子どもを愛しすぎる弊害

子ども
私が子どもの頃(55年前小学三年生頃)の遊びを思い出してみた。
稲ワラを使って自分で縄を綯(な)って、その縄で稲ワラを束ねて長く繋ぎ、土俵を作って仲間たちと相撲をとって暗くなるまで外で遊んだ。
土と水で団子をつくって的に当てる競争もした。二つのグループで陣取り合戦もした。自分たちでぼろきれを丸め糸を巻きボールを作って野球をして遊んだ。
子どもはある年齢に達するまで、粘土や泥んこ遊びや、水遊び、これに類似したことでも汚れなどまったく意に介さずニチャニチャした物を好んで遊ぶ。
フロイトはこれを、皮膚に粘着性のものを触れさせて喜ぶところの快感は「性」に密接な関係を持っているからだというのですが、私はそれよりも、粘土とか泥は小さな子どもの手でどんなにでも、どんな形にでも創造することができ、人間が本来持っている無限の創造力を満足させられるからだと思う。
それともう一つは母親の胸に抱かれてお乳を飲んでいる時、あいた一方の手でやわらかなお母さんの乳房をまさぐった経験の記憶が心に残っていることにもよる。
だから、子どもには、泥んこ遊びをさせた方がよい。
子どもが砂場遊びを好むのもそうであり、それをキレイ好きの母親や洗濯嫌いの母親が、いつもきれいな服を着せ、きれいにさせておこうとして、泥んこ遊びなどで汚なくすることを禁止することは、子どもの創造力と、母親への思慕の情が満足させられなくなり、大きくなるに従って反抗的になったり、神経質になったりすることになるのである。
真に調和された家庭からは心疾患の子ども反抗児もでない。
反抗児は、父親が極端にきびしいか、または極端に甘く、父親の権威がない家庭に出る。
日本赤軍の中心人物の父親は、多くが警察官か教師であったことは知られていない。
警察官とか教師は、自分が社会の模範とならなければならない存在であるし、社会の人々はよくその行動を注目している。
「あの人の子どもがあんなことでは」とか、「教師の子どもがあんなに成績が悪ければ」とか、子ども自身のことよりも、絶えず周囲の眼を意識し、周囲がどう思うかを先に考えて、子どもを規制しようとして、囗やかましくいう。
すると子どもは、父親は、自分を愛しているのではなくて、社会の眼を意識していることを敏感に感ずるから、父親を殺すわけにはゆかないので(本当は父親を殺したいのであるが)、反抗しやすいところへ反抗心をぶっつけたり、するなといわれることをいっそうしてみたいと思ったりする。
父親の権威のない家庭では、結局は母親が強いため、子どもは母親のいいなりになっているが、だんだん思春期頃になってくると、いうことを聞かなくなる。
それは、いつまでも子ども扱いされたくない。一個の人格として、大人として扱ってもらいたいという心からである。
思春期になると異性を意識し、恋愛をしたいと思い、結婚も考えるようになる。
自分か結婚した時に自分達はどんな夫婦であるべきかを考え、その時考え出される夫婦のあり方は、やはり夫である自分がしっかりして、それに素直についてきてくれる妻という、いわゆる「夫唱婦随」の姿であろう。
ところが現実に見る自分の父親と母親との関係は、母親が強くて父親が弱い。気の強い母親にやり込められて、いつも謝ってばかりいるあわれな父親の姿である。
子どもはそれに批判的になる。親に食べさせてもらって学校へも行かせてもらっているし、親の恩があるから正面切って親をなぐることはできないが、同じ男性の立場として、「お父さん、もっと強く夫の立場を主張したらどうか、なにをそんなに母親なんかにびくびくしているのか」と、半ば父親を激励し、半ばそういう父親を軽蔑する。
人間は、自分が尊敬し愛している人のいうことはなんでも聞こうとするが、軽蔑している人のいうことは聞きたくないという心がある。
だから、そういう父親にいろいろいわれると、これではいけないと思いながら反抗したくなる。
母親に対しては、妻というものはもっと夫を大事にし、夫のいうことに素直であるべきだと自分では思っているが、目の前にいる母親は、自分が心に描いている女のあり方とは全く違って、気の強い、夫のいうことは聞かない、いつも自分のいうことばかりを聞かせようとする我の強い女である。
子どもは母と子という立場ではなく一人の男性として、母親の女としてのあり方を見ているのである。
そういう母親は尊敬するに足りない。女の出来損ないみたいな母親のいうことを聞いてたまるかという感情を持つ。
そういう母親に限って、「お母さんはこれだけあなたのためを思ってきたのに」と泣くのである。
夫婦が不調和であってはいけない。特に母親が強くなってはいけない。
小学高学年や中学生などのいわゆる思春期の頃、あるいは二十歳前後の青年のノイローゼの原因は、夫婦の不調和が原因の場合が多いことは見逃せない。
いろいろなことで夫に失望した妻は、男の子が生まれると男の子に期待をつなぐ。夫によ
って満たされなかったもの子どもによって満足させようとする。

するとますます子どもに傾倒した愛情を向けるようになっていく。

夫との間がうまくゆかないということは、性生活も満足でないということになる。

いつも性的欲求不満があるということになる。男の子の性器をじっと見つめたり、いじったり、性の感情を持って子どもを愛撫する。

子どもが大きくなるにつれ、思春期頃になって大人としての身体的特徴がはっきりしてくると、自分の子どもであるという感情を乗り越えて、子どもを一人の男性と見て、それとなくその男性を恋し、夫との欲求不満の結果として性的満足を遂げたいという内心の衝動を感じ、性的感情を持ってしげしげと子どもを見る。

そうなると子どもは普通よりも早く性的に目覚めされられることになり、母親が自分に寄せる感情の中に「性」の匂いを感じて、母親を母親としてではなくして、一人の女性と見て、その女性に恋し、その女性と一体となって性的行為をしたいという衝動を感ずるようになる。

それが罪の意識となって子どもの心を苦しめ、歪んだ精神構造をつくっていきノイローゼにするのである。

性的なことで悩みを持ち始めた子どもは、ひどく顔を気にするようになる。

特に眼がおかしいとか鼻の格好がわるいということで拘りを持ってしまうと、もっとりっぱな顔に生んでくれればよかったのにと、朝から晩まで鏡を見て、眼や鼻をいじるようになったら、性に対する意識が高くなってきたということだ。

人間の心の想念というものは、思ったことを行動に移さなくても、波動として相手の心に届いているものである。

ただ、想いは肉眼では見えないというだけのことで、エネルギーとしてしっかり働いているものだ。

父親や母親の子どもに接する態度以前に重要な事は、真に調和された想念であるということを心に落としておかなくてはならないだろう。

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