自殺

自殺をする人がいれば、誰でも止めようとするでしょう。しかし、「では、なぜ死んではならないの?」と聞かれたら、どう答えるでしょうか?

せいぜい、「親が悲しむ」「君の命は世界にたった1つしかないんだ」「生きていればそのうちいいことあるよ」と慰めるだけです。

「じゃあ、あなたは、何かいいことありましたか?」と聞かれて、言葉を失ってしまう人も少なくないでしょう。

そういえば、いつまでたってもいいことなどない。容赦ないリストラの波が押し寄せ、精神科クリニックやカウンセリングは人でいっぱい。

「いのちの電話」も深刻な人手不足で、不景気の影響による経済的事情もあり自殺は一向に減りません。現在、日本の年間自殺者数は、3万人以上という大変な事態が続いています。

世間体を考え、「不慮の事故」と報告される隠れ自殺者も多いから、実質はもっと増えるでしょう。交通事故の3倍~4倍もの人が自殺で命を落としていることになります。

世界ではどうでしょうか。調査できる限りでは、年間約78万6千人の自殺者があると言われています。うち、中国がその3分の1を占め、女性の自殺者の過半数が中国人女性と言われています。中国では相次ぐ自殺者に、国内初の「自殺予防センター」が設立されました。これによって何千人もの命が救われたといいます。

ところが、立志者が、遺書も残さず首吊り自殺をしたのです。10年近く、献身的に自殺を止めてきた人が、です。他人には「死ぬな」と言っていても、耐えられぬ苦しみに直面した時には、日頃のどんな信念も、羽毛の如く飛び去ってしまうのです。

他人を励ますどんな言葉も、死へのブレーキにはならない場合もあることを思いしらされます。人間は弱いところも持ち合わせた生き物です。

しかしそれは、「なぜ死んではならないか」について明確な答えがないからに他ならないでしょう。

どれだけ真剣に自殺防止を論じても、これが抜ければ、真の自殺防止にはならないのではないか。
平成10年3月19日、産経新聞に次のような投書が出たことがあります。

人は何のために生きているのかと思います。日本人の平均寿命は80歳前後です。80年間も何のために生きてゆくのですか?
学歴社会──当たり前のように使われているこの言葉が、たいして勉強のできない者にどれだけの不安を与えているか分かりますか。自分の夢に向かって一生懸命がんばってるのに、つらいことの方が多く残りの人生がとても嫌です。
最近の高校生は…と、よく言われますが、まじめにやっている者もいるんです。それでもうまくいかなくて、不安で逃げだしたくなって、自分のような人間が、本当に何か役立つんだろうか、つらいことを乗り越えて、まだ生きてゆく必要があるのか。
命は大切です。当たり前のことで、分かっているけど理解できない。あと60年以上も、この苦しい日本の中で生きていたくない。こんな思いで毎日過ごしています。
人は何のために生きているのですか。だれか教えてください。(高校生 16歳)

また、朝日新聞には次のような投書も寄せられました。                着たくもない窮屈な制服着せられて、受けたくもないつまらない授業を受けさせられて、やりたくもない部活やらされて、家に帰っても宿題とか家事とかいっぱいあって、だーれも生きた心地なんてしてないのに『命の大切さ』なんて口先だけで教えられたって実感なんて持てない。(高校生 17歳 千葉県)

死を急ぐ若者が最も知りたいのは、「命の大切さ」の真意なのです。同時に、簡単に自殺するもう一つの大きな原因は、「死んだらどうなるか」を知らないことにあります。

3月、群馬県の中学2年の男子生徒が、学校での喫煙を教師に注意された後、自殺しています。 自殺直前に書いたと思われる親友への遺書は、あまりにも軽い印象を受けます。

★このletterはあてに書くけど、できれば、みんなでよんで!!
まず初めに、”ゴメン”まじで。今回オレのせいでみんなやべーことになっちまって。けどもうオレはぜったいみんなにめいわくかけない!なぜならオレはもうこの世から、いなくなるから!?ってゆーか、もうAがこの手紙よんでるころはオレは天国or地獄に行ってると思う…「みんな大変なのに、オレだけ楽してごめん」とあります。

しかも、死んだら楽ができると思っていたのでしょうか……では、真実、死後は一体どうなるのでしょうか。自殺してはならない理由も、生きる意味も、実はここに起因します。

死後は、「有る」「無い」か、のどちらかです。また、有るならば、楽しい世界か苦しみの世界かのどちらかです。もし、死後が無いなら、死は現在の苦しみを抹消する手段となります。

極論を言えば、末期癌で激痛に喘いでいる人は、生きて苦しみを延ばすよりも、早く死んだ方が良いことになってしまいます。

あるいは、死後が存在しても、違う人間に生まれ変わったり、楽しい世界に行けるのなら、嫌なことがあれば、リセット感覚で自殺すればよいということになります。

苦しみに耐えるより、死んでやり直した方が利口と思う人もあるでしょう。しかし、何1つはっきりとした教えはありませんし、あったとしてもそれを指導しているのは宗教の世界や、それに関わる一部の人間だけです。

しかし、宗教界も自称霊能者も営利目的のパターンがほとんどで情けない限りです。

またその反面、立派な医師や個人のなかには正しい宗教を正しく学び心のケアに生かしている人もいます。国際聖路加病院理事長の日野原重明さんなどもそうです。

正しい教えや導きがあったとしてもそれを行政が行っているわけではありません。勿論、行政が宗教に関わることは殆どない。

大学入試を受けた後に、「受かるか、それとも落ちるか」といった不安があるように、2つの心が揺れ動くので、「二心」です。合格ならば入学の準備を、不合格と決まればまた、予備校へ通う手続きなどをするものもいます。困るのは、まだ分からない時です。

死後も、「ある」とか「ない」とスッキリすればよいのですが、やはり二心があるから不安です。すべての人々は日々、死へ向かっています。1日生きたならば、1日死に近づいたのです。死こそが間違いなく向かっている行き先です。

最も確実な未来が、最も不確実では、真っ暗闇を目隠しして進んでいるかのような不安しかありません。「ともあれ、一生懸命生きることが大切だ」ともよくいわれますが、「闇の中をひたすら走れ」という無茶な注文かもしれません。

勝手知ったる我が家でさえ、停電になると、手探りで懐中電灯を探すうちに、敷居につまずいて痛い目にあうではありませんか。

やがて「死」の壁にぶつかる時が必ずあります。まだまだ先の話、ではありません。今夜からでもです。今の次の瞬間にも、急病や不慮の事故で、人生の幕を突然に引かねばならないかもしれません。

「死後への暗い心」は未来が分からぬ不安な心であり、してみれば現在の自分が分からない心でもあるのです。

これはまさに「無明の闇」と言えましょう。何のために今生きているのか、なぜ死んではならないかがはっきりしないのは、無明の闇を抱えているからなのです。

続きは次回まで

海は地球の約80%近くを占める広大な面積。海は多くの生命が育まれる源でもありその恩恵は計り知れないものです。

その水平線の彼方に顔を出す太陽の輝きは、それ以上に私たちに多くの恵を施してやまない。そんな太陽から学ぶ愛の本当の姿は無償という言葉で心に響き広がります。

心から嬉しいとき、どうしようもなく悲しい時、やりきれないほど淋しい時に涙をながすことは悪い事じゃないし、恥ずかしいことでもない。涙を流せば心の曇りを一緒に流してくれる。

空の雲もやがて雨となった後には澄み切った晴れの大空が広がる。

だから涙を流すことはとても必要なこと。

涙は心に元気と勇気を取り戻してくれる。涙は命の源。

元気を育む一滴の海

『涙は世界で一番ちいさな海』

走っても、歩いても、一日は一日。走ってばかりじゃ疲れきってしまうし、動かなければ進めない。

歩いたり、走ってみたり、立ち止まってみたりで自分のペースで過ごせればそれでいいじゃないか。

どんなに体が辛く心が萎えても、どんなに自分に嫌気がさしたり、自分を否定したりしても、自分を必要としている人がいることに気づいてほしい。

みな必要だからこの世に生まれてきたのであって、必要でない人は誰もいない。

身体の病気、心の病気で動けない、働けないのは実は天がくれた休息の時間。

昇る朝日を浴び、しずむ夕日に照らされてみると生きることの勇気や淋しさ、悲しみを強く心に感じるのは心が生きているから。

太陽から頂くもの、海からいただくものはいつも無言の働きかけ。

静かに向き合わないとそのことには気づけないで過ぎてしまう。

動いてばかり、走ってばかりじゃ気づかない。

無言の働きかけは太陽だけじゃない。

お月様も同じ。満月も三日月もとてもきれいです。

野の花一輪だって誰に注目されずともひっそりと花を咲かせている。

そう思うと身の周りの全てが愛おしく有り難く思えてくる。

『朝の陽に 何がおわすか しらねども ただ有り難く 涙あふるる』

きょうも最後までお読みくださいまして心から感謝もうしあげます。またの訪問をお待ちしております。ランキング参加しております。下のバナーをポチッとクリックして頂ければありがたいです。

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不登校

いじめなどの対外的理由の如何を問わず子供たちの不登校の問題を解決していくためにどうしても考えてみなければならない最終的、かつ大きな難問が親子関係であり家庭環境です。

何処の親もよく自分達にできなかったことを子供に託して、子供の意思に沿わないことでも、その希望を果たそうとする傾向があり、社会の一般的傾向や教育や、虚栄心による子供への束縛を原因として家庭が不調和になる場合がある。

肉体は確かに親が与えたものだろう。しかしその心までは両親の与えたものではないということを知らなくてはいけない。
全くの親子であっても、心は個の生命であって、相違があって自然なのです。

なぜなら、心も親が与えたものであり、親の分身だと思うなら、その思考性や行為のすべては同じでなくてはならないだろう。

残念なことに、親のいうことを利かない子供が多い事実を考えなくてはならない。 従って親達の、子供の環境や教育についての育成は、溺愛でなく、家柄や利己的な考えを捨てた純粋な心からの愛でなくてはならないということです。

子供が子供自身の思った通りの道を歩くと、ご両親の中には『あんなに可愛がって育てたのに、親の恩を忘れて、親不幸をしている』などと嘆く人もいる。

これは単なる文章ではなく事実に基づいて記述させていただいていることです。しかしこれも親のエゴイズムであろう。報いを求める、そんな心を言葉にするぐらいだから子供達は自分達の真実の道を求めて去ってしまう。

親子相互の対話の不足を考え、子供の人格を認めてやることも親の愛であろう。対話のない家庭の中には孤独な子供達が育ってしまう、これも現実です。

両親は、『与えた』と思う心があるから、親の尺度ですべてを計り、子供に注意などをする。 親の意志に反したことをすれば、きびしく叱り、肉体はおろかその心まで束縛してしまう。

私達は、こうしたことを良く考えて、子供達を指導することが必要でしょう。
最も自由自在の中で、良く心の在り方を教え人間としての道を教え、感謝と報恩の意味をさとし、両親が行うことの大切さを示した生活環境を造り出すことが先決ではないだろうか。

純真な子供心を、素直に育ててやることが、より良い豊かな心を大きく育てる道、これが本当の愛情というものだ。

相談をいただく度に子供の悲痛な心の叫びを思うと胸が張り裂けそうな思いがします。

きびしく叱ることも、偏りのない判断によるものであれば、その真心が子供心にひびくことです。  大事な場面で親の感情というエゴをもって怒ってはならない。

子供と親の対話、日々の行動が、心の交渉が、愛の心をより豊かに育てて行く。

子供の心もそこではじめて広く人々と溶け合うようになり、自分自身の心を磨いて行き、円満な人格を作って行くのである。

また先走ったおせっかいもやる気を失わせ距離を作る要因となるから気をつけなければならない。

親が子を放任し、正しい道をその愛情によって示さない生活の中で育てられた子供達は、気の毒といわざるをえない。
たとえば学校の成績ばかりを気にしている親の心が自己慢心にしかすぎないということに気づいていない。
心の中の知識の領域だけが発達しても、心にゆとりがなく情緒のない人間は、人生での正しい判断すら決定することはできない大人になるであろう。

智性は、人生をいかに正しく生きるかという、調和した生活をするための早道であって、自己保存、自我我欲の道具ではない。『智策、智に溺れる』の愚を犯してはならない。

知性理性本能感情、そして想念の領域が調和された、円満な人間に成長することが最も重要である。

試験、試験の人生は、自己保存的な、偏った人格を造り出し、人間本来の心を失ってしまう結果にもなってしまいかねないから心しなければならない。

また本能的な領域だけが発達しても、不調和な人格を造ってしまうものである。
いずれにしても心の不調和が、想念に曇りを造り出し、心の病に発展しているケースの多くをみてきました。

心の病は自身の問題ではあるがさかのぼると幼少時の家庭環境にまでたどり着くのである。
不調和な満ち足りぬ心の病いは、調和された生活以外、修正することは不可能であり、 根本的には薬で治るものではない。
恵まれすぎた環境では夢は育ちにくく、努力と工夫と智恵は不便のなかで生まれる“

 

 

燃え盛る炎

いつも人を恨んでいる方がいた。どこに行っても、人を恨み、憎しみ、怒り、苦しいから助けてくださいという。本人は苦しみの原因を解っていない。生きてこの世で地獄をつくっている。気の毒な人です。

熱くて涼しさを求めるときに火をたくだろうか。

寒くて暖かさを必要とするときに冷たい氷を求めるだろうか。

熱さは怒り、寒さは悲しみと恐れ、ごく普通に考えれば暑いときには涼しく、寒い時には温かくするものですが、火に油を注ぐような行為をするのも人間ならではの事。

しかし、人間はこのように冷静な対処とは相反する思いと行為をすることによって更に事態を悪くし苦しい思いをしている。気づかずに。

嫁が憎い、姑が憎い、あいつが憎いという心の思いは燃え盛るそのものです。           火が燃え盛ればが残るように、この灰は心を曇らせ自分を見る目を失わせる。

心に葛藤や怒り、憎しみの炎が燃え盛れば優しさも思いやりも愛も全てを見失ってしまう。まさに業火とはよく言ったものです。

また反抗したり、すねたり、意地悪したり、落ち込んだりしているときは心が冷え切って寒いとき。このような時は優しさ、思いやり、愛というゆるやかで暖炉のような暖かさ、ぬくもりが欲しいときなのに、更に厳しさをもって追い打ちをかけて氷の如く更に心を凍らせる。

善い行いも悪い行いもその行為に対する報い(結果)は、影が形に従うように必ずついてまわるものです。

人間の争いは、自身が執着の原因に気づき、それから離れ他を許すことでしか静まらない。

怒りや憎しみの心は破壊のエネルギーとして他に働き現実のものとなる。

しかし、破壊のエネルギーは自分に還ってくることを知る人は少ない。

『善悪の報いは影の形に随(したが)うが如し』自分が行ったことの全ての結果は自分の影のようについてまわるものだということです。

ありがとう『一握りの土』

昨年、Aさん45歳、保健室女性教諭のお話しを聞かせていただいた。

朝起きられないため食事の支度に時間が取れない、食欲がない、眠れない、倦怠感で体に力が入らない。死を考える。

Aさんの実母と夫の不仲に苦悩して心身ともに弱り果てていて、薬を取り換えるだけだという心療内科に通院しておられた。うつ症状が出ている。

問題が解決したわけでもなく、うつ症状が消えたわけでもなく相変わらずの倦怠感と無気力感にムチ打って通勤している。

悩みの内情は人それぞれあるのですが、これまで『死にたい』という言葉を口にした人との会話のなかでいつも私は質問をします。

『あなたは何のために生きているのか。』

『何故、苦しくとも生きねばならないのか。』と

この問いかけにご自身が納得いくような答えをした方はいまだにおられません。

勿論、わかっているようならば私と話し合う機会はなかったでしょうし、生きる目的がわかればこの様な疑問も苦悩もなくなるでしょう。

問われてみて初めて『何のために生きているのか。』

『何故、苦しくとも生きねばならないのか。』を深く考えたということです。

大地から一握りの土を手に取りそれを地球の大きさと比較したらとてもじゃないが比較のしようがありません。

国連の『人口白書』によると世界の総人口は現在70億人とされています。

地球上に生息する動物、魚介類、植物、昆虫、爬虫類、微生物、プランクトン、などこれら生命体の数はと考えると無限大の数となり計測不可能でしょう。

これらの生命体の数と単純に比較するだけでも実は70億人の人間一人一人の地上にいただいた命は一握りの土と同じほど稀なこと。

『人に生れること難し』という言葉があります。人間として命を戴けたことはそれほど稀なことで尊いものであろうし、この命を全うすることが根本的な生き方であろうと思うのです。

家族、子供がいる立場であっても苦しみゆえに自殺を考える。自分の子供がもし同じことを考えたらどう思うのだろうか。苦しみのためとはいえ現実に自分自身がそのようなことを考えているのです。

『何のために生きているのか。』

『何故、苦しくとも生きねばならないのか。』を知るなら簡単に死を考えたり絶ったりすることはなくなるでしょう。命の尊さを心に落とすなら。

苦しくともいま生きられることは有り難いこと。だからありがとうです。

相手を変えようと思えば苦悩しますが、自分が心の置き方を変えると苦しみは改善できるものです。

何故なら苦しみは自分の心が感じて作り出したものだから。

うつ病は他に原因を探しては見つかりませんが、自分の心の傾向性(癖)に気づけば回復に向かい始めます。

うつ病 岩手県 盛岡市 無料カウンセリング

お問い合わせはkandou0822@yahoo.co.jp

諸行無常

犬好きの私にとって5年前、黒の大型犬、愛犬カン太の突然の死は相当なショックでボロ泣きしてしまった。

いつも仕事を終えて家に帰ると犬舎に顔を突っ込み、今帰ったよと挨拶をしてから家に入る。休みのときは行動をともにするのを楽しみにしているカン太と私で、時々は家に入れて自由にさせるととても喜ぶ。

私が横になり腕を広げるとそばに来て腕枕に大きな頭を乗せて大きなため息をひとつ、すっかりくつろいでいる。私に忠実なだけに同士のような存在にさえ思えたものである。

1ヵ月くらいは帰宅時に空っぽの犬舎をみて随分と切ない思いをした。

この地上に存在するものはみな移ろいやすく、それだけに儚(はかな)く、愛おしくもある。しかし、愛犬も然り、愛する者も、家族も、すべての命も、物も、形のあるものはみな時間の経過、月日、年月とともに変わりゆく。

山川草木の命は宇宙の秩序に従い生命を繰り返す。

『愛別離苦』という言葉は正に愛するものと離れ別れることの苦しみを表現したものだが、このことは誰もが経験することです。別れは辛いがそのことでまた心が育ちもする。

別れは辛いことだけではなく同時に感謝の心を育んでくれます。

それは失って気づくことが多い。

心は外の世界に囚われやすく、左右されやすいもの。他の言動に囚われたときは事態を正しく見る目を曇らせる。心はいつも執着しやすく、執着に支配されやすい、だが心を支配する主(あるじ)でありたい。

季節は違いますが                                                     散る桜 残る桜も 散る桜“

人の命を桜に見立てた詩で良寛和尚の辞世の句として有名です。

桜の花びらがひらひらと舞い落ちる情景はやがて散りゆく良寛和尚自身の命そのもの。

勢いよく咲き誇る残った花も間もなく散りゆく定めにある。

この世の諸行(すべての現象)は無常(常ではなく変化する)であることを見事に表現しきっています。しかし、無常は散りゆくこと死にゆくことだけを意味するものではなく次の命への準備でもある。

故に宇宙の循環の法則の元に生かされていると深く実感するのですが恵まれた現代の生活だけに私自身、生きることも死ぬことも、そのことに執着せず今を生き切りたい。

潔(いさぎよ)く死を受け止め、潔く逝く覚悟を歌っている良寛和尚の心情に教わります。

戦時中、特攻隊が飛び立ち、帰る事が許されない、これが散る桜、それを見送る同士の姿が残る桜、しかし、残る同士も飛び立ち潔く散りゆく定め。

覚悟を決めて潔いとはいえ戦争が生み出した犠牲という悲しい事実はあまりにも大きい。

恨みと感謝

同じ環境の中で同じように苦しく辛い体験をしても、自分の人生は何て「不幸な人生」だと感じる人もいれば、とても 「幸せな人生」だと感じる人もいる。

ということは幸せか、不幸かは「自分の心」が決めていることになります。
自分に都合が悪いと人のせいにしたり、相手を批判したり、責めたりしがちなのもまた人間。

私たちは「苦しい体験」をすることで心は痛みますが、受けとめ方を変えると心も体も楽になることに気付かされます。

私は物心がついた頃から父と母の諍い(いさかい)を見て悲しく悔しく、淋しい思いの中で育ちました。父の酒乱と暴力、4歳の頃から中学を出るまで続いたことが今でもその時の光景を描けるほど鮮明に脳裏に焼き付いています。

若さと幼さもあり思春期には父に対し憎しみを持ったのです。今でこそ感謝の気持ちでいますが、当時は若さとは言え随分と父には申し訳ないことをしたものです。酒を飲んで暴れる父の本心と苦悩を理解してあげられなかったことを悔いて詫びたのは父が逝ってからです。
誰よりも苦しかったのは親父で、そのことに気づいてやれませんでした。

●とある葬儀の場ですが、わが子を交通事故で亡くした母親は、葬儀の挨拶で

「息子は苦しまずに死にました。そのことを感謝します」と挨拶されました。                          加害者である運転手は飲酒による暴走運転でした。・・・

●平成7年3月20日、16年前の事。オウム真理教の地下鉄サリン事件の被害者である河野夫人は、しゃべることも歩くこともできなくなりました。

ご主人である河野さんは『オウム真理教の代表である麻原彰晃を、恨むという気持ちよりも妻が寝たきりであっても、生きてくれている事に対する感謝の気持ちの方が大きい』と言われました。
麻原彰晃を一生恨み続けるとは言われませんでした。

このお二人のように、とても悲しく悔しい出来事に対して「恨みの心」ではなく「感謝の心」で受けとめられることが出来れば、幸せな人生、つまり穏やかな人生を送ることが出来るのではないでしょうか。恨みや憎しみよりも遥かに大きく深い慈愛を感じるできごとです。考えさせられました。

如何なる環境や境遇にあっても『心の置き所』の大切さを実感いたします。

失われない花

今朝の岩手山麓の木々は紅葉も終わり越冬にむけて葉を落としている。落ち葉を踏む足にサクサクと感触が心地よく、四季の風情がまたありがたい。

今ふと窓の外に目をやると雪が積もり始めた。初雪です。22時59分現在。

『生きているのが苦しいから死にたい』と言いつつ今なお生きている人がいます。               『体が不調だから死んだら楽だろう。』                                                         『生きる意味が解らない。』このように言う多くの人と話をさせていただいています。

生きること、老いること、病をすること、死ぬこと、これらは他人事ではなく誰もが体験しえること、もしくは必ず通る道でもあります。

病んでみると解るのですが身の置き場がない、辛さに耐える気持ちが萎(な)えて沈む。       先が見えない、不安感と恐怖心のスクランブルで睡眠が妨げられる。寝るのが怖い、疲労感が取れない。こうなると焦り、迷いばかりが先立ち奈落の底に堕ちる思いでジレンマに陥ります。

このような心境は痛いほど理解できます。

私の場合いきなり心拍数が毎分120まで上昇して呼吸が思うようにできなくなり救急搬送されました。あらゆる検査をしたが病気という病気はまったく発見されなかった。このような事態が短期間に5回続き救急搬送された。

さすがに死を覚悟した。しかし、結局は循環器科の先生に『過労でも死ねますよ』といわれ、反省しきり。(;一_一)

曲がりなりにも健康に関わる仕事に就いていながら自分の体を休めることなく酷使した結果の自業自得です。一日12時間の労働を15年も続けたら体も悲鳴をあげて当然。生きてることが奇跡に近い。

歩くこともできず這っていた状況のなかで気づいたことは、今ある命への有り難さと身体への深謝だった。庭の大地にひれ伏し涙がとめどなく流れる。夜の空を見れば満天の星が光り輝き、故郷に思えてきて天に還りたいとも思った。しかし、まだ還れないという思いが現実に引き戻す。       やり残してることがあるから。

死線をさ迷ったこのような体験が気づかせてくれたこと。人間は心が主で体が従であるということ。この深い気づき以来、体は回復に向かいはじめた。

薄紙をはぐがごとくに。少しずつ確実に。病院から薬は戴いたが副作用が心臓にくるのがわかったから一切飲まないで養生し全快できた。私の体は薬より休息を求めていた。

心が病んでいる人の場合、様々な理由がありますが共通点のひとつに心の使い方である傾向性(習慣、癖)があります。

例えば、自己否定、ネガティブ、物や形、出来事への囚われ、周りへの必要以上の気遣い、不信感、挫折、失望、拒絶、自己中心などです。

この傾向性を改善するひとつの方法が深層心理へのアプローチ。深層心理には幼少期からの家庭環境も多大な影響を及ぼしています。深層心理へのアプローチについてはこの場は割愛させていただき、またの機会に譲ります。

糧でもあり、肥やしでもある泥水は濃いほどに蓮の花は大輪の花を咲かせる。

この泥水を置き換えてみると                                            苦しいこと、つらいこと、悲しいこと、淋しいこと、悔しいこと困難なこと。

しかし、人は『気づく』ことが出来れば、迷い苦しみは少なくなるか無くなり、まわりのこと、人、もの、現象のすべてに『ありがたい』と言えるようになってくる。

人生で苦難な時が来たら、それは試練。しかし、越えられない試練は与えられない。気づきへの近道として受けいれることが大切。現実をいかに否定し、拒んでも前には進めない。事実や現実は受け入れたらその先には必ず希望がみえてくる。

気づき                                                   苦しい、つらい、悲しい、淋しい、悔しい、などのできごとを体験して超えたとき、 心に咲く決して失うことのない神々しい大輪の花

あげる

元気はね あげたり もらったりできるんだ 

いつの日かちょっとだけ

余裕ができたら 人にあげればいい。

元気な人が 弱い人を見下したら

いつか自分の番になるよ。

優しくしたら胸があたたかくなる  じぶんも  あいても みんなも

  それが人だもの。

豊かなときより  貧しかったときのほうが  優しくなれるのも人

    それも人間                             観童

シナリオ

この人生62年の自分を振り返ってみると我が人生は、30代後半以降は自分が描いたストーリーに近づけたかなと思う。                                                30代前半までは全く地獄の生活といえる状態で随分と思い通りにならない事のほうが遥かに多く、それでもなんとか後半には、大事なことに気づけるような人生という意味ではシナリオには近づけたように思う。しかし、まだまだ到達点は遥かに遠い。

人は皆やがては死というものに直面する。

亡くなれば肉体は火葬されてお骨は土に還されるだけ。

でも、無くならないものがある。心(魂)は、生れる前のふるさとに還って、できなかったことやできたこと、やり残したことを振り返り反省をする。

次の世はどんな人生にしようか計画を立てて決める。
自分が成長するのにベストな環境や条件を、あらかじめ決める。

そしてまた時が満ちれば生まれる機会をいただき出生となる。

シナリオは 「幸せを感じる心、幸せに気づく心」をつくるための学びのオリジナル脚本。

幸せってひたすら感じるもの、気づくものだから幸せを感じる心、気づく心に育てなければ幸せにはなれない。

幸せを感じるためには苦しい、悲しい、辛い体験はとても必要です。その中から多くを学びました。学びのお陰で心は成長させてもらい、人にやさしくなれます。

そして、どんなことにも幸せを感じて生きていくことが出来るようになります。

その心をつくるための自らが創ったシナリオであり、乗り越えられないものはありません。

『幸せは気づくもの、感じるもの、お金や物じゃないことに気づいたら満点』