夢を捨てず欲を減らす・夫婦の相互理解

整体

今年の9月から私のところに36歳の男性(4人の子持ち)Sさんが整体師になるために弟子入りしてきた。

彼が最初に私と会ったのは23年の11月5日のこと。

勤務する会社の景気が悪く、給料の遅配が頻繁、生活の不安定などもあり、不眠、不安感、イライラ、幻覚、小さな物音にも過敏になり、深夜でもいきなり起き出す。

このような症状で内科や様々な10もの病院を訪ね、心療内科にも精神科にも行ったが症状が改善されるどころか、悪くなる一方で薬の種類も9種類にまで増えていて薬漬けの状態できたのである。

当然であるが、まともに仕事ができる状態にはなかった。

向精神薬の減薬を提案し、数か月がたち、薬を100%やめることができ、症状も随分と改善できたが、まだ少し不安感が残っていた。

当初はカウンセリングの為に県外から車で二時間半の時間をかけて奥さんも同伴で毎週通ってきた。

病気克服のためには、夫婦の相互理解も絶対に欠かすことのできない妙薬である。

これまで相当に耐えてきたのだろう。彼は何度も泣いた。

そして心が洗われていったのであろう。顔の表情にも笑顔が見られるようになってきた。カウンセリングも週に一度から月に一度、2カ月に一度のペースに遠のいて行った。

いつの間にか2年近くの歳月が流れていた。

もういいだろう。

整体師として私の院で心と、体と、技術の学習をしなさいと、彼を育てる決心をした。

人間はどのような厳しい環境に置かれようとも希望を捨ててはいけない。

否、厳しい環境だからこそ希望を持たなくてはならないのだ。

そして人間は夢をもつことを知っていて、その夢を多くの人と共有することもできます。

また、逆に人間の過ぎた欲望はとなると、自分自身の利益だけを満足しようとします。

世の成功者たちは必ず「過ぎた欲望」ではなく、「夢」 を持っているものであります。

自分だけが利益する考え方、生き方だと短期的には、人より伸びたかにみえるのだが、長期的には敵をたくさん作ることになり、結局は時と共に衰退していくことにつながるものである。

「夢」 を持つというのはどいうことだろうか。

これは先に述べたように、共有するという意味において「多くの人の幸せを願うこと」といえるでしょう。

反して、「過ぎた欲望」 というのは、 「自分だけの幸せを願うこと」といえるだろう。

独り占めもそうであるように、足ることを忘れた生き方は、社会の循環を阻害する行為であり、やがてはその行為が自分の幸せを遠ざける行為であることに気づかされる。

希望を捨てず、皆が幸せになることを願えば、誰もが幸せになれる余裕はこの世にある。

なのに、心無い人は自分だけが勝とうとする・・・ そういう間違いに気付いてもらうためにも、 足ることを心に落していただき、欲を減らし、希望を捨てず、「夢」をもって生きたいものである。

私が20代、30代の苦しかった時、心の支えになったのは「夢」でした。

その夢のお陰でどんな困難も、耐えることが出来た。

心から喜べる仕事、誰かの役に立てる仕事、喜びを共有できる仕事を必ずみつける。

それが私の「夢」でした。

それが42歳でようやく叶ったといえば「遅い」と思われるかもしれません。

しかしそうではない。私の場合はそれだけの準備期間が必要だったのである。

何故なら、いま行っている仕事の内容、カウンセリングの内容を月並みなものではなく、心と体に響くものにするため、結果を出せるものにするために欠かせない条件だったからだ。

私の夢は決して我欲を満たすための夢ではない。

そして、我欲は捨ててもよいが希望は捨ててはいけない。

先に述べた件のSさんは今、心地よい疲労感と学ぶことの充実感、接客できることの喜び、こういった感動のなかで日々生き生きと夢をもって頑張っている。

彼が希望を捨てなかったからだ。

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魂の真の自由と不自由

悩み

妊婦の苦悩

妊娠8カ月の独身女性28歳が「うつ病で向精神薬を服用していますが辛くてお先真っ暗です」といって相談にみえた。

私は、お腹の赤ちゃんを考えると、向精神薬を処方した心療内科の医師に疑問を持った。薬を減薬し、それに慣れたら早めにやめなさいとアドバイスした。

心療内科の先生でも妊婦には薬を出さない良心的な医師もいる反面、見解の相違というより、営利主義の心療姿勢に疑問を持たざるを得ない。

この女性、90分間お話しを聞いたが、私のみるかぎりではうつ病ではなく、ただ彼との関係で不安、悩みがあるだけで薬を服用しなければならないような症状はない。

男と女の関係は恋愛だけなら差ほどに責任もないだろうが、妊娠したとなるとそうはいかない。

籍を入れてくれない彼に不信感を持ち、不安な状態にまで追い詰められて心の自由を見失ってしまっていた。

これまで優しかった彼が、妊娠を知った頃から様子が変わり始め避けるようになってきた。

話しを聞いていて矛盾だらけの彼の行動に希望は持てないと判断し、厳しいかもしれないが「最悪はあなたひとりで赤ちゃんを育てなさい」と忠告した。

強引に結婚を迫っても幸せにはなれないと判断したからである。情けない男だ。

「自由」という言葉がある。

他への迷惑を省みずに勝手気ままに生きることが自由だとするのか、この言葉の本来の意味はどういうことをいうのだろうか。

きょうは、社会生活のなかにおける真の自由ということについて考えてみたい。

人の心というものは一念三千という言葉が示すようように、三千世界、つまりどこにも通じる自由自在なもの、そうして無限の大きさと広がりを持っているものです。

この世の人間は肉体を持って生きていますから、どうしても肉体五官に左右され、その影響に負け、煩悩が湧き、その煩悩に翻弄されながら生きています。

その点、あの世の一定の段階に進んだ霊たちの場合は、執着から離れていますから自由な心を持っていて、比較的どこへ行くにも自由に飛び回ることができます。

さらに光りの天使ともなると次元を超えて往来できるだけの心の自由をえているのです。

逆に、心に執着があり、魂を曇らせたことで次元の低い世界にいる霊達の場合は、こうした自由さは行使できず、地獄という世界で苦しむことになります。

その執着、未練のために心が不自由となり、生前の場に居たり、遺族に寄り添って離れようとせず付きまとったりして地縛霊や、憑依霊となったりするのである。

自由とは本来、心の自由、あの世の天使たちの自由さ、そしてそれは人間本来の心の機能をいったものです。

人間は肉体が病気をしたり、どこか不具合が生じてくるとその体の状態に左右されて心まで乱してしまいがちでありますが、そうであってはいけません。

体が病んでも心まで病んではならないのです。

こんなことを言うと、「きれいごとを言うんじゃないよ」とお叱りをいただきそうです。

しかし、敢えて述べさせていただきますが、私自身が6年前に倒れて死線をさ迷うような状態を経験し、それを超えてきたものが何であるかとなると、それは自分の心の内省と調和、そして地上にいただいた命の尊さへの感謝天命を全うしなければ、という一念でありました。

こうしてみると、人間本来の心の機能とは自分で自分の心を縛ることなく、いつも調和されて、慈愛に満ちて光り輝いていることをいうのです。

少しばかりの自覚症状に己の本質を見失ってはなりません。

意識をしっかり強くもっていただきたい。

ところがそうした心の自由を持つ人間が、一度肉体という衣を着ると、その肉体の五官機能のなかで生活しますから肉体のないあの世の霊人よりも不自由になってきます。

私たちのように地上で暮らす人間は、心の中で、ああしたい、こうしたいと思っても、肉体の制限のなかでしか行動できません。

例えば、海の上を歩いてみたい、早く走りたい、空を飛んでみたい、遠くの人と話をしてみたい、と思っても、それはできません。

そこで、心の要求を満たすために、人間はいろいろと考え、水上に浮かぶ船を発明し、早く移動する自動車をつくり、空を飛べる飛行機をとばし、遠くの人と話せる電話を考案してきました。

つまり、肉体という不自由さを、こうしたさまざまな乗り物や機器を発明することによって、少しでも緩和し、自由さを取り戻したいと考え続けてきたわけです。

いうなれば、あの世の自由な体験を、この世で現わしつつあるといってもいいでしょう。

しかし肉体という衣を着ると、心の自由さは、ふつうでは不可能に近くなってきます。

肉体と心が分離できる人は、心の自由さを知ることができます。

この地上で生きながらも、肉体的制約がありながらも自分の内にある調和された自由な心、執着しない心、体に囚われない心で生きることが可能であります。

心に執着が無ければ、仮に、肉体的な苦しみがあっても、それを大きな苦しみと思わず、心は安らぎ、平静を忘れず、他に対しても慈愛の心を忘れることがありません。

自分のことだけでいっぱいいっぱいの人は、まだまだ自身の視点が狭い境涯であることを知らなくてはならないのです。

しかし、人は本当の心の自由よりも、肉体の自由を求めようとします。

心の自由を求めているつもりでも、実際は思想の自由、言論の自由からはじまって、なにもかも自由に結びつけてきます。

家族で暮らしていても、自分は不自由だと不満や小言をいっているうちは、その環境が進展して明るい笑顔のある家庭とはならないだろう。

そうすると、この世の中は混乱してきます。

三次元は四次元の投影

この地上世界は、万事が三次元的にできていますから、三次元のルールをはずすと、苦しみが生れてくるのです。

だが、この三次元は四次元の投影であり、肉体は心(魂)の投影であることを知らなくてはなりません。

三次元のルールとは中道という片寄りのない生活を行動に移すことが基本です。

このルールが崩れてくると、作用、反作用の法則が大きく振幅し、心にも体にもさまざまな障害が現われてきます。

人びとの悲しみ苦しみは、こうしたその心と肉体の関係を理解していないためと、ルールを踏みはずした生活行為にあるわけです。

真の心の自由というのは、この世に肉体を持って生きていても常に心は四次元以上、五次元、六次元、超次元の世界なのです。

心は宇宙と一体であります。

したがって、肉体を持つかぎりは、調和という秩序にしたがい、お互いの心の自由、心の尊厳さを認め合いながら生きていかなければならないのである。

※これまで2011年10月から2年間弱、一日おきに記事を投稿してきましたが、仕事と奉仕活動としてのカウンセリングで毎日が忙しく、さらにメールでのお問い合わせやご相談にも時間を割いてきましたが、最近は記事を書く時間が取れにくい状態にあります。

つきましては、26年1月からは初回が1月6日(月)週に一度のサイクルで毎週月曜日にアップする予定でおります。

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不変の真理・過去・現在・未来は一点

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インスピレーション&想像

約30年ほど前の話しですが、友人と二人で戦争について語り、原子爆弾や水素爆弾の話しをしていて、これを平和利用のエネルギーとして活用する方法はないものかということがありました。

水から水素を取り出せて車の燃料にできたらいいだろうなという、私の幼稚極まりない考えです。

核燃料のほうでは現代では原子力発電所として、莫大な電気エネルギーの生産に貢献していますからこのことは平和利用であり、優秀な科学者たちの力に依るものであることはいうまでもありません。

そして原子力に劣らず、水素も非常に大きなエネルギーであることはご承知の通りです。

科学に関して全く無知な私は、この水素を水から取り出して利用することができれば、水資源は豊富だから有効なエネルギー資源とならないだろうかと愚かなことを話したのを覚えています。

もちろん一笑に伏されました。

水の組成は、水素2、酸素1という原子の比率でできていますが、水素は最も燃えやすいものであり、酸素もまた物を燃やすためには欠かせないものであります。

この極端に燃えやすい水素と酸素が結合することで火を消す力のある水になり、あらゆる生命体を維持する源となっている大自然の不思議。

水はあらゆる生命体を生かしている元となる存在であり、最も調和された姿といえるでしょう。

水の構造は上述したように、2個の水素原子(H)と1個の酸素原子(O)からなり、水の分子(H-O-H結合)の形態で存在しているといいます。

ここで少しばかり、水から水素を取り出して燃料にできないかという30年前の私の科学知識ゼロで無鉄砲な考えについて今一度、検証してみたいと思います。

石油の代替となるエネルギーについては世界規模でさまざまなものが提案されていますが、現時点ではそのどれもが複雑な生産プロセスを必要とするため、コストが高いままで実用化には程遠いようです。

その意味では、次世代エネルギーとして注目される水素燃料も例外ではありません。

先ず、水から水素を取り出すためには多くの燃料、つまりエネルギーが必要だということで生産効率が悪く、実用化できないということが課題のようです。

これは水から水素を精製するためにたくさんの石油資源を浪費することで効率が悪いということをいっています。

ところがコロラド大学ボールダー校の科学者たちは、非常に簡単な方法で水から水素を取り出すことに成功しました。

コロラド大学ボールダー校の研究者たちが考え出したシステムは、太陽光と鏡を用いた水分解装置。

水が蓄えられた塔を中心にして周囲に無数の鏡を設置し、太陽光を集めて塔を温めます。

太陽光の集中によって塔の中の水の温度は華氏2500度(約摂氏1370度)にまで高められます。

この水の中には、酸化している鉄、コバルト、アルミニウムなどが含まれており、高温に達した酸化金属は、化学反応によってさらに酸素を取り込もうとして水分子から酸素原子だけを吸収します。

つまり水素だけが残され、これを集めることで水素と酸素を分離できるといいます。

従来の方法では、一度温めた炉を再び冷やす必要がありましたが、この装置では蒸気弁を切り替えるだけで常に反応が起こり続けるため、時間と蓄えた熱を一切無駄にすることなく水素を生み出すことができるといいます。

強い太陽光線と広大な土地が必要なため生産できる場所は限られるでしょうが、太陽光から効率よく水素を作り出せれば石油や原子力に頼らなくてもよくなるかもしれませんね。

楽しみではありますが、しかし、課題はまだまだ山積されているようで、実用化にはまだしばらく時間がかかりそうです。

科学者たちの努力に期待し、大いなる発見に到ることを願うものです。

過去 現在 未来は一点

ニュートンは「リンゴに働く重力」を発見したわけではなく、「リンゴに対して働いている力が、月や惑星に対しても働いているのではないか」と着想したのである。

私たちが何か新たなことを発見したり、気づいたとしても、実は新しい法則というものは何一つとしてありません。

法則は法則で既にあったものです。

例えば、水は高いところから低いところに流れることは法則であり、決して低いところから高いところに流れることはありません。

このことに気づいた人間が、落差を利用して水の力でタービンを回し、水力発電所をつくりました。

このように人間は自然界にある法則に気づき、そこからさまざまな発見をしてきたのである。

一方、知識の集積は、それを受け取る人次第で内容が異なってきます。

私たちは子供の頃からその知能に似合ったものを教わりますが、まず『あいうえお』から始まり、やがて知能の発達とともに単語を覚え、文章が読めるようになる。

知識は無限に存在し、際限がありません。

がしかし、そのうちのどれだけを自分のものとして吸収出来るかは、精神的ならびに霊(魂)的受容力の違いであり、得意、不得意の違いもあります。

私たちがどれほど知識を蓄えても、それによって法則を変えることはできません。

どれほど知恵をしぼっても、宇宙大自然の法則の中身を変えることはできません。

過去において法則であったものは今日でも法則であり、明日の時代にも法則です。

ですから、過去、現在、未来は、今という一点の連続であります。

私たちは新しい叡智を身につけることはできます。

新しい知識を増やすこともできます。

が、新しい法則を生み出すことはできません。

私たちはこの不変の法則のなかでこそ生きていられるのです。

心の法則

実は人類にも法則はあります。

人類はすでに地上生活に必要不可欠な法則である『親切と助け合い、愛についての基本的法則』のすべてを魂の内に授かってこの世に生まれてきます。

世界をより良くするためには如何にすべきかを既に心の内に潜在しているのですが、一時の欲望の為に、権力のために我を失っているのである。

魂の成長と発展と向上と進化にとって必要なものは全て示されているのですが、人々は気づいていないだけである。

己の内にある心に素直に謙虚に従いさえすれば、万民の誰もが自身の神性をより多く発揮することができるのですがそれに気づけないのである。

それは地上に生まれてからの自我を拡大するからであって、そのために備わっている神性を発揮できないだけだ。

国によって言葉こそこそ違え、すべての人間が永遠の魂、天の意思、宇宙の意識の一部を宿していることに気づき、自覚しなくてはならない。

宇宙の法則と霊的理念に従って生きれば、この世の悪夢のような悲劇、あまりに永きにわたって無益な苦しみを与えてきた恐怖と悲劇と苦悩を一掃できるであろう。

自分を愛するごとくに他を愛し、苦しむ者に手を差しのべ、人生に疲れた人の心に、また潤(うるお)いを求める者に本当の正しい心の基準である偏りのない心示さなくてはならない。

病の人に手を差しのべ、悲しみの人を慰め、不幸な人に耳をかたむけなくてはならない。

大宇宙の大いなる真実、愛と慈しみは、いまできあがったものではなく、太陽系が存在したときからの法則です。

否、宇宙の誕生からでしょう。

人間の心の法則も大宇宙の真実も同根です。

つい先日のこと、「檀家寺から30万円の寄付の要請があり、わずかな年金でようやく暮らしている自分には支払えないし困りました。」といって心療内科に通い、薬を11種類も服用していて体調を崩してしまった80に近いお婆さんの相談があった。

私は減薬の方法を細かく示し体の様子をチェックして全身のケアをしてあげると顔に赤みが差し血の気が戻ってきた。

地獄の沙汰も金次第とはいうが、私のわずかな経験で知り得たことは、現代宗教の多くが、葬式仏教であったり、ご利益宗教であったり、他力信仰であったり、教祖崇拝であったり、偶像崇拝や曼荼羅(まんだら)崇拝が蔓延して、先祖の供養、仏の供養、人々の救済という大義名分に名を借りた僧侶や、教団や教祖、患部らの営利主義的ビジネスとなっています。

そこには真実の法(教え)はありません。件の檀家さんへの寄付要請の話しもそうだが、この寺の住職は甚だ評判がよろしくない。

当然であろう。伽藍(がらん・建物)を立派にすることにばかり奔走し、高級車を乗り回し、貧しい檀家にも高額を請求するのだから。

人間はまだまだこの世的な都合やエゴ(自我)によって虚飾された宗教やそれらの信仰体系に翻弄されています。

宗教は、教義だとかドグマ(哲学的見解)だとか、儀式だかという障壁を築き上げてしまいました。

本来はシンプルな中に真の教えも学びもあるものです。

真実を知るということはチャンスが少ないものです。

私たちは、一見立派そうにみえる人間が、霊的事実について誤った概念と偏見と無知のために、死後に直面する生活に何一つ備えができていないという状態であってはならないでしょう。

ですから私は、あらゆる宗教的体系と組織、心の進歩を妨げる信仰、不必要な障害、人間の精神を曇らせ、心を惑わせる迷信に対して敢然と立ち向かい、相談者と折に触れて会話をするのです。

間違った信仰に埋没しきっている人にも誤りを説いてきました。

宗教的トラブルに苦悩する人々にも正しき人の道を説いています。

不変の自然法則に基づいた単純素朴な永遠の真理は人類の魂に根本的原理としていなければならない大切なものです。

それは単純・明快で誰にでも理解できるものでなくてはなりません。

それが宇宙大自然の法則です。

私たちはその中で生かされている存在です。

自分の内にあるこの法則に沿って思考し、決断し、実践することですべての自我から解き放たれ自由な身とならなくてはならないだろう。

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心の洗浄剤・大人の涙

涙

若し ひと おのれを愛すべきものと知らば

謹みて おのれを調えべし

心あるものは

他を愛すべし

泣けるには他の理解がほしい

相談者の内情は様々で、人それぞれに悩みを抱えておいでになります。

身体の健康状態に関する悩み、薬の副作用に苦しむ人たちの悩み、うつ病、パニック障害、過呼吸、家庭内の親子関係における悩み、夫婦間の悩み、嫁姑問題の相談、子どもの不登校、育児ノイローゼ、等々、数え上げればきりがないほど多くの問題がある。

そして相談者の殆どの方がよく泣きます。そして別人の如く明るい顔をして帰られる。

相談者に「心療内科に行かれた時もこのように泣けましたか?」と、問いかけると決まって「いいえ」と、答えます。

当然と言えば当然かもしれない。何故なら、心療内科は症状に関することは聞いてくれますが、人生相談の場所ではないからだ。

しかし、現実には心の奥に溜め込んだこれまでの苦悩を根本的に解放してあげない限り、心療内科や精神科で対応するような症状が改善されることはない。

このことはこれまで相談に見えた、心を病んでいる多くの人たちの発症から現在までの数か月、数年間、あるいは十数年間の変化がない、あるいは悪化している症状の経過を聴くことで確認できたことである。

人間は、悲しい時、辛い時、うれしい時、あらゆる感情が抑えきれなくなった時、その感情が形となってあふれ出てくるのが「涙」です。

私たちは涙によって、胸の内に抱えきれなくなった感情を表に解き放ち、心のバランスを図っているといっても過言ではありません。

実は、泣くことは医学的に言っても、睡眠や笑うこと以上にストレス解消に効果的だと証明されており、たった一粒流すだけで、一週間ストレス解消が続くとも言われているほど涙は絶大な解放のパワーを持つ。

医学的に証明された涙の効用

連日の残業でたまる一方の疲労、難しい人間関係、会社にいるとストレスはつきもの。

思いっきり笑うことはストレス解消になるというが、じつは、思いっきり泣くことでも娯楽、飲酒以上にストレスは解消されるのだ。

ただし“ある種の涙”に限られるのだが……。

泣いたらすっきりする?

涙を流したら、泣いたあとで気分がすっきりした――。誰でも一度は経験があるだろう。これにはちゃんとわけがある。

今回はこの「涙」をクローズアップしてみた。

「涙――人はなぜ泣くのか」(石井清子訳 日本教文社1990年刊)の著者である、アメリカのウィリアム・H・フレイ博士は、1985年に涙の研究で注目された。

博士の研究によると涙の種類は3つある。
(1)基礎分泌による涙(2)刺激による涙(3)感情による涙 。

そして基礎分泌による涙や刺激による涙と、感情による涙の成分には違いがあることを発表した。

博士は、タマネギを切ったときに出た涙と、映画に感動して出た涙を分析して、成分の違いを比較した。

すると、映画に感動して出た涙、つまり感情による涙からは、ACTH(副腎皮質刺激ホルモン)が検出された。

このACTH(副腎皮質刺激ホルモン)は、ストレス反応として分泌されたホルモンなので、泣くことで体の外へ涙と一緒にストレスが出て行っているということになる。

これを検証するため、東京女子医科大学では、涙を流す前と後での、血液中のストレスホルモンの測定した。

すると、涙を流した後ではACTH(副腎皮質刺激ホルモン)が減少していたそうです。

感情の涙を流すと、ストレスが去り、すっきりするというわけである。

涙を我慢すると体に悪い

40代のキャリアウーマンAさん、仕事に徹して頑張っていたが、うつ状態になって相談に見えた。

責任ある立場で結果も出し、期待に応えてきたのだが、慣れない新天地での中傷、批判に耐え泣くこともできず、心療内科でも薬の処方だけで光りが見えない生活に疲労困憊しっていたのである。

私は彼女の抱えている職場での諸問題を一時間ほど聞くことに徹した。すべて洗いざらい打ち明けてくれたことで私もアドバイスがしやすい。

これまでどれほど一人で孤独に耐えて頑張ってきたのだろうか、この一時間、彼女は涙を何度もこぼし、目を腫らしながら話ししてくれた。

さらに一時間の会話によって彼女の目は本来の輝きを取り戻していた。

理解を得た喜びと同時にこれまでの努力に対する正当な評価を得て心に勇気が持てたのであろう。

涙が心を軽くしてくれたのである。

さて、赤ちゃんは泣くのが仕事だ。泣くことが意思の伝達方法なのだから、赤ちゃんは欲求と同時にストレスを発散させるために泣いているという。

ストレス発散のために泣いている赤ちゃんの対処方法は、成長に影響があるともいわれています。

たとえば、泣いている赤ちゃんを、うるさい! と放っておくと、親から離れている不安感から、人を信用できない臆病な子になるという学説があります。

また、無理やり泣きやませても、将来は人をいじめたりする子になる危険性もあるのだそうだ。

赤ちゃんが泣いたら、やさしく抱きしめて、泣きたいだけ泣かせてやるのがいいらしい。

大人でも泣くのを我慢すると弊害がある。

せっかく出て行こうとしているストレスホルモンを体に留めておくことになるので、ストレス性の病気になる可能性がある。

うつ病患者や、深刻な育児放棄をうけた子どもは、健康な人より涙を流さないともいわれています。

涙を流さないからストレスが内側に貯まって精神に悪影響をもたらしていることもある。

また涙を抑え込んで泣かないことは、肉体的にも悪影響があるようだ。

泣くのを我慢していると、体の上半身をこわばらせている状態になるので、肩こりがひどくなったり、疲れやすくなったりすることもあるという。

また、ストレスは脳にもよくない。

長期的にみると、何十億もの脳細胞を破壊していくことにもなりかねないという。

涙を流すことは、脳の老化予防にもなる。

だから、うれしいときも悲しいときも、泣きたいときに泣くのは、精神バランスを保つことにもつながり、若々しくいきいきと生きていく秘訣かもしれない。

ストレス社会の大人たちよ、泣こう

巷には“癒し”といわれる多くのスポットがある。

人の手で緊張をほぐすマッサージやアロマ、体を動かしてリラックスするエクササイズなどだが、それも有効な手段ではあるとしても、心のケアや心の学習をしなければ改善できないような蓄積した精神疲労というものもあります。

精神分析医のローエンは、著書「ナルシシズムという病い」(1983年刊)のなかで次のようにいっている。

「泣くこと、すすり泣くことは、緊張を解放するいちばんの早道であり、もっとも深い方法である。体のなかに緊張状態を生み出すストレスは、泣くことによってことごとく発散させる必要がある。マッサージやエクササイズを通じて緊張の鎧(よろい)を取り除くことができるが、もっとも深い効果を発揮するのはマッサージやエクササイズではなく、泣くという行為である」と。

疲れたなぁ、精神的にきついなぁと感じたら、感動する映画を観たり本を読んだりして、おおいに泣くこともよいだろうが、もっと重要なことは、日頃からストレスを上手にやり過ごせるような心づくりが大切である。

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簡単ではない魂エゴの修正

怒り

慣性の法則

Sさん(70歳)は若いころからワンマンで短気、自分の思いどりにならないことがあると些細な事でも簡単に怒ってしまう、そのため家族はいつも戦々恐々として暮らしていた。

しかし、いかにワンマンなご主人でも自分の体までは自由にはできず、病をして入院したのだが、末期のガンの為に余命いくばくもなく、結局この男性(70歳)は生まれてから死ぬまでたくさんの人を苦しませ、自分の心にも業という罪を上塗りし、己の魂を曇らせたままあの世に帰ることになる。

私は相談者に問うた。あなたのお父さんは死んだら仏になると思いますか?と。

「はい。死ななければ仏になれないと思いますので、亡くなったら仏になるかと思うのですが・・・・」

社会一般的には人間が死ねば仏になると言い、「仏さん」ともいうが、これは亡くなったことの代名詞として呼ぶ言葉であって、真の意味で仏になったのではない。

何故なら、本当の意味で仏とは、宇宙大自然の真理、人間の心の真理を大悟され、人々を調和へと導き法を説く方を称して「仏」と呼ぶものだからだ。

インドのお釈迦さまや、イスラエルのイエスキリストがそれである。

死ぬまで悪態を晒(さら)した人間が死んで仏になることはない。

実はSさん(70歳)は幼き頃より非常に劣悪な環境で生まれ育ったのである。

Sさんの実父がまったくそのような生き方をしたのだった。その意味で非常に気の毒なSさんである。

さてきょうは人間の業について述べてみたいと思います。

私は、しばし瞑想をし、この世において一番困難なことは何であろうか?、と自身に問うてみた。

心に浮かぶことは『人間の心』という言葉がメッセージとなって響く。

物を作ることや、事を成し遂げることなども難しさはあるのだが、他人の心を動かすことの方が難しく、もっと難しいのは自分自身の心を自由にコントロールすることではないだろうかと思うのである。

それ故に人間に苦悩がある。

それは何故だろうかとなると、究極、人間は欲望(エゴ)によって執着し、それに自分の心が支配されてしまうからである。

人間はこの地上で生きている限り、欲望はいつも隣り合わせであり、他人事ではなく、いつでもその欲望が顔をだし、支配されてしまう条件下で生活しているのだ。

最も調和されたこの地球という天体の上で生かされている人類にある苦悩は、自然環境によってあるのではなく、対人間関係においてであり、その根本は自分自身の心の在り方いかんによってである。

人間には根源的、本能的な欲望が備わっているから子孫も絶えることなく、人類の生命が継続しているのであり、このことは天の意思として感謝しなければならない。

しかし、この根源的な欲望が自己中心的欲望となって暴走すると、他人の意思に関係なく迷惑をかけたり、時には犯罪までにも発展するのだが、これは自分の欲望を満たさんとする非常に身勝手なエゴ、偏った不調和な意思によるものであろう。

ここで、人間のこういった心の働きをもう少し科学的に検証してみたい。

物体がその運動を続けようとする性質を科学では慣性と表現しています。

この性質は質量(性質と重さ)が大きいほど慣性も大きくなる。

ということは、

例えば、ボールをころがしたとして、同じ大きさでも中が空洞のボールと鉄でできたボールでは質と重さが違うために同じ力を加えた場合でも転がる距離が違ってきますから当然、質量の大きいほうが転がる距離が長くなるわけです。

もう一つの事例を述べてみます。

普通乗用車が時速50キロの速度で走行してブレーキをかけたら停止するまで通常なら約10メートル程度の距離が必要になる。

同じことを10トンダンプで行えば通常なら約14メートル程度の距離が必要になる。

この違いは何かというと先ず、車の大きさと重量が異なるため制動距離が長く必要だということであり、すなわち質と量の違いが制動距離の違いとなってくるということです。

ここまではご理解いただけると思います。

もう一つ事例を述べてみましょう。

カーブを車で通過するときに、乗っている人と車はカーブの外側にもっていかれますが、これは速度とカーブがきついほど遠心力が強く働くことになりますが、これは、車と乗っている人はカーブの外側の直線方向に移動する働きが発生していることによるものです。

こういった運動はすべて慣性の法則によるものです。

心の傾向性

この地球という名の宇宙航海船で生活する私たちは、この物理的法則の影響作用のなかで暮らしていますが、しかし、この法則は物理的運動だけにとどまることなく、私たち人間の心の精神作用にも常に密接に働いています。

今までの生き方を変えられないことや、よくないことだとわかっていても、その癖をなかなか変えられないことに気づいておられる人は多いのではないだろうか。

これは心にも癖がある証拠であって、慣性の法則による心の傾向性(癖)というものがあるからにほかなりません。

業(カルマ、エゴ、煩悩、原罪)という言葉に置き換えることもできます。

慣性の働きを心の傾向性(癖)として置き換えて、質量を想念の調和度に置き換えてみると分かりやすいでしょう。

想念の調和度とは、心がどれだけ日頃の生活によって、業(カルマ、エゴ、煩悩、原罪)を重ね、汚し、曇らせているか、また反対に、執着がなく調和されているかという心の輝き度のことです。

当然、執着が少なく心が調和されていれば、その心は輝いていますが、囚われた心、執着があると心は曇って輝きがありません。

念のために申し上げておきますが、これは肉体的な容姿とは全く関係ありませんし、身につける服装、装飾品などによる輝きとはまったく別次元であります。

内面的な心(魂)の問題です。

心の傾向性(癖)とは、その人の個性が良くも悪くもひとつの特徴として現れてくることをいいますが、下記のように、

見ること。

思考すること。

話すこと。

行動すること。

働くこと。

これら一連の働きの中でその人の心の傾向性(癖)がはっきりと表れてきます。

それだけに、見ること、思考すること、話すこと、行動すること、働くこと、これらの中で偏った行いをしてはならないということがいえるでしょう。

言行不一致

という言葉があります。

どれほど立派な言葉を並べても、その人の行動が、社会の秩序、道徳、法律、マナーに反するような行動であれば、それは非常に自己保存、自己中心的な生き方といわざるをえないでしょう。

あとは私たち自身が、日々の生活を自我心のまま不調和に生きるか、反対に偏りの無い執着しない、拘らない、調和された生活を心掛けて生きるかで心(魂)の進化に大きな差が生じてきます。

去年まではいつも怒りに翻弄(ほんろう)されていたという人が、心の学習をして今年は随分と穏やかになれたという事例がたくさんあるのです。

大切な向上心

こうして常に自分の心磨きを心掛けている人は、何事にも謙虚に素直に学ぶ姿勢を忘れませんし、そのことによって周りからも信頼を得て引き立てられることになります。

逆に感情のままに怒りをあらわにしたり、不満や嫉妬、愚痴を言って、人を裁いているような生き方をしている人は、自分自身を苦しめ、自らを貶(おとし)めて苦悩の中で戦っています。

問題は、マイナス(不満、愚痴、怒り、嫉妬、憎しみ)な傾向性(癖)のある人の場合ですが、しかし、これまでの生き方というものはそう簡単に修正できるものではありませんが、心掛けて日々努力しなくてはなりません。

やればできるのです。

若い人でも心穏やかに他人に思いやりをもてる人がいる一方で、70、80になっても不満、愚痴、怒り、嫉み、恨みをもって生きている人もいるのである。

故に、人生を長く生きたら心が丸く大きくなるのかというと必ずしもそうはならない。

そうなってはならないが、逆に年を重ねるごとに頑固に意地汚くなっていく場合もある。

人間の心の癖は本当に厄介なものですが、あの世に旅立つ前にしっかり自分の傾向性(執着、自己中心、傲慢、嫉妬、怒り、愚痴、不満、そねみ、中傷)を改善しておかないと逝ってから大変な苦労して地獄をみることになるだろう。

自分を省みることなく惰性(だせい)のまま生きたら、慣性の法則によって執着のままあの世に延長して持ち越すことになりますから要注意です。

これもまた宇宙大自然の法則である。

想念の影響

さてもう一度想念について触れておきますが、想念照度とは字の如く念の明るさ、調和度のことです。

何事にも偏りのない、正しい想念か、囚われた、執着した想念であるかが重要です。

人間は生前の想念の状態と死に際の想念によってあの世の居住環境が違います。

これは憑依霊が語りだすことをみれば証明されるように、その内容がハッキリと事実としてそれを示しています。

人間は、家庭環境で問題を抱え、会社でも問題があり、不調和な環境、その中に身を置けばやがて心まで曇らせてしまいがちですが、本人は慢性化したその環境に慣れてしまうために間違いを間違いとして判断できなくなる傾向にあります。

特に本人が依存心によって盲目的に信仰する宗教などによるマインドコントロールなどは最も冷静な判断、自分自身を客観的にみるという判断力を見失います。

そういった意味で、ご利益があるとする宗教の場合は特に、心の在り方を導き示すことがなく、他力本願の依存的な盲目信仰であり、自分の心の内に潜在する無限の可能性、能力、といったものを堕落させる最も危険な宗教といえる。

その背景には人間の依存心、という弱点があるためである。

自らの努力で進歩向上するという姿勢に欠けることは、堕落へ突き進むことになってしまいますが、心の仕組みや、働きについて、正しく真理を知っていて導き指し示すことのできる教祖、指導者が少ないことは残念でならない。

もう少し厳しく申し上げますが、心は決して宗教の題目闘争ご利益主義で救われることはありません。

救われたとする人がいたとしてもそれは読経や題目闘争やご利益ありとする教団指導のお蔭ではなく何事も自身の精進努力の賜物だということです。

従って外に答えを求め、他に答えを求める者は自らの心を見つめることも無く、自分のなかに答えがあることに気づけないままに人生を終るであろう。

自力本願

内なる心を見つめて内省と調和の繰り返しをしなければ真の平和な生き方はできない。

真の幸せは、偏りのない生活の中で気づく、自分の心の平和である。

幸せは作るものではなく気づくものです。

それが真の自力本願です。

作る幸せは物や経済で環境整備することで実感できるでしょうが、

気づく幸せは逆境でも、試練のなかでも、経済的に豊かでなくてもそれを実感できるものです。

ただ一点、自力本願の真意を間違うと、「自分の力でやったんだ!」という驕(おご)り、自己中心や傲慢となりかねないから気をつけなければならない。

自分を主張する心が傲慢と自己保存であり自力本願とは似て非なるものであるということだ。

自らを正しく律して、他に寛容の精神は、自分の魂を成長させる最良の妙薬であります。

※お知らせ。

※これまで2011年10月から2年間弱、一日おきに記事を投稿してきましたが、仕事と奉仕活動としてのカウンセリングで毎日が忙しく、さらにメールでのお問い合わせやご相談にも時間を割いてきましたが、最近は記事を書く時間が取れにくい状態にあります。

つきましては、26年1月からは初回が1月6日(月)週に一度のサイクルで毎週月曜日にアップする予定でおります。

いつも楽しみにして、毎日このブログを訪問してくださっている数百名の方々には申し訳なくも、本当に心から感謝を申し上げます。

記事投稿の頻度が少なくはなりますが今後も訪問をお待ちしております。

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霊は本質的・根本的エネルギー

心の光

覚醒の段階

人間は3次元における物的肉体が、4次元における霊的なエネルギー体によって機能している存在であることを否定する人はどれだけいるのだろうか。

このことは私自身が体験した多くの事例から確信をもって言えることですが、また多くの人たちと霊的な問題でやり取りしたことから、霊(魂)が肉体をもって地上で生きていることを言わんとするものであります。

しかし、このことに関して、特に科学者や医学に携わる人、有識者といわれる人の場合は肯定的ではなく、むしろ否定的な人のほうが多いのではないだろうか。

何故なら、霊的なことは知識では分かることがなく、心で感じ観ることだからであろう。

こうしてみると人間の価値観というものは非常に限定的であり、経験したもののなかだけで判断される傾向にあるようです。

ちょっと視点を変えてもましょう。

身近な問題として実例をあげるならば、食べ物ひとつについてもそれがわかります。

例えば、洋食で育った子供はやはり洋食系が好きで、ハンバーグが好き、ビーフシチューが好きと答えるが、和食で育った子供は切り干し大根が好き、肉じゃがが好きだと答えるのです。

ある幼稚園では給食を和食を率先推奨して実施したところ、もずくが好きだ、おひたしが好きだ、昆布の煮つけが美味しい、というようになってきた結果、風邪を引く園児たちが少なくなってきたという。

最近、和食が文化遺産として登録されたことが話題となっていましたが、上述したように和食の恩恵は思わぬところでその良さを示すことになったようだ。

ちなみに、私は毎日野菜スープを食前にいただいていますが、お蔭様でお通じが良いのと、この年でお肌がすべすべしていて顔にもシワがない。

(このレシピは後日紹介しますから参考にしてください。)

無形文化遺産登録の申請にあたり、農林水産省がパンフレットを作成していますが、ここで挙げている和食文化の特徴は4つあります。

(1)多様で新鮮な食材と素材の味わいを活用
(2)バランスがよく、健康的な食生活
(3)自然の美しさの表現
(4)年中行事との関わり。

なるほど、和食の特徴は、海の幸、山の幸と呼ばれる多様な食材があって、しかも脂肪分が少ない。

季節の花をさりげなく添えるおもてなしの心や、お正月やお花見などの年中行事と密接な関係を持って育まれた文化がすなわち「和食」というわけですね。

ちなみに、食文化の世界遺産としては、これまで「フランス美食術」、「メキシコの伝統料理」、トルコの伝統料理「ケシケク」、スペインやイタリアなどの地中海料理が登録されているようです。

さて、話題を戻しましょう。

私たちは、この地上に生まれてその環境や親の影響を受けて育ち、学んだことの影響を受け、知識、習慣、文化、伝統、対人関係などの影響をうけながら価値観ができあがっていきます。

4次元の霊こそが生命そのものであり、肉体が朽ち果てても霊は次元の異なった世界で生き続けているのである。

したがって、生命は霊そのものだということがいえる。

もっと厳密にいうならば、霊の無いところには生命はなく、物質は霊が宿るための器に過ぎず、殻に過ぎないということがいえるだろう。

これは何も肉体を虐げているのでもなく、疎かにしているのでもなく、霊と肉体の主従関係を理解頂くために述べているのです。

私たちの身の周りにある全ての物質は霊という実在、即ち、4次元のエネルギー体よって投影されたカゲ(現象、形、物質)にすぎません。

物質それ自体には生命はないのですが、霊的エネルギーが備わることで生命体と成り得て用をなすのである。

エネルギーとは、運動を成しえる能力のことをいうが、この能力は質量に比例すると物理科学ではいっている。

この質量を簡単に説明すると、燃やして暖をとる薪がありますが、薪にも木の種類によって熱効率の高いものと低いものがあります。

例えば、楢の木は非常に密度が高く、その分だけ同じ大きさでも重さが違います。

赤松の木と同じ大きさなら倍近くの重さの違いがありますが、これは密度、質量の違いなのです。

我が家の暖房は薪を燃やして暖を取るため、楢の木と赤松では、木そのものの質量が違うことでエネルギーの能力が違うことがわかるのである。

私たちの魂(心)は個性をもったエネルギー体であるといえるでしょう。

そしてその魂の質量はとなると、基本的には皆、だれもが平等に備わっているものではありますが、実際には本人の覚醒の段階によって発揮する能力に差が生じているということだ。

行住坐臥(ぎょうじゅうざが)という言葉がある。

私たちが存在し、呼吸し、動き、考え、座り、休み、眠り、判断し、反省し、要約し、決断し、正しく熟考することができるのは、人間が霊であるからこそです。

霊が私たちの身体を動かしています。

霊が離れたらその身体は腐り、土に還るだけです。

宗教に頼り、依存し、ご利益を求める人たちが犯す過ちは、物質を崇拝し、間違った偶像を拝していることになります。

何故間違いなのか。

そこに実在(霊)が無いからです。

物質は一時的な存在(現象)に過ぎないことは先に述べました。

霊はすべての存在を形成する基本的エネルギーであり、素材であるが故に永続性があります。

人間によって表現されている生命力は、霊的生命エネルギーという意味合いにおいては、固有の分類はあっても、小鳥、動物、魚類、樹木、草花、果実、野菜等に表現されているものと同じ生命力であります。

但し、人間は人間としての生命体であり、小鳥は小鳥としての生命を輪廻しているということであって、人間の魂が草花に輪廻するということではありません。

いかなる形体にせよ、生命のあるところには必ず霊が働いています。

霊性、霊格という言葉に示されるように、自身の自覚の程度、意識の程度にはさまざまな段階があります。

霊の表れ方、すなわち表現するかたちは限られたものではなく、無限であります。

無限なるものに制限を加えることはできません。

そして、私たちの生命の力の背後には、全ての霊の極致であり源泉であり、頂点であるところの、唯一絶対の存在があることを忘れてはならないでしょう。

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困難・克服・不変絶対の法則

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困難、苦しみは自分自身の心が成長するための通過点と受け止めて生きなければならないことは前回のコラムで申し上げましたが、今回も前回に関連する事を述べてみます。

そのような意味合いから、生きることのなかで解決すべき問題もなく、チャレンジする目標もなく、超えるべき困難もない生活には、人間の魂の深奥に秘められた神性仏性が開かれる機会はないでしょう。

前回も述べたように、本来、悲しみも苦しみも、心の奥にある神性開発のためには最大のチャンスでもあるのです。

ここで全く視点を変えて、私のこれまでの人生を振り返ってみますと、数えきれないほど失敗と苦難があったことが思い出されます。

そして、不思議な事に、困難の渦中にいるときは気づかなかったのですが、困難を克服してようやく一息ついたときに心に浮かぶのは、困難と克服は連綿とつながった事実であり、しかもそれが必然であったということです。

困難も、克服も、一つとして偶然というものが無いのです。

すべてが不変絶対の法則によって統制されているのです。

不変絶対の法則、これはどういうものであろうかとなると、全ては作用すれば反作用が働き、この働きがいつも循環しているという輪廻の働きのことである。

登山をすると困難な場面が必ずおとずれてきますが、目標地点である頂上をめざして歩をすすめ、時には周りの景色を眺め、休憩しながらも再び歩をすすめます。

登山口、コースは一通りではなく、いくつもある。

しかし、辿りつけば皆が同じ頂上で雄大な景色に感嘆し、心からの喜びを味わうことができる。

人生のコースも人それぞれであり、多くの困難も喜びも味わうであろう。

この味わいのなかで人間は霊的な意識が芽生え、自身の真我に目覚めた時、何もかも理解できるようになっていくのである。

人々はいったい何故に不要な事に心奪われ、何を恐れ、また何故に自己の内にある善なる力を信じようとしないのか。

宇宙に目を向けてみてほしい、太陽を中心にいくつもの惑星が自転公転しています。

地球という星は宇宙全体からみればでれだけ小さなものでしかないのか、その小さな星の表面に暮らす人間の存在はどれほどの存在であろうか。

その人間が争いをして我が利益のために殺戮を凝り返しているのである。

人間は宇宙の一部なのに、その宇宙を支配する絶対的存在になぜ心を向けないのか。

あらゆる無用な不安、恐怖心、あらゆる心配の念を捨て去って不変絶対の法則に沿って生きるべきです。

宇宙大自然に心を合わせ、その宇宙と同調する心を我が心とするのです。

そして自然な心とは流れです。

流れとは不必要な拘り、囚われがなく、執着がなく、心が流れていることです。

何かに拘り、執着しているときは自然の流れがなく、滞っている。

人間は自然に沿わない時に苦悩するのである。

流れが無い時に苦悩するのである。

心の奥を平静に、そして穏やかに保ち、しかも信念をもって生きるのです。

そうすればごく自然に不変絶対の法則の心があなたを通して発揮されます。

そして、愛の心と冷静で客観的な視点もって臨めば、何事もきっと成就します。

人の言葉も、そして、宇宙大自然の意識を聞く耳をもつ者のみが天の意思を知ることができるのです。

そのためには愛と慈しみがすべての原点です。

心の霊的真理を知った者は恐怖心もなく毎日を送り、いかなる悲しみ、いかなる苦難にも必ずや天の協力があることを一片の疑いもなく信じることができなければならない。

苦難にも悲しみにも挫(くじ)けずに、果敢に立ち向かっていかなければなりません。

なぜそうするのか、心の力はいかなる物的な力にも勝るからです。

また、この真理を知った者は、物や金や地位、名誉、職業などによって自分を見失うことがないだろう。

しかし、恐怖心こそ人類最大の敵である。

恐怖心は人の心を蝕(むしば)み、恐怖心は理性を欠き、枯渇(こかつ)させ、マヒさせます。

あらゆる苦難を克服させるはずの力を打ちひしぎ、心を乱し、調和を破壊し、動揺と疑念を呼びおこすのである。

心が肉体に優るものである真理を知った者は常に冷静に、晴れやかに、平静に、自信に溢れ、決して取り乱すことがあってはならないだろう。

“はがね”は火によってこそ鍛えられます。

それと同じで、魂が鍛えられ、内在する無限の神性に目覚めて覚醒するのは、苦難の中においてこそです。

苦難の時こそが私たちが真に生きている貴重な証であります。

夜明け前にはまだ暗闇があるように、心(魂)が輝くには暗闇の体験がなくてはならない。

そんな厳しい逆境の時、大切なのはあくまでも自分の責務を忠実に、そして最善を尽くし、自分の内にある力に全幅の信頼を置くことです。

そして、霊的知識を手にした者は挫折も失敗も天の配材の一部であることを悟らなくてはいけません。

陰と陽、作用と反作用は正反対であると同時に一体不離のもの、不二一体のもの、いわば硬貨の表と裏のようなもの、一枚の紙のようなものといえば理解しやすいだろうか。

裏表一体なのですから、自分に都合の良いほうだけ望み、不都合な方は拒否することは叶わない。

人間の霊的進化ということを考えると、そうした表と裏の体験、つまり成功と挫折の双方を体験するように仕組まれた法則があることに気づかされるであろう。

また、守護・指導霊という存在は、私たちにの心が偏りのない信念と、平静な心の霊域の中において初めて地上人間と接触できるものであることを知っておかなくてはならない。

そして、恐れ、疑惑、心配、不安等、こうした心の動きは正しき霊界の住者が地上人間とコンタクトをとる場合の唯一の手段を閉ざすことをも知っておかなければならない。

私たちは経済的にも恵まれ仕事も順調であれば感謝ということができやすいのだが、自分にとって厳しく、辛い環境にあるときは感謝の念を持てない傾向にるものです。

しかし、ほんとうの意味で全てに感謝すべき時は、辺りが真っ暗闇の時であり、その時こそ自分に内在する力を発揮すべき絶好のチャンスなのである。

人間はいざというときになると正しい判断を見誤るものだが、これは動揺や不安、恐怖心が冷静を欠き、本当に必要なことを見逃すからである。

心の問題を取り上げるときに、どうしても切り離せない事であるからあえて申し上げますが、4次元の霊的真理は単なる知識として記憶しているというだけでは理解したことにはなりません。

霊的な真理は、実生活の場で真剣に実践し、体験してこそ、初めてそれを理解できるのであり、魂の準備が出来あがることになります。

この点をよく理解しておかなくてはなりません。

私は毎年春には花の種を蒔き、たくさんの花が咲くのを楽しみにしているのですが、種を蒔きさえすれば芽が出るというものではありません。

芽を出させるだけの条件が必要です。

養分がそろっていても太陽と水がなくてはなりませんし、そうした条件が全部うまくそろった時にようやく種が芽を出し、成長し、そして見事な花を咲かせます。

こういった条件を人間に当てはめてみますと、その条件とは苦悩であり、困難であり、悲しみであり、苦痛であり、暗闇の体験であります。

何もかもが順風漫歩で、鼻歌まじりののんきな暮らしの連続では、心に潜在する崇高な神性の開発も拡大もできようはずがありません。

苦労の末に霊的智慧に目が覚めると、その時から人間はこの宇宙を支配する天の意識と連なり、その美しさ、その輝き、その気高さ、その厳しさを己の中に携えるようになり、発揮しはじめることになるでしょう。

それを機に4次元世界との強力なつながりが生じ、必要に応じて4次元世界から力なり影響なり、インスピレーションなり、真理なり、美なりを引き出せるようになるのである。

これは私たちの魂が進化しただけ、その調和度に応じて能力と自由意志が与えられます。

すなわち、霊的進化の階段を一段上がるごとに、その分だけ多くの能力と自由意志を行使することを許されるのである。

しかし、霊的目覚めには魔が競いたち、その魔に翻弄される場合があることも同時に気を付けなければならないことであります。

意識エネルギーは物質に勝ります。

意識エネルギーこそ全てを造り出す根源である。

なぜなら、意識エネルギーは生命そのものであり、生命の実態は意識エネルギーそのものだからです。

苦と楽は手のひらと、手の甲のようなもので、裏表が別物ではありません。

裏表が同時存在して用を成されるという不変絶対の法則は、苦労、困難、悲しみのあとに訪れる喜びのように、あらゆる場面に作用して働いているのである。

※お知らせ。

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魂という純金・霊界から地上へ

魂

人間、どうしても必要でないことに心を向けて不安になるが、やることがいっぱいあったとしても優先順位を決めれば動きやすいもの。

そして、意外と先延ばしすることは精神疲労となって心に残るために心配のた種になる。

この不安感や心配する心、更に恐怖心というものが、人間のもてる能力や才能というものを発揮できない大きな原因であることに気づいているだろうか。

私たちは自分の持てる能力、才能がどれほのものであるか、またその能力を地上生活の場においてどれだけ使うことができるのかに気づいている人は少ない。

しかし、私たちの魂がこの地上に生まれては還り、輪廻するに際して誰もが、地上で使用するその才能、能力にについてあらかじめ生まれる前は認識しているのです。

ただ、肉体を持ってこの地上に生まれた瞬間にその認識は心の深層部分に潜在してしまうことで、肉体五官を頼りに生き、判断している私たちは、それぞれの能力と才能、智慧に気づかないだけである。

才能がありながら、能力を備えていながらそれを使用しない者は、才能の無い人より大きな自己責任を取らなければならないだろう。

これは能力の備わった者が霊界にいるときに志を立てていながらそれを行わなかった場合の自己責任という意味です。

志は人それぞれで、自分の魂を向上させるにはどういった生き方が一番良いかを自分で決めてこの世に誕生するということだ。

またその才能を自己の欲心のために使用した者は霊界に還ってからそれだけの軌道修正を図るための非常に厳しい反省と心(魂)の調和の修練をすることになる。

それが才と能力、力を持てるものの責任ということです。

一方、仏教で言うところの生老病死という言葉があるように、人生においては、誰もが、苦楽と共に悲しみも経験します。

悲しみという心の働きは、それが魂の琴線(きんせん)にふれた時、魂の悟りを開かせる数ある体験の中でも特に大いなる深い意味をもつものであり、心の眼を覚まさせる瞬間となるものであります。

魂はポイントととして胸の部分を中心に奥深く埋もれているのですが、それを目覚めさせるためには多くの体験を必要とします。

こうしてみると、悲しみ、無念、病気、不幸、挫折、等の厳しい環境は地上で生きる私たち人間にとって、とても重要な教訓を得るための大切な手段であり、要素であるということが理解できるでしょう。

もしも、目の前の問題がそれほど難もなく簡単に学べるものであれば、それは自分にとっては大して重要な価値をもったものではないといえるのです。

悲しみの極みにおいてのみ気づかされること、学べること、習得できることがどれだけ己の魂にとって深甚な価値を含んだものであるかに気づかなくてはなりません。

 

これなでブログの中で繰り返し述べてきたことですが、宇宙の真理心の法則は魂がそれを悟る準備の出来た時に初めて学べるものであるし、心に吸収されていくものであります。

地上生活においては、自身の霊的な受け入れ態勢が出来るまでは決して真理に目覚めることはないであろう。

私が主催する『心と体の健康教室』に参加して方々でもそうですが、こちらからいくら手を差し伸べても、それを受け入れる心の準備が出来ていない人の場合は本来の正しい霊的気づき、覚醒が叶うことはありません。

気づき、覚醒、それはそれぞれの魂のステージ、進化の段階によるところです。

 

肉体を持ち、五官によって生命維持ができている私たちは、物質的観点から宇宙を眺め、自然界を眺め、日常生活での出来事を物質的尺度で測り、考え、評価するのは無理もないことです。

これは心の世界、宇宙てき視野からみますとほんとうに小さな出来事でしかありません。

言い方を変えると3次元的思考で4次元世界の広大さを推し量るのは無理があるということです。

心(魂)の偉大さは苦難を乗り切る時にこそ発揮されます。

そういった意味では辛い失意も落胆も魂の肥やしといえるでしょう。

その肥やしが成長のために必要であるのに不満を言い、避けて通ることを選ぶならば、この地上に生まれる前の自分の志を捨てることになるということです。

選択という場が何度もありますが、魂がその秘められた力を発揮するにはいかなる肥やしを摂取すればよいかを知ることも大事であろう。

地上生活の目的を尋ねると、『幸せになるため』とかいう方もいますが、実はそれは単なる魂の向上をはかるための一つのファクターでしかありません。

幸せの条件は何だろうと考えてみてください。

お金でしょうか。土地でしょうか。職業の違いにあるのでしょうか。名誉にでしょうか。地位にあるのでしょうか。友人の多さでしょうか。持家だろうか。

こうしてみると、地上生活におけるこういった幸せの条件はとても不確実なものです。

幸せを感じて生きている人たち、失意のどん底にある時は、もう全てが終わったかの感じを抱くものですが、実はそこから真のスタートであり、幾多の苦難を乗り越えてきたからこそ、物ではない感動に目覚めているのです

私たちにはまだまだ発揮されていない心の力・・・それまで発揮されたものより遥かに大きな力が宿されています。

それは楽な人生の中では決して発揮されることはない究極の宝珠である。

この究極の宝珠は不思議なことに、苦痛と逆境の中にあってこそ発見され、悟れるものであります。

金塊(きんかい)もハンマーで砕かないと、その純金の姿を拝むことができないように、魂という純金も、悲しみや苦しみの試練を経てこないと出てこないのです。

人間の生活には過(あやま)ちはつきものですが、しかし、その過ちを悔い改めることによって魂が成長します。

苦難や障害に立ち向かった者が、気楽な人生を送っている者よりも大きく力強く成長していくということは、それこそ真の意味でのご利益と言わねばなりません。

何かにすがり真言を唱えて御利益があるとする教えは危険この上ありませんし、邪道といわなければなりません。

人間は順調な時こそ足元に気をつけなくてはならない。

何もかもがうまくいき、日なたばかりを歩み、何一つ思い患うことのない人生を送っていては、他人の心も理解できず、魂のステージアップもなく、まして磨かれることもないだろう。

何かに挑戦し、苦しみ、宇宙の一部であるところの地球という星の場において、魂の扉を開き、神から授かった己の魂という器で試練に挑むこと、それが悟りを開くことにつながっていく。

その過程において発生する困難にグチをこぼしてはいけない。

困難こそ魂がステージアップするための条件であるからだ。

むろん困難の最中においてはそれを有難いと思えないだろう。

しかし、困難を乗り越え、あとでその時を振り返ったとき、それが私たちの心の眼を開かせるこのうえない必要条件肥であったことを知ったとき、全てに感謝するでしょう。

私たちがこの世に生まれてきて、楽な暮らしだけをしていたなら、どうして進歩や自己開発や、偏りのない中道の個性が成就できようか。

これは厳しく、辛い教訓ではありますが、何事においても価値あるものほど、成就には困難がつきまとうのです。

己の旨の内にある宝珠は高次なものほどその存在に気づくまで困難を極めるものである。

私たちの魂が休むことなく24時間働き、過去、現在、未来において輪廻をしているように、宇宙もまた一瞬たりとも休むことなく働き、全存在の隅々まで完全に通じております。

神は法則として働いているのであり、宇宙の中心的意識として存在しているのである。

宇宙の一部である存在の有限なる人間に宇宙を変える資格も裁く資格もない。

勿論、自分自身さえも裁いてはならない。

己の中の物的尺度で見るかぎり、世の中は不公平と不正と邪道と力の支配しか見えない。

当然かもしれないが、しかしそれは極めて偏った、誤った判断であります。

地上では必ずしも正義が勝つとは限らない。

なぜなら地上は肉体と物質の世界であって原因と結果の法則は必ずしも地上生活中に成就されるとは限らないからです。

この世では為そうとしたこと、それが形となるまで時間がかかるのです。

ですが地上生活を超えた長い目で見れば、原因と結果の法則は一分の狂いもなく働き、天秤は必ず平衡を取り戻します。

その点あの世では心に思ったこと、心に思ってあの世に還ればその状態がそのまま現象となって表れる世界である。

その点がこの世とあの世の違い、3次元世界と4次元世界の相違点である。

霊的に見て、自分にとって何が望ましいかは、私たち自身には分からない人が多い。

もしかしたら、あなたにとっていちばん嫌なことが実は、あなたの成長に対する最適の回答であることもあり得るのです。

否、そいう場合が多いのです。

ですから、なかなか難しいことではありますが、物事は物的尺度ではなく霊的尺度(中道の心、偏りのない、客観的)で判断するように勤めることです。

そういう意味で、あなたにとって悲劇と思えることが、天から見れば幸運だと思えることがあり、あなたにとって幸福と思えることが、天から見れば不幸だと思えることもあるのです。

それは霊的判断による違いです。

きを選ぶか、果敢に困難に立ち向かうかです。

心からの祈りというものにはそれなりの回答が与えられます。

しかしそれは必ずしも私たちがが望んでいるとおりの形ではなく、その時私たちの心の成長にとっていちばん望ましい形で与えられるであろう。

これが天の配剤でもあるが、天は決して人類を見捨てるようなことはしない。

しかし、宇宙からの恵み、施しを我々人類が地上的な尺度で批判することはやめなくてはいけない。

きょうの最後に絶対に誤ることのない霊的成長と真実について記しておきますが、そのうちから二つだけ紹介してみましょう。

一つは、動機が純粋であれば、どんなことをしても決して魂は被害をこうむることはないということ。

もう一つは、人のためという熱意に燃える者には必ずそのチャンスが与えられるということ。

この二つです。

焦ってはいけません。何ごとも一歩、一歩の歩みが大切であります。

私たち人類が、意識をもってこの地上に誕生するのに、どれほどの想像を絶するような長い歳月を要したかを思えば、たかだか人生80年前後のことでジタバタすることではないだろう。

※お知らせ。

※これまで一日おきに記事を投稿してきましたが、仕事と奉仕活動としてのカウンセリングが毎日と忙しく、投稿記事を書く時間が取れにくい状態にあります。

つきましては、26年1月からは週に一度のサイクルでアップする予定でおります。いつも楽しみにしてこのブログを訪問してくださっている方々には申し訳なくも、本当に心から感謝を申し上げます。

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心の宝珠・苦しみと成長

命

日本ブログ村において、私のブログに訪問してくださる方々の数は思想哲学では週間inとoutを合わせて2760件。スピリチュアル精神世界ではinとoutを合わせて2485件。悩み苦しみでは276件と、とても多くの方に訪問していあだき心から感謝をしております。

ただ、このブログを読んでくださる方が、心が楽になれるとしたらそれはとても嬉しい事ではありますが、しかし、私は人生の悩み苦しみを避けて通る方法を述べたいのではないことを一言申し上げておきたいのであります。

願わくば、試練や逆境に敢然(かんぜん)と立ち向かい、それを克服し、そしていっそう力強い生き方をしていただければと思って投稿しているというのが真の目的であります。

私たちの心の内に存在する潜在的な部分、即ちは、地上に存在するいかなる物にも優る宝珠であるということを申し上げておきます。

この宝珠の存在に一度気づき、深く、深く心に落したならば、お金を落とすような具合になくしてしまうことは絶対にありません。

それがどれほど素晴らしいことか、おそらくあなたの想像をはるかに超えたものです。

もし、この宝珠の真の姿、働きを知りたいのであれば、自分の目の前に起きた苦難をチャンスと受け止め、何かを学び取るように勤めることです。

この宝珠の働きはすべてを慈しむ想いが消えることなく己の内に在り、他を愛し、赦し、心無い人の非難に対しても慈愛の想念が消えうせることがありません。

私たちは苦しみから逃れようとし勝ちですが、私たちに耐え切れないほどの苦難というものはなく、必ず超えていけるのである。

体が全てと思えば超えられなくても、心は超えていけるということに気づかなくてはならない。

人生を生涯の旅とするならば、なんらかの荷を背負い、困難と取り組むということが魂の本来の姿といえるでしょう。

苦楽は人生のなかにおいて、ついて回るものであります。

生きることは楽なことではないでしょう。

しかし、誰もが少なからず苦悩や試練に向き合っています。

心の宝珠はそうやすやすと手に入るものではありません。

もしも楽に手に入るものであれば、なにも苦労する必要などないでしょう。

また楽に手に入れば人間の心には驕(おご)りが生れがちなものです。

痛みと苦しみの最中(さなか)にある時は逆境を恨んだり、不平を言ったりと、なかなか得心がいかないものですが、必死に努力し、苦しんでいる時こそ、心(魂)にとってはいちばんの成長できる妙薬なのである。

私たちの守護霊という存在は、いくら私たちのことを思ってはいても、重荷を背負い悩み苦しむ姿をあえて手を拱(こまね)いて傍観(ぼうかん)するほかない場合があるようです。

可愛い子には旅をさせろではないが、そこから教訓を学び取り、霊的(心)に成長してもらいたいと願い祈るという、とても深い愛からなのです。

決して神も仏もないなどと天を呪ってはいけないのである。

人生において私たちが得た事、知り得たことには必ず責任が伴います。

この世的な物や資格だけではなく、特に霊的な事を知り得た者は責任を持たなくてはなりません。

例えば霊的な能力には霊視を得意とする人、癒しを得意とする人、人間の心の在り方、生き方、執着せずに生きる方法を説くことを得意とする人と様々なものがあり、その力、技量にも高低があります。

本来は厳密にいうと、どのような能力であろうが、それを使用することで金銭的な利益を得ることは霊的(心)に高いステージにある人間とはいえなでしょう。

仮に、それを以って生活の糧とするにしても、良心的な料金は由としても、法外な代金であってはならないことはいうまでもないことである。

そういった能力は決して一個人の能力ではなく、天のエネルギーであり、霊的な背景の協力において発揮されるものだからです。

私たちの心(魂)というものはいったん視野が開かれたならば、悲しみは悲しみとして冷静に受け止め、喜びにも我を失うことがなく、決して己の心の調和を乱すようなことが無くてはなりません。

毎日が燦々と太陽の輝く穏やかな日和だけでは、自然界の厳しさや、人生の深さや教訓はなかなか身に沁みないでしょう。

自分の霊性が目を覚まし、それまで気づけなかった自分の無限の可能性を知るのは時として大雨のさなかであったり、太陽が何日も見えない暗黒のような日であったり、問題を抱えた窮地の日でなければならないであろう。

地上における80年前後の人生は一つの長い闘いであり試練です。

自分の魂に秘められた無限の可能性を試される場に身を置いていると言ってもよいでしょう。

私たちの霊性(心)にはありとあらゆる種類の長所と欠点というカルマが秘められております。

本能感情理性知性の4つのバランスが基本となって個性が表面化します。

本能が過ぎた個性は、物に、金に、食に貪欲になります。

感情に過ぎた個性は、怒りやすく、沈みやすく、起伏の激しい性格となります。

理性が過ぎた個性は、冷たく他を批判し、裁き、排他的な言動があらわれます。

知性が過ぎた個性は、一見、知的であっても何かと自己主張による虚栄心とその言動から反感を買いやすくなります。

すなわち人間は最初から人間として地上に誕生してはいるのですが、拘り、執着、見栄、傲慢、虚栄心、自己保存などの欲望によって、動物的な本能的欲望や感情に支配される場合もあれば、あなたの個性的魂の源泉である神性仏性も深奥に秘められております。

そのどちらが勝るのか、その闘いが人生といえるでしょう。

その意味において地上に生まれてくるということは、私たち自身がその試練に身をさらすことを承知で下生(誕生)してきているのです。

人間は絶対的唯一の存在の分霊を頂き生まれてはいますが、それは魂(心)の奥に潜在しているのであって、それを引き出して磨きをかけるためには、厳しい試練が欠かせないということだ。

そうして私たちが生きていくにあたって、運命の岐路にさしかかることが何度もあり、右か左かの選択を迫られることがあるものです。

その時に楽な道を選択するか、苦難に厳然と立ち向かうか、それとも回避するかの選択を迫られるわけですが、その判断は私たちの自由意志に任されています。

しかし、回避すればそのことがクリアできていない宿題として生涯にわたって私たちの心(魂)についてまわり、人生においてあらゆる場面でそのハードルを越えなくてはならないだろう。

また、自由といっても完全なる自由ではありません。

その時点において私たちの置かれる環境条件があり、これに反応する個性と気根の違いによっても選択の仕方が違ってくる。

物事に対して客観的に判断すれば正しい選択ができるのに、欲心をもって目先の利益やプライドや自己都合で判断すれば誤った選択をして迷路の人生に苦悩することになります。

事なことは自己都合の判断ではなく、己自身を客観的にみることができるかどうかということであろう。

未知数の地上生活において、自分に内在する神性を大きく調和するためのチャンスは実は誰にでもあらかじめ用意されているのです。

そのチャンスを前にして積極姿勢を取るか消極姿勢を取るか、私心を捨てて対処するか、自己中心の態度に出るかは、私たち自身の判断によって決まるということです。

一日は24時間、一年は365日、季節は春夏秋冬、そのなかで地上生活は一瞬一瞬がその選択の連続と言ってもよい。

選択とその結果、つまり作用と反作用が人生を織りなしていくのであり、同時にまた、寿命つきて霊界へ入った時に待ち受けている生活、新しい仕事に対する準備が十分に出来ているか否か、能力的に十分か不十分か、霊的に成熟しているか否か、といったことも地上の成果それによって決まるのである。

単純なようで実に複雑なのです。しかし、真実は単純なのです。

知識の集積では深さを悟ることはできない。

作用と反作用は物理的な道理ですが、しかし、心にも作用と反作用は厳然として働いていますし、人間関係においても作用すれば必ず反作用があります。

自己中心で他に接すれば相手からそれと同じような扱いを受けるでしょうし、心穏やかな慈愛をもって接すれば、やはりそのような慈愛に触れるでしょう。

地上生活に関連して忘れてならないのは、持てる能力や才能が多ければ多いほど、それだけ責任も大きくなるということを忘れてはならないだろう。

次回に続く

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なぜ素直な心が出にくいか

老い

なぜ素直な心が出にくいか

60代後半の老夫婦、まったく取るに足らない些細なことで口を開けば相手をののしり、罵倒し、挙句の果てには、「離婚だ!出ていけ!」と怒りのままに相手を罵倒して諍いの絶えない家庭がある。

まったく呆れて手の打ちようがない気の毒な老夫婦である。

さて、お互い人間は本来素直な心をもっているわけですが、しかしそれが常に表面に出て実際に働くかというと、必ずしもそうはいきません。

素直な心はもっているけれども、なかなかそれが出てこない、だから素直な心になることができにくいというわけです。

なぜ、そういうことになるのかといいますと、それはお互い人間が生きてゆく上においては、いろいろな囚われが生じやすい、ということも一つの理由でしょう。

例えば、生まれたばかりの赤ん坊には素直な心以外のものはなにもない、ということがいえるかもしれません。

本来もっている素直な心を覆い隠すようなものはまだ何も生じていないからです。

したがって、赤ん坊は何か欲しければそのまま態度にあらわしますが、これは一面において素直な心がそのまま慟いている姿であるともいえましょう。

ところが、そのように、赤ん坊のうちには本来の素直な心がそのまま表面にあらわれていたとしても、やがて成長していく過程においては、いろいろな体験にぶつかってゆきます。

欲求が満たされないこともあるでしょう。

なにか不快な目にあうこともあるでしょう。

近年では親に虐待される子どももいます。

そしてそれらに対処することもおぼえていくわけです。

そのうちに知識もまし、知恵を持って賢くなったり、卑屈になったり、人の顔色をうかがうような子どもになったりしていきます。

こうした姿は、もちろん一面においては、人間としての当然の成長の姿であるともいえるのですが、環境次第ではどのようにも歪んだ心として出来上がっていくことになります。

人間が人間として生きてゆくために自分を守る本能的な働きが相手を敵対視したり、相手を攻撃したり、罵倒したりする場合もあります。

また、ただ単に、自分のわがままを押し通す為に怒りを相手に向ける場合もあります。

しかしながら、その成長の過程において、同時にまた素直な心というものは、しだいに表面に出にくくなるというか、環境による知識や知恵に覆われてずっと下の方に隠れがちになってしまうのであります。

人により素直さがすっかり影をひそめて悪知恵が働く場合すらある。

例えば、小さな子どもの頃には、親が「ウソをついてはいけません」と教えれば、素直にそれを守って、ウソをつかないようにと心がけるでしょう。

しかし、その子がやがて長じてくると、なかなかそうはいきません。

何か失敗をしたような場合、叱られるのがこわくて正直にありのままをいえず、ついついウソをついてしまう、というようなことも多くなってくる場合もあるのです。

つまり、叱られるとか罰を与えられることからわが身を守ろうとする一つの知恵が働くのですが、それで素直な心がスムーズに表れてこないというか、素直な心の上に一つの曇りが生じてくるようなことにもなるのであります。

この場合、その子に、自分の立場なり利益を守るという知恵がつくことは、それはそれで一つの心の表れ方であるわけですが、しかしそのことのみに囚われた場合には、それだけ素直な心は覆い隠されてしまうことにもなってきます。

少し意味が違うかもしれませんが、旧約聖書の中に、心を教える為のストーリーとして禁断の木の実の話があります。

この聖書によれば、人類の祖であるアダムとイブはエデンの楽園で安楽に暮らしていたのですが、知恵のつく木の実(執着、エゴ)を食べることだけは神から禁じられていました。

ところが悪いるいヘビにそそのかされて、その木の実を食べてしまったのです。

するとアダムとイブは自分たちが裸でいたことに気づくので、神は二人が木の実を食べたことを知って怒り、二人をエデンの楽園から追い出してしまうわけです。

つまり、これまでの安らかな心から、物に囚われたことによって苦悩の生活に変わってしまったことを示唆しているストーリーだと解釈できます。

この話は、お互い人間が本来備えもっている素直な心を、もろもろの偏重した知識や知恵で覆い隠してしまったため、自ら不幸な姿に陥っていくというような姿と、何か通じるものがあるとも考えられないでしょうか。

すなわち、アダムとイブにしても、赤ん坊や幼い子どもたちにしても、もともとは素直な心をもって生まれているのです。

ところが、年を経て体験をつむにつれて、いろいろな考えや心が積み重ねられてきたのですが、往々にしてその素直な心が表面に出にくいようになってくるのです。

それがエゴ、執着といわれるものであって、人生のなかで溜めこんできた心の垢であるわけです。

人間関係万般に素直な心をもって臨むことができればよいのですが、お互い人間が本来もっている素直な心というものが十分に働かないようになってきた場合には、いろいろと好ましからざる姿、弊害というものが生じてくるのであります。

すなわちお互いが素直な心にならないところからは、始めにもふれましたように、お互いの間にとかく対立や争い、いがみあい、誤解、憎しみ、不信、非難攻撃など、好ましからざる姿が生じ、不幸な姿が多く生まれてくることにもなりかねないのです。

現に今日でも世界のあちらこちらでもくり返し紛争がおこり、血が流され、多くの尊い人命が失われています。

お互い人間はこれまで長い歴史を歩んできた結果、さまざまな分野で偉大な成果をあげ、好ましい進歩発展の姿を生み出してきたわけですが、こうした人間同士の関係ということについては、今日でもまだまだ問題が大きく残されているのではないでしょうか。

それだけに、お互いが素直な心になるということは、今日においても、また将来においてもきわめて大切なことであるといえると思います。

そしてそういうことは、世界各地の紛争などに限らず、一つの国の内部においても、また我々の身の回りにおいてもいえることではないか。

つまり、人間関係万般にわたって、素直な心になるということがきわめて重要であると思うのであります。

というのは、お互い人間がつねに素直な心になって生活し、活動を営んでゆくようになったならば、そこからは計り知れないほどの好ましい姿が社会の各面に生じてくると思われるからです。

いいかえれば、あらゆる面において人間道が実践されるようになってくるからです。

したがってお互い人間の偉大な王者であるという本質というものも、十二分にあらわれてくるのではないでしょうか。

したがって、そこにはお互い人間の共同生活がつねに物心両面において共に豊かさを伴いつつ向上してゆくというまことに好ましい姿も保たれ、一人ひとりが身も心も豊かに、喜びをもって楽しく暮らしてゆくこともできるようになるのではないかと思うのです。

このようなことを考えてみても、お互いが素直な心になるということは、なににもまして非常に重要であり、また大切なことではないか。

以上、素直な心というものの意義について述べたわけですが、お互いがこういう素直な心についての理解、認識をさらに深め、少しでも素直な心になってゆくための何らかの参考になればと思うところであります。

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