霊体と肉体の関係

怒り

体の具合が悪ければ病院にいって診てもらうのは誰でも経験していることでしょう。

しかし、どのような検査をしてもこれといった病態が発見されず、病気が特定できないケースがあります。

私は、そういう人たちの症状を数知れず診てきたのだが、このような場合は精神的アンバランスが影響して、その結果として症状を体に現わしている場合が多々あります。

「胸が苦しい。喉がつっかえる感じがして二年になる。呼吸がしにくくて息苦しい。体がざわついて落ち着かない。布団に入ってから眠れない。朝に起きれない。倦怠感がとれない。動悸がする。いつも冷や汗が出る。気持ちが沈む。集中力がない。気がつくと同じ事ばかり考えている。悩みがある。人に会うのが怖い。ちょっとしたことで涙が出る。感情の起伏がある。イライラしやすい。音に過敏に反応する。光に弱い。テレビが見れない。活字が読めない。」等々。

こういった症状は体が起因する以上に、心の状態が良い状態ではないために発生してくることが多くあることを、多くの患者さんや、相談者の回復をみることで確証を得ている。

例えば、「背中や胸が苦しく、息ができない、不安と恐怖心で眠れなくて体が休まらないから助けてください」といった男性Qの相談例があった。

この男性は、「病院を信用できない」と話しながらも、ドクターショッピング(病院のハシゴ)をしていたが、いよいよ窮地に到り為す術もなく相談にみえたのだった。

「治るなら何でも聞きますから、ハッキリといってください。」ということでしたから、前置きしてから話した。

「あなたの物事の受け止め方、考え方を変える勇気と決心があるのであれば症状にも改善がみられ、回復に向かう可能性は限りなくあります。

その為には、あなたにとって都合の悪いことであっても、それを認めて受け止めなければならないこともあるかも知れませんが、それができますか?

それができるならお話ししましょう。」

「お願いします。もう苦しさから解放されたいです。」

私は彼の話を十分に聞き届けてから、ゆっくりと、優しくアドバイスの言葉をいくつか話し出したが、しかし、彼は私の話しをさえぎるように反発してきた。

「いや、それは本当の自分ではないです。違うんです。病気をしたからそうなったんです。本当の自分はこうではないんです。」

やはり彼は、聞く耳を持っていなかっただけでなく、一番改めなければならないはずの「自我」というものを理性をもって抑えることができなかったのである。

完全に精神バランスを崩していた。

彼は、病気が自我を強くしたというのであったが、真実は違う。

自分自身の心のが、自律神経を通じて肉体に及び、息苦しいという症状をつくっているのである。

特に心身症の相談者には説明するのだが、肉体は自律神経の支配下にあり、自律神経は脳の支配下にあり、その脳を支配するものは心、すなわち精神であるということを。

自我ということの意味は、執着、偏り過ぎた拘りであるがこのことについては順をおって述べていきたい。

気の毒ではあったが、相談者Qの次回以降のカウンセリングは丁重にお断りした。

何故なら、自分が変わろうとする勇気と決断がなければ心の癖(傾向性)は修正できるものではないからだ。

今の結果の原因を他のせいにする、自分の不調を自分が原因であると認めたくない。

こういったケースは間々見受けられるのだが、こういう人の場合は自分が変われることもなく、生涯にわたって心身の不調を訴えて生きていくことになるだろう。

精神的疾患者の中には、後天的に自分自身の心の不調和によってうつ病や、ノイローゼなどに陥っている人々が多いが、これらは自分の状況を知り、正しく心を調和する勇気と努力をもって実践する以外に回復の可能性はないといえる。

病気を、恐れてはならない。かといって、おろそかにしてもならない。
但し、うつ病、パニック障害、その他の精神的疾患に関しては、心療内科、精神科の投薬治療だけでは改善は期待できないところもあるというのが実態でもある。
いずれにしても、生活上の諸問題や病気もそうであるが、結果を良く反省し、良いことはより伸ばし、悪い想念と行為は捨てて、偏りのない心になることが必要であるし、それが正しい反省ともいえる。
そうすれば、心が浄化され大自然との波長も合い、そのエネルギーによって心身が満ちてくることになり体も早期に癒えてくることになるであろう。
常に病気で沈みがちな人々は、自分自身の心の在り方を良く反省し、その原因を知ることが必要である。
人間は肉体がすべてであるからといって、内面のことを考えないで医者などにかかっても完全とはいい難い。
心の内面こそ、本当の自分自身であることを知ったなら、肉体の故障の修理も、より完全にできるといえるからで、こうした結果、自分の治癒力を信じることによって、その効果は現われてくるものなのである。
私達の多くは、この現象の世界である地球上に生まれると、肉体先祖から伝わってきた、習慣や両親の教育、社会の思想、先輩や友人、兄弟の影響を受けて、自らの個性とともに人格を形成して行く。

それには、五官が常に作用しているということを見逃せない。

五官は、肉体の感覚器官で、人間が生きていく上にあたって、あらゆる障害を超えていくために、正しく判断する機能として与えられたものである。

がしかし、この五官は肉体感覚であるために、どうしてもひとりよがりの判断となりがちである。

そのため、自ら苦しみや悲しみの原因を造ってしまい、あるいは、恨み、妬み、そしり、怒り、闘争、破壊の行為によって、自らを人生の泥沼のなかに没して行くことになる

自己中心、自己保存、自我我欲、自分さえよければよい、という偏った生活が、混乱した社会を造り出しているといえるだろう。

の原因は、五官をとおして心に作用する諸現象に対して、正しく判断する″正しい″という基準の決定ができなくなってしまったからである。

この原因はとなると、眼、耳、鼻、舌、身の五官だけを頼りとして生活していたため、肉体の主である意識、すなわち魂の存在を忘れてしまい、肉体こそ本当の自分だと思ってしまったためということだ。

そして、意識の中心である心の尊厳性をかえりみないで、人生における物質文明社会での地位や名誉に対する欲望、金に対する執着心、すべてに足ることを忘れ去った不調和な心にあるのだ。

想念の曇りが、神性仏性である心の光を小さくし、苦しみの種を蒔き散らしているのだといえよう。

この地上に生まれてきた目的や使命を忘れ、欲望のとりこになってしまったのだ。

前世において約束をしてきたことなど、思い出す余裕すら失ってしまったのである。

欲望のままに生き、自分に不都合なら他人を蹴落としても自分を守る。

そして遂には心が魔に支配され、己の中に内在する善なる心、という意思にそむいた苦しみの一生を送ってしまうのである。

このような一生は、正しい生き方とはいいがたい。

五官というものは、客観的にとらえた感覚であって、五官から大脳に通信され、その電気的振励が肉体の主である意識に通信され、心に作用して行くものだ。

心の内部には、本能の領域、感情の領域、智性の領域、理性の領域があり、意志の作用によって、行動になったり、心のなかの想念が作用するのである。

このように、心も含めて、私達の魂こそ、永遠に変わることのない自分自身だといえよう。

「魂や意識などは存在しない。人間はすべて頭脳が思ったり考えたりするので、一切の諸現象の根はそこにあるのだ。死んでしまえば何もないのだ。すべて終わりなのだ」という人も多いだろう。

このような考え方の人達に、私は質問をしたい。

「では眠っているとき、鼻の穴も耳の穴もあいているのに、なぜ枕もとでの他人の話し声や匂いなどを感知したり、記憶することがないのだろうか、脳細胞が記憶しているとしたならば、当然眠っているときでもすべて記憶してよいはずだ」と。

しかし実は全く覚えていないし、人によって、感度の差はあるだろうが、それでも記憶にないという事実は、万人が否定できないだろう。

また神経痛やリューマチなど、起きているときには痛みで苦しんでいるが、眠ってしまえば痛みがないではないか。

このように、私達の生活のなかで、起きているときと眠っているときの状態を考えると、現代医学も、科学も、まだ正しい解答ができていないという他はない。

悲しいときや嬉しいとき、感激したときなど、涙の出る前から胸にこみ上げてくるものは何の働きだろうか。

それは、心のなかの感情の領域がふくらんだときの現象が、肉体的に現われているということだ。

魂と肉体は、このようにはっきりと区分されてはいるが、また何らかの糸で結ばれている、ということも否定できないであろう。

これを色心不二と説いている。(物質と見えないエネルギーは表裏一体)

肉体と霊体を繋ぐ見えない糸を呼ぶとすれば霊子線といえるだろうか。

この霊子線は、次元を超えて、どこにでも通じるのだ。

肉体と魂を結んでいるもので、私たちが母親の胎内で、へその緒で結ばれて母親から栄養を頂いているようなものだ。

死は霊子線が切れたときに、この世の原子細胞である肉体と決別して、新しい四次元以降の肉体ともいうべき霊体(光子体)で、あの世の世界に帰っていく状態なのだ。

人間は、肉体に乗ってしまうと皆肉体の五官が優先になるために盲目になりがちだし、善と悪が同居している地上世界だけに、心の修行はむずかしい。

しかし、この心の在り方を良く知って、転生輪廻の過程で造り出した不調和な個性や特徴、つまり″業″というものを正しくし、調和のある心にしなければならない。

人生体験をとおして、いつの間にか心と行ないのなかに出てくる″業″を、修正しなければならないのである。

※きょうも最後までお読みくださいまして心から感謝もうしあげます。このブログを他の方にも読んでほしいと思われた方は下のバナーをポチッとクリックして頂ければ幸いです。
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