人類の理想的テーマ
これまで書いてきた記事は相当数ありますが、過去の記事をあらためて読み直してみると、訂正したいところもずいぶんあります。
今回はそういう記事の中からピックアップして部分的に訂正しながら、また付け加えながらアップしてみることにしました。
今後はこういう試みもときどき行っていきたいと思います。
大切な幸せ観
何のために生きるの?「幸せになるため」
それじゃあ幸せってどんなこと?「ん・・・・・わからない」となってくる。
本当はその人なりの価値観はもっているのですが、相談においでになった人に質問すると、こういう返事が返ってくることはよくあります。
同じ環境のなかでも幸せに思う人、そう思わない人の違いがあります。
持ち家、経済的余裕、欲しいものが買える、好きなものが食べられる、様々な贅沢ができる、等々、物の多寡によって幸不幸を感じる人たちもいます。
また、他から見て「あなたは恵まれているよね」といわれる人でも、当の本人は幸せに思えないという人もいます。
他人から見ると豊かにみえる生活をしているのですが、当事者にすれば悩みが多く、物の多寡の問題では済まされない状況にあるから、幸せなんか感じられないということでしょう。
幸せの定義はとなると、これといって決まっているわけではなく、尺度があるわけでもなく、それぞれが自分の心のなかで感じることであって、その感じ方は様々な条件のなかで千差万別だと思うのです。
悩み苦しむあまりに、自分は何のために生きているのかと自問自答することもあるでしょう。
個人個人が「何かのために生きたい」、「誰かのために生きたい」と思える何かがあるのは素晴らしいことで、そこに幸せを感じる人たちもいます。
相手の喜びを自分の喜びとできたら、これはまた素晴らしい「幸せ観」でしょう。
きょうは個人の幸せ感や、個人の生きる目的ということから更に一歩踏み込んで、人類の生きる目的というところまで考えてみたいと思います。
世界全人類共通の目的とでも言いましょうか。
個人の感情や価値観を超えた人類共通の理想的テーマと位置付けてもいいように思います。
ということで『自分は何のために生きるのか』から「人類は何のために地上で生きるのか」まで昇華して考えられたらと思うところです。
夢、目標達成、生きがい、仕事、何かを手に入れる、愛、家族、誰かのために、人の役に立つ、社会に貢献する、いろいろな経験をする、生活を楽しむ、等々。
こういうことを通して「幸せを感じる」という考え方もあり、生きる目的とする人もいますが、実はこれらは生きるというプロセスのなかで生じてくる手段であり価値観ではないだろうか。
人類が何の為に生きるのかという大きな共通目的を考えますと、しあわせの基本にある『心の成長』が生きる最大のテーマのように思うのです。
人は幸せを感じた時に、「幸せだなぁ。生きててよかった。生きているかいがある。これからも幸せを感じるために生きていこう」と思うこともあるでしょう。
幸福感、生きる価値・生きがい・喜び、こういったことは生きる励みになりますが、逆に辛いことがあるとき、試練のとき、悩み苦しみのなかにあるときも、生きる目的を見失ってはならないと思うのです。
ですから健やかな時も、病めるときも、そのことを通じながら、人生の大きな目的を心にもっていなければ、小さなことで気持ちが萎えたり、ものの考え方にブレが生じやすくなると思います。
私がこれまで話題にしてきたことでもありますが、人間は何のために生きるのか?
となると、それは『心の成長』魂のステージアップこそが人類のテーマとして、変わらぬバックボーンでなければならないということです。
人によって見方や感じ方が違うのは価値観の違いもあり、学びの違いもあり、育った家庭環境の違いもあり、習慣の違いでもあったりと、それぞれだと思います。
それぞれの立場で幸せを感じ、或いは苦悩し、その中で学ぶことも、気づかされることもたくさんあります。
それが心の成長つまりthe spirit(魂)の向上への要素でもあると思う。
働くこと、お金、学習と知識、遊び、夢、愛、悩み、仕事、全ての思いや行動が魂向上の糧になります。
物事に対するときの心のもっていき方は、随分と自分自身の行動や結果に影響を与えてきます。
働くために生きるとなると苦しくなりますが、願わくば働く為に生きるというよりは、幸せに生きる為に働きたいものです。
そして、お金の為に働く人が殆んどの世の中でしょうが、お金のために生きるとなると執着で潤いがなくなります。
ですから心構えとして、幸せに暮らすためにお金を得て使うという考えではどうだろうか。
ときどき子どもたちと話す機会もありますが、勉強するために必死になりながらも、親に叱られながら、そして自分自身も好きではない勉強を仕方なくやっている子もいます。
そういう子に伝えたい。
勉強するために生きるとなると殺伐として人情味も薄れてしまいますから、勉強するために生きるのではなく幸せに生きるために学べ。と。
若くて将来のある青小年たちの場合、大いに遊び、学んでほしいのだが、その遊びも遊びのために生きるのではなく、幸せに生きるために遊んでほしいと願うところです。
夢には老いも若きもないのですが、この夢をとっても然りです。
夢を実現するために生きるというよりは、幸せに生きるために夢をもってはどうかと。
人生には必ずついてまわるのが愛です。
しかし、愛を望むと自分が苦しくなるだけではなく、相手を追い詰めることになります。
ですから、愛されることを願って生きるより、自分の心が幸せを感じて生きるために人を愛したらどうだろうか。
愛されるために生きるとなると自分の我になるが、愛することで幸せに満たされ自分でありたいもの。
愛には押しつけもなければ、要求もなく、あるのは、ただ愛すること。
求めることが先にたつと男も女も、やがて心が離れるときがきます。
人生には艱難辛苦がつきものです。
悩みのなかに自らが没入してしまって日々を悶々として生きている人もいますが、悩むことに生きるのではなく、幸せに生きるためによく考えて生きたいものです。
ただ惰性のなかで生きるのは、生きるために生きているようなものですが、そうではなく、やはり幸せに生きるために日々を生きよと言いたい。
こういった人生のなかでおこる出来事は、幸不幸のすべてが目的ではなくプロセスではと思います。
何のプロセス?
勿論、魂のステージアップのためです。
輪廻転生然りです。
※きょうも最後までお読みくださいまして感謝もうしあげます。
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