罰は神仏が与えるのではない
ご利益があるとする宗教、これほど危険な宗教もなく、こういった宗教は営利主義、教祖、指導者の言行不一致が横行している。
宗教に入信するきっかけは人それぞれのようですが、病気をきっかけに誘われて入信する人、知人が入信していて誘われるケース、布教活動の勧誘から、親が信者だから、ご利益があると言われて、悩み苦しみがあって、自ら信仰を求めて、等々さまざまである。
私は、これまで間違った宗教に入信している人たちの相談に乗ることで脱会もさせてきた。
かといって、私自身は一切の宗派宗教、個人、団体に属しているわけではないし、宗教を立ち上げる気持ちもまったくない。
敢えて、このようなことを述べるのは、相談者によく聞かれるからです。
「脱会させて新しい宗教に誘うのですか?」
「どうして、こんなに親切にしてくださるのですか?」
「なぜお金を受け取らずに無料なのですか?」
「あとから多額のお金を請求することはありませんか」と。
経済至上主義の社会構造ですから、お金の多寡によって物事を推し量る感覚も理解はできるのですが、お金以外のところにも尊い意義があることを忘れてはならないでしょう。
カウンセリングを始めて10年ほどになりますが、一円のお金も頂いたことはない。
何故、宗教団体からの脱会を奨めるのかとなると、入信していても心の苦悩が無くなっていないどころか、かえって心を乱した生活をしているということと、金銭的負担を強いられているということ、本人がその宗教と団体に疑問を抱いているからだ。
人々の心の安息と正しく生きるための教えであるべきものが宗教の為の宗教であってはならず、決して教祖、幹部指導者のための利益のためであってはならない。
なかには結構な金額で被害に遭っている者たちもいる。
カウンセリングによって、実際に、その宗教を脱会して自立心が育ってくることによって、これまでより心に安息を得て穏やかに生活できているのである。
これまで関わってきた宗教に疑問を持ちながらも、多くは仏罰、神罰を恐れ、教団内の同士からの嫌がらせや脅迫を恐れている場合も多く、そのマインドコントロールを解くことがポイントになってくる。
他力依存を捨て自力・自立心養うために
人生という旅における、苦しみの根を断つには、肉体の付属品である眼、耳、鼻、舌、身、五官と意識が加わった六根が迷いを造り出すということを明らかにする必要がある。
私たちの内面、深奥にある心、表面的には良心として誰にも備わっている肉体の主(あるじ)である魂・意識の中心、正しい偏らない″心“に間うことが最も重要。
それには、この人生における諸々の出来事、問題、現象を、偏りなく、正しく判断するため、客観的、第三者的な立場に立って、自分自身を省みることが必要だ。
人間の心は、本能に偏っても判断を誤り、感情に走っても冷静な判断を見失ってしまうし、知性に偏りすぎると、理屈っぽくなり、柔和な表情さえもなくなってしまう。
かといって、理性に傾きすぎると、非常に冷徹、暖かみのない人間性となってしまうが、バランスの取れた心づくりをすることは知識ではない、行うことによってのみ成されるものである。
私達が、不調和(足ることを忘れた生活、不満、愚痴、怒り)な想いの曇りをとり除くためには、反省して、その原因を究明して、同じ誤りをおかさない生活をすることが大事である。
肉体五官に囚われ、他人の言動に執着し、物に拘り、自身の内面を疎(おろそ)かにする盲目的な生き方をしている私達に対して、反省はむしろ、人間だけが天から与えられた大きな慈悲だといえよう。
瞑想的な反省、即ち悔い改めることは、心の曇りをとり除き、その心が調和された光によっておおわれるため、自身の霊囲気は精妙になり、安らぎの境地にいたるものだ。
人間は、それぞれの生活の過程において、人生の無情さや哀れさ、悲しさに直面し、日常生活で反省する機会を仕組まれている。
夜があることで休息があり、昼の働きができるし、闇があることで光りの存在に感謝せずにはいられない。
親しい人との死別、社会の矛盾、病気、どうにもならない運命のいたずら、生きているためのむなしい努力など、人間は、あらゆる苦しみをとおして、反省の機会を求められる。
それは、苦しみの原因をとり除くことが重要だからだ。
広い、豊かな丸い心を造り上げ、人間は皆、神の子である自覚が芽生えたとき、次元の異なったあの世の天使達は、私達に称賛の喜びを与えてくれるのである。
人間は、何のために生まれ、何のために苦楽を体験し、何で死んで行くのか、そして、死後の世界は、と誰でも疑問を持っているだろう。
その疑問から、人生を正しく生きようと、過去の誤まった考え方や生活の在り方を心のなかで反省し始める。
心の調和度にもよるが、そのとき、私達に潜在されている意識の扉は開かれ、私達は過去の世で学んだ何割かの体験を思い出す場合もある。
そして、偏りのない正しい心の判断にもとづいた日々の生活努力がなされたとき、自らのなかからひとりよがりの心は消え、人類は皆兄弟だと悟り、国境も人種の別も魂には存在しないのだと偉大な慈愛の力に、私達の霊囲気は高まっていく。
自ら、中道を踏みはずしてきたこれまでの生き方、欠点の修正を、勇気をもってしたとき、心は浄化され、さらに光明に満たされて行くのである。
これはうつ病や、パニック障害、摂食障害、その他の精神的疾患の場合も同じで、これまでの心の癖、傾向性である拘(こだわ)り、囚われ、執着、頑な、これらを捨てたときに初めて新たな決心がうまれ回復に向かい始めるのである。
過去を引きずることをやめ、先の事を憂えず、歩く決心一つさえあれば必ず立ち直ることができるものだ。
心の浄化が進むにつれて、守護霊や指導霊や、あの世の縁者達は、私達の更なる魂の進化への努力に対し、互いに協力して直感、霊感を与えたり、直接語りかけて、人生の指針を正しく教えてくれる。
指導霊は、私たちが正しく志をもって努力をするとき、新しい人生の学習に対して教え導き、その心に、自ら悟り得る光明の道を開いてくれ、より良い方向に正すための協力を惜しまないのである。
逆に、自己保存や自我我欲、増上慢などが、その心に芽生えると、暗い霊囲気に自らの心がおおわれてしまうため、指導霊や守護霊達は波長が合わず、ただ傍観するしかなく、協力することができない。
それどころか、地獄霊や動物霊、果ては邪悪な者たちに、その心を犯されてしまうことになる。私達の心の動きは、そのように、善悪いずれにも変わりやすいものだ。
正しい心の土台となる法則をしっかりと知らなくてはならないのはそのためだ。
いまの世界を見てもわかるように、権力者が国を支配し、民衆は奴隷と化し、扇動され、殺戮が繰り返されている。
人間は、判断する心の物差しを完全に見失い、自ら混乱して、不調和な社会を造り出して行く。
そうした不調和な種は、結局自ら刈りとらなくてはならないものだ。
この世で刈りとらなければ、きびしい地獄でその不調和な心の修正を果たさなくてはならないことになる。
自分は大丈夫だと思っている人、他人事のように思っている人ほど気を付けて自分を省みてみる必要があるでしょう。
地獄界に行く決定も、閻魔様がいて振り分けるのではない、神が裁きを下すのではない。
『人間は死後に裁きをうける』と街宣している布教もありますが、言葉としては誤解を与えかねないものであり正しくない。
私たちの死後は、自分の善なる心が、自らの人生での心の在り方と行為を裁くのだ。
つまり、自らを自らが裁くということは、自分の心の状態、境涯、境地の状況に準じた段階に居住することを意味するのであって、それは公正無比な判断となっているのである。
この地上における裁判は、人間が人間のつくり出した法律によって他人を裁いているが、裁判官の考え方や、思想的な背景、個人的感情もその判決には出てくるだろう。
しかし本来、厳密にいえば人間が人間を裁くことはできない。なぜなら、被告の身柄拘束という、肉体的な行動は制限できても、心の束縛はできないからだ。
例えば、約2000年前に愛を説いたイエスキリストは十字架の上で処刑されたが、肉体は拘束して処刑できても彼の魂まで縛ることは適わなかった事実をみてもわかるだろう。
人間というもの、心は、自らの想念によって、良くも悪くも自由自在に変えられる。
しかし、中道という天の法則、宇宙のルールを踏みはずした人間の心は、自らして心の苦しみを造ってしまう。
特定な宗教家達は、罰が当たるといって、信者の心に足枷(あしかせ)をはめ、教団組織の細胞に仕立てて自由に操っている。
神仏は、絶対に罰など与えはしない。人間に罰を与えるという幼稚な発想は利益をもくろむ者たちの身勝手な呪縛の方便にしか過ぎない。
罰は、不安感や、恐怖心と、自らの心と行ないが造り出している、ということを忘れてはならないだろう。
間違った教義を、欲深き人々に押しつけて悪用している指導者は、自らの心のなかに大きな疑問を持っているはずだ。
他人は欺(あざむ)くことができても自分の良心を偽ることはできないからである。そういう人間としての心に蓋(ふた)をしたままあの世に逝って自分を裁き、闇に堕ちることになる。
信者もまた、教団の教義に対して疑問を持てば罰が当たる、と思い、ますます自分の心の領域を小さくし、豊かな心を失って、教団内の見栄や嫉妬、驕り、のままに翻弄され帰幽することになれば行く末は解るだろう。
教団内において解けないような疑問ならそこには真の教えがないからであろう。
題目や経文をあげれば救われる、などとカンフル剤でも打つように脳細胞を狂わしても、心の安らぎなど得られはしないのだ。
その時だけの気休め的な読経に時間を費やすことの愚かに気づかなくてはならない。
自らの心の尊厳性を悟ったときは、迷っていたそんな自分を哀れに思うはずだ。
私たちが映画のスクリーンに映っているストーリーの内容を見るように、この地上界のきびしい生活を生まれてくるときまでは、あの世の霊界において、十分に知っていたはずなのに、成長するに従って迷妄の人生を送り、自ら苦しみを造り出してしまう人々が多い。
執着し、拘りを捨てることがでずに、丸い豊かな心に歪みを造り、傷だらけの人生を送ってしまう人々が多いのである。
それゆえに、走ることだけでなく、歩を止めて足跡を省みること、三歩進んだら一歩下がって、自分の心と行ないを反省し、苦しみの種を蒔かない生き方をすることが肝要だ。
反省は、自分の心のに内在された偉大な智慧の泉を掘り起こすということになるだろう。
私達の心のなかには、次元を超えたあの世の世界から、その人の心が求める質と量に比例した、あらゆる智慧を貸してくれる指導霊達の存在がある。
反省は、自分を改めて見なおす、意識の転換作用といえよう。
自分を改めて見なおすということは、自分を客観的に見ることであり、そこには、自我の存在があってはならない。自己都合の私心があってはならない。
客観的に見ると、自分の欠点や長所がはっきりと出てくるが、その欠点を改めることが、もっとも大切なことなのである。
そして、心の癖、心の傾向性、の根をとり去ることだ。
心の改善基準と方法は(心眼を開く・偏見からの脱却)を参照。
また、自分を客観的にみつめているときは、私達の守護、指導霊も同時に見ている。
私達の心のなかには、真実と偽りとが同居しているが、反省によって、偽りの暗い曇りを消し去る、そのことが反省の大きなメリットであろう。
欠点の根が除外されるに従って、私達は、悟りへの一歩を印したことになるのです。
そして悟りの段階が進むに従って、通常に能力以上の力が、私達の心のなかに湧き出てくる。そして、自由な心を得て、執着から離れ、生死を超えた大悟を得ることができるようになるのである。
人間は、決して孤独ではない。
心の世界、次元の異なった世界には、私達の魂の縁者、兄弟たち、友人達がいて、常に地上の人たちを見守っていてくれる。そのことを忘れてはならないだろう。
肉体の五官煩悩も、このような境地になれば、やがて消滅し、自ら悟り、愛と慈悲の溢れた人間になることができるのである。
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