「神」という存在の定義・捉え方

念仏

宗教を持たなければ不幸か

科学万能の時代とは言いながら、私たちの心の支えとして、神仏の信仰は間違ったものであっても日常生活の中に取り入れられて存在している。

特に、日本の仏教における先祖供養という儀式は朝夕の行事として、広く民衆の生活の中に溶け込んでいるといえるのだが、霊的に観ると決して額面通りにはなっていないだろう。

宗派によって題目はちがっていても、儀式化された勤行の姿は変わっていないようだ。

はたして勤行で先祖たちが本当に救済されるのであろうか?

「先祖供養をしっかり朝夕欠かさずに行っています」と胸を張って豪語していた相談者が子どもの不登校で悩んでいた。

この親御さんは子どもが自分の思い通りにいかないことに腹を立て、子供にきつく当たって感情的になることが度々あるという。

親のエゴで感情に走り、心を不調和にしている人間が、先祖供養と称して形ばかりの勤行をしているだけでなく、自分の子どもの心まで歪ませてしまって右往左往している。

このようなことは決して他人ごとではなく、珍しいことではないというところに問題があるのではないだろうか。

日頃の子育ての姿と、形式的信仰の姿は矛盾も甚(はなは)だしい。

神道は「祝詞」を神前であげ、礼拝をしている。

神社、仏閣、教会にお詣りにいく者こそ、信仰深い者ということになっている。

しかし、多くの信仰深い人々も、決して神仏の真の意図を理解することもなく、古来の習慣と伝統として信仰生活をしているようであるが、真の信仰という観点からすればまだまだ未熟な信仰スタイルといえるのではないだろうか。

それでは

ほんとうに神社に神がいるのだろうか?

ほんとうに仏閣に仏がいるのだろうか?

否である。

神と祭り、拝んでいる社殿に真の神が座すのではない。

仏と祭り、拝んでいる仏閣に真の仏が座すのではない。

教団や教祖、指導者たちの作為的な教導に疑問をもちながらも、神罰、仏罰を恐れ、ご利益や力が無くなるのではないかなどと怯(おび)えた生活をして精神疾患者となり、失職する信者もいるのである。

うつ病だと言って相談にみえた若い女性。

ある霊能者の自宅にある祭壇に向かって般若心経を何巻も唱えるうつ病患を患う若い女性の姿は、異様なほど不気味なイメージが浮かび上がってくる。

しかし、このような状況は10年も続いているが、憑依されて変わる人格は、己自身に問題があることを彼女自身も気づけず、家族も気づけなかったのだ。

私は言った。「いつまでも依存して霊能者宅に出入りすることをやめて、正しい生き方を学びなさい」と。

人々は誰もが幸福な人生を送りたいと願い、信仰はそのためと思っている方々が多いようですが、霊能者の祈祷や除霊に依存し、神社に詣でて神官に祈祷してもらう人たちも多い。

しかし、神社の霊域の清浄は宮司の霊格と志、言動で決まると言っても過言ではなく、仏閣の霊域の清浄は住職の霊格、志、言動によって決まると言っても過言ではないことを知っていただきたい。

神社だから、神を祀っているから清浄だとはいいきれるものではありませんし、非常に低い霊波動の神社や仏閣も多いのです。

むしろ危険で邪悪な霊がたむろしている神社仏閣もあります。

実際に〇〇の神社に赤ちゃんをつれて誕生の報告に行ってから毎晩夜泣きが始まり、ひきつけをおこしそうに泣いて困っているという若いお母さんがいたが、きれいに浄化をしてあげた晩からはこれまでのようにスヤスヤと眠っているという。

このようにさまざまな形で神社や仏閣に関わっていますが、寺院や教会で、お坊さんや牧師の説法を聞き、心の糧として生活している信仰者もある。

なかには神を求め、仏を求め、厳しい修行に耐えて、神々の声を聴いたという者もいる。

はたしてそれはどのような神なのか、仏なのか。

人々が信仰し、思っている神といっても、その実態はまことに不確実、不確かなものが多く、神と呼べるようなものではない存在が多い。

故に、神社で祀る神は大宇宙、森羅万象を創造した唯一の存在であるgodではなく、人間が作った人間の上の上(かみ)といえるだろう。

心の光

 

間違った信仰

特定の宗教に属さず、従来の因習にとらわれず、中には崇高な志を以って衆生済度に立ち上がり、人々の苦悩に耳を傾ける人間もいます。

私たちの周囲をみると、こうした数えきれない信仰のさまざまな姿が雑居しています。

だが、正しい信仰もわからぬままに、その険しい人生経験を積んでいる人たちが意外と多いものだ。

神を信仰する者

仏を信仰する者

教祖を信仰する者、させる者

信仰の場に登場する神とはどのような神なのか。

どのような仏なのか。

その実態は甚だ不可解な信仰も多いということを多くの相談者から知ることができる。

たとえば、信仰者となったがために、心に足枷をはめられ、神仏の裁きや罰を恐れ、霊能者や宗教指導者の奴隷になっている人々、これは計り知れない膨大な数だろうと推測される。

ある霊能者は弘法大使の言葉は絶対であり、それに従わなければならないと言って人を扇動し、支配下におき、自由に人心を操っている話しをかつての信者から聞かされた。

その霊能者の言う言葉には、無知と故意から来る矛盾があふれていた。

このようなケースは信者も盲信的で無知なら、指導者もまた故意であり、無知といえよう。

こうして宗教指導者が故意にそれをやっていたにしても、やがてその苦悩の反作用がその指導者、信者に戻ってくることになる。

そして信者も、宗教指導者も、霊能者も、調和のとれた心豊かな人生は歩めないだろう。

無知ゆえに心の仕組みを知らず、間違ったことを指導し扇動する霊能者や教団指導者は実に多い。

だが、真実の法則を知るならば、無知や、故意による扇動、間違った教導の罪がいかなるものかがわかり、良心が働くならば他の人びとにそれを求めることができなくなるはずである。

したがって、間違った指導者ほど救い難くなり、常人の罪より一層深いものとなるであろう。

神はひとつ

神理真理であり、ひとつであり、それは正しき心と行ないの物差しに沿った生活しかないということを、指導者も信者も知らなくてはならない。

そして、その中から豊かな心と安らぎある生活が生まれ、真実の人間に立ちかえるということだ。

真の神仏

真の神は、人間社会の物質経済の高低によって、その人を差別したり、地位や名誉で人間の価値を定めることはしないのが唯一の神の意識であり、愛であり、慈しみであろう。

人間自身が差別をし、階級を作り、信者間の競争意識をあおり、それをやっているのである。

これは教団信仰のなかにも現実に存在している。

まともなような法を説き、教祖として崇めるように仕向け、金を寄進させ、金銭によって階級を与えている有名な教団は多い。

私たちは、いかにして万物の霊長であるという自覚に目覚め、正しい中道の心を生活の中に活かすか、そうして、万生万物相互の調和を図り、悔いのない人生を送っているかということが大事であり、信心信仰も、ここに帰一されるものでなければならないだろう。

巷には神と称するさまざまな神(?)が存在し、信者を集めている。

だが、神は人間社会に、ストレートに現われるものでは決してない。

しかし、神の言葉だ、神のお告げだ、と、こうした誤った信仰によって、幸福を求めながら不幸に陥っている人が非常に多いことを聞き、見てきた。

信仰は通常、私たちの五官では感じることのできない心の世界だけに、よほど疑問を以って臨む必要がある。

人間社会で語られている「神」といわれるものはいったい何を指していうのだろうか。どのような存在をいっているのであろうか。

このことは、この地上の3次元的視点や価値観で4次元以上、超次元の存在を語り切ることは困難なことですが、ありとあらゆるものに内在する生命エネルギー、大宇宙に無限に遍満する意識エネルギーと表現し、これを「神」と語るしかない。

もう少し表現を変えるならば、「神」とは大宇宙・大自然の摂理と言えるだろう。

しかし、これだけの言葉で「神」といわれてもはたしてどれだけ理解し、納得できるのかとなると甚だ心もとない。

それでは何故、大宇宙の法則と表現するのか。

私たちの生存を可能にしているこの地球然りですが、先ず太陽系に目を向けてみてほしい。

太陽系

太陽を中心にして、最も太陽に近い水星から、金星、地球、地球の惑星として月が存在し、次いで火星、木星、土星、天王星、海王星、太陽系外縁天体、彗星、小惑星群と主だった太陽の惑星だけでもこれだけの星が宇宙存在の超原始から今日まで、一糸乱れぬ法則という秩序によって運行循環し、存在しているのである。

この存在はそのまま摂理であり、統合された意識が背景にあるとしなければ説明できない営みといえるのではないだろうか。

人類はこの摂理、秩序のなかで生かされています。

これを天文科学者や自然科学者、物理科学者たちは科学と表現しているのである。

科学と大宇宙を統べる根本的意識であるところの「神」とは何ら異次元の存在でも分野でもなく、ただ表現の違いでしかなく、科学も神も根底にあるものは摂理という真理でしかない。

生命のすべては、この地上における3次元的物質界のものと、4次元的な霊界のものがあるのですが、どちらの生命もみな、背後には創造的エネルギーが控えてこそ可能なのであります。

創造的なエネルギーとは、私たちの魂の表面意識ではなく、中心に位置する意識のことであり、この意識はそのまま調和された愛となって自他を生かす働きとなるものです。

この愛こそが私たちの魂の中心にいただいた神からの分霊、すなわち分け御霊といえるのであります。

この分け御霊は完全なる愛であり、完全なる叡智です。

こういった愛という創造的エネルギーが全宇宙のすみずみまで行きわたっているのです。

私たち人間が知り得た限りのほんのわずかなことであろうと、まだこの地上物質の世界には明らかにかされていないものであろうと、それは同じように神の意識のよって創造された存在であるということです。

私たちの身の回りにあるあらゆる生命体にもこの創造的エネルギーが充満しています。

動物、植物、鉱物と、あらゆる存在にこの創造的エネルギーが内在しています。

そして、あらゆる法則の中にも秩序として、摂理として創造的エネルギーである神のエネルギーが内在しているのである。

創造的エネルギーは生命であり、愛であり、全てであります。

人間が神を超えることができない者という意味において、私たちは従う立場であることは明白でありますが、その人類がどうして神の存在を表現しきれるであろうか?

日頃の生活においてさえもとても小さな価値観に拘り、執着して生きているような小さな概念しか抱けない人類が、どうして大宇宙に遍満する意識としての存在を表現できるだろうか。

私たち人間が感知しえることには限界があります。

それは肉体を持った存在であるが故です。

しかし、人間と違って、大宇宙を創造し、統(す)べる存在である「神」には限界がない。

勿論、人類一人一人の全てを感知し把握していると言ってもよいだろう。

何故なら、神と人間は別な存在ではなく、人間の魂は、分け御霊として分霊しただけであって、我々人間に肉眼では確認できなくても、私たちの魂は大宇宙の唯一の存在とつながっているのである。

あなたは神と人間がつながっていることを否定するだろうか。

パソコンを有線で接続するか、無線ランで接続するかだけで、どちらもネット回線と接続されて機能していることには変わりがないであろう。

人間の魂は4次元以上の存在ではあるが、3次元的肉体をもって地上生命を旅する学徒である。

肉眼で見えない霊線で神とつながっているからこそ、神は私たち人類を掌握しているのだということがいえるのです。

しかし、人間は肉体の五官に左右されやすく、執着しやすく、翻弄されやすいものでもあります。

いかに神の子とはいっても、地上生活において心を乱し、翻弄された生き方をしたものは、死後は、次元の低い境涯と環境でしかスタートできないのである。

創造的エネルギー、それは木の葉の輝きであり、大地に咲く草花の姿であり、風であり、山であり、川であり、海であり、雨となって大地を潤し循環する水であろう。

水は温度の影響によって気体となり、氷となり、雪となり、また水となり、液体、気体、個体と三態を繰り返し創造的宇宙意識の働きに沿って循環し、他の生命を生かしている。

この地上界の一切、4次元すなわち霊界の一切、大宇宙間のもの一切、そして私たち人類が解明していな世界のすべてを通じて神の法則が絶対的に支配しているといえるだろう。

この法則から離れては何一つ生まれうこともなく、存在することもできないであろう。

神はあらゆるものの中に存在し、全ての存在の根本的な源である。

したがって、神は、愛のなかにも、憎しみをもつ者のなかにも存在するのです。

しかし、これは魂のなかに愛が存在し、憎しみも存在するという意味であって、憎しみそのものに神があり、愛があるということではない。

ご存知のように、地上では間違ったことを為すもの、悪を為す者、正しいことを為す者、人に愛を施す者がおります。

これらすべての人間は、善悪に如何によらず、平等に、神の恩寵(おんちょう・恵み、慈しみ)をいただいている存在であります。

ただ、己の中の神性仏性を信じて心の調和を心掛けて生きるのか、己の表面的意識、肉体五官に左右されてエゴのままに生きるのかで人生の価値が異なったものとなるのである。

人間は大宇宙の摂理の中で同じように活かされていながら、戦争と憎しみを煽動(せんどう)する者がいる一方で、平和と愛を実践するする者とがいます。

これは何故だろうか。

知性、叡智、愛、慈しみに富む者と、未熟な者の違いであろう。

このように心豊かな者がいる一方に未熟なる者がいます。

しかし、この未熟なる者のなかにもその魂の中心には、神性仏性の種をいただいているのである。

もうお気づきでしょう。心豊かなる者は、未熟な者から成長していくものであろう。

未熟な者を愚弄(ぐろう)してはならない。

あなたも成長したのです。

子を責めてはいけません。

あなたが歩いてきた道です。

老いた人を馬鹿にしてはなりません。

あなたが行く道です。

万象万物、生命の旅路は進化向上です。

成長する過程は苦しみが伴い、葛藤のなかで向上するのである。

成長は心を広く大きくします。

心は器です。

器の大きい人間になるべくこの地上に生命をいただいたのである。

人類が善だとか悪だとか言っているのは、その人生航路における途中の段階の高い低いの表現に過ぎず、人生航路の終着点ではない。

そして、私たちがいう善悪は、まことに未熟な私たちの判断によって語られる段階であって、実際には善も悪も高低があるというのが現実ではなかろうか。

神を語るときにいつも湧き出す疑問、それはさまざな事象に対してもたれます。

平成23年(2011年3月11日)の東日本、三陸沖の地震と津波災害などにみる大惨事は、老いたものが生き残り、孫子を失い、若い夫婦を飲み込むなど、人々の心に「神も仏もないのか」とさえ、やり場のない言葉を言わせました。

地震、雷、大雨、竜巻、津波、こうした現象が地上の人間の冷静な理解力を惑わしていることはよく承知するところであります。

だが、こういった人命を失わしめる転変地変も大宇宙を統べる意識の働きのなかで発生しているものの現象だということです。

しかし、良いことだけ欲しがり、都合の悪いことは神を呪うというわけにはいかないであろう。

むしろ、都合の悪いことのなかにこそ魂の成長を促す大きな過程があると言える。

大宇宙の他の天体、生命体は、私たち人類の魂が進化するように、そして動物、植物、鉱物が常に循環しながら進歩をするように、そこに生を営むすべての存在が進化するようにやはり進化しているのである。

特に、この3次元、物質界は高次からほど遠い存在であり、これからもまだまだ進化して行くのである。

人間にとって都合の悪い転変地変は人類に悲しみをもたらしますが、しかし、成長、進化というものは現象だけをみれば悲しみとしかいえないときもあるであろう。

悲しみ、転変地変、生老病死、これらはみな悲しみを伴うものですが、「顕われ方」の違いだけであり、進化のプロセスであるということがいえるのであります。

最近、太平洋で海底噴火が発生し新たに日本の島が形成されつつあるように、地球も生きているからこそ山が噴火し、海底火山が噴火します。

地震や雷などの天変地異はその進化の証でもあるといえるだろう。

私たち人類は、地球号という宇宙船にのって魂の向上のために輪廻しているということだ。

恩恵だけを受け取って、都合の悪い転変地変には牙をむいて呪いの言葉をあびせるというわけにはいかないはずです。

もともと地球は宇宙の小さな物質が集積して塊り、火の玉状態となり、水に覆われ、緑と大地がハッキリと形作られてきたのである。

私の日課である夏も冬も欠かさぬ毎朝のウオーキングでみられるすがすがしい朝日の美しさ、白銀の夕日は沈んでいくのにまだ燃えて輝いています。

人生もこのようにありたいと心から思う。

凍てつく夜空に輝く天の川の美しさ、満天の星空は私のふるさとという感情が湧き出て、天に向かい一礼する。

春夏秋冬、季節を感じ、小鳥のさえずりに安らぎを覚え、大宇宙、大自然に感謝の心をもつことはそのまま神に感謝していることになるのです。

その心を持った人間が転変地変、雷雨や嵐や稲妻は神とは関係ないというのでは理不尽であろう。

森羅万象の一切は、循環、輪廻、進化の法則の働きによって生じているのである。

見方によっては、地上で暮らす人間ほど罪深い存在はないかもしれません。

しかしご理解いただきたいのは、私たち人間の一人一人は、それぞれ魂のステージアップ、進化の程度に応じて自由な意思が与えられているということだ。

この自由とは、無限の可能性ということでもあるが、心に執着(不満、愚痴、怒り、嫉み、恨み)があればこの自由意思は狭義なものにしかならず、その働きは非常に限定的であることも知っておかなければならない。

これが人間の魂の仕組みであり、働きである。

霊的なステージを高く上れば上るほど、自由意思を行使できる範囲が広くなります。

つまり今の私たちは、霊的に言えばそこまでが限界ということでもあり、また無限の可能性を内在している魂だということです。

魂をステージアップしていく段階で発生する逆境、困難、試練、障害は、私たち人類が神の分霊であるが故に、これらを克服できるのである。

物質を優先に考えてはいけません。

魂は(心)霊は物質に優ります。

肉体は魂(心)に従うものです。

魂(心)は全てに優ります。

魂は全てを創造する生命であり、生命は魂(心)です。

物質や現象、創造は魂(心)の反映であります。

故に、大宇宙に遍満する天体の一切は宇宙意識(神)の物的現象といえるであろう。

大宇宙に遍満する物的存在、霊的存在、これらは皆、大宇宙を創造し統一する意識によって存在たらしめている。

私たち人間がどれほど知性を備えても、大宇宙を統べる意識と同通し、それを語ることはできない。

まして、神が語っているなどと言葉にできようはずがない。

しかし、私たちの魂の静寂の中で、心が大宇宙と交わり、それを実感できる境地にまで自分の霊性を磨き、高めることはできる。

自分の魂と森羅万象とが決して別の存在ではなく、自分のなかに森羅万象があり、森羅万象のなかにじぶんがあるというように、一つであることを静寂の中で悟ります。

私たちが自分の中にある霊的な存在を自覚するために何が必要であるか、それは物質的肉体を通して、多くの体験をしなければなりません。

それによって物質次元からから霊的存在意識へと進化するのである。

しかし、進化の過程において、私たちの魂は、肉体という物質をまとうことによって、肉体五官による自我を知ることになるということだ。

解りの事と思いますが、眼、耳、鼻、舌、身の五官は、肉体機能として重要な役割を果たしているのではあるが、この感覚によってそれに囚われ、執着するのもまた人間の心の弱点である。

私たち人間の肉体も魂も、大宇宙意識という神の一部であることは変わりないのだが、魂そのものの中心部は神の分霊として完全であるにも関わらず、肉体をもった時点で囚われ、執着することによって不完全な生き方をしなければならないのだ。

だが、私たちの魂が進化するにつれて、より調和された言葉を発するようになり、より人々と調和するようになり、行動が完全なものとなって表れるようになるのである。

古来より変わらないもの、それが大宇宙の摂理、秩序であります。

人類が未熟で不完全であればあるほど地上の平和が脅かされ、地獄の様相を顕現することになるだけです。

しかし、私たちが崇高なステージに向けて魂を進化向上させるにつれて、大宇宙の摂理でる神の意識がより多く私たちを通して働くようになるのである。

私たちの心は丸く大きく光り輝く殊玉であり、周りの状況や相手をよく映し出す鏡でもあります。

鏡が雲という執着に覆われていれば、光の全てを反射することが出来ませんし、周りの状況も自分自身の立場も冷静に、知的に判断する、客観視することなどできないでしょう。

己自身の心の鏡を雲らせないように日頃からよく調えるべく、一日の終わりに自らを省みる習慣をもちたいものである。

私たちの魂が神の意識と同通して本来の輝きを顕わすためには、殊玉を覆っている汚れを落とし、研磨し、手間暇をかけていかなくてはならないでしょう。

人間は事の善悪を学び、それを知っていながらも悪を為し、善をつぶそうともします。

正道から外れた生き方は、自らがそれに気づき、調和を求めなければ同じことを繰り返し、向上することもありません。

執着する者が苦しみ、悩み、人生の奈落を味わっていても、自身がその窮地から脱したいという強い願いがなければ、いかに手を差し伸べてもその手を握ろうとはしないものだ。

愛を以って手を差し伸べる行為の原点はどこから発するのかとなると、それは一つしかない。

自身の魂の中心からであり、魂の中心はそのまま大宇宙の意識、すなわち神のステージであろう。

だがそれにも段階がある。

人間にどれほどのことが創造できようか。

物的建設ではない。科学的建設でもない。

愛の建設、慈しみの人類調和。

の愛は、絶体絶命の境涯で発露されるという側面をもっている。

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医療現場で働く人からのメッセージ

「世界一、医者が好きな日本人」

「とりあえず病院へ」は、医者の“おいしい“お客」

「医者に殺されない47の心得」という著書の紹介を兼ねて上、記のように二回投稿しましたが、この投稿に対してコメントをくださった方のメールを許可をいただきましたので紹介いたします。

こんばんは。OTです。

メールで失礼いたします。

先生のブログ、読ませていただいております。私もアメブロをやっていますが、先生の素晴らしい内容に比べ私のはどうでもいい内容でお恥ずかしい限りです。

今回先生が紹介されている本は私も読みました。

コメントしようと思ったのですが、プライベートな部分で少々問題がありますのでメールを送らせていただきました。

実は私、○○県の某医大にある高次救急センターで医療事務の仕事をしています。

近藤先生の本に書かれてあることを救急センターで日々感じていて、時には医師や看護師に、時には患者さんに憤(いきどお)りを感じています。

私が勤務している一次二次外来は救急車以外で来院する方々を診察しますが、そこも救急であるにもかかわらず緊急性のない患者さんがとても多いのです。

仕事を休めないから、日中は混んでいるから、そんな理由の患者さんばかりだと推察されます。

電話相談も多く、『アフターピルがほしい』や『子供が泣き止まないから連れて行った方がいいか』など、首を傾げたくなることばかりです。

腹痛やアレルギー症状で来院した乳幼児の親に何を食べさせたか問うと、耳を疑うような、スナック菓子と答えたり・・・核家族化が原因でしょうか・・・?

救急要請も車がないから、タクシー代がないから、そんな理由で救急車を呼ぶ。

医師もクレームが怖くてはっきり言わない。

日本の医療はどうなってしまうのでしょうね。

薬のことは本当に心配です。特に精神科の薬の多さには驚かされています。

精神科は初診は受け付けないので、来院する患者さんは精神科外来に通院している人たちで、次の予約日まで待てない状態になり来院されます。

大量服薬やリストカットも多いです。

救急だから仕方ないかもしれないのですが、処置は点滴か薬の処方です。

精神を患っている人にとって、この薬のカプセルや液体は何をもたらしてくれるのか。

60代の患者さんを80代の親が連れてきたり、30代の母親の付き添いが小学生の子どもだったり、胸が苦しくなることもいっぱいです。

精神科の救急体制は迅速な改善が必要だと思います。

先生が提言されている減薬、断薬治療への移行も急がねば人間はどんどんダメになっていくような気がします。

ブログでも公表していますが、私は40歳の頃、子宮体ガンを患い全摘しています。

運がよかったので抗がん剤や放射線治療はしていませんが、救急センターに来院するこれらの治療を行っている患者さんの衰弱を見ると、今後またガンを患ったとしても治療はしたくないと思っています。

10年前は何もわからず受けた手術も選択しないかもしれません。

悲観したり自暴自棄になるのではなく、近藤先生がおっしゃるように放置するほうが長生きするように思えてならないからです。

固定給がほしくて始めた仕事ですが、他に私が行っている代替療法と西洋医学の間で勉強させてもらっています。

一喜一憂するだけでなく、多くのことを吸収せねばと思います。

長くなってしまいましたが、先生のブログに感動して思いを伝えたくなりました。

いつも更新を楽しみにしております。OT

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「とりあえず病院へ」は、医者の“おいしい“お客

怒る医師

きょうは臨時投稿です。

前回同様、医療界の現役医師が、業界同業者の反発をものともせず公言し、医療の在り方を提唱して刊行し、世に問うた著書を是非紹介したく、ここに続きを転載させていただくことにしました。

このブログを訪問してくださった皆様に医療の在り方についてご一考願えれば幸いに存じます。

以下、近藤誠医師(慶應義塾大学医学部卒業)著書「医者に殺されない47の心得」から転載させて頂きました。

前回投稿記事はこちらをクリック2014年1月20日(医者に殺されない47の心得)

ここから続編

コンビニ感覚で病院へ

ちょっとセキや熱が出ると「とりあえず病院へ」。

日本人は、なぜこんなに病院が好きなのでしょう。

ひとつはマジメで心配性な国民だから。

もうひとつは、だれでも健康保険証を使って、好みの医療機関で、全国一律の安心価格で診てもらえるからでしょう。

水道の蛇口をひねれば、おいしくて安全な水がいくらでも出てくること。

世界トップレベルの医療を、とてもリーズナブル(納得して)に受けられること。

これは世界に誇れる日本の「二つの安心」です。

僕たちは、体調が悪くなったらいつでも病院に行き、保険証1枚提示すれば、3割程度の自己負担で、必要な治療を受けることができます。

日本ではそれは当然の権利ですが、世界の公的医療保険制度は、国によって大きく異なります。

たとえば盲腸(急性虫垂炎)にかかった場合、日本では、患者負担分も含めて病院に入る医療費は、病状に応じて30~40万円。

自己負担が高額になっても、通常、8万7千円を超えた分は高額療養費で肩代わりしてくれます。

一方アメリカの、約1万9千人の患者の医療費の中央値(金額順に並べた、まん中の人の値)は、盲腸で入院しただけで約270万円。

しかも最安値12万円から、最高は何と1400万円以上まで、医療施設によって信じられないほど格差があります。

国民皆保険制度ではないので、オバマ改革の前はアメリカ人の7人に一人は無保険で、民間保険に入っていても、「医療費の支払いに困ったことがある」人が全体の半分、7300万人もいました。

うち3千万人が、取り立て会社の督促まで経験。

一方、日本の公的医療保険制度は2000年にWHO(世界保健機関)から「総合世界一」とされ、OECDの評価も「日本の医療の充実度は先進国のトップレベル」。

それでいて医療費の対GDP比は、同加盟34か国の中で18番目という安さです。

日本では戦後一貫して低医療費政策をとっていて、医者は「薄利多売」。欧米の医者が1日に診察する患者数は普通10~20人程度ですが、日本の医者は1日に40~50人診るのが普通で、先進国の中では「クレイジー」と言われる忙しさです。

患者からすれば、コンビニ感覚で医者にかかれる。そこが大きな落とし穴なんです。

その医者は、本当に親切なのか?

患者はクシヤミが出れば病院に走り、医者は「風邪ぎみ」と聞いただけで、セキ止め、熱さまし、炎症止め、抗生物質、胃薬……と、わんさと薬を出す。

「ついでに血圧も計ってみますか。あ、ちょっと高めだね。お薬を出しましょう。血糖値も心配ですね」などと、次から次に、検査をすすめられることも多いでしょう。

それを「親切なお医者さん」と、ありがたがっていませんか?

そして、毎年インフルエンザのワクチンを打ち、健診やがん検診も律儀に受ける。

「血圧が高い」「肺に影がある」などと言われると青くなって、言われるままに薬を飲み、精密検査を受ける。

がんと診断されると「手術、抗がん剤、放射線」の標準治療を素直に受け入れる。

医療だってビジネスで、医者にも生活があります。

日本の医者は病人をできるだけ増やして、病院に通わせないとやっていけない。

口車に乗せられるあなたは、医者の“おいしい“お客様。大事な時間とお金を医者に捧げて、命を縮めることになります。

「老化現象ですよ」と言う医者は信用できる。

老化と病気を区別せよ。

僕は医者ですが、ここ数十年、骨折と勘違いしたとき以外は病院で検査や診察を受けたことがなく、薬も歯の痛み止め以外、飲んだことがありません。

うちには血圧計がないので、自分の血圧も知りません。

なぜなら、今の日本で大人がかかる病気はたいてい「老化現象」で、医者にかかつたり、薬を飲んだりして治せるものではないからです。

1996年、厚生省(当時)は高血圧、高コレステロール血症(高脂血症)、糖尿病などの呼び名を、それまでの「成人病」から「生活習慣病」に改めました。

「生活態度が悪いから病気になるんだ」ということです。

そして健診を義務化し、メタボは犯罪のように取り締まられ、血圧や血糖値が「基準値」からはずれると薬で数値を改善、などの指導が、厳しく行われるようになりました。

でも、それらの病気のおおもとの原因は老化なので、抵抗してみても、川の流れに逆らうようなものです。

「成人病」という表現のほうが、ずっと本質をついていました。

体の具合が悪いとき、何か病名がつくと安心し、「年のせい」と言われるとムッとする人が多い。

でも「体も自然の一部」ととらえたほうがいいですね。

老化とは細胞の遺伝子に傷がつき、それが蓄積して、体にさまざまな障害を引き起こす肉体の変化のことです。

先ほどあげた「成人病」のほか、足腰の痛み、がん、不整脈、骨粗しょう症、不定愁訴(更年期障害)、シミ、シワ、白髪や薄毛、ボケ……すべて老化現象で、早い人は20代から気になり始めます。

家や車が、年がたつほどいたんでくるのと同じで、体も年とともに、あちこちガタが出てきます。

家や車は修理できますが、人間はリフォームも部品の取り替えも、そう簡単にはできません。

今盛んにアンチエイジング(抗老化)や若返りが叫ばれていますが、結局やっていることは役に立たないか、見せかけの化粧や整形のこと。

いくらボトックス注射でシワを消しても、もとの皮膚は、年々着実に水分量が減ってシワが増えていきます。

多少の痛みや不自由は「自然の摂理だ、仕方ない。がまん」ととらえて、仲よくつきあっていく。これがいちばん理にかなっています。

むしろ高血圧、高コレステロールなど、年とともに出てくる症状には意味があり、老いに立ち向かうために必要な変化。不用意に薬で抑えてはいけません。

血圧もコレステロールも高いほうが長生きする 。

のちほど詳しくお話ししますが、年をとると血管が硬くなるので、血圧はやや高めのほうが、血液がきちんと体や脳のすみずみに届きます。

体にいい血圧を保つには、よく歩くことです。

血液が下半身に滞留しないで、スムーズに体をめぐるからです。

またコレステロールは細胞を丈夫にするので「減らさない」ことが大事です。

日本人は、コレステロールが高い人ほど長生きです。

お金が許す範囲でステーキ、トロ、イクラなど、好きなものを食べましょう。糖質も、とりわけ脳にとって大事なエネルギー源です。

おいしいものを食べる喜びは生きる意欲につながり、長生きします。手も足も囗も脳もまめに動かして、体をさびつかせないこと。

喜怒哀楽を豊かにして、五感を活性化し続けること。

「よどまない」ことが、何よりの健康法です。

医者によく行く人ほど、早死にする。

医療に満足すると死亡率が26%高い!?

最新の興味深いデータがあります。アメリカの医師会が出している有名な雑誌に2012年、「満足の代償」という記事が載って、大きな反響を呼びました。

医療保険に入っているアメリカ人5万人以上の、医療費と健康の関係を調べるため、5年がかりでリサーチしたら、驚きの結果が出たんです。

5万人が病院に行った回数は、平均して年に5回ぐらい。1年間に受けた医療サービスに対する患者の「満足度」を、

①話を注意深く聞いてくれるか

②理解しやすい言葉で説明してくれるか

②患者自身が話したことを尊重してくれるか

④+分な時間をかけたか

⑤医療スタッフから受けたサービスは満足かという五つの項目別に評価してもらいました。

当然のことながら、親切な病院や医者に恵まれ、ていねいな医療を受けている人ほど、満足度は高くなります。

このアンケートの結果を4ランクに分けたら、満足度がいちばん高いグループは、いちばん低いグループよりも入院日数が9%多く、医療や薬に使うお金も9%多かった。

医療に満足している人は「転ばぬ先の杖タイプ」で、体に何かあると医者に診てもらい、よく薬を飲み、早めに入院。

ところが、4~5年追跡したら、満足度がいちばん高いグループは、いちばん低いグループに比べて死亡率が26%も高かったんです。

病院や薬にたくさんお金を使い、長く入院するほど寿命が縮むなんて、医師会はできれば報告したくなかったでしょうね。

信じる者は、救われない

医者を40年やってきた僕が、いちばん自信をもって言えること。それは「病院によく行く人ほど、薬や治療で命を縮めやすい」ということです。

医者にかかればかかるほど検査が増えて「異常」が見つかり、あれこれ薬を飲んだ り手術をしたりするハメになる。

がんが見つかると「手術、抗がん剤、放射線が標準治療にと言われて、いきなり大事な胃や子宮を切り取られたり、死ぬほど苦しい抗がん剤治療をさせられたり、ストレスも大変なもので、体に悪いことばかりです。

薬のほとんどに病気を治す力はないのに、副作用は大きい。

風邪薬や解熱剤でもアナフィラキシーショック(命にかかわるショック症状)が起きるし、肺がん用抗がん剤イレッサなどは承認後3年間で約8万6800人の患者に使われ、588人が死亡。

ガンよりずっとこわいです。

またメスでお腹を切って腹膜をべ夕べ夕さわるとすぐ傷がつき、癒着します。

癒着から腸がつまるとひどく痛むし、正常細胞のバリアーが崩れたところには、がん細胞がスッと入りこんで増殖しやすいんです。

僕自身、医者になりたてのときは、たとえばガンは、手術や抗がん剤で「治る」と信じこんでいました。

でも、さまざまな患者さんを観察するうちに、「臓器を切り取ってもがんは治らないし、抗がん剤は苦しむだけなのでは」と気づきました。

信じる者は救われる、と言いますが、医療については「信じず、合理的に考える」ことがとても大事です。

「血圧130で病気」なんてありえない。

数値だけ見て、「病気」と信じてはいけない

高血圧患者が4千万人、高コレステロール血症(高脂血症)3千万人……。日本には大変な数の「病人」がいることになっています。

高血圧や高コレステロール血症の「基準値」と呼ばれるものがあります。「これ以上になったら病気」と診断する数値です。

血圧なら上140mHg、下90が基準値で、それ以上は高血圧症とされます。

この基準値がまず、まったくあてにならない。病気ごとの専門学会が作っていますが、談合体質で、根拠なく数値が決められています。

特に高血圧の基準値「操作」は目に余ります。

1998年の厚生省全国調査の基準値は160/95以上でした。

ところが2000年に、はっきりした理由もなく140/90に引き下げられました。

98年の基準値を当てはめると、高血圧の日本人は1600万人、それが新基準では、3700万人もが高血圧になってしまいました。

さらに2008年に始まったメタボ健診では、19864歳までで、糖尿病や腎臓病を合併している場合、ついに血圧130/80以上が治療目標になりました。

高血圧の原因は、9割以上不明です。

また、日本人の血圧を下げることによって死亡率が下がる、心臓病や脳卒中などが減ると実証されたデータは見あたりません。

大人になると動脈も老化して硬くなり、血液を先に送る力が衰えます。

そこで、体は年をとるほど血圧を上げようとします。

脳や手足のすみずみまで血液を送り続けるため。それを薬で下げたら、ボケたりふらついたりしてしまいます。

フィンランドで、75歳から85歳までの「降圧剤を飲まない」男女52工人の経過を見た調査では、80歳以上のグループでは、最高血圧が180以上の人たちの生存率が最も高く、最高血圧140を切った人たちの生存率はガクンと下がっています。

なのに日本では、最高血圧130で病気にされ、薬で下げさせられているんです。       

基準値を下げると、儲かるのはだれ?

その結果、薬品業界はホクホクです。

1988年の国内の降圧剤の売り上げはおよそ2千億円だったのが、2008年には1兆円を超えています。

基準値をササツといじって、薬の売り上げ6倍増。血圧商法、大成功です。

また基準作成委員の多くが、製薬会社から巨額の寄付金を受け取っているのも問題です。

たとえば2005年に作成された、高血圧の基準も含む日本版メタボ診断基準の作成委員会メンバー。

そのうち国公立大の医師H人全具に、2002~04年の3年問に、高血圧などの治療薬メーカーから合計14億円もの寄付金が渡っています。

いまだにワルモノ扱いのコレステ囗-ルも、実は「長寿のもと」です。

1980年代に福井市の約3万7千人を5年間追跡したら、男女とも、コレステロール値の最も低いグループの総死亡率がいちばん高く、男性は、血中コレステロール値が高いほど、総死亡率が低いという結果がはっきり出ています。

しかし治療の基準値はなかなか変わりません。コレステロール低下薬も、億単位、兆単位のお金を生み出す「打ち出の大づち」なんです。

検査の数値を見ないで、体の力を信じてください。

血糖値は薬で下げても無意味で、副作用がひどい

「甘いもの好きは糖尿病になる」は本当か

最近よく「糖尿病予備軍が2千万人」という数字を耳にします。

健診で「このままだと糖尿病になってしまいますよ」と医者に言われたことのある人も多いと思います。

日本人の糖尿病の95%は、インスリンの分泌障害が多く見られる「2型糖尿病」で、欧米人と違って、比較的やせていてもかかりやすいことがわかっています。

原因と言われる「ストレス、アルコール、甘いもの」で直接に糖尿病が起こるという実証はなく、なぞの多い病気です。

日本糖尿病学会の診断基準によると、空腹のときの血糖値(血液中のブドウ糖の値)が110㎎/DL未満で、ブドウ糖負荷試験後(糖液を飲んで2時間後の値)が140未満なら正常。

空腹時が126以上、糖負荷試験後が200以上等となると糖尿病。その間が予備軍になります。

糖尿病がこわいのは、血糖値が高いと血管がもろくなり、心筋梗塞や脳梗塞のリス クが高まって、失明、腎症、神経障害など、重い合併症を引き起こしやすいこと。

確かに糖尿病網膜症で毎年約3500人が、視覚障害者になっています。

また人工透析が必要になる原因のトップは糖尿病腎症で、毎年1万数千人が新たに透析を始めています。

神経障害も手足のしびれ、失禁、手足の壊死など深刻です。

糖尿病には自覚症状がなく、深刻な症状が出てからでは完治が難しい。

それで、健診で血糖値が高めだと「このままでは取り返しがつかないことに……」と脅されます。

しかし、薬で血糖値を下げるのはもっと危険です。

薬を飲まずに、歩け!

1990年代に、イギリスで大々的な試験が行われています。

被験者は2型糖尿病で自覚症状がなく、体重が標準の120%未満で、血糖値が110~270㎎/DLまでの3800人。

くじ引きで2群に分け、A群は食事療法をメインにして、血糖値が270を超えたときだけ薬物療法を行いました。

B群は、降下剤を使って血糖値が常に110未満にとどまるようにしました。

そして10年間観察した結果は、「死亡、腎不全、失明に統計的有意差なし」一方、B群は低血糖による発作がA群の3倍に上りました。

血糖降下薬は、合併症の予防や延命には何の効果もないのに副作用が大きく、過敏症状、下痢、頭痛、耳鳴り、倦怠感、体温低下、眠気、むくみ、視力障害、腸閉塞、肝機能障害などに悩まされやすくなります。

薬で血糖コントロールしていて「いつもだるい」「イライラしてキレやすい」「足元がふらつく」「認知症が出てきた」などの症状があったら、薬害を疑ってください。

また、糖尿病は確かにこわい病気ですが、「予備軍2千万人」はオーバーです。日本糖尿病学会は、1999年に診断基準の空腹時血糖値を、それまでの140から126に変更しています。

根拠もなく、米国やWHO(世界保健機関)の基準値変更に追従して基準をシビアにし、糖尿病患者を激増させています。

血糖値は「歩く、自転車、水泳、ストレッチ」などの有酸素運動を心がけると下がる人が多いことが、運動療法のデータからわかっています。

ほどよい運動は、体をさびっかせないためにも大切です。「血糖値が高め」と言われたら、よく歩くようにしてみてください。

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世界一、医者が好きな日本人

医師

減薬と断薬の奨め

私の営んでいる整体院には、一部ですが理解ある整形外科の医師から紹介をいただいて来院する方もおられますし、多くの看護師の方々もおいでになります。

しかし、民間療法に関しては理解を示す医師はほとんどなく、むしろ否定的な意見をお持ちの医師たちの方がはるかに多いのが現状だ。

私は医師ではありませんが、雀の涙ほどの医療に関する独学と、これまで24年間の整体施術を通じ、様々な症状を抱えた現代医学で改善できずに訪ねてきた患者さんに施術をし、結果をみることによって考えさせられることは、薬漬けの医療に対する疑問と矛盾である。

どれだけの人たちに断薬の勧めを伝えてきただろうか、数えきれる数ではありません。

小さな整体院ではありますが年間にすると6000回を超える施術の経験で確信を得たことは薬を減薬する、あるいは薬を絶つことで改善される医学的病名を付けられた症状のなんと多いことかということである。

こういうことを私は20年以上にわたって来院者に提言し、減薬、断薬を推奨してきました。

整形外科に通院する症状といえば、加齢とともに多くなる膝関節の痛み、変形性膝関節症、腰痛、肩こり、頭痛、手足のシビレ、疼痛、むち打ち症、四肢・体幹の骨、関節、靭帯、筋肉、神経や脊椎、脊髄など人体の運動器におこるケガや病気の診断、治療などが一般的ですが、これらは相当に改善できるものであります。

例えば、子どもたちがスポーツをやっていて訴える成長痛(オスグット、膝の痛み)や、シンスプリント(ひざ下脛骨筋の痛み)などは、半年、一年と痛みに耐えていて、『体を休めるしかありません」と診断される症状ですが比較的早期に回復します。

しかし、現実には、整形医学において電気療法や投薬、ブロック注射、によって不要な薬を服用している患者さんがとても多いのであります。

また、耳鼻科の分野である、めまい、ふぁふぁ感、メニエール症候群、これなどもさんざん通院して長期にわたって薬を服用しても改善されないどころか、逆に悪化している患者さんはとても多いのだが、耳の中は一生懸命診ても特定できる病巣は見当たらない場合も多い。

薬の副作用と知らず、気づけず服薬を続けるしかない患者は気の毒としかいいようがない。

例えば、メニエール病の疑いありと診断されて、処方されるお薬に、メリスロンソラナックスというお薬がある。

これの効能を紹介しましょう。

メリスロン、効能

(内耳の血流を増やすことにより、回転性のめまいを和らげます。通常、メニエール病、メニエール症候群、眩暈(めまい)症に伴うめまい、めまい感の軽減に用いられます。)とある。

副作用(過敏症状、発疹などのアレルギー症状、直射日光にさらした部分の皮膚に現れるかゆみ、発赤など、ねむけ、頭痛、不安、手足のしびれ、手足の震え、目のかすみ、ふらふら感、胸やけ、胃痛、口やのどの渇き、動悸(どうき)などが現れることがあります。また、めまいや嘔吐がかえってひどくなることがあります

ソラナックス、効能

不安、緊張、焦燥(しょうそう)(あせり)、抑うつ(意欲が低下して、ふさぎこむ)といった精神症状を改善する作用(抗不安作用)をもつ薬です。

鎮静作用、筋弛緩作用(筋肉の異常な緊張をやわらげる)、催眠作用、抗けいれん作用(けいれんを抑える作用)、自律神経調整作用(自律神経のはたらきを安定化する)などをあわせもつ薬もあり、鎮静剤、筋弛緩剤、催眠剤、抗けいれん剤、自律神経調整剤としても使われます。

実際には、神経症(不安神経症、強迫神経症、心気症、離人症、解離性障害、うつ状態など)、心身症、自律神経失調症や、更年期障害、腰痛症、頸肩腕症候群などでおこった精神的な不安、緊張、焦燥、うつ状態、睡眠障害の治療に使います。また、手術前後、麻酔をする前などの不安や緊張をやわらげるために使用することもある。としているが怖いとは思いませんか?

副作用

過敏症状(湿疹(しっしん)やじんましんのような発疹(ほっしん)、発熱などのアレルギー症状)がおこることがあります。

薬の種類によって発生の頻度に差がありますが、ねむけ、めまい、ふらつき、けいれん、不眠、失禁、頭痛、眼のかゆみ・かすみ、眼瞼けいれん(まぶしい、眼が乾く、眼があけていられないなどの症状)、耳鳴り、口やのどの渇き、舌のもつれ、手指の震え、言語障害、むくみ、黄疸(おうだん)、脱力感、倦怠感(けんたいかん)、多幸感(理由もないのに幸福感で満たされる)、興奮、せん妄(もう)(幻覚や妄想(もうそう)が現れて騒ぐ)、動悸(どうき)、血圧の低下、頻脈(脈が速くなる)、胃腸障害(吐き気・嘔吐(おうと)、食欲不振、胃部の不快感、便秘など)、横紋筋融解症、間質性肺炎、呼吸抑制、炭酸ガスナルコーシス、乳汁分泌、女性化乳房、悪性症候群(高熱、筋硬直、ふるえ、発汗、頻脈、よだれ、意識障害、骨格筋障害など)といった症状がおこることがあります。としている。

私は、こういった副作用に苦しんでいる患者さんたちを限りなく見てきているのです。

問題はここです。

副作用に苦しみ、そのリスクを抱えたまま医者の処方箋を信じ、症状が改善されないまま、不安感や、恐怖心に動揺し、薬の量が増え、色々な薬を処方され、長期間にわたり薬漬けになっているのである。

しかし、上記のように、耳鼻科でこれといった病気が特定されない場合は、頸椎の捻じれを矯正して正しい位置に戻してやると一連の症状が消えてしまうのです。

めまいや、ふらつきで半年、一年、二年と辛い思いをしてきただけに、一月前後の短期間で症状が消えたときの喜びは、言葉に表すことができないのでしょう、嬉しくて泣き出す人もいます。

どうにも改善できなくてドクターショッピングを重ねた末に、人づてに知って来院される方、ホームページを見て来院する方が述べる感想は、『何でこんなに早く良くなったんですか?』です。

理由はまったく簡単明瞭です。

私のような医師免許のない者がどうして結果を出せるのか、それは「診たての違い」「施術内容の違い」だけでしかなく、何も特別なことをしているのではありません。

大変無礼な言い分と、お叱りをいただきそうですが、先生方は医学部で学んだ知識の範疇を超えることなく、その知識が全てであり、そのなかだけで患者さんを診ているのではないだろうか。

症状が改善されないために総合病院の整形外科に行って相談したら、「言うとおりに薬を飲まないのなら治せないので来なくていい」と医師にきつく怒られたといっておいでになった患者さんがいました。

このような話は来院する方々から時折聞かされることであり、医療以前に医療従事者としての資質の問題として考えさせられるところです。

ごく一例の説明ですが、整形外科でレントゲンやCTなどで発見されなかった胸鎖関節の亜脱臼(鎖骨と胸骨の接合部)が私の触診で発見され、関節の矯正をし、本来の位置に戻すのですが、こんなことは日常茶飯事です。

この処置が肩こりや、むち打ち症、背筋の張り、四十肩、五十肩、胸郭出口症候群などに功を奏するのである。

しかし、薬をたっぷりと服用して依存している人ほど痛みのポイントや痛みの自覚を見失い、結果的に悪化させ、改善が遅くなることも書き添えておきます。

こういったことは整形外科的な問題、症状に限る話ではなく、自律神経失調症更年期障害という、寝汗や冷や汗などの異常な汗、慢性的な頭痛や肩こり、下痢、めまい、不眠症、疲労感などの体調不良といったことなどにおいても殆どがホルモン剤や、向精神薬が処方され、かえって回復するどころか症状が悪化しているケースがとても多いというのが実情であります。

ステロイド剤や、抗生物質は、作用が強ければ反作用が強く働くものであり、同時に人間が本来持っている免疫力や自然治癒能力という働きを奪ってしまうことは実証されていることを忘れないでいただきたい。

適切な生活習慣や食事のコントロール、嗜好品の注意、カフェインを絶つ、サプリメント摂取の注意、精神的悩みの解放、あるいはまた症状によっては適切な整体施術などによって快方に向かうのである。

さてきょうは、私がこれまで20年以上にわたって来院者に訴え続けてきた現代医療への疑問、過度な処方箋への警告、医療には依存するべきでないこと、自分の身は自分で分かるようにすべき、ということと同じ意見をもっている医師がいることにとても心強く思い、感銘した著書があることをお知らせしたい。

上述のようなことを、医療界の現役医師が、業界同業者の反発をものともせず公言し、医療の在り方を提唱して刊行し、世に問うた著書を是非紹介したく、ここに一部を転載させていただくことにしました。

このブログを訪問してくださった皆様に医療の在り方についてご一考願えれば幸いに存じます。

以下、近藤誠医師慶應義塾大学医学部卒業)著書「医者に殺されない47の心得」から転載させて頂きました。

医療と薬を、遠ざけて、元気に、長生きする方法

第60回菊池寛賞受賞の弁

医者を40年やってきた僕が、いちばん自信をもって言えるのは「病院によく行く人ほど、薬や治療で命を縮めやすい」ということです。

医者にかかればかかるほど検査が増えて「異常」が見つかり、薬を飲んだり手術をするハメになる。

薬のほとんどに病気を治す力はなく、副作用は大きい。

ガンが見つかると、いきなり胃や子宮を切り取られたり、死ぬほど苦しい抗がん剤治療をさせられる。

こうして命を縮めます。

「信じる者は救われる」と言いますが、医者を簡単に信じてはいけない。

本書では、医療や薬を遠ざけ、元気に長生きする方法を解説していきます。

私はこれまで、同業者がいやがることばかり言ってきました。

ガンは切らずに治る。

抗がん剤は効かない。

健診は百害あって一利なし。

ガンば原則として放置したほうがいい。

そのためでしょう、私の医学界での受賞歴といえば「そんなこと言ったらダメで賞」とか「近藤をバッシングしま賞」といったものばかりだったので、今回、まともな賞をいただいて、とてもうれしく思っています。

医学界の絶滅危惧種とも言われているので、そんな私を励まそうというお心遣いも、ありかたく受けとめています。

申し上げておきたいのは、患者さんたちがいたから今日があるということです。

乳ガンと言えば、乳房を全部切り取るのが世間の常識だった時代に、私の話を聞いて、乳房を温存する療法を選んだ患者さんたち。

その勇気あるパイオニア的行動によって、今「乳房温存療法」が乳がんの標準治療になっています。

また、ガンは治療しないほうが長生きできる、という私の話に納得し、がん放置を決めた、150人以上の患者さんたち。

そのおかげで「ガン放置療法」を確立することができました。

この賞は、その患者さんたちにも与えられたものだと考えています。

はじめに

世界一、医者が好きな日本人 

ある患者さんが「私は死にかけました。インフルエンザのワクチンを打ったらすぐ体がおかしくなって、病院に運びこまれた。何とか助かって、ここに来られました」。

僕が「それはワクチンのせいだ。もう二度とやりませんよね」と言うと「はい」。ところが翌年になったら同じ人が、「今年も、ワクチン打ちました」。

こういう落語のような本当の話が、医療の世界にはあふれています。

逆に言うと「飛んで火に入る夏の虫」のように、医者に自分から近づいて、命を落としたり縮めたりしている人が多すぎるんです。

日本人は世界一の医者好き国民です。

年間ひとり平均14回前後、先進国平均の2倍以上も、病院に行っています。

健診やがん検診も、国からの強い奨励もあるので、せっせと受けています。

とりあえず病院に行けば、医者が何とかしてくれる。

病気の専門家なんだから、病気の防ぎかたも治しかたも、よく知っているはず……。

あまり深く考えずに、たいていの人がそう信じているから、ワクチンで死にかけてもまた医者にかかっているのでしょう。

風邪薬も抗がん剤も、病気を治せない

医者は本当にあなたの病気を防いだり、治したりしてくれているでしょうか。

医者の僕が言うのも何ですが、答えはノーです。

風邪、頭痛、高血圧、高コレステロール血症(高脂血症)、不整脈、ガン……。病気の9割は、医者にかかったからといって治るわけでも、回復が早くなるわけでもありません。

そして、副作用や後遺症のリスクはとても大きい。

たとえば、風邪のウィルスに作用して治せる風邪薬は、まだ発見されていません。

熱を下げる解熱剤やセキ止めなど、不快な症状を一時的に抑える「対症療法薬」も、体はつかの間ラクになっても、回復は遅れます。

発熱やセキなどの症状はすべて、体がウィルスを追い出そうと闘っているサイン。

薬は体の治癒力を邪魔します。

インフルエンザをワクチンで防げるとか、リレンザなどの治療薬で治せるという医学的な証拠はなく、せいぜい「効果が期待されている」レベルです。

一方、風邪薬やインフルエンザワクチンの副作用で亡くなる人は、大勢います。

高血圧のガイドライン操作で、薬の売り上げが6倍に

高血圧患者が4千万人、高コレステロール血症3千万人、糖尿病は予備軍を含めて2300万人・・・と、日本にはすごい数の「病人」がいることになっています。

これは、薬を売るための策略としか思えません。

「このぐらいからは治療したほうがいいよ」という高血圧の基準が、たいした根拠もなくどんどん下がっているんです。

長い間、最高血圧の基準は160EHgだったが、2000年に140に、2008年のメタボ検診ではついに、130にまで引き下げられています。

50歳を過ぎたら「上が130」というのは一般的な数値ですから、たいてい高血圧患者にされ、降圧剤を飲んで「治療」するハメになる。

その結果、薬品業界はホクホクです。

1988年には降圧剤の売り上げがおよそ2千億円だったのが、2008年には1兆円を超えて、20年間で売り上げが6倍に伸びています。

血圧商法、大成功ですね。

総コレステロール値も、日本人は高いほうが長生きだと10年以上前からわかってるのに、基準値はなかなか上がりません。

コレステロール低下薬のスタチン類は年間2600億円の売り上げがあって、関連医療費はその3倍と言われています。

問題は、血圧やコレステ囗-ルを薬で下げると、数値は改善しても早死にするリスクが高くなること。世界中の、数万人規模の追跡調査ではっきりしています。

日本人のガンの9割は、治療するほど命を縮める。

また日本人のガンの9割は、治療するより放っておいたほうが、元気に長生きできます。

かつてニュースキャスターの逸見政孝さんが、悪性度の高いスキルス胃ガンであることを世間に初めて公表し、大手術をして3か月ぐらいで亡くなりました。

僕は20年以上にわたり、「ガン放置患者」150人以上を診てきましたが、スキルス胃ガンであっても、数か月で亡くなった人ゼロ。

普通に暮らしながら、3年から9年も生きた人が何人もいます。

また抗ガン剤は、猛毒です。

抗ガン剤が効くというのは、「ガンのしこりを一時的に小さくする」だけで、ガンを治したり、延命に役立ったりするわけではありません。

日本人のガンのほとんどを占める、胃がん、乳がんなどかたまりを作る固形がんには、抗がん剤はまったく無意味。

つらい副作用と寿命を縮める作用しかありません。

では、ガン検診は?有効という証拠がひとつもありません。

ガンをいくら「早期発見・早期治療」しても、1960年代から、ガンで死ぬ人の割合は下かっていない。

症状がなくて検査で見つかったガンはほぼ、命を奪わない「ガンもどき」。

本物のガンならすでに転移しているので、切除手術や抗がん剤治療は無意味です。

どちらにせよ、ガンはできるだけ放置したほうが、ラクに長生きできます。

医者はヤクザや強盗よりタチが悪い

ここでちょっと、身の回りや有名人で、医者にかかって亡くなった人、体が不自由になった人のことを思い浮かべてみてください。

先ほどの逸見さんのように、テレビなどで活躍していた人気者が「ガンが見つかったので治療に専念します」と宣言し、数か月後に亡くなる悲劇は、最近も「またか」というほどしょっちゅう起きていますね。

死の前の闘病の苦しみも、ひどい倦怠感や吐き気、髪が抜け落ちる、やせ衰えるなど壮絶です。

実は放置すれば疝まないガンは、胃がん、食道がん、肝臓がん、子宮がんなど、少なくありません。

苦しみ抜いて亡くなるのは、不必要な「がんの治療」のせいなのに、医者は新しい患者に「がんはこわいですから、すぐ治療にとりかかりましょう」とささやきます。

濡れ衣を着せられて、ガンはさぞくやしいことでしょう。

がんに限らず、健診でメタボと言われてジョギングを始めたら、心筋梗塞で突然死した、脳ドックで動脈瘤が見つかり、手術を受けたら半身マヒに……。

医者にかかったために命を縮める人は、本当に多い。

医者は、ヤクザや強盗より夕千が悪いんです。

ヤクザはしろうと衆を殺したり、指を詰めさせたりすることはありません。

強盗だって、たいていはお金をとるだけです。

しかし医者は、患者を脅してお金を払ってもらった上に、しょっちゅう体を不自由にさせたり、死なせたりする。

僕も薬害で足を引きずった

実は僕自身も幼いころ、熱が出るたび、開業医の父に注射をされていました。

マラリアにかかり高熱が出たときは抗生物質を打たれすぎて、足の筋肉が変性してひざが曲がらなくなる「筋拘縮症きんたんしゅくしょう」になりかけ、しばらく足をひきずりました。

僕のマラリアが治っだのは、抗生物質のおかげだったかもしれない。

しかし、役に立つ医療であっても、副作用で障害を負う危険と背中合わせだったのです。

それでも、僕たち父子は医療を信じきっていました。

小学校高学年になり、インフルエンザが猛威をふるったときは、級友を10人も家に連れてきて父に「予防注射をしてほしい」と頼みました。

父が黙って全員にワクチンを打ってくれたので、僕は鼻高々でした。

やがて自分も医学の道を志し、学生結婚して子どもが生まれると、わが子によく薬を飲ませました。

薬害のおそろしさを知ったのは、医者になってからでした。

多くの子どもが、ワクチンや解熱剤の副作用で脳に障害を受け、一夜にして痴呆状態になったり亡くなったりしている。

おまけに病気を予防したり治す力はない……。

事実を知ったときは、今まで何と危ないことをしていたのかと背筋が凍りました。

そして「何とかして、医療からプラス面だけを得て、危険を避ける方法を見つけたい。

ムダに苦しむだけの治療や、悲惨な医療死を、ひとつでも減らしたい」という想いが、僕の悲願になりました。

原点は「切り取られるおっぱいを救え」

僕は慶應義塾大学医学部を卒業して同放射線科に入り、ガンの放射線治療を専門に研究、講義、外来患者の診察をしてきました。

アメリカにも留学して日本のがん医療に疑問を抱き、まず1988年に「乳がんは切らずに治るI--治癒率は同じなのに、勝手に乳房を切り取るのは、外科医の犯罪行為ではないか」という論文を、月刊『文藝春秋』に発表しました。

欧米では当時すでに病巣だけを取る「乳房温存療法」が当たり前だったのに、日本では乳房が丸ごと切り取られて、無残でした。

僕はひとりでも多くの女性に温存療法を伝え、ひとつでも多くのおっぱいを救いたかった。

その前、83年に姉が乳がんとわかったときも、欧米の治療成績を見せて「僕なら温存療法を選ぶ」と伝えました。

姉は同意して乳房温存療法を選んでくれて、30年たった今も元気です。

文春の記事は反響を呼び、その後、僕の外来に来て温存療法を選んだ患者さんは3千人、日本の乳がん患者の1%に達した年もありました。

そして20年たった今、日本では乳がんが見つかった女性の6割以上が、温存療法を選んでいます。

僕は世界中のがん治療について幅広く独学し、日本でおそらく最初に、患者へのがんの100%告知にも踏み切りました。

96年刊の『患者よ、がんと闘うな』(文藝春秋)では、ガンには本物と「もどき」があり、どちらにせよ手術や抗がん剤での治療は9割ムダ、と発表して大論争が起きました。

その後、『よくない治療、ダメな医者から逃れるヒント』『大学病院が患者を死なせるとき』(ともに講談社)などの著書で、医療全般の問題にも触れました。

この30年間、土、日も含めて毎朝6時に研究室に入り、診察以外はほぼ医学論文を読むか執筆をしています。いつも机に張りついて、まるでカマボコだなと思います。

患者よ、病気とムダに闘うな

2012年は、僕にとって特別な年になりました。       
まず、最長22年診てきた「がん放置患者」たちの経過の総まとめ『がん放置療法のすすめI患者150人の証言』(文藝春秋)を世に出せました。

『患者よ、がんと闘うな』の「がんもどき」理論を実証できて、肩の荷が下りました。

「大学病院の外来なのに、ガンの治療をしない」という、ある意味、奇跡的なことをここまで続けてこられたのは、慶應義塾の「自由」「独立自尊」の精神のおかげと、感謝しています。

さらに今年は、思いがけず第60回「菊池寛賞」をいただきました。

88年に文春に「乳がんは切らずに治る」と書いたとき、僕は「これは日本の医療界への宣戦布告だ。もう出世は望めないし、院内では村八分にされるだろう。でも、ひとりでもわかってくれたら、それでいい」と腹をくくり、ひとりで闘ってきました。

裏街道のガンマンを、見ていてくれる人がいた。

この受賞は、本当にうれしいです。本書にはムダに苦しむだけの治療や、悲惨な医療死から逃れる心得をまとめました。

たとえば最近「予防医学」が全盛ですが、その実態は「患者を呼ぼう・医学」。

医者の。おいしい”お客様にならないように気をつけましょう。

大学病院、日赤、国立がん研究センターなど、世間で「いい病院」と言われる設備のととのった大病院は、「いい実験を受けられる病院」だと思ってください。

がんで苦しみ抜いて死ななければならないのは、がんのせいではなく、「がんの治療のせい」です。

でも、医者は必ず「がんのせい」にします。

騙されないように。

基本的に、自覚症状がなくてごはんもおいしいなら、医者にあちこち悪いと言われたり、がんが見つかっても、忘れるのがいちばんです。

治療をあせると、寿命を縮めます。

今は、調べようと思えば書籍でもインターネットでも、いくらでも情報が手に入る、いい時代です。

今まで「病気のことは医者を信じてお任せ」だった方も、ここで発想を変えて「医者を疑い、自分で調べて考える」癖を身につけてください。

医者に殺されない方法をしっかり身につけて、ムダ死にから身を守ってください。

たったひとつしかない自分の命、自分の体、自分の人生なのですから。

(ここまでが転載記事です。折を見て続きを著書よりアップの予定でおります。)

様々な選択肢があるなかで、もっとも自分にとってはどの方法が最もよい条件であるかということを考えますと、医療は、一つのことで全てを語ることはできないだろうと思います。

近藤誠医師の提言していることは何を言わんとするものであるかを考えてみるのもよいのではないだろうか。この続きは23日に臨時投稿いたします。

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危険この上ない業と霊との関わり

生霊

霊障

三次元であるこの世と、四次元であるあの世が異なった世界として存在することを知識として理解する人は今日では少なくないだろう。

しかし、信仰を持つ者のなかにも発生することのある霊障という事実が、どれほど禍を招き、翻弄されることの原因となっているか、そのことがどれだけの人々に知られ、理解されているのだろうか。

これは人間の想念によって発生する心の波動や、声による波動に共鳴したり、引き寄せられたりするために起こる現象をいっているのである。

信仰を持つ者の読経や祈りによって発生する音声波動が、良くも悪くも次元の異なる世界とコンタクトされるからだ。

常識的な考えからすれば、「おかしいではないか。信仰を持っていたら良いことがあっても、悪いことが起こりようがないではないか。」と言われるのですが、必ずしもそうではありません。

信仰を持っているから心が調和されているとは限りませんし、むしろ信仰をもって盲信、狂信することによってエゴをつくりだしたり、執着がうまれたり、拘りが強くなり、排他的になったり、批判的になったりする信仰者がいるのである。

こうしてみると信仰をもつことと、心に執着がなく、偏りがなく、素直で調和され、慈愛に満ちた心であるか否かは別な問題だということだ。

そういう意味から、現実を客観的にみた場合、信仰をもつ者、持たざる者の違いというのは、心の調和度、慈愛の豊かさということをいうならば全くその差はないと言えるかもしれません。

宗教に属さない人々のなかにも信仰を持つ者以上に心の調和された方々、人間として心の器が大きく尊敬に値するような方も多くおられるのである。

逆に信仰をもつことによって組織内での競争意識をあおられ、無理な布教活動によって己の心に自我をつくりだしている者たちも多くいるのだ。

邪悪な霊の干渉は、無宗教者、宗教信仰者の別なく、要は、日頃の感情の乱れやすい人、その起伏が大きい人、心の執着、偏り過ぎた拘り、こういったエゴの部分に引かれて忍び寄ってくるのである。

相談者のなかにもトラブル続きで人生に疲れ、お先真っ暗で希望を見失い、右往左往して困り果てているいる人がいます。

このような場合、邪悪な霊の影響がゼロではないケースもあるのですが、これとて根本的には自分の心の隙間、歪んだ精神構造、すなわち生き方、人生の在り方に起因するものであるということだ。

人間のもつ個性は良くも悪くも、もって生まれた業によって翻弄される場合が多々あるから心して自分を調える習慣を身につけなくてはなりません。

地上の人間に関わってはいけないというのが霊世界の秩序ではあるのだが、しかし、このルールを守らずに自分の都合だけで地上の人間界に忍び寄ってくる心の次元が非常に低い霊達もいる。

地上を去り、然るべき次元の世界まで己の魂を昇華した霊は、決して地上の人間に忍び寄ることはしないのである。

だが、霊現象の根本的原因はとなると、地上で暮らす人間の心が不満や、愚痴、怒り、嫉み、憎しみのために不調和になり、心に歪みをつくることによって呼び込んでいるという真実を知らなくてはならない。

先ず、邪悪な霊の影響を受けると、完全に憑依されてはいない場合であっても、精神状態に乱れが生じ、イライラ、感情の起伏が激しくなる、怒りやすい、悲しみに沈みやすい、自分の感情がコントロールできなくなるということがある。

ただ、霊的に敏感な人の場合は、たとえ心が調和されている人であっても、直感的にこの場所が嫌だとか、この人の傍にいるのは嫌だとか感じたり、あるいは身体で感じることがある。

具体的に一例を述べると、そのような特定のスポットや特定の人間に会った場合に、身体の面では、肩が重くなる、頭重感、頭痛、吐き気、お腹のむかつき、背中が苦しくなる、目がショボショボする、いきなり耳鳴りがする、めまい、ふらつき、ふあふあ感、等々である。

完全に憑依された場合は、目が人間の目ではなく動物的であり、欲望丸出しで、多重人格、平気でウソをつく、人を陥れる、悪い意味での霊感が表出する、当てごとが得意となり自慢する、傲慢になるという言動が目についてくる。

このように霊という存在は、いろいろな事情で地上の人間と関わっているのですが、霊側としては祈りなどに感応してその人の身辺に来る場合がある。

しかし、それは低級霊の場合と高級霊の場合とがあることも知識として知っておかなくては危険この上ない。

だが、自分自身の心が調和されていれば、邪悪な低級霊とは心の波長が合わず、憑依されることはないから無闇に心配するものでもありません。

さて、キリスト教には「死者の霊は最後の審判の日まで墓地で眠っている」という教えがありますが、このような教えは全く事実に反している。

眠っている死者の霊を最後の審判まで無理やり呼び起こしてはいけないとの信仰だ。

ここがキリスト教の間違いであることは、現代のスピリチュアリズムを学んでいる方なら容易にわかることでありましょう。

死者の霊が墓地で眠っているようなら非常に困ったことであるし、墓場が死者の霊で溢れて収集がつかなくなり、ひいては問題が発生することになる。

しかし、その信仰が間違っていることが明らかになった今日では、西洋でもよく降霊が行われるようになり、ウィックランドの『迷える霊との対話』に見られるような地縛霊の救済活動の一環として、霊界側の主導のもとに行われているものもある。

一方、安直に霊を呼び出してお告げを聞いたり自動書記などを受け取っているサークルが、日本でも西洋でもずいぶんあるようである。

が、真理の法則に沿った降霊や救済は稀であり、スピリチュアリズム活動の一環として高級霊団の守護と指揮のもとに行われているもの以外は極めて危険であることを、これまで述べてきた内容をふまえて理解していただきたい。

死について

葬儀会場においてよく見かける光景ですが、親しい人たちからの弔辞が述べられる際に、弔文の内容として、 安らかに眠ってくれ』『ゆっくり休んでくれ』『深い眠りについているだろうな』などの言葉がでてきます。

それでは亡くなってこの世の生命が終わり肉体を去った後の魂は、実際は眠っているのだろうか。

既におわかりでしょう。眠ってはいません。

人間が死に際して、一時的に人事不詳に陥ることはあっても、やがて時間的が経過することで意識がハッキリし、自分の肉体が横たわっていることを目にすることや、家族の慌ただしい光景、親せき縁者の弔問などをみることで自分の肉体生命の死を認識するようになるのである。

私たちは夢の中で「これは夢だ」と思うことがありますが、ちょうどあのような光景とと、死の認識が似通っていると思えばわかりやすいかと思います。

自分の思い通りにならない夢の世界、それはその人の魂の次元の高低という問題が背景にある。

死者もまた自分の思い通りにならないのはやはりそれぞれの魂の次元の相違によるものであるということだ。

例えば、心の自由を得ている人の場合、執着がなく、自由自在であるために死後の行動範囲が広くなってくる。

逆に日頃から執着、我欲、傲慢、驕り、怒り、恨み、妬み、などの不調和な心があれば、死後は非常に行動範囲が狭いものにしかならず、人によってその場に自分を縛ってしまっている者さえいるが、このような霊を自縛霊、地縛霊というのである。

心の垢

死後に然るべき天上の世界に進むにはクリアしなければならない問題がひとつある。

それは、私たちがこの地上に生まれてからその生命を終えるまでの期間に心に積もらせた心の垢、つまり、先にあげたような不調和な想念ために自分が為したこと(他に対して発した乱暴な言葉、相手の都合を考えない行動、自己中心的言動)、人に為した事の数々を省みて原因を究明し、調えるという作業である。

いざ旅立ちというときに、これまで為してきたことに執着したり、未練に心を動揺させたりしていては決して天上の世界に生まれることはできないのである。

心不調和な者ほどあの世では毎日毎日が、霊魂にとって、自分で自分の心を反省し修正しなければならない厳しい日々なのです。

あるとき、相談に見えた方に関わる霊をその人の身体に降霊させましたら、自分が借金を苦に首つり自殺したという霊が、己の所業も省みず、恨み、つらみを語りだした事例があります。

先に述べたように、人間が死んであの世で眠っているのが事実とするなら、降霊しても人の身体を借りて語りだすという現象など起こりえることではないでしょう。

ですから死んだ後に、何もしなくても良い、極楽で休息と恩恵の世界に入る、というのも間違いであれば、永遠に呪いの世界に入るというのも間違いなのです。

自分の行いを反省して改め、心を調和させることができたなら天上界にいけるし、自我我欲のままに業を重ねたなら間違いなく低い奈落の底に行くのである。

一つの事例を話しましょう。

うつ病患者の業

私の所にきて心の勉強をしていた、うつ病を患っていた女性が順調に回復してとても元気になっていきました。

元気になったのはいいのですが、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」の如く、かつて自分が分からないほど精神状態が錯乱し、邪悪な霊達に憑依され生きる屍となって地獄の底で苦しんでいたことさえ忘れて遊びほうけてしまったのである。

彼女の将来を考えてきつく忠告をしたのだが、元からもっていた魂の傾向性が悪い癖として出てしまった結果、仕事もせずに親から金をせびりながらギャンブルに狂い始めた。

彼女が再び奈落の底に落ちることになるであろうことは忠告のときに話してあったのだが、その通りになってしまった。

自殺未遂で救急搬送されたのである。

これが自我我欲の結果であり、業という己の造りだした魔物の姿だ。

憑依霊は何度外しても自分自身が勇気と不動の決断をもって臨まない限りは根本的解決にはならないことをこの女性は心に落しきれなかった。

人間は、死ねば直ちに仏になって、天地の秘密の全てを知り尽くすのでもなく、あの世とこの世のあらゆる問題を全て解決出来る力を持つのでもないのである。

死んで解決とはならないのが人間の業でもあります。

生きて減らさなくてはならないのが業というものだ。

地上で生活しているときの環境がどれほど経済的、物質的に恵まれて優雅なものであったとしても、あの世での生活は、その人の心の次元に沿った世界で生きることになり、全くこの地上生活とは違うものとなるのです。

それが3次元世界と4次元世界の相違点であり、地上のように偽りのできない仕組み、物質世界と非物質世界の違いということです。

このような法則は大宇宙の摂理であると同時に、神の真理として存在するものである。

この世では目が見えない盲目な人であっても、心が善良で執着がなければ、あの世に行ったときにとてもよく目が見えるのです。

あの世はこの世と違って、霊体エネルギーと心(魂)エネルギーの世界だからです。

反対にこの世で目が見えても、心に自我我欲、執着が強ければあの世に行った途端に光のない無明の世界、闇のなかに身を置くことになる。

だからこの世で無智(自我、執着、欲得)であった人は、あの世でも無智であり、この世で賢明(調和、愛、慈悲心)であった人はあの世でも賢明であるということだ。

あの世において、この世にいた時と同じような精神状態にあり、天国また地獄といっても、それはその人が心の中に造った天国と地獄の反映に外ならない。

つまり自らの想念と行為が心の中に天国も地獄も作り出すことになるのです。

しかし、地獄にも光明をもって手を差し伸べる人たちもいる。

光の使者である霊格の高いものは、奈落の底に下りて来て光を与え、その人が新しい意識の境涯へ進歩するように導き、霊感づける。

だが、相も変わらず自我心のままに慈愛に反発し、差し伸べられた手に対しても素直になれない霊達は救われることがない。

その点についてはこの世の人たちも同じことがいえることで、いくら手を差し伸べても、重ねた己の業ゆえに、悪に引かれて自らを貶めていく者たちもいるからだ。

死んで仏になるというように、死んでしまえば、一切の罪、一切の苦しみから逃れるのではないのである。

如何にこれまでの宗教家である僧侶や牧師はじめ、多くの新興宗教の教祖たちが間違った事を説いてきたか、相も変わらず今なおそのような相談が後を絶たない

間違った宗教家の言うことを正しいと信じてみても、あの世で救われる事にはならないし、逆に想念を曇らせて身についた心の垢を落すのに相当の年月を要することになる。

生きている時に、間違ったことを正しいと信じて死んだ人達は、正しい信仰をして来たという意識だけが強いから、あの世の光の指導霊に反省を促されても、正しい信仰をして来たという意識に邪魔されて、正しく反省することが出来ないのです。

気の毒ではあるが、素直に反省できるようになるまでには時間と年月がかかるのである。

必要に応じて相談者にいつも言うのですが、この世とあの世は、別な世界ではなく、一枚の紙のようなものであり、裏表一体の関係にあると。

だからこの世で生きる「今を大事に」心の成長のために努力しなければならないと。

昨年は多くの方々に訪問していただき心から感謝を申し上げる次第です。

今年からは周一のペースで毎週月曜日にアップしていく予定でおります。

今後とも宜しくお願い申し上げます。

感謝。

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心の原点・永遠の旅路と死生観

坐禅2014年の年頭にあたり、また人生を考えるにあたって、先ずは、昨年度2013年の大きな出来事を少し振り返って記載してみたい。

2020年夏季五輪・パラリンピックの開催地が東京に決定

昨年は国際オリンピック委員会(IOC)総会が9月7日、ブエノスアイレスで開かれ、IOC委員による投票で、2020年の夏季五輪・パラリンピックの開催都市に東京が選ばれた。

富士山が世界文化遺産に決定

また、カンボジア・プノンペンで開かれた国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)の世界遺産委員会は昨年6月22日、日本が推薦していた「富士山」(山梨県、静岡県)を世界文化遺産に登録することを決めた。

参院選で自民、公明両党が過半数獲得、ねじれ解消

政治では、第23回参院選は昨年の7月21日に投開票が行われ、自民党は、改選定数1の1人区で圧勝するなど改選定数(121議席)のうち、65議席を獲得した。

その結果、自民、公明両党は非改選分を含めて参院の過半数を確保し、参院で与党が少数の「ねじれ国会」は解消することになった。

安倍首相にとっては過半数を獲得したという意味において、安定した政権運営ができる基盤を得たことになる。

楽天が初の日本一

野球界では、プロ野球の楽天が、11月3日の日本シリーズ第7戦で巨人を3―0で破って対戦成績を4勝3敗とし、球団創設9シーズン目で初の日本一を達成した。

東日本大震災が発生した2011年のシーズンからチームの指揮を執ってきた星野仙一監督は、就任3年目でチームを日本一に導いた。最高殊勲選手賞(MVP)には楽天から美馬学投手が選ばれた。

そして、仙台市を本拠地とする楽天の日本一は、震災の被災地のファンを勇気づけた。

伊豆大島で土石流災害、死者35人

一方、大型で強い台風26号に伴う記録的な豪雨により、伊豆大島(東京都大島町)で10月16日、大規模な土石流が発生した。土石流は集落を襲い、35人が死亡し、4人が行方不明となる惨事となった。

ホテルなどで食材偽装の発覚相次ぐ

全国で食材の虚偽表示が次々と発覚した。「阪急阪神ホテルズ」(本社・大阪市)が10月22日、運営するホテルのレストランなどでメニュー表示と異なる食材を使った料理を提供していたことを発表。

それを契機に、全国のホテル、大手百貨店のテナントのレストランなどで同様の食材偽装が明らかになった。バナメイエビを「芝海老」、普通のネギを「九条ねぎ」、豪州産牛肉の成形肉を「和牛」などと表示しており、食材表示への消費者の信頼を大きく損なった。

猛烈な台風がフィリピン直撃、死者・行方不明者約8000人

猛烈な台風30号が11月8日、フィリピン中部を直撃し、約1600万人が被災した。

同国政府の発表(21日現在)によると、死者は6102人、行方不明者は1779人と、同国で過去最大級の自然災害となった。

12月上旬は死者と行方不明者合わせて約7000人だったが、捜索の進展で増えた。

台風の最大瞬間風速は秒速105メートルで、沿岸地域を高潮が襲い、レイテ島タクロバン市などで壊滅的な被害が出た。

中国で大気汚染による濃霧が過去50年で最多と判明

中国の1月~10月の微小粒子状物質(PM2・5)を含む「濃霧」の発生日数が過去50年で最多となった。

中国気象局が11月1日、発表した。越境汚染が懸念され、日中韓は今年3月、PM2・5を巡る政策対話を北京で実施することを決めた。

世の移り変わりというものを客観的にみていただくために、敢えてこのように日本国内のニュースと世界の主だったニュースをほんの少しだけ述べてみましたが、それでは本題に入りましょう。

真の喜び

さて、社会も、私たち普段の生活も表面的には一見安定しているかのようにみえるが、実は上に記述したニュースのように、いつ何が起こるか予測できないことが多く、一寸先は闇であり、不安定そのものということが理解できると思います。

もっと厳密にいうならば、私たち個人個人においても同じことがいえるのであって、死と隣り合わせに生活しています。

ですから死生観ということを是非一度真剣に考えてみていただきたい。

肉体をいただきこの地上に生まれた以上、誰もが死をさけられないのだが、それにもかかわらず人びとは目前の生活に追われ、不必要なことに心を乱し、肉体五官中心の毎日を送っている。

何も人間に備わった感情を捨てろということではありません。

テレビドラマや映画においては喜怒哀楽というものが欠かせない人生劇場の条件でしょうが、しかし、人がそうした喜怒哀楽まかせの生活を続けるかぎり、人生の真の喜びを知ることはできないであろう。

そうすると本当の意味での心の平和はこない。

感情に偏って悲しみ、怒り、恨み、妬んではいけないということだ。

それでは本当に心の平和はこないのだろうか。

決してそんなことはない。

人間が本当に心の平和を望むならば、物にほんろうされず、肉体五官中心の生活にピリオドを打ち、自分の内にある、決して偏りのない、エゴ(自我)から離脱したバランスの取れた、感情的でない心の尺度にしたがって物事を判断し行動することである。

なぜなら、肉体に囚われた五官六根中心の生活、生き方からは、私たちの心の安らぎは、決して生まれるものではないからである。

ここで五官六根の意味について今一度、説明をしておきましょう。

人間が持って生まれた肉体感覚としての御存知のように、眼、耳、鼻、舌、身(全身)です。

見るもの、聞くもの、匂い、味覚に加え、寒暖、痛、快などの皮膚感覚に執着し、そこに意識が加わり六根となります。

したがって、自我(業、エゴ)とは、私たち人間の想念と行為による執着がつくりだしたものといえるでしょう。

この想念とは、表面意識と潜在意識の中間に位置して両面に同通する意識帯のことです。

それだけにこの想念を、五官という表面意識で曇らせると、潜在意識の部分まで汚してカルマを重ねてしまうことになる。

厳密にいうと、過去世におけるカルマを解消できず、逆に魂の芯の部分、つまり潜在意識(中心)にまで上塗りして生まれ変わっている人間は多い。

業想念

このようなことが何故起こってくるのかとなると、それは業想念によるものである。

お金は絶対であり、豊かさはお金次第だ、命の次に大事なもの、地位が高ければお金も入るし人々から尊敬される、汗水流してまで働くのはバカバカしくて割に合わない、人生は面白おかしく過ごした方が得だ・・・・・・・といったようににです。

こうなると業想念は、やがて業をつくってゆき、さらにその汚れた業想念を重ねてゆき、死んであの世に行って大変厳しい苦労をし、魂の修正が未熟なままで再び来世に生まれても、その業に引きずられる要因を強く持ち越すことになり、地上の人生においても新たな業を生みだしてゆきます。

もうこうなると、この世での人生が良きものとなりようがなく、苦難の人生となるのである。

しかし、決して諦めてはならず、自らの努力で試練を超えていかなくては業の解消は叶わないのだ。

業にしても、業想念にしても、私たちは大なり小なりその影響を受けながら生活をしており、そのため自分の都合の悪いときには、とっさに悪い癖が出やすくなるのです。

人間はこのようにして生まれ変わり、即ち、輪廻転生しているというのが現実である。

しかし、業に引かれてはならない。

分を律することができるのは他人でもなく、神でもなく、仏でもなく、依存した他力信仰でもなく、己自身であることを悟らなくてはならないだろう。

に掲載した円のイラストのから水色の部分が想念帯で、の部分が表面意識、から内輪の黄色が潜在意識である。

自我という言葉は悪業を表した代名詞のような言葉と受け取られがちですが、善も業を重ねる種となる場合があることを知っておかなければならない。

例えば、子どもに対して『ああしてはいけない、こうしなさい、ダメよ、いつまでそんなことしてるのよ、受験を控えているでしょ』というような押し付けや、否定の言葉、実は、こういった子どものためとはいえ、親の価値観という都合による善への執着も業をつくります。

相談者のなかに、夫への愚痴、不満、怒りを毎回のように話す奥さんがいた。

しかし、私がこの家族を客観的にみるに、ご主人も逃げている点はあるのだがしかし、この奥さんはいつも自分が正しく、ご主人は間違っていると裁く、という考えを変えようとしない心の闇、エゴという闇の帝王が巣食っているのがよくみえるのである

他を批判し、感情に先走った言動は自他を苦しくさせ追い詰めてしまうことに気づかなくてはなりません。

自分の心の苦しみは他を赦すことなくして解放されることはないのである。

「それは解っています。」と言いながら相手を許せないのは何故か。

これこそが自我であり、執着というものの実態であると同時に、その背景には自分自身が過去世において解消できなかったカルマ(業)に引かれて今世においても再び、理性も知性も見失っているということである。

真の意味での正しい人間は、他を裁くということはしないものです。

人間、善に囚われると心も言葉も四角四面になって角が立ってきます。

善への執着も円満を欠くのである。

心(魂)は丸くなければいけません。

心が三角や四角ではこまるのです。心の光

要するに自我(業、エゴ)は五官六根に基づく執着の想念が作り出した、汚れた黒い想念であり、囚われた心、これを自我(業、エゴ)というのです。

こうしてみると、善にしろ、悪にしろ、心や行動に業をつくってゆきますと、それにまた心が引き回されて、「良くない」、「悪い」と知りつつ悪を重ねてしまう。

あるいは、人の意見が正しいと思っても、その意見にあえて逆らい、素直になれず、逆の方向に自分を持って行ってしまいます。

そこにあるものは、奇癖、頑固、優柔不断、驕り、傲慢、虚栄心、見栄、でありこれらはみな自我心(業、エゴ)の作用によるものです。

業想念というものは、地上生活の中で相対的観念に自分の意識、魂が振り回されている状態をいいます。

この相対的観念とは、他の言動を見ることで判断したり、行動する、自分と他を比較して物事を判断する、他と他を比較して物事を判断することをいうのです。

こういった判断には本来の自分、即ち、一個性としての自分、本来備わってるはずの思いやりのある心、慈愛のある心、決して右にも左にも片寄ることのない調和された心から判断する言動は失われているのである。

残念ながら、表面的な教育や説法ではもはや神性仏性を内在した人間としての己を知ることはできないだろう。

悩み苦しんでいる人たちと語り合っているとき、いつも思うこと。

人間は悩み苦しんだときにこそ心の安らぎを求めるのだが、それには五官に翻弄されない生き方、すなわち、奥深い心の内面から正す以外に道はないと。

「人は褒めて育てろ」とは言いますが、表面的な慰めや激励で解決するようなこととは異なるのが自我心の修正なのだ。

底深き 奈落の淵におちて 今もなお

己のよこしまなるに 気づけぬ愚人

心あるもの

道に目覚め

安らかなり

諸行無常

ここまで述べてきたように、私たちは通常は肉体五官の範囲内で生活しています。

しかし、私たちが気づかないだけで、実はもっと広い五官以外の、感覚次元を異にした世界に包まれ、その中にいるのである。

一般的には4次元ともいわれている世界のことだ。

肉眼で見える範囲はきわめて狭く、限られて、物質的次元であり、その物質は、時間、年月と共に変化し、とどまることなく循環し、きわめて不安定である。

諸行無常という言葉がそれを示している。

であることは何もないという意味です。

生命の本質

私たちの肉体を科学的に説明するならば、エネルギー粒子によって支えられているということになるが、そのエネルギー粒子を目で見ることはできない。

当然である。エネルギーは運動能力を示した言葉であって肉眼でみられることではない。

人間の肉体も見えないエネルギーによって支えられていている。

形あるものはいつかは崩れる。

形あるものは、形のない光の粒子によってつくられ、そうして絶えず新陳代謝をくり返しているのだ。

この成りたちは肉体だけのことについてだけ言えることではなく、心の世界、魂の在り方もこれと同じで、私たちの生命の本質は、永遠の旅路をつづけている。

何故、永遠の旅路を続けるのか、それは私たち個人の魂の調和と、人類の調和、そして地球の調和、宇宙の調和という目標に向かってであろう。

時折耳にする言葉ですが、「心ある人」、「心ない人」とという言葉があるように、心は見えないが、誰も自分に心が無いと否定する人はいません。

心や魂については、普通は見ることも触れることもできないが、しかし、実際に普段の生活の中で考え、行動している出発点は他でもない心(魂)である。

その心(魂)は五体が朽ちれば、次元を異にした世界で生活するのです。

心とはほかでもない「魂」のことだ。

私のわずか64年の人生経験から述べる言葉ですが、この事実は曲げられない。

私のような者でも気づいたのですから、私たちが心の世界、魂の存在を認識したとき、五官や六根にふりまわされた生活の儚(はかな)さ、哀れさを知ることができるであろう。

何故なら、この世の地上生活は、人間の魂が人間の魂として永遠に続くの人生行路の一コマであり、その一コマに、翻弄(ほんろう)される無意味さを悟るからである。

肉体五官中心ではなく、偏りのない心からの行いを中心とした生き方、調和という目標を知っている私たちの心は、それに目を向けようと向けまいと、私たちの毎日の生活行為がそれに合致するよう潜在的に望んでいるのだ。

物質文明がどれほど変わろうとも、大自然の計らいと、人間の生きる在り方というものは、遠く古代も、現在も永遠に変わるものではないし、私たちの心はそれを知っているのだ。

私がこれまで述べてきた記事の内容は、人間と大自然の関係を中心として、人間という心を持った霊長生物を浮彫りにし、物質文明の中で明け暮れる不安定な心の動揺は何に起因するか、どうすれば真の安らぎが得られるかを明らかにしようとするものである。

心の尊厳性を悟り、このブログで述べてきたことの真意を生活の糧とされて、一人でも多くの人が安心した境涯に到達されるよう望むものであることを年頭の願いとしたい。

昨年は多くの方々に訪問していただき心から感謝を申し上げる次第です。

今年からは周一のペースで毎週月曜日にアップしていく予定でおります。

今後とも宜しくお願い申し上げます。

感謝。

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