神秘力と危険な宗教

祈り

頂いた問い合わせ。

『宗教の世界では必ずといってよいくらい神通力とか霊能力が出てくるようですが、無宗教の一般人にとっては、不思 議なことだと思うところもあります。宗教と神秘力との関係について、教えていただけませんか?

また、そうした神秘力がなければ絶対に悟れないものかどうかをおたずねします。』

返信

宗教と神秘力(霊能力)とは必ずしも結びつくとは限らないでしょう。神秘力がなくとも、優れた宗教家はいます。

宗教家でなくても、崇高な意識を自覚して人々のために生きようと決心をして人生を捧げている様々なジャンルの人間も多く存在するでしょう。

例えば、

シュバイツァー博士(1875~1965年)ドイツ出身、フランスの医師、哲学者、30歳の時、医療と伝道に生きることを志し、アフリカの赤道直下の国ガボンのランバレネにおいて、当地の住民への医療などに生涯を捧げたとされていて、「生命への畏敬」への哲学などでも知られ、世界平和にも貢献。「密林の聖者」とまで呼ばれています。

マザー・テレサやマハトマ・ガンディーと並び、20世紀のヒューマニストとして知られている人物である。日本においても、内村鑑三などによって古くから紹介され、その業績は野口英世のように児童向けの偉人伝においても触れることのできる人物です。

ヘレン・アダムス・ケラー(1880~1968年)は、アメリカ合衆国の教育家、社会福祉活動家、著作家である。

自らが見えない、聞こえない、話せないという三重苦の重い障害を背負いながらも、世界各地を歴訪し、身体障害者の教育・福祉に尽くした。日本にも来訪し昭和天皇に拝謁した後、各地を訪問している。

マハトマ・ガンディー(1869~1948年)弁護士、政治指導者、宗教家として非暴力を提唱し、インド独立の父と言われ、日本の教科書にも載った人物です。

このような人たちは天上界においては菩薩界の魂ですが、世に名を残さなくても社会に貢献した人たちはたくさんいますし、かくれた偉人を数えたら大変な数になるでしょう。

疑問を持つような教団、言行不一致の教団の場合、宗教家が神秘力を使っている例はひじょうに多いのですが、実際のところ大抵は教祖と称する人の背後で、ヘビや狐、魔王、仙人界の霊人が操っている場合が多いのです。

占いではありませんが、よく当ります。病気も一時的に治します。

このようなことは、あの世の動物霊でも簡単にできることですから、一時的な病気回復とか、奇跡的な現象だけをみて盲信、狂信してしまうと、後々には心まで支配されて精神に異常をきたし、翻弄された人生を送り気の毒な生活をしている者もいます。

病気治しをうたい文句に布教活動をするような教団ほど危険要素をはらんでいるとみるべきです。何故なら信者たちの言動と生活内容に心安らかな平和がないからである。

真に正しい生き方に人々を導くならば、そのような不調和な生き方をするはずがないとは考えられないだろうか。簡単なことなのです。

大事なことは、教祖と袮する人の想念行為がまともであるか、奇行が多いか、感情的か、言行不一致なことはないのか……。裸の人間をまず見分けることが大事でしょう。

教祖や指導者の心(魂)が菩薩界以上のステージまでになると、威張ったり、天狗になったり、おどしたりは絶対しませんし、常に謙虚でありながら物腰も柔らかく落着きがあり、他に対して慈しみをもった接し方ができるものです。

且つ、普通人と何ら変らず、それでいて真理を行じ、人々を正しく調和する方向へ教化していきます。

しかし、決して日本の宗教界にあるような個人崇拝や偶像崇拝、曼荼羅崇拝をさせるような教化をするものであってはいけないだろう。

本来、宗教は心の在り方、生き方、苦悩の脱し方、調和の仕方、執着をしない方法を教えるものであって、限りなく心の昇華を図ることであるべきです。

過去においてはモーゼや、釈迦牟尼仏、イエスなどのような偉大な宗教家は、普通の生活をしながら、それでいて数多くの奇跡や神通力を行使し、多くの人々を救っていきます。

不当に金品を要求したり、自分がぜい沢をしたり、罰が当るなどと脅しません。

何億円も使って殿堂をつくることもないでしょうし、宗教団体のための宗教ではなく、自らの欲を捨て民衆のための法を説くのである。

法とは日々の暮らしを如何にすれば健やかに、執着せずに生きられるのか、人間の心の仕組みや法則、そして、人生の目的を説くのである。

三次元の世界、つまり、この地上界の私たちからみると神秘力ですが、実在界(あの世)からみると当り前のことが行使されているにすぎません。

私たち人間の意識は常に実在界(あの世)に通じており、それが認識できれば誰でもがある程度のことは出来るもので、自身の意識の高低についても判断がついてくるのです。

人間の心は、一念三千の譬(たとえ)のように、どのような世界にも通じることができ、これを大別すれば明と暗、善と悪といった二層の姿から成っており、その二層を通じて善の心が、より大きく、より次元の高い善に向かう下地がつくられてゆくのです。

煩悩菩提の二層の姿は、人間の心を二分した明と暗の世界を指しており、その意味するところは暗の心をステップとして、より大きな、より高い明の心をひらいてゆくことにあります。

明の心をひらくことによって、人間の魂は、慈悲と愛に大きく変ぼうをとげてゆきます。

すなわち、悪を許し、善をのばしたところの「絶対なる善」に昇華してゆくのです。

それにはまず、己の心を正しくみつめなければなりません。

正しくみつめれば、五官に頼る生活と、わずか十パーセントの表面意識の想念行為部分が浮かびでてきます。

浮かび出た悪の芽はつみ、善である明の心にかえてゆくことこそ、煩悩の姿です。

結論として申し上げたいことは、いわゆる神秘的能力というものがなくても悟ることはできるということ。

そして悟りの段階は何層にも分かれていて、人それぞれの悟りの境涯を超えていくことで、より高いステージに進んでいけるのである。

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人間の業と霊体(オーラ)の輝き度

菩薩の後光1

毎日のように相談者と対面しているのですが、その人それぞれに心の個性があり、心の広さもあり、心から発するエネルギー波動にも違いがあることがはっきりと分かります。

先ず、私たちの体は原子肉体光子体の三重構造によって成り立っていることの説明をしておきましょう。

人の心というものが調和されてくると、もう一人の自分、つまり肉体という原子細胞と一緒に生活している光子体(次元の異なった霊体)が大きくなってきます。

後光というのは、光子体つまり霊体の輝きのことであり、オーラとも表現されています。

そして、後光(光子体)は心(魂)の調和の度合いに比例して拡大されていくのです。

心に偏りや執着がなく、調和することの重要性を知って生活している人々の後光は、まず上のイラストのように頭の周辺がボー″と明るく出てきます。

さらに調和が進み、心と生活が正しい生き方の法則である宇宙大自然の意識に適ってくると、後光の範囲は頭部だけではなく、下のイラストのように体全体に広がるようになってくる。

如来の後光

後光の姿というものは過去、現在の転生輪廻を知り、その転生の過程の中で宇宙の法則を知った生活をし、広い心で多くの人々に心を尽くして来た人の後光は、さらにもっと大きくなってゆきます。

光の天使たち(人々に愛と慈しみをもって尽くしている人)の後光は、こうした心の広さが光子体(霊体)に反映し、拡大されていくわけです。

心の広さは、心に曇りがあるかないかによって異なった状態で現われてくるものです。

宇宙即我という言葉はお釈迦様が大悟された境地を表現する言葉として使われていますが、その境地になった人を仏教では如来と呼んでいます。

如来というのは中国で作られた言葉です。

文字通り、来るが如し、ということであり、大自然の真理、人間の心、法則というものについて明らかにし、人間の生活の在り方を説き来たる人のことをいいます。

また「悟り」という言葉。これも中国から来ています。

この語は実にうまく出来ており、(りっしんべん)は心であり、吾は自分を指す。二つが組み合わさって悟ると読むが、悟りとは、我が心を知る、ということです。

心を本当に理解できると、人間は不生不滅(生じるとか減るということではなく不変な存在)、不垢不浄(汚い、きれいは心が決めること)を知り、生死を超えることが出来るのです。

超えることができるとは、そのことに囚われず、執着が無くなるということです。

さて、厳密にいえば仏教も、正しい法として説かれた時代は短かく、釈迦牟尼仏以降は、わずか千年ぐらいであったかと思います。

いろいろな言葉に訳されるにしたがって形骸化され、日本に来た時分には、いつの間にやら他力本願になってしまいました。つまり拝む仏教になっていたのである。

現代宗教家の多くは、貧乏し病気をしていると「あなたの前世は業が深いから貧乏をしているのだ」、「前世で悪い事をしたから病気をする……」という説明が返ってくるようです。

そこで私はききたいのです。生まれるときに金銀財宝持ってきたか。預金通帳を抱きしめてきたか。あるいは曼荼羅をぶら下げて真言を唱え、お題目を唱えながら生まれてきたか。

死ぬときに、地位や財産を持っていけるか。

生まれるときも裸なら、死ぬときも裸です。

金がある無しは、人間のこの世における知恵が生み出したもので、前世のカルマとは関係がないといえましょう。

金持ちに生まれる、貧乏人に生まれるというのは、自分があの世で選んでくるのであって、カルマが深い、浅いではありません。

選んでくるとは、自分がお母さんの胎内に宿るときにどのような環境であるかを知っていて、それを承知で心の修業の為と決心して生まれてくるということです。

それほどあの世にいるときは皆、誰もが高い志をもっているのである。

前世のカルマは、あの世においてある程度修正しなければこの世に出ることはできません。したがって地獄の霊がこの世に出ようと思っても、それは出来ない相談です。

あの世に居る私たちの魂が地上に生まれるということは、種が芽を出して花を咲かせることと同じことで、その為には土や、養分、空気や、水分や、温度、光などいくつもの条件が必要です。

その条件に見合うために心の垢を落とすべくあの世で修養をすることになるので、条件を満たさなければこの地上に生まれてくることは適わないということ。

勿論、腐った種からは新たな目がでることはないように、心にこだわりと、執着があればこの世に生まれることはできようはずがない。

あの世の価値基準はこの世の価値基準よりはるかに厳密で妥協のない厳しいものなのです。

悪事やカルマというものは、まず、あの世でみっちりとそれを修正し、そうして、その修正した事柄を、現世で修正出来たかどうかを人生のなかで自らが試してゆくのです。

そのため、仮に前世で貧乏をして心を狭くし、それに負けた場合は、再び貧乏の環境を選ぶ場合があります。

反対に裕福な家庭で生まれ、わがままや増長慢に陥った者は、もう一度裕福な家庭に育ち、そうならないよう自らの心を磨いて行く者もあります。

『それなら俺は金持ちに生まれる方がいいな!』なんて俗っぽい欲は持たないことです。

これはカルマというより、カルマの修正が本当に出来たかどうかを試す意味で、そうした環境を選ぶのです。

また、人間の価値というものは、金持ち、貧乏ということで決められるものではありません。

金がある、ない、の条件は、己の心がそうした条件にふりまわされず、調和の心を維持し、進んで、自分の心をより広げていく魂修行の一手段にすぎません。

また、病気の原因は前世のカルマというより、今世における我執や、無理な体力の消耗、そして肉体的な遺伝がそうさせるもので、後天的なものです。

先天的な不具者や、子供の病気は(胎教2参照)、両親の不調和から起きるといえます。

意識に記録されたカルマは、あの世で100%修正されるかというと、そういうわけにはゆかず、人それぞれのあの世での修正の度合いによって、ある人は60%、ある人は80%、95%修正出来た人も出てきます。

こういうことから私たちの多くは約30%のカルマを内在して輪廻転生をしてきます。

したがって、修正の度合いによって、この世では、過去世、前世のカルマに強くひかれる者と、そうでない人とがあるといえます。

この意味では前世のカルマといえるかも知れません。

しかし、前世のカルマがそのまま果となって出てくるとすれば、人類は、とうの昔に滅び去っています。何となれば悪を犯さぬ者は一人もいないからです。

さて、このように考えてくると経済的に恵まれなくとも、心まで貧しくしてはならないし、恵まれた人は多くの病める人びとに愛の手を差しのべることが大事であるといえましょう。

人々の心は、足ることを知らぬ欲望にふり回され、自分を失っているといえます。

人生の目的を自覚し、大自然が教える中道(調和)の心を知るならば、足ることを知った生活、つまり、自分の神性仏性を自覚するならば、欲望、我執に翻弄される無意味さを悟ることが出来るのである。

足ることは我慢ではない、あきらめでもありません。

己の心の中に内在する神性仏性を自覚した想念と行為を意味するのです。

与えられた環境、仕事に対しては、全力を挙げてこれに当ります。

それは欲望に燃えてそうするのではなく、調和に役立てるためにそうするのです。

商人は利を求めますが、利を求めるなとは、決していって言いません。

大事なことは求めて得た利益をどう活かすか、自分だけのことに使うか、家族や従業員に分け与えるか、不幸な人々に愛の手をさし出すか。

足ることを知らない人たちは、自分が中心であり、人のことなど構いません。

地球レベルで現実を見るとき、大気汚染や河川のよごれは、企業エゴイズムがそうさせたものであり、経済の歯車は、こうした企業エゴを中心に動いてきました。

しかし、この問題は、行政も無関係ではなく、深く関わっているのである。

今日では、ここから脱皮しようにも身動き出来ないというのが現状で、自分だけのことを考えれば、やがてその結果は自分にハネ返ってきます。

足ることを知った生活環境は、調和された相互扶助、愛に満ちた世界なのです。

このように、人々がそうした世界に住するようになれば、人の心はさらにより広く、大きく進化させることが出来るでしょう。

仏教の言葉に諸法無我というのがあります。

諸法とは、諸々の法則、即ち大宇宙、小宇宙を動かし、秩序を保っているところの摂理のことであり、一切のものはすべて循環という法の下にあるということ。

無我とは、意思がないというのではありません。自分勝手の自分ではなく、公平無私な中道(偏りがない)ということなのです。

法に欲望や自分があったら法になりません。

法とは公平無私な規範であり、万物を生かす秩序です。

太陽の熱、光に好き嫌いの感情があったらどうなるでしょう、一切の生物は生きてはいけません。

諸法無我、つまり森羅万象は、中道(偏りがない、調和、バランス)にそって、生かされ、生きているのです。

私たちの心も、諸法無我にそって生きなければならないでしょう。

中道から外れれば、外れた分量だけ苦しまなければなりません。人間の心は中道に沿ってこそ調和され、安らぎを得られるようにつくられているのです。

五官六根のみに頼った生活、あるいは無我というから、自分を無くした生活をすればよいと考えたら大変です。意思のない法、秩序というものはないのである。

宇宙の法として存在する以上は、必ずその底には意思があり、意思が働いているから、秩序正しき法が存在するのです。

その意思は、中道という片寄らない神性仏性の心、公平にして無私なる心、万物を生かし、己の心を宇宙大に広げた心なのです。

心の安らぎは、こうした中道に向った反省と、修正した行為によって、時を経て自然に培われていくものです。

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98%の信頼と2%の許し

友人

あばたもえくぼと言うが、好いたもの同士の間ではすべてを美化してみようとする傾向にあるようで、人間の心とはどのようにも変幻自在に変われるものである。

あばたとは、天然痘の水ぶくれが治った後にできる皮膚の陥没(かんぼつ)のこと。

恋する者の目には、相手のあばたでも可愛いえくぼのように見える。

つまり、ひいき目で見れば、どんな欠点でも長所に見えるということのたとえです。恋は盲目とはよくいったものだ。

『信じていたのに、悔しい、彼は私を裏切ったんです・・・・・・。』

よくよくこの女性の話しを聞いていたら『なるほど、ここまで意識を向けられたら息苦しくて逃げ出すかもしれない。』と思えるところがいくつかあった。

人間は一人ひとりの「人格者」

自ら判断して、その判断に基づいて選択、決断して、その決断したことに対しては責任をとる、そういう人が人格者と呼ばれるに値する。

右を向けといわれてただ右を向き、一人では渡らないのに、みんなが渡るから赤信号でも渡る。

大勢の部下の前で一人の部下に怒鳴り散らす。そういう人は人間だけれども人格者とはいえないだろう。

人間である限りは、あなたと相手は違いますし、私もあなたと違います。

相手もあなたと同じ考えを持たないで当たり前。「君は君 我は我也 されど仲よき」という、武者小路実篤さんの言葉があったと思います。そういう気持ちが大事なのです。

自分の価値観と相手が同じ価値観と思わないことだ。

自分が一個の個性をもった人間であると同時に、一人の人格者である時、初めて他人とも真の愛の関係に入れるのではないか。

みんな自分は自分、あなたはあなた。

私と違うあなたを尊敬する。

相手の人も、自分と違う私を尊重してくれる。

そして、その間に愛というものが育っていきます。

一人ひとりは別な存在ではあるが理解や共有、尊敬や尊重、そして愛し合える立場にある。

失恋にしても、あなたが失恋した時の淋しさや悲しさと、失恋をしたお友だちの淋しさと悲しさは違います。

しなかった人と比べたら、ある程度、理解できるかもしれないけれど、「私も経験したからわかるわ」といい切るのは思い上がりかもしれません。

親を亡くした友人に何と声をかけてやったらいいのか。ただ傍にいて手を握ってあげるしかない。

何をいったら相手が慰(なぐさ)められるだろうかじゃなくて、本当に相手を思い遣る気持ちになると言葉がないほうが良い場合があるものだ。

手を握らないでも傍にいてあげるだけでいい。『私も父親を亡くしたよ。だからあなたの悲しさはよくわかる』なんていうことはあまり安易には言えない。

自分が親を亡くして悲しかったその悲しみと、友人が親を亡くしての悲しみとは、決して同じではない。人生の機微が皆それぞれ違うからだ。

機微とは、表面だけでは知ることのできない、心の微妙なおもむきや事情のことをいう。

お互い別々の人間だから、共通するところもあるけれども、わかり切れないところもあるのです。

その意味で、人間は決して完全にはわかり合えない。

だから、どれほど相手を信頼していても、100%信頼をすることは後々ダメージが大きくなる場合が多い。その意味でいえば実は、全幅の信頼ということのなかには憎しみや恨みの側面もはらんでいる。

だから98%にしておくことがよい場合がある。

何故なら、あとの2%は相手が間違った時の許しのために取っておいたほうが良いからだ。

人間は不完全なものです。それなのに100%信頼するから、許せなくなる。

100%信頼した出会いはかえって決定的なダメージで壊れやすい側面を持つことになる。

これは猜疑心とか駆け引きの心を持つことではなく、余裕を残しておくことで相手との人間関係を壊さないため、あるいは最悪の状態にしないための、バランスのとれた賢い心の置き方でもあります。

「あなたは私を信頼してくれているけれども、私も万能じゃないから間違う余地があることを忘れ
ないでね」ということ。

「私もあなたをほかの人よりもずっと信頼するけど、あなたもパーフェクトじゃないと私は知っているから、間違ってもいいんだよ」ということ……。そういう「ゆとり」が、その2%にあるような気がします。

間違うことを許すという「ゆとり」、それは、友人関係、恋人どうし、夫婦関係、会社の人間関係、等々、全ての人間関係のなかにおいても大事なことです。

誤解のないようにしていただきたいのですが、決して不信感を植えつけさせる為に述べているのではありません。

それはないとは思いますが、私自身は100%信頼されたら正直申し上げてしんどいです。

私は人間です。神ではありません。巷には、『我は○○の神なるぞ!』と言っている人もいますが。

私は逃げるつもりはないが、間違う余地を残しておいてほしいし、誡実に生きるつもりだけれど、間違うこともあるかもしれません。

約束を忘れることもあるかもしれない。

そういう時に許してほしいから。

2%の余裕をいただきたい。

許すことのわずかな余裕は自分へも、相手のためにも持っていたい。

相田みつお

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煩悩・嫉妬心と囚われ

嫉妬

いつの世も男と女であるが故に、ともに必要とし、寄り添い、ともに暮らしながらも行き違い掛け違い、傷つき、大切なことに気づく人もあれば、離れて別な人生をゆく者もいる。

人生の機微(きび)は美しくもあり、切なくもあり、また儚(はかな)くもある。

これからの季節、若葉が茂る林道を穏やかな木漏れ日と爽やかな風の流れをいただきながら生きたい。

道

 

『彼への執着を無くすにはどうしたらいいですか。好きな気持ちと憎い気持ちが心の中でグルグル回って苦しいです。彼の言葉を信じていたのに、仕事で忙しく連絡ができないとの事で連絡控えてますが、本当か疑う気持ちが出てきて気持ちがぐちゃぐちゃで苦しいです。』という若い子の話し。

何とも微笑ましくもあり、大いに悩みなさい。まさに青春としか言いようのない、顔がゆるんでしまう話しです。

彼があなたとの時間以外に仕事やその他の用事があるように、あなたも彼との時間以外の時間や世界を持ってみてはどうですか?

人は時間の過ごし方も様々で、例えば、趣味や仕事や友達との付き合いの時間などを満喫したいと考える女性なら、彼が自分以外に一生懸命になる事がある方がバランスが取れて調度よいと考える場合もあるでしょう。

疑いが無いのも淋しいかもしれませんが、仕事が忙しく夢中になってる時に色々言われるのもウザくなり冷める原因にという場合もあるかもしれません。

何か趣味や友達との時間などを満喫するようにしてみてはどうだろうか?

彼に重点置き過ぎて執着していませんか?

自分の心をどこに向けるか、どの程度向けるかでも気持ちに差が生じてきますよ。

さて、社会は相互協力のなかで成り立っているものですが、夫婦として一組の男女が共に暮らすことには、最小単位の相互協力関係という意味があります。

エゴ(自我)のままに身勝手な行動をとることは家庭環境を不調和なものにし、やがては家庭内別居や崩壊、最悪は離散の道を辿ることになるだろう。

嫉妬や悩みに振り回されている人と、嫉妬や悩みに振り回されない人の大きな違いは何かとなると、決して、知性の高さ、能力、財力、人格、年齢、健康状態などではなく、「時間の使い方」です。

嫉妬や悩みに振り回されない人達は、自分の長所(心)磨きに時間とエネルギーを費やすため、人よりなにかを成し遂げる可能性が非常に高く、それが嫉妬や悩みとどんどん無縁の人生になるのです。

成し遂げるということは、モノや金、地位、名誉、だけのことを言っているのではない。

つまり、心が広く成長しているといえば理解できるだろうか。

逆に、嫉妬や悩みに振り回され続けていれば、人生の貴重な時間を無駄に過ごすだけで、安らぎもなく、なにも自分の人生で成し遂げることはないでしょう。

そしてそれが更なる悩みと嫉妬となり増幅していくことになる。いわゆる負の連鎖です。

人間、誰しも嫉妬に心が向いているときは、心が小さな点になってしまっています。

点の心を視野を広めることで大きくすることができるのです。

時間が解決してくれることもあるものです。時間が必要なこともあるのです。

人は気づいて始めれば、決して遅いということはありません。

自分の我を通す「こうでなければ絶対やだ」とか「こうなってほしい」という思いも強く偏りすぎると執着となってしまいます。

私たちが何かに執着するのは、それを持っていたい、属していたい、一緒にいないと自分が保てない、相手のためと思う押し付けの偏り、自分に目を向けてほしいという偏った強い思い、これらがバランスを超えてしまうときに自らの苦しみ、執着となる。

失うことを恐れるから執着してしまう。人生を振り返って、自分が愚かだった場面を思い返すと、そこには必ず失う事への恐れが絡む。

または、先のことを心配して想像を膨らませ、ありもしないことへの不安感を増幅させてしまう場合もある。やはり、これも執着である。

執着心とは自分だけの幸福を望むという自分勝手な意思が働いても起こる苦悩です。

自分の小さな世界で自分のことだけを考えているがゆえに生み出しているものである。

自分の生き方をあまり考えない人は、自分の心が未熟でもあり、器としての心が狭く、周囲のことすべてが気になり、つまらない事に心を奪われて執着してしまう。

特定の事柄へ執着する思いが大きくなり心のバランスが悪くなると、肝心な事がおろそかになり、どこかにしわ寄せが出てしまい不調和が起こる。これもまた言葉や行動に出てしまうものだ。

過去の失敗や、他人に指摘されたことで自信を喪失し、その事に心を奪われて執着し前へ進めず、結果、心の成長がはばまれる。

ここで必要なのは自分に都合悪いことであっても事実は受け入れるという覚悟と謙虚さであろう。それができる人は心の器が大きく成長していくことになる。

こうしてみると依存や執着がなければないほど、相手の行動によって左右されずに済むことがよくわかるでしょう。

相手の言葉や行動に反応することは悪いことではないが、その言葉や行動に拘り、心にいつまでも止めてしまうから問題が発生するということだ。

ここで再認識しておくべきは、単なる依存心と相互協力は意味合いがまったく異なるもののだということ。

赤ちゃんや幼子は別として、大人社会では依存心の意味は一方的なものであって、相手を思う協力心や慈しみの心が欠如していることと理解していただきたい。

相互協力は相手を慈しむ心が原点であり、『これをしてやったからお礼を返してもいいだろう』では真の相互協力とはいえない。したがって見返りを望むことは相互協力とはいえない。

人生について深く考え、自分なりの正しい偏りのない生き方を持っている人は、他人になにを言われても気にしないし、なにが起きてもあわてることもありません。

執着のことを煩悩とも表現していますが、この煩悩、即ち自己都合のこだわりを減らし、やがて捨てて、心を調えることで欲を昇華し愛に変えていくことが心のステップアップにつながっていく。

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老いた自分と仲良く生きていく

老い

14年前の私の体力と、間もなく64歳となる今の自分の体力には雲泥の差がある。

重さが5キロほどのチェソーを半日振りまわして、薪をとるための間伐作業していても次の日には普通に作業できたが、今はせいぜい2時間程度が限度で、無理をしようものなら次の日の本業に差支えが出てしまう。

老年になったとはいえ、わが身が不自由になるのは淋しいものです。これまでできていたことができなくなる。そのふがいなさがもどかしくてなりません。

若い頃には、人はたくさんのものを持っています。

気力、体力はもちろんのこと、目が輝き、女性なら美しさも光り輝いている。

その溢れる力があればこそ、多少の悩みなんか吹 き飛ばすこともできる。

しかし、その若さは永遠のものではありません。健康な体もやがては病に罹(かか)り、美しかった肌には幾重ものシワが刻まれていく。

一方で、あくなき美へのこだわりは女性の若さ維持にもなるのだろうが、現代は若い女性たちの摂食障害によるうつ病の発症者も多く相談に来る。

でも、嘆いていても何も変わりはしません。嘆いた分だけよくなるのなら、いくらでも嘆けばいい。

そして悩みというのは、拘って嘆いた分だけ大きくなっていくのです。

拘りや悩みは、嫉妬に似ているかもしれません。

初めは小さかった悩みも、そこにばかり目をやっていると、どんどん雪だるまのように膨らんでいく。

そして、転がりながら小さな悩みさえもくっつけて、自分ではどうしようもないほどに大きくなっていく。

そうなる前に、もう一度客観的に自分自身を眺めてみることの習慣を身につけておきたいものです。

これまで持っていたものを失う。それは悲しいことです。

しかし失ったものばかりを嘆いていても前には進みません。

ふがいない自分としっかり向き合い、そして仲よく生きていくことです。

まわりにはたくさんの人がいます。でも、二十四時間ずっと一緒にいるのは自分だけ。

その自分を嫌うことなく大切にしてあげなくてはいけない。

悩みを抱えている自分もまた、いとおしく思うことです。

老いに不安を持ち、その先の死を想像するとき恐怖心から執着がうまれる。

執着とは物事に囚われることです。

囚われの原因は生老病死という生きる過程において避けることのできない問題です。

これは私たちの五官六根という、眼、耳、鼻、舌、身、プラス意識の六根のことで、この六根から囚われがつくられていきます。

この囚われを脱するには、自分を第三者の立場で客観的に観ることで徐々にできるようになるものです。

偏った考え方をしている自分に気づくことが大切だ。

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お経と真の先祖供養のあり方

読経

質問をいただきました。

1)先祖供養のためお経を上げる習慣がありますが、いったい、あれはどのような意味があり価値がある行為となるでしょうか。

(2)また、アメリカやソ連や中国、ヨーロッパなどの諸外国のように故人に対してお経を上げる習慣がない文化圏での供養はどうなるのでしょう。

(3)そして、科学が発達するにつれて、宗教と哲学の存在価値が薄らぐことはないのかお考えをお聞かせください。

きょうはこの三点について考えてみたいと思います。

(1)先ず、お経を上げることが供養だと考えるのは正しくありません。

お経をあげなければ供養にならないというのであれば、そういう文化のない国では供養が行き届かないことになり成仏できていない霊で溢れてしまうことになるが、しかし、実際はそうではない。

死んだ人がお経の意味を知っているなら、自分に向けられた読経の内容に対し、『ああそうだった、自分は考え違いをしていた』と気づくでしょうが、お経のおの字も知らない、内容についても理解していない者には、馬の耳に念仏ということになりましょう。

それと、お経の意味を十分に理解して日頃の生活に実践しているような人が死んだ場合は何日もこの地上生活に未練を持たず、早い時期に天上界に上がってしまいます。

そのような人に対して、遺族の者たちが追善供養をしても釈迦に説法となるようなもので大して意味を成しません。

要は、死者の霊にもこの世にいたときと同じように、日常的な普通の言葉で、人間としての正しいあり方を語って聞かせることが最も大事であり有効な内容となるのです。

その為にも地上で生きる私たちが偏りのない、執着しない生活をしなくてはいけない。

地上の人間が不調和な生き方をしていながら故人や先祖の供養というのもおかしな話しだと思わないだろうか。

人を諭すということは、先ず、自分自身が中道に沿った偏りのない生活をしていなければなりません。

夫は妻に対し不満と愚痴と怒りをぶつけ、妻も夫に対し同じことを思い夫婦がバトルの生活をしていて先祖供養はできようはずがありません。

故人や先祖にしてみれば、『私たちを供養する気持ちがあるなら、あなたたちがもっとしっかり仲良く執着しないで愛も慈しみも実践した生活をしなさい。』ということになるのです。

自分の日頃が、足ることも忘れ、不満を持ち、愚痴を言い、怒りをもって生活していながら、故人や先祖に対しては成仏してください、安らかに眠ってください、自分が意味の解らないお経を唱えて供養のつもりでいる形式的なことに囚われている子孫をみるあの世の縁者やたちは、滑稽(こっけい)な光景に苦笑することだろう。

自分が、故人や先祖の立場に立ってみたら簡単にわかる物事の道理ではないだろうか。

お経そのものは、釈迦の説法を弟子や後世の人たちが書き記し、それが中国に渡って漢文化され、リズムを持った読誦に変ってきました。

漢文の意味を悟り、その教えの内容を日々の生活のなかに実践している者が経文を読誦する場合は、執着し、迷った霊はその読誦の音声波動によって心に安らぎを得れば浄化されるでしょう。

それが故人の気づきのきっかけになる場合があります。

したがって、そういう意味ではお経は供養になるといえますが、しかし、普通はこうはいきませんし、第一それだけの自信のある方は非常に限られているものです。

大変僭越(せんえつ)ですが僧職の方で、あの世を知っている人、もしくはそういう能力を持ちえた人ならばお経は供養になりますが、それ以外はあまり意味がないといえます。

問題を抱えている人が『三回忌の法要を和尚さんにお願いして済ませましたので供養はできているはずです。』といってくるのですが、実際はそうではない場合があるのがそれを証明しているのです。

僧侶にお願いして法要を営んだらそれで供養だとする考え方は余りにも短絡的であり、古来の因習に疑問ももたずに行われてきた中身の伴わない習慣的な姿だといえよう。

(2)お経を上げることが供養というならば、ソ連やアメリカの人たちはどうなるかということですが、国政や文化がどうあろうと、神を信じ、己の心を正して生活している人は闇の世界で苦しむことはないのです。

お経を上げなくとも、遺された家族の者たちが調和された生活を送っていれば、 たとえ闇に苦しむ霊でも、それを見る者は反省の材料とし、悟れる環境に浮かばれることになります。

いずれにせよ、死者、先祖の最大の供養とは、地上界の子孫の実生活の調和にしかないことを知るべきで、お経の有る無しではないということである。

(3)正しい生き方の法則は心の法則です。その意味では世界に占める仏陀やイエスの説いた法は心の法則そのものであり科学です。

調和を説くその心の教えである法則が非科学的と考えることは全く狭い考えだといえるでしょう。

例えば、般若心経の一節にある色即是空、空即是色とは、万生万物は循環によって成立ち、宇宙の摂理、秩序、法則から外れれば心も肉体も苦しむから、中道(偏らない)の心で生活しなさいということをいっているのです。

心配事があれば食事がノドを通らないし、怒れば心臓が高鳴るでしょう。

中道に反した感情想念が働くと、血液の流れが乱れ、胃腸の働きも弱る。お釈迦様の教えである仏教はそれを教えています。

これは立派な自然科学であり心の科学です。

多くの人は、従来の拝む宗教と、正しい生き方としての法則とを混同され、これまでの、観念と自己満足の宗教を宗教とみてきたのです。

本来の宗教は限りなく人々の道しるべとして存在するものであって、間違っても宗派宗教のための宗教であってはならないのである。

しかし、特に現代は宗派宗教であり、真に人々の為の宗教には成り得ていない内容であることが多いのは否めない。

その意味でいえば、宗派宗教は存在価値がなくなるでしょう。

過去の偉大なお釈迦さまやイエスは民衆に対して、自分自身が経済的な豊かさのなかで人生のあり方を説いたであろうか。財産を持ったであろうか。

聖貧のなかで人々を導いたのである。

現代の宗派宗教は異常なまでに財を成していることを不自然と思わないのだろうか。

正しい生き方の法則と本来の仏教の中身はそんなものではなく、シンプルで立派な心の科学なのです。

正しい生き方の法則と拝み宗教とを混同しないことが肝要であろう。

ということは、拝むような、拝ませるようなことをしなくても、人間として正しく自立していくことは学べるものであるし、それができれば依存型信仰を脱却できるのである。

未来の宗教はこれまでの抹香臭い宗教ではなく、自然科学と心の統合を同一次元で捉えるようなものにとって代わるようになっていくだろう。

冠婚葬祭にみる古来の価値観が昨今、急激に変化し始め、ニーズに応えるべく様式も随分と変わっているところに宗教的価値観の変化をみることができます。

故人や先祖供養をすることは良いことですが、もっと大事なことは、私たちが争いのない生活、即ち、不満、愚痴、怒り、妬み、恨み、中傷、のない生き方をすることであろう。

どれほど宗派宗教が先祖供養を説いても、私たちが心不調和な生き方をするならば、間違いなく死後は闇の世界の住人となるのです。

とすれば、あの世の世界はさ迷える霊たちで溢れかえり地上を取り巻く霊圏は非常に曇ったものとなるのである。

地上人間が心を調和することを優先せずに、あの世の浄化とか、故人の供養とか、先祖供養を優先するこのような影響は、地上とあの世との悪しき連鎖をつくりだし地球の霊域を曇らせて汚染することになるということだ。

これまでの記述は、事の実態と真実を述べたものであって、決してお経による先祖供養を否定すものではないことを申し添えておきます。

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親の価値観・子どもの価値観

蓮の花

親の価値観が子どもの価値観を作る。

私が会社員として働いていた時のことです。

車で数人のスタッフと移動しているときに、夏の猛暑のなかで道路工事をしている労働者をみた女性の部下が、『こんな仕事してどれほどの給料になるのよ。』と言い放った。

私は、すぐに車を止めて、この部下の女性に注意した。『佐藤さん。あなたのご主人が労働者としてこのように汗を流して働いているとしたら、ご主人に同じことをいいますか?あなたの驕りからでる傲慢な態度はあなた自身を傷つけることになるのですよ。』と。

能率給で働いていた彼女は確かに毎月30万円近い高給を手にしていた。30年前の話です。

五歳ぐらいの子どもを連れた母親が、水道工事をしている人たちのそばを通りながら語って聞かせています。『おじさんたちが、こうして働いてくださるおかげで、坊やはおいしいお水が飲めるのよ。ありがとうといって通りましょうね。』

同じところを、これまた幼い子を連れた別の母親が通りかかります。子どもに語って聞かせています。

子どもに向かっていいました。『坊やも勉強しないと、こういうお仕事をしないといけなくなるのよ。』

価値観はこのようにして、親から子どもに伝えられることがあるのです。

最初の母親は、人間は、お互い同士、支え合って生きていること、労働への感謝の念を子どもの心に植えつけたのに対し、二番目の母親は、職業に対する偏見と、人間を学歴などで差別する価値観を植えつけたのではないだろうか。

私の母が生まれた大正6年当時というと貧しさもあり、まともに学校に行く人は少なかった時代でしょう。

13年前に85歳で他界した私の母も、まともに小学校をでてはいない人でしたが、人間として大切にしなければならないことを、しっかり伝えてくれました。

特別に仏教を学んだわけでもなく、まして、聖書などは一度も手にすることなく人生を終えた母でしたが、思いおこすと、母の価値観の中には、お釈迦さまやキリストが大切になさったことが、たくさん含まれていたことに気付きます。

そして、90歳で亡くなった私の祖母は無学な人でしたが、神棚に向かうことと、仏壇に向かうことは毎日明かさないことを幼い頃からみて記憶しています。

気づいたら寡黙な母も、神棚に向かい、仏壇に向かっているのです。ただ感謝の念だけで。

今また、私自身も祖母や母と同じように、神棚や仏壇にこそ向かうことはないが、唯一なる存在への感謝と、存在する全ての生命に対する感謝の念だけで日々を暮らせることが、ありがたいと思えるようになった。

価値観は言葉以上に、それを実行している人の姿によって伝えられるものなのです。

間違った(偏った)価値観をもってすれば、それもまた、そのまま伝わっていくことになる。

私たちは、人からしてほしいと思うことを、花を差し上げるように他人にも行わなければなりません。

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輪廻転生

異次元

私達人間を始めとして、動物、植物、鉱物の生命は、過去、現在、未来の三世にわたって輪廻を続けている。

輪廻とは、この世に生を受けたものが、またあの世に帰ることをいいます。化学的な言葉では循環している状態といえるでしょう。

そして、あの世に帰った霊(意識・魂)は、一定の期間と心の修養を経て再びこの現象界(地上)に生まれる、というふうにそのくり返しを続けることです。

人間にはこの転生輪廻の過程を通して、二つの目的がある。

その一つは、己自身の魂の調和と向上、即ち魂のステージアップであり。

もう一つは、地上に争いのない楽園(ユートピア)を造ること、それである。

個人の視点からすれば、『幸せになるため』、『成功するため』、『夢を実現するため』というように言うのですが、地上の人類という全体視点からすれば先に述べたようなことになる。

一人一人は個の生命体ではあっても、地上生命体という視点でみるならば共同生命体ということがわかるだろうし、相互扶助の精神なくして人間は生きられず、ましてユートピアの建設はできない。

転生輪廻は個人的価値観の小さな目的だけではなく、人類共通の大義の基に繰り返されている。

それが魂の向上でありユートピアの実現である。

そのような意味から、この地球上に降り立った人類は、きびしい環境、すなわち恐竜や他の動物達によって荒廃した地上に、万生万物の調和を目的とした理想郷建設に努めてきた。

最初の頃は、神の子としての自覚を持って、きびしい環境のなかで平和な社会を築いていった。

人々の心のなかには、争いも闘いもなく、規律正しい平和な社会であった。そして高度な文明も栄えた。

やがて恐竜達は姿を消し、小動物が住むようになり、人間の友となった。犬や猫、魚類、貝類、両棲類や爬虫類など数多くの動物たちが出てきた。

蛇などは人類の歴史より古く、性格が獰猛(どうもう)で、その生命力と狡猾(こうかつ)さは、他の動物とは比較にならなかったようだ。

暗い、ジメジメしたところを好み、音もなく近よって獲物を襲う。人類の先祖はこの蛇には随分悩まされたようだ。

業想念にとらわれ、肉体の五官六根にふり回されているときの人間には、蛇の霊体による憑依が見られる場合も多いものですが、その時の人間は、やはり獰猛で陰湿な傾向にある。

蛇の存在は人間への警告的意味合いをもった生き物として受け止めなくてはならない。

地上に降りた当初の人類は心が調和されていたために誰もがあの世を知り、この現象界(地上)における目的も知っていたから、蛇の存在理由を熟知しており、お互いを戒め合い、ユートピアの建設にいそしんでいたようだ。

しかし、人類は、子孫が子孫を生み、地上の生活に慣れるに従って、地上的価値観が蔓延してあの世を忘れるようになり、種族優先、自己保存の想念が強く、その心をエゴが支配するようになって行き、そのため、平和な地上は争いの巷と化していくのであった。

種族は、領土問題や境界問題など、他の種族と感情的にもつれ、闘争を生んで行き、やがて、力の強い者が戦争、略奪に勝ち、支配者と被支配者の関係が生まれ、独裁者が命令をかけるようになっていったのである。

したがって地上界からあの世に去る者達のなかには、人生での目的を忘れ、不調和な暗い想念を自らの心に造り、地獄界に堕ちて行く者が多くなって行った。

宇宙の意識である唯一なる存在は、本来、地獄というものを創ってはいないのですが、地上界の生活を縁として、人々による一切の執着心が霊囲気を曇らせてしまったため、地獄界が出現してしまったのである。

このようにして、文明が栄えるに従って、幾度か人類は心を失い、暗い想念で神の光をさえぎり、人類滅亡の危機にさらされるのであった。

人類による不調和が暗い霊囲気を生み出し、光をさえぎってしまったため、結果的には地球を取り囲む気象さえも悪影響を及ぼすことになる。

我が心の師はいっている。

この世は調和されるようにできており、人間の肉体も、精神も、神の意識と同じように造られているため、調和に反する行為があれば、それに比例する反作用として自らが苦悩するように人間の心は造られていると。

蒔かぬ種は生えぬ、蒔いた種は刈りとること、これは宇宙自然の摂理であり、私たち人類の生き方にも言える法則なのである。

動物は本能と感情だけでいきているのだが、人間だけは創造する能力を備わっている。

知識、智慧、理性という心の働きは人間だけのものである。

しかし、人間はこの知識、智慧、理性のバランスを崩した時に苦しんだり、悲しんだりすることを知っておかなければならない。

人間から物を創造する能力を抜き取ってしまえば、こうした我執も生じてこないだろうし、植物や動物とあまりかわりません。

本能と感情だけの世界で暮らすなら文明も文化もつくられないだろうし、反対に苦しみもズッと少なくなり、喜びさえも知ることはないだろう。

人間は限りない転生輪廻のなかで、いつも心の向上を目的に地上に降りてくることを忘れてはならないのです。

その為のプロセスにおいて逆境や試練に心を見失い大きな目的を忘れてはいけない。

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不安と恐怖心を超えるために

不安・恐怖心

『自分は死ぬかもしれない。悪性のガンかもしれない。』といって心を乱し、家族にも当り散らすことはよくあるケースだが、逆にふさぎこんでしまう場合も多々ある。

命の危機にさらされたら誰でもうろたえて我を見失う傾向はあるだろうが、それでも余りにも起きもしない先の事に思いを馳せて不安を増幅して恐怖心にまで発展してしまっているケースはよくあることだ。

実は、この動揺、不安、恐怖心が身体には一番よくないし、精神の回復と体の回復を遅らせてしまう。

こういった不安感や恐怖心は病気の時だけのことではなく家族の問題や他の人間関係、仕事の問題、子どもたちにとっては学生生活、若い女性にありがちな容姿に拘ることで発症する拒食症、そしてリバウンドで過食症になるなど、更に、うつ病も背景には不安感や恐怖心、執着、頑固、拘りが潜んでいる。

人間の体は身も心も一つで心身一如ということばのとおり、心の変化が良いにつけ、悪いにつけ身体にまで影響を及ぼすものであり、また身体の健康状態も心に影響を及ぼしてきます。

異常発汗、動悸、拍動が強い、のぼせ、呼吸困難、聴覚過敏(音に過敏)胸痛、めまい、ふるえ、ドキドキ、不眠、胃腸の不調、みぞおちのつっかえ感、頻尿、皮膚のトラブル等々、不安や恐怖心による症状は多い。

これらの症状は特に病態が発見されない場合は自律神経の働きがアンバランスの状態であるとみてよいでしょう。

しかし、問題は何故、自律神経の働きがアンバランスであるということを正しく知ることが重要です。

内臓を含めた肉体全体は自律神経の支配下にありますが、その自律神経は脳の支配下にあります。

そして、脳は心の支配下にあります。ここが重要です。

心を考えず投薬だけに委ねる心療内科や精神科の対処は根本的な治療とはなっていません。

日常的な不安や恐怖心、信念の欠如、懐疑(かいぎ)の念は、症状を悪化させるだけで、せっかくの調和されている自分の心をかき乱します。

厳密にいうと、自身の霊域さえも不調和な状態にさせてしまうのです。

恐怖感は一面において身を守り、自己を律する支えとなるのですが、もう一方において、うつ病やパニック障害などの精神病にまで発展しうる精神作用でもある。

精神的な不安や恐怖心が長じてくれば、やがて肉体にまで影響をし、様々な症状を体現するようになってきます。

いったい、恐怖の実体はどのようなものだろうか。また、これにはどう対処すべきだろうか。

心の仕組みや、心の作用とその反作用を知ることによって、大きな不安は小さく、恐怖心もなく毎日を送り、いかなる悲しみ、いかなる苦難にも自分を見失うことなく生活できるようになるということを申し上げておきます。

恐怖心は人の心を蝕(むしば)む最大の敵であり、恐怖心は理性を見失い、安定を枯渇(こかつ)させ、マヒさせます。

あらゆる苦難を克服させるはずの力を打ちひしぎ、心を乱し、調和を破壊し、動揺と疑念を呼びおこします。

たとえば、怪奇映画を見ると怖がる子が、日常生活は、いたって普通で、学校では模範生の子がいるかと思うと、怪奇映画をみると夜一人でトイレにも行けないのに、それ以外のことになると、まことに大胆で両親が心配するほどの子どもがいます。

通常の場合、恐怖感は、きわめて心理的な面が強いのです。いうなれば、暗示にかかりやすい人は、恐怖感も強いでしょう。

男性と女性とどちらが恐怖感が強いかといえば、おわかりになるでしょう。

女性の心理作用は男性のそれより、やはり大きいようです。

ことに、思春期は、もっとも心の不安定な時期で、このころは特にこの傾向が強く現われるようです。

車の運転に関しても、女性の場合は男性よりも、恐怖感に襲われて体が萎縮し、そのため大事故を起こすケースが多いといわれています。

こうしてみてきますと、物事に対する女性の被暗示性はきわめて高く、したがって恐怖感も強いといえるでしょう。しかし、現実には男性でも不安や恐怖心はある。

その意味では恐怖感は、自分の生活を守り、安全を確保するためのブレーキの役割りを果たしています。

しかし、恐怖感の根底にあるものはなんでしょうか。

恐怖感は、人間も動物も同じように持っています。人間の独占物ではありません。

とすると、その根底にあるものは、生に対する、やはり執着です。

だが、知っていただきたいのは生命はこの世限りではないということだ。輪廻転生していき続けているのが私たちの魂である。今世だけの肉体に執着してはいけない。

本能的防衛手段として恐怖感があるのですが、しかし、必要以上にそのことに意識を向けている状態が長引けば長引くほどに不安も恐怖心も増幅して心を支配してしまいます。

この点が本能と感情だけで生きている動物との違うといえるところです。

したがって、本能的執着から離れられぬかぎり、恐怖感は常についてまわるといえます。

本能的執着、それは生に対する執着です。

生きたいという本能です。

私たちにこの本能的執着がまとわりつくかぎり、恐怖感は容易に消滅できません。

必要以上の恐怖感は自己保存の現われであり、それはいろいろな形で現われ目先のことに囚われ、体の不調と変化に過敏になり、動揺してうろたえるのである。

人前に出ると上気するとか、嫌な思いをした相手を思うとフラッシュバックして手に汗を握るとか、怒りに心が揺れるとか、動悸がするとか、学校が嫌いになるとか、その形は千差万別です。

しかし、いずれも恐怖感の現われは、自己保存というエゴの意識がそうさせます。

物中心の考え方、肉体中心の考え方、お金中心の考え方、この世が全てだとする価値観、あるいは、自分をよく見せようとする心の動きは、他の動物にはないことです。

それだけに、人間の持ちえた知識、知恵、こだわり、執着というものが不安感や恐怖心をつくりだしているのです。

例えば、症状を緩和させたり、改善を図る意図で相談者に対し、その都度アドバイスをしますが、この時に相談者はそのアドバイスに拘り過ぎてそのことを気にし過ぎることがよくあります。

これは日頃からこだわりの多い人に見受けられる一つの傾向でもあり、如何にこの拘りを少なくしていくことを心掛けるかが進歩の条件となってくる。

内臓不調の人に食べてはいけないものをアドバイスするとそれに拘る。

今の体調を考えてやってはいけないことをアドバイスするとそれにこだわる。

しかし、アドバイスは絶対にそうしなさいということではなく、自分の体調や精神状態をみながら臨機応変に対処する柔軟な姿勢が大事であり、アドバイスによって視野を狭くしてはならない。

そこで本能的執着を離れるには、どうすべきかといえば、今の自分の心の状態をよく把握し、反省と実践によって、先ずは小さな心の安らぎを実感し、体験的に深めていく以外にありません。

いくら心の在り方を学んでも、不安と恐怖心にドッップリと浸かり、知識として、頭に詰めこんでも、恐怖感からは容易に解放されません。

正しい法則、即ち心の在り方を体験的に理解し、深まってきますと、恐怖感を自然と越えられ、死も恐れなくなります。

今の生活、先の生活に不安がある、病気を受け止められずに不安や恐怖心が消えない。このような思いは多くの人が経験することです。

同じような体験、それ以上の体験をしているにも関わらず不安感や恐怖心の感じ方に差があるのはなぜだろうか。

軽いケガでパニック状態に陥っている人もいれば、ガンを宣告されても周りが心配するほど本人は深刻ではない人もいます。

この違いはとなると、人それぞれの受け止め方の違いということでもあり、それぞれの気根(心の広さ)によるものでもある。

人生には変えようのない出来事も起こりえるということ、自分が置かれている立場を否定しても拒否しても現実は変わるものではないということ。

現実を受け入れて徐々に癒えることを待つという姿勢が大事であり決してうろたえてはならない。

渇愛(かつあい)より憂(うれ)いが生じ、渇愛より恐れが生ず。
執着を離るれば、憂いなし。一切を受け入れ慈しむ心に恐れがあろうか。

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亡き妻が導いてくれた。

津波

きょうは一昨年3月11日14時46分18秒に発生した東日本大震災の日である。震災によって亡くなられた方々のご冥福を心から祈念もうしあげます。

毎日新聞―2013年3月10日の記事から

東日本大震災で妻と母を亡くした岩手県釜石市の鮮魚卸売店経営、菊地好広(よしひろ)さん(56)は、一時酒に溺れたものの、ふとしたきっかけから仕事が順調に回り、この2年間をがむしゃらに働き通した。

末の娘がこの春大学を卒業し、親の手を離れる。「妻が導いてくれたのかもしれない」。命日を前に、そう思う。

2011年3月11日、菊地さんは自宅に戻ったところで揺れに見舞われた。

外出していた妻芳子さん(当時56歳)の安否を気遣いながら高台の親類宅へ逃げた。

翌日、自宅と店、母喜世子さん(同83歳)が1人で住む実家はいずれも津波に流されていた。不安を酒でかき消そうと、浴びるほど飲んだ。

遺体安置所に足を運び、16日に喜世子さん、18日朝に芳子さんと対面した。

菊地さんは元々、建設現場で働いていた。

結婚を機に芳子さんの実家の魚屋を手伝い始めたのが今の仕事につながった。芳子さんはいつも「無理はしないで」と菊地さんの体を気遣っていた。

同日昼ごろ、友人らが集まる市内の食堂へ行き、妻の死を伝えた。そこへ店主が戻り、事情を知らずに菊地さんに声をかけた。

「弁当を大量に注文されたのに魚が手に入らん。何とかならんか」。菊地さんは「忙しく働いた方が気が紛れる」と迷わず引き受けた。

しかし、沿岸部の市場は壊滅状態。内陸部の市場で働く知人に頼むと、釜石から約30キロ内陸の遠野市までなら魚を持っていけると言われた。19日から軽ワゴン車で釜石・遠野間を連日往復した。

当時、長女(35)と長男(30)は独立し、次女ひいろさん(23)は看護師を目指して埼玉県内の大学に通っていた。

震災の1カ月後、ひいろさんの誕生日に「おめでとうとは言いにくいけど」と携帯メールを送った。返信が来た。「生きていてくれてありがとう」。

涙がこみ上げ、「この子が社会に出るまで頑張ろう」と誓った。

その後も休みなしで働いた。6月には釜石市内のスーパーから声がかかりテナントを出店。昨年9月に入居した仮設出荷施設には震災前の設備がそろった。

東京都内の料理店にも販路が広がり、「見えないレールに乗っているようだった」。

先月24日、市内で妻と母の三回忌法要をした。集まった親子の話題は昨年10月に婚姻届を出した長男の結婚式だった。「挙式は沖縄でしよう」。

一方、ひいろさんは4月から埼玉県内の病院で働く。

「無理をするな」が口癖だった妻も、2年間働きづめだった自分を怒ってはいないだろう。菊地さんはそう確信している。

※この記事を読んで私が思ったことは、その人の生き様が人間の魂を揺さぶるということ。当事者にすれば、ただ生きる為に必死になっただけかもしれません。

その逆境や試練に遭遇したときに発揮する、人間の真摯な姿、気力というものをみるとき感銘せずにはいられない。

人間は恵まれた環境にいるときほど些細なことに自分を見失い不安や恐怖心を抱えこんで生きているのだが、震災いのような極限状態のおかれてしまったときに強くなれるのもまた人間であろう。

全てを失い、何もないときの方が人間のたくましい本質が発揮されるということを、どのような時も忘れずにいたいと思った。ある漁師は言っていた。『家族を飲み込んだ海を憎いと思ったが、やはり憎めないと、海が好きだし、海によって生かされてきたから。』と。

私は、この言葉に、こみあげるものを押さえきれなかった。

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