秘められた己の心

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〔問い合わせ〕 このブログで言っているところの正しい生き方の法則(正法)の教えというのは、例えば、他人に対し間違ったことをしても、また悪いことをしても、自分の心が神に忠実ならそれでよいのでしょうか、また神様だけに謝罪し、それで万事が済むならこの世の中は至極気楽なものです。ともあれ、自分の心だけで幸福になれるとは思えないのですが、この点について具体的に教えていただきたい。

先ず、神に忠実である人間が、人には不忠実なんてことは絶対にないことですし、人に不誠実な人が神に忠実であろうはずがありません。

「いや、自分は神に対して忠実ですよ」とは言っても上記のような場合は間違っています。

何故なら、神に忠実である人間が人に対して不忠実、不誠実、無慈悲、愛に欠けているはずがないからです。

正しい生き方の法則は決してそのような自己都合であってはいけません。

また、神様に謝罪して万事が済む、許しをうければ万事ことが済むというものでもなく、まったくの早とちりです。

神様の許しをうけるということは、厳格にいうと許しに対する償いがついてまわるものです。

自分の心の罪、心の垢を落とすということは「許してください」と、祈ることに終わるのではなく、反省したことを生活の中で実践することで偏りのない生き方を身につけるということでなくはならない。

悪いことをさんざんやってきて、最後の土壇場で(すみません、悪かった)というだけで万事済まされるならば、こんな楽な話はありません。

ブログの過去の記事をよく読んでいただきたい。そのようなことはなに一つ書いていないことが分ります。

自分の心だけでは自分か幸福になれないという疑問ですが、自分の心というものをふりかえってみたことがありますか。

もしあるとするなら、自分の現在の苦悩の原因がどこにあるかわかるはずです。

いいとか、悪いとか、楽しいとか、つらいという感情はとこからくるのでしょう、肉体ですか、それとも環境ですか、それを感ずるのは、ほかならぬ自分の心ではないですか、ここが重要です。

また、人の苦しみ、悲しみが理解できるのも、心かあるからです。脳ではありません。

自分の手をつねれば痛いし、蚊に刺されればかゆいぐらいは誰でもわかるでしょう。

愚痴や、しっとや怒りに心が燃えていると、こうした素朴な感情ですらわからなくなります。

そして、人の苦しみ、悲しみを平気で見ていられるようになりますが、人の心というものは、さまざまな虚飾をぬぐい去っていくと、人も自分もそう違わないものであり、また、苦悩の原因が自分の環境心の外にあるものではない、ということがわかるものです。

ご質問の自分だけの心とは、自分本位の心を指していることではありませんか。これではいつになっても心の実相(ほんとうの姿、働き)はわかりませんし、人間とはどういうものかも理解できないでしょう。

たしかに、人間とは心と肉体、そして経済というものがついてまわるので、心だけ、精神だけの精神偏重主義に陥ると、さまざまな弊害が出てくるでしょう。

というのは、山のなかで独居生活をし、他に迷惑をかけないならそれも可能でしょうが、現実は職業を持ち、仕事をし、そうした中で、いわば人間同士の共同社会をつくっていますので、自分だけのことを考えるわけにはいきません。

つまり、健全な心と体、明るい環境、安定した経済が望まれてくることになります。

また、社会というものはさまざまな魂を持った人たちの集団ですから、ますます全体的な調和を図る必要が出てきます。

人間の本来のあり方も、心と肉体の調和であり、個人と社会の調和でなければならないでしょう。

しかしながら、心と肉体、個人と社会の根底にあるものはなにかといえば、それはほかならぬ各人の正しい心(偏らない心)なのです。

すべてはここに帰着してくるのです。

つまり、自他一体の調和された心こそ、私たち人間に秘められている己の心なのです。

この心をまず知る必要があるでしょう。

これを理解しませんと、自分のこともわからないし、他人のこともわかりようがありません。

自分のことがわからないということは、無理な自己主張していてもそれが正しいことだと思っていることが多く、まして、他人の心など思いやる余裕などないでしょう。

なおかつ、社会を動かしている原則も、神の意思も理解できようはずがありません。

そこで、これを理解するには、さきほどの自分の心の諸相を知るようにつとめること。

自分のこれまでの行いを反省を重ねて自己本位の欲望はどこからくるか、うらみ、ねたみ、怒りの感情はどういう経路をたどるかを知る必要かあるわけです。

もう一度、心とは何であるかを見直していただきたい。

そして、自分のこれまでの生き方、行いについて反省が進めば進むほど、自分本位の心がはっきりと映ってきて、これがあるから自分も社会も幸福になれないのだと理解されてくるものです。

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心と魂の違い

太陽

倫子さまの質問2013年6月23日 6:17 AM

『魂はどのような性質を持っていますか。心と魂はどう違うのでしょうか?それとも全く同じものですか?
もし、違うとすれば、魂と心の関係はどのような関係にあるのでしょうか?
分かりやすくご教示いただければ幸いに思います。』

ご質問をいただきありがとうございます。お答えさせていただきます。

私たちが通常、何気に使っている言葉に「心が痛む」、「胸が痛い」、「心の傷」、「心の病」、「気の病」といったものがあります。

だが、心が痛むとはいっても頭を押さえることはなく、胸に手をもっていきます。

自然におこなわれているこの動作、誰も気づいていないのですが、実は魂が胸の部分にあることを潜在意識(心)は知っているのです。

魂とは、個性を持った意識のことをいいます。そして、エネルギー(行動)の支配者でもあります。

人間の意識は、10%の表面意識と90%の潜在意識からできています。

といわれる部分は、本当は表面意識と潜在意識の全体をいいます。

ところが、表面(10%)と潜在(90%)の意識がわかれているために、全体、すなわち90%の潜在意識と10%の表面意識の100%をあらわす魂を持った人は非常に少なく、極まれなのです。

90%の潜在意識のうち30%を表して活動するか、50%を表して活動するかはその人の霊格(人格)にもより、潜在意識を活用しているとはいっても、せいぜい90%のうちの10~30%程度しか活かされていないでしょう。

下記イラストの表層部分が表面意識です。

中心のゴールドカラー部分が潜在意識です。

そして中間に位置する層が想念帯です。

心の仕組み

本来、といわれる部分は、表面意識潜在意識の間に横たわる想念帯と、表面意識の二層を指して言っています。

想念帯は今世の経験として、教養、徳性(徳義の観念を具えた本性。道徳心。道義心。品性)などを含むと同時に、あの世の経験、過去世の経験も含まれています。

このため同じものを見る、聞くにしても、人それぞれによって受けとり方がみんなちがっています。これは想念帯の影響、価値観、傾向性があるからです。

したがって人それぞれの器としての魂の大小、あり方がでてきます。魂に個性があるというのもこのためです。

地獄に堕ちた魂を指して、迷える魂といいますが、これはこの世の生活態度が表面意識に強く左右され、潜在意識につながる想念帯の善なる波動(調和、中道)を無視したために起こるものです。

表面意識というのは物やお金に翻弄されやすく、自己中心的、自己保存的になりやすい特徴があるため、その表面意識に強く影響された時の人間は世俗的であり、物に囚われやすく、愚痴、偽善、怒りの言動に走りやすくなります。

次に心とは、内面に存在し、肉体を支配している意識の中心であり、魂の核である。

意識の中心とは、たとえば円全体を意識としますと、円の真中の一点です。

そして各人の心は、大宇宙を統べる唯一なる意識に同通していますから、心はなんでも知っています。

ふつうあの人の心は美しい、汚ないとよくいいますが、これは想念帯の影響、つまり、過去世からの個性と今世での経験と価値観からくる想念とその言動によるところであって、厳格には、あの人の想念は美しい、汚ない、といった方が適切なのです。

しかし、これでは一般的に通用しませんので、想念といっています。

しかし、心そのものの本来の姿は、穢れのない潜在された意識部分となって、神仏の心に同通しているのですから、太陽のように、慈悲と愛だけなのです。

汚ないとか、美しいということはないのです。

太陽を中心に、地球をはじめとして九惑星が自転、公転していますが、このときの太陽は中心であり、心であり、地球は私たちの想念の部分に当るといっていいでしょう。

さて、の関係ですが、前述のように心そのものは、神仏と同根そのものですが、一般的に申し上げて、魂は、広義には心を中心とした円全体の意識(表面、想念帯、潜在)ですから、各人の魂にはそれぞれの転生輪廻の歴史があります。

したがって、それぞれの個性を持ち、心の波動をうけながら、日々の生活の中でさまざまな経験と試練を乗り越えて向上進歩してゆくものです。

このように魂と心は、個々独立したものではないのですが、ふつうは、表面意識と、表面意識側の想念帯の悪い部分に左右されてしまうために、に通じた魂をあらわしていく人は、非常に少ないわけです。

潜在意識は表面意識より調和された意識部分であること。

表面意識は想念帯を通じて潜在意識である心に触れることになります。

こういうことから、想念帯は表面意識と潜在意識の中間に位置し、この想念体を調和しなければ心である潜在意識には入ることも適わず優れたその能力も発揮することができないでしょう。

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子どもを愛しすぎる弊害

子ども

私が子どもの頃(55年前小学三年生頃)の遊びを思い出してみた。

稲ワラを使って自分で縄を綯(な)って、その縄で稲ワラを束ねて長く繋ぎ、土俵を作って仲間たちと相撲をとって暗くなるまで外で遊んだ。

土と水で団子をつくって的に当てる競争もした。二つのグループで陣取り合戦もした。自分たちでぼろきれを丸め糸を巻きボールを作って野球をして遊んだ。

子どもはある年齢に達するまで、粘土や泥んこ遊びや、水遊び、これに類似したことでも汚れなどまったく意に介さずニチャニチャした物を好んで遊ぶ。

フロイトはこれを、皮膚に粘着性のものを触れさせて喜ぶところの快感は「性」に密接な関係を持っているからだというのですが、私はそれよりも、粘土とか泥は小さな子どもの手でどんなにでも、どんな形にでも創造することができ、人間が本来持っている無限の創造力を満足させられるからだと思う。

それともう一つは母親の胸に抱かれてお乳を飲んでいる時、あいた一方の手でやわらかなお母さんの乳房をまさぐった経験の記憶が心に残っていることにもよる。

だから、子どもには、泥んこ遊びをさせた方がよい。

子どもが砂場遊びを好むのもそうであり、それをキレイ好きの母親や洗濯嫌いの母親が、いつもきれいな服を着せ、きれいにさせておこうとして、泥んこ遊びなどで汚なくすることを禁止することは、子どもの創造力と、母親への思慕の情が満足させられなくなり、大きくなるに従って反抗的になったり、神経質になったりすることになるのである。

真に調和された家庭からは心疾患の子ども反抗児もでない。

反抗児は、父親が極端にきびしいか、または極端に甘く、父親の権威がない家庭に出る。

日本赤軍の中心人物の父親は、多くが警察官か教師であったことは知られていない。

警察官とか教師は、自分が社会の模範とならなければならない存在であるし、社会の人々はよくその行動を注目している。

「あの人の子どもがあんなことでは」とか、「教師の子どもがあんなに成績が悪ければ」とか、子ども自身のことよりも、絶えず周囲の眼を意識し、周囲がどう思うかを先に考えて、子どもを規制しようとして、囗やかましくいう。

すると子どもは、父親は、自分を愛しているのではなくて、社会の眼を意識していることを敏感に感ずるから、父親を殺すわけにはゆかないので(本当は父親を殺したいのであるが)、反抗しやすいところへ反抗心をぶっつけたり、するなといわれることをいっそうしてみたいと思ったりする。

父親の権威のない家庭では、結局は母親が強いため、子どもは母親のいいなりになっているが、だんだん思春期頃になってくると、いうことを聞かなくなる。

それは、いつまでも子ども扱いされたくない。一個の人格として、大人として扱ってもらいたいという心からである。

思春期になると異性を意識し、恋愛をしたいと思い、結婚も考えるようになる。

自分か結婚した時に自分達はどんな夫婦であるべきかを考え、その時考え出される夫婦のあり方は、やはり夫である自分がしっかりして、それに素直についてきてくれる妻という、いわゆる「夫唱婦随」の姿であろう。

ところが現実に見る自分の父親と母親との関係は、母親が強くて父親が弱い。気の強い母親にやり込められて、いつも謝ってばかりいるあわれな父親の姿である。

子どもはそれに批判的になる。親に食べさせてもらって学校へも行かせてもらっているし、親の恩があるから正面切って親をなぐることはできないが、同じ男性の立場として、「お父さん、もっと強く夫の立場を主張したらどうか、なにをそんなに母親なんかにびくびくしているのか」と、半ば父親を激励し、半ばそういう父親を軽蔑する。

人間は、自分が尊敬し愛している人のいうことはなんでも聞こうとするが、軽蔑している人のいうことは聞きたくないという心がある。

だから、そういう父親にいろいろいわれると、これではいけないと思いながら反抗したくなる。

母親に対しては、妻というものはもっと夫を大事にし、夫のいうことに素直であるべきだと自分では思っているが、目の前にいる母親は、自分が心に描いている女のあり方とは全く違って、気の強い、夫のいうことは聞かない、いつも自分のいうことばかりを聞かせようとする我の強い女である。

子どもは母と子という立場ではなく一人の男性として、母親の女としてのあり方を見ているのである。

そういう母親は尊敬するに足りない。女の出来損ないみたいな母親のいうことを聞いてたまるかという感情を持つ。

そういう母親に限って、「お母さんはこれだけあなたのためを思ってきたのに」と泣くのである。

夫婦が不調和であってはいけない。特に母親が強くなってはいけない。

小学高学年や中学生などのいわゆる思春期の頃、あるいは二十歳前後の青年のノイローゼの原因は、夫婦の不調和が原因の場合が多いことは見逃せない。

いろいろなことで夫に失望した妻は、男の子が生まれると男の子に期待をつなぐ。夫によ
って満たされなかったもの子どもによって満足させようとする。

するとますます子どもに傾倒した愛情を向けるようになっていく。

夫との間がうまくゆかないということは、性生活も満足でないということになる。

いつも性的欲求不満があるということになる。男の子の性器をじっと見つめたり、いじったり、性の感情を持って子どもを愛撫する。

子どもが大きくなるにつれ、思春期頃になって大人としての身体的特徴がはっきりしてくると、自分の子どもであるという感情を乗り越えて、子どもを一人の男性と見て、それとなくその男性を恋し、夫との欲求不満の結果として性的満足を遂げたいという内心の衝動を感じ、性的感情を持ってしげしげと子どもを見る。

そうなると子どもは普通よりも早く性的に目覚めされられることになり、母親が自分に寄せる感情の中に「性」の匂いを感じて、母親を母親としてではなくして、一人の女性と見て、その女性に恋し、その女性と一体となって性的行為をしたいという衝動を感ずるようになる。

それが罪の意識となって子どもの心を苦しめ、歪んだ精神構造をつくっていきノイローゼにするのである。

性的なことで悩みを持ち始めた子どもは、ひどく顔を気にするようになる。

特に眼がおかしいとか鼻の格好がわるいということで拘りを持ってしまうと、もっとりっぱな顔に生んでくれればよかったのにと、朝から晩まで鏡を見て、眼や鼻をいじるようになったら、性に対する意識が高くなってきたということだ。

人間の心の想念というものは、思ったことを行動に移さなくても、波動として相手の心に届いているものである。

ただ、想いは肉眼では見えないというだけのことで、エネルギーとしてしっかり働いているものだ。

父親や母親の子どもに接する態度以前に重要な事は、真に調和された想念であるということを心に落としておかなくてはならないだろう。

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子どもの性教育

結婚

結婚と子どもの誕生

夫婦親子の縁があの世で決まると、まず親となる霊が、それぞれの縁によって生まれてゆくのを、子どもとなる霊はあの世から見ている。

親となる人が生まれ、成長してゆく、結婚をする。

すると、あの世からそれを見ていた子どもとなることを約束した霊は、いよいよ自分が肉体を持って生まれてゆく時がきたと、地上から送られてくる信号を待つことになるのである。

結婚して夫婦となった者から信号が送られる。それが夫婦の性行為による心の波動である。

子どもとなることを約束した霊はその波動に乗って受胎されることになる。

子どもとなる霊が完全に母体に入るのは「オギャー」と生まれた瞬間であるが、その間子どもとなる霊は、自分が宿るべき肉体が、母となる人の胎内でどのように成長するのかを見守り、自分特有の心の波動を印象してゆくのである。

そのことによってその子ども特有の人相、骨格、体相等がつくられてゆくのである。

性格はその子ども自身のものであるが、体格体質には親の遺伝の影響を受ける。

「あの子はおじいさんによく似ている」とか、「おばあさん似だ」とか、あるいは親子で顔がよく似ているのは、霊(魂)の勉強の基本的な場であるその家に、その人は帰属する者であることを自分でも確認し、社会全体に対してもその霊の帰属と責任を明らかにするために、そうなるようになっているのである。

もし顔が、父母にも誰にも似ず、てんでんばらばらであると、その子は本人が名乗らない限り、またそれを証明するなにかを持っていない限り確認のしようがないが、顔がどこか似ているから、顔を見ると「どこの子だ」ということがわかる。

そうすれば社会に対しても、その家全体として責任を持つということの自覚を持たなければならないことになるということだ。

顔立ちだけのことではなく、親に似ぬ子は鬼子というが、そういう子どもは特別の使命を持って生まれている場合が多い。

霊はいつ肉体に宿るか

人間の魂はいつ肉体に宿るのか。妊娠3カ月ごろになると、あの世に居る魂は胎児の体に入ったり、あの世に帰ったりするようになる。

子となる霊(魂)は妊娠の全期にわたって、自分の霊を宿すべき肉体がどのように母となる人の胎内で形づくられてゆくかを見、自分独特の印象を刻んでゆく。

霊が完全に肉体に宿るのは、「オギャー」と生まれて空気を吸った瞬間である。

完全に肉体に宿ると、その霊は過去世のことも、あの世のことも全部思い出せないような仕組みになっている。魂全体の90%が潜在してしまうからだ。

そうでないとあの世とこの世と混同して混乱し、地上での勉強に支障が出やすいからである。

まず現在意識が開かれ、眼、耳、鼻、舌、身の五官による認識が始まるのだが、教わらなくてもお母さんのおっぱいに吸いつき乳を飲み始めることをみればわかるように、先に本能がめざめる。

そして、悲しければ泣き、嬉しければ笑うという幼児の姿に感情がめざめを見ることができる。

やがて知性が働きはじめ、家庭の躾(しつ)けや学校の教育によって理性がそだっていくのである。

大人になってからは本人の自覚と実践(行い)によって潜在意識は次第に開発されるようになってゆくのであるが、これは一様ではなく、エゴ(自我)という執着が強いほど正しい潜在意識の開発は困難となる。

潜在意識の扉を開く為の行は、心の調和を学ばずに能力ばかりを求めて行うと、不調和な心の隙に邪霊や動物霊から憑依される危険が多いから気をつけなくてはならない。

子どもの性教育をどうするか

ある40代の父親Hさんは、娘が小学生頃から大人が見る卑猥(ひわい)なDVDを、『こういう男女のセックスを見せておけば男にだまされることはない。性教育だ。』として奥さんの反対に耳もかさず一緒に見せていたという話しをHさんの奥さんから聞いた。

とうの娘さんは現在、中学三年生であるが、最近になって認知療法の受診に通い始めた。

現代医学でいう強迫性障害の潔癖症ということで、非常に生活に支障が出るほどに言動に問題がでてきているという。

異常な手洗い、友達が髪の毛や顔に触れるのを嫌う、家に帰るとすぐに着替える、お風呂からあがるともう一回着替える、古本に触れない、人が使用したものは消毒しないとダメ、借りたDVDの消毒、毎日教科書を消毒する、制服も毎日消毒する、電車のつり革に触らない、エスカレレーターに触れない、便座に座った後のお尻が気になって仕方がない、等々。

実は、この強迫性障害である潔癖症のこの子の父親は覚せい剤をやっていた。

現代は栄養がよくなったために、小学生の女の子で初潮をみる子がいるようになってきている。

ある若い母親から聞いたことであるが、五年生になると学校で生理の教育があり、どうして子どもが生まれるかを教えられるという。

ある日、兄と一緒に風呂に入れたら、その兄の性器をしげしげと眺めながら「あんたのはりっぱね」と、その妹がいったという。

それを聞いて若いお母さんはびっくりして、それ以来、女の子は、父親とも一緒に風呂に入れることはしないようにしたというのである。

ものわかりのよい父親でありたいという男親が、早く子どもに性の理解を持たせたいということで、中学生や高校生になった娘と一緒に休むという話を聞くが、これは問題である。

最近の性道徳の荒廃、女子学生の売春、またそれを利用する大人がいることもいけないが、正しい性教育がなされないで、単に肉体的に生理的にのみ説明され、しかも教師の中には、「性の満足が人間の幸福であり、あるものを使わなければ損だ」というような露骨で挑発的な教育をする者がいる、これは教師自体の正しい教養、品性、性道徳が乱れてきた影響ではなかろうか。

「人は教育によってのみ、人となり得る」と、ドイツの哲学者イマヌエル・カントが言ったが、性教育においても同じである。

だからして、子どもの性教育は、つぎの条件が備わらなければいけない。

一、男の役割と女の役割。

二、結婚の意義、夫婦生活の秩序。

三、子どもの誕生の意義。

上記のことを教えた上で、肉体的生理的なことを説明し、その真理と秩序に反した時に不幸になり、それを悪いというのであり、自分の行為については自分が責任を持たなければならないことを教えるべきではなかろうか。

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過保護がつくる心の歪み

愛

過保護で甘やかした子どもが精神的疾患を表わすようになる事例は珍しいことではない。

例えば、男の子の精神的歪みの例からいうと、お母さんが過保護にすることによって発生するケースもあるのだが、その場合、そのお母さんの心理的原因は、夫を尊敬し愛することができないことにもある。

夫を尊敬し愛することができないところに男の子が生まれてくると、夫によって満たされなかった愛を、子どもを愛することによって満足させようとする。

人間は、誰かを愛し、誰からか愛されずにはいられない存在でもあるから、子どもを愛し、子どもから「いいお母さんだ」といわれたい気持ちは潜在的には誰もがもっているものであろう。

子どものことにかまけてますます夫婦の間に溝ができることになるが、十五、六歳頃からの思春期は、精神的にも肉体的にも一人の大人として立ってゆかなければならない時期です。

ところが母親が自ら、「して見せて、行わせていない」から、身体だけは大人みたいになっても精神的には母親に寄りかかり、肉体的には何ごとも、何をどうしていいかわからないのである。

人間には自尊心がある。その自尊心を傷つけられたくないという気持は誰でも持っている。

やれば失敗して自尊心が傷つけられて恥をかくと思った場合、甘やかされた気の弱い人間は、やって失敗して恥をかくよりは、やればできるけど、しないだけのことであるという姿勢をとり、結局やらない。

そして心の中で、あんなことをやるのは低級な人間で、自分は優秀で高等な人間だからあんなことはしないと、高くとまって誤った優越感を持っている場合もある。

三十、四十歳と年を取ってくると、同じ年齢の者は既に結婚もし、子どももあり、社会的にもそれ相当になっているからなおのこと仲間入りできないと思ってノイローゼが重症になってなにもできないという姿勢を取ることになる。

その上に後に書いてあるように性的な問題がからんでくるからますますややこしいことになってくる。

非行、暴力、反抗、ノイ囗-ゼの検証

原因は夫婦の不調和であり、父親も母親も、どちらかが厳し過ぎたり、甘やかし過ぎたりして極端な状態ですから、躾や教育もバランスの良い中道でなければならない。

特に、母親があまりにも子どもに関心を持ち過ぎることはいけない。ノイローゼに至っては、母親が性的感情を持って子どもを見るということが原因な場合もあるから、子どもをそういう眼で見ないこと。

また、父親が娘を溺愛するあまり、性的な感情をもって接したために、娘は思春期頃を機に歪んだ感情を表すようになってくることがある。

10代の女の子が、男子に対して甘える素振りをみせて自分の意のままに操ろうとする姿は、父親に甘えると何でも望みを叶えてもらえるという父親の溺愛から生まれた精神構造によるものであろう。

母親は子どもに対して偏り過ぎた感情移入してはならず、いかにして夫と調和するかを考え、夫が喜び、穏やかな心になれるかという環境作りをすれば、気がついた時は、子どもは一人で立ち直っているということになるものである。

父親コンプレックスの女性の場合、冷たい初恋の男性を思いつづけている女性が、冷たく、夫を愛することが下手であることがある。

父親にひどく溺愛された女の子は、父親に心が固着して、父から受けたように愛されることばかりを求めて、自分の方から積極的に夫を愛そうとしない、性的にも不感症であったりすることがある。

家庭の破綻にならずに調和への生活を希望するならば、結婚したら父と娘という愛だけに固執することなく、夫と妻という立場をはっきり意識して、妻としての役割を果たすことに努力しなければならないだろう。

性生活を忌避する潔癖な妻の影響とその解決

性生活を忌避するのは、性を罪悪だと思う心もひとつの要因として背景にある。

人間は本来、罪を犯したくはない。だからなるべく罪を犯す行為はするまいとします。

それに小さい時から、性を不潔だと教えられ、プラトニックラブ(心だけの結合)をすばらしいと思う心が強いと、性の衝動を感じてもそれを抑制しようとする思いが働き、結果的には欲求不満となる。

妻があまりにも貞淑で、道徳堅固で日頃から何かと潔癖感が強く、夜の営みのときも、行為が終るとすぐ洗浄に立ち上がるというような場合、夫は常に妻の過ぎた潔癖さに威圧され、妻のいやがることはなるべくすまいとして性の衝動を抑制するようになる。

結果、そういう妻の前では自由に振舞えなくなってくる。

そこで夫は、もっと自由に性本能を発動することができる相手を求めることになる。

これが貞淑な賢妻を持つ夫が、そうでもない女性に走る原因でもある。

夫を責める前に夫に愛される女性になれているかを振り返ることも大事であろう。

なぜ性欲が罪悪視され、不潔視されるか、恋愛の理想的な、いわゆるロマンチックな美の感情は、肉体的な結合を拒否する。

しかし一方において、肉体的な感覚は肉体の結合を求める。

従来、性的行為が罪悪視され、低卑視されてきたのは、人間を単なる動物だと見て、性的行為を動物的行為だと思うようになったからである。

宗教においては、信仰をもつ人間が口では「神よ」、「仏よ」と称えながら、一方で動物的行為をするのは人間の堕落であると考えたところがある。

そこからして神に仕える聖職者は純潔で童貞で処女でなければならないと考えられてきた歴史もある。

それにもう一つは、子どもを産むという神聖な器官が、汚ない糞尿を排泄する器官と連合しているために、性器を汚いと思うようになり、汚いものにはなるべく触れてはならないと思ったからである。

小さな子どもが自分の性器に手をふれると、「あ、汚い、さわってはいけない」という言葉を使って抑止し禁正してきた感があり、そのために自然に性欲が低卑化されてきた。

あまりにも厳格な家庭に育った女性、またクリスチャンの家庭に育った女性が、往々にして結婚忌避症になったり、潔癖感が強過ぎて性的に冷淡であったり、不感症であったりするのも、一つはそのことに原因がある。

人間はなぜ性器と排泄器官を同じ場所に持って生まれたかつくられたか。

その糞尿が排泄される場所の近くに子どもを生ませ、また生殖器官がある。

昼間の知性、理性をもって働かなければならない時間においては、糞尿の出てくる場所に手を触れることは、汚いという意識が伴う。

しかし、夜になって感性が高まり、愛の感情が高揚してくると、性器に手を触れることを汚いと感じなくなって、むしろ積極的に触れ、結合したいという感情が高まってくる。

こうした行為を、人間はごく自然に繰り返してきたのであるが、男女の間における心の高揚感は、こうも状況を変えてしまうものなのである。

神聖な子どもが生まれる場所と、糞尿が排泄される汚い場所を、なぜ創造主は同じ場所につくられたのであろうか、誰も今までそのことについては考えてこなかった。

しかし、創造主からみれば汚いもキレイもなくそれを超えた神聖な器官ということであろう。

少し「愛」の感情と働きを分析して考えてみよう。

愛は、憎しみのあるところに安らぎをもたらすもの。

争いのあるところに許しを。

疑いのあるところに信を。

絶望のあるところに希望を。

闇のあるところに光を。

悲しみのあるところに喜びをもたらす。

慰められるよりなぐさめることを。

理解されるよりもりかいすることを。

私たちは人に与えることによって心の富をえることができる。

許したときに己の心が解き放たれてゆるされる。

沈黙と孤独は自身を知る時。

光りとエネルギーを無償で与え続けている太陽の意識こそ愛の姿といわずして何と表現しようか。

わが子を愛する母親は、わが子の頬にキッスして、「この子を食べたい」と表現する。

愛する者同士はお互いに相手を強く抱擁して、相手の身体を自分の肉体に押し込んで、相手と自分と一つになりたいと思う。

尊敬し愛している者同士が、一緒に食事をするのは、実は尊敬し愛するあまりに、相手と一体となりたい、相手に同化したいという心の現われでもある。

愛は、恋人同士の愛だけでなく、家族愛、親子愛、兄弟愛、人類愛、広くは友情も含まれるだろう。

人における愛は行動を生み出し、行動は相手のために何かをしようとし、あるいは、許容し、そばにいて受け止めてあげようとする。

それらは母子の関係にある、愛を与える母と受け取る子供、例えば、赤ちゃんにオッパイをあげている母の姿は美しく、何一つ望むことなく乳をあげて優しいまなざしで微笑みを浮かべている。

母の腕に抱かれて乳をのむ赤ちゃんは安らぎの極致であろう。

あげて喜びを感じる母と、いただいて幸せな赤ちゃんの姿は、誰の目にも愛おしく顔がゆるんでしまう。

ここに愛の原点がある。

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人類と進化論と魂

宇宙

saori より: コメント2013年6月17日 10:41 PM

こんちには。
最近こちらのサイトを知り、過去の記事もいくつか読ませて頂き、大変勉強になりました。
そこで、今回の記事の中にふと疑問に思ったことがありましたのでお伺いしたいのですが…

人間は人間に輪廻するとなると、進化の過程で霊長類が人間になる前はやはり人の魂も存在しないのですか?
三次元の物質的な世界と同じ様に多次元の魂が存在する世界にも進化というものがあるのでしょうか?
また、動物、植物、単細胞生物、ウイルスなど、地球上には様々な”生物“がいますが、魂というのは全てに宿っているものなのですか?(ここまでが質問コメント)

saori様、ブログを訪問していただきありがとうございます。あなたの三つの質問にお答えさせていただきます。

(1)「人間は人間に輪廻するとなると、進化の過程で霊長類が人間になる前はやはり人の魂も存在しないのですか?」

これはとても意義深い問いかけをいただきました。

この問題は個人の疑問にとどまるテーマではなく、人類にとっても是非、一考いただきたい大きな問題であると思います。

但し、これから申し上げることは、一般的には馴染みのないことであろうかと思いますので、受け入れるか否かは読者の皆さまの気根、資質に委ねるところであります。

「進化の過程で霊長類が人間になる前」ということは、類人猿が進化して私たちの現在の肉体となったという前提で質問をしていることになりますが、この時点で違ったものになってしまいます。

何故なら、霊長類が人間に進化したというのは、チャールズ・ロバート・ダーウィン1809年2月12日~1882419日)というイギリスの自然科学者が提唱した進化論が基盤となってのお考えでしょう。

しかし、私は類人猿が進化して現代の人間となったとは捉えておりません。

進化論が真実を語っているなら数千年前の猿に進化がみられるでしょうか。ゴリラに進化がみられるでしょうか。

猿は猿であり、ゴリラはゴリラです。人間には進化しておりませんし、そのような兆しもみえません。まして、海から陸に上がった生物が進化して人間になったのでもないでしょう。

今述べたことは、生物学的観点からの意見というより、スピリチュアルな観点から述べた言葉とご理解いただければと思います。

現代の生物学の基盤を成している進化論とはいっても、特に進化論による人類の誕生ということに関しては異論をとなえる科学者もいます。

人類に関する進化論については理論体系化されたということであって、決定的な確証は何もなく、推測の域を出ていないのです。

従って、人類は最初から他の動物とは異なる智慧と創造性の魂を供えた人類として地上に命をいただいた存在であると信ずるところです。

もう少し踏み込んでいうならば、私たちが住む太陽系のような銀河系が、遠い数十億光年、数百億光年、数千億光年の彼方に存在して、私たちのような地球人類と同じ生命体がいるとしたら誰がそれを否定できるでしょうか。

現代科学で立証されていないから存在しないとする一般社会の考えは、科学で発見される以前のウイルスや、大気中の酸素、気体化した水など、その他の肉眼では見ることのできない無限の存在をも否定することになります。

人間の魂についても同じように、見えないから存在しないとする考え方は科学的ではありません。

(2)「三次元の物質的な世界と同じように多次元の魂が存在する世界にも進化というものがあるので。しょうか?」

この質問は、この世の人間と同じように、あの世にも進化があるのでしょうかということかと思います。

先ず、私たちは、この世では肉体をもった状態で生活をし、人生のなかで心のステージアップを図ることを目的として様々な経験から学習していくものです。

あの世では、この世で持つような肉体は無いのですが、私たちの肉体とおなじような形と役目をした光子体(霊体)も持って生活をしているのです。

心(魂)のステージアップを図るために、あの世でも日々の学びをしているという点では何らこの世と変わりはありません。

ただ、違う点は、この世のように善悪が入り混じった環境ではなく、あの世では善悪がはっきりと分かれており、魂の境涯が違えば居住する環境がまったく異なるという点である。

心に執着を持った人間が行く環境と調和された人間が行く死後の環境はまったく違うということです。

これは、誰か第三者が裁くのではなく、自身の魂のステージに沿った環境にしかいけないということです。

進化とは肉体の変化をいうのではなく、心の向上を指して進化というのが正しい進化といえるでしょう。

進化という意味においては、この世の科学的進化の水準より、遥かに4次元以上、多次元世界の科学のほうが先をいっているということです。

この世の人類が発明や創造するところには、いつもあの世の多次元世界からの指導があって、それがひらめきとなって創造されるのです。

例えば、アインシュタインの原子と原子核の物理学は量子力学の基礎と発展にも大きく貢献し、原子核分裂エネルギーは平和利用する為に発見された事なのですが、これも高度な多次元世界からの指導によって成されたことであって、アインシュタインが全く一人で発見したことではないでしょう。

人類は個人の価値観や幸せを目的とするにとどまらず、地上人類共通の目的があるはずです。それが地上の楽園、つまり、ユートピアの建設です。

そのために必要なことが個人の魂の調和となりましょう。

個人の調和、悟りがなくて人類の楽園が成されることはないということです。

(3)「また、動物、植物、単細胞生物、ウイルスなど、地球上には様々な生物がいますが、魂というのは全てに宿っているものなのですか?」

この質問は魂という言葉で全ての生命体を語ることはできないでしょう。

例えば、四足歩行の動物には魂が備わっていますが、蛇などにも魂が備わっています。

或いは、草花や木のような植物の場合は、動物のように魂とはいわず、精霊と言ったほうが適切かと思いますし、実際に精霊(自然霊)が存在します。

単細胞生物などの場合は魂や精霊とは異なった非常に限られた行動範囲の意識エネルギーと表現したいところです。

ウイルスに関してもそうですが、非常に単純な意識エネルギーをもった生命体ではあるが、その行動範囲は広く拡散して順応していく能力をもった存在であるといえます。

また、鉱物などの場合も魂という形ではありませんが、硬い波動エネルギーを持った生命体であることは確かです。

こうしてみると、この地上に存在するあらゆるものは、それぞれの魂や、意識、波動エネルギーを持った生命体であるといえるのではないだろうか。

saoriさまのご質問への答えになりましたでしょうか。あなたが質問をしてくださったおかげで、このような内容の記事を投稿することができましたことに深く感謝をもうしあげます。ありがとうございました。

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心の毒と心疾患

悩み

動物は、口から食べ物を入れて体の中で消化した後、いらなくなったものを肛門から出すことで健康が保たれている。簡単にいえば、口からおしりまでは、1本の管(くだ)でつながっている。

ところが、人間は不必要なものまで心に溜めこんで病気をするのである。

1本の管の途中に、胃や腸があって食べ物をこなごなにくだいたり、食べ物の栄養を吸収したりしています。

しかし、人間を動かしていくためにはこの1本の管だけではなく、心臓や、肺臓、肝臓、腎臓、膵臓、胆のう、脾臓、膀胱など、たくさんの内臓の働きが必要です。

それに、体をささえるための骨、そしてそれを動かすための、筋肉がまた必要です。

人間は、熱い、冷たい、痛い、などを感じることができるが、これは身を守るための痛覚神経があるためで、体中のあらゆるところの神経が脳につながっているからです。

こういう体のつくりは、イヌやネコ、ウシやウマもほとんど人間とかわりません。ただそれぞれの形や働きが少しずつ違っているだけなのです。

人間がほかの動物と一番ちがうところは、医科学的な見方をすれば脳かもしれません。

体はそれぞれの臓器の働きによって機能していますが、その臓器を支配しているのが神経であり、その神経を支配しているのが脳です。

しかし、人間の体はこれだけでは決して機能しません。

脳を支配しているものが存在するのである。

(心)である。

人間の脳は、ものを考える、想像する、創造する、悩む、過去を考える、先を心配する。というところがかなり発達しているからですが、しかし、これは単に脳の作りが違うというだけの問題ではないのです。

他の動物とは決定的に違うもの、それは魂(心)の違いです。

人間の魂が動物に宿ることはありませんし、死んで動物に生まれ変わるものでもありません。

人間は人間として何度も生まれ変わり輪廻転生を繰り返しているのである。

ものを考える、想像する、創造する、悩む、過去を考える、このようなことのできる人間ですが、先を心配するが故に、そのことに執着、即ちこだわると心が病み始め、やがて肉体が正常な機能をしなくなっている人たちがいる。

心の不調和、心の病が肉体の病を引き起こすということを知らなくてはならない。

例えば、うつ病、パニック障害、過呼吸、閉所恐怖症、広所恐怖症、摂食障害(過食症、拒食症)、自傷行為、統合失調症、強迫性障害、等々の精神疾患によって体調が思わしくなくなる場合が実に多いのです。

特に、うつ病、パニック障害、過呼吸などは連動性があり、パニックからうつ病を発症する場合もある。

私は殆んど毎日のように、このような人たちの話しを聞き、そして心の在り方をお話しさせていただいている。

人の精神、肉体をもっとも不安定にする想念は、必要以上の拘り愚痴、怒り、足ることを知らぬ欲望、即ち自我といえましょう。

いずれも自己保存に深く根ざしているからです。

拘るが故に自分を弱いものとみる。こだわるが故に他人の目を気にしていつも心を苦しくさせている自分、拘るが故に他人の言動を批判する自分。

愚痴は本来の清浄な己を否定し、人間疎外感と孤独を生み、他を裁く言動と怒りは破壊を意味し、足ることを知らぬ欲望は、自己を失わせる最たるものといえましょう。

精神(心)と密着した私たちの肉体は、思うことがただちに現象となって現われます。

笑いや、副交感神経の優位な精神状態は、血液の循環をよくし、胃や腸の活動を活発にさせます。

反対に、怒ったり、悲しんだり、自己嫌悪感や、卑下する心は心臓の運動や睡眠をさまたげる要素をつくり出してゆきます。

想念の在り方いかんで、 いっさいの肉体的な諸現象がただちに現われてくることは、誰しも一度ならず、経験しているところではないでしょうか。

一方、怒ったり、悲しんだりして、食欲が減退し、睡眠がとれないとすれば、仕事や人間関係の判断まで狂ってきましょう。

つまり、こうした想念は、心の平衡を失わせ、精神まで不安定にしてゆきます。それが長じては心の病にまで発展してしまうだろう。

心が不安定になれば、家庭や職場での協調関係がうまくゆかず、敵を作り、嫌われたり、こうした状況が長びけば、やがては仕事も行き詰まり、病気や災難を誘発します。

こういうように、想念は、その人の心と肉体に敏感に反映してきます。

いうなれば、想念は、ものをつくっているのです。

想念は、もともと精神活動の一つです。

しかしその精神活動が中道を失うと、目や耳や口を通して、肉体中心の業想念に支配されてきます。

自分が正しいと言っている人が実は間違っていることに気づけないほど気の毒なことはない。

それが自我であり、業想念の為せる生き様である。

業は、ウソのつけない自分の心と、天から与えられた正常な肉体まで汚してしまうことになり、目的と使命を担ってきた今世の自分の運命、天命を狂わせ、新たな諸々の原因(業因)をつくってあの世に還ることなります。

今世の原因が、今世で清算(結果)されればよいのですが、清算されないときは、あの世に持ち越し、来世で、そのおさらいをしなければなりません。

これは、読者が知っていようが、知らずにいようが、否定しようが、真実であることには何らの変りもない。

つまり、もう一度今世と同じような環境の下で修行し、己の魂をテストしなければならないのです。

はっきりいうならば、大抵は、原因と結果の堂々巡りをしてしまいます。

いま苦悩の渦中にあるならば、他人のせいにすることを改めて、自分の心を万遍なく省みることです。

人類、二千年の昔も今も、心の面ではそれほど進歩がないというのも、こうしたところに原因があります。悪循環からなかなか抜け出せないのです。

悪循環の最たるものは何かといえば、愚痴と、怒りと、足ることを知らぬ欲望です。

この三つを称して、心の三毒といい、業想念のなかでも、もっとも悪い原因をつくります。よくよく心しなければなりません。

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お布施の真意

御霊前

交差点で停止した私の前の乗用車の男性、助手席に手を伸ばし何やらバックから取り出した仏前用の、のし袋、中からお金を取り出し、黒の財布に入れ替えている様子が、後続でワゴン車の私からよく見えていた。

きれいに剃った坊主頭で袈裟を羽織った僧侶、青信号に変わるまでのわずかな時間の光景であるが、複雑な気持ちで苦笑しながら見ていた私の印象である。

布施という言葉は、葬式や宗教界のこととして、いかにも抹香くさい響きを与えますが、本来の布施の意義は、感謝の心を報恩として形に表わしてゆくことでしょう。

物を献ずる、お金を上げることもその一つですが、人にはそれぞれ得手、不得手や、事情もありましょうし、自分のもっともしやすい方法で人々に奉仕すること、これが立派な布施になるのです。

布施は何も宗教界や葬儀のことに限定された行為ではないといえます。

その意味で、正しい生き方の法則である正法から布施を抜いたら正法でなくなります。

なぜかというと、布施は、その法則(偏りのない調和された生き方)を信じ、真理を日々の生活に行ずる者の証しであるからです。

正しい生き方の法則には三つの柱があります。

その一つは大宇宙を支配する大意識であり、

その二は転生輪廻であり、

三番目は慈しみの心と愛の心です。

布施の行為は慈悲の現われなのです。

慈悲は宇宙を統(す)べる意識と同調する私たちの心から生まれます。

心に無理がなく

過去の理不尽にも縛られず

過去に心を奪われず

きょうの時間を

足ることを知り

愚痴らず

怒らず

何事も怖れず、悲しまず

また、先を憂えず

気負わずに

ゆっくりと歩み

自分を信じて諦めず

正直、親切

そして、愉快に勇気をもち。

自己の人生に対して

常に調和と慈愛を失わぬ

おだやかな

生き方をしたい。

自然体でありたいということです。

それはちょうど、万生万物に熱と光を惜しみなく与え、生きとし生ける者に、エネルギーを供給し続けている太陽の姿です。

このような天の法則を行ずる者は、当然このような立場に立って、人びとに接して行くものでなければなりません。

天の法則を信じながら行為として布施ができないようでは、その人はまだ本当に天の法則というものを理解していないということになりましょう。

私たちは、現実に生かされています。これを否定する者は何人もいないはずです。

米一つ作るにも、自然の環境、自然の恵みと、人びとの協力があってはじめて可能なのであり、洋服にしろ、靴にしろ、そのほか諸々の生活用品は、すべて自然の条件と人びとの協力の賜です。

こうした現実を見るならば、感謝の心が芽生えてくるのは当然なことです。

今日の我が国は、物資の洪水といってもよいほど物が豊富に出回っていますし、金さえ出せば何でも手にはいります。

そのため、ややもすれば、辛い立場で働いている人々の陰の協力に対する感謝の心が失われ、なんとはなしに過ごしてしまいます。

人間は自分を過信したり、感謝の心が失われてくると、動物以下になりさがってしまいます。

どんなにうまいことを百万言しゃべっても、行為のない人が行くべきあの世の姿というものは、想像以上の苦界であることを知るべきです。

多くの場合、その事実を知る手がかりがつかめないために、人は逃避的になったり、世をうらんだり、親を憎んだりしてしまいます。

よくよく心しなければなりません。

どのような厳しい環境、理不尽な環境に生まれようと、心無い言葉を親や周りの人々に浴びせられようと、そのことを捨てないと自分自身が安らかにはなれないのです。

人はまず素直に、今ある生活環境に目を向け、生かされている現実に感謝しなければなりません。

正しく生きたいと願う者は、このような現実を素直に認め、感謝の心を報恩として、形に現わして行くものです。

慈悲の心は宇宙を統べる意識の心であり、その心は布施となって、無理なく、自然に行えるようになることが大事です。

魂の前進、向上は、布施という慈悲の菩薩行を通して、はっきりと自分の心のなかに約束されましょう。

下は昨年6月の読売新聞に載った記事ですが、

葬儀で僧侶に渡す「お布施」を巡り、東京国税局などの一斉調査で判明した僧侶派遣会社や葬儀会社約10社による計約5億円の所得隠し。

複数各地の派遣会社に登録して働く僧侶たちは、「5割以上をピンハネされた」などと、お布施を業者に還流させる仕組みの詳細を明かす。

なかには「他宗派の僧侶を装って法事をさせられた」などの証言もあり、僧侶派遣ビジネスの不透明な実態が浮かび上がった。

「実家の寺の副住職としての収入だけでは食べていけない」。埼玉県内の僧侶(46歳)は約10年前、複数の派遣業者に登録して最近まで仕事を続けていた。

派遣業者に支払う仲介手数料は「お布施の半額」が基本だったが、時には、お布施35万円のうち、25万円のキックバックを求められたこともあった。

交通費や宿泊費、食費などは基本的に自腹。「5割以上のピンハネはつらかった」と振り返る。節約のため、格安のビジネスホテルかカプセルホテルを選び、食事はコンビニで済ませた。

派遣業者への支払いは振り込みが多かったが、現金書留を指定されることもあった。「裏金にするのだろう」と感じた。

こうして僧侶から派遣業者にバックされたお布施の一部は、多くの場合、派遣業者に僧侶派遣を依頼した葬儀会社に対して紹介手数料やリベートとして流れる。

お布施は数万~数十万円で、葬儀会社の取り分は3割程度。所得隠しが指摘された僧侶派遣会社「〇〇・〇リ〇オ〇」は、僧侶から受け取った紹介料の一部を収入から除外し、葬儀会社への手数料やリベートに充当。

葬儀会社もリベートを簿外で受け取るなどしていた。要するに裏金として表に出さない金となる。

ある葬儀会社幹部は、リベートの一部の使途について「患者が亡くなった時に紹介してもらえるよう、病院関係者らを接待するのに使った」と明かした。

こうした仕組みが施主側(遺族)に伝えられることはまれだ。〇〇社から葬儀に派遣された僧侶の一人は「施主は読経の対価としてお布施を払っている。施主に実態は知られたくない」と語る。

僧侶の宗派をごまかして派遣するケースもある。

ある派遣会社から法事の仕事を受けていた関東地方の僧侶の場合、いつも知らない寺院の僧侶を名乗るよう求められていた。宗派も異なり、法事会場で「~~寺の副住職さんです」などと施主(遺族)に紹介されるのが後ろめたかったという。

他宗派の四十九日の法要で、重要な「位牌入魂」までやらされ、その宗派の作法が分からず、自分の宗派のやり方でごまかしたこともある。「とんでもないとをしてしまった」と、良心の呵責に耐えかねた。

以上、上記の記事は全て、「布施」というお金にまつわる葬儀会社と、僧侶の派遣会社、そして僧侶の関わりのなかで発生している利益追求の問題である。

資本主義の中では経済が重要であることは否めない事実ではあるが、ただ単に利益を追求するあまり、他を泣かせてまで儲けようとする営利主義は悲しみさえおぼえる。

それは、一般企業のみならず、宗教の世界でも全く変わることはなく、寄進する浄財もその多寡によって教祖の顔つきが変わるなどは論外であるが、その論外があるから困り者である。

そのようなところには、真の教えも導きもあろうはずがなく、必ずあとで泣きをみることになるであろうから、即刻離れるべきである。

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知識は道標・智慧は心に集積された生きた経験

知恵

知識と智慧(ちえ)について、これを同一にみる人はいないだろうが、この知識と智慧の確たる違いはとなると、なかなか答えきれないところもあるだろう。

つまり、ここからここまでが知識であり、そのほかは智慧だとはなかなか区別がつけ難いからだ。

智慧とは、心に内在された生きた経験の集積である。

生きた経験というのは応用がききますから、どのような問題であっても工夫が湧き出て解決へと展開されるのである。

知識は、この世で学んだ諸々の知識それをいう。

大学で学んだ知識が実生活にどれほど応用が可能か。まず通常は十の知識のうち、一つか二つではないだろうか。

学んだ知識が実際に活かされてどのような問題に対しても応用が利くまでには幾多の経験があって初めて智慧となり得るのである。

学者や特殊な職業の人ならいざ知らず、社会に出た人々にとって、知識の応用範囲は、本当に微々たるものにすぎない。

知識を応用してそのまま実生活に活かそうとすると、大抵は失敗をする。

更に、知識に偏りすぎて事を為そうとすると、暖かみのない冷たい人間となりがちで、対人関係において反発を招き、相手は口にこそ出さないが避けられる人となってしまうものだ。

知識に偏るということは、体験をふまえて調和された言動とは違い、押し付けになりかねない。

智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい(夏目漱石の草枕から)

私が若いころお世話になった上司のご主人が大学時代には経済学を専攻して学んだ経営コンサルタントであり、会社経営の指導者として働いていた。

さまざまな会社に招かれて講師をしていたが、やがて自らも会社を立ち上げたが失敗をし、負債を抱えこみ、倒産して終わってしまった。

世の中の大学教授や学者が、政治や事業をやったのをみればわかる。成功した例はきわめて少ない。

これは、知識は人一倍あるにもかかわらず、これまでの業界の流れを把握する、現状をみる、先を読む、ということに加えて、客のニーズに応えるための工夫と智慧が足らず、消費者の心をつかんでいないという意味では展開に甘さがあるといえるのではないか。

何事も知識や技術だけで事が成されるのではなく、人間はすべて対人関係のうえに生かされているということを忘れず、謙虚さと素直さを失ってはならないだろう。

ほんとうの智慧というものは、対人関係においても、お互いを円滑に運び、自分の中には安らぎをもたらすものである。

処世術に関心をもち、正しさを意識し、知識豊かな者がなぜ他に対して敵対する心を持つのだろうか。なぜ批判をし、裁くのだろか。

間違った人たちを批判し、裁くほどに自分が苦しくなることの道理は、人間の心に備わった神性仏性がそうさせるのである。

その神性仏性である人間の心は、自分がどれほど正しいと思っていても、敵対心や、批判心を持った時点で己の心を蝕むのであり、肉体の健康さえも脅かされるものだ。

生活の場は勿論のこと、経済の動きは生き物と同じであり、時々刻々変化している。

昨日の知識は今日には役立たないことの方が多い。

変わりゆく知識だけで企業が成り立つものでもないし、その知識だけで人間を動かせるものでもない。それは企業に限らず、個人同士の関係でも何ら変わるものではない。

知識が豊かな人ほど陥りやすく、気を付けなければならないのは、あまりにも理論的に過ぎて分別臭くなり、他人に避けられたり、最悪は嫌われる場合もあるということである。

人間が人間を動かすのですから、人間の心というものを十分に理解しておく必要があるし、常に変わる状況に対しても知識を超えた智慧をもって臨むことが要求されてくるものだ。

今日の医学は百年前より長足の進歩を遂げている。しかし医学の進歩と共に、新しい病気がふえている。

次々と新種の病気が現われ、医学がそれについて行けぬというのが現状のようだ。

これについてある人はいう。

医学の進歩があったから、これまで未発見の病気が発見されたのだ。もともとそうした病気があったけれども、医学が幼稚だったから分らなかったのだと。

またこれまでの医学は治療医学で予防医学は未開拓である。そのために病人が後を絶たない、ともいう。

私は現代医学を否定するものではない。

医学の分野で治せる病気も多いし、そうした治療をした方が良いという場合もあるからだ。

ただ病気の八割近くは、物理的治療では治らぬことが多いという現実を見逃してはならない。

なぜかというと心が病気をつくっているからである。

新種の病気が医学の進歩と並行して現われてくるのは人間の心が、モノを生み出し、時代と共に欲望の方向へと変化しているからであり、それが肉体に現れているということなのである。

つまり、精神の不調和が肉体に与える影響は甚大なものがあるということだ。

これまでの西洋医学は、物質科学で、物理的治療のみにウェイトが置かれてきているところもあり、その意味では、人間の心に ついての理解が欠けていたといえるだろう。

だから、物質科学としての医学は進んできたが、病気の間口は、時代の変化とともにひろがっていくため、医学と病気は絶え間のない競争関係におかれているということだ。

私がここでいいたいことは、知識と現実である。

医学という、いわば科学知識の頂点をゆく学問すらも、病気という現実の前には多くの問題をかかえているという事実である。

学問、知識にはある一定の限界がある。

私達の生活の場は、知識や学問によって支えられているのではない。

といって、学問、知識の必要は今更述べるまでもないが、要は、私達の毎日の経験が、私達の実生活を活かしているということである。

いうなれば毎日の経験から生み出された生活の智恵が、私達を支えているのである。

どんな職業にしろ、あるいは家庭にあっても、知識だけでは計り得ない何かがある。

その何かとは経験である。

経験によって習得し、はじめてものの用に役立ってくる。

昔から、覚えるより慣れろ、という諺があるが、どんな職業でも、一人前になるには三年、五年の歳月を必要としよう。

大学を出て、就職してもスグには役立たない。

大学を出たからといって、十人が十人、指導的地位に立つとはかぎらない。

私の中学のときのクラスメートが家庭の貧しさのために高校にいけなかったが、彼は建設会社に就職して毎日現場で泥だらけになって働き、やがて認められて独立した。

彼は今、社員を抱えて建設会社の社長として立派に社会に貢献している。彼は中卒である。

小学校だけでも立派な社会人として、大会社の社長をこなして行く者もある。

こうした例は、その人の経験と努力によって智慧を出し得られたものだ。

実社会での生活の智慧が、それをさせたといえるだろう。

本来、智慧とは何か。

智慧とは生きた経験の集積である。

その集積が、縁にふれ、おりにふれて、時々刻々変化する事象に対して、通常はひらめきとなって、人によってはもっと具体的に、適切な判断となって現われてくるものだ。

智慧は、知識や頭脳の働きからは生まれてこない。

智慧は、心から、生じてくる。

頭にいっぱい知識が詰まっていてそれにこだわると、智慧は生じ難い。

智慧は心に苦悩や執着があると出てこない。

知識が智慧の湧現を押さえてしまうからだ。

智慧の宝庫は、潜在意識にある。

潜在意識が開くと、智慧が流れ出してくる。

知識は頭脳への蓄積であり、それはわずか10%の表面意識の領域でしかない。

仏智という言葉があるが、仏智とは潜在意識の奥底から泉となって、表面意識に流れ出した偉大な波動であり光である。

見えない世界が見え、五官で判断がつかない問題が解けてきて、日常生活をより豊かにしてくれるものだ。

私の仕事は整体師である。体のバランスのことなら大抵のことはわかる。

ところが宗教的な知識や精神科や心療内科の医療現場で駆使するような知識はプロからみたら全くゼロに等しい。

だが、私には悩める人々の心にある闇の部分がわかるのである。

心療内科に通院している人たちが受けてきたカウンセリングや投薬治療の内容で回復に向かえない人たちの多いのには驚くばかりですが、それでも縁あって私の所にきた方々は改善されて薬から卒業していく。

相談者の中には他県からの方もいます。電話やメールで顔を見たこともなく話したこともない人から突然相談をうける。

するとその人の心の状態を波動として理解できてしまう。

但し、そのことをすべて話すことはできない。人によっては指摘されたと感情的になることもあるために段階を踏んで話す必要があるからだ。

こうしたことは知識からは決して生じてこないだろう。この世での知識以前の生きた経験がそれを教えてくれるのである。

人には皆、過去世がある。

転生輪廻の生きた経験が、人それぞれの潜在意識に内在されている。

その内在意識が、心の窓をひらくことによって、流れ出てくるのだ。

既に述べたように、心の窓は、正道(偏りのない生き方)に適った生活をすることによって開く。

すると、その人の過去世(潜在意識)の経験されたものが、表面意識に流れ出て、人生の水先案内をしてくれるのだ。

もちろん、人の過去世はまちまちである。

正道(偏りのない人生)を学んだものもおれば、欲望の中で一生を終えた者もいよう。

したがって、心の窓がひらいたからといって、なんでもわかるとはいえない。

都会人に米をつくれといっても、田植え一つできないのと同じだ。

過去で経験しないものはわからない。

しかし、こういうことは、いえるのだ。毎日の生活が、正道に適っており、そうして常に努力を惜しまない人であれば、守護霊のほかに指導霊がついて、その人の努力に応じたメッセージを直感として与えてくれる。

だから、過去世で経験がないからといっても、心配するには及ばない。

その人の毎日の生活が正道にそった生活をしていれば想像以上に智慧が働きインスピレーションとなって表出してくるのである。

その一方では、残念ながら智慧のほかに、悪知恵というのがある。

世間には悪知恵を働かす者が非常に多く、そのためにいつの世も常に不安と混迷から抜け出せない。

個人のみならず、公人、地位あるもの、権力者にも悪知恵を働かせる者がいるのだが、悪知恵を霊的にみると、邪悪な霊や、動物霊(狐、蛇、下層階の龍など)などが人の意識を支配すると悪知恵が働いてくる。

自己保存、我欲、人のことはどうでもよい、という考え方が強くなると、こうしたものが憑依してきやすくなる。

また、悪霊や動物霊が憑くと、病気にもなりやすく、医者に行っても、なかなか治らないが、そうした病気という現象のほかに、人の心をあやつり、威張りたがる、人のものを横取りする、独占したがる、人情酷薄(にんじょうこくはく)、ということにもなるだろう。

人も十人十色ならば、地獄霊、悪霊や動物霊もさまざまである。

しかし、仏智とか、守護・指導霊から湧いてくる智慧は、調和である。

人を生かす智慧である。他を生かす智慧である。

人を陥れる悪知恵ではないのだ。

私達はこの点をよく知って、正道(偏りのない中道の生き方)に適った生活を送らなければならない。

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業・カルマの真実

怒り

人間の欲望は向上発展の原動力ともなりますが、ともすると自分だけの欲望を満たそうとして他と争い、対立しがちになります。

しかし、争いや対立はお互いの心を傷つけ、怒りを増幅させ、悲しみを持たせ、不幸にするだけである。

私たちは、常に、心に協調性をもって、偏ることのない生き方をすれば、欲望は適切に制御され、個人に対しても、共同生活の上にも、社会のなかにも、より好ましい姿が生み出されてくるでしょう。

自分の心の中に、拘りがある為に、自分が為さなければならない事柄を見失って、別な事を考え、いま自分は何をしなければならないのかという優先順位に気づけないでいる、或いは、自分だけの欲望の為に、別な事を優先した間違った行動をしてしまうのも人間である。

これらはその人間の業(カルマ)に引かれた弱い心といえるだろう。

人間の業はどうしてつくられ、そして、どういうものを業というのだろうか。

きょうは 業想念について述べてみます。

業を称してカルマともいっています。

カルマとは強い力でグルグル回り続ける性質をいい、これに足をすくわれると人間はなかなかここから解脱(げだつ)できなくなります。

業のとりこになると、その人の人生は灰色になります。

人間の業はどうして生じたかと言えば、それは転生輪廻の過程において生じたものです。

『最初の人類は、神の意を体していましたからこうした業は身についていませんでした』と、我が心の師は話しています。

ところが、この世に生まれては死に、生まれては死んでゆくにしたがって、人間は心に黒い想念を上塗りする人たちもいたのです。

そのために人生は、まずその黒い想念を払うことが課題となり、その目的を果たすことが地上の平和をつくるための大きな前提になってきたのです。

では黒い想念とはどういうものかといえば、それは執着です。

五官六根(文末に解説)に左右された自己保存の執着が、それぞれの業をつくっていったのです。

したがって業とは、人々の心による想いと行為における執着が、それぞれの業であるといえるでしょう。

業というと悪が連想されます。ところが業は必ずしも悪だけではないのです。

善も実は業となり得るのです。それを解りやすく説明してみましょう。

例えば、教育者の家庭に想像もつかないような悪が芽生えるのも、善の意識が強く働き過ぎ、家庭を縛りつけてしまうからです。(実際に教育者の相談があった)

「ああしてはいけない」、「こうしなければならない」、「ああしなさい」、「こうしなさい」というように良いことへの執着、つまり善への執着も業をつくります。

善にとらわれると四角四面な心になってきます。

悪にとらわれれば、人から嫌われます。

また、正義感を前面に押し出し過ぎた言葉や行動も、心に優しさがない正義感の言動は反感を買いやすく、敵をつくることになる。

要するに業とは、五官六根にもとづく執着の念がつくり出した黒い循環の想念、観念であり、換言すれば、とらわれた心、これを業というのです。

このために、善にしろ、悪にしろ、業をつくってゆきますと、それに引きまわされます。

悪いと知りつつ悪を犯してしまう。

人の意見が正しいと思っても、その意見にあえて逆らい、逆な方向に自分を持っていってしまう人。

奇癖、頑固、優柔不断、すぐに人を批判したがる、自分を正当化すために言い訳の多弁をする、いつも自分が正しい、善に拘り、人を裁くなど、すべて、業の作用であります。

業想念というのは、 地上の相対観念に自分の意識、魂がふりまわされている状態をいいます。

お金は絶対であり、生命の次に大事なもの、地位が高ければ尊敬される、あいつより俺の方が優秀だ、結局お金が一番じゃないか、まじめに働くのはバカバカしい、 人生は面白おかしく過ごすほうが得だ……、といったようにです。

したがって業想念は、やがて業をつくってゆき、来世に生まれてもその業にひきずられる要因を生み出してゆきます。

業にしろ、業想念にしろ、私たちは、大なり小なりその影響をうけながら生活しており、転生輪廻を続けているというのが現実の姿です。

そこでこうした業からぬけ出すにはどうすればよいでしょうか。

中道にそった心で想い、念じて行為をすれば、多くのとらわれから離れることができます。

とらわれが多ければ悩みも多いはずです。

悩みが多ければ人生は灰色になってくるでしょう。

そのような状態では心に安らぎは出てきません。

真の安らぎは執着心から離れたときに生まれてくるものだからです。

いっさいの執着を去った姿を、涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)ともいい、これは、釈迦の解脱の境涯をいうのであります。

相対的な業想念にふりまわされず、中道に沿う生活に心をそそぎ、安らぎのある自分をつくってゆきたいものです。

※五官六根(眼、耳、鼻、舌、身、意識)肉体の感覚で知り得ることは外の世界のことであって、原因と結果でいえば、結果の部分にあたります。事の実態、真実を知るには結果である外界をみるのではなく、自分の内なる心、つまり、意識をみることです。すべての現象、結果はは自分の意識に端を発しているということです。

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