うつ病患者の欲望

3年前のある日20代後半の女性が人事不詳(意識がはっきりしない)の状態で親御さんに付き添われて相談にみえた。

親御さんの話しだと、うつ病で心療内科の投薬治療は続けているが、このような状態が5年ほど続いているという。

顔に血の気が無く、うつむき加減で伏し目がち、私とまったく目を合わせない。明らかに薬の副作用とうかがえるが、それだけではなく異常なものを感じ取れた。

この状況からすれば何をおいても先ずは、この女性とその背後のものたちの除去をする必要があった。

浄化すること5分程度。女性はその場に寝込んでしまった。憑依する霊を離しクリーンなエネルギーで浄化することによって、体が緩み正常に機能し始め、眠気となってくる場合はよくあることです。

整体やマッサージ後の眠気と似ている現象でもある。しかし、私は指一本触れてはいない。

本人は会話ができる状態ではないので親御さんから経緯を確認して、この時は引き取りを願った。

一週間後に再びカウンセリングの時間を設けた。彼女は前回とは見違えるほどに目がはっきりしてまるで別人のように元気な顔をして現れた。

先ず会話ができた。親御さんには席を外していただいた。彼女の幼少の頃まで遡り家庭環境の様子を聞いた。親と対立していたことを話してくれた。約一時間を殆ど彼女の話しを聞くことに費やした。

このようにしてカウンセリングの時間を設けて回数を重ねるごとに元気になっていく。

食事も徐々に摂れるようになっていくことで、精神的にも体力的にも元気になっていくことは良い事だ。

しかし、長年にわたり精神疾患に苦しんでいたこともあり、やむを得ないところもあるのだが、基本的に彼女に欠けることは自立心だ。甘えが心の奥底にあることを私は気づいていた。

心療内科に長期間通ったことで病院から照明をもらい、支援を受ける手続きをして働かずして収入がある。これがよくない場合があるものです。

親と同居して生活苦がない。働くことへのためらいがある。そして何よりも彼女のなかに甘えがある。彼女が、うつ病を克服するためには、彼女自身の根本に潜在する強い欲望自我心を修正していく必要がある。

体が元気になってきたら行動的になってきたのだが、環境の悪い公営ギャンブルに行き出したのである。公的支援を受けていながらギャンブルとは人間性の問題であろうか。

良くない環境には次元の低い霊がたむろしていることを話したし、再び悪霊に憑依されかねない危険性も説明して思いとどまるように諭したがやめない。

聞けばストレス解消のためだという。そのようなことでストレス解消になることはないということを根本的なところで話して聞かせるのだが、その場だけの理解で心には落ちていない。

そうしているうちにギャンブルの場で男に誘われて付き合いだした。私はその男性の心を読み相手にするにふさわしくないことを話したが聞かない。

男は体を求めるだけの関係であることを私は読めていた。そして遂に彼女の潜在的カルマの欲望に火がついたのだ。

やはり彼女はカウンセリングに来なくなった。数ヵ月経ち親御さんの話しを聞いて気の毒に思った。

『お陰さまで元気になれたのは良かったですが、変な男と付き合いだしたら夜遊びして昼は寝ている生活だ』だという。親子でケンカが絶えないらしい。

どれほど周りが気づかいしても本人が自覚できない限り、望まない限りは前に進むことができないものです。いかに美味しい水であっても望まない水は飲ませることができない。

彼女の魂には深い業が潜在していて、彼女はそれに負けているのである。人間の持つ欲望は火が付いたら限りないものである。その火を消すのは自分しかできない。

当初は『少しづつ社会復帰できるように努力します。』と約束していたのだが、初めて面会した時の苦しみを彼女は忘れてしまっている。喉元過ぎれば熱さを忘れるとは・・・・・・。

今は欲望だけに走ってしまい、堕落の生活をしているようだ。

気の毒に欲望に翻弄されている人間には手を差し伸べることもできないが、掴もうともしない。

彼女は死後に天に昇ることはできない。何故なら彼女の魂は曇っていて比重が重いからである。

今世で克服できなかった自身のテーマはまた来世も持ち越しで精進しなければならないだろう。また来世においても、うつ病で修業とは難儀なことです。

合掌

『精進』

はげみ(精進)こそ不死の道

おこたり(放逸)こそは死のみち(路)なり

いそしみはげむ者は

死することなく

おこたり(放逸)にふける者は

生命ありとも

すでに死せるにひとし

※解説-心を調えて毎日の生活を平穏に生きることこそ、心が永遠に生きる道なのです。

己の欲望に負けて堕落した生活をすることは、死んだも同然なのだ。

すべてに感謝してそれを行い励む者は、魂が永遠に死ぬことなく

欲望と堕落のままにふける者は

例え肉体は生きていようとも、

すでに死んだも同然で

善なる心は死んでいる。

 

穢れと清浄

おのれ悪(あ)しきを為(な)さば

おのれ穢(けが)れる

おのれ悪しきを為さざれば

おのれ清し

穢れと清浄とは

すなわちおのれにあり

いかなる人も

他人(ひと)をば清むるに能(あた)はず

自分が罪なこと、不調和なことをすれば、自身の心が汚れる。

自分が罪なこと、不調和なことをしなければ、自身の心は清らかである。

汚れや清らかさは、すべて自分の心にあるものだ。

どんな人も他人の心を清めることはできないのだ。

心は自分自身で汚しもするが、清らかにもできる。

他人ではないのだ。という詩です。

今朝は、おまけの投稿です。(^.^)

次回は金曜日31日の投稿です。本日もお読みいただきましてありがとうございます。

感謝

愛と執着Ⅱ

プライベート、職場、恋人や夫婦の関係、親子関係、兄妹姉妹、嫁、姑の関係で何か悩んでいること、苦しんでいること、不満に思っていることって、意外と多いものです。

些細なこと、軽いものまでを含めれば、ほとんどの方が「YES」かも知れませんネ。

例えば、「俺は家族のために毎日こんなに遅くまで働いているのに、妻からは感謝の言葉の1つもない」、「私はパートナーを愛しているからこそ、○○してあげたのに、パートナーは私には○○もしてくれない。

こんなの不公平だわ」など、パートナーに対して、こんな気持ちになることって、ありませんか?

この「愛している」「○○してあげているのに」という思いは、本当に「愛」なのでしょうか?

人間は「愛している」という言葉をよく遣います。それは、いかにも他のためにあるもののように見えますが、実は自分が満足するための思いや行為ではないだろうか?

「彼を愛しているから○○してあげた」というけれど、○○してあげたい自分を満足させるために○○しただけに過ぎない、のではないだろうか。

愛だと信じていたその正体は……執着心?

自らの愛情によって相手のためにと信じてする行為が、自分の「こうしたい、こうするべきだ」という自分の欲望=執着心を満たしているだけなのではなかったか?

もし真実の愛から、パートナーに対して○○をしたのだとしたら、見返りなど求めないことです。

相手の反応がどうであれ、○○をしただけで満ちたりて幸せなはずです。でも、人間なかなかココには気づけないものなのです。

あなたは愛と執着心 の違いを心に落としていましたか。

愛と執着心 の違いに気づく!

  • パートナーのために働いている
    気づきの一言:働くことの意味は1つではない。もし、パートナーがいなかったら働かないの? 働き方は変わるの?
  • パートナーのことが心配なので、毎日電話&メールは欠かさない
    気づきの一言:パートナーは毎日というのは重いしメンドーとさえ思っているかも知れない。パートナーを案じるというよりも、自分が不安なのでは?
  • 休日はパートナーのために他の予定を入れない
    気づきの一言:パートナーは束縛されていると感じているかも。自分がパートナーと一緒にいたいのでは?
  • パートナーの帰りがどんなに遅くても寝ないで待っている
    気づきの一言:パートナーは寝ていてくれた方が気楽かも。自分のポリシーに基づいてそうしているのでは?日頃の会話が必要。

苦しみたくないなら、執着心を捨ててしまうこと

  • 「○○したのに、私には何もしてくれない」という不満が出てくる、悩む、苦しむ……というのは、悩み・苦しみ・不満が生まれてしまった時点で、それは「愛」ではなく「執着心」なのです。
  • もし、ここで悩みや苦しみから逃れたいと願うのなら、この「執着心 」を捨ててしまうことです。
  • それには、「○○してあげた」ではなく「○○させてもらえて幸せ」「あなたがいるから一生懸命働かせてもらえるのだ」と考えるのです。これが「愛」です。
  • とはいえ、人間ですから、執着心を捨てて100%愛のみで生きろ、と言われても無理な話……。しかし、心が大きく成長するためには、愛と執着心(欲望)の狭間で悩み苦しむことで人間は成長していくのですから、成長するためには悩みや苦しみも必要なのです。
  • でも、耐えられないほどの苦しみを抱え悩み続けてしまうのは、辛すぎるし、余計に心が不調和になるからそれはよくない。回避も必要な場合がある。
  • だから、先ほど挙げたように「してあげる」「させてもらう」というように、考え方を変えてみるのです。

愛は許し受け入れること!

  • 例えば、パートナーが他の人を好きになったと言い別離を迫ってきたとしたら、ショックは計り知れないものでしょう。この時、「誰よりも、パートナーを愛している。だから絶対別れない!」というのは、「愛」でしょうか? それとも「執着心 」でしょうか?
  • これは、自分の欲望=執着心のみから出た言葉です。二人がよく話し合い、その結果によってはパートナーを本当に愛しているのなら、パートナーが望む通りにすることも愛なのです。
  • 「愛」とは、「許すこと」なのです。そもそも普段から相手を許すという思い遣りがあるようなら、このような事態にはなっていないのかもしれません。※厳しく感じるかもしれませんが、愛は自分のこだわりを無くし、相手のどんなこともすべて許し受け入れることから始まる。相手には何も求めず、自分が与え続けることだけで満ち足りることです。
  • 100%「愛」のみで生きる、悟りをひらく、なんて無理ですが、今が20%なら40、50%に、50%なら60、70%に、というように、「執着心」を「愛」に変えていく、昇華していくことを心がけてみるのです。変えることができた分だけ、苦しみも軽くなっています。

愛するものより憂いが生じ、愛するものより恐れが生ず、愛するものを離れたれば、憂い無く、何故、恐れがあらんや。

※愛することに囚われ執着するときに心配や恐れがうまれる。愛という名の執着から離れたら心配することもなく恐れることもない。愛がいけないのではなく、執着する心が不安や恐怖をつくるということです。

本日も最後までお読みくださいましてありがとうございます。またの訪問をお待ちしております。感謝 (^_^.)

愛と執着

善きことを為す者は

ここによろこび

かしこによろこび

ふたつながらによろこぶ

おのれの

清らかなる振る舞い(業)をみて

彼はたのしみ

かれはよろこぶ

※心が調和されて正しく生活する人は今を喜び、唯一絶対なるものを畏れながら喜び、いつも喜びに満たされている。自分の清らかな生き方、心を大切にして、彼は人生を愉しみ、喜んでいる。

人間、生れたのちの境遇は選ぶことはできないが、生き方は自分で決められる。

『置かれた場所で咲きなさい。』この言葉が私の心に広がります。

苦しいからこそ、もうちょっと生きてみる。置かれたところこそが今の私の居場所なのだと確信する。

●真の愛は痛みを伴うものです。

●母親も、一人の子どもを産むためには、苦しまなければなりません。

しかし、子を産み、乳を与え、ほほ笑む母は無償の愛に満たされていたことを忘れてはいけない。

●もしあなたが、本当に愛し合っているなら、犠牲を厭(いと)うことはできないはずです。

●お金や心の貧しい人は、他のお情けを必要としているのではありません。

彼らが求めているのは、あなたの愛と優しさなのです。

決してものの道理や理屈や押しつけではないのです。

嫁と姑の立場も道理や理屈を捨てて、自分の愛を見なおすことです。

努力しているあなただからこそ、自分の価値観で道理と理屈を固持していないだろうか。

自分がが正しいと思う気持ちが愛を遠ざけるのです。

●もしも、真の愛を、慈悲をおこなえないというなら、それは自己中心的、利己的に偏っているからなのです。

正真正銘の愛は惜しみない寛大さを伴うはずです。慈愛と寛容はいつも共存します。

●今日、私たちの毎日は、外で過ごすことに努力を払い、工夫をこらし、気遣いをしています。しかしながら、そのようにして守っている今の生活の中身は、家庭での苦しみや淋しい思いをしている家族の現実に目をやろうとしていません。

私たちの努力を、もう少し家族への愛に注ぐなら、より幸せなものになることでしょう。

内が満ちてくれば、外も満ちてきます。しかし、外で満たすほど内が貧しくなるのです。それが人間の心です。

●何度もいいましょう。荒れる者、拒絶するもの、これら貧しきものが求めているのは、憐れみではなくて、真の愛なのです。

道理や理屈ではありません。彼らは自分たちの人間としての尊厳に敬意を払ってほしいのです。

彼らが有している尊厳はあなたと同じ、他の人間と全く同じ尊厳であります。

●私たちが死ぬ時、天に入る為の条件はただ一つ、心貧しき人々に対し、荒れるものに対し、妻に対し、夫に対し、嫁に対し、姑に対し、子供に対し、隣人に対し、どのように振る舞ったかということです。

行動のすべては心から発するものであり、他人に偽りができても自分に嘘はつけない善なる心だけをもって還らなければ天には入れない。

●日々の生活においても愛を示すときは、あなたの最善のものを示しなさい。それが分かち合うということです。

日本国内においては飢えて死ぬ人は殆どいませんが、心の飢えている人は限りなくいます。かれらは皆、ちょっとでいいからその存在を認めてほしいと願いながら、僅(わず)かばかりの真の愛を与えられないが故に、正しく生きる勇気を見失っているのです。

●本当によい行いは愛のエネルギーとなって相手の心に届くでしょう。

それは、言葉や道理や理屈を必要としない無言の力となって働きます。

●何の犠牲もなしで真の愛を知ることができないように、あなたに真の愛が満ちていなければ、相手に伝わることはないでしょうし、相手の心を動かすことはできません。

●相手に尽くして苦しいなら、それはあなたが真の愛に気づくための、産みの苦しみなのです。

その苦しみを投げださず乗り越えたら本当の母になれるように。父になれるように。

●あなたが子の親なら子に何を望みますか?偽りのない忠実な生き方ではありませんか。もしも、そうならそれは、そのままあなたの意志が天の意志に通じる心です。

天は愛と慈悲が全てです。それが宇宙の意識であり、心です。

『宇宙即我』人間は宇宙と一体である。

※最後までお読みいただきましてありがとうございます。次回は月曜日27日の予定です。またの訪問をお待ちしております。

よるべ

おのれこそ

おのれの寄る辺

おのれを措(お)きて

誰によるべぞ

よく調えし、おのれこそ

まこと得がたき

よるべをぞ得ん

自分こそが自分の拠り所である。自分を措いて、他に誰を拠り所とするのか。欲に翻弄されない、何事にも執着しない、心を調和した自分こそが、他からは得ることができない、真実の自分の心であり、拠り所である。

他との協調と相互協力のなかで生かされ、生かしていくことが人の道、他に依存する心が強くなると欲が先立ち、道を間違えることになる。

 

念と執着

私には男の兄弟がいないこともあって、小学生の頃、夏休みや冬休みの期間中は殆んど従兄弟(いとこ)の家にいって泊まり込み、川の字になって寝て馬鹿騒ぎした。オネショするやつもいた。

宿題や勉強をそっちのけで山や川で毎日のように五人で一緒に遊んだ。

50数年以上も前のことですから、今のように室内でのゲームや娯楽センターなどはない。夏の川で水遊びをしながら、はえ縄を仕掛けてウナギを釣ったり、手作りの網でカニを獲って夜の食材とした。美味しかった。

冬の山では野鳥やウサギなどの狩りをしたが、みな貴重な蛋白源の食材となった。

遊び道具は全て自分たちの手作りで、スキーやソリ、竹馬、パチンコ、コマ、バットまで何でも手作りで間に合わせた。

このような遊びが基本で自分の手作りマイホームを成し遂げたのかもしれない。

従兄弟は男ばかり4人兄弟で、私とみな近い年頃なことあり、楽しくて夏休みが終わっても家に帰りたくないとスネて叔母を困らせたことがある。

今から21年前、私より一つ年下の従兄弟である三男が42歳になった年に私は病院に見舞いに行った。

信夫はベッドに座っていた。言葉を掛けられなかった。私はただ黙って彼の手を握った。少し沈黙が続いたがお互いに胸が張り裂けそうなのがわかっている。

無言の彼は涙を流した。そして『俺が何を悪いことしたのよ。』と嗚咽しながら本音の言葉をもらした。

医師からは余命一年の宣告、骨肉腫が進んでいた。まだ子供たちは学生である。あっという間に逝った。

病気で苦しんでいる主人、あるいは主婦が、もしその病気で死んでしまったならば残された家族は不幸です。

そこで、神に念じ、どうぞこの病気を治してくださいというその心は、いったい執着といえるのかどうか、それとも慈悲の心なのだろうか。

これは立派な慈悲の心といえるでしょう。

残された家族の行く末を考えると、今ここで死なれては困る、子供も小さい、神よ、どうぞ病に苦しんでいる人を救ってください、という心が執着であるはずがありません。

但し、病に苦しんでいる本人が何かに囚われて心を閉ざし、頑なになっていれば、いかに家族や他の人が神に祈ろうが、光りが届き回復するという奇跡は望めないだろう。

またこういう場合があります。念じる人の立場です。

例えば、ある人に金を貸しました。その人が病気になって、もしも死んだら貸した金をとれない、そこで、金を返してもらいたいがために、その病気を治してくれと神に念ずる。

これは慈悲ではありません。執着です。ですから、念じる人が、どういう心で念じているかによって、慈悲になり、執着にもなるのです。

ここで念について考えてみましょう。念という言葉のなかには三つの性質が含まれています。

一つは『エネルギー』として。

一つは『願い』として。

もう一つは『循環』です。

エネルギーとしての念は、一般的に念力と言われるように、いわゆるであり、力はエネルギーの集中されたものです。

その意味で人間の精神力はエネルギーの集まりによってできており、もの考える、思う、念ずる、これらの精神活動は、そのエネルギーが放出された姿をいいます。

ですから、集中してものを考えたり、強く心配すれば、内にあるエネルギーが消費されるのですから疲れを感じます。

しかし、エネルギーそのものはモーターを動かす電気と同様に、善悪には関係ないはずです。

ところが実際には念の使い方によっては疲れる。これは、心がネガティブ(不調和)になるほど疲れやすくなる、エネルギーの浪費につながることの証明といえるでしょう。

問題は『念』としてエネルギーが放出されるときには『願い』という意識活動があるところです。

この意識活動が、欲望を主体にしているか、欲望から離れた慈悲、愛からでたものであるかによって、その念は、その人に、第三者にいろいろな状況を生みだしていきます。

すなわち、念には、もう一つの性質があるわけです。それは、『循環』の作用です。

念は波動であり、波動は山びこと同じように、発信者に必ず帰ってきます。

つまり、悪の念には悪が、善の念には善がハネ返ってくるのです。

すなわち念波は、あの世にもただちにコンタクトされ、善の念波は天国に悪の念波は地獄に通じます。

従って慈悲、愛の心で、病気を治してほしいと念じたとすれば、その念力はあの世の天使に通じ、そして加護を受け、病気を治し、慈悲を与えたその人にも光明が与えられるわけです。

悪の念波はこの反対です。

次に執着です。執着とは『モノに拘(こだわ)る』ことをいいます。

『これは俺のものだ』、『俺はこれこれのことをした・・・だから感謝されて当然だ』『俺はあいつより偉い』『俺は有能だ』『死にたくない』等々。

想いが深く沈んでいることをいいます。

ふつう、人間の意識活動は、念と執着がまざりあって働いています。そうして一方では、比較的、念の強い人に世の成功者が多いようです。

だがしかし、金持ち三代続かずというように、やがてその反動がやってくるのです。

栄枯盛衰、いい時も悪い時もあるのが人の世の姿でもありますが、このことは下記のように平家物語の冒頭にも紹介されています。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、

沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色、盛者必衰の理を顕す。

驕れる者久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。

猛き人も遂には滅びぬ。偏に風の前の塵に同じ。

この詩の意味は、お寺の金の音は、変化してやまず、永久不変なものはない」といっているように聞こえる。沙羅双樹(夏椿)の白い花の色も綺麗に咲いても散りゆくことに、栄えているものもやがて落ちぶれる必衰をみる、人間、おもいあがっても一時のこと、春の夜の夢のように長くは続かずまたたく間に過ぎゆく、荒らしく勢いのよい人間であってもやがて死にゆくもの、それは風に飛ばされる埃(ほこり)のようなものです。と詠っている。

平家物語のなかで源氏によって平氏が滅ぼされ没落していく様を表しております。

物悲しい文章の出だしですが、ある年代にきますと、浮世と言う言葉が実感として染み入ってくるのも、人の世が念と執着が混ざり合い、ぶつかりあい、念の作用である循環(繰り返し)のなかで生きているからでしょう。

正しい念は中道という慈悲、愛を根底としたものが最上であり、また、人間の姿は本来そうあるべきものなのです。

最後までお読みくださいましてありがとうございます。次回は8月22日(水曜日)に『愛と執着』を投稿予定です。無料カウンセリングお問い合わせはkandou0822@yahoo.co.jp

 

恋愛・危険な男性

女性が幸せになれない危険な男性

生きるということは悩みが付きまとうものかもしれません。多くのカウンセリングのなかには男女間の恋愛についても相談があります。女性の幸せは男性にかかっているともいえるでしょう。

どんな男性も、しばらくお付き合いしてみないと、どんな人なのかわからないもの。でも、女性を不幸にする男性は、恋愛に発展する前に防ぎたいですね!

そこで、きょうは気を付けたい男性を取り上げてみましょう。

数回のデートで、こんな傾向が見えたら、要注意!
1・自慢話が多い男
周りが反対するか、自分だけが大好きなパターン。これは自分が気をつけなくてはならない。
恋愛に発展しても、常に自慢話を聞いて「すごいね!」と言ってあげないと気分を害す。

他の人の自慢話を素直に聞けない。これは自分本位なところがあるので、要注意。

本当にすごい人は、それをひけらかさないものです。 でも、たまに「頑張った俺をほめてほしい」という場合は、無邪気にわかりやすくほめてあげるのがよい。男性は、ほめて伸びるのです!

男女関係は男性がリードする方がよいのですが、その実は女性がうまく操縦していると理想的な関係となるでしょう。

2・女友達から離そうとする男
「女同士は怖いから」、「女の嫉妬はすごいから」などと言う男性は、女同士の友情や信頼関係を嫌うか、馬鹿にしている場合が多いもの。恋人関係になったとたん、「友達と俺、どっちが大事なの?」、「俺さえいれば友達なんていらないだろ?」なんて言い出す場合も。

恋愛は、二人だけのものと思いがちですが、そうではなく、自分と相手の周囲も尊重し合って初めて成り立つもの。そして、困ったときに助けてくれるのは同性の友達。大切にしたいものです!

3・お金で依存させようとする男
経済的にリッチであることは確かに魅力のひとつですが、若い女性に不相応な金銭を与える男性はいい男とは言えません。

自分で稼ぐ能力がまだ不安定な女性だと、そのせいで「あなたなしでは生きていけない」と相手に依存してしまう場合もある。これは非常に危険なパターンです。

お金でつながる関係は、お金がなくなればそれで終わるのです。

好きだから一緒にいるのか、お金や生活のために一緒にいるのかがわからなくなるような恋愛は、健全とはいえません。

お金持ちであることを振りかざすような男性は、ただ相手を支配したいだけの場合も多い。

たとえお金がなくても、対等に相手を思いあえる相手を探すほうが、幸せにはずっと近付きやすいでしょう。幸せは心で感じるもの、心で気づくもの、お金で感じる幸せはいつか壊れます。

4・ヒーロー願望男
ヒーロー願望が強い男性は「かわいそうな女の子を救ってあげる俺」が好きなだけなので、その女の子がかわいそうじゃなくなったとたん、興味をなくします。彼らは自分から見て不幸だと思う女性が好きなので、一緒にいる間は幸せになりにくい。

男性は誰しも女性を守ってあげたい想いがあるものの、そんな自分に酔っているだけで愛情の深さとは別の人もいるので要注意。

ポジティブで幸せな女性の姿を、素直に喜んだり応援できる男性を選びましょう。

5・疑り深い男
女性の言動を過剰に疑う男性は「自分が相手に見合っていない」、と卑屈になっているか、他の男性と話す姿を見ただけで不機嫌になったり、口をきかなくなったり、人によっては口うるさく嫉妬したりする男性は、自分で自分のことを信じていないので、その自信のなさを女性に投影しているだけ。

自分だけでなく相手の女性も信じてやれないような男性は心の狭い自己本位。

このような交際は女性の行動の問題ではなく、その男性の心の中の問題なので、女性がいくら頑張っても解決できない場合が多い。ですから、速やかに逃げるに限ります。

独身女性のみなさん。いかがでしょうか? 身近に、こんな男性はいませんか? 女性も、つい自慢話や自分の話をし過ぎたり、つい彼の友人女性や男友達に嫉妬したり、疑ったりしていませんか?そうなりがちですよね。でも、どれも加減が大事。

男性は嫉妬する女性を可愛いと思うより、うるさい、うざい、わずらわしい、と思うことの方が多いものなんです。
世の中、完璧な人なんて自分を含めていないと思います。それが人間でしょう。

ですが、なるべくお互いを尊重し、ポジティブな気持ちで一緒にいられるような男性と、素敵な恋愛をしてください!

※今回の投稿内容は、これまでにないようなジャンルのテーマで述べてみましたが、書いていて何だか妙な感覚というか、くすぐったいような感覚とでもいいましょうか、投稿にも勇気が要りました。

次回は(念と執着)20日(月曜日)の投稿予定です。最後までお読みいただき感謝申し上げます。岩手県 盛岡市  『心と体の健康』教室 観童

今月20日(月曜日)滝沢村ちゃぐホールにてハートスクール『心と体の健康』教室を開催します。今回のテーマは『愛と執着』です。

14:00~17:00迄、参加費無料。会則なし。自由参加。個人相談は当日以外に可能。

お問い合わせはkandou0822@yahoo.co.jp

 

心の乱れ

不調和の原因

先日、竹島に韓国の大統領がヘリで訪問して物議を呼んでいる。日本と韓国の間で竹島の領有権問題が未解決のままだ。

世界的な一般常識と歴史的背景、地理的な条件を考慮すれば、恐らく日本の固有の領土と判断してよいのではなかろうかと思うのですが、私のような素人には専門的なことは解らない。

ただ、尖閣諸島にしても竹島にしても、中国や韓国の行動はいきなり日本海域に油田開発を進めたり、竹島に韓国旗を建築する強引な手法に何とも合点がいかないのは私だけであろうか。

過去には竹島近海で漁をしていた漁民が韓国軍の銃撃を受けて死者もでているし、拿捕もされ、抑留もされている。まったく容赦ない攻撃的な行動が続発している。

そして、そこには韓国政治家の飽(あ)くなき権力への自己保存という欲望が見え隠れする。

さて、本題に入りましょう。日ごろの私たちの心が不調和になる原因を追及してみると、ほとんど自分の欲望が満たされていないときに起きていることが解ります。

人より偉くなりたい、お金がたくさん欲しい、よい着物を着たい、うまい物を食べたい、環境一切、設備の整った家に住みたい、子供を有名校にいれたい、人から良く見られたい、数え上げればきりがない欲望の泥沼。

足ることを悟っているならば心に自制が生れてくるのだが、逆へ行く人が多いのである。

その結果、それらは欲望の奴隷になって安らぎの生活を得ることができなくなるのです。

自分の立身出世のためなら、同じ仲間に対しても平気で不義理をする。上司に認められたいために己の心を偽り、下僕のような封建社会さながらの態度をとる。

地位や名誉や金が、人生を豊かにするものであろうか。

我欲が出れば、平穏な生活は愚か、己を滅ぼす場合もある。

金でつながっている人間関係は金が切れるとつながりも切れるものだ。

地位や名誉の恩恵だけで人の上に立っている人間はそれから離れた時に人も離れてしまう。そのことに気づいた時は孤独に苛(さいな)まれる自分がいるだけである。

人間は偽りのないことにこそ正しい心の芽が出て足ることを知り、安らぎの人生を送ることができるということを知らなくてはならない。

地位を得たものは、その地位を己の為に駆使してはならない、地位を全うするのは地位ではなく人間性という人格でなくてはらないだろう。

人間は地位に執着したときに慢心し、驕(おご)り、傲慢(ごうまん)になる。これらはみな欲望であって、決して虚栄や欲望におぼれてはならない。

このように、貴い修行場としての人生を、無意味に過ごしてはならない。

与えられた環境のなかで、勤勉に努力してゆけば、心の不安も消え、安らぎの環境をつくりだしてゆけるのである。

組織の場合でもそうだ、労使ともに、感謝の心が報恩となって、心の調和につながってゆくのである。△三角錐は底辺が下にあるから安定して座るのだが、これが逆三角▽になれば不安定になり倒れてしまう。

組織の経営者は、この単純な道理を心の底から離してはならない。下で働く社員の功績が会社を存続させていることを。

社会主義のいう、上部層と下部層の、対立的宿命によって現象化される、闘争と破壊の思想を、人類はものの道理と信じてはならない。

間違った思想による人間の心の変化は、心乱れて己の影となり、破壊への道をたどる。

不調和な想念行為は自ら刈り取らなくてはならぬことを知るべきである。

人生は短いもの、悔いのない毎日の生活の積み重ね、その中での反省は、人間の心をより高い次元に浄化進歩させるものである。何故なら、想念は行為となって現れるものだからだ。

太陽は勿論だが、眼に見えない宇宙の崇高な光りエネルギーは、慈悲と愛に対する感謝の心で、人々に対する報恩の心と行為になってゆくような人間にこそ注がれる。

私たちは一歩一歩、この様な社会を作らなくてはならない。そしてそれは、手をこまねいていても訪れてくるものではない。実践行為のなかに善意の運動は広がっていくものであろう。

社会現象の、外面にとらわれることなく、内面の心を中心とした調和こそ、天の意志と同通するものであり、それはまた、宇宙の真理に適った人間の実践生活以外にないということを、私たちは発見するのである。

人類は皆兄弟である。地上においては同時代の同期生なのです。

皮膚や色や民族の種類は、それぞれの環境に適した肉体であって、人生航路の借り船にすぎず、その支配者である意識、すなわち魂は少しも変わっていない同じ人間同士であり、兄弟なのである。

地上に国境はあっても魂の世界に国境はない。

太陽の熱と光は万人に皆平等であり、天の慈悲、愛もまた平等である。

従って人種差別も偏見も天の意志ではない。差別の段階は、生活環境の差異によって生れたものであろう。

差別は、心の面を見ることのできない人々によってつくられた、自己保存のための封建制度的な階級制度といえよう。

私たちは今こそ内面の心を悟り、人間として生をうけた今生の価値を正しく認識することが大切である。

“苦悩は自らの心と行いがつくり出している。“

次回は17日(金曜日)の投稿を予定しております。訪問をいただきありがとうございます。

心の中道

身体が痛い、辛い、何件も病院をはしごするドクターショッピングをしても、いく先々で言われる医師の言葉に信頼がおけない、疑問がある。症状が改善されないための不安からである。

しかし、病気という病気は見つからない。結局、薬の服用が向精神薬ばかりで長期間に及んでいる30代のこの女性はパニック症状と、うつ症状が重なっていた。

気の毒に、これほど辛い思いをしていながら大事なことに気づけないでいる。

十分に可愛い顔をしているのだが、目が気に入らないからプチ整形をするために東京へ相談にいくという。それどころではないのに。

日頃、薬の副作用もあり体力が消耗しているから賛成しかねたのだが、案の定、帰ってきたら数日寝込んでしまったようだ。

どれほど体が辛くても執着したときの心のエネルギーは恐ろしいほどのパワーがある。

苦しみや今の逆境を受け入れると突然見えてくるものがあるのですが、『なんで私だけが』と不満の気持になると、よけい辛い人生となるのは、本来の心の仕組みがそのようにできているからです。

人間の心は、善、良心、博愛、慈悲、奉仕、などの調和された状態の時に満たされるように天からいただいてあるために、その調和に沿わない不調和な意識を持つと苦しくなるのです。

偏った価値観、歪んだ自分だけの価値観というものはどうしても心に執着があるために心に流れがなく、よどんでしまいます。よどんだ水は腐敗するのが自然の理です。

『人間は神の子』とは実にうまく真実を突いた言葉ではないだろうか。

人間は誰もが老い、病み、死ぬのだが、それは生命循環の必然の過程であり輪廻のなかで起こる当然の営みでもある。

生きることに疲れた人は実は真面目な人、努力してきた人。心を休ませるには自分を知ることから始めると効果的である。

他人のことはよくみえるものだが、自分のことはとなると意外と見えていないものです。

自分をみるためには自分から離れる必要があります。

それが自分自身を客観的にみるということです。

この自分をみるときに必要な基準があります。『見ること、思うこと、話すこと』に偏った思考や言葉がないかをチェックすることです。

上にも下にも右にも左にも偏らない中ほどの道にあるかどうかが基準であり調和された心というもので、これを中道といいます。

※幼児の頃から献身を求められてきた人がどうして大人になってもエネルギッシュでいられようか。そんなことは至難のわざ。子供には与えることで与える大人に成長する。

物や金ではなく愛を。

※人生の初期で周囲の期待に応えることばかりにエネルギーを使うと試練のときに虚脱してしまう。しかし、若いときの苦労は未来の糧となる。この違いは?

※高齢者と若者が、男と女が、国の違いや文化の違いが、立場の違う人が、価値観が違う人が、これらが相互に理解し合うのは難しい。

しかし可能です。何故なら人間だからです。地上に国境はあっても人類の魂には国境はない。生まれる前は皆、天にいた魂の兄弟であったことに気づいていただきたい。

※ほんとうに心を休めたいなら外に求めるより自分を知ることからはじめること。他を知り得ても自分を知らなければ苦悩から脱することはできない。

『心と体の健康教室』の紹介

毎月、第二月曜日 滝沢村ちゃぐホールにて14:00~17:00迄、8月は20日

途中参加、途中退席可能、参加費会費無し、参加規約なし。自由参加

講師 観童

お問い合わせはkandou0822@yahoo.co.jp

信仰と貧しさ

私の親戚筋に信仰をもっている家族がいる。年間に結構な金額の寄進をし、普段の生活では厳しい暮らしをしているということを聞いたことがある。また、そのことが原因で家族の言い争いが絶えないことも、その家族の子供から聞いて知っている。

一般世間をみると、信仰を持たないものが恵まれ、信仰者が不幸で貧しいという現象にぶつかることがあります。何か矛盾を感じるのですが、これはどういうわけなのだろうか。

きょうは信仰と貧しさについてその実態を述べてみようと思います。

さて、厳格な意味では信仰を持たない者は一人もいません。何故なら、自分を信じているか、金を信じているか、地位や名誉を信じて生きているのか、何かを信じて生きているのが人間です。

何も信じることができなくなったならば、人は生きてゆくことさえ難しいでしょう。

先ず、信仰のない人たちが比較的恵まれている理由は、その生活態度が自力的だからです。

そういう人たちの場合は依頼心が少なく、原因と結果について自分なりの見解を持っており、ものの成否は努力の結果とみているからです。

それだけに偏ると自己中心的であり、念の力も人一倍強く働いています。

恵まれた環境は、そうした諸条件が生み出したといえるでしょう。

ところで人の幸、不幸は本来、主観的なものです。第三者が見て、経済的に恵まれているから幸せかと言うとそうではなく、それを維持するために戦々恐々とした生活であったり、親子の断絶があったり、形だけの夫婦であるとか、内と外では大違いの場合が多いようです。

また金ができ、地位があがると、今度は慢心を起こし、分を超えた金使いや投資などで大きな損失をしたり、金持ち三代続かず、のように新たな執着の原因をつくり出してゆきます。

立派な豪邸を建て、奥様は真っ赤な外車に乗りどこから見ても裕福で幸せな家庭にみられるだろうが、その社長夫人の奥様は心身症、うつ病、ノイローゼを患い相談にみえた。かなり危険性をはらんでいた。

しかし、あまりにも自我が強く、人間の幸せ、正しい生き方、心の在り方、などをアドバイスしても自分を変える努力をすることはなかった。

やがてこのご婦人は自殺をした。

自力的な経済的豊かさへの努力そのものは道に適っていますが、報恩感謝の無い生活は、やがて身を滅ぼすことになるのです。

ですから、自分を信じることは良いのですが、心の無い自力は、幸せのように見えていながら、不幸の原因をつくりつつあると言えるでしょう。

一方、信仰を持ちながら貧しいというのは、これまでの信仰は十のうち十までが他力に依存した弊害によるものだからでした。

先祖崇拝と祈りと読経が生活を豊かにすると教えられ、タナボタ式に幸せをつかもうとしました。

信者の態度も、祈れば救われ、病気も治る、金も入ってくるとして、その実は教団に相当な金を浄財として寄進し、生活まで犠牲にしてきました。

これでは貧しくなるのは当然でしょうし、正しい信仰の在り方とはいえません。

ことに、信仰者のものの考え方は逃避的、自慰的、排他的、独善的である場合が多く、生活に積極的に立ち向かってゆく姿勢やその傾向を見失っているようです。

現実にこれまでそのような人たちの相談を受けてきたからよくわかるのです。

他力信仰の弊害は、神と称する教祖なり、拝む対象がニセ者であることが多いため、信仰者の生活をますます貧しいものにしてゆきます。しかし、それでも気づけない人たちが多いのです。

幸福の○○という団体では教祖の写真を高額で売り、それを崇拝させています。これも正しいあり方ではありません。

教祖は、『自分が地球人類の最高指導者である』としていますが、この世とあの世には眼に見えぬ霊の働きがあり、正しい道に反した信仰の背後には必ずといってよいほど動物霊が暗躍しているものです。

それは教祖にも教団にも、そして信者にも憑依しているものです。特に狐と蛇の霊はしつこく陰湿でずる賢い。人々が信仰して貧しくなるのは、そのための影響も大きい。

そこで、生活を平穏で豊かなものにするには、先ず、正しい道に沿った生活態度が絶対必要であり、誤った信仰ならしない方がよいということになります。

いずれにしても、正しい秩序に適う生活が自分を生かし、安らぎを得る道であるわけです。正しい心ができてくると動物霊や悪霊などは憑依できないものです。

正しい秩序に適った生活とは

1・正しく物事を見ること。(多くの人々はその人の行為や外見だけで判断する場合が多い。これは誤りです。主観的な見方に偏ることなく客観的な見方をすること。現象や結果だけに見いってはならない。)

2・正しく思うこと。(思うということは考えることです。見る、聞く、語る、という行為に対しても、偏らない中道の心でなくはならない。自己本位の考え方は身を滅ぼす結果を生じるからである。思うことは行為につながる心の動作である。不調和な思考は心を曇らせる。)

3・正しく語ること。(語るということは言霊(ことだま)となって相手の心に伝わるということです。表現された私たちの言葉は、相手の耳を通して不調和か調和か、いずれかの現象を生じさせるものだから言葉は大切だということです。

言葉は少なすぎても多すぎても自分の意志を正しく人に伝えることはできない。強い口調は相手に怒りの心を生じさせるから慎むことです。)

以上の三つは人生を豊かにするための最小限度の実践事項だと心得て毎日の生活のなかに行為することを奨めたい。

 

※これまで一日おきに投稿しておりましたが、これからは月曜日と金曜日に投稿してまいります。今後とも訪問、お読みいただき、気づきのきっかけになれば幸いにございます。

このブログは『心の健康、身体の健康』をテーマに、日ごろの生活のなかから、さまざまな出来事を通じて、心の問題、身体の問題を取り上げていきます。

次回は金曜日の投稿になります。皆さまのご訪問に心から感謝申し上げます。m(__)m観童