なぜ仏壇供養か


こういうご意見があった。
自分は基本的に無信仰ではありませんが仏壇、神棚、お札といったものは必要ないようにも思いますが、人それぞれの生活習慣や価値観は千差万別です。急にこれを外したり、ないがしろにしますと、これまであった家の場合は家族の調和に支障をきたすようにも思います。これをどういうふうに考え、どう扱っていったらよいのでしょうか?と。
きょうはこの点について話をすすめてみます。
実際問題として、仏壇の中に祖先の霊がいるようでは、非常によくないし困ります。
『私のお墓の前で泣かないでください。そこに私はいません。眠ってなんかいません。』という素晴らしい詩とメロディーの歌があります。全くその通りで的を得ている歌です。
葬儀会場では故人の縁者が弔辞を述べて、『安らかに眠ってください。』といっているのですが、実際は全くそんなことはなく、眠ってなどいないのです。
新しい死者であろうが、古い祖先であろうが、浮かばれて(成仏)いれば、そこにはいません。
いないとすれば、お墓や仏壇の前で手を合わせて供養するというのも何かしら空々しい感じがします。
また、祖先の霊が仏壇の周囲にいるとすれば、これは困った現象ですし、いつまでもそこにおられては子孫にとって甚だ迷惑至極です。
実際に4歳の男の子の孫が祖先の霊障によって夜泣きが酷く、怯えて騒ぎ、幼稚園でも一人隅っこで孤立していて夜となく昼となくひきつけを起こし、食が細くなり、痩せていったケースがあった。勿論解決して元気にしている。
ここの家族は亡くなったお爺さんのために、追善供養を真面目におこなっていたが、故人に対して願い事もしていたのです。『私たちを守ってくださいと。』
しかし、現実にこの家族に霊障が起きたのです。原因は遺族である母親と娘の不調和が原因で霊を呼び込んだのです。その結果として4歳の孫が異常事態になったのでした。
故人に対し仏壇に向かって手を合わせ線香を焚き、水やご飯をあげ、お経を唱和しても家族が争いごとをしていたなら無駄なことをしていたことになります。
成仏できないでいる霊がこの世の人たちの傍にいるということは、そこの霊域が非常に陰化するために、その家族の人たちは体調を崩しやすくなるものだということの実例です。
供養のあり方は、どのような内容にしろ、本来は仏壇に手を合わせ線香を灯すことではなく、家庭の中が笑顔で健康で、明るく調和されていることであり、祖先の霊はそれをいちばん望んでいるはずです。
仮に、このブログを読んでくださっているあなたに、子供や孫たちがいるとしましょう。あなたが寿命で亡くなりあの世に昇天したときに、あなたが見た家族の光景が争い事でもめていたり、夫婦が喧嘩をしていたら、それを見たあなたはどのように思うだろうか。
亡くなったあなたの供養のためとはいえ、家族が仏壇の前で手を合わせ線香をともしたり、意味の解らないお経を読みあげたりしても、日ごろの生活が不調和なら、安心できようはずがないでしょう。
こうなると伝統や文化の名を借りた形ばかりの供養にすぎませんね。
それよりも子供夫婦や孫たちが和気あいあいと暮らす姿をみたら、あなたへの供養として最高の行為ではないだろうか。これが真の親孝行であり、供養になるのです。
こうした意味で、仏壇の必要性はこの点をよく理解されれば、おわかり願えると思いますが、しかし、これまでの日本の習慣として家に仏壇が置かれ、法事やなにかというときに、親戚知人が集まってきても仏壇がないとなりますと、お互いに気まずい思いをしたり、争いになるようではこれもまた困ったものです。
すでに仏壇があって、これまで通りの習慣で朝、水をあげたり、手を合わせたりしている家庭にあっては、これを急にやめたり、仏壇を焼いたりしては家の中が混乱するでしょう。
家族全員が供養のあり方はこうあるべきだと理解し、親戚の人たちにも理解してもらえれば、それはそれでよいのですが、家の者が反対するのに、自分だけの一存で事を決めてしまうのはどうかと思います。
要は、こうした仏壇の前で線香をたき、読経することが供養だというような習慣に自分の心まで染まることのないようにすることが大事であり、また真実を理解されたうえに、そうした心で日常生活の伝統とか、習慣に沿いながら生きて行くのが偏りのない調和された者のあり方といえます。
何でも良い事だからと言って、周囲の反対を押し切り、むりやりに事を決めてしまうと、必ずその反作用が自分に返ってきて、あなたを苦しめ周囲まで不調和にします。
正しい生き方と社会の法律なり、習慣や伝統は必ずしも一致しませんが、こうしたズレについてはやはり時間を掛けて修正していくようにしなくてはなりません。
要は周囲の状況を見ながら対処していくということが肝心です。
これまでの冠婚葬祭をみたときに、古い伝統にしたがって行ってきたのですが、最近はお墓を買わずに、樹木葬や自然葬を希望する人たちの応募者が殺到して抽選で決める事態にまでなり注目されておりますが、これなども時代の経過とともに葬儀に対する価値観が変わってきた証しであります。
仏壇やお墓に出向いて供養するという習慣は日本独自の文化で西洋、その他の国にはないことです。
やがて近未来においてはお墓を買うようなことも無くなるかもしれません。
真の供養は親や祖先、亡くなられた方へ向けて、あなたの心のなかで感謝することと、それを行為として生活のなかで実践することであり、それは偏りのない調和された生活行為のなかにしか生まれないものだということに気づく時代になったのです。
間違っても死者に対し『きょうも私を守ってください。』などと願いをかけてはなりません。そう言われなくても親や祖先はあなたのことを一番に案じているのです。それはこの世の家族も同じでしょう。
死者に願いをすることは死者の魂を呪縛することになりますから、自由を奪い苦しめることにほかなりません。知らないこととはいえ、こういうことをしている人たちは多いのです。
自分の健康管理は自身で行い、幸せも自分の心の中にあることを気づくことであって、また、そのための努力をすることであって死者に願い事をすることではありません。
ものの道理を冷静に考えてみるならば、容易く納得のいくことではありませんか。
足ることを心に持ち執着のない正しい生き方こそが最大の供養だといえるでしょう。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。またの訪問をお待ちしております。次回の投稿はは14日(金曜日)の予定でおります。

 ランキング参加の為。左のバナーをワンclickお願いいたします。^_^;