなりたい、そんな競争心と、完璧主義な気質をまず反省しました。」とあるようにやはり、あなたは御自分をよく見つめておられます。

あなたの場合、あとはバランスの取り方だけではありませんか。

私も、仕事に関しては、厳しく自分を律して向上心をもって臨んでいます。

それは、おいでになる患者さんのより良い回復を願うからですが、しかし、そうは言っても、心のバランスを崩すまで自分を追い詰めるやり方はしません。

心の使い方は、楽器とおなじように調弦された状態が理想的です。

例えば、三味線やギター、ピアノ、バイオリンなどの弦楽器の場合ですが、弦はゆるいと音が出ませんし、張り詰め過ぎると切れてしまいます。

丁度よい程度の張り具合が感動を呼ぶ音色をだします。これが調和された弦ですから調弦、調律といいます。

私たちの心も全く同じことが言えますね。

私からみた葉月さんは探究心もあり、ありきたりのことでは満足できず、真理を求めるという、いわば強い求道心があるように思います。

そのようなところが、いろんなところに心の傾向性として出てくるのではないでしょうか。

このこと自体は悪い事ではありません。

ただし、探究心も、求道心も、物事に対する心の受け止め方も、捉え方も、張りつめた弦は切れてしまうように、物事に縛られた心は壊れるときがくるものだということです。

善を為そうとして善に心を縛られたら自由性が失われてしまいます。

そうなったら、それは善ではなくなります。

何も思わず、善とも思わず為すことが善であれば真の善行といえるでしょう。

善を為すにあたっては、善を意識せずとも為すことが大切ですね。

善に心を奪われたら執着につながるでしょう。

正しい行いも同様です。

正しさに拘ると、中道のバランスを崩してしまいます。

そうなったら、真の正しさではなくなります。

周りの出来事に心を奪われると自分を見失ってしまいますね。

中道に対しても同じことがいえるでしょう。

中道、中道と、中道にばかり心を奪われてしまえば、心の自由を見失い、視野を狭くしてしまいます。

成長は一生をかけて積み重ねられていくものでしょう。

どんなに素晴らしい考え方でも、行いでも、そのことにばかり心を向けすぎると窮屈な生き方になってしまいます。

思いやりがあり、よく気が付くし、探究心があり、求道心までお持ちのあなたが苦悩する理由はなんでしょうか。

既にあなたは気づいておられます。

あなたの真我を見出すための手段として、先ず、ここで一度、自分を捨ててしまってはどうでしょうか。

あなたが苦しいのは、内なる善我、真我の部分ではなく、心の表層にある自分です。

いわゆる偽我の部分です。

自分を捨てても決して自分はなくなりません。

表層の自分、偽我は無くなっても、深奥の自分、真我は無くなりません。

逆に表層の偽我が捨てられると、本当の自分が輝きだすのです。

全ては拘り、執着から始まるものです。

自分の持って生まれた個性を捨てることはありませんし、自分を否定してはいけません。

否定からは何も生まれないでしょう。

中道を心がけているならば、ほんの少し成長している自分を素直に認めること。

このことが大切です。

成長していない自分を探して責めることは絶対にしてはいけません。

人間の心が成長するには、孤独の時間が必要です。

孤独や不便な時間や環境が自身の内を見つめる機会をつくってくれるのです。

逆に言うと、群れていることばかり好み、話しに花を咲かせているような人は自分を知る機会を持てない傾向にあります。

そのような意味で、孤独は充実と愛の原点を知るチャンスでもあるでしょう。

ひとつお尋ねさせてください。

葉月さんの育った家庭環境はどのような状況だったでしょうか?

これは差支えがなければでよろしいです。

さて、件の霊能者?のことですが、やはり、想像していた通りのお話しのようですね。

この件については、あなたの判断が正しいと思います。

一般的にない能力を持ち得ると、人間は優越感や驕り、高ぶり、傲慢さが出てくるものです。

しかし、そのことに自分自身が気づくことは稀です。

多くの人は、そのまま背後の邪悪なものに翻弄された生き方をしてしまいます。

私が何度も何度も投稿してきたように、人間の生活に大事なのは、先祖の方がどのような人であったか、それを当てて一喜一憂することではなく、今をどう調和して生きるか、それによって自身の心のステージをどこまでアップしていくのかだということです。

真理を求める気持ちが強くありましたが、宗教などは敬遠してきました。 ですから、拠り所と言ったら、「ブッダの言葉」と スピリチュアリズムといわれる分野の「シルバーバーチの霊訓」「ホワイトイーグルの霊訓」

あなたの選択は正しかったですね。

人が集まると組織的になり、自然に形式や会則、規律、パフォーマンスができあがってくる傾向にあります。

あなたが言わんとすること、よくわかります。

無理にグループや集団に組みして学ばずとも、これまでのように、一人でゆっくりと、一歩一歩、学んでいくこともいいではありませんか。

このようなことを言っている私も、あなたと同じく、一人で真理を勉強しながら、少しでも魂の成長をしたい、そしてどなたかのお役にたてればと願いながら一日を生きておりますが、実際は訪ねておいでになる方々から学ばせていただいている現実です。

あなたは一人ではありませんよ。共に学んでいきましょう。

御縁をいただいたことに心から感謝しております。

偶然はありません。必然です。

観童

追伸

前回お話しした自己浄化の方法ですが、資料を添付送信(非公開)しますので参考になさってみてください。

そして、自己浄化のプリントについて率直な感想をいただければと思います。

御自分でやってみて、それでも気分がすぐれない時はすぐにご連絡をいただければ、私のほうからも遠隔でお手伝いをいたします。

肉体的な原因で体調がすぐれないのであれば遠隔浄化はそれほど効を奏しませんが、他からのエネルギーによる影響であれば効果は期待できます。

葉月さんが外に出無精になっている理由のひとつに、他からの感受反応がきついから、辛いからというところがありませんか?

体調がよければ今までよりは外出もできるようになるのではと思うのですが。

※きょうも最後までお読みくださいまして心から感謝もうしあげます。このブログを他の方にも読んでほしいと思われた方は下のバナーをポチッとクリックして頂ければ幸いです。

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自然界と動物に学ぶ

大自然この地上は人間以外にも、多くの生命が存在している場です。

動物も植物もこの地上で魂を磨いている。

いわば修行場なのである。

ここで少しばかり、動物と植物の関係についてふれてみます。

動物の種類は、昆虫を含めて、その数は何千何万にのぼり、多種多様である。

未発見の動物(昆虫を含め)もまだ沢山存在している。

彼等は、その与えられた環境のなかで、精一ぱい生きている。

バクテリアを食べている虫。その虫を食べている昆虫。またその昆虫を食べる、より大きな動物、という具合に。

大きな動物は小さな動物を、強いものは弱いものを食べながら生きているのが彼等の世界である。

動物の世界を外からながめると、そこには、血も涙もない弱肉強食の世界が無残にうつり、ものの哀れ、生物の宿命を感じてくる。

自然に対して、いきどおりさえおぼえてくることもあるだろう。

ところが、こうした動物達の生態そのものは、実は、自然の摂理にしたがって生かされており、そこには矛盾も執着もないのである。

百獣の王といわれるライオンは文字通り、向かうところ敵なし、つまりライオンを倒す相手がいないので王といわれている。

倒す相手がいなければ地上はライオンで埋まるはずであるが、ところがライオンの数は一向にふえない。

ふえない理由は食べ物(他の動物)の数に制約され、かつ比例されているためである。

同時にライオンに食べられる動物達の数も一向に減らないようになっている。

仮に、ライオンに食べられる動物達が百頭いたとすると、これを食べるライオンの数は、それに比例した範囲内で彼等が存続を続ける数しか生かされてはいないうことだ。

なぜそうなっているかというと自然が彼等を監視し、彼等をコントロールしているからくに外ならない。

何者にも襲われない成長したライオンはまさに王者であり優雅であり特権階級のレッテルを貼ってもいいようにみえるが、しかし自然は、けっして不公平に、扱ってはいない。

彼等には飢えという苦しみが与えられている。

彼等は獲物をとるのに大変苦労し、時には何十日も飢えとの戦いを強いられる時もある。

そうしてヘトヘトになって、やっと獲物にありつく。これはなにもライオンにかぎらず、肉食動物のいわば宿命でもある。

このように、彼等はけっして特権階級でもなければ、優雅でもない。

一方、草食動物はどうかというと、こちらは、草木はふんだんに与えられているから飢えに困るということはない。

したがって、放っておくと、彼等の種族はどんどん殖えていく。

ところが、草木が枯れれば、彼等の生存も危うくなってくる。

そこで、草食動物と草木との調整役を果たしているのがライオンをはじめとした肉食動物といってもいいのである。

草木は、群生する草食動物の排泄物がその肥料となり、草木自体の生存を可能にしている。

身近な例としては、花と蜜蜂や蝶の関係である。

蜜蜂や蝶は、花にある蜜を求め、花は蜜蜂や蝶の仲介で花粉を得て、花をより美しく咲かせる。

このように、動物と草木の関係というものは、たがいに補い合いながら、自然の環境を保持しているのである。

決して、それぞれが独立して、好き勝手な行動をとっているのではない。

いうならば彼等は、全体の生存を可能にするために、それぞれの立場で生かされ、自分の身を供養(提供)しているのである。

それは、弱肉強食というような凄惨なものではない。

表面的には強者が弱者を食べるという形をみせてはいるが、その図の奥の背景というものは、全体を生かすという全体への調和であり、各種族が身を投げ出すことによってほかの種族が保存されているということを知るべきである。

ここで、私達がもっとも注意しなければならないことは、彼等は絶対に、無益な殺生はしていないということである。

誰にも襲われることを知らないライオンも、一度獲物を得、満腹になれば、けっして、それ以上の獲物を求めることはないということである。

目の前に獲物が通っても、これを襲うことはしない。これが彼等に与えられた自然の摂理である。

もしも、彼等が面白半分に、弱い者をやたらと殺すようなことをすれば、やがては彼等自身の生存を危くするからである。

彼等は必要なものしかとらない。飢えがいやされれば、彼等はそこで満足する。

足ることを知っている。知っているというよりも、天が与えた彼等の本能である。

自然が彼等をコントロールしているとはこのことである。

動物や植物のこの世の使命というものは、石油や石炭にもみられるように、この地上界の進歩と調和のいしずえとなっているということであり、人間が、この地上に降り、この世の真の楽園を形成するための先駆者でもあったわけである。

彼等はそうすることによって、彼等自身の魂の進化がうながされ、やがて彼等は誰からも犯されない魂に成長してゆくであろう。

一寸の虫にも五分の魂が厳として存在し、彼等は、その与えられた環境のなかで精一ぱい生き、成長し続けているのである。

私達は、この自然界の姿というものを正しく見なげればならず、表面に現われた姿だけをとらえて、これを社会や、人生観に当てはめてはならない。

人間は、ものを考えて、よりよい社会、調和された地球国家を築き、動植物を含めた大自然界のより良い統治者でなくてはならない、というのが天より与えられている使命であろう。

万物の霊長として動物の闘争本能をまねるべきではない。

爆発※写真はシリア内戦で犠牲になった子どもを抱えて泣く父

世界では領土争いや経済闘争、そして宗教による排他的戦争に明け暮れ、血で血を洗う無益な戦いをし、生命を捨てている。

シリアにおける内戦も悲惨そのもので、毒ガスによる無差別な殺りくのなかで、この現実に対して、「宗教」からシリア情勢を読み解くこともできるのではないか。

単に「独裁」「民主化」が対立しているのではなく、宗教対立もその背景にあると思えるのだが、どうだろう。

宗教がからんで、宗派紛争や宗教戦争が起きているとすれば、悲惨な流血も、神を語るに及ばない愚かは、人間としては恥じなければならない。

シリアは元は共和制国家であったが2011年にチュニジアで発生した民主化運動に連動して起こったのがきっかけのようだ。

国連安保理でアサドの退陣と、人道上の観点から市民弾圧の中止命令を決議しようとしましたが、常任理事国であり、シリアと友好関係にあるロシア中国が拒否権を行使し、結局白紙となりました。

これまで死者が2万人を超えているといわれている状況を、国連が中止させるために決議しようとしても、ロシア中国がシリアと友好国であるという理由で採決を拒否するという事態は、国連安保理が示す趣旨に反する行為と理解するのだが、どのように思われるでしょう。

友好国とはいっても、自国の利益をのみを優先したこのような判断は、人道上における命の尊厳ということを考えない行動としか思えず、残念でならない。

もう、そんな人間同士の醜い争いに終止符を打たなければならない。

そして、人間が科学によってつくり出した汚染物質、そうした化学剤が人体にも害毒を与えるようになっている。

山野の動物は、心ない人々によって殺され、姿を消しつつあるのも現代の不幸である。

河川の公害、空気の汚染といった自然界の破壊が、ますます人間の心を失わしめ、動物以下の醜い破壊活動や心を忘れた知識詰め込み型の学問的人間のみを造り出し、家庭の調和、社会の調和、自然の調和を崩している。

私達の多くは、ようやく人間復活を叫び始め、大自然と一体であることに気づき始めたばかりである。

私達は、この大自然のよりよい調和のなかで、他の動植物とともに生かされているが、自然をそこなう争いを続ければ、動植物の生態にも多くの異常が起こって、やがては深刻な事態になってくるであろう。

私達は、このような動物、植物の実態を正しく認識し、いっそうの魂の向上、すなわち心のステージアップを目指さなくてはならない。

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道は一生・一瞬にあり

托鉢

行住坐臥(ぎょうじゅうざが)

(ぎょう)は、ゆく、歩く。

(じゅう)は、とどまる、住まう。

(ざ)は、すわる、静止。

(が)は、やすむ。

このような意味で、仏教の中でも有名な言葉の一つとなっているようです。

人間の一日の生活は、この四文字に集約される。

したがって、一日の立ち居振る舞いはこの中のどこかに当てはまり、これから離れることができないが、この言葉は何をいわんとしているかといえば、どのような状況にあっても常に変わらぬ心をいう。

ここでいう変わらぬ心というのは、歩くときも、坐っているときも、四六時中安息な心をいうのであって、決して動かない心の事ではなく、偏りのない、常に調和された心で為すことを行住坐臥と理解しています。

ところが、人の心というものは、朝と夜ではまるでちがい、状況の変化でコロコロ変わる。それほど人の心は定め難く、不安定なものでもあります。

そこで、そうあってはならないよいうことで仏心とは行住坐臥のなかにあり、いついかなるときでも動揺しない心をいっているのでしょう。

では動揺しないこころとはどういうすればよいのかですが、その為にも動揺する原因を知らなくてはならない。

何か事があると動揺する、体の病をすると不安になり、恐怖心に動揺する、思うようにいかないことがあると動揺する。

しかし、この動揺は、人によって程度の差があり、同じような状況でも、ひとりは手足が震えるほどの動揺をしているが、ひとりは、何、どうしたの?と意に介さない。

この違いは何であろうか?

人間には意識ぜずとも身をまもるという本能的行動をとる意識が備わっています。

病気をしたり、怪我をしたり、命の危機にさらされたら誰でもうろたえて我を見失う傾向はあるだろうが、それでも余りにも起きもしない先の事に思いを馳せて不安を増幅して恐怖心にまで発展してしまっているケースはよくあることだ。

実は、この動揺、不安、恐怖心が身体には一番よくなく、精神を不安定にさせ、体の回復を遅らせてしまう。

こういった不安感や恐怖心は病気の時だけのことではなく、あらゆる諸問題の背景には不安感や恐怖心、執着、頑固、拘りが潜んでいるものだ。

色心不二という言葉がしめすように人間の体は身も心も一つで心の変化が良いにつけ、悪いにつけ身体にまで影響を及ぼすものであり、また身体の健康状態も心に影響を及ぼしてきます。

精神的な動揺や不安や恐怖心が長じてくれば、やがて肉体にまで影響をし、様々な症状を体現するようになってきます。

いったい、恐怖の実体はどのようなものだろうか。

また、これにはどう対処すべきだろうか。

心の仕組みや、心の作用とその反作用を知ることによって、大きな不安は小さく、恐怖心もなく毎日を送り、いかなる悲しみ、いかなる苦難にも自分を見失うことなく生活でるようになるものです。

動揺、不安、恐怖心は、あらゆる苦難を克服させるはずの力を打ちひしぎ、心を乱し、調和を破壊し、疑念を呼びおこします。

一方、恐怖感は、自分の生活を守り、安全を確保するためのブレーキの役割りを果たしています。

しかし、動揺、不安、恐怖感の根底にあるものはなんでしょうか。

恐怖感は、人間も動物も同じように持っています。人間の独占物ではない。

とすると、その根底にあるものは、生に対する執着です。

ここで知っていただきたいのは、生命はこの世限りではないということ。

今世だけの肉体生命に執着してはいけない。

本能的防衛手段として恐怖感があるのですが、しかし、必要以上にそのことに意識を向けている状態が長引けば長引くほどに不安も恐怖心も増幅して心を支配してしまいます。

この点が本能と感情だけで生きている動物との違うといえるところです。

したがって、本能的執着から離れられぬかぎり、恐怖感は常についてまわるといえます。

本能的執着、それは生に対する執着です。

生きたいという本能であり、死にたくないという恐怖心からくる生への執着です。

私たちにこの本能的執着がまとわりつくかぎり、恐怖感は容易に消滅できません。

必要以上の恐怖感は自己保存の現われであり、それはいろいろな形で現われ目先のことに囚われ、体の不調と変化に過敏になり、動揺してうろたえます。

人前に出ると上気するとか、嫌な思いをした相手を思うとフラッシュバックして手に汗を握るとか、怒りに心が揺れるとか、動悸がするとか、学校が嫌いになるとか、その形は千差万別です。

しかし、いずれも不安や恐怖感の現われは、自己保存というエゴの意識がそうさせます。

物中心の考え方、肉体中心の考え方、お金中心の考え方、この世が全てだとする価値観、あるいは、自分をよく見せようとする心の動きは、他の動物にはないことです。

それだけに、人間の持ちえた知識、知恵、こだわり、執着というものが不安感や恐怖心をつくりだしているのです。

いくら心の在り方を学んでも、不安と恐怖心にドッップリと浸かり、知識として、頭に詰めこんでも、動揺や、不安感、恐怖感からは容易に解放されません。

正しい法則、即ち心の在り方を一つずつ体験的に理解し、深まってきますと、動揺が減り、不安や恐怖感を自然と越えられ、死も恐れなくなります。

今の生活、先の生活に不安がある、病気を受け止められずに不安や恐怖心が消えない。このような思いは誰もが経験することです。

同じような体験、それ以上の体験をしているにも関わらず不安感や恐怖心の感じ方に差があるのはなぜだろうかとなると、人それぞれの受け止め方の違いということでもあり、拘り、執着の多寡の違いによるといえるでしょう。

人の道は一生であり、一瞬のなかにあります。

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過剰服薬・死亡の患者

私は、昨日のコラムで『精神疾患・出し過ぎる薬の弊害』と題して早朝に投稿した。たまたま夜に読売新聞の記事で医療ルネサンスを見たら『過剰服薬・死亡の患者も』というタイトルで精神科医療の問題が提起されていたのでした。

私が何年も前から指摘してきた事と同様のことが新聞に載ったので、いいタイミングでもあり、奇遇だなと思いながら、今朝はその記事を原文のままに紹介したい。

以下、読売新聞2013年8月23日から転載。

「精神科の不適切投薬が原因の自殺がある。精神科医は自覚すべきだ」

2013年5月、福岡市で開かれた日本精神神経学会学術総会のシンポジュウム。

北里大病院救命救急センター医師の上條吉人さんが語気を強めた。

会場は厳しい指摘に静まりかえった。

同センターは相模原市で3次救急(生命の危険が及ぶような重症、重篤患者を扱う)を担い、24時間体制で重篤な患者に対応している。

運び込まれる人の10~15%が「自殺企図」および「自傷行為」の患者で、このうち半数(全体の5~7%)を処方薬の過量服用患者が占めている。

「救急医の奮闘を尻目に過量服用患者を次々と生み出し、患者への処方を問い合わせようとしても、夜間や土日は電話もつながらない精神科医たちがいる」

精神科での診療経験もある上條さんは、そんな不満を募らせている。

過量服薬により致死的状態で運び込まれる患者は、バルビツール酸系睡眠薬や、三環系抗うつ薬を飲んでいることが多い。

バルビツール系睡眠薬は呼吸停止、三環系抗うつ薬は深刻な不整脈やけいれん発作を招きやすい。

情緒不安定のため精神科に通院し、バルビツール酸系睡眠薬などを服用していた20歳代の女性は、処方薬依存症に陥った。

過量服薬や手首を切る自傷行為を繰り返したが、精神科では多剤大量処方が続いた。

女性はバルビツール酸系睡眠薬を一度に多く飲み、自宅で心肺停止にあるところを発見された。

同センターに運ばれ、上条さんらが懸命の救命処置を行ったが、低酸素脳症で死亡した。

この女性は、自宅にバルビツール酸系睡眠薬を多くためていた。

「薬の乱用や過量服薬の恐れがある患者に、危険な薬を出すこと自体、考えられないが、精神科では、致死量の薬を1回で出す許し難い処方もしばしば見られる。規制が必要だ」と上條さんは訴える。

ベンゾジアゼピン系薬剤の過量服薬で、同病院に運び込まれる患者も多い。

バルビツール酸系のように強い致死性はないが、服薬後に人が変わって妻への暴力を繰り返したり、急に死にたいという感情が湧き、自殺を図ったりする人もいる。

「酒と同じ部分に働くので、人によっては酩酊して感情の抑制尽きかなくなったり、衝動的になったりする」と上條さんは指摘する。

救急医が患者をいくら救命しても、精神科で依存性や致死性が高い薬が大量処方され続ける限り、過量服薬の病魔から患者を救うことはできない。

●バルビツール酸系睡眠薬(ベンゾジアゼピン系の睡眠薬が登場するまで盛んに用いられた薬で、依存性や副作用が強い。抗精神病薬などを合わせた合剤ベゲタミンは、現在も多く処方されている。)

向精神薬の服用によって依存性が出て、そのことが症状の改善を悪くしたり、あるいは更に悪化したりする事例は、これまでの相談者の実態から確認できてきたことです。

私も力及ばず救いきれなかった人が一人いるのだが、命の尊さを思い残念でならない。

47歳の女性Aさんは病気という病気、つまり、肉体的な病態が発見されないにもかかわらず、ドクターショッピングを繰り返していたのですが、私は向精神薬の弊害と自身の心の傾向性の改善をアドバイスするのだが、全く聞き入れることはしなかった。

苦しさから逃れるために病気を特定してほしいというのだったが、結局、自分の心に問題あることをアドバイスしても受け止めて努力をする姿勢がなくては救いようがない。

求めなければ与えようがない。

彼女は自ら命を絶った。高校生の独り息子を残して。

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精神疾患・出し過ぎる薬の弊害

苦悩私はこれまで、うつ病を患っている人や、パニック障害、摂食障害、その他の精神的疾患で相談にくる方々に薬の副作用とその事例を知らせ、減薬と断薬を奨めてきたが、そのことによって実際に数年来の症状が軽減されたり、回復して社会復帰できた人たちがいる。

ある医大生が登校しなくなり、引きこもってしまった。この青年は当然精神科に行けと大学に言われて診察を受けたのだが、うつ病ということで服薬したのだが、事態は一向に進展しない。

私と会ったときは若さが微塵も感じられなく、無言のままで話そうとしない。薬の副作用を話しても、自分が学んでいる医学が一番であり、耳を貸そうとしない。

しかし、私は心のあり方、生活意識の大切さ、信頼される医師になる為に必要な柔軟で偏りのない人間性というものを話した。

そうして再び減薬、断薬の必要性を説得したのだった。結果、彼は薬をやめ、復学したのである。

医学では用法や用量を守れば、統合失調症や鬱病などの治療に効果があるとされている向精神薬。

また日本の精神科、心療内科で処方する薬は量的に少ない方だと言っている医師もいますが、しかし、そうだとしても処方される薬の量は多い。

反面、同じ医療界に従事する医師のなかにも精神疾患に薬は不必要と警鐘を鳴らす人たちがいることは嬉しいことだ。

実態は、使用者の、もう飲みたくないとする急な断薬や、医師の安易な数種類の処方により、依存症に陥る患者の割合が増えている実態が明らかになってきている。

緊張時の発汗異常などの症状に悩んでいた神戸市内の男性(41歳)は、平成16年から精神科に通い始めて向精神薬を服用。依存症に陥った。

医師のアドバイス通り1日3回のペースで飲んでいたが、発汗への効果は感じられず、強い眠気など別の症状が出始めた。

副作用を疑い薬をやめたが、その途端不眠や、光が異常にまぶしく感じられるなどの症状に襲われた。

薬を処方した医師に尋ねても、「あなたのもともとの病気だろう」と言われ、取り合ってくれなかったという。

断薬して4年が経過した現在も、不眠などの症状は残り、まぶしさのため、外出時にはサングラスが欠かせない。

男性は「海外では、向精神薬への依存はヘロインよりも離脱しにくいと指摘する専門家もいる。薬物依存が重大な副作用であることを知りながら、見て見ぬふりをしている精神科医がいる」と訴えた。

こういう話は、私のところに相談に来る人たちのなかにも同様の訴えをするケースが非常に多いのである。

相談に来た70歳を超えた見るからに体力のないきゃしゃなお婆さん、向精神薬を3種類も処方されて服用した途端に震顫症状(しんせん・手のふるえ)が出始めたと言っていたが、これなどは明らかに薬の多用による副作用で、無理な処方箋としかいえない。

医師でもないのに何をいうかと思われるかもしれないが、実際に薬を減薬したら手の震えがなくなったのである。このような事例は数えきれないほどある。

若い青年が外にも出ず、家の中でパソコンやゲームに興じて昼夜逆転の生活をすれば、親に限らず、周りの誰もが心配もし、アドバイスもする。

しかし、簡単に「病院でみてもらったら?」というが、こうなると行く先は精神科か、心療内科ということになります。

やるきがない、行動しない、とは言っても、自分の好きな事にはさっさと出かけたり、遊んで帰ってくる。人から少し強い口調で叱責されると切れてしまい、やらなければならないことはやらず、行動せず、だらけた生活をしていても遊びにはでかける人間像。

若い人たちに多い行動パターンであるが、このような状態を心配して精神科に連れて行ったら立派な病名が付けられ、向精神薬を何種類か処方されることは必至である。

心に聞く薬はない。脳や自律神経に働きかけているだけの薬であることを忘れてはならないだろう。

対処を間違うと取り返しのつかない人生を送らせることにもなりかねない。

現代医学が一番と思う勘違い、偏見は危険この上なく、親は自分たちの子育てを猛反省しなくてはならないでしょう。

自分たちの価値観を押し付け、また、反対に子どもに無関心で快楽を優先した生き方の末に、子どもの心を歪ませてしまっているケースは多い。

統合失調症

病のごく初期は、不機嫌、親への反抗、昼夜逆転、成績の低下、友人との交流が少なくなるなど、陽性症状としては、幻聴などの幻覚、妄想、自我障害などで、陰性症状としては、陰性症状は、感情の平板化、無気力、社会的ひきこもりなどがあげられる。

この統合失調症ですが、医学的には遺伝的な背景が関与し、これに環境的な要因が加わって発症するものと考えられていますが、しかし、何が遺伝するのかは十分明らかになっているわけではない。

私は、本人が持って生まれた魂の傾向性(心の癖、自我、カルマ)もあると考えているが、しかし、家庭内の劣悪な環境的影響が大きな要因がではないかと考えています。

その理由はとなると、遺伝なら変わりようがないはずだが、本人に対する周りの接し方や、家庭環境が変わることによって改善がみられるからです。

一方、統合失調症で精神科に入院している患者の4割が、3種類以上の抗精神病薬を処方されていることが、国立精神・神経医療研究センターの研究でわかってきた。

患者の診療報酬明細書(レセプト)から実態を分析した結果、複数の薬物による日本の治療は国際的にみても異例で、重い副作用や死亡のリスクを高める心配が指摘されている。

これまでも精神科の治療では「薬漬け」を指摘する声が根強くあったが、現在では、心療内科でも精神科以上に多種、多量の薬を処方していて、一部の医療機関などに限定した研究に過ぎないのである。

今回の研究では、2011年度から、全レセプトデータを提供する厚生労働省のデータベースの運用が始まったことから、精神科での詳しい薬物治療の実態の調査、分析ができるようになりつつあることは喜ばしいが、まだまだ薬漬けという日本医療界の現状は続くのではと危惧している。

具体的にいうと、薬漬けの治療実態は、何も精神科や心療内科だけの問題ではなく、内科や外科、整形外科、婦人科、その他諸々、薬で対処する医療が王道をいっている。

例えば、抗生物質、ステロイドなど、なるべく体に入れたくない薬が、何のためらいもなく過度に処方されているのである。

パラノイア

偏執病、妄想症ともいわれ、頑固な妄想をもち続けている状態で、妄想以外の部分での考え方や行動は首尾一貫している。

幻覚、とくに幻聴は伴わず、中年以降に徐々に発症し、男性に多いといわれてはいるが、実際は若年にもあり、このような10代の男性の相談に応じたことがある。

妄想の内容は、多岐にわたっていて、高貴な出であると確信する血統妄想、発明妄想、宗教的妄想などの誇大的内容のものをはじめ、自分の地位・財産・生命を脅かされるという被害(迫害)妄想がる。

あるいは、連れ合いの不貞を確信する嫉妬(しっと)妄想、不利益を被ったと確信して権利の回復のための闘争を徹底的に行う好訴妄想、身体的な異常を確信している心気妄想などもあるようです。

一般には、自我感情が強く、簡単に怒りをあらわにし、特に威圧的な言葉には強く反発して執拗な言動をする場合がある。

医学的には、パラノイアを独立疾患とみる立場と、統合失調症の一類型とみる立場、あるいは一定の素質と生活史や状況から理解できるという立場などがあって、今日なお一定した見解はないようだ。

このパラノイアもそうだが、統合失調症の場合も、自分が心の病であることを自覚して改善するという勇気と決断、そして行動が為されない限り、生涯にわたって症状に起伏があり、改善することも、治ることも期待できないでしょう。

それだけ心の癖、傾向性、自我、業(カルマ)、家庭環境、の問題は難しいということであるが故に、家庭にあっては、個々が片寄った価値観で生活してはならないということがいえるでしょう。

これまで相談に応じてきた人たちのなかには医療現場で働く人たちも少なからずいたが、安定剤、睡眠導入剤、中には向精神薬を服用しながら働らかざるをえない責任ある立場の医療従事者もいる。

例えば、精神科で働く看護師の場合、「鍵を掛けて隔離するあの施設内は別な世界だ、こっちが変になる」といって、長年の勤務はできずに退職をするケースが多々あると言っていた人もいたのである。

ある看護師は、精神科医自身も安定剤を服用しながら日々の業務をこなしていると話してくれたが、これなどは、いかに心の病に対応することが難しいかの証でもある。

心に残さず、一日を終えられるような心づくりができていないと、カウンセリングはできない仕事である。

医療界あれこれ

アメリカと日本における精神科の実態、それに対する意識の違いはとなると、先ず、日本では精神科医を志す医学生が少ない、またその原因、改善策には社会的体制の違いが大きく影響している。

例えば、日本の精神科や心療内科では外来者数が多いが、医師と話す時間は5分とか10分と非常に短く、アメリカのように話を長く聞く時間が確保されていない。

ちなみに、アメリカの精神科医の数は:10000人に1人、であるのに対し、日本の場合は:20000人に1人と半分の比率である。

なぜ日本の精神科は薬漬けにしたり、病床数、入院日数が他国よりはるかに多いのか。
これは、医師の社会的な評価が、両国間であまりにも違い過ぎるという背景があるようです。

その意味では、日本ほど精神科医が尊敬されていない国はないということがいえるかもしれません。

世界標準ということからすれば、特にアメリカで考えた場合、医療など高額で簡単に受けられない国がほとんどでしょう。

従って、大金を支払わなければ医療を受けられないというのが実態でしょう。

しかしながら、日本の医療制度があまりにも優秀なせいで、逆に日本人が「わずかな負担や、タダで健康が保障されるのは当然だ」と誤解している向きもあり、そういうことが多量の薬を処方する原因、あるいは薬を要求する患者の健康に対する誤った認識が背景にあるといえるのではないか。

こうなってくると、行政の問題にまで発展してくるのだが、この件については長いスパンで国を挙げて取り組んでいく必要があるだろう。

日本の医師は優秀でありながらも、反面、一部の医師による不正請求や倫理を無視した罪を犯してしまうことで、社会的批判に晒(さら)され、社会で悪者のように扱われているところもあります。

このようなことは、どの分野でも同じことが言えるのでしょうが、一部の人間によって業界全体が黒とみられることもあってはならないことです。

最近では、精神科医の社会的な扱いの悪さは顕著だという人もいるようですが、医師の側からすれば、正しいことをやってもクレーマーが多く、ひどい扱いをうけるということだろうし、挙句の果てには、良くない結果については、悪いことをすべて医師のせいにして責任転嫁できる社会風潮にも問題があります。

近年は、診療報酬が激安のため、医師の中でも精神科の場合は診療報酬に対し、著しく評価が低いのですから、精神科医の希望者が少なくて当たり前かもしれません。

日本の医療制度が整い過ぎている。
実費負担が高いと文句をいう人たちもいるのですが、世界の医療実態をみたとき、日本の場合、安く簡単に医療にかかれるから、たくさんの患者が医療機関に殺到します。
必然的に一人あたりの診察時間は短くなります。

アメリカで精神科医(特に専門医)にかかるには、診察1回約500ドル(現在1ドル98円として約49000円)を必要とするため、簡単に診察を受ける患者はいないのです。

このように、診療費が高価なため患者数が少なく、1人の患者に時間も掛けることができるという体制が備わっている。

まともに精神科に受診できるほど医療制度が恵まれた国はほとんど存在しないため、自分で簡単に手に入れて、乱用されているケースが多いということでしょう。

病床数、入院日数が長いのは国の方針
日本は精神障害者を隔離して出てこないようにする方針を長らく続けています。
医療費をあまりにも安くすることでそれを可能にしています。(これが国が続けている精神科特例)

医療者側がいくら患者を退院させたくても、患者を受け入れたくない家族、社会が患者を拒絶し、精神病院に逆送りさせるという実態があります。

精神疾患者は家族も邪魔にするということでしょう。

その点は、他国(特にアメリカ)の医療費では長く入院などできないため、必然的に精神障害者を社会が受け入れざるを得なくなっていますが、実はそのせいでアメリカには精神障害者のホームレスが滅茶苦茶多いとわれています。

社会の裏の部分、陽の当らない世界があるということです。

日本の精神医療は臭いものにフタの歴史。
役人も、そして国民一人一人も精神障害者を受け入れようとはしていません。

精神障害者を安価に医療機関に閉じ込めて、医者をはじめとする医療者に責任を丸投げし、見ないでおこうという社会的な考えが変わらない限り、この現状は続くでしょう。

要は、自分の家のすぐ横に精神障害者向けグループホームを作ると言われて、喜んで協力を申し出る国民が多いか、大慌てで反対運動をする国民が多いか、どちらが多いかということかもしれません。

医療外のカウンセリングを受ける人間が多いというのも、どちらかと言えば専門の精神科に掛かりたいが、医療費の問題があって、自由に利用できないからという意味合いのほうが高いかもしれない。

精神疾患患者に社会的に用意されているのは法的な強制入院のみであり、その他は自己責任。

金がなくて医療にかかれない人間が自己判断で薬を飲み、依存症が蔓延しているという部分も否定しきれなく、これからの社会ではこういった傾向が一層増えてくる可能性を否定しきれない。

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煩悩捨てるべし

マイホーム心と体の健康が私の投稿するコラムのテーマであることは、これまでの記事を読んでいただいている方には理解されているかと思います。

以前にも述べたことがあるように、私達の肉体と精神は、通常不二一体で働き機能しています。

つまり、精神と体がひとつになって人間であるということです。

肉体は、両親から与えられた原子肉体と、あの世から持ちこんだ霊体ともいうべき、意識とが表裏一体となっているもので、死はその両者の完全分離だといえます。

また、死は、肉体と肉体の支配者である意識・魂が、次元の異なる世界に帰ってしまう現象だ。

とり残された肉体は、この地上界の土や大気にもどって行く。

しかし、この二つはやはり別物ではない。

色心不二

私達の肉体が病気やけがなどをして、痛みがあれば、やはり魂の中心の心も悩むだろう。

肉体と同体になっている光子体(霊体)に相互感応が起こり、痛みを感じるからである。

怪我や交通事故などで、腕や足の神経組織がこわれ、細胞組織が寸断された人々がよくいるが、そうなると、外傷に痛みはない。

ただ手足はやがて腐って役に立たなくなってしまうために切断し、義足や義手をはめていても、肉体と同体になっている眼に見えぬ、失ったはずの部分が、むずがゆいことがあるという。

つまり、現世の肉体はなくなっても、光子体の足なり腕なりは、切断されることはないということである。

私達の肉体は、このように、光子体(霊体)というもう一つのボディを持った意識であって、それによって肉体を動かしているのである。

肉体と光子体(霊体)の関係について、もう少し突っ込んだ考えをしてみよう。

私達の身体の機能は、何によって行なわれているかといえば、医学的には、植物性神経と動物性神経の二つによるといわれている。

前者を自律神経といって、人の意志に関係なく昼夜、睡眠中でも活動している神経を指すが、実際は精神の影響を受けている。

胃腸、肝臓、心臓の働きは、皆この自律神経の働きによっている。

一方、動物性神経といわれるのは、脳脊髄神経だが、これは、運動、感覚作用などの働きをしている。

恐ろしいものを見て足がすくんだり、美しい花を見て心がなごむのは、この神経の働きによるといわれている。

そしてこの二つの神経組織は、全然別の活動をしているように見えるが、実は、気持がイライラしたり心配ごとがあったりすると、胃腸の活動が弱まったり、逆に大いに笑うと、腹が空いたりするといったように、関連がある。

植物性神経は、動物性神経の傘下にあるということである。

たとえば、恐ろしいものを見て、気絶をしたり、ときには死にいたるといったこともあろう。

これは、動物性神経とともに、植物性神経も、同時に活動を停止することを意味している。

また、病気は文字どおり、気の病いといえるだろう。

肉体自体の過労によって、自律神経の活動が弱まり、内臓が悪くなることもあるし、暴飲暴食による胃潰瘍、運動不足、太りすぎによる心臓病、過激な運動による呼吸器系の疾患などもある。

こうした肉体自体の病気もあるが、やはり本人の心がけ次第ではないだろうか。

病気の原因を辿って行くと、やはり、心の使い方に帰着してくるものだ。

自律神経を弱らせる、あるいは固有の細胞意識を弱体化させる精神作用が、病気を造るということでもある。

現代医学では病気は気の病いとは言っても、それは、脳脊髄神経の働きに間違いがあったため、そうなったという。

しかし、実は、原因は脳脊髄神経そのものにあるのではなく、さきに述べた、光子体(霊体)のなかにある各人の魂の在り方に問題があったのだといえるでしょう。

つまり脳脊髄神経は、魂の命令を受けて作動する組織体で、脳そのものは命令の執行者ではない。

命令を受けて、各機能に働きかける代理人にすぎないということだ。

それは、肉体のコンピューターのようなものだといえるし、コンピューターを動かすのは人間なのである。

私達の魂である。

この魂の在り方が、病気の製造者になったり、健康の源にもなるということだ。

この二つの神経組織は、この人間の魂によって動いている。

厳格にいえば、各人の心の想念の在り方によって、二つの神経組織が、より強籾になったり弱くなったりするのだといえるでしょう。

人をよせつけぬ自我の強い人、欲望に振り回されている人、怒り、そねみ、恨み、そしり、このような心を持っている人々は、自ら病気の原因を造り、事故の原因を招き、環境の不調和を造っているといえるのである。

このような想念と行為が、病気の場合、さらに自律神経を弱らせ、肉体細胞の活発な運動を不円滑にして行くのだ。

こうなると、脳脊髄神経も、不調和になり精神的疾患の原因になってしまう。

私達の肉体と光子体(霊体)と意識体は一体となって、現実の肉体を動かしているということです。

この意識体は魂であり、光子体(霊体)はこの地上界を去るときの4次元の肉体だが、魂の中心である心が、肉体の五官煩悩にまどわされることなく、正道の生活をして、己の欠点を修正している人々には、綺麗な後光が出ている。

それは、心の美しい人々だからだ。

魂を純化させるということは、光子体(霊体)の光子量が増えることにつながり、心も肉体も相互関係があるから、人間は肉体が苦しんでも、心が病んでも、不調和になり苦しむのである。

しかし人間は、たとえ肉体に欠陥があっても、心まで欠陥のあるものにしてはならない。

心は、誰でも健全で、丸く広い豊かなものでなくてはならないのである。

私達は、この世を去るときに、肉体を持って帰ることはできない。

肉体に宿る魂のかじのとり方一つで、きびしいこの人生航路も、楽しく有意義にすごすことができるのだといえよう。

物質経済も、生活に足りればそれでよいはずだ。

足ることを忘れてしまい、欲望のとりこになるから、苦しみを背負うことになるのである。

このように、私達が、自らの心の欠陥を修正して行くということは、なかなかむずかしいのであります。

それでも怠ってはならない。

自分の欲望を満たすために、どんな神に祈っても、そんなものは他力本願で成就するものではない。

自力、自助努力によらねばならないのが、人間に課せられた掟だ。

なぜなら、神は、すべてのものを、すでに私達に与えているからである。

しかし、与えられたものだからといって、私達は、この世の肉体を粗末にしてはならない。

健康でいることは、そのままそれが両親をはじめ肉体先祖に対する一番の孝養になるからであり、供養にもなることだからだ。

精神と肉体は、このように、常に不二一体で息づいている。

肉体の苦痛は、心の苦痛につながり、心の悩みはまた、肉体細胞の活動を弱くする。

私達が、日常生活のなかで、よく無理な仕事をすることがあろう。

仕事を、何日までに完成しなくてはならないというようなことで、その目的を果たすために肉体を酷使する。

夜の二時、三時まで精を出すが、気持が張り切っているから疲労はそれほど感じない。

しかし、肉体には肉体の限界があるはずだし、個人差はあろうが、この限界を越えてしまうと、仕事の目的とひきかえに、病気という結果を生み出してしまうのである。

つまり、私達の肉体には、適当な運動と休息が必要なのだ。

精神も、同じことがいえよう。

私達人間をふくめた生物は、運動と休息の相互関係によって動いていく。

これによって、肉体は維持されているのだ。

昼は身体を動かして、夜は休息をする。こうした原理原則を黙殺して、心が先走り、目的のため、肉体の休息を与えないようにすれば、当然肉体は新陳代謝を弱め、やがて病気に襲われるということになる。

適度の運動もしないで、暖衣飽食をしていると、肉体の抵抗力を失い、ちょっとした風邪でも大病を誘発してしまう。

仕事という緊張から離れ、残る人生を恩給で暮らそうという定年退職者が、ほっとして一、二年で他界する例があることも知っているだろう。

このことを見ても、精神活動と肉体活動の相関性、原理を忘れてはならないということです。

この原理は、生活環境についてもいえることだ。

経済的に苦しい、あるいは経済的に恵まれているという環境のなかにおいて、人間はどうしても、自己を発見することがむずかしいようだ。

金に恵まれている人々の多くは、つい好き勝手なことをしてわがままになり、貧乏で明日の食にもこと欠く状態だと、心まで貧しくなり、他人のことなどかまってはいられなくなる場合もある。

昔から、「氏より育ち」といわれているが、環境によって人格の形成は大きく変わってくる。

モーゼは奴隷の子として生まれたが、王宮に拾われて育てられ、そこで、智と仁と勇を学び、長ずるに従い、支配者と被支配者の矛盾を強く感じるようになって行った。

城の内外を問わず、奴隷の苦しみを、身をもって体験し、奴隷解放に決然として立ち上がって行くのであった。

もし、モーゼが、王宮に拾われることなく、奴隷の子として育てられていたとしたならば、果たしてどんな運命を辿ったであろうか。

運命の子、モーゼの生涯もがらりと変わり、あの華々しい後半生も、大分変わったものになっていたであろう。

王宮に拾われることによって、奴隷では学び得なかった文字を習い、品性を陶冶し、王宮の体制の裏側を知り、社会全般を見渡せる素養を身につけることができたのである。

勇者モーゼは、やがて自分が奴隷の子であることを知り、支配者と被支配者の矛盾に眼を開いて行く。

かくして、六十数万の人々を引き連れ、安住の地を目指して、モーゼは、四十数年にわたる長い旅に生きるのであった。

このように、人間は、環境によって、ものの見方、性格、心の持ち方が変わってくるものである。

正道成就は、苦楽の両極端からは得られるものではない。

中道の心は求めれば求めるほど、実は奥深いものである。

しかし、人間は、この中道の心を毎日の生活の基本として実践する以外に、道は開かれないのだ。

必ず自我が出てくる。

ひとりよがりの、自己保存の芽が出てくるものだ。

私達は、苦楽のなかにあって、これに打ち克つことが大事であり、自分の欠点を正さない限り、気づきの境地にはほど遠いものになるのである。

それには、毎日の実生活のなかにあって、常に自分を客観的に観る習慣、反省という行為を忘れず、精神と肉体の調和、環境の調和を心がけることが必要であるということだ。

中道とは、文字どおり、真中の道のことである。

真中とは、円でいえば、円の中心、扇子でいえば要(かなめ)の部分である。人間の身体でいえば骨盤の中心にある仙骨の部分である。

だから腰という字は要という字を使っているのです。

この世のなかは、男女、善悪、美醜というように、相対的にできており、人々は、この相対のなかにあって魂を磨いて行くものでしょう。

それは、善悪が混合している地上世界だけに、私達にとっては、良い修行場だといえよう。

これが善人ばかりで、苦しみのない世界であったら、修行はできないものだ。

人間は、盲目の人生をとおして、探し求めたときに、初めて光の世界を発見できるものだ、といえよう。

このときの喜び、気づきの瞬間は、たとえようもないものです。

それは、転生輪廻の秘密を知り、この現象界に肉体を持って在ることに対する、偉大な意義を悟るからである。

何も悟ることなく、苦界から脱け出すこともできず、煩悩のままに一生をすごしてもそれまでであるし、生まれてくる前の丸い心を傷だらけにして、歪んだものにしてしまってあの世に帰っても、そのような延長の生活が続くのである。

否、それ以上の厳しい環境に身を置くことになるだろう。

人間は、だから自分自身で望んでこの世に生まれてきたからには、どんな苦しみにも耐えて超えていかなければならないのだが、それも自業自得というものである。

私達は、偉大な人生の価値を悟るべきであり、そして、欲望の海に放浪している迷える人に対しては愛の手を差しのべなくてはならない。

その実践行動こそ、人の道というべきではないだろうか。

しかしある者は、国家のため、民族のためといいながら、自己の思想に酔って、中道の道を犯してもそれを大義としている。

このような人々は、改めて、大義と名分というものを、良く考えてみることだ。

人類は、本来、皆同胞である。

地球は一つであり、そこには、もともと国境などというものは存在していなかったのである。

それが、人類の生存の永い歴史によって、それぞれの自己保存、自我我欲による考え方に よって、権力が生まれ、支配が生まれ、境界が、大衆の犠牲の上に造り出されて行ったのである。

地上に境界はあっても、魂には境界は存在しないことを悟らねばならないだろう。

歴史の過程において、国々の境界は、既成の事実になってしまった。

その結果が人類の理想から離れた、各国の民族エゴイズムとなり、それが人類の一つの尺度になってしまったのである。

これは、人類の大きな誤りである。

そして、個人の心まで、日常生活のなかで、善悪の感情に支配され、理念よりも自己の利益が先行しているというのは、どういうことだろうか。

理屈はどうあれ、自分を賞する人を善人であり、自分を罵倒する者を悪人とする己の都合。

このように、私達の日常も、国と国との関係も、すべてが、自分の都合、自国の都合、民族の都合という、自己保存の方向で動いている。

善悪、正・不正の基準は、今、全くバアバラである、というのが現実の姿だ。

たとえ法律があっても、法律以前の個々の自己保存の感情によって、善悪、正・不正の尺度を計り決めている。

中道の心

こんなことでは、中道の心は解るものではない。

中道の心は、自我を離れて客観的な立場に立たなければ見出すことはできないだろう。

それには、常に白紙の状態でいられる自分を見出すことが必要だ。

知識や経験によって、頭のなかに詰め込まれているものをひとまず脇におき、自分の姿を他人の立場で眺めて見ることが大事なのである。

そうすると、自分の本質がみえてくるものだ。

個々の知識や経験などというものはたかが知れている。

そういう浅い尺度で、ものを見てしまうと、自分の尺度以外には解らないし、状況判断も狂ってしまうだろう。

中道の心は、私心のないことだ。すなわち、天の心である。天の尺度である。

この天の尺度に立ったとき、初めて正しい判断がなされ、精神と肉体、環境の調和がなされるのである。

そのような生活をしたときに、私達は自分を知り、家族も平和で、国も栄え、隣国との調和も保て、楽園、すなわちユートピアの完成に近づくことができるのである。

心を失った思想によっては、人間の大調和もなく、闘争と破壊の阿修羅界を造り出すのみではないだろうか。

正道成就は、中道の心を目標として、日常生活のなかでそれを実践し、絶えざる反省と報恩の行為をする、そのことによってなされるといえよう。

想い正しき者を

天使たちさえうらやむ

彼の心は裡(うち)に満ち

強く

世間の戯言(たわごと)にも

静寂をたのしむ

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盛り塩と中道

image相談者からよく聞く話しですが、家の邪気払い、あるいは厄除け、魔除けに盛り塩をしているという。

きょうは盛り塩、の由来について少しふれてみると同時に、塩の存在が何を意味するのか、塩から何を学ばなければならないのか述べてみたいと思います。

盛り塩は、一般的には中国の故事に由来しているとされているようです。

故事には二つあり、一つは今から1300年前の晋代に、武帝という王が、後宮にいる女性を訪ねる際のことです。

女性を自分で選ぶことはできないから、今晩のしとねの宿を、羊車の羊にお任せするということにしたといいます。

そこに、胡国出身の後宮に、綺麗な女性が居り、羊の好きな竹の葉に塩水をかけ、自宅門前に置き、武帝を招き寄せて寵愛(ちょうあい)を独り占めしたということによります。

もう一つの故事は秦(しん)の始皇帝の話であり、話の筋書きはよく似ています。

始皇帝には沢山の女性があり、毎日訪ねる所を自分で選ぶのは大変なので、牛車に乗り、その牛が止まった所を晩の宿とすることにしました。

三千人の女性の中には賢い女性が居り、自宅の前に牛の好きな塩を置いた為に、牛車が止まり、その女性は皇帝から寵愛を受けた、という筋書きです。

また、これとは別に盛り塩の由来は神事・仏事から来たのではないかとする見方もあります。

仏教においては葬式後に塩を撒く風習があり、又神道の方では神棚に盛り塩を供えると言った風習がある為です。

これは塩が清浄や生命力の再生といった意味合いがあるからといった見方をするところにもよるようです。

相撲の土俵への塩まきも場所を清めるというご神事に基づいた習慣ですね。

日本では、奈良・平安時代に、人々が家の戸口に塩を盛っていたようです。

客の足をとめる縁起ものとして盛り塩が伝わり、習慣となったのでしょう。

また貴重で神聖な塩を家や敷地内に盛って置くことで、そのパワーが大地や家、さらにそこに住む人々に宿ると考えられていたのでしょう。

しかし、実際のところは、盛り塩で宅地や土地が浄化されるということはあまり期待できない。それは、盛り塩をしている方の家を訪ねたときに解るからだ。

何故なら、盛り塩の浄化力や、パワー以上に、その土地に住む人間の心の状態のほうが勝り、様々な邪悪なエネルギーを発したり呼び寄せたりするからである。

つまり、良くも、悪くも、そこに居住する人間の心の波動が盛り塩以上にその家のエネルギーとして存在するためなのです。

せっかく盛り塩をしても、不満や愚痴、怒り、恨み、嫉妬などの心乱した生き方をするなら何の意味も成さないことになります。

単に縁起をかつぐにとどまらず、塩の持つ意味を正しく理解して学ぶことが大切でありましょう。

物質の法則は宇宙の意思の現れ

物質の法則即ち物理科学の法則は、人間がこの地球上に生まれてから人間が作った法則ではないでしょう。

人間が生まれる以前からあったものであり、物理科学の進歩とともにそれに気づき発見してきただけです。

例えば、酸素水素は、どちらも極端に火に燃え易く、この燃え易い酸素と水素が調和されて結合すると火を消すになるというのは不思議です。

また、塩酸と苛性ソーダは、どちらも骨を溶かすほどの劇薬です。

人間はこれを飲み込むことはできませんが、この二つが調和されて結合すると、塩になります。

塩は摂取することができます。むしろ人間は、砂糖はなくても生きられますが、水と塩がなくては生きてゆけません。

この物質の法則は何を示しているのか、極端から極端はいけない、中道(調和)でなければいけないと言う事を教えていると受け取れないだろうか。

つまり中ほどの道が良い、偏らないことの大切さを示しています。

神道でお祓いに水と塩を使うのは、神の道は中道である。

心を偏(かたよ)らず中道にもてば一切の不浄、争いは消えて調和すると言う事を教えているのです。

ご存じのように塩には腐敗を防ぐ働きがあるから保存にも使われています。冷蔵庫のない時代は食べ物を保存する為に塩が必需品でした。

宇宙の不変の法則もそうですが、心の正しい法則というものは、いつでも、どこでも、必ずそうなるというものであって、あの時はこうなったが、今度はこうなったという一回限りの結果しか出てこないものは真の法則ではないでしょう。

したがって真実の法則はいつも、どこでも、誰にでも、平等で不変なものでなければ法則とはいえないはずです。

人間の都合によってその時々でコロコロ変わるのは本当の法則とはいえない。

ですから世界中の水はみな、酸素と水素の結合から成っているのであって、アメリカの水は、酸素と炭素で作られているというようなことはありません。

真の法則に例外は無いのです。

世界の国々には様々な宗教があるのですが宗派によって法(教え)の内容が大きく異なる場合もあり、信仰する対象も違い、国によっては現存する人間を崇拝しているところもあります。

しかし、人間はどんなに背伸びしても人間です。

大宇宙、天地創造のゴッド(神)にはなれないし、尊敬はされても人間を崇拝の対象にすることは間違いです。

まして国民に強制して崇拝させることも最大の罪でありましょう。

さて、目に見える物質は確かに無常であります。刻々瞬々、姿や形が変わります。

その移り変わる表面的な無常の姿だけを認めて、物質は無常だと思うのは一面的な見方で、その移り変わる姿の奥に、物質を物質たらしめている所の、目に見えない法則が働いていると言うことを認めないと、ものを正しく見たと言うことになりません。

正しく見るということは、部分的な見方をしてはいけない。

常に、全体的な、総合的な見方をしなさいということでもあります。

偏らずに見ることが大切です。

一切の存在の奥に、目に見えずして働いている法則は、宇宙なる天の意識の表れとして働いているのですから、私たちは、物をただ単なる物として見ないで、『生命の現われである。』と見て物に感謝し、物の命を粗末にせず大事にしなければいけないでしょう。

物を粗末にしないということは同時に不必要な衝動買いはしないということにもつながるものです。使えるものは使い切る。

感謝は、心の働き、報恩は行い。

この心と行いが実践されて、循環されたときにこそはじめて感謝たりえるもので、これを以って調和といえるのではないだろうか。

心で思うだけで行動が無いのも偏るし、行動だけでそこに心が伴わなければそれも偏ります。

やはり、中ほどの道、偏らない道、中道が調和の道でありましょう。

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お通夜の詩吟

念仏先日、催事ホールで営まれた知人87歳のお通夜に出席し、納棺された故人の顔を見納めてきた。

僧侶が読経を終わって引き上げたあと、参列者のなかから関係者の一人が挨拶をした。

故人とのこれまでのお付き合いを自己紹介した後、詩吟を一節、歌いたいという。

「詩吟は、言葉が分かりにくく、意味も理解しにくいものですが、きょうは私が覚えた詩吟を故人の冥福を祈って歌いたいので、一、二分お時間をください」といったが、実際は10分近くかかった。

「どのような罪を犯した人間も、南無阿弥陀仏と唱えれば、みな救われて極楽浄土にうまれることができる、というお釈迦様の教えがあります。

詩吟のなかにはいくつか仏教の教えを歌ったものがあるが、そのなかの一つを紹介したい」といって歌い始めた。

意味のわからない言葉で10分近くの詩吟を聞く通夜は初めての経験だったが、正直、少し場違いのような気持ちがないでもなかった。

特段、指摘する必要のないことではあろうが、疑問があったので、ここで述べてみたい。

「南無阿弥陀仏と唱えれば、どのような罪人も極楽浄土にうまれる」という教えは、鎌倉時代の親鸞の教えであって、お釈迦様はそのような教えはしていないでしょう。

詩吟を歌った老人の言葉にも誤りがあるが、それではなぜ親鸞はそのような教えをしたのであろうか。

それは時代背景にもある。

鎌倉時代というと貴族社会に代わって武家が台頭し、一般 、民衆の意識も高まるにつれ、無常観にもとづく末法思想が流行し、法然や、その弟子であった親鸞によって 浄土信仰が一段と高まっていった時期です。

その鎌倉時代というと、無学文盲の人たちが多い時代であったために、そのような人々にも仏の教えを簡潔に布教するには「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えさせるという手法をとらざるを得なかったのであろう。

現代では一般的に、南無阿弥陀仏という言葉は、故人や先祖の霊達に心を向けるときの念仏として、その六字の名号を唱えるようになっている。

はたして、この念仏の本来の意味はどういうものであったのだろうか。本当に南無阿弥陀仏と唱えれば罪びとも救われるのだろうか。

南無は帰依(教えを学び実践します)するという意味ですから、阿弥陀という、つまり悟られた阿弥陀様に帰依します。阿弥陀様に帰依します。阿弥陀様に帰依します。ということを何べんも唱えることになるわけです。

もしも、あなたが悟られた阿弥陀如来という仏だとして、何遍も「阿弥陀仏に帰依します」と言われたらどう思うだろうか。

「あなたの教えに従います」という言葉を何度も何度も繰り返すより、私の教えを生活に実践しなさい。とい言いたくはならないだろうかということです。

信仰とは何だろうか。意味のわからないお経を唱えることが信仰であろうか。

南無阿弥陀仏と六字名号を何べんも唱えることが信仰であろうか。

悟られた阿弥陀如来の教えに従います。即ち、帰依しますと唱えるということは、その教えを行いますといっていることになります。

普段の生活では感情のままに怒ったり、不満や愚痴をいいながら、何か困りごとや窮地に立たされた時だけ「南無阿弥陀仏」と依存心から唱えるとすれば、これは信仰とはいえないのではないか。

本当の信仰とは、どのようなものだろうか。

私たちは、先ずは家庭内の争いを改めることから始めなくてはならない。

参照『信仰と読経に持つ疑問』

一方、世界では今でも国内の内戦や他国との戦争が繰り返されています。

そして、国や組織のルールが叫ばれているなかで、何の罪もない子どもや民衆が難民となり、犠牲になり命を失っているのである。

重要なことは、ルールの為に命を犠牲にしてはいけないということでなないか。

真の信仰とは、いかにして自分の心を調えるかということを学び、そのことを生活のなかで実践するかであろう。

人間の心は『一念三千』と仏教では説明しています。

つまり、心の針は、その人が何を思うかによって、暗い世界にも、光明に満ちた天上界にも自由に通じることをいっているわけです。

それだけに、思うこと自体、偏りのない中道を根本としなくてはならないということです。

自分の心を調えるということはどういうことでしょうか。

見たり

聞いたり

語ったりしていると

知らぬ間に心が外に向いてしまう

心が外に向けば

心は揺れ動き

心の中に調和という安らぎを築くことはできない

正しい生き方の法則は

人々の善意なる心と

大宇宙の自然界の営みにしか存在しない

人を見るな

人を語るな

噂に耳をかしてはならぬ

大いなる天を尺度に

天を友として

法則を拠りどころに歩み

心の安らぎ

それは他人ではなく

己自身の裡(うち)にある

周囲にあるさまざまな事象は

すべて心の糧であり

材料であることを忘れてはならない

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イエス・アンドの会話

会話心が伝わる、伝える、ということはどういうことだろうか。

悩み抜いて為すすべもなく、途方に暮れた末にご縁があって訪ねてくる人。

自信喪失、失望、挫折、空虚観、そんな心の状態であれば表情に明るさも、眼の輝きもないのは当然のことでしょう。

まわりの人たちは口を揃えたように「命は大切だ、命を大事に」という。

しかし、そのような言葉を何千回、何万回いわれるよりも、「あなたが大切だ」、「あなたが必要だ」とだれかに言ってもらえただけで生きて行ける心の光を得られるでしょう。

話しを聴く

自分の要望を主張するだけでは、決して相手の心には響かない。

お互いにとって幸せな対話とは、どのようなものなのだろうか。

カウンセリングを希望しておいでになる人に対して、私がやっていることはとなると、よく聴くこと。

そして、できるだけ語らせたい。

それは、相手に心を開いてもらう為の必要欠かざる条件だからです。

そのためにまず、何を思っているか、悩んでいるかを徹底的に話を聴くこと。

実は、話しを聴くこと、というのは、聴きだすことでもあり、なかなか難しいのです。

ですから、相手に伝えたいことがあったとしても、先ずは、ひたすら相手の話を聴きます。

話させるといってもいいでしょう。

そこからいろんなことがわかってくる。

その人の価値観はどうなのか、何をしているときがいちばん楽しいのか……。

または、どういう時が一番苦しいのか。

話さなければ進展はしないが、話せば実態がみえてくる。

相手を否定しない

話してもらうためのコツがあるとすれば、こちらが心を開いて、相手の話しに興味を持って、且つ、共感しながら聴くこと。

そのときの主体は自分ではなく、あくまでも相手側にあります。

会話がスムーズに展開していくためには、「なるほど、わかります。・・・・じゃあどうしたらそれが改善できるか考えましょうよ。」と、先ずは受け入れること、すなわち、イエス・アンドの会話方式です。

逆に、相手が話したことに対して、否定の言葉を先にもってくると「ノー・バット」になってしまい、それは違う、と最初に否定されてしまうと会話をする気力など失せてしまうでしょう。

要は、相手の悩みにどれだけ寄り添えるかです。

悩んで相談にみえる人たちのなかには、人間関係のなかで信頼を失ってしまった人、失望、挫折、不信に陥ってしまっている人も少なからずいるのです。

そういう窮地に立たされた人たちが潜在的に求めるものは、認めてほしい、信頼であり、絆でもあります。

日本人が阪神・淡路、そして東北、の大震災を経験して実感したのは、こういう絆の大切さではなかったでしょうか。

損得や勝ち負けよりも、楽しさや喜びに共感し大事にすると、打ち解けることができる。

そうして皆の心がひらいていけば、信頼関係も生れてくる。

人間関係の絆は、受け止める、理解する、共感する、こういうことから始まるもののようです。

人の話を聴くことの難しさ、話したい人はたくさんいるけど、受け止められる人は少ない、自己主張する人はいるけど、聴いて共感できる人は限られている。

体験

苦しみも、喜びも、体験は尊い。

体験こそバランスのとれた生き方を学ぶ手掛かりとなるからです。

しかし、体験、体験といって、体を動かすことだけが心を学ぶ道ではないでしょう。

考えることも、人の話を聴くことも、体験の大事な要素であるからです。

何事によらず、一方に偏ると実りは少ないものです。

重荷

人の一生は重荷を背負い、坂道を上るようなものともいうが、そんなことはない。

何故なら、重荷も、坂道も、我がつくりだしたものだからです。

この我を捨てれば、心は軽く、人生の喜びを覚えるものです。

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