神秘力と危険な宗教
頂いた問い合わせ。
『宗教の世界では必ずといってよいくらい神通力とか霊能力が出てくるようですが、無宗教の一般人にとっては、不思 議なことだと思うところもあります。宗教と神秘力との関係について、教えていただけませんか?
また、そうした神秘力がなければ絶対に悟れないものかどうかをおたずねします。』
返信
宗教と神秘力(霊能力)とは必ずしも結びつくとは限らないでしょう。神秘力がなくとも、優れた宗教家はいます。
宗教家でなくても、崇高な意識を自覚して人々のために生きようと決心をして人生を捧げている様々なジャンルの人間も多く存在するでしょう。
例えば、
シュバイツァー博士(1875~1965年)ドイツ出身、フランスの医師、哲学者、30歳の時、医療と伝道に生きることを志し、アフリカの赤道直下の国ガボンのランバレネにおいて、当地の住民への医療などに生涯を捧げたとされていて、「生命への畏敬」への哲学などでも知られ、世界平和にも貢献。「密林の聖者」とまで呼ばれています。
マザー・テレサやマハトマ・ガンディーと並び、20世紀のヒューマニストとして知られている人物である。日本においても、内村鑑三などによって古くから紹介され、その業績は野口英世のように児童向けの偉人伝においても触れることのできる人物です。
ヘレン・アダムス・ケラー(1880~1968年)は、アメリカ合衆国の教育家、社会福祉活動家、著作家である。
自らが見えない、聞こえない、話せないという三重苦の重い障害を背負いながらも、世界各地を歴訪し、身体障害者の教育・福祉に尽くした。日本にも来訪し昭和天皇に拝謁した後、各地を訪問している。
マハトマ・ガンディー(1869~1948年)弁護士、政治指導者、宗教家として非暴力を提唱し、インド独立の父と言われ、日本の教科書にも載った人物です。
このような人たちは天上界においては菩薩界の魂ですが、世に名を残さなくても社会に貢献した人たちはたくさんいますし、かくれた偉人を数えたら大変な数になるでしょう。
疑問を持つような教団、言行不一致の教団の場合、宗教家が神秘力を使っている例はひじょうに多いのですが、実際のところ大抵は教祖と称する人の背後で、ヘビや狐、魔王、仙人界の霊人が操っている場合が多いのです。
占いではありませんが、よく当ります。病気も一時的に治します。
このようなことは、あの世の動物霊でも簡単にできることですから、一時的な病気回復とか、奇跡的な現象だけをみて盲信、狂信してしまうと、後々には心まで支配されて精神に異常をきたし、翻弄された人生を送り気の毒な生活をしている者もいます。
病気治しをうたい文句に布教活動をするような教団ほど危険要素をはらんでいるとみるべきです。何故なら信者たちの言動と生活内容に心安らかな平和がないからである。
真に正しい生き方に人々を導くならば、そのような不調和な生き方をするはずがないとは考えられないだろうか。簡単なことなのです。
大事なことは、教祖と袮する人の想念行為がまともであるか、奇行が多いか、感情的か、言行不一致なことはないのか……。裸の人間をまず見分けることが大事でしょう。
教祖や指導者の心(魂)が菩薩界以上のステージまでになると、威張ったり、天狗になったり、おどしたりは絶対しませんし、常に謙虚でありながら物腰も柔らかく落着きがあり、他に対して慈しみをもった接し方ができるものです。
且つ、普通人と何ら変らず、それでいて真理を行じ、人々を正しく調和する方向へ教化していきます。
しかし、決して日本の宗教界にあるような個人崇拝や偶像崇拝、曼荼羅崇拝をさせるような教化をするものであってはいけないだろう。
本来、宗教は心の在り方、生き方、苦悩の脱し方、調和の仕方、執着をしない方法を教えるものであって、限りなく心の昇華を図ることであるべきです。
過去においてはモーゼや、釈迦牟尼仏、イエスなどのような偉大な宗教家は、普通の生活をしながら、それでいて数多くの奇跡や神通力を行使し、多くの人々を救っていきます。
不当に金品を要求したり、自分がぜい沢をしたり、罰が当るなどと脅しません。
何億円も使って殿堂をつくることもないでしょうし、宗教団体のための宗教ではなく、自らの欲を捨て民衆のための法を説くのである。
法とは日々の暮らしを如何にすれば健やかに、執着せずに生きられるのか、人間の心の仕組みや法則、そして、人生の目的を説くのである。
三次元の世界、つまり、この地上界の私たちからみると神秘力ですが、実在界(あの世)からみると当り前のことが行使されているにすぎません。
私たち人間の意識は常に実在界(あの世)に通じており、それが認識できれば誰でもがある程度のことは出来るもので、自身の意識の高低についても判断がついてくるのです。
人間の心は、一念三千の譬(たとえ)のように、どのような世界にも通じることができ、これを大別すれば明と暗、善と悪といった二層の姿から成っており、その二層を通じて善の心が、より大きく、より次元の高い善に向かう下地がつくられてゆくのです。
煩悩と菩提の二層の姿は、人間の心を二分した明と暗の世界を指しており、その意味するところは暗の心をステップとして、より大きな、より高い明の心をひらいてゆくことにあります。
明の心をひらくことによって、人間の魂は、慈悲と愛に大きく変ぼうをとげてゆきます。
すなわち、悪を許し、善をのばしたところの「絶対なる善」に昇華してゆくのです。
それにはまず、己の心を正しくみつめなければなりません。
正しくみつめれば、五官に頼る生活と、わずか十パーセントの表面意識の想念行為部分が浮かびでてきます。
浮かび出た悪の芽はつみ、善である明の心にかえてゆくことこそ、煩悩即菩提の姿です。
結論として申し上げたいことは、いわゆる神秘的能力というものがなくても悟ることはできるということ。
そして悟りの段階は何層にも分かれていて、人それぞれの悟りの境涯を超えていくことで、より高いステージに進んでいけるのである。
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