地獄のスポット・間違った信仰

田園風景

昨日は休みでお天気も良く、友人と約束をしていた薪割り機を軽トラックに積み、案内されて自宅まで届けることにした。

友人宅にいく途中、頭をファッともっていかれそうな感じと、何とも気持ちが落ち着かなく避けたい感じのポイントがあった。

その右手には立木のある小高い丘があったが、その丘から荒い霊波が流れてきているのが感じられる。

そして、田園風景が広がっている見晴らしの良い交差点に差し掛かったときは嫌な霊波が最高潮に達した。

この場所で事故による死者が出ていると直感したが果たしてどうなのか考える間もなく通過した。

そのポイントを通過して2キロぐらいで友人宅に到着した。我が家をでてから30分ほどだった。

田園風景の向こうには岩手山と八幡平の稜線が残雪で覆われていてとても素晴らしい景色だ。

友人ご夫婦は最高のロケーションのなかで幸せに暮らしていて微笑ましかった。彼は木工に携わる立派な職人さんとして真剣に会社勤めしている。

だが、出会った頃の彼は経営内容のよくない会社運営に疑問を持ち、幹部のやる気のなさ、役員の不正に相当に苦悩し、退社を考えていた。

その内容を聞いた時の状況は最悪なもので、社員の中には精神を病み、退社していく者もあったほどだ。

昨日の談笑のなかにもその話題がちらっと出たが、その当時会社内容を聞いた私が「ゴーストカンパニーだね」と評したと言っていたが、失礼ながら私自身は記憶がない。

しかし、彼は厳しい社内事情のなかでも逃げずに、試練として受け止め心のあり方を学んでいき、様々なことに気づいていったのである。

数年経った今でも会社の事情は何ら変わってはいないが、彼自身は以前の彼ではなく、不調和な事、邪悪なものにも動じない男に成長している。

39歳の彼は私の息子より一歳若いが頼もしい友だ。

木をふんだんに使用した彼の家の中は、玄関から入るとコンクリートの土間に立派な薪ストーブと、一枚板の赤松の白木テーブル、お茶も美味しく頂き、ついつい人生の談笑をして花が咲き90分も長居してしまった。

その時、たまたま話題になったのが、例の交差点のことで、事故が多く、死者も出ているということと、あの丘には昔、城があって、その周囲で戦があったということだった。

なるほどと合点がいった。丘の周囲では昔から様々な事故や変死があるという。

このように霊的に荒い波動のスポット、あるいは人間の波動を察知することは肉体的には心地よいものではないし、むしろ何も分らない方が良いのかもしれない。

だが、そのことによって人々の窮地に手を貸すことができる場合もあるから役立つ場合もある。

何故、こういうことができるのだろうかとなると。

片寄りのない中道の物差しで、自分の心の在り方と行動をしっかり反省し、丸い豊かな心の状態に已を浄化されることで可能になってくる。

つまり肉体から心が離れることができるほど可能になってくるものです。

逆をいえば、肉体に心が執着を持っていると不可能になってくる。

ところが、物欲が強かったり、お金に貪欲であったり、嫉妬心が強かったり、怒りっぽく、感情の起伏が激しく、どうみても心が不調和だと思えるような人でも霊感の働く人がいます。

このような人の場合は邪悪な者たちによって心を支配されている、或いは影響を受けている場合が多いものだが、言うこと、行うことに一貫性がなく、支離滅裂で奇異な言動が目立つからわかりやすい。

私達は、日頃の生活の中で、うらみ、ねたみ、そしり、怒り、足ることを忘れた欲望、思いやりがない、慈しみの心もない、人を愛することもしない、その他もろもろの執着した想念も、こうした心の自由と力を不可能にしてしまいます。

人間は、霊的な能力を得るために人生を歩むのではありませんが、人間として心を磨き調和することで副次的に能力が開花する場合もある。

そこで、こうした執着を善なる已に嘘のつけない心でその歪みを修正し、瞑想することによって、次元の違った世界とコンタクトされるようになってきます。

また、心が丸く、調和されてくると、自分の周辺が柔らかい黄金色のオーラー(後光)で包まれてきます。

人間が異次元に入る時は霊的なラインによって結ばれ、この世とあの世を結んでいるのです。

霊的なラインは自分の肉体と霊体をつなぎ、この世とあの世の行き来をするのである。

このラインは、その人の心の調和の度合いによって太くも細くもなる。

心に歪みがなくなり、調和されてくると、霊的ラインが輝きを増し、明るく、太くなり、黄金色となってきます。

人間の死といわれるのは、霊的ラインが途中で切断され、二度と再び肉体を支配出来なくなった状態です。つまり霊体のライフラインが切断された状態である。

霊ラインの太さ、明るさは生前の心の状態に比例してつくられており、死後の生活の決定は、霊体のラインが切断されたときの状態によってもちがってくる。

つまり、地獄に堕ちる者、天国に昇天する者、それは霊体ラインの切断時の状況によって大きく左右されるといえるだろう。

しかし、あの世の地獄に堕ちたとしても、自分を反省し、人間神の子としての自覚が芽生えてくれば、その芽生えた心境に比例した調和の世界にのぼって行くのです。

この世の人々が、イライラした心のままで反省したり、瞑想することは、玄関にカギをかけないで夜に眠るようなものです。

それはもっとも危険この上ない行為といえましょう。この地上周辺には、すでに亡くなって地獄に堕ち、厳しい環境に耐えきれず、この世に執着を持っている霊たちが多くいます。

彼らは、同じような心の波長の持主に、生きる場を求めてきます。

このため、イライラの心で反省や瞑想にふけると、波長共鳴の原理にしたがって、こうした地獄霊や動物霊を呼び込むことになります。

ノイローゼ、精神分裂は、こうした別人格の霊たちの憑依によって発生した現象といえるでしょう。

もっとも、ノイローゼや精神病は、禅定や、瞑想した経験がない者もいます。

ある日突然、そうした状態に追い込まれる人もありますが、こういう人たちの場合は、心の中に執着の念を溜め込んで、常にそこから離れることが出来ないでいるためにおこるのです。

人間関係や、事業の失敗、失意、うらみ、ねたみ、卑下、挫折、失望、強い哀しみ、等々の執着の念が心の中を占め、それから離れられないために、同類の霊を引き寄せ、精神病になってゆきます。

精神病院に勤務する看護師が精神を病んで相談にくるケースなども霊の悪影響によるところが大である。

その意味では、心療内科や精神病院で働く人たちの場合、よくよく心を調える習慣を身につけておく必要があるといえるだろう。

地獄霊の多くは、孤独で自分の小さな心の枠の中で、苦しみ悲しんでいる人びとの心を支配します。ウツ病、ソウ病は、こうしたことの原因も否定できない事実であるということです。

その意味でも精神的疾患の人やアルコール依存症なども心を調えるべく、自分の癖、傾向性を改める努力をしなくてはならないのだ。

精神分裂は本人以外の別な霊がその肉体を支配し、しゃべり始めるので、話があちらに飛び、こちらに飛んできます。聞き手は相手の話が急に変わり、それまでのその人でない傾向を帯びてくるので、これはおかしい気が違ったと見てしまいます。

精神病になると大抵はその一生を棒に振ってしまいます。気の毒というほかはありません。

しかしその原因はどこにあったかといえば、精神病を誘発する本人の心が、モノに執着し、物事に囚われるために起こるのであり、それも非常に片寄った形をとるので、どうすることも出来ません。

地獄霊は自分の本性さえも失っているため、生前の名前も、住所も、忘れ去っている場合が多いものである。

地獄に堕ちた人びとは、在世中に己自身の心を失い、自我我欲、自己保存に明け暮れた人びとです。

これらに憑依される人びとの心も同じ次元の人間です。

だからその地上での生活は、すでに地獄を現わし、心は常に何かにおびえ、あるいは怒り、悲しみを持ち、起伏があり、不安定そのものなのです。

救いは己の生命の自覚以外にありません。自覚は正しい道を実践された生活の中からひらかれて行くのです。

地獄霊たちも人間と変わらない肉体を持っています。肉体といってもあの世の霊体であって、その体は心に曇りをつけたままなので、黒くよどんでいます。

地獄界はさまざまな世界をつくっています。

この地上界で常に闘争と破壊を目的として人びととの調和を失った者、思想の自由を否定して自己保存に徹した者たちで、心に闘争心を持ったままこの地上を去った者たちである。

常に、自分以外の者は皆自分の敵であり、争いにつぐ争いをくり返しています。

間違った信仰

地上の信仰の中には神罰というのがあって、その信仰に疑問があっても、神罰を恐れるあまり、盲信、狂信の道を歩んでしまいます。

常識で考えてみて、神仏が人間に罰を与えるかどうか、まず考えてみる必要があるのです。

神仏というのはいわば人間の親です。

神仏の心は無償の愛そのもであり、太陽の熱・光りのように、善人、悪人の差別なく、
万人に惜しみなく与えてくれる慈悲の心しかありません。

その神仏が、一寸先も不明な人間に、どうして罰など与えましょう。

罰は、人間の心の黒い想念が自らつくりだすものである。

 あなたは自分の子どもの不幸を喜ぶだろうか。

そんな親はいないはずです。

それと同じように、神仏は人間の幸せを常に願っています。

信仰しないと罰を与える、お金を上げないと怒り出すなど、こういう神を語る人間や宗教を、恐れてはいけません。

罰は正しい道に反した偽我の自分がつくることを知り、心と行いの正しい道を悟ることが大事です。それが神の心に通じることなのです。

神は社殿や仏閣などの伽藍に祀られるようなものではなく、宇宙の意識エネルギーがそのまま神の現れだということです。

その意識は私たちが心で意識すれば自分の中にあるということだ。

私たちの心こそが神の宮なのである。

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悟りの境地に到る道

禅定

見る・思う・語るにある人の道

前回の文中では、人生模様と心の機微、喜怒哀楽という一喜一憂についても触れました。

よく聞く言葉ですが、「憂さ晴らしに飲みに行ってきた」、「友達とお茶しながら愚痴を吐き出してスッキリした」、俗にいうストレス解消ですが、その方法は人によってさまざまなようです。

私が会社員として働いている頃、30年ほど前には、付き合いで夜の街に繰り出したこともありましたが、残念ながら酒を飲んで憂さ晴らしになった記憶はない。

女性ならお茶して愚痴を吐き出し、スッキリということもあるかもしれないが、それもなく、仕事上で上司や本社に直訴をした記憶はあるが、お茶して愚痴を言った記憶もほとんどない。

私の場合は、性分がそのようで、これまで問題があれば、その事の原因を「何故か?」と考えて答えを見出す習慣が若い頃からあった。

ここでお伝えしたいことは、真に心の向上を願い、それを学びたいと願う人間であるならば、「お茶して愚痴を吐き出してスッキリした」であってはならないと思うし、「酒を飲んで憂さを晴らす」ということよりも、もう少し何かの手立てがあるはずです。

悟りの境地に至る道

きょうは何事にも囚われず、自由自在に生きられるような心になる為に行わなければならない基本を述べてみたいと思います。

右にも左にも偏りがなくということは即ち、物事に心が囚われず、執着せず、中ほどの道を行生き方のことをいうのですが、この中道の道を歩むには、具体的にどうすれば良いかということを考えてみましょう。

先ず、その為の八つの規範である正しい生き方、即ち、八正道が私たちの生活に密着することで心を調えることが適うということ。

正しく見る

正しく思う

正しく語る

この三つの精神の働きは、人間がこの世で生活する上に、もっとも大切な、そして基礎的な部分を占めています。

この三つを心得て行うことで、心に安らぎも得られ、深奥な気づき、悟りの境涯に近づけるものだと確信します。

中国の論語には、『礼にあらざれば視るなかれ、礼にあらざれば聴くなかれ、礼にあらざれば言うなかれ、礼にあらざればおこなうなかれ』という孔子の言葉があり、日本に入ってきて

『見ざる、言わざる、聞かざる』が猿と結びつき三猿となったとされています。

つまり、これは、心が調わずして見てはならない、心調わずして聴いてはならない、言ってはならない、行ってはならないという、煩悩から離れるための基本的な条件を示している言葉だと解しています。

煩悩という迷いが生じるのは、見たり、聞いたり、話したりすることから起こることが多いからです。

ですから、煩悩を滅していくためには、五官(眼、耳、鼻、舌、身)であるところの眼、耳、口に囚われてはならないといっているのですが、しかし、私たちにとってこの必要な五官で見るなということではなく、聴くなでもなく、語るなというこでもない。

そうした五官から受ける精神の作用を通して、現実社会のなかで、それを正しく行なえということだと思います。

先の三猿の例を、そのまま鵜呑みに解釈してはいけないでしょう。

ただ見るな、ただ聴くな、ただ語るな、ただ行うなでは逃避になりかねません。

偏りのない中道を心の物差しとして、事の善悪を判断した生活、それが正しい人生となろうかと思います。

しかし三猿の例は、煩悩という知足を忘れた欲望が生じるもっとも危険な精神作用への戒めのメッセージであり、私たちの心の盲点でもあり、弱点を指摘している諺である。

八正道の冒頭にある

「正しく見る」とは、善なる偏りのない中道の心の眼で見ること。

「正しく思う」とは、頭で考えないで、善なる偏りのない中道の心で考えること。

「正しく語る」とは、自分にウソのつけない善なる偏りのない中道の心で考えたことを語るようにせよ、ということ。

よく、「心から」とか、「心より」、「心ならずも」、「心無い人」というように、心というのは意識の中心のことであり、その意識の中心はとなると、自分と他との差別観のない慈愛をもった善なる心です。

そして、見る、思う、語るの在り方は八正道の最も重要な柱であり、あとの五つのあり方の基礎となるものです。

次に、

「正しく仕事をなす」ということは、与えられたその職務に対して、忠実に、義務と責任を果たすということでしょう。

ここでいう仕事の意味ですが、ただ単に表面的に、あるいは量的に人より多く仕事をなしたということよりも、人々の幸福を願い、且つ、働く環境そして仕事を与えてくれた人々に感謝し、その感謝の心を、行為によって報いるということ。

働く環境を提供している人々もまた、働く人々に感謝の心を忘れず、相互に、より良い生活の安定と、心の調和をはかり、報い合うことが大切だと思います。

経営者や役員、先に立つ立場の人たちは決して驕りや傲慢な言動で働く人たちに接し、押し付ける行動であってはならないでしょう。

そしてまた、働く人たちも、自らの義務と責任を果たすことはいうまでもありません。

たとえ、仕事の量は少なくとも、心から出た奉仕の行ないのほうが人間としての心が成長するものです。

何故そのような思いが大切であるかとなると、この世は、どのような環境も魂の修行のためにあるのであり、仕事そのものは、魂の修行の材料にすぎないということ。

勿論、質と量が、相ともなえば、これに越したことはありません。

しかし、天の意識は、あくまでそのに重点をおいていることを、私達は忘れてはならないと思います。

心の調和を心掛けていると、徐々に向上し、境涯も変わってくるのだが、そうなると仕事が祈りであるかのように自然に行えるために、敢えて祈るために仕事や生活を犠牲にする必要がないことを悟ってくる。

形や量にとらわれてはならず、いかに心を込めたかということを大切にしなくてはなりません。

昔から、長者の万灯より、貧者の一灯という言葉があります。

心からの行為、それをいったものだ。

日本から多額の寄付金を持ってマザーテレサを訪ねた人が丁重にその寄付金を断られた。

しかし、日本円で10円にも満たないお金をもっていったインドの貧しい子供が「マザー、少しのお金だけどこれを使ってください。」と差し出した硬貨を「ほんとうにありがとう」といって受け取った。

売名行為をもくろんでマザーと一緒に写真を撮りたがったり、寄付をしようとする個人や団体もあるようだが、マザーはその意図を読んでいたのであろう。

資本主義もマルクス主義も、物質と経済が基準になっているため、本当の心はない。

よく言われることですが、私達の本当の幸せは、果たして経済だけであろうか。

経済だけに幸せがあると考えている人々は、本当の意味で心豊かとはいえないと。

人間が造り出した貨幣経済というものが、いろいろ不安定な問題を投げかけているという事実からも、私達は眼を避けてはならないでしょう。

そして、その事実から、真実の幸福とはどこにあるかを考えなければいけないと思うのです。

富ばかりが人生ではない。

絶対唯一なる存在の意識が造り出した宇宙の法則は、絶対に変わることのない永遠不滅のものであって、心を失った人間の智恵だけで、この法則をくつがえすことはできないのである。

人類が何の為に地上における人生を過ごすのかと考えてみると、この不変の真理を自ら探し求めて、その真理にかなった生活をし、より豊かな心を造り出すとともに、調和された社会を築き上げることではないだろうか。

「正しく生活をする」とは、日常生活の心と行ないについて、家庭生活の在り方、近隣の人とのつき合い、勤め人としての在り方、使用者としての在り方などを、正しくするということ。

そして無益な殺生などに基づく、道徳に反する職業や仕事はせず、正当ななりわいを持って生活を営むことでもあります。

私達は、この日常生活においては、とかく些細なことに心を煩(わずら)わし、五官六根に左右されがちであり、心の歪みを造ってしまいます。

ことに、眼で見る諸現象、耳で聞く諸問題、そして、語られる言葉、そんなものによって私達は心を惑わし、惑わされる場合が多いものです。

自分を惑わし、他人をも惑わして、大きな罪を造ってしまうのも人間。

このように、眼、耳、口は、もっとも代表的感覚であり、これらに振り回されてしまうと、煩悩のとりこになり、自分自身を失っていきます。

そして、転生輪廻の過程で造ってしまったカルマ(業)が心のなかにしみ出してきて、悪循環という悪い運命に身を堕すことになってしまう。

今世で心をきれいにしようと思って生まれてきていることに気づけず、自分の為した、想いや、言葉や、行動が、周りに影響を与えていることにも気づけず、自分は正しいことをしていると思いこんでいる人ほど実は業が深い場合が多々あります。

人間は望まないのに、病気をしたり、交通事故に逢ったり、人に騙されたりして、人を信じることもできなくなり、小さな心にもなる。

小さな枠に入った自分を造り出して、苦しみの人生を送ることになってしまいます。

物事がうまくいかず、トラブルや事故や問題が発生すると、原因を他人のせいにしたがるものだが、しかし、自分が当事者であることは間違いないことであれば、やはり、自分にも原因があることに気づかなくてはならない。

原因のない結果というものは存在しません。

そこで、こうしたカルマに振り回されないようにするため、まず現在の環境、立場、生きていられるそのこと自体に感謝することが何を置いても最優先でしょう。

しかし、この感謝ができないほど心が狭くなっている人は多い。

これもまた自身の業と言える。

物一つ求めるにも、多くの人々の苦労によって造られ、助けられ、また太陽や水など、自然の恩恵があって、私達の存在はあります。

私たちの生活は直接的にはお世話になっていないという場合でも、間接的には全ての人たちのお世話になることで生活を維持できています。

私達は、これに報いる心を忘れてはならないでしょう。

それには、自らの欠点を知り、素直にそれを認めて受け入れ、修正し、社会人類のために余った時間を奉仕することも必要です。

「正しく道に精進する」とは、主に人と人との関係においての言葉です。

実は、夫婦、親子、兄弟、友人などは、それぞれの因縁、あるいは約束のもとに、結ばれています。

だから我欲にもとづいた自己主張をしないで、調和ということを目標に、感謝と報恩の毎日の生活を送らなくてはなりません。

なかには、自分は調和をはかりたいのだが、妻が、夫が、友人がなかなかいうことを聞かないという人もあり、別れたほうが良いと思う人もあるだろう。

しかし、本来は、片方がゆずる心を持って態度を変えれば、相手も変わってくることもあります。

意志疎通がないというのも、何か原因があるからで、自分が至らない点、不調和な根を探し出して、良く反省することが大切です。

しかし、それでも調和できない人々もいます。

相手の暴力や毒舌が休まず攻撃してくることもあります。

だが、それでも私達は、調和の道から逸脱した相手の姿を感じたなら、決して争ってはならない。

争わずに、「安らぎがありますように」と心から願うだけの余裕がほしいものである。

執着せず、偏った心にならずに生きるには、先ず、五官六根に左右されない自分を発見すること、それが先決です。

それにはあくまでも自分を調えることが先決です。

自分の短所、長所をしっかりとみつめ、短所を修正し、長所を伸ばすことが大事であり、そのための勇気と決断が必要です。

病気にしても事故にしても、また人に騙されたりすることは、五官に振り回された自分の想念と行為に問題があるという場合もあります。

私達の欠点短所は、どうしても五官にもとづいた想念に一番結びつきやすい。

だから、欠点の修正には、思い切った勇気が必要だということになります。

正しく生活をするということは、人生の目的と自分の役目を悟った毎日の生活行為にあるわけで、常に、安らぎの境地にあって、一切のこだわりや執着から離れ、足ることを知った生活を送るということでしょう。

執着から離れ、足ることを知ってしまうと、仕事などできないのではないかと思う人もいるかもしれませんが、しかしそれは違います。

正しい人の道を悟って、悔いのない仕事を一日一日積み重ねたならば、誰でも立派な成果が得られ、周囲からも支持をされ、己自身もある程度の悟りの境涯に到達できるものです。

一日一生、思い残すことのない生活を送ってみること。

しかし、人間、過去を引きずっては間違いなく苦しみとなり、かといって先の事にばかり想いを馳せると不安と恐怖心が増幅するからこの点は要注意です。

となると、今日一日を生き切ることに徹することしかない。

もっと厳密に言うならば、今というこの瞬間を執着なく生き切ることです。

そして、反省しても、良い面だけしか出てこないような、そんな一日を体験してみること。

忍辱(にんにく)という言葉があります。

これは「あとで見ていろ」、「あとで仕返しをしてやる」、というようなことを、心のなかで思うようでは、忍辱とはいいがたいし、その想念は暗い曇りでおおわれ、自らの霊囲気を不調和に乱してしまうことになります。

外部からの辱(はずか)しめによく耐えて心に歪みを造らないことが大切です。

つまり、辛抱しても心を歪ませないということです。

結論は、心の調和できない人々は、肉体的にもバランスを崩したり、病気をしたり、他人の信頼も失って、ますます苦しみの渦のなかに埋没してしまうことになります。

原因と結果は巡ってくる、ということを私たちは悟らなくてはならない。

物理学で説かれているところの作用と反作用の法則と、全く同じ結果になっている。

人間の心も、相手に作用するから相手も作用してくるのであって、このことを反作用というし、作用する力が大きければ反作用も大きくなるのは当然の理です。

身に覚えがあるかたも多いかと思いますが、ケンカがその例を如実に現わしていて、感情的になればなるほど、相手も激高して争いとなります。

反対に、穏やかな愛は相手に安らぎを与え、再び自分にその愛が帰ってくることをみれば、愛も作用し、愛となって戻ってくることになります。

愛は循環します。

愛は輪廻します。

これが心の法則であり、宇宙の法則です。

宇宙の法則は絶対唯一なる存在意識の法則です。

自分自身の心を、丸く広い豊かなものに造り、不調和な環境にもいろいろなケースがあるとしても、大調和を目的とした人間関係を造り上げてゆくことが、精進の第一の目的といえるのではないだろうか。

つぎに、

「正しく念ずる」である。

″念″には目的があります。

偉くなりたいとか、良い家に住みたいとか、あの人と結婚したいとか、あの人は憎らしいといったことなど、人によってさまざまであろう。

しかし、念の正しい在り方は、中道(偏りがない)にかなった目的が、最上といえよう。

念のなかには、自分の欲望をもととしたものが多いが、この欲望はとどまることなく、発展して行くものである。

これが、やがて、人と人との調和を欠くことになるのだ。

人間には、転生輪廻の過程において造り出してきた自らの器量があり、この地上に生まれ出てからの器量とがある。気根ともいう。

それが総合された人間の器は、人それぞれ異なっている。

会社の社長になろうとしても、社長は一人しかいない。ところが、自分の器量に関係なく、無謀にポストだけを求めるから、争いとなる。

昔は、武力でこれを奪いとったが、現代はどうだろうか。政治には選挙というものもあるが、これにも闘争はつきもののようである。

そして役員や、会社員の世界にも、役職に対する執着、ポスト争いには熾烈(しれつ)なものがあるようだ。

こうした、自己の欲望にもとづいた念の作用が働くため、社会は争いと矛盾に満ちたものに変わってしまうのである。

このような欲望も、それぞれが、自分の器がわからないため、自我我欲のとりこになってしまうところに発生するものといえよう。

またこれは、自分の適業が、何であるかという判断が、むずかしいからともいえよう。

しかし、欲望には、これでよいという限界がない。そのため、人間は、自らの心に足ることを知った生活、それが必要であるということだ。

念の在り方は、こうした意味で、足ることを知った、調和にもとづいたものであることだ。

最後に、

「正定」であるが、これは反省である。

前述の七つの規範に照らして、今日一日の自分の想いと行為に、行きすぎた点がなかったかどうかを振り返って、間違いがあったらこれを改めて二度と、同じ過ちをしないことである。

これは行動にうつさず、知識と観念だけの遊戯であれば、決して心が調和されることもなく、向上することも適わないであろう。

八正道は実践によってのみ心に落ちるものであって、知識の集積であってはならない。

反省は単に、ああ悪かった、良かった、で終わってしまっては、正しい反省とはいいがたいのである。これは重要な点である。

反省したとき、間違いを犯したことを発見したならば、その間違いはどうして起こったのかといった、自分の心のなかの原因を追及してとり除くことが大事なのだ。

それをとり除くことが心を浄化することになるのである。その結果、精神と肉体がまず健全になり、家庭の調和、職場の調和、社会の調和につながって行くということだ。

日常生活のなかで、物ごとに失敗したなら、その失敗の原因を究明して、二度と同じ失敗を犯さないようにつとめる。そうすれば、やがてその失敗は、成功に結びついて行くということである。

反省もしないで、同じことをくり返すようでは、成功することは困難だ。人の心と行為も同じことなのである。

「正定」の基本は、反省にあることを深く肝に銘じなくてはならないだろう。

そして瞑想的反省は心の曇りを除き自らの霊囲気を高めて行くことができるということを知らなくてはならないだろう。

もっとも、反省、反省と、反省ばかりに終わると、自らの心を狭く小さくしてしまうから注意すべきである。

人間には、内向的、外向的、楽天的、悲観的といういろいろな傾向がある。

従って私達は、自分の性格に適合した反省の仕方、これを身につけて「正定」をすることが必要になってくるのである。

正しい道、即ち正道は、各人の生活の智恵や実行力を傾け、勇気をもって努力することがそれにいたる早道であり、自らの心の想念と生活が豊かになる近道でもある、ということを悟るべきであろう。

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素直な心と平常心

赤胴鈴の助

竹を編みこんで作られた赤い色の防具を身にまとい、エイッ、ヤッ、面、胴、小手、と小さな豆剣士が声を張り上げて竹刀を振り回している。

秋の八幡神社境内での大祭は毎年恒例の行事であり、その境内で他校の小学生との交流試合がなされていた。小学校4年生のときですから54年前の私の姿である。

いつも豆剣士たちの試合を見て熱く声援を送る人だかりの見物客と、たくさんの出店で賑わっていたお祭りで、それはそれは楽しかった。

以来、中学卒業までは剣道で汗を流した。

平常心是道

『苦しい心から逃れて平常心になるにはどうしたらいいですか?』ときかれれます。

実は、苦しい心から逃れて平常心になれるのではありません。

この相談者のように、一般的に平常心と言えば何事にも心が動じない、揺れ動かないことのように思われている傾向があります。

しかし、人生には喜怒哀楽があって、一喜一憂し、悩んだり苦しんだり、泣いたり笑ったりしながら心は揺れ動くのが常である。

精神統一という言葉もあるが、ひとつのことに意識を集中すること、そこに意識をまとめて他に心を向けない状態をいっているようですが、それでも実際は心が動いている。

心は止まることはありません。厳密にいえば眠っているときも心は動いているのです。自分のその自覚がないだけ、記憶がないだけです。

勿論、夢を見ているときも心が動いている。

私たちは、嬉しいときは喜び、悲しいときは涙するのは人として当然のことでしょう。

この揺れ動く自分のその心そのものが人間の心であり、さまざまな状況、状態に応じて変化し現れるのも人の心であり、人間としての自然の姿でもあろう。

ある程度緊張すべきときに無理に平常心を作ろうとか、落ち着こうと焦る心を起すことでかえって不自然な心が働き、余計に変調をきたす。

このままじゃいけない、何とか落ちつこう、泰然としていようとすればするほど緊張は高まり、不安になることも少なくない。こうなると緊張のスパイラルだ。

むしろ、上がり緊張している我が心も、今の自分の姿であり、ありのままの心なんだ、ということを素直に認め受け入れることである。

そして、日頃から必要以上に緊張をしないための心の訓練をしていなければ、いざというときではもう遅いのである。

さて、剣聖といわれた宮本武蔵の記した″五輪書”の中には、いわゆる兵法の極意がいろいろ述べられていますが、その一つに。

『兵法の道において、心の持ちようは、常の心にかわることなかれ』というのがあります。

これは、戦いの場においても常の心、すなわち平常心平静心を保つことが大切だということでしょうが、なかなかこれは難しいことであります。

というのは、戦いの場といえば、いってみれば命のやりとりが行なわれるわけです。

今から350年ほど前の宮本武蔵が存命の江戸時代初期、当時であれば刀や槍などの武器がふるわれ、殺気にあふれて必死に争いあっていたでありましょう。

時代が時代だけに、身の危険も付きまとうから極度に緊張し、また興奮することもあったはずである。

だが、そのように心が張りつめ高ぶってしまったならば、かえって冷静な判断を下すこともできず、とかく身体も柔軟性を失いがちとなり、思わぬ失敗をしてしまうことにもなりかねない。

その当時の闘いの場における失敗は死につながりかねず、それだけに、できるだけ冷静な心を保っていることがのぞましいわけです。

そこで宮本武蔵も、兵法の極意の一つとして、この平常心平静心というものをとりあげたのではないかと思うのである。

今日においては、もう実際に命をやりとりするような戦いの場は、ふつうの状態においてはほとんどみられません。

戦争などの特別な場合を除いては、なくなりつつあると思います。

しかし、そういう平常心、平静心というもの自体は、戦いの場に限らず、またいつの世も、どのような状況のなかでも大事ではなかろうか。

というのは、今日の私たちの生活、活動の上においても、冷静さを欠き、平静心を失ったがために、思わぬ失敗を招いたというような姿が、日常茶飯事のように頻繁におこっているように思われるからです。

たとえば身近な問題では、時間に追われて慌ててしまい信号も見ずに車道へとび出し、ちょうどそこへ来た車にはねられてケガをしたり、時には命までも失うというような例も実際には少なくありません。

また、車の運転でも、急ぐあまりにムリな追い越しをして事故をひきおこし、多数の死傷者を出してしまったということが頻繁におきています。

たとえ命のやり取りをする戦いの場はなくなったとしても、このような命のやり取りともいえる好ましからざる事が続出していることを思うにつけ、平常心、平静心というものが、今日においても必要不可欠であると痛感されます。

さらにまた、人との関わりなどにおいても相手の言動によって自分を動揺させてはならないし、また試験を受けたり、仕事の場で人に会ったり、スポーツ競技に参加した場合などにおいても、同じように平常心、平静心というものが大事になってくるのではないだろうか。

特に、人との関わりにおいては、お互いが素直な心になれば、おのずとそういう平常心、平静心が得られると思います。

自分が素直になっても相手が邪心を持っているときは、その場から離れることです。

すなわち、お互いが素直な心で物事を見、考えていったならば、物事を冷静に、平常心を保って見ることができ、考えることもできるようになれるということです。

ここでいう素直な心とは、よく見せようと思わない、良い評価を望まない、物事に執着しない、自分の正しさを押し通さない、相手を正そうとしない、などの心を育てることである。

例えば、慌てて時間までに行かなければとか、必要以上に良い結果にと拘る、起きもしない先のことを心配しすぎる癖、等々、ちょっと時間に余裕をもてばよいことなのに、自らして追いつめるような生き方を改めて、拘らず、執着せず、慌てなければおのずと冷静さをとりもどし、また平常心、平静心を保つこともできるのではないでしょうか。

素直な心になるということは特別なことではないということです。

そして、素直な心になれないときは、とりもなおさず、心が何かに囚われていることを示しているのです。

自分の心が苦しいときは、その問題から一時、離れなさい。

素直な心とは、何かに囚われない、執着しない心をいうのです。

したがって、素直な心というものは、どのような物事に対しても、平静に、冷静に、且つ、謙虚に対処してゆくことのできる心といえましょう。

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人生航路の羅針盤

 

 

 

人生航路

友人の結婚式に招かれて感動に涙するとき、肉親の死によって大きな悲しみに暮れるとき、末期ガンの友を見舞いながらもかける言葉が見つからないとき。

何気に暮らしている日々の人生模様と心の機微、喜怒哀楽という一喜一憂は私たちの生活で起こるさまざまな出来事のなかにみることができます。

楽しく幸せに暮らしたいと願いながら生きている毎日ではあろうが、それだけではない大事な人生の目的があることも見逃してはならないだろう。

人生は前進したり、立ち止まったり、時には嵐に遭って後退したりすることのなかで、気づき、楽しみ、苦労もすることは、洋上をゆく船旅や、漁師の命をかけた働きにも似て、文字通り人生航路といえる。

全ては天の法則のままに

きょうは、この船の進行方位を決める羅針盤ともいえる心の基準法則について話をすすめてみたいと思います。

人類への正しい天の教え、それは大自然の法則と、人間の心と行ないが調和された道、だと思うのですが、これを以って天の法則とここでは表現することにします。

春夏秋冬の季節、昼と夜の違い、生きている者は誰もが老い、必ず死すること。

すべての現象や出来事には必ず原因があって結果があるということ。

これらすべてのことが、正しい生き方の教えである天の法則に適わぬものはないでしょう。

大宇宙の営み、大自然の姿がこれからも変わらない限り、私たち人間の生き方も、そしてその基本も変わることはないと思うのです。

そして、正しい生き方の法則は永遠であり、なにも宗教の哲学的用語のなかにのみあるのではないということ。

気づきや悟りというものは、とてもシンプルな生き方のなかにみえてくる傾向があり、私達の身近な生活環境のなかに、その法則は存在しているということです。

心健やかに生きるための原理、ヒントは私達の手のとどかない遠くに存在しているのではなく、騒ぐ心を静め反省するならば誰にでも気づく存在のものだと思います。

したがって、人が永遠の生命を発見しようとするならば、天の法則を学び行じる以外にそれを果たすことはできないのではないか。

自然はいつでも、常に私たち地上の人間に生きる方法を教え、大きな慈しみを与えています。

真偽

真は偽の反対、偽があるから真があると人はみるかもしれない。

だが、天の法則の理は、ただひとつの真理でなくてはならない。

その真理である天の法則の理はとなると、大自然が教える理(ことわり)です。

何故なら、人間は大宇宙の営みのなかにある大自然から離れて生存することはできないからです。

類は類を呼び、友は友を呼ぶ。

心は万物を生かし、愛はすべてを癒します。

心温かき者には心温かき者が縁を結ぶことになるでしょう。

水は高きより低きに流れ、低きに流れることによって、その生命を保ち、温度という縁にふれて気体化して蒸発、上昇し、雲となり、雨となり、雪となり、ふたたび地上に降り注ぎ、あらゆる命を育んでいます。

このように、已に真っ当に生きる人は、人をも生かします。

天の法則にもとづく理(ことわり)は、永遠にして不変である、ということです。

いかに天の法則といえども、実践のない法則は、あたかも絵に描いた″モチ″であり、その味わいは解りません。

天の法則は、生活のなかに生かされてこそ、生命が宿るということ。

私たちのまわりの自然に目を向けてみてほしい……。自然は、私たちが眠っているときさえも一刻の休みもなく動いています。

停止することもなく……。

自然は常に動き、留まることなく循環し、輪廻するからこそ天の法則はそのなかに生きているということがわかります。

このように、天の法則は、右にも左にも、上にも下にも偏らず、バランスのとれた中道によって保たれながら生きています。

天の法則は知識であってはなりません。

固定的な観念でもない。

あくまでも行ないだということ。

大自然がそうであるように。

天の法則を悟った人は、行ないによって、大自然と一体になることができます。

それが成されたときこそ宇宙即我の境地の極致といえるのでしょう。

そこには自他の区別がありません。

自分の心が拡大され、自分の心が宇宙そのものであり、その宇宙から自分の姿を見ている。

自分の拡大された意識のなかにすべての生命が息づいていると実感します。

この地球上の万生万物は、すべて循環し、片時も今の位置を保つことはできないという無常の姿が実感されます。

想念

人の想念も、大自然の姿と同じように輪廻という循環を続けています。

悪い想念は、悪に通じるが、幸福を求めるならば、まず悪の想念から離れること。

怒り、憎しみ、そねみ、嫉妬、中傷など、こうした想念を摘みとり、責任、博愛、勇気、智恵、努力、進歩向上、調和など、善の想念を抱くように心がけることです。

不平不満をいっていながら幸せになりたいと言い、『私が何を悪いことしたというのよ。』と愚痴と怒りをあらわにするようでは根本が天の法則から逸(そ)れている。

人の幸不幸の根本は、毎日の心の想念と行為の結果にかかっているということです。

多くの″物″を持つ者と持たない者。そのどちらが幸せであろうか。

もし、持つ者がそれを失うまい、手放すまいとして執着したり、より一層殖やそうとすれば苦しみが伴ってくるでしょう。

人は持つ者を羨(うらや)み、嫉妬もするが、持たない者が、それを欲すれば、欲望のとりことなり、これもまた苦しみの種となるものです。

このいずれも不幸な者達であり、厳しいかもしれないが、心貧しき者といえる。

貧しくとも心まで貧しくしてはならない。

一日の主食は、わずか三合の玄米と少しのおかずで足り、起きて半畳、寝て一畳という言葉が示すように、住居の空間は、数平方米で足ります。

私たちは自分のおかれた立場、環境によって学ぶことがあり、自分の分を知り、わきまえて生きるという謙虚な意識も忘れてもなりません。

何も畳一枚で生活しろという意味ではないが、足ることを忘れてはならないということ。

また、物の多少に幸、不幸があると考える人は、本当に不幸です。

必要以上に物に執着してはならないし、その執着が自らを苦しめることになります。

何故なら、根本的にあらゆる物質は、やがては、大地に還元されてしまうものだからであり、人は、生まれたときも、死ぬときも、身一つだということを、忘れてはなりません。

否、死ぬときは身ではなく心ひとつである。

幸せな人は失うもののない人で、常に足ることを悟って生活をする平和な心の人々でありましょう。

物は必ず失わざるを得ないが、唯一、心だけは失うことはありません。

しかし、現実には、その心さえも見失っている人たちもいるのである。

あまりにも周りを見過ぎて自分の内面、心を見ようとはしない生き方の人です。

この大宇宙大自然界は、天の意識である慈しみと愛によって存在しています。

人間もまた慈しみと愛の心の所有者であります。

天の法則という、大宇宙の意識にふれた者は、まずその心を持ち、その意を汲み、実践する者でなければなりません。

自らが行い、他の為におこなわねばなりません。

慈しみを法則とたとえれば、愛は法則の実践行為でしょう。

慈しみを天の意識とすれば、愛は人間の行為を意味します。

慈しみは、万生万物に無限の光を与えるもので、愛は寛容にして助け合い、補い合い、許し合う行為ではなかろうか。

慈しみも愛も、自らを戒めて行う者にその光は与えられるということです。

自分を律して戒めることと、自分を責めて卑下することは全く意味も次元も異なります。

自分を責め、卑下する者は、気を病み、精神を蝕(むしば)まれてしまうでしょう。

心ない者、実践をいとう者には、天の光もとどきません。

愛を欲する者は、愛の行為を示さなくてはならない。

求めるだけの愛は、自己愛に過ぎないからです。

慈しみの扉(とびら)をあけようとする者は、天の法則の心を汲みとることが先です。

窮地の人に手を差し伸べる者は、菩提心に満ちた光りの使者であり、天使であります。

正しく気づき、悟れる者は天の法則を人々に知らしめ、慈しみと愛の光明の輪を人々に与えずにはおかない。

慈しみは、愛という行為によって輪廻します。

あなたが慈しみをもって行為することは愛そのものであります。

慈しみは、天の縦の光、愛は実行の横の光といえるでしょう。

怒りは、そこにどんな理由があるにせよ、破壊のエネルギーとして周囲に作用し、その波動は、やがて已に返り、心を乱し、魂の前進をはばむことになります。

原因のない結果はなく、すべては必然であり、偶然の産物はありません。

子育ても、子どもの為という美名の元に子供を厳しく躾けをするといい、幼子に平手打ちなどの暴力をするなど、やってはいけない行為である。

このような行為は慈しみや愛の名を語った暴力でしかありません。

こうして育てられた子供は心に怯(おび)えと、不安、恐怖心を植え付けられることになり、後になって強迫神経症やパニック障害などの精神的疾患を病むことになってくるものだ。

暴力のある家庭環境に育った子は、体ではなく心に闇をもって成長してしまうのである。

己にきびしく、他人に寛容、実るほど頭の下がる稲穂かな、の心境になるべきです。

常にとらわれのない柔和な心は、天の心であり、法則の心でもあります。

妥協は、調和の姿ではない。

自我が伴うからです。

妥協によって、ひとときの平衡(へいこう)が保たれても、自己主張を通そうとすれば、自分も、他人も、この世は一瞬にして暗黒となるでしょう。

諍(いさか)いや、戦争がその例です。

妥協は、破壊を防ぐ、一時の防波堤にしかすぎず、永続は不可能です。

なぜなら、妥協には、心からの共感がないからです。

調和は無限の進歩と、安らぎを与えます。

調和の根底には、慈しみと愛が働いているからだ。

調和とは偏りのない心と行いを言います。

愛には、自己主張がありません。

驕(おご)りがないし、へつらいもないでしょう。

喜びや悲しみがあったとしても、それにとらわれることがありません。

愛の実践者は苦しむ者があれば、その苦しみを癒し、悲しむ者があれば、光を当てて、希望を与えるでしょう。

愛は、天の心であり、私心のない、天に通じる偉大な架け橋なのです。

この世が、愛に満ちれば、地上には、真の楽園が誕生するはずです。

天は、それを望み、その日のくるのを、辛抱強く待っているのであります。

地上界の人類が調和への霊域に包まれることを・・・・・。

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罰は神仏が与えるのではない

光の天使

ご利益があるとする宗教、これほど危険な宗教もなく、こういった宗教は営利主義、教祖、指導者の言行不一致が横行している。

宗教に入信するきっかけは人それぞれのようですが、病気をきっかけに誘われて入信する人、知人が入信していて誘われるケース、布教活動の勧誘から、親が信者だから、ご利益があると言われて、悩み苦しみがあって、自ら信仰を求めて、等々さまざまである。

私は、これまで間違った宗教に入信している人たちの相談に乗ることで脱会もさせてきた。

かといって、私自身は一切の宗派宗教、個人、団体に属しているわけではないし、宗教を立ち上げる気持ちもまったくない。

敢えて、このようなことを述べるのは、相談者によく聞かれるからです。

「脱会させて新しい宗教に誘うのですか?」

「どうして、こんなに親切にしてくださるのですか?」

「なぜお金を受け取らずに無料なのですか?」

「あとから多額のお金を請求することはありませんか」と。

経済至上主義の社会構造ですから、お金の多寡によって物事を推し量る感覚も理解はできるのですが、お金以外のところにも尊い意義があることを忘れてはならないでしょう。

カウンセリングを始めて10年ほどになりますが、一円のお金も頂いたことはない。

何故、宗教団体からの脱会を奨めるのかとなると、入信していても心の苦悩が無くなっていないどころか、かえって心を乱した生活をしているということと、金銭的負担を強いられているということ、本人がその宗教と団体に疑問を抱いているからだ。

人々の心の安息と正しく生きるための教えであるべきものが宗教の為の宗教であってはならず、決して教祖、幹部指導者のための利益のためであってはならない。

なかには結構な金額で被害に遭っている者たちもいる。

カウンセリングによって、実際に、その宗教を脱会して自立心が育ってくることによって、これまでより心に安息を得て穏やかに生活できているのである。

これまで関わってきた宗教に疑問を持ちながらも、多くは仏罰、神罰を恐れ、教団内の同士からの嫌がらせや脅迫を恐れている場合も多く、そのマインドコントロールを解くことがポイントになってくる。

他力依存を捨て自力・自立心養うために

人生という旅における、苦しみの根を断つには、肉体の付属品である眼、耳、鼻、舌、身、五官と意識が加わった六根が迷いを造り出すということを明らかにする必要がある。

私たちの内面、深奥にある心、表面的には良心として誰にも備わっている肉体の主(あるじ)である魂・意識の中心、正しい偏らない″心“に間うことが最も重要。

それには、この人生における諸々の出来事、問題、現象を、偏りなく、正しく判断するため、客観的、第三者的な立場に立って、自分自身を省みることが必要だ。

人間の心は、本能に偏っても判断を誤り、感情に走っても冷静な判断を見失ってしまうし、知性に偏りすぎると、理屈っぽくなり、柔和な表情さえもなくなってしまう。

かといって、理性に傾きすぎると、非常に冷徹、暖かみのない人間性となってしまうが、バランスの取れた心づくりをすることは知識ではない、行うことによってのみ成されるものである。

私達が、不調和(足ることを忘れた生活、不満、愚痴、怒り)な想いの曇りをとり除くためには、反省して、その原因を究明して、同じ誤りをおかさない生活をすることが大事である。

肉体五官に囚われ、他人の言動に執着し、物に拘り、自身の内面を疎(おろそ)かにする盲目的な生き方をしている私達に対して、反省はむしろ、人間だけが天から与えられた大きな慈悲だといえよう。

瞑想的な反省、即ち悔い改めることは、心の曇りをとり除き、その心が調和された光によっておおわれるため、自身の霊囲気は精妙になり、安らぎの境地にいたるものだ。

人間は、それぞれの生活の過程において、人生の無情さや哀れさ、悲しさに直面し、日常生活で反省する機会を仕組まれている。

夜があることで休息があり、昼の働きができるし、闇があることで光りの存在に感謝せずにはいられない。

親しい人との死別、社会の矛盾、病気、どうにもならない運命のいたずら、生きているためのむなしい努力など、人間は、あらゆる苦しみをとおして、反省の機会を求められる。

それは、苦しみの原因をとり除くことが重要だからだ。

広い、豊かな丸い心を造り上げ、人間は皆、神の子である自覚が芽生えたとき、次元の異なったあの世の天使達は、私達に称賛の喜びを与えてくれるのである。

人間は、何のために生まれ、何のために苦楽を体験し、何で死んで行くのか、そして、死後の世界は、と誰でも疑問を持っているだろう。

その疑問から、人生を正しく生きようと、過去の誤まった考え方や生活の在り方を心のなかで反省し始める。

心の調和度にもよるが、そのとき、私達に潜在されている意識の扉は開かれ、私達は過去の世で学んだ何割かの体験を思い出す場合もある。

そして、偏りのない正しい心の判断にもとづいた日々の生活努力がなされたとき、自らのなかからひとりよがりの心は消え、人類は皆兄弟だと悟り、国境も人種の別も魂には存在しないのだと偉大な慈愛の力に、私達の霊囲気は高まっていく。

自ら、中道を踏みはずしてきたこれまでの生き方、欠点の修正を、勇気をもってしたとき、心は浄化され、さらに光明に満たされて行くのである。

これはうつ病や、パニック障害、摂食障害、その他の精神的疾患の場合も同じで、これまでの心の癖、傾向性である拘(こだわ)り、囚われ、執着、頑な、これらを捨てたときに初めて新たな決心がうまれ回復に向かい始めるのである。

過去を引きずることをやめ、先の事を憂えず、歩く決心一つさえあれば必ず立ち直ることができるものだ。

心の浄化が進むにつれて、守護霊や指導霊や、あの世の縁者達は、私達の更なる魂の進化への努力に対し、互いに協力して直感、霊感を与えたり、直接語りかけて、人生の指針を正しく教えてくれる。

指導霊は、私たちが正しく志をもって努力をするとき、新しい人生の学習に対して教え導き、その心に、自ら悟り得る光明の道を開いてくれ、より良い方向に正すための協力を惜しまないのである。

逆に、自己保存や自我我欲、増上慢などが、その心に芽生えると、暗い霊囲気に自らの心がおおわれてしまうため、指導霊や守護霊達は波長が合わず、ただ傍観するしかなく、協力することができない。

それどころか、地獄霊や動物霊、果ては邪悪な者たちに、その心を犯されてしまうことになる。私達の心の動きは、そのように、善悪いずれにも変わりやすいものだ。

正しい心の土台となる法則をしっかりと知らなくてはならないのはそのためだ。

いまの世界を見てもわかるように、権力者が国を支配し、民衆は奴隷と化し、扇動され、殺戮が繰り返されている。

人間は、判断する心の物差しを完全に見失い、自ら混乱して、不調和な社会を造り出して行く。

そうした不調和な種は、結局自ら刈りとらなくてはならないものだ。

この世で刈りとらなければ、きびしい地獄でその不調和な心の修正を果たさなくてはならないことになる。

自分は大丈夫だと思っている人、他人事のように思っている人ほど気を付けて自分を省みてみる必要があるでしょう。

地獄界に行く決定も、閻魔様がいて振り分けるのではない、神が裁きを下すのではない。

『人間は死後に裁きをうける』と街宣している布教もありますが、言葉としては誤解を与えかねないものであり正しくない。

私たちの死後は、自分の善なる心が、自らの人生での心の在り方と行為を裁くのだ。

つまり、自らを自らが裁くということは、自分の心の状態、境涯、境地の状況に準じた段階に居住することを意味するのであって、それは公正無比な判断となっているのである。

この地上における裁判は、人間が人間のつくり出した法律によって他人を裁いているが、裁判官の考え方や、思想的な背景、個人的感情もその判決には出てくるだろう。

しかし本来、厳密にいえば人間が人間を裁くことはできない。なぜなら、被告の身柄拘束という、肉体的な行動は制限できても、心の束縛はできないからだ。

例えば、約2000年前に愛を説いたイエスキリストは十字架の上で処刑されたが、肉体は拘束して処刑できても彼の魂まで縛ることは適わなかった事実をみてもわかるだろう。

人間というもの、心は、自らの想念によって、良くも悪くも自由自在に変えられる。

しかし、中道という天の法則、宇宙のルールを踏みはずした人間の心は、自らして心の苦しみを造ってしまう。

特定な宗教家達は、罰が当たるといって、信者の心に足枷(あしかせ)をはめ、教団組織の細胞に仕立てて自由に操っている。

神仏は、絶対に罰など与えはしない。人間に罰を与えるという幼稚な発想は利益をもくろむ者たちの身勝手な呪縛の方便にしか過ぎない。

罰は、不安感や、恐怖心と、自らの心と行ないが造り出している、ということを忘れてはならないだろう。

間違った教義を、欲深き人々に押しつけて悪用している指導者は、自らの心のなかに大きな疑問を持っているはずだ。

他人は欺(あざむ)くことができても自分の良心を偽ることはできないからである。そういう人間としての心に蓋(ふた)をしたままあの世に逝って自分を裁き、闇に堕ちることになる。

信者もまた、教団の教義に対して疑問を持てば罰が当たる、と思い、ますます自分の心の領域を小さくし、豊かな心を失って、教団内の見栄や嫉妬、驕り、のままに翻弄され帰幽することになれば行く末は解るだろう。

教団内において解けないような疑問ならそこには真の教えがないからであろう。

題目や経文をあげれば救われる、などとカンフル剤でも打つように脳細胞を狂わしても、心の安らぎなど得られはしないのだ。

その時だけの気休め的な読経に時間を費やすことの愚かに気づかなくてはならない。

自らの心の尊厳性を悟ったときは、迷っていたそんな自分を哀れに思うはずだ。

私たちが映画のスクリーンに映っているストーリーの内容を見るように、この地上界のきびしい生活を生まれてくるときまでは、あの世の霊界において、十分に知っていたはずなのに、成長するに従って迷妄の人生を送り、自ら苦しみを造り出してしまう人々が多い。

執着し、拘りを捨てることがでずに、丸い豊かな心に歪みを造り、傷だらけの人生を送ってしまう人々が多いのである。

それゆえに、走ることだけでなく、歩を止めて足跡を省みること、三歩進んだら一歩下がって、自分の心と行ないを反省し、苦しみの種を蒔かない生き方をすることが肝要だ。

反省は、自分の心のに内在された偉大な智慧の泉を掘り起こすということになるだろう。

私達の心のなかには、次元を超えたあの世の世界から、その人の心が求める質と量に比例した、あらゆる智慧を貸してくれる指導霊達の存在がある。

反省は、自分を改めて見なおす、意識の転換作用といえよう。

自分を改めて見なおすということは、自分を客観的に見ることであり、そこには、自我の存在があってはならない。自己都合の私心があってはならない。

客観的に見ると、自分の欠点や長所がはっきりと出てくるが、その欠点を改めることが、もっとも大切なことなのである。

そして、心の癖、心の傾向性、の根をとり去ることだ。

心の改善基準と方法は(心眼を開く・偏見からの脱却)を参照。

また、自分を客観的にみつめているときは、私達の守護、指導霊も同時に見ている。

私達の心のなかには、真実と偽りとが同居しているが、反省によって、偽りの暗い曇りを消し去る、そのことが反省の大きなメリットであろう。

欠点の根が除外されるに従って、私達は、悟りへの一歩を印したことになるのです。

そして悟りの段階が進むに従って、通常に能力以上の力が、私達の心のなかに湧き出てくる。そして、自由な心を得て、執着から離れ、生死を超えた大悟を得ることができるようになるのである。

人間は、決して孤独ではない。

心の世界、次元の異なった世界には、私達の魂の縁者、兄弟たち、友人達がいて、常に地上の人たちを見守っていてくれる。そのことを忘れてはならないだろう。

肉体の五官煩悩も、このような境地になれば、やがて消滅し、自ら悟り、愛と慈悲の溢れた人間になることができるのである。

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純粋な魂の書

今朝はダウン症の書家である金沢翔子さんのお母さん、金澤泰子さんのコラムを紹介させていただきます。金澤泰子さんと翔子さん

(書家) 1943年、東京都生まれ。明治大学卒業。 ’90年に久が原書道教室を自宅に開設。雅号は金澤蘭鳳。娘・翔子さんとともに書道の普及に努める。翔子さんとの共著に『翔子』、『魂の書』等がある。

観念的に考えることに慣れていたという金澤さん。翔子さんによって、の想いが根本的に変わったと言います。

不満、不安、嘆(なげ)きなどない 娘・翔子は知的障害を持つダウン症者である。

翔子は社会の構造が解からない。数列もよく分からない。いわゆる科学的な知性は持たないので、地位やお金や、効率の良さ、合理性を求める社会に巻こまれない。

現実からはるか離れた地平にいる翔子は、実にゆっくりと幸せな日々を生きている。

知的な遅れがあるために学歴社会に入れない。私は長い間そのことを嘆いていた。

しかし、学歴の外にいたことは、実はとても幸いなことであったと、後になって分かってきた。

学歴社会に入れないと試験を受けないで済む。

試験を受けない翔子は競争心が養われなかった。

競争心がないと、人を羨んだり、妬んだりしない。

その上に、社会の構造が解からないので偉くなりたいとかお金持ちになりたいと思うこともない。

この様に俗世に欲望のない無心な翔子の心には「人に喜んでもらいたい」という愛が満ちてくる。

その思い はとても優しく、豊穣(ほうじょう)。

翔子が想いをめぐらす範囲は、せいぜい明日のお昼ごはんぐらい迄なので、未来を想って不安になったり恐れたりしない。

将来に希望を持ったり目標を持ったりしないし、過去を振り返り悔んだりなどもしない。

目標や計画を持たないということは、その刻その刻を百パーセントの絶対時間に生きていられる。

その時空はじつに豊かで、素晴らしい。

予測的な不安がないのでいつもわくわくと楽しい。いつも二コニコしている。

翔子には「出来ない」ということは無いのです。今していることがやりたかったこと、今、手に入っているものが欲しかったものなのです。

その世界を想ってみてください。不満や不安、嘆きがないのです。

翔子の世界は、いつもその時、その場で満ち足りているので、とても豊かで平和。

そんな思いで生きている翔子の創り出す書に、多くの方が涙を流してまで感動してくださるのだと思う。

花に、月に「ありがとう」翔子はいつもピンクの名刺を持っていて、声をかけてくださる方の誰にでもその名刺をお渡しする。

どんな方にでも。政財界の偉い方にでも、町の路上生活者にも、誰にでも同じよに……。

先日、撮影の時、大勢の人が集まってくれた。そこにはご夫婦に連れられた犬がいた。

翔子はその犬にも、丁寧に両手を添えて「どうぞ」と言って名刺を渡した。

犬も神妙にその名刺の前にしばらく座っていた。周りの人たちは爆笑した。

しかし私はその中で一人、感動して佇(たたず)んでいた。

翔子の平等意識は凄い。犬も人間も、偉い人も貧しい人もみな同じなのだ。

翔子は花に手を合わせ、暗い夜道を見守ってくれる月に「ありがとう」とお礼を言って玄関に入る。

翔子にはあらゆる所に、命がありありと見えているのでしょう。

一輪の花だって私の心を動かすことができる。

月にも風にも犬にも人間にも石にだって……どんなものでも人の心を動かし得る力がある。

それなのに私はあまりに観念的、科学的に考えることに慣れてしまっていて積極的には動かない、話もしない、意思も表明しない(と思い込んでいる)、それらが我々の心を動かすということを忘れていた。

木も山も石も小犬もわたしの心を動かしてくれるではないか。

この翔子が犬に丁寧に名刺を渡す光景で私は命への想いが根本的に変わった。

私の平等の考えなどとても陳腐であったと反省する。

美しさに魂を見る

ただ綺麗とか美しいと思って愛でていた景色に命が見えるようになった。

その美しさに魂を見ることができるようになった……。どれほど多くのことを翔子は私に気付かせてくれたであろう。

そんな翔子の個展には沢山の人がいらして感動してくれる。泣いている人も多くいる。

私は四十年余り書をして生きてきたけれど、私の書にはいまだに唯の一人も涙を流して感動してくれた人はいない。

私は鍛錬と努力を重ね、その果てにあまりに観念的になりすぎていたのだろう。

きっと翔子のようにその瞬間に生き、障害によって育まれた純粋度が保たれた魂の領域で書く字が感動を呼ぶのでしょう。

只々、誰かに喜んでもらいたく、只々、その時の想いを無心に書く。そんな書に、私の晝などかなう筈がない。( 2012年6月29日投稿 胎教Ⅰ参照ください。)以上。ここまで。

子どもに指導する翔子さん

相談者の話しを毎日聞かせていただいていただいているなかで最後に行き着くところ、きっかけは何であろうが、相談者の苦しみの殆どが過去にこだわり、先を考えすぎて不安感や恐怖心に苛(さいな)まされている。

ああしたい、こうしたいという思いは持っているが、「あの時こうだった」、「人がこうだから」、「この先が不安だから」、「人がどうみるか怖い」、「認めてほしい」といって同じところでグルグル回っていて前に歩を進めようとはしない。

一番苦しいのは自分であるはずなのに、その苦しみの原因である拘りを捨てきれないでいる。まさに執着そのものである。

知性が働くからこそ人間であるのだが、反面、この知性が偏ったときに不必要なことに拘り、執着し、自らを苦しめることになる。

自分と他人を比べて苦しんでいる人、嫉妬に狂って苦しんでいる人、自分の境遇を嘆いて苦しんでいる人、何事も人のせいにして苦しんでいる人、こういう人たちの苦しみに共通するのは相対的な価値観である。

一言でいえば他人の目を気にしながら自分の考えを持つ傾向が強いということだ。

また、拘りも執着もバランスを欠いた欲望の範ちゅうであり、この欲望の強い心では自分が苦しむだけではなく、人に感銘を与えることも、慈しみも、喜びも、愛も為すことはできないだろう。

得ることよりも捨てることを実践していきたい。

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万物の霊長に課せられたこと

我が家の北側裏に積もった軒下の雪もすっかり溶けて、ふきのとうも花ひらいています。このふきのとうを細かく刻んでサッと湯通しして味噌と油炒めする。

これを熱いご飯にのせて頬ばると、程よい苦みが口に広がり、味噌と相性が良く、実にうまい。春一番の恵みにありがたいと思う。

ふきのとう

 

だが、春の山は天気も変わりやすく、強い風とともに雨が横殴りでガラス窓をたたくときもある。しかし、この雨が大地を潤し、草木を育てる恵の雨です。

この地上は、さまざまな物質的な縁によって、あらゆる現象が起こる環境である。

少しだけ物理科学的な表現になりますが、物質は、外から加わる作用によって変化を起こし、仕事をなし得る能力、つまりエネルギーとなり、いっときたりとも今という時間と形を保存することができない。

物質は常に変化し、とどまることなく形を変えていく。これを仏教では色即是空、空即是色といい、諸行無常とも表現している。

ここでエネルギーについてもう少し噛み砕いて表現して述べてみましょう。

ここにマッチ棒があるとします。だが、マッチ棒だけでは火がつかない。硫黄やその他の物質を塗布した箱に摩擦をしてはじめて火が点きます。

燃える元である物質はマッチ棒に付いてる火薬ですが、火をつける外力に当たるものが摩擦をするマッチ箱の塗布部分です。

この地上は全てにおいてそういう世界である。その仕事をなし得る能力を、科学ではエネルギーといっています。例えば、石炭の塊(かたまり)一個の質と量には相応のエネルギーがあります。質量のエネルギーです。

一方、生物には、意識が同居しています。意識世界のエネルギーは物質のエネルギーの次元より精妙な次元であり、これを意識界ともいい、一切の万物万生を造り出す働きさえも支配している世界である。

おわかりだろうか。意識エネルギーは物質エネルギーの次元より遥かに微細で波動が精妙だということだ。

すなわち、その意識エネルギーの世界を4次元、あの世ともいう。

人によっては、5次元、6次元、7次元、8次元、超次元とも言っている場合があるが、それは意識の次元が違うという崇高な意味を含んだものと解釈してよいだろう。

4次元以降の多次元世界と表現する場合もありますが、この場では、総じて4次元と表現しておきたい。

私達は、この非物質的な次元のあの世で、縁者や友人などとのコミニケーションの末、両親となるべき肉体の提供者との縁が約束され、この地上で、その約束、目的が果たされることになる。

つまり、この地上に生まれていることも、環境や両親を選ぶことも、一切自分でなしたということである。

この地上に適応した肉体に乗って、地上に出てくるのだが、それは苦楽の人生における修行を目的とし、如何なる試練、逆境も超えると決心して下生してくる。

盲目で、手さぐりの人生、この人生で、より豊かな心を造るとともに、新しい学習をすることが、目的の一つなのである。

同時に、世界の人類が大調和することによって叶う平和な地上の建設、それが万物の霊長である人間に課せられた使命でもあるのだ。

その私達の肉体という船の船長は、永遠に変わらない意識であり、魂である。

もうこの時点で、魂があるとか、ないとかの話ではなく、あの世が存在が有無の次元ではなく、万民が肯定して自分の生命の謎に取り組まなくてならないだろう。

意識の中心が〝心〝で、この心が実在の世界であるあの世に通じていることは否定できるもではない。

人間は皆、実在する天上界から生まれてくるときは、誰も皆、丸く広い豊かな心を持っていた善なる者達だったのだ。

禅の教えのなかには「本来善悪無し」という公案(教え)があるが、これは、悟れば相対的価値観から離れて、善とか悪の区別がないほど執着がなくなり、ただ円相の心になるという意味である。

しかし、現実には善も悪も存在する。

何故なら、生まれた環境や習慣や、教育や思想、また友人の影響など、五官(眼、耳、鼻、舌、身)にふれる一切のものによって、心に執着が生まれ性格が変わってしまうからだ。

それだけ肉体五官に依存して生きているということの証でもある。

ところが、この肉体五官に囚われた生き方をするほどに真の心の働きを見失うことになるのだ。

私達の意識は、生まれたばかりときは100%潜在されている。それが、成長するに従って表面に出てくるようになり、やがて表面意識として思考するようになってくる。

そして心のなかには″本能が芽生え、五官をとおして〝想念〝につたわり、″智性″が発達して″感情″の表現となるのである。

これによって、自らの″意思″が、はっきりと表示でき、自己の立場を表現できるようになって行く。

しかし、表面意識が飽和状態になっても、意識全体の約10%くらいしか外へ出ないため、本当の自分の心を知らず盲目的な人生となるのだ。

あとの90%の意識は無意識、つまり潜在意識となって内在しているのである。

氷山

 

これは自然現象としての海に浮かぶ氷山のようなもので、全体の殆んどが海中に潜在し、海面上に現れているのが一部分であるのと同じようなものだ。

私たち人間の肉体に宿った魂の創りと仕組みもこのように、宇宙大自然の摂理のなかにある存在であるが故に、自然の法則の中で生きるように仕組まれているのである。

その人間を、あの世の次元から守護霊や指導霊達が、常に温かい心で見守っている。

私たちがそのことに気づこうが気づくまいが、彼らはあの世での約束を違えることなく貫いているということだ。

そして、常に執着する心から離れ、丸い心で、苦しみの種を蒔かずに、中道を心の物差しとして生活している人々には、このような守護霊や指導霊が、直接、霊感的な現象によって指導し、平和な生活を送ることができるように教えてくれるのである。

反対に、自分のことしか考えず、欲望のままに、品性もなく感情むき出しに生きている人々は、暗い想念におおわれ、邪悪な者たちによって支配されるから、常に心の安らぎがない。

不平不満の人生を送り、豊かさや心のまろやかさを失って、心に大きな歪みを造ってしまうのだ。

それでも私達の心は、自分に対してだけは嘘をつくことができない。

人間の心はそのようにつくられているからだ。他人には嘘をつけても自分には嘘をつけない心、それこそが本当の自分であり、真我というものだ。

実在する世界であるあの世の真相は幽界、霊界、神界、菩薩界、如来界、宇宙界と上段界にいくにしたがってその霊囲気は、波動がこまかく、しかも調和されて行くにしたがって精妙になっていく。

これに比べ、現象の世界であるこの地上の波動は、固体的で不安定で弱い。これはスピリチュアルな意味に限ったことではなく科学の話でもある。

そのため、地上においては、原因と結果の出方(輪廻)が遅く、正しい判断がむずかしくなるのである。

原因と結果の出方(輪廻)が遅いということの意味は、個体の存在のなかでは結果が出るまで時間、期間がかかるということです。

ちょうど、種を蒔いて芽が出て、葉が出て、花が咲き、実がなるまで一定の期間が必要なようにである。

あるいは、心に思ったことが形を成して完成されるまで時がかかることでも分かるであろう。

その点、あの世では固体化したこの世とは違い、心に思ったことが即、現象化するのですから、ごまかしや嘘が即そのまま表れることになるのだ。

だから、あの世の邪悪な心の人間は、形相までが奇獣の如く忌まわしい姿となって現れてしまう。

これが3次元のこの世と、4次元のあの世の違いであり、物質界非物質界の違いである。

潜在されている90%の意識は、転生輪廻の一切を記憶しているが、なかなか思い出すことができない。一般的には無理である。

それは心が不調和な想念の厚い曇りにおおわれて、次元を超えた通信がさえぎられているからということと、潜在意識の扉を開くことは鍵をあけるように簡単なこととは次元が違い過ぎるからだ。

自分の心の扉を開くのは自分の心しかない。

心の境涯で行くあの世の次元

この地上は、善と悪が混合して存在しているため、区別することがむずかしい。悪を為していても悪と思わず、または悪を隠し、他人に指摘されると逆切れして人に危害を加える者さえいる。

悪や、間違い、過ちを区別することができるのは、正しい生き方の基準を学び、実生活に生かす以外にないといえよう。

あの世では、善と悪が霊囲気によってはっきりと別れ段階が定まってしまう。

それは、心の清浄さや、心の広さがすべてを定めてしまうからだ。

例えば、ペットボトルのなかに、灰を少量入れて、水を注いでみよう。時間が経つに従って、澄んだ水が上になり、濁りはコップの底に沈澱する様子がはっきりと見えます。

最後には澄んだ水と濁りがきれいに分離する。

このように、あの世の仕組みも、その人の心と行ないが、正しい生き方の法則にかなった生活をしたかどうかで、心の光の量が異なって段階が定まってしまうのである。

つまり、あの世では善者と邪悪な者との居住段階がわかれているのに対し、この世は善なる者も、邪心を持った者も同じ地上で、同じ社会で暮らしている。

濁った部分は沈殿し、澄んだ部分は上になるという自然現象の真理だが、私たちの死後はそのような境涯の世界に分かれて暮らすことになる。

これと同じように人間の知恵や知識によって、その位置が定まるのではない。

魂の曇りが多ければ下の階層に居住するし、拘り、執着がなく澄んでいれば上の階層に居住することになる。

何度もいうが、肉体がなくなったあの世では心の状態によって自らが居住する階層を決定しているだけであり、神が裁いているのでもなければ、閻魔さまがいて選り分けているのでもないのだ。

また、この地上生活における地位や名誉、あるいは経済力のあるなしによってあの世の居住境涯が定まるのではない。

あくまでも肉体の船長である心の支配者、すなわち自分自身の心の境涯が濁っているか澄んでいるかによって決定するのである。

地獄行きも極楽行きも、自らの善なる心が、人生の一切を裁いたということだ。

肉体の支配者こそ、永久不滅な己の魂なのである。

死はすべての終わりではなく、両親から与えられた肉体との別離にしかすぎない。

だが、この肉体に執着すればするほど死への不安感、恐怖心は強くなるだけである。

肉体は、この地球上に住む以外に必要はないし、あの世に持って帰れるものではないのだ。

その肉体に執着する意識が強ければ強いほど心の苦しみは強くなるのである。

心の窓が開かれれば、きびしい地上生活であっても、生きている喜びは無限にある。

心の窓が開かれるということは、毎日の気づきのなかにある。

何故なら、それは、魂の兄弟達や、守護・指導霊が、常に私達の人生修行に力添えを惜しまずに協力してくれているからだ。

更に、心の窓が開かれるとは、一切の執着から離れたときに観えてくる生命の有り難さ、そして万象万物への感謝、それである。

感謝は心に思うだけではなく、その心を日々の生活の中で行動にすることで完成されていく。

完成はひかりであり、その道のりもまた光である。

行即ち光といえるであろう。

信仰をもつ者に伝えたい。

手を休めて祈る必要はない。為すべきことを祈りであるが如く為せばよい。

そして、何を成したかではなく、どれだけ愛をこめたかである。

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錆びた心・輝く心

心の光

自家用軽トラックのテールランプの縁に錆(サビ)が浮き出てきたので取りあえず鉄部用の油性塗料を塗って間に合わせた。

しかし、ひと月もしないうちに塗料の下から錆が浮き出てきて茶褐色になってしまう。あたりまえのことです。塗装の基本から外れているのだから。

さて、人間の心がある程度の高いステージにまで成長したならば、自在な心、即ち、調和された心というものを忘れたり見失ったりするものだろうか。

あるいは、生涯にわたって高いステージのままで変わらずにいくものだろうか。

きょうは、このことについて考えてみるために、視点を変えた事例を述べてみます。

金属、特に鉄の場合は、非常に酸化しやすく、雨風にさらして放置しておくと、酸素と、鉄の表面が化学変化をおこして酸化鉄、つまり赤錆(あかさび)に変わってしまいます。

この酸化した鉄は、本来のもっている鉄の性質を失って、もとの鉄にはもどりません。

錆びたままの鉄に、いくら表面塗装をしても、やがて、鉄の表面の錆が浮き出てきて、塗装の皮膜を破り、また赤錆が表面に出てくることになります。私の軽トラック事例がそれだ。

実は、人間の心も同じことがいえる。

相談者が体の病気を治したい、ADHD(注意欠陥障害)や、PTSD(心的外傷後ストレス障害)を治したい、うつ病を治したい、過食症を治したい、パニック障害を治したい、アルコール依存症を治したいといってくるのですが、皆一様に内科や、心療内科や、精神科に通い投薬治療を受けても改善できないでいるケースが非常に多い。

特に精神的疾患の場合や依存症の場合は、心の錆(さび)を取らずにいくら塗装という薬で処置しても、その他の対策を講じても再び錆である症状が表出してしまっている。

医学的に、発達障害と言われているような症状でさえも、接し方によっては本人の反応が変わって穏やかな表情になったり、行動に変化が生じてくるものだ。

錆びた金属の表面を綺麗なものにして再生したければ、先ずはキレイに錆を落として金属の表面を磨くことから始めなければないだろう。それから下地を塗り、メッキをするなり、塗装をしなければならない。

人間の心も、『幸せな生活をしたい』、『苦しみから解放されたい』、『病気から解放されたい』とは思っても、今までの生活のなかで心に積もった錆を落とさないいままに、あるいは心の癖を改めないままに新たな情報に振り回されたり、対策をとったところで、結果は差ほどのものではなく、一時的によくなっかにみえても何か問題があれば心を乱し、再び苦悩のなかに身を置くことになる。

その意味では、肉体的な病気も同様のことがいえる。

病を癒さんと欲するならば、先ずは、心を調えることから始めなければならない理由はここにある。

心を調えるには、心の余分な情報知識拘り捨てることから始めなければならない。

しかし、心の病に苦悩している人の場合、自分のなかに拘り、執着があることにさえ気づいていない人が多いのである。中にはそのことを伝えても認めないばかりか、否定する人までいる。

自分に都合の悪いことは認めたくないという想い、これは自我であり、自己保存ともいう。いわゆる人間のエゴです。

どんなに都合の悪いことでも、認めることで初めて道は開けるものだ。

そして、否定をして逃げることは、再び同じような局面に立たされることになる。

それでは何故、心を調える必要があるのかとなると、人間は心(魂)が主(あるじ)であり、肉体は従者であるからだ。つまり、心のあり方によって体の状態が大きく左右されるということである。

肉体の病気は然り、先にあげたような心の疾患の場合は特に、この仕組み、人体のメカニズムである主従関係を無視した対処では好結果を得ることができない。

私たちは、体調が悪いと言っては心が沈み、人の言動に左右されては不満や、愚痴、怒りをもって簡単に心を曇らせてしまう。

これは、肉体の五官中心に物事を考える習慣ができていることと、他人の言葉に翻弄されやすい自我心(自己中心、執着、自己保存)の産物によるものである。

自我心は、体調が良くないからといって口をとがらせ、思うようにならないからといっては膨れっ面をするが、このように決して心まで腐らせてはならない。

しかし、この錆ともいえる心の曇りは簡単には取り去ることもできず、晴らすこともできない、やっかいな存在でもあります。

錆を落とし、心を晴れやかにするには、いかにして正しい基準に沿った生活日々実践するかということが決め手となるのです。

だが、どれほど知識を詰め込んでも知識では悟ることはできず、心に真の安息が訪れることもない。知識は道標にすぎないからだ。

情報や知識は便利なものではありますが、それは道標であって道ではありません。

道は自らが歩いていくものです。歩かないと前に進めないのです。

この道を歩くということに人生の意味があり、気づきが生れます。

道がなければ自らが道をつくればよいでしょう。

同じところをグルグル回るだけの生き方は改めなくてはなりません。

道を行くための地図をひろげても歩かなければ体験できないだろう。

体験できなければ実感することができません。

実感することがなければ真の気づきがありません。

人生の意義は経験すること、体感すること、実感することです。

ここに、心を調えるための最も基本となる生き方を具体的に示したページを紹介いておきます。心の眼を開く・偏見からの脱却(八つの正しい基準)を参照してください。

そして、執着した想いや行為を反省し、暗い想念、つまり心の錆を落とさなければ、人生のなかに諸々の問題が続くことになり、いつも気苦労が絶えない生活となるということ。

あなたの知り合いにいないだろうか、『一難去って、また一難』という人が。

どうしたらこの苦しみから逃れられるかと様々な知識を得ても、様々な手を打っても、それは表面だけを覆う塗装をしたようなもので、またすぐに錆が浮き上がってしまう。

下地がしっかりできていないからだ。

心の錆を取り去るには、偏りのないバランスのとれた中道の心で反省をし、間違った想念と行為を改めるという勇気と決心が必要である。

自分が変わるということの難しさを克服するには、不動の決断と行動力があってこそ初めて可能となるものだ。

そのとき、心の錆は落とされて、その曇りも晴れ、真の光によって内面より満たされ輝くのである。

二度と誤りを犯さないという決心をした生活が、必要不可欠な条件といえよう。

しかし、ある程度の境涯まで心のステージをアップすることができた人間でも、一瞬の心の魔に負けて、生活が正しい軌道をはずれてしまえば心の自由自在は失われてしまい、再び悩み苦しみの絶えない生き方になってしまうものだ。

自由な心で霊的能力もあり、光り輝いている心の人が、ある日突然、人が変わったように言行不一致になることで、増上慢になったり、心と行ないが不調和になると、心の曇りによって、同類の邪悪な者たちが忍び寄ってくる。

特に、心の霊道が開いている人の場合はリスクもあり、どれほど悟っても常に自分を戒めて律する心を忘れてはならず、決して驕りがあってはならない。

人間の驕りや増長慢は、イライラの心、怒る心、そしる心、妬み心、物欲、地位欲、金銭欲などが強く芽生えて、他人を意味もなく軽蔑してしまうようにもなる。

これに反し、人間の正しい心の法則を悟っている人達は、家族も円満に調和されて、常に偏りのない中道を尺度としているため、感情のもつれがないのである。

それも、自分の思っていることと行なっていることに対して、自分自身が、正しい心の規準を知って生活しているからだといえる。

鉄の表面にパーカライジングという化学処理をほどこすと、塗装した後も錆が出にくくなる。

これと同じように、正しい基準に沿ったに生活をすることは、私たちの心から常に黄金色の光が放射されることになり、周りの人たちを光のなかに包み込むことになる。

鉄の表面も、常に磨いていれば、錆びることはないし、金剛石も、磨けば磨くほど光沢を増してくるのである。

正しい基準を心の糧として、日々の生活を実践する努力をすれば、私達の心はより広く、大きく丸いものに磨かれて、光の天使達と自由に、あの世のことも見聞することができるようになるということである。

幼い頃に天才といわれた者が、二十歳すぎればただの人、ということわざがあります。

心に曇りのないときには、指導霊や守護霊の協力を得て、天才的な力を発揮できるが、次第に心を曇らせるに従って、指導霊達はその指導ができなくなってしまう。

心の波長が同調できないからだ。つまり凡才になってしまう。

道は、心を正して、偏りのない実践の努力を積み重ねる以外には開かれないといえよう。

指導霊や守護霊の力と、私達の心と行ないは、丁度、自転車の両輪のような関係である。

前進するためには、ペダルを踏んで前輪で方向を定めるように、正しい努力のないところに、良い結果は生まれないということである。

心の世界の法則も、これと全く変わりはない。

原因と結果、そして、作用と反作用という宇宙の大自然の法則が、私達の心と行ないを支配しているということだ。

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無言の慈しみ

頼富雅博 (鳥取市・教員・五十一歳)PHPへの投稿コラムから。

言葉ではないおばあちゃんの慈愛によって、一人の苦学青年が心豊かに育っていく内容に感激して掲載させていただいた。

大学生

下宿のおばあちゃん

その下宿は京都の真ん中、新京極の賑やかな通りを少しそれた路地にあった。当時の私は四国の田舎から京都の大学に出てきて一年余り。

京都での暮らしにも慣れ、できれば古都ならではの下宿に住もうと思い立ち、見つけたのがこの下宿だった。

格子戸を開ければ、奥に細くつながる鰻(うなぎ)の寝床で、庭を隔てて母屋に向き合う離れが私の新たな住まいとなった。

江戸時代から続く朱子学(しゅしがく)の私塾だったとのことで、黒光りのする廊下や壁紙に見える漢詩の墨痕(ぼっこん)は往時(おうじ)を偲ばせるものだった。

大家のおばあちゃんは齢(よわい)八十になる方で、こちらが苦学生なのを察してか、「お家賃はいつでもあるときでよろしい」と言ってくださった。

同時に私が経済的な理由で大学が終わると、夜間運送会社で働いていたために帰宅が深夜になることも快く了解してもらえた。

焙烙(ほうろく)に入れられたふかし芋

こうして始まったおばあちゃんとの同居生活。内風呂がないため、自然と近くの銭湯へ朝ぶろに行くのが私の日課となった。

さっぱりした体で下宿まで帰ってくると、決まっておばあちゃんが玄関で打ち水をしている。そして私の顔を見ると、「ほっこりしてきやはったなあ」と声をかけてくれた。

その頃の私には「ほっこり」という言葉の意味もわからなかったが、その優しい響きがすっと春風のように心に入ってきた。

暮らし始めて気がついたのは、この下宿が 現代とは隔絶した空間だったこと。電話もなく、母屋の台所で煮炊きに使われるのは古い大きなおくどはん(かまどのこと)だった。

今では笑い話だが、学友からのコンパの誘いも連絡方法がないので、毎回電報で届いた。

しかし、私にはそんな不便さも下宿が与えてくれるゆったりとした趣に比べれば何ということもなかった。

おばあちゃんは幼い時にこの家に養女として入り、結婚もせず、ひたすら家を守るために生きてきた人だった。

頼るべき身寄りもなく、天涯孤独ということもあったのだろうか、私のことを実の孫のように遇し、何くれと世話をしてくださった。

葵(あおい)や祇園といった祭礼の時には、おくどはんで作った手づくしのお寿し司や煮しめ、ちまきなどを振舞ってくれた。

ある年末、故郷に帰省するお金がなく、下宿で越年をした時にはわざわざおせちを差し入れてくれた。

そんなおばあちゃんとの思い出で一番忘れられないのは、ある冬の夜のこと。いつものように運送会社での仕事を終え、深夜帰宅した。

もう休んでいるだろうおばあちゃんを起こさないように、そっと母屋の横を抜け、部屋の上がり口までくると、ふきんにくるまれたものが置いてある。

開けてみると、それは 焙烙(ほうろく)に入れられたふかし芋だった。

添えられたメモ用紙には「お疲れはんどした。ゆっくりお上がりやす」と、おばあちゃんの添え書きがあった。

まだじんわりと温もりの残る焙烙。

ありがたく芋を頬張っていると、なぜか涙がこぼれた。

なぜ自分は泣くのだろう。

不思議に感じつつも、しばらく止まらなかった。

春風のように人と接する

この下宿に越して以来の、おばあちゃんが私にかけてくれる言葉の優しさは、まさに春風そのものだった。

おばあちゃんがいてくれるおかげで私は孤独や寂しさを感じることなく、学生生活を謳歌することができた。

私には焙烙の温もりがそのままおばあちゃんの心だった。

やがて、大学も卒業し、思い出深きこの下宿にも別れを告げた。

そして郷里の高校で教員として私は働き始めた。

そんな中、京都から一本の電話が入った。

電話の主は病院の方で、おばあちゃんが入院していることと私に会いたがっているという知らせだった。

慌てて病院に駆けつけたが、おばあちゃんはベッドに力なく横たわり、ふとんからのぞく腕は枯れ木のように細かった。

変わらないのは笑顔だけ。私が声をかけるとうれしそうに腕を出し、 お互いに手を握り合ったまましばし時を過ごした。

おばあちゃんの手は小さく、皺(しわ)だらけ。

この手で家を守り、そして私の世話を焼いてくれたのかと思うと、後は涙で言葉にならなかった。

この病室での再会がおばあちゃんに会う最後となった。

あれから三十年近くの歳月が流れた。 あの下宿は跡形もなく、 もう 無機質な駐車場になっている。

そしておばあちゃんとの思い出を辿らせてくれるものも手許には何もない。

ただ、私の心にはおばあちゃんが与えてくれた春風が昔同様に吹いている。

「春風のように人と接する」。おばあちゃんが身を以て示してくれたこのことが、今の私の人生目標になっている。

天国のおばあちゃんにお礼も言えぬ我が身だが、自分もこれからの人生の中で出逢う人々に春風の心で接していくことがせめてものおばあちゃんへの感謝だと思っている。

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縁(えにし)


きょうは作家・浅田宗一郎氏の読み切り短編小説からご紹介します。

家族

私は、小さなころから子どもが好きだった。「美保ちゃんは大きくなったら何になるの?」ときかれたら、必ず、「お嫁さんになってかわいい赤ちゃんを産むの」と答えていた。

大学は幼児教育を専攻した。そして、卒業後は幼稚園で働くようになった。幼稚園の仕事は一日十時間を超える。休憩もほとんどない。

だけど、子どもたちの無邪気な笑顔をみると、いつも新たな力が生まれた。

そんなある日、幼稚園に背広姿の男性がやってきた。名刺には、『小坂和也』と記されていた。肩書は文房具メーカーの営業主任だ。

私は幼稚園の応接間で和也から子ども用文房具の説明をうけた。そのあと少し雑談をした。

「へえ、先生とぼくは同い年なんですね。えっと、関係ないですけど、先生の目ってすごく大きいですよね」、「私、子どものころから、『ネコみたいな目』っていわれてるんです」

「ネコかあ。うらやましいな。ぼくなんて、目は細いし、焦点は合ってないし……」和也の左目は、斜視だった。「それに、頭は悪いし、デブだし、背も低い」私は思わず吹きだした。

たしかに、目の前の男性は小太りで足が短い。お世辞にもかっこいいとはいえない。

だけど、和也は自然体で気取ったところがまったくなかった。私は、そんな和也に好意をもった。

そして、付き合いがはじまり、出逢ってから二年後の二十六歳のときに結婚した。

その翌年、妊娠した。「あなた、今日、先生から、『赤ちゃんは女の子です』っていわれたわ。

私ね、『えにし』と名づけたいのよ」

「えにし?」

「そう。縁(えん)とかいて、『えにし』と読むの。大切な人と強い絆を結んでほしいという意味よ」

「小坂えにしか。ちょっと変わってるけど、いい名前だと思う」

和也が私のお腹をなでる。「えにし。パパに似たらだめだよ。ママのような大きな目のかわいい女の子になってね」

和也は微笑んだ。その笑顔をみたとき、私は和也が優しい父親になると確信した。
私はお腹が大きくなってからも、自分の意志で仕事を続けた。

和也は、何度も、「ゆっくり休んだほうがいい」といった。

そして、妊娠三十三週目(九ヶ月)に入ったとき、激しい陣痛におそわれた。私はすぐに和也の車で病院にむかった。五時間後に赤ちゃんが産まれた。

だけど……。私が抱いたえにしは息をしていなかった。私は目の前が真っ暗になった。

そして、自分を責めて、責めて、責めぬいた。(全部、私のせいだ。私かもっとはやく仕事を休んでいたら、えにしのことを第一に考えた生活を送っていたら、絶対、こんなことにはならなかった……)

それから、私は赤ちゃんを産むのが怖くなった。その気持ちに呼応するように妊娠の兆候もなくなった。

病院の先生は、「体に問題はないと思います。心が妊娠を拒否しているのかもしれません」といった。

月日が流れていく。結婚して十年が過ぎ、私たちは三十六歳になった。私はえにしが死んでからずっと闇の中にいる。笑うこともあまりなくなった。

和也はそんな私を優しく見守り続けてくれた。(私たちに子どもがいたら、和也は理想の父親になっていたにちがいない……)私は和也に対して心から申し訳なく思った。

さらに時間が経った。二人は四十歳をむかえた。

私自身、もう赤ちゃんを産むことはできないだろう……。

私は人生の半ばに立って、和也と自分の将来を考えてみた。和也は子どもが欲しかったはずだ。

だけど、縁(えにし)が死んでからは、決して、そのことばを囗にしなかった。

私は充分、和也によくしてもらった。

こんどは、私が和也の幸せに目をむける番かもしれない……。

「別居?」私の提案に和也の顔が強張った。

私は正直に全てを話した。和也は、「子どもがいなく てもかまわない」、「責任など感じなくてもいい」といった。

だけど、私の意志はかわらなかった。 「私たち、一度、一人になってこれからのことを考えた方がいいと思うの。あなたも新しい未来がみえるかもしれないわ」  

六月十日。私は最低限の荷物をもって家をでた。引っ越し先は二間のアパート。幼稚園には自転車で通うことにした。そして、和也とは、月に一度会うことになった。

三ヶ月が経った。九月十二日午後七時。私が自転車でアパートに帰ってくると、となりの一軒家から子どもの笑い声がきこえた。正面の窓があいている。

「パパ、ちゃんと写真とった?」

「ああ。いま、ブログにアップするからな、ネコちゃん、みんな、いい人に飼ってもらえたらいいね」

背伸びして家のなかをみる。十歳ぐらいの男の子が小さなネコを五匹抱いていた。

(里親さがし、かな?)私はアパートの部屋にもどってパソコンを ひらいた。ネコのブログを検索すると、「猫・五匹・里親」というキーワードで、あのネコたちの写真がヒットした。

ブログのタイトルは、『シロとチャコの日常』だった。シロがお父さんでチャコがお母さんだ。五匹のネコはひと月前に誕生していた。みんな、白に茶色の模様がはいっている。

(あ……)私は一匹のネコに目を奪われた。このネコは茶色の模様が体にしかない。顔は真っ白だ。そして、左目が斜視だった……。

それから、私は、毎日、『シロとチャコの日常』をみるようになった。五匹のネコの里親は、次つぎと決まっていった。ネコが家を去るたびに一つ写真が消えた。

だけど、顔が真っ白で斜視のネコだけは、いつまで経っても里親が決まらなかった。

11月15日午後6時。私は喫茶店で和也 と話している。別居して五ヶ月が過ぎた。外は激しい雨がふっている。

「あなた、最近変わったことあった?」

「何もない。いっとくけど新しい未来なんてありえないから。美保、はやく戻ってこいよ」

私は返事をせずに、窓越しに雨をながめた。

和也と別れてレインコートを着る。自転車で走りだすと吐く息が白かった。十分後。アパートに到着した。

軒下でレインコートを脱いでいると、となりの家から男の子が自転車を押してでてきた。その目に涙がうかんでいる。前かごに入れたバッグのファスナーが少しあいている。そこから白い子ネコの顔がみえた。

(まさか……)男の子の自転車が走りだす。私はもうI度自転車にのってあとを追いかけた。

ニキロほど走ったところで男の子は自転車をおりた。目の前に大きな公園がある。男の子がバッグをかかえて中に入っていく。私は見つからないようについていった。

男の子は、何度もためらったすえに、樫の木の根元にバッグをおいた。

そして、「ごめん。ごめん!」と叫ぶと、きびすをかえして駆けだした。男の子がすぐそばを走りぬける。私は、その姿がみえなくなってから外灯に照らされたバッグに近づいていった。

横なぐりの雨のなかで、小さなネコがバッグから顔をだしていた。左目の焦点が合っていない。

このネコは、斜視だったから里親がみつからなかったのだろう。ネコの細い体がふるえている。見開いた目がうるんでいる。私はこんなに悲しい表情をしている生き物をはじめてみた。

バッグの前に座ってネコを抱きあげる。「ネコちゃん、泣かないで。もう大丈夫だから。私が、ずっと、ずっと、守ってあげる」

この日から、私は、ネコと暮らすようになった。アパートはペットを飼ってはいけない。引っ越しも考えたけど、ネコはほとんど鳴かなかった。

「今日は本物のお魚よ。たくさん食べてね」ネコと共同生活をはじめて一週間後の夜。私は手のひらにのせたシヤケをネコにさしだした。ネコと視線があう。大きな瞳。

だけど、和也と同じように左目の焦点かすれている。「ネコちゃん。じつはね、私の旦那さんの目もあなたと一緒なのよ」そのとき、頭のなかで、「会・わ・せ・て」 という声がきこえた……。

11月25日、午後七時。私はネコを紹介するために、和也をアパートにつれてきた。部屋に入ると目の前でネコが出迎えてくれた。和也がネコを抱きあげる。

「すっごくかわいいな。あ、ネコの左目、焦点が合ってない。それに目が大きくてクリッとしてる。ぽくと美保にそっくりだ」

あらためてネコをみる。たしかに、このネコは二人の特徴を合わせもっている。私たちの赤ちゃんみたいだ。「名前は?」

「最初に、『ネコちゃん』つてよんで、いまもそのままなのよ」「それじゃ、『えにし』にしよう」私は息がつまった……。
和也はネコに頬ずりしながら、えにしお帰り。パパとママでちゅよ」といった。

ネコがのどをならしながら私のほうをみる。(た・だ・い・ま)また、頭のなかで声がした。(ママ……。あたしは、ママのことが大好きだよ。だから、あたしのことで、もう苦しまないで。これ以上、自分を責めないで)

幻聴?いや、ちがう。これは、えにしの声だ。えにしがネコの姿をかりて私の心に語りかけているんだ。

(あたし、ママの赤ちゃんでよかった……。すごく幸せだった)その瞬間、視界がゆがんだ。涙があふれでた。

私は、ずっと、えにしから恨まれていると思っていた。それが、いま、えにしは、「幸せだった」といってくれた。そのことばだけで救われる。心の闇が晴れていく。

(あたし、ひとつお願いがあるの……。ママ、赤ちゃんを産んで)赤ちゃん?(ママは子どもが大好きでしょ。赤ちゃんができたら、ママとパパはもっと幸せになれる。だから、ママ、赤ちゃんを産んで)

和也の腕のなかで、ネコが目を細めて微笑んでいる。その姿をみたとき、すべてがわかった。

えにしは、私と和也の絆を結びなおすために帰ってきてくれたんだ。

胸に手をあてる。不思議なことに、妊娠に対する恐怖が消えていた。

いまの私なら、高齢出産のリスクも乗りこえられるだろう。

私は、和也の正面に立った。[あなた、いろいろごめんなさい……]ひと呼吸おいて、しっかり視線をあわせる。

「もう一度、私と暮らしてもらえますか?」和也は、「当たり前だ。美保のことはぼくが守り続ける。どんなときも一緒だ」といった。

そのことばをきいて胸があつくなった。「和也……。ありがとう」私はありったけの愛情をこめていった。そして、両手を広げて、力いっぱい和也を抱きしめた。

☆ブログとしては長文でしたが、お読みいただきありがとうございます。

子どもがいても夫婦で諍(いさか)いをして暮らす家庭もあり、子どもがいなくても別な事に使命感をもって生きる夫婦もおります。

流産や死産や不妊というできごとは女性にとって大変な肉体的負担と責任感をいだかせ、苦しみともなることを、特に男性諸氏は知っておかなくてはならない。

このような時こそ文中の和也さんのように妻の心中を察して思い遣り、優しく支えなければならないのが夫の役目ではなかろうか。

特に不妊治療の場合は、女性にかかる肉体的、精神的負担は男性の比ではなく、葛藤のなかで長期にわたって耐えなければならず、苦しみ以外の何ものでもない。

費用も大きな金額であり、結果的に妊娠できないとなったときに、お金をかけたのに、という自責の念が心を窮屈に追いやる場合もあるだろう。

夫婦の縁(えにし)は、単なる偶然によって結ばれたのではなく、深奥の部分ではお互いがこの世に誕生する以前に天上界において約束していたことなのである。

それも、すべては相互の心(魂)の向上という大きな目的のために、お互いの契によって為された約束を地上で果たしたということだ。

心(魂)の向上という人生のためには、自分だけの都合だけで離婚してはならず、どうすることが二人の人生にとって最善の道であるかを深く考える必要があるだろう。

二人の出会いから始まった愛を、その時の自分勝手な都合で失ってはならないのである。

その意味では、パートナーが望む、共に暮らす生活に応えることも愛であろう。

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