簡単ではない魂エゴの修正
慣性の法則
Sさん(70歳)は若いころからワンマンで短気、自分の思いどりにならないことがあると些細な事でも簡単に怒ってしまう、そのため家族はいつも戦々恐々として暮らしていた。
しかし、いかにワンマンなご主人でも自分の体までは自由にはできず、病をして入院したのだが、末期のガンの為に余命いくばくもなく、結局この男性(70歳)は生まれてから死ぬまでたくさんの人を苦しませ、自分の心にも業という罪を上塗りし、己の魂を曇らせたままあの世に帰ることになる。
私は相談者に問うた。あなたのお父さんは死んだら仏になると思いますか?と。
「はい。死ななければ仏になれないと思いますので、亡くなったら仏になるかと思うのですが・・・・」
社会一般的には人間が死ねば仏になると言い、「仏さん」ともいうが、これは亡くなったことの代名詞として呼ぶ言葉であって、真の意味で仏になったのではない。
何故なら、本当の意味で仏とは、宇宙大自然の真理、人間の心の真理を大悟され、人々を調和へと導き法を説く方を称して「仏」と呼ぶものだからだ。
インドのお釈迦さまや、イスラエルのイエスキリストがそれである。
死ぬまで悪態を晒(さら)した人間が死んで仏になることはない。
実はSさん(70歳)は幼き頃より非常に劣悪な環境で生まれ育ったのである。
Sさんの実父がまったくそのような生き方をしたのだった。その意味で非常に気の毒なSさんである。
さてきょうは人間の業について述べてみたいと思います。
私は、しばし瞑想をし、この世において一番困難なことは何であろうか?、と自身に問うてみた。
心に浮かぶことは『人間の心』という言葉がメッセージとなって響く。
物を作ることや、事を成し遂げることなども難しさはあるのだが、他人の心を動かすことの方が難しく、もっと難しいのは自分自身の心を自由にコントロールすることではないだろうかと思うのである。
それ故に人間に苦悩がある。
それは何故だろうかとなると、究極、人間は欲望(エゴ)によって執着し、それに自分の心が支配されてしまうからである。
人間はこの地上で生きている限り、欲望はいつも隣り合わせであり、他人事ではなく、いつでもその欲望が顔をだし、支配されてしまう条件下で生活しているのだ。
最も調和されたこの地球という天体の上で生かされている人類にある苦悩は、自然環境によってあるのではなく、対人間関係においてであり、その根本は自分自身の心の在り方いかんによってである。
人間には根源的、本能的な欲望が備わっているから子孫も絶えることなく、人類の生命が継続しているのであり、このことは天の意思として感謝しなければならない。
しかし、この根源的な欲望が自己中心的欲望となって暴走すると、他人の意思に関係なく迷惑をかけたり、時には犯罪までにも発展するのだが、これは自分の欲望を満たさんとする非常に身勝手なエゴ、偏った不調和な意思によるものであろう。
ここで、人間のこういった心の働きをもう少し科学的に検証してみたい。
物体がその運動を続けようとする性質を科学では慣性と表現しています。
この性質は質量(性質と重さ)が大きいほど慣性も大きくなる。
ということは、
例えば、ボールをころがしたとして、同じ大きさでも中が空洞のボールと鉄でできたボールでは質と重さが違うために同じ力を加えた場合でも転がる距離が違ってきますから当然、質量の大きいほうが転がる距離が長くなるわけです。
もう一つの事例を述べてみます。
普通乗用車が時速50キロの速度で走行してブレーキをかけたら停止するまで通常なら約10メートル程度の距離が必要になる。
同じことを10トンダンプで行えば通常なら約14メートル程度の距離が必要になる。
この違いは何かというと先ず、車の大きさと重量が異なるため制動距離が長く必要だということであり、すなわち質と量の違いが制動距離の違いとなってくるということです。
ここまではご理解いただけると思います。
もう一つ事例を述べてみましょう。
カーブを車で通過するときに、乗っている人と車はカーブの外側にもっていかれますが、これは速度とカーブがきついほど遠心力が強く働くことになりますが、これは、車と乗っている人はカーブの外側の直線方向に移動する働きが発生していることによるものです。
こういった運動はすべて慣性の法則によるものです。
心の傾向性
この地球という名の宇宙航海船で生活する私たちは、この物理的法則の影響作用のなかで暮らしていますが、しかし、この法則は物理的運動だけにとどまることなく、私たち人間の心の精神作用にも常に密接に働いています。
今までの生き方を変えられないことや、よくないことだとわかっていても、その癖をなかなか変えられないことに気づいておられる人は多いのではないだろうか。
これは心にも癖がある証拠であって、慣性の法則による心の傾向性(癖)というものがあるからにほかなりません。
業(カルマ、エゴ、煩悩、原罪)という言葉に置き換えることもできます。
慣性の働きを心の傾向性(癖)として置き換えて、質量を想念の調和度に置き換えてみると分かりやすいでしょう。
想念の調和度とは、心がどれだけ日頃の生活によって、業(カルマ、エゴ、煩悩、原罪)を重ね、汚し、曇らせているか、また反対に、執着がなく調和されているかという心の輝き度のことです。
当然、執着が少なく心が調和されていれば、その心は輝いていますが、囚われた心、執着があると心は曇って輝きがありません。
念のために申し上げておきますが、これは肉体的な容姿とは全く関係ありませんし、身につける服装、装飾品などによる輝きとはまったく別次元であります。
内面的な心(魂)の問題です。
心の傾向性(癖)とは、その人の個性が良くも悪くもひとつの特徴として現れてくることをいいますが、下記のように、
見ること。
思考すること。
話すこと。
行動すること。
働くこと。
これら一連の働きの中でその人の心の傾向性(癖)がはっきりと表れてきます。
それだけに、見ること、思考すること、話すこと、行動すること、働くこと、これらの中で偏った行いをしてはならないということがいえるでしょう。
言行不一致
という言葉があります。
どれほど立派な言葉を並べても、その人の行動が、社会の秩序、道徳、法律、マナーに反するような行動であれば、それは非常に自己保存、自己中心的な生き方といわざるをえないでしょう。
あとは私たち自身が、日々の生活を自我心のまま不調和に生きるか、反対に偏りの無い執着しない、拘らない、調和された生活を心掛けて生きるかで心(魂)の進化に大きな差が生じてきます。
去年まではいつも怒りに翻弄(ほんろう)されていたという人が、心の学習をして今年は随分と穏やかになれたという事例がたくさんあるのです。
大切な向上心
こうして常に自分の心磨きを心掛けている人は、何事にも謙虚に素直に学ぶ姿勢を忘れませんし、そのことによって周りからも信頼を得て引き立てられることになります。
逆に感情のままに怒りをあらわにしたり、不満や嫉妬、愚痴を言って、人を裁いているような生き方をしている人は、自分自身を苦しめ、自らを貶(おとし)めて苦悩の中で戦っています。
問題は、マイナス(不満、愚痴、怒り、嫉妬、憎しみ)な傾向性(癖)のある人の場合ですが、しかし、これまでの生き方というものはそう簡単に修正できるものではありませんが、心掛けて日々努力しなくてはなりません。
やればできるのです。
若い人でも心穏やかに他人に思いやりをもてる人がいる一方で、70、80になっても不満、愚痴、怒り、嫉み、恨みをもって生きている人もいるのである。
故に、人生を長く生きたら心が丸く大きくなるのかというと必ずしもそうはならない。
そうなってはならないが、逆に年を重ねるごとに頑固に意地汚くなっていく場合もある。
人間の心の癖は本当に厄介なものですが、あの世に旅立つ前にしっかり自分の傾向性(執着、自己中心、傲慢、嫉妬、怒り、愚痴、不満、そねみ、中傷)を改善しておかないと逝ってから大変な苦労して地獄をみることになるだろう。
自分を省みることなく惰性(だせい)のまま生きたら、慣性の法則によって執着のままあの世に延長して持ち越すことになりますから要注意です。
これもまた宇宙大自然の法則である。
想念の影響
さてもう一度想念について触れておきますが、想念照度とは字の如く念の明るさ、調和度のことです。
何事にも偏りのない、正しい想念か、囚われた、執着した想念であるかが重要です。
人間は生前の想念の状態と死に際の想念によってあの世の居住環境が違います。
これは憑依霊が語りだすことをみれば証明されるように、その内容がハッキリと事実としてそれを示しています。
人間は、家庭環境で問題を抱え、会社でも問題があり、不調和な環境、その中に身を置けばやがて心まで曇らせてしまいがちですが、本人は慢性化したその環境に慣れてしまうために間違いを間違いとして判断できなくなる傾向にあります。
特に本人が依存心によって盲目的に信仰する宗教などによるマインドコントロールなどは最も冷静な判断、自分自身を客観的にみるという判断力を見失います。
そういった意味で、ご利益があるとする宗教の場合は特に、心の在り方を導き示すことがなく、他力本願の依存的な盲目信仰であり、自分の心の内に潜在する無限の可能性、能力、といったものを堕落させる最も危険な宗教といえる。
その背景には人間の依存心、という弱点があるためである。
自らの努力で進歩向上するという姿勢に欠けることは、堕落へ突き進むことになってしまいますが、心の仕組みや、働きについて、正しく真理を知っていて導き指し示すことのできる教祖、指導者が少ないことは残念でならない。
もう少し厳しく申し上げますが、心は決して宗教の題目闘争やご利益主義で救われることはありません。
救われたとする人がいたとしてもそれは読経や題目闘争やご利益ありとする教団指導のお蔭ではなく何事も自身の精進努力の賜物だということです。
従って外に答えを求め、他に答えを求める者は自らの心を見つめることも無く、自分のなかに答えがあることに気づけないままに人生を終るであろう。
自力本願
内なる心を見つめて内省と調和の繰り返しをしなければ真の平和な生き方はできない。
真の幸せは、偏りのない生活の中で気づく、自分の心の平和である。
幸せは作るものではなく気づくものです。
それが真の自力本願です。
作る幸せは物や経済で環境整備することで実感できるでしょうが、
気づく幸せは逆境でも、試練のなかでも、経済的に豊かでなくてもそれを実感できるものです。
ただ一点、自力本願の真意を間違うと、「自分の力でやったんだ!」という驕(おご)り、自己中心や傲慢となりかねないから気をつけなければならない。
自分を主張する心が傲慢と自己保存であり自力本願とは似て非なるものであるということだ。
自らを正しく律して、他に寛容の精神は、自分の魂を成長させる最良の妙薬であります。
※お知らせ。
※これまで2011年10月から2年間弱、一日おきに記事を投稿してきましたが、仕事と奉仕活動としてのカウンセリングで毎日が忙しく、さらにメールでのお問い合わせやご相談にも時間を割いてきましたが、最近は記事を書く時間が取れにくい状態にあります。
つきましては、26年1月からは初回が1月6日(月)週に一度のサイクルで毎週月曜日にアップする予定でおります。
いつも楽しみにして、毎日このブログを訪問してくださっている数百名の方々には申し訳なくも、本当に心から感謝を申し上げます。
記事投稿の頻度が少なくはなりますが今後も訪問をお待ちしております。
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