人間の業と霊体(オーラ)の輝き度

菩薩の後光1

毎日のように相談者と対面しているのですが、その人それぞれに心の個性があり、心の広さもあり、心から発するエネルギー波動にも違いがあることがはっきりと分かります。

先ず、私たちの体は原子肉体光子体の三重構造によって成り立っていることの説明をしておきましょう。

人の心というものが調和されてくると、もう一人の自分、つまり肉体という原子細胞と一緒に生活している光子体(次元の異なった霊体)が大きくなってきます。

後光というのは、光子体つまり霊体の輝きのことであり、オーラとも表現されています。

そして、後光(光子体)は心(魂)の調和の度合いに比例して拡大されていくのです。

心に偏りや執着がなく、調和することの重要性を知って生活している人々の後光は、まず上のイラストのように頭の周辺がボー″と明るく出てきます。

さらに調和が進み、心と生活が正しい生き方の法則である宇宙大自然の意識に適ってくると、後光の範囲は頭部だけではなく、下のイラストのように体全体に広がるようになってくる。

如来の後光

後光の姿というものは過去、現在の転生輪廻を知り、その転生の過程の中で宇宙の法則を知った生活をし、広い心で多くの人々に心を尽くして来た人の後光は、さらにもっと大きくなってゆきます。

光の天使たち(人々に愛と慈しみをもって尽くしている人)の後光は、こうした心の広さが光子体(霊体)に反映し、拡大されていくわけです。

心の広さは、心に曇りがあるかないかによって異なった状態で現われてくるものです。

宇宙即我という言葉はお釈迦様が大悟された境地を表現する言葉として使われていますが、その境地になった人を仏教では如来と呼んでいます。

如来というのは中国で作られた言葉です。

文字通り、来るが如し、ということであり、大自然の真理、人間の心、法則というものについて明らかにし、人間の生活の在り方を説き来たる人のことをいいます。

また「悟り」という言葉。これも中国から来ています。

この語は実にうまく出来ており、(りっしんべん)は心であり、吾は自分を指す。二つが組み合わさって悟ると読むが、悟りとは、我が心を知る、ということです。

心を本当に理解できると、人間は不生不滅(生じるとか減るということではなく不変な存在)、不垢不浄(汚い、きれいは心が決めること)を知り、生死を超えることが出来るのです。

超えることができるとは、そのことに囚われず、執着が無くなるということです。

さて、厳密にいえば仏教も、正しい法として説かれた時代は短かく、釈迦牟尼仏以降は、わずか千年ぐらいであったかと思います。

いろいろな言葉に訳されるにしたがって形骸化され、日本に来た時分には、いつの間にやら他力本願になってしまいました。つまり拝む仏教になっていたのである。

現代宗教家の多くは、貧乏し病気をしていると「あなたの前世は業が深いから貧乏をしているのだ」、「前世で悪い事をしたから病気をする……」という説明が返ってくるようです。

そこで私はききたいのです。生まれるときに金銀財宝持ってきたか。預金通帳を抱きしめてきたか。あるいは曼荼羅をぶら下げて真言を唱え、お題目を唱えながら生まれてきたか。

死ぬときに、地位や財産を持っていけるか。

生まれるときも裸なら、死ぬときも裸です。

金がある無しは、人間のこの世における知恵が生み出したもので、前世のカルマとは関係がないといえましょう。

金持ちに生まれる、貧乏人に生まれるというのは、自分があの世で選んでくるのであって、カルマが深い、浅いではありません。

選んでくるとは、自分がお母さんの胎内に宿るときにどのような環境であるかを知っていて、それを承知で心の修業の為と決心して生まれてくるということです。

それほどあの世にいるときは皆、誰もが高い志をもっているのである。

前世のカルマは、あの世においてある程度修正しなければこの世に出ることはできません。したがって地獄の霊がこの世に出ようと思っても、それは出来ない相談です。

あの世に居る私たちの魂が地上に生まれるということは、種が芽を出して花を咲かせることと同じことで、その為には土や、養分、空気や、水分や、温度、光などいくつもの条件が必要です。

その条件に見合うために心の垢を落とすべくあの世で修養をすることになるので、条件を満たさなければこの地上に生まれてくることは適わないということ。

勿論、腐った種からは新たな目がでることはないように、心にこだわりと、執着があればこの世に生まれることはできようはずがない。

あの世の価値基準はこの世の価値基準よりはるかに厳密で妥協のない厳しいものなのです。

悪事やカルマというものは、まず、あの世でみっちりとそれを修正し、そうして、その修正した事柄を、現世で修正出来たかどうかを人生のなかで自らが試してゆくのです。

そのため、仮に前世で貧乏をして心を狭くし、それに負けた場合は、再び貧乏の環境を選ぶ場合があります。

反対に裕福な家庭で生まれ、わがままや増長慢に陥った者は、もう一度裕福な家庭に育ち、そうならないよう自らの心を磨いて行く者もあります。

『それなら俺は金持ちに生まれる方がいいな!』なんて俗っぽい欲は持たないことです。

これはカルマというより、カルマの修正が本当に出来たかどうかを試す意味で、そうした環境を選ぶのです。

また、人間の価値というものは、金持ち、貧乏ということで決められるものではありません。

金がある、ない、の条件は、己の心がそうした条件にふりまわされず、調和の心を維持し、進んで、自分の心をより広げていく魂修行の一手段にすぎません。

また、病気の原因は前世のカルマというより、今世における我執や、無理な体力の消耗、そして肉体的な遺伝がそうさせるもので、後天的なものです。

先天的な不具者や、子供の病気は(胎教2参照)、両親の不調和から起きるといえます。

意識に記録されたカルマは、あの世で100%修正されるかというと、そういうわけにはゆかず、人それぞれのあの世での修正の度合いによって、ある人は60%、ある人は80%、95%修正出来た人も出てきます。

こういうことから私たちの多くは約30%のカルマを内在して輪廻転生をしてきます。

したがって、修正の度合いによって、この世では、過去世、前世のカルマに強くひかれる者と、そうでない人とがあるといえます。

この意味では前世のカルマといえるかも知れません。

しかし、前世のカルマがそのまま果となって出てくるとすれば、人類は、とうの昔に滅び去っています。何となれば悪を犯さぬ者は一人もいないからです。

さて、このように考えてくると経済的に恵まれなくとも、心まで貧しくしてはならないし、恵まれた人は多くの病める人びとに愛の手を差しのべることが大事であるといえましょう。

人々の心は、足ることを知らぬ欲望にふり回され、自分を失っているといえます。

人生の目的を自覚し、大自然が教える中道(調和)の心を知るならば、足ることを知った生活、つまり、自分の神性仏性を自覚するならば、欲望、我執に翻弄される無意味さを悟ることが出来るのである。

足ることは我慢ではない、あきらめでもありません。

己の心の中に内在する神性仏性を自覚した想念と行為を意味するのです。

与えられた環境、仕事に対しては、全力を挙げてこれに当ります。

それは欲望に燃えてそうするのではなく、調和に役立てるためにそうするのです。

商人は利を求めますが、利を求めるなとは、決していって言いません。

大事なことは求めて得た利益をどう活かすか、自分だけのことに使うか、家族や従業員に分け与えるか、不幸な人々に愛の手をさし出すか。

足ることを知らない人たちは、自分が中心であり、人のことなど構いません。

地球レベルで現実を見るとき、大気汚染や河川のよごれは、企業エゴイズムがそうさせたものであり、経済の歯車は、こうした企業エゴを中心に動いてきました。

しかし、この問題は、行政も無関係ではなく、深く関わっているのである。

今日では、ここから脱皮しようにも身動き出来ないというのが現状で、自分だけのことを考えれば、やがてその結果は自分にハネ返ってきます。

足ることを知った生活環境は、調和された相互扶助、愛に満ちた世界なのです。

このように、人々がそうした世界に住するようになれば、人の心はさらにより広く、大きく進化させることが出来るでしょう。

仏教の言葉に諸法無我というのがあります。

諸法とは、諸々の法則、即ち大宇宙、小宇宙を動かし、秩序を保っているところの摂理のことであり、一切のものはすべて循環という法の下にあるということ。

無我とは、意思がないというのではありません。自分勝手の自分ではなく、公平無私な中道(偏りがない)ということなのです。

法に欲望や自分があったら法になりません。

法とは公平無私な規範であり、万物を生かす秩序です。

太陽の熱、光に好き嫌いの感情があったらどうなるでしょう、一切の生物は生きてはいけません。

諸法無我、つまり森羅万象は、中道(偏りがない、調和、バランス)にそって、生かされ、生きているのです。

私たちの心も、諸法無我にそって生きなければならないでしょう。

中道から外れれば、外れた分量だけ苦しまなければなりません。人間の心は中道に沿ってこそ調和され、安らぎを得られるようにつくられているのです。

五官六根のみに頼った生活、あるいは無我というから、自分を無くした生活をすればよいと考えたら大変です。意思のない法、秩序というものはないのである。

宇宙の法として存在する以上は、必ずその底には意思があり、意思が働いているから、秩序正しき法が存在するのです。

その意思は、中道という片寄らない神性仏性の心、公平にして無私なる心、万物を生かし、己の心を宇宙大に広げた心なのです。

心の安らぎは、こうした中道に向った反省と、修正した行為によって、時を経て自然に培われていくものです。

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