男の寛容・女のぬくもり
標高の高いところでは木々が色づき始めた。
一年間を精いっぱい生き抜いた証として、緑から赤や黄色に葉の色を染めてゆく。
この目に見える、みごとなまでの風景は、森の魂のさけびと観ずる。
やがてくるであろう北風を迎え入れるために、葉を落とし、静かな休息に入る。
吹雪や豪雪に耐えて越冬をし、雪解けの時期がくるまでの辛抱だ。
生きることは忍耐でもある。
地球に生物が存在し得るのは、太陽と地球との距離が、程よい状態に保たれていて、地球上に生物が存在し得るに最も適当条件がそろっているからです。
太陽と地球との距離がもっと近ければ、地球上は暑くて生物は存在し得ないし、また反対に遠ければ、地球上には氷が張りついて生物は存在し得ない。
誰が一体、太陽と地球との距離を、地球上に生物が最も存在し易いような状態に置いたのであろうか。
そこになにかがあるということは、それをそこに存在せしめたなにものかがあるということであって、その、眼に見えない不可思議な究極的存在を何と表現すればよいのか。
私は、「大宇宙の意識」、「天」、「絶対唯一の存在」という言葉で述べてきた。
地球は自転しながら公転している。すると、当然のことながら地球には遠心力が働く。
遠心力とは円の外側に働く力であり、遠くへ飛んで行こうとする力のことです。
その地球が遠くへ飛んで行かないのは、太陽が地球を引っ張っている求心力が働いて、その遠心力と求心力が調和されてバランスが取れているからである。
その調和・バランスが崩れると、地球は現在のように存在していることはできない。
地球は自転している。回転しているのですから当然そこに遠心力が働く。
脱水遠心分離機というのは、回転させることによって遠心力で水分を取ろうとするものです。
地球は回転しているのですから、当然地球の表面には遠心力が働いて、その遠心力によって地表の人間宅建物もその他すべて、地球外の空間へ飛ばされなければならないはずであるが、それが飛ばされないのは、それらのものを地球の中心部に向って引きつけている力、即ち引力が働いているからである。
この引力の法則を発見したのがニュートンである。
ニュートンは、りんごが木から落ちるのを見て地球に引力があることを発見した。
だが、ニュートンが引力の法則を発見する前から、りんごは下に落ちていたのであって、引力の法則をニュートンが発見してから、りんごが下に落ちたのではない。
即ち、人間がいろいろな法則に気かつかず、それらが発見されていなかった間も、この宇宙、この地球には法則が働いていたのであって、人間はやっとそういう法則があるということを科学的に知ったに過ぎないということだ。
その、人間が気づいていない、発見しない前から、そのような法則をつくって、この宇宙、この地球を存在せしめていたものは何ものなのか。
その不思議な力を「大宇宙の意識、意志」と捉えている。
太陽(陽)と地球(陰)との間には、求心力と遠心力が働いているように、男(陽)と女(陰)との間にも求心力と遠心力が働いている。
男があまりにも強かったり弱かったりしても、女がまた女らしさを失って男みたいに強かったり、また自分の意志を持たない自主性のない弱い女であったりすると、男女の調和・バランスが崩れてうまくいかない、すなわち不調和となる。
男と女は、太陽と地球のように深い関わり愛のなかで生かしあわなければ自然の営みに沿った生き方とはならない。男は寛容にあり、女は温もりをもって。
我が心の師はいう。 「すべては自然が教えている、自然の相を見れば人間の生き方がわかる」、というのであった。
私たちは、大自然の、ものいわぬ相を見て、大自然の相の中に働いている宇宙の意識の神秘に驚かなければならない。
正しい生き方とは、その大自然の神秘さに驚くところから出発しないと、正しい生き方にならない。
何故なら、人類は大宇宙大自然によって生かされているからである。
作用と反作用
物理学における「作用と反作用」の法則は同時に心の法則でもあります。「すべての作用には、大きさが等しく方向が反対なる反作用が伴うこの「作用と反作用」の法則を、心の面で表現したのが「善因善果」、「悪因悪果」という「因縁」の法則であります。
科学の法則と心の法則は一つであり、この一つの法則を創造して、心と物質とを同一法則によって活動せしめている大生命力、大エネルギーを、宗教的表現すれば「神」ということになるでしょう。
法則は人間の欲しいままの心によって左右されることはありません。
この人は悪いことをしたが、前によいことをしたことがあるから今度は少し手加減して悪いことが起らないようにしてやるというようなことは絶対にないのです。
その人の運命は、その人がこの法則を知っているにせよ知らないにせよ、厳密にこの法則によってつくられてゆくのです。
法則の管理者は自分である。
人間が万物の霊長であるということは、「作用と反作用」の法則を自由にコントロールできる心の自由を与えられてあるということです。
あなたは、あなたの今の運命がどうであろうとも、それはあなたが知っていたにせよ知らなかったにせよ、みなあなた自身の心がつくり出したものであって、誰をも怨むことはできないのです。
怨む、憎むということは自分の運命の責任を他に転嫁していることです。
自分が下手な絵を画いたのに、あの人が私にこんな下手な絵を画かせたと思って、自分ではなにもしようとしないのが、怨みとか憎むというような心なのですから、怨む心、憎む心が自分にある間は運命は絶対によくならないのです。
相談者のなかには、他人に対して、あるいは親に対して、夫婦が互いに対して恨みの心を持っていた例がありますが、その怨みを赦しの心に変えることで病気から解放される事例があります。
このコラムを読まれた方で、もし誰かを憎み怨んでいたとしたら、先ずはその人を赦すことです。
そうすれば必ずあなたの運命は必ずよくなります。
われわれは、自分白身の運命の主人公なのです。
先祖の因縁ではない
これまで日本の宗教家は、なにかあると「それは先祖の因縁だから、先祖の供養をしなさい」と指導してきました。
一方では先祖に感謝しなさいと教えて、一方ではこのように説いてきたために、「自分が不幸なのは先祖の因縁だ」とか、「こんな病気をするのは先祖が悪いのだ」、「貧乏しているのは先祖が陰徳をつまなかったからだ」と、知らず知らずのうちに先祖を憎む心を起させてしまいました。
この矛盾にも気づいていないばかりか、法を犯し真理を冒していることにも気づいていません。
先祖の因縁が子孫にくることは絶対にないのです。
先祖がしたことは、みな先祖が受取るし、私たちがしたことは私たちが受取るのです。
あなたが一所懸命に信仰していて、どうしても自分の運命がよくならないとしたら、心の奥底で知らず知らずのうちに「先祖の因縁だ」と先祖を怨んでいる心があるのではないか、反省してみて下さい。
われわれはみな心の自由が与えられています。
自分を不自由にしているのは他人ではなく自分自身です。
自分の運命は自分の責任なのですから、私たち自身が努力するとそれだけ私たちの運命は確実によくなるのです。
先祖の因縁だと思って、自分で自分の心を束縛していたその心の束縛から、私たち自身を解放して、大いなる心の自由を獲得しなくてはならない。
※きょうも最後までお読みくださいまして心から感謝もうしあげます。このブログを他の方にも読んでほしいと思われた方は下のバナーをポチッとクリックして頂ければ幸いです。
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