外向的愛は崇高

愛

大きな問題を抱えて悩み苦しみ、闇の中に堕ちたかと思うほど苦悩していた家族が、大事なことに気づき、これまでのトラブルや諸問題が改善されて穏やかに暮らせる平凡な生活、平和の有り難さを強く感じている人たちがいる。

夫が妻にかける心強い包容力、妻が夫に尽くす安らかな暖かさ、自分が要求することより先に、相手を思いやる心を忘れなければ夫婦は信頼しあえる。

しかし、妻を思いやることより自分の要求を先に考えている夫。

また夫に尽くす愛より先に夫のここが嫌いだと考えている妻。

物を選ぶように好き嫌いという感情に翻弄されている夫婦ほど自我心、利己的言動が強く、なかなか自分の悪しき心の傾向性から抜けきれないでいる。

こうあってほしい、穏やかに心安らかな生活をしてほしいと願い忠告をすると、頭では理解しているが、実際には日ごろ言動に反映されてこない。

結局はどのような方法やヒントを与えても、知識として頭にあるだけでは何の智慧にもならない。知ったことは実生活に活かされなければ智慧とはならないのである。

深い愛は小さな思いやりから出発するものだ。それができないようであれば自我心、利己性が心を占めていると言わざるを得ない。

我欲を棄て、他人のために自分を犠牲にすればするほど、自己内部の神性がより大きく発揮され、私たちが存在する地上における目的を成就しはじめることになります。

家族的情愛や恋愛が間違っていると言っているのではありません。

家族を愛することは基本であり当然のことであらねばならないが、敢えて申し上げるなら、外へ向けてのより広い愛の方が上だと言っているのです。

排他性を含んだ身内の内向的愛よりも発展性の外向的愛の方が崇高だということです。

いかなる資質にも上等のものと中等のもの、下等のもの、明るい面と暗い面があるものです。

家族的な愛に囚われると往々にして排他性を帯びます。いわゆる血のつながりによる結びつきです。

それは進化の過程における人間の持つ動物的本能の名残りである防衛本能によって支配されている部分でもあるだろう。

が、愛の最高の表現は己を思わず、報酬を求めず、一切の私心を伴わずに、全てのものを愛することができることです。

その段階に至った時は唯一なる存在意識の働きと同じです。

なぜなら自我を完全に滅却(めっきゃく)しているからです。

愛は人のために尽くし、人を支え、人を慰めんと欲します。

愛は慈悲、同情、親切、優しさとなって表現されます。

愛はまた、滅私と犠牲の行為となって現われます。

霊の世界、つまり4次元世界へ帰った者がなぜ地上へ舞い戻って来るかご存知だろうか。

大多数の人間にとって死は有難いことであり、自由になることであり、物質的制限から解放であるのに、なぜ戻って来るのでしょうか。

霊の世界の恩寵に存分に浸っておればよいはずです。

地上生活における住民を脅(おびや)かす老いと病と死への恐怖から解放され、数々の煩悩(ぼんのう)に別れを告げたのです。

なのに、地上との間に横たわる計り知れない困難、それは、魂のステージアップを一定の段階まで成し遂げないと地上には降りられないという条件を克服してまで自ら志願して地上に降りるのは、地上で暮らす人々への愛があるからです。

自らの愛の向上と人類愛の向上を目的として時期を待って地上に降りるのだ。

再び、三度と下生する魂は愛の赴くところへ赴くのです。

愛のために存在するのです。

愛あればこそ役に立ちたいと思うのです。

霊界においては、いかなる邪霊集団が束になろうとも、善なる魂たちが愛を以って結束するとき、邪霊集団は興隆することは敵わないのである。

私も、あなたも、これまでに気づかせて頂いたことに心から感謝の念をもって喜ぶべきです。

浴し得た恩寵に感謝すべきです。

愛は死よりも強いこと、立ちはだかる障害も愛によってきっと克服されるという認識を得たことを有難く思うべきです。

あなたを包む全ての愛によって存分に慰められ、支えられ、励まされるがよいだろう。

その愛の豊かさは無限のものです。

その愛の原点は唯一なる存在の意識に端を発します。

その愛の深さと広さはとうてい人間の言葉では表現出来ません。

人間はこれまで、愛に発する利他的行為、英雄的行為、奉仕的行為、滅私的行為による目覚しい成果を見て参りましたが、その陰で霊界の高級霊が生命力そのものを結集して人類を温かく包む、その愛の底知れぬ潜在力はとうてい推し測ることはできません。

もっとも、その愛も受け入れる器がなければ授かりません。

それが摂理なのです。

理屈は分かってみれば簡単です。

心に資格ある者が授かるというだけのことです。

霊力は無尽蔵(むじんぞう)です。それに制限を加えるのは人間の受容能力です。

人の魂はこの世とあの世とを生き通しの生命体である。

この世とあの世をさえぎる障壁もない、障壁としてあるものは己の五官六根による迷いだけである。

六根とは眼、耳、鼻、舌、身の肉体五官に意識を加えた六つの煩悩のことだ。

人間が少しでも愛という霊力の受容能力を増せば、その分だけ心が愛で増幅されるのだが、それ以上のものは絶対に授かることなはない。

私たちの心は上を向かなければならない。太陽の光は上から差します。下からは照らしません。太陽は永遠の輝きの象徴です。

霊的太陽は啓蒙(けいもう)と活力の源泉です。

太陽は内在する霊性に刺激を与えます。

自分が本質において永遠なる存在であり何ごとも修行であることを忘れぬかぎり、何が起きようと意気消沈することはない。

霊性は書物からは得られません。先生が授けるものではありません。

自分自身の生活の中で実際の行為によって体得しなければなりません。

それは個性の内部における神性の発芽現象なのです。

心の内にある神性こそ、その無限の愛の抱擁力によって私たちを支えている力であり、その尊い生命力を発揮し神の子としての宿命を成就するよう導いてくれる力です。

唯一なる存在の意識は宇宙における最大の力であり、極大極小の別なく全ての現象を根本において操っている。

私たちは愛をもって導いてくれるこの力に安心して身を任せるべきです。

その愛の導きに身を委ね、いついかなる時もその意識の中にあることを自覚していただきたい。

真実の愛は恐怖心を滅します。正しい知識も恐怖心を滅します。

恐怖心は無知から生まれるものだからです。

愛と信頼と知識のあるところに恐怖心は入り込めない。

進歩した心はいついかなる時も恐れることがありません。なんとなれば、自分の心に神性がある以上は人生のいかなる局面に遭っても克服できぬものはないとの信念があるからです。

これまであなたを包んできた宇宙の愛が今になって見放すわけがない。

それは宇宙の唯一なる意識から放たれる無限なる愛であり、無数の森羅万象を通して光輝を放ちつつ地上に至り、人のために役立たんと志す人々の力となります。

気力喪失の時には力を与え、悲しみの淵にある時は慰めを与えてくれます。

愛はあなたのまわりに張りめぐらされた防御帯の光であり、決して破られることはない。

唯一なるものの光であり力だからである。

愛が不滅であること、死は愛し合う者の仲を裂くことはできないこと、物的束縛から脱した霊は二度と死に囚(とら)われることがないということです。

愛の真の意義を悟るのは地上生活では限界があり霊の世界へ帰ってからです。

なぜなら愛の本質は霊的なものだからです。

その霊的なものが、地上の物的環境下では真実を悟るに困難を極めるということだ。

愛は魂と魂、精神と精神とを結びつけるものだということ。

大宇宙の意識の顕現なのです。

互いが互いのために尽くす上で必要ないかなる犠牲をも払わんとする欲求です。

愛は邪(よこしま)なるもの、害なるものを知らない。

死は地上生活の労苦に対して与えられる報酬であり、自由であり、解放です。

いわば卒業であり、第二の誕生です。

死こそ私たちに多くのことを気づかせ、真の生へのカギを握る現象であり、肉の牢の扉を開け、閉じ込められた霊を解き放ち、地上で味わえなかった喜びを味わうことを可能にしてくれる。

死を恐れることはない。

死の際には、あなたの守護霊や魂の兄弟たちが迎えに訪れて道案内をしてくれよう。

愛によって結ばれた仲が死によって引き裂かれることは決してない。

唯一なる意識の摂理が何の隔てなく働くと言われるのはそのことです。

愛とは唯一なる意識の摂理が顕現したものであり、それ故にありとあらゆる人間の煩悩、愚かさ、無知、依怙地(えこじ)、偏見等々を乗り越えて働きます。

二人の人間の愛の真の姿は魂と魂の結びつきです。唯一なる意識はその無限の叡智をもって、男性と女性とが互いに足らざるもの補い合う宿命を定めたのです。

両者が完全に融合し合うことにこそ真の愛の働きがあり、互いに補足し合って一体となります。

愛は無限なる心の表現ですから、低い次元のものから高い次元のものまで、無限の形をとって表現され行為される。

すなわち磁気的な身体の結びつきから精神的な結びつき、さらには根源的な霊的な結びつきへと進んでいくのです。

身体的な欲求による結びつきは脆(もろ)く弱いものであるということ。

魂と魂との結びつきが地上で実現することは極めてまれなことであり、むしろ例外的なことに属する。何故なら、それは肉体中心となる生活習慣によるものだからだ。

が、もし実現すれば両者はその宿命を自覚し、一体となります。これが魂と魂との真の結婚の形態です。

約70億近い地上の人間が魂同士の巡り会いと一心同体を自覚して生涯を共にできること、それが僅(わず)か五十~七十年の短い期間に地上という小さな地球という天体上で巡り合うということは極めて困難なことです。

自分の霊性を知り地上生活の目的を悟った人間は、人間的個性を少しずつ脱ぎ捨て、霊的個性をますます発揮していき、その分だけ宇宙意識と融合の度合を深めていくことになります。

愛は血縁に勝ります。愛は死を乗り越えます。愛は永遠不易のエネルギーです。

それが“宇宙を支配している”のです。

魂の結び合った者は生涯離れることなく、死後も離れることはありません。

墓には愛を切断する力はない。

愛は全てのものに勝ります。

なぜなら、それは大宇宙の意識すなわち神の表現だからです。

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夫婦は男女同権?

どこの家庭にも大なり小なりの諸問題はあるようだが、何事においても拘(こだわ)りを持ってしまうと心が苦しくなるというのが人間の姿であろう。

若い子の場合は容姿に拘る余りに食事を拒否してやせ過ぎて体調を崩し、リバウンドで大食いして過食症だと騒いでみたりと、老若男女ともに様々な苦悩は尽きないものである。

さて、きょうは夫婦の愛のあり方について述べさせていただきます。

キリストは「天に在しますわれらの父よ」と祈れと、教えられたのであって、「キリスト自身だけを、神の独り子として拝め」とはいってはおられない。

そういうように教えてしまったのは弟子パウロである。その意味で現在のキリスト教は、キリスト教ではなくてパウロ教だといわれるのである。

このことに気づいておられる宗教学者もいる。

人間は皆、神の子である。イエスは偉大な魂の聖者ではあるが、イエスだけが神の独り子ではない。後の人たちが『神の独り子イエス』と説いてしまっただけである。

相談者の話しを聞いていて痛感させられるのだが、日本の宗教界がそうであるように、アメリカやヨーロッパの教会においても、夫婦の在り方をもっと重要視して正しく説かれているとしたら、今日、日本やアメリカやヨーロッパに見られるような家庭の崩壊は起こらなかったであろうと思われてならない。

特に日本の宗教界においては家庭を崩壊させてまで浄財、寄進を求めて暴利を貪る不浄な教団が多いことは明白な事実であり、被害に泣く人たちが後を絶たない。

まことに遺憾ではあるが、宗教を利用したカルト詐欺集団まで存在する。

キリスト教を学ぶ人々は今一度、キリストは男女、夫婦のあり方についてどのように教えていられるのか、改めて反省してみる必要があるのではないだろうか。

キリスト教を信仰する人が自分の親兄弟を批判し言葉を荒げて見下す発言をする光景は人間の驕りであって、とてもじゃないが信仰を持つ者の生き方ではなく、生きて自ら地獄を演じて阿修羅界に生きる哀れな心の人でしかないが、実際にこういう人間もいるのだ。

元を辿ればキリストの教えを正しく説かなかった聖職者の責任を問うべきである。正しく導くことは簡単ではなく難しいものです。

神道や仏教が、男女、夫婦のあり方について、それぞれの使命と役割について説いているように、キリスト教でもはっきり説かれているのであって、女は女らしさをかなぐり捨てて、男と力を競えとはどこにも教えていない。

『詩と讃美と霊の歌とをもって語り合ひ、また空に向ひて心より且つ、うたひ、讃美せよ。

凡ての事に就きて常に我らの主イエス・キリストの名によりて父なる神に感謝し、キリストを畏(かしこ)みて互ひに服(したが)へ。

妻たる者よ、主(イエス)に服うごとく己の夫に服へ 。

教会のキリストに服うがごとく妻も几てのこと夫に服へ。

夫たる者よ、キリ ストの教会を愛し、之(これ)がために己を捨て給ひしごとく、汝らも妻を愛せよ。

夫はその妻を己の身体のごとく愛すべし。妻を愛するは己を愛するなり。』

解釈・真心よりほとばしる心の詩、神と、神がつくられた自然の美を讃える歌、霊の向上の歌をもって語り合って、人間を卑劣にし、神を無視し、人間を堕落させるような歌を歌わず、顔を上にあげて、心明るく歌い、すべてのことについて、われらの主イエス・キリストによって神の道を明らかに知らされた、そのことに感謝し、且つ、天なるいっさいの創造主なる神に感謝し、キリス卜を敬い、キリストが説かれたその道に従いなさい。

妻たる者は、すべての人々がキリストの教えにすなおに従うと同じように、自分の夫を尊敬し、夫のいうことに従いなさい。

教会は、キリストが説かれた道を間違わないように、キリストの教えに従うのですが、キリストに従うことは同時に神に従うことであり、それと同じような心で夫に従いなさい。

夫たる者もまた、それと同じように、自分の我欲を捨てて妻を愛しなさい。

夫は自分の身体を大事にすると同じように、妻を愛しなさい。

妻を愛することは、実際は、自分自身を愛していることになるのだ。(以上)

日本では昔から、夫婦は「一心同体」であるといわれてきた。

キリストもそのように説いておられるのである。東洋と西洋で、夫婦のあり方について同じことが教えられているのです。

真の男女平等とは、このように、相手を愛することは実際は自分自身を愛することであると同時に、お互いの人間性を尊敬し礼拝することでなければならないのだということ。

キリストの教えの中には、女が男を敵視して男と対抗するという教えは全くないのです。

『妻たる者よ、その夫に服(したが)へ、これ主にある者のなすべき事なり。夫たる者よ、その妻を愛せよ、苦(にが)きをもって之(これ)をあしらうな。』

解釈・つまり、妻が夫に従うことは、キリストを信じ、キリストに従わんとする者が当然なさなければなら ない ことである。キリストに従うとは、キリストは、天なる神の子である ことを教えられたのですか ら夫に従うということは、それがそのまま神の道を行なうことであり、神を信じ、神を敬い、且つ、礼拝することにもなるというのである。

信仰を持っている者が「神よ、神よ」といいながら、夫に従わないということは、実際は、神を信じていないこと になるのです。

夫もまた、妻を愛することがそのまま神を信じ愛することになるのだということです。

特に夫は、妻の心を悩ませたり、苦しみを与えたりしないようにしなければならない。

『夫はその分を妻に尽し、妻もまた夫に然(しか)すべし。妻は己が身を支配する権をもたず、之(これ)をもつ者は夫なり。斯(か)くの如く、夫も己れが身を支配する権をもたず、之をもつものは妻なり。』

解釈・夫は、夫のなすべき分を尽すということが、同時に妻を愛するということになるのであり、妻はまた、妻に与えられた役割を充分に果たすということが、夫を愛することになるのです。

夫が夫の役割を放棄することは、同時に妻を愛さないことであるし、妻が妻の役割を充分に
果たさないということは、夫を愛していないということになるのです。

妻は妻らしくあることであり、夫は夫らしくあることであり、それが同時に神を愛することなのである。

「妻は己が身を支配する権をもたず、これをもつ者は夫なり」ということは、妻は、妻自身の身体を自分のものだと思って、夫の心を無視して自分の勝手気ままにふるまってはならない。

妻の身体をどのように支配し動かすか、その権利を持っているのは夫なのであるから、妻は自分の身体を働かす時に、夫の心に添うように、夫の心を満足させるように働かさなければならない。

妻自身の行動が、夫の心を苦しめるようであってはいけないし、妻の身体を支配する権利を持つのは夫である、というこの言葉が、一方通行ではなく、夫婦の間で実践されないと夫婦は不調和になる。

つまり、支配とか権利とは表現しているが、その真意は相互理解と協力をしなさいと教えているのである。

このことを知らない妻は、自分の身体は自分のものだと考えている。自分の身体だから自分の自由にすればいいのであって、夫のいうことに一々自分の身体を使うべきではない、夫のいうままにこの身体を働かしてはならないと考える。

いわゆる我が強くて素直でない。

離婚の理由で一番多いのは「性格の不一致」とはいうが、これは要するに「性生活の不一致」ということをも内在している。夫の要求に対して妻が応じないのである。

しかし妻の側からいわせると、それは夫の暴力であったり、生活費を与えなかったり、妻の立場に理解を示さない、一人で姑との関係に苦しんでいるというようなことになる。

夫がなぜ暴力を振うのであろうか。それは妻が夫のいうことに素直でない場合が多い。夫は
暴力を振うことがよくないことは充分に知っている。それでいて暴力を振うのは、他の手段では、妻の我の強さと達者な口には対抗できないと考えた揚句のことでもある。

フランスの古い諺に、「昼は賢婦であっても、夜は娼婦であれ」という諺がある。

娼婦だと思う必要はないが、夫の求めに対しては素直に従うことである。

「妻の身体を支配する権利を持つのは夫である」という言葉は、夫の要求に応えるべく妻は身体を委せるのである。夫婦が真に愛情を確かめ合うのは、夜の性生活である。

性生活を拒否されたら夫はその妻を愛情がないと見るのである。

妻に愛情がないと見るから金銭も与えなくなるのである。金銭を与えなくなる理由には二つある。

一つは、素直でない妻は愛おしくなく、金銭を与えなかったら困って夫のいうことに素直になってくれるであろう、即ち我をなくすであろうという考え。

もう一つは、夫は心の中では密かに離婚を考えている。しかし、夫の側から離婚をいい出せば慰謝料をたくさん支払わなければならない。妻の側からいい出せば少なくてすむ、という打算で生活費を与えない。これらは実際の話である。

そうすれば、これではとても生活してゆけないというので、妻の側から離婚をいい出す。それを待っているという場合である。

夫のいやがらせは、それに対して妻がどう反応してくるかという「愛情テスト」である場合もある。

我の強い女は夫に嫌われる。夫が悪いという前に妻は自分はどうあるかを反省しなければならない。 こういうと女性からは反発をいただくかも知れませんが、何も女性を見下していっているのではない。

これまで夫婦関係の相談をいただいたなかで、多くの女性たちが訴える夫への不満は自分がつくり出した原因である場合が半分はあるからである。

失意の時ほど夫は慰めを求めて妻に性を求めることがある。これも実例です。また、そうすることによって夫は自信を回復するものである。

妻が夫の愛を受け入れず、夫を拒否することが多いと、夫は妻すら愛することができない自分に自分で失望する。

すると仕事の上にも自信を持てなくなってくる。夫婦が不調和であると、すべてのことについてうまくゆかなくなるのは、妻によって夫が失望させられているケースがあるものだ。

最近のように、働く妻が増えてくると、妻は自分自身の疲れだけを気にして夫の愛を拒否することのないように「妻の身を支配する権利を持つ者は夫である」ことを考えて、夫婦の調和を考えなければいけないのである。

男女同権のもとに妻が仕事優先で夫に心を向けなくなると間違いなく家庭は崩壊の一途をたどることになるだろう。

「斯くの如く、夫もまた己が身を支配する権利をもたず、之をもつ者は妻なり」そうであると同じように、夫もまた自分の身体を動かして行動する時には、妻の心の満足の行くように、妻の心を安ませるようにして、妻の心を傷つけ悩ませるようなことをしてはならないというのである。

キリストは独身であった。しかし独身で、夫婦生活の経験のないキリストが、夫婦のあり方について、このようにきびしく優しく、そうあることが、正しく神を信ずる者のあるべき姿であると、説いていられることに、私たちは驚かなければならない。

このように偉大な魂が覚醒(悟った)されると、物事の本質を正しく見通すものなのである。

キリストはこのように説いていられるのである。「男女平等」「男女同権」ということによって、これまでには起こらなかったような、いろいろな社会問題が起こってきたということは、男女平等、男女同権という考え方の中に、どこか欠点があるということを考えなければならない。

そういった点において、西洋では、もう一度キリストの教えを見直すという、真のキリスト教を洗い出し偏りのない調和された教えに復興しなくてはならないだろう。

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水子供養の真偽

胎児今回は水子供養に関する被害も多いことから再度投稿することにした。

中絶

お父さんとお母さんの離婚が決まっているという状況下で、あってはならないことだが中学三年生の女の子が妊娠したという話が届いた。お父さんは愛人に子供ができ、お母さんは彼氏がいる。

厚労省の調査によると中絶の経験者は10人に対し1.5人と15%となっていますが、複数回の中絶をする人もいますから実数はこれを上回るでしょう。

一般的に中絶が可能な期間は「妊娠12週程度まで」とされています。これは胎児がある程度まで成長した場合、分娩と同じような形で胎児を摘出しなければならない為です。

また妊娠12週以降または胎児の体重が500g以上この場合、同じ中絶でも実際の扱いは「死産」となり、胎児の死亡届を提出しなくてはなりません。

つまり流産として扱われるのは、「妊娠12週未満または体重が500g未満の場合」ということになります。

そのため母体保護法では妊娠可能な期間を「21週6日まで」としていますが、実際には妊娠12週以前に行われるケースが多いようだ。

もう少し具体的に中絶可能な時期をみいていくと、
中絶可能時期・・・妊娠5週~21週目まで中絶手術の方法・・・胎児の大きさにより異なる。

■初期中絶(妊娠5週~11週頃まで)

この時期は胎児が小さいことから手術はせず、妊娠6週~7週になってから手術になるケースが多いようです。

また妊娠11週であっても、初期手術可能な大きさまで胎児が成長していないこともあり、この場合は手術が出来ない。

■中期中絶(妊娠11週~妊娠12週以降)
初期手術にされる麻酔が用いられる手術とは異なり、陣痛を人工的に起こし「出産」という形にしてから役場への死亡届の提出と火葬が行われるが、この場合、死亡した胎児は戸籍に残ることはない。

また妊娠21週目まで中絶手術ができるとしても病院によってはこのタイミングでの手術をしないところもある。

更に妊娠22週以降ともなれば保育器などによる生存の可能性が出てくるため、中絶手術は受けられずもし中絶してしまった場合は法律に反する行為として犯罪になります。

中絶するときの理由としては色々あるでしょうが、女性にとって中絶に対する心の痛手は大きく後々まで尾を引く人もいます。

そういう女性の心に付け込んだ営利主義の霊能者といわれる人たち、拝み屋、宗教団体、仏教界の僧侶たちまでいます。本当にこんなことで良いのだろうか。

最初に申し上げておきたい。実(まこと)しやかに水子供養を提唱している宗教や霊能者たちが多い。しかし、踊らされてはならない。

此処に、あるお寺の広告文の実例を紹介します。以下

正しい供養法『一霊一基の位牌をつくる』
水子とは元来、形のない存在であるからこれに形を与えることが必要である。存在をつくるのである。一霊一基の位牌を作り戒名をつけ永代にわたって供養をする。位牌を作るということは霊の宿るところを作るということである。
仏教においても他の宗教においても、位牌のようなものに霊が宿ると考えられている。キリスト教においても十字架の碑を建てるようなものである。お墓はだから同じく大型位牌といえる。塔婆も石塔も同じである。水子の場合、俗名がなく戒名のつけようがないので、経典の中から文字を頂戴してこれを戒名として授けるのである。

水子供養料について
永代供養(1家) 2万円

お位牌代(1霊) 1万5千円

合計 1霊3万5千円  2霊5万円  3霊6万5千円  4霊8万円  5霊9万5千円 となります。
お布施とご供養に関して
当寺院では、お布施のことよりご供養が先であり、ご供養することの大切さを申し上げております。 一日も早くご供養を申し上げ、速やかに御仏に導かれ、霊安かれと心より心よりご冥福をお祈り申し上げております。

※上記広告内容に対する過ちの確認と説明

正しい供養法とはいっているが

1・一霊一基の位牌を作る必要はない。(水子は位牌を望んでいるのではない。)

2・水子は形がないものではない、霊体としては未熟ではあるが、人間の形をした赤ちゃんの霊体であることをこの僧侶はわかっていない。

3・形をつくることが存在をつくる。とあるが、位牌をつくらなくても魂は存在しているのでり、水子の霊は天上界に養育施設で育てられて存在している。

4・赤ちゃんに戒めの名、つまり、戒名をつける必要はない。(戒名は出家した場合つけてもらう修行僧の名前にすぎない)

5・永代供養とは終わりのない供養という意味であるがその必要がない。(僧侶が水子供養するより、親の心からの一度の懺悔と二度と同じ過ちを犯さない決心。明るく健やかな家庭生活、人々への愛の奉仕が最大の供養となる。愛の行為は天にも地にも万物に伝わる安らぎのエネルギーであるからだ。)

6・水子を呼び寄せて位牌に宿らせる必要がない。(このような思想は儒教や陰陽道、密教系の影響がある。仏教にこのような教えは存在しない。)

7・位牌に霊を宿らせるようなことを仏教の祖、釈迦牟尼仏は指導していない。(死者、先祖、子供に対する供養は、この世の人間が愛と慈悲の生活をすることだと説いた。)

8・位牌を作ることはキリスト教の十字架のようなものというのは、全く意味が違う。(十字架は愛の象徴であり、それはイエスの偉大な愛に生きたことに対する人々の畏怖の念が表現されたものであろう。水子供養の位牌と同一視する僧侶の無分別には失望する。)

9・お墓は大型位牌というのも、まったく似て非なるもの。(本来、お墓は死者を埋葬した場所を特定するためだけのことですが、いつの間にか歴史とともに、まるで個人の魂がそこに居るかの如く、祀り上げてしまった。そもそも位牌のルーツは中国儒教の思想が日本の江戸時代ころから仏教に取り入れられてきたもので、本来は仏教の教えに位牌に関することは何もない。)

10・水子は戒名のつけようがないので経典から字をもらってつけるという考え方はあまりにも幼稚に過ぎる。(あの世の魂、つまり先祖、新仏、水子、これらの供養には位牌も戒名も、お墓も、仏壇も、必ずしも必要とするものではない。否、なくても供養はいくらでもできるものです。)

以上、上記の広告文の実例のわずか7行のなかに10か所の過ちが含まれていました。この広告文章を信じてしまうことの恐ろしさに気づく人は少ないだろう。

私は、無宗教(無宗派)ですが、無神論者ではない。しかし、現代宗教界の営利目的、組織拡大のための折伏など、商業ベースのご都合主義のあり方に警鐘を鳴らしたいのである。何故なら、被害者が後を絶たないからである。

きょうは水子供養と称して暴利を貪る従来の因習(よくない習慣)や手法がいかに的外れな内容であるかを理解していただくために、さらに詳しく具体的に説明しておきます。少し長くなりますがお付き合いのほどお願いいたします。

1・先ず胎児に魂が宿る(下生)のは妊娠3~4ヶ月頃であること。

2・堕胎された胎児が2ヶ月の場合はまだ魂が宿っていない場合が多い。

3・胎児に魂が宿った後の堕胎の場合、胎児はこの世に生まれず、この世の汚れに触れていませんから魂が無垢のままで、執着もありません。

4・執着がないから堕胎された胎児の魂はそのまま天上界の霊界に入れます。あの世の魂の兄弟たちが導いて赤ちゃんの魂を育児施設まで連れて行きます。そして専門の育児係りや指導者たちが成人するまで育てるのです。

5・胎児に宿る前のあの世の魂は立派な大人の魂ですが、一旦、胎児に宿った魂は、堕胎の後あの世でも赤ちゃんの状態から成長をすることになります。これはこの世の成長とあの世の成長も全く同じ宇宙の法則のなかにあるからです。

6・堕胎された水子霊が祟るとか、障るとかいうことは全くありません。汚れていない魂は霊障をするようなことはないのです。肩に付いているとか、背中に乗っているとかいうのは真実ではありません。

除霊や代理供養するといってお地蔵さんや供養グッズを買わせたり、お金をもらうことを仕事にしている人たちの都合による作り事や方便に過ぎません。

今まで言われるままに供養していたのに、別な霊能者に水子が憑いているといわれ、またお金をかける人もいます。これではどこに行っても同じように言われて心が安らぐこともないだろう。

7・大事なことは中絶した後の身体の養生と、二度と中絶をすることにならない生活をすることです。それと堕胎した子供のためにも、人々に対して愛ある生活を心がけること。

愛のある行為は地上の人間だけではなく、あの世の人たちにも調和されたエネルギーとして届くのです。これがあの世とこの世の連なりであり、あるべき真実の供養です。

8・一度反省したら過去を引きずらないこと。先を憂えず今日を生き切ることです。

自分が心乱して赤ちゃんの供養などできようはずがありません。自分の生活が偏らず心を乱さず、何事にも執着せず生きることが供養につながるのです。

真の水子供養というのは形にあるのではなく、お父さん、お母さんが互いの愛に応える平安な生活をするときに愛念として、万象万物に行き届くのである。

利用される水子供養の実態

水子供養はどうしたらよいのでしょうか。水子があれば子どもたちに影響するのだろうか。何か良からぬことの原因になるのだろうか。と心配する人たちは多い。

人口妊娠中絶

中絶は、せっかくこの世に肉体を持って魂の修行をしようとしている子どもの肉体を、親となるべき者の都合によって、勝手に中断するのですから、一種の殺人行為に当たるだろう。

法律では、経済的理由による中絶は認められることになっていますが、人間の尊厳を思うならば、いかなる理由による中絶も罪になるのである。

人工中絶は、母体が胎児を育てるために全身の機能が整っているものを、急に中絶するわけですから母体の健康バランスを崩すことになり、何回も中絶すると、その度に身体の調子を崩して病気にならないまでも、全身のバランスを失って健康を害することにもなる。

医学的見地からすれば中絶を受けた後で妊娠すると、胎盤のでき方が不十分で、胎児に十分な酸素や栄養分が与えられないことになり、奇形児を産む確率が高くなる。

未婚の女性は、自分の魂の使命、将来の運命、生れてくる子どもの不幸というものを考えて妄(みだ)りに性交渉を持たないこと、願わくば純潔を守ることであり、また男性は、女性の純潔を蹂躙(じゅうりん)しないようにすることである。

結婚を口実に、女性の性を奪おうとする不誠実な男性もいるが、そういう男性の甘い言葉に騙されてはならない。

しかし、現代は、未婚、既婚女性が男性を誘惑して金銭を得ると言うことがあるようだが、そういう女性はいつか自分の間違いを猛反省しなければならない時がくることになる。愛のない交わりはあってはならない。

水子と宗教

ニセ、偽善宗教家や金目当ての霊能者や僧侶、拝み屋、などは、殆んどの人が水子は障ると言う。はたして真偽のほどはどうなのだろうか。

父親、母親の都合、流産や堕胎などにより水子になるわけですが、水子自体は何も悪い事をしているわけではなく魂がクリーンのため、水子の魂はそのまま導かれて天上界に上がってしまいます。迷うことはありません。

ですから水子による障りなどあろうはずがありません。後々の影響は母親の心身の状態にかかっており、霊的なものもありますが、それよりも現実的な面で心身を養生し、注意することが大事です。

戦前から戦後にかけては、一家で子供が五人、六人というのは普通でしたが、近年は親が経済的に楽な生活をするために、子供は一人か二人のとどめて、あとはみな避妊し、避妊に失敗したら中絶をするということをやってきています。

そのため、産婦人科医は堕胎で儲かるという現象がおこりました。

ところが堕胎した婦人たちが病気になり、医者にかかっても大して良くならないという例が出てきて、にわかに水子供養ブームが起こり、ほとんどの宗教団体、お寺、拝み屋、霊能者が水子地蔵を建てたり、買わせたりして、供養を行うようになってきた。

産婦人科医も堕胎が多くなるにつれて、良心がとがめるのか院の外に供養塚や地蔵をたてるところまで出てきたのである。

水子供養をしているお寺のパンフレットを見ると、『ノイローゼ、親への反抗、テンカン、子供の弱視、夜尿症、各種婦人病、登校拒否、結婚拒否、乳がん、腰痛、心臓病、肩こり、首、腕、足、頭痛、めまい、など』これらはみな水子の障り、祟りであると書いてあります。

しかし、これらは全て嘘である。腰痛も、偏頭痛も、めまいも、不登校も、足、首、腕などの痛みも私のところでは、よく改善され、治っていきます。全く水子に関係なくです。

人間の体は、いつも絶好調のときばかりではありません。様々に変化する中で生きているのです。勿論、精神的な要素と肉体的原因が重なって体調不良のときもあるでしょう。しかし、それらを水子のせいにするのは全くの間違いである。

恋愛中に子供を妊娠してこっそり堕胎したとかで、祟りを恐れて、こっそり水子の供養をしているOL、あるいは、初恋の人の子どもを妊娠したものの結婚できず、別な男性と結婚して、こっそり水子寺に通い供養をしている人妻。

7回堕胎している人もいた。水子地蔵には赤い布地の衣が着せられ、その前には哺乳ビンやおしゃぶり、人形、おもちゃ、お菓子、などが色とりどりに並べられている。

お参りする人たちは、水子が生まれて生きていたら、ああなっているだろう。こうもなっているだろうと、色々思い出してはすまないと思い、こうして供養しているから罪は許されるだろうと思う反面、罪が許されたという確証は何もないのですから、いつどういうことで祟りがあるかもしれないと、絶えず恐怖心を持ち続けてゆくことになります。

このような実情をみるとき、水子供養をやって利益している坊さんや宗教家、拝み屋、霊能者たちは、祟りから救われることを説く半面、逆に除き去ることのできない恐怖心を与えていることに気づかなければなりません。

心の片隅に恐怖心を残してしまうようでは本当に救ったことにはならない。

水子の祟りというものは、信じてしまうと、いくら供養してみても、少し体の具合が悪くなったり、思うようにいかない、あるいは子供が病気になったりしても、すぐに水子の祟りではないかと、何事も水子の祟りに結びつけてしまって恐れ、ますます水子の供養に精を出すようになる。

これではいつまで経っても『これで救われた』という安心を得ることはないだろう。

水子霊の真実として申し上げておきましょう。水子霊は祟ることもなければ、迷うこともない。

迷っているのはこの世の親であって、あの世の子どもではありません。

それなら、『泣き声が聞こえた、助けてくれと声が聞こえた、迷っている霊が見えた、白い球が憑いてるといわれた』というような、いわゆる祟ったとみられる現象はどうして起こるのだろうか。

これは、その人の心の想い(想像も含めて)と、自縛霊や動物霊の仕業です。

何故なら、堕胎した人たちの多くは両親の呵責に苦しみ、すまないことをしたと思う。悪いことをしたら罰が当たるだろうと恐怖して心が不安になる。

こういう不安や恐怖、想像する心が夢となって現れたり、現実のように錯覚したり、良心の呵責で恐怖しているその心の隙間に動物霊や自縛霊が入り込んで色々な現象を現実のように見せたりします。このように未浄化な霊でも様々な現象を見せるのは簡単なことなのである。

動物霊や自縛霊が隙を突いて入り込むということは、日ごろから心の不調和があるということですから、よく心の在り方を学んで、それを生活の中で実践することで調和されてくるものです。

水子の供養はする必要がありません。供養というかたちに囚われて心が不調和なままに意識をあの世に向けることは地縛霊や動物霊にコンタクトする可能性があるだけに危険極まりない行為なのである。

但し、一度は心から詫びる必要があります。

友人のような妻

久しぶりにやってきた友人を見て喜ぶように、主人がそこにいてくれることだけでも喜び、気立てがよく貞淑で誠実であってどんなことでも腹を割って話合える妻、そういう妻は死後に間違いなく天上界へ行く。

「朋あり、遠方よりきたる。また楽しからずや」という中国の孔子の言葉がある。

久しく逢わなかった友が、何年ぶりかで遠方から訪ねてきてくれた。それがどんなにうれしいことであるかは誰しもが経験していることである。

夫が外から帰ってきた時は、友が遠方から訪ねてきてくれた時のような気持で喜んで迎えなければならない。

親友というものは、親には いえないようなことでも打ち明けて、どうすればいいかを相談できるものである。

そのように妻は、夫のどんなことでも聞き、そうして適切な助言をできる立場にある。

夫が、自分の心の 内も、洗いざらい打ち明けられないような妻 であってはならない。

お釈迦様は『生れ貫く』ということを教えられた。

夫と妻とは、男女の性別を超えてお互いに一個の人格者として、宗教、哲学、政治、経済、科学、教育、思想といろいろな分野にわたって対等の立場で話合えるようにならなければいけないというのである。

友というものは、お互 いに遠慮なしに質問をぶつけあって、ある時は意見が食い違って口論することがあっても、すぐ仲直りしてお互いに礼儀を正しくして、誠実で、相互信頼の上にお互いに向上を図る。

妻は家庭を守るといっても、夫の進歩についてゆけず、夫の話相手になれないようではよろしくない。

ギリシアでは、「心を許し合える友人を持つことは、一万人の親族があるよりも尊いことである」といわれている。

釈尊は、「よき友を持つことは道のすべてである」といわれた。

夫婦となっていても、話が合わず、お互いに人格を傷つけ合うようでは悲しいことである。

奴婢(ぬひ)のような妻

夫に打たれ、脅かされても怒らず、悪心なく、夫に対して忍び、怒ることなく、従順。

このような妻は男にとって奴婢(奴隷のような人)のような妻と呼ばれる。死後、天上界へ行けるかどうかは、その人の心の中に悪心があるかないかによって決まる。

表面上はとりつくろっていても心の内で執着があるかどうかということだ。

殺人者のような妻、強盗のような妻、支配者のような妻が地獄へ行くというのは、そのような妻の心の中には悪心があるからである。

人間はなんのために生まれてきたのであるかとなると、折に触れて申し上げてきましたが、それは魂の修行のためです。

この世の中には、理解のない暴君のような夫に仕えて、心を善にして相手を愛しぬいてゆき、どんなに怒られても怒らないという、魂の修行をしようということを目的で生まれてきた人もあるのです。

また、妻がそのような妻である時、最初は暴君であった夫も、やがてその妻の従順さに心打たれて、よき夫となるものだ。

夫からどのような仕打ちをされても、夫への愛を失わない妻は、子どもをりっぱに育てて子どもが自分を幸せにしてくれる。

それに反して、夫に敵対心、反抗心を持つ妻は、子どもの教育に失敗してやがては子どもに泣かされることになる。

「男女平等」「男女同権」という。

確かに男女は、相互に相手の生命、人格を尊重し合わなければならない。

だが、男女平等、男女同権とは、具体的には、男はなにをし、女はなにをしなければならないのか、そのことについて述べている人はいない。

ただいっていることは、女が女らしさを捨て、家庭を捨て、男の仕事の領分にも参入してきて男と同じように、もしくはそれ以上に仕事をするというようなことだけである。

男と対等に仕事をする、そうして男と同じような賃銀をもらうという経済的な理由で、女が女らしくあることをやめようとし、女は女自らの幸せを放棄してしまっているのではないのか。

この頃は、キャリアウーマンで風を切っていた女性たちが孤独のなかで、これまでの人生の虚しさ、寂しさを肌で感じはじめて、パートナーを探そうとしている。

男と能力を競い合うことによって、女は本当に心の安らかさが得られるのか、よくよく検討してみなければならないことである。

女が自立することや男らしくあろうとすることで離婚して、女一人になってそれで果たして女は幸せなのか、離婚した当座は、男の束縛から解放されたと思っていても、何年かしたら、やはり家庭におさまりたいと考える女性は多い。

今、全世界の女性が、正しい男女、夫婦のあり方について反省しなければならない時期にきているのである。

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涙・一滴の海

手足や言葉の自由を徐々に奪われながら最後には体の運動機能を全て喪失してしまう難病脊髄小脳変性症と診断され、1988年5月23日 26歳の若き生涯を終える。

『1リットルの涙・亜也さんの日記』の抜粋です。

生きたいのです。 動けん、お金ももうけれん、 人の役に立つこともできん。

でも生きていたいんです。 わかってほしいんです。

お母さん、わたしのような醜い者が この世に生きていてもよいのでしょうか。

わたしの中の、キラッと光るものをお母さんなら きっと見つけてくれると思います。

若さがない、張りがない 生きがいがない、目標がない…… あるのは衰えていく体だけだ。

何で生きてなきゃあならんかと思う。 反面、生きたいと思う。

我慢すれば、すむことでしょうか。

一年前は立っていたのです。

話もできた、笑うこともできたのです。

それなのに、歯ぎしりしても まゆをしかめてふんばっても、もう歩けないのです。

涙をこらえて 「お母さん、もう歩けない。ものにつかまっても 立つことができなくなりました」 後十年したら……、考えるのがとてもこわい。

でも今を懸命に生きるしかないのだ。 生きていくことだけで、精いっぱいのわたし。

農業さて、海は地球の約80%近くを占める広大な面積。海は多くの生命が育まれる源でもありその恩恵は計り知れないものです。

その水平線の彼方に顔を出す太陽の輝きは、それ以上に私たちに多くの恵を施してやまない。そんな太陽から学ぶ愛の本当の姿は無償という言葉で心に響き広がります。

心から嬉しいとき、どうしようもなく悲しい時、やりきれないほど淋しい時に涙をながすことは悪い事じゃないし、恥ずかしいことでもない。涙を流せば心の曇りを一緒に流してくれる。

空の雲もやがて雨となった後には澄み切った晴れの大空が広がる。

だから涙を流すことはとても必要なこと。

涙は心に元気と勇気を取り戻してくれる。

涙は命の源。

涙は元気を育む一滴の海

涙は世界で一番ちいさな海

走っても、歩いても、一日は一日。走ってばかりじゃ疲れきってしまうし、動かなければ進めない。

歩いたり、走ってみたり、立ち止まってみたりで自分のペースで過ごせればそれでいいじゃないか。

どんなに体が辛く心が萎えても、どんなに自分に嫌気がさしたり、自分を否定したりしても、自分を必要としている人がいることに気づいてほしい。

みな必要だからこの世に生まれてきたのであって、必要でない人は誰もいない。

身体の病気、心の病気で動けない、働けないのは実は天がくれた休息の時間。

昇る朝日を浴び、しずむ夕日に照らされてみると生きることの勇気や淋しさ、悲しみを強く心に感じるのは心が生きているから。

太陽から頂くもの、海からいただくものはいつも無言の働きかけ。

静かに向き合わないとそのことには気づけないで過ぎてしまう。

動いてばかり、走ってばかりじゃ気づかない。

無言の働きかけは太陽だけじゃない。

お月様も同じ。満月も三日月もとてもきれいです。

野の花一輪だって誰に注目されずともひっそりと花を咲かせている。

そう思うと身の周りの全てが愛おしく有り難く思えてくる。

寒さの厳しい冬の季節も、木々は休息だけでなく、ゆっくりと春の芽を育てている。

やがてくる春に備えて。

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霊が主・肉体が従

霊1

過食症で悩む人、対人関係に疲労してふさぎこんでしまった人、家庭内のトラブルで意気消沈する者、うつ病で窮地に立っている者、宗教被害にあって散財するした者、様々な悩みを抱えてくる人たちに共通すること、心に一つの癖(傾向性)がある。

依存心がある。自分を通す。他の意見を聞かない。疑問を持たない。頑な過ぎる。不満を持っている。愚痴が多い。怒りやすい。責任転嫁をする。見返りを求める。要求心がある。自己中心的。感情的になりやすい。強い不安感。恐怖心がいつもある。等々

私は問う。

『あなたは何故、生れて来たのか。』、『何故、何のためにいきているのか。』と。

私たちの人生で一番大切なことは何だろうか。このブログを読んでくださっているあなたも是非、一考願いたい。

地上に生を享(う)ける時、地上で何を為(な)すべきかは、魂自身はちゃんと自覚しているのである。

何も知らずに誕生してくるのではない。

そのことをあなたは理解していないだけです。

自分にとって必要な向上進化を促進するにはこういう“環境“でこういう“身体“に宿るのが最も効果的であると判断して、魂自らが選ぶのです。

ただ、実際に肉体に宿ってしまうと、その肉体の鈍重(どんじゅう)さのために、あるいは肉体五官の感覚に影響されて誕生前の自覚が魂の奥に潜んだまま、通常意識(表面)に上がって来ないだけの話である。

私たち地上の人間にとっての大きな問題点は、やむを得ないことかもしれませんが、人生というものを間違った視点から観ていることです。

つまり、あまりにも“この世的”物質的観点からのみ人生を考えていることだ。

人生には確かに地上的な要素があり、否定できない事実でありますが、同時に人間は霊的なものであり、“永遠に続く”生命体であるということ。

その永遠なるものを地上的視野だけで眺(なが)めてはいけません。ここに人生の苦悩という問題が発生する。

仏教でいうところの煩悩は心の迷い、闇、執着をさしていうのですが、肉体五官での価値観や、この世的な価値観に傾きすぎたときに行き詰るようになっている。

お金、知識、学歴、地位、名誉、知名度、財産の多寡、他人との比較、等々。

地上的視野、物質的価値観、それでは十全な判断はできないのである。

人間には一人の例外もなく、善悪ともに“埋め合わせ”の原理が働くのですが、地上生活のみで判断しようとすると全ての要素を考慮することができなくなります。

埋め合わせの原理とは、この地上的原因と結果に終わらず、肉体を捨てて霊界に帰ったあとも、地上における原因と結果の法則は、地上より更にはっきりとリアルに現象化するのである。

この世においては悪を為し、富を得ても隠し通せるだろうが、霊界においては心のあり方、為した言動そのままに現象化するから、悪の想いも行動も表面化するということだ。

したがって、相当な期間を厳しい環境下で反省と修養することになるのである。

このことはカルマ(業)という言葉でも表現される。

人生には目的があります。

しかしその目的は、それに携わる人間が操り人形でしかないほど融通性(ゆうずうせい)のないものではありません。

笛に踊らされる人形ではないのです。自分の意志で責任ある自由を表現できるのが人間だということ。

人間の一人ひとりに分霊が宿っており、一人ひとりが無限の創造活動に参加できるのである。

つまりあなたには個的存在としての責任と同時に、ある限度内の自由意志が与えられているのです。

自由意志といっても、大自然の法則の働きを阻止することができるという意味ではありません。

ある限られた範囲内での選択の権利が与えられているということです。

しかしその枠内の中で、あなたが霊界において計画した予定表、青写真に従いながらどれだけ潜在的神性を発揮するかは、この地上生活におけるあなたの努力次第ということです。

もしかしたら、その青写真さえ自覚できないかもしれません。でも魂は神性を宿すが故に常に活動を求め、自己表現を求めて波のようにうねります。

時にはそれが悲嘆(ひたん)、無念、苦悩、苦痛、病苦、不安、恐怖心という形をとり、無気力状態のあなたにカツを入れ目を覚ませることになります。

従って今の試練、逆境を嘆いてはならないのです。何故なら、人間は厳しさのなかでしか力強い成長ができないからである。

もしも神があなたに人生の創造活動へ参加させ、そうすることによって潜在的神性を開発させることを望まないのであれば、あなたがこの世に生を享けた意味は無いことになりましょう。

ですから、そこに“埋め合わせの原理”が働いていることを理解しなくてはいけません。

つまり唯一なる存在の意志の創造活動に貢献する働きに携わりつつ潜在能力を開発していく生活の中で、あなたの人間的霊性の発達が促進されていくという仕組みです。

つまり二重の仕組みになっているわけです。進歩の誘発は内と外の両側から行われるのです。

肉体と魂の働きです。

魂の奥には物質界からのいかなるエネルギーよりも大きな威力が秘められています。

人間の魂は宇宙の意識の一部だからです。それが無ければ生命は存在しません。

なぜなら生命は霊そのものだからです。物質はカゲに過ぎません。霊という存在の殻に過ぎません。

この二重のエネルギーをどこまで活用できるかは、その魂の悟(さと)りの程度にかかっています。あなたの心の悟りにあるということだ。

霊は意識であり、霊は生命そのものであり、生命は霊そのものです。霊の無いところには生命はありません。物質は殻(カラ)に過ぎません。霊という実在によって投影されたカゲにすぎません。

霊が主であり肉体は従だということ。

あなたが存在し、呼吸し、動き、考え、判断し、反省し、要約し、決断し、勘案し、熟考することができるのは、あなたが魂(霊)であるからこそです。

霊があなたの身体を動かしているのです。霊が離れたら最期、その身体は崩壊して元の土くれに戻ってしまいます。

肉体は火葬すれば三合の灰になるだけである。物質を崇拝する人間は間違った偶像(ぐうぞう)を拝していることになります。そこに真実が無いからです。物質は一時的な存在に過ぎません。

霊はすべての存在物を形成する基本的素材であるが故に永続性があります。

人間という形体によって表現されている生命力は、小鳥、動物、魚類、樹木、草花、果実、野菜等に表現されているものと同じ生命力なのです。

いかなる形体にせよ、生命のあるところには必ず霊が働いております。

自覚の程度、意識の程度にはさまざまな段階があります。霊の表現形態は無限だからです。

無限なるものに制限を加えるわけには参りません。

その生命の背後の力を人類は“神”とよぶ者もいるだろう。

私は、唯一なる存在と表現してきた。

それは全ての霊の極致であり源泉であり頂上であるからです。

宇宙に存在する一切のものは、いかなる形態を取ろうと、創造者たるその唯一なる存在の意思の表現であることに変わりはない。

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深遠な心の道

調和されているはずの心の中から、感情だけが表面に出てふくらんだなら、情緒不安定、怒りっぽい、自己保存的となり、心の安らぎが得られない。

相手から欠点を指摘されたりすると、すぐ頭にくる人々がいるし、実に多い。

自尊心を傷つけられた”といって感情的になり、忠告者の欠点を逆に探して自分を正当化しようとする。

このような人々は、自己保存の強い性格で、不調和で感情的な言動によって、相手の心に傷をつけてしまうのだが、本人は意に介さない。

しかし、自ら造った不調和な言葉や行為は、必ず自分自身に帰ってくることを悟らねばならない。

なぜなら、慈悲と愛によって忠告した心の美しい人に対して、不調和で感情的な想念行為をすれば、逆反射して怒りを持った本人にかえり、自分の心に強い反作用を起こすからだ。

いやゆる”人を呪わば穴二つ”である。

相手の人を怨み、妬み、神仏に対して相手の不幸を祈ることなども、その不幸の現象は自分自身にはね返ってくるということである。

このように、悪い想念行為の原因は、自らを苦難に追いこみ、どうすることもできなくなる。

正しい自己判断は、素直な心で他人の忠告を聞くことにある。

自己保存のための感情は、自己を傷つけるのみではなく、他人をも傷つけることを知らなくてはならない。

また本能だけが表面に出れば、自己防御、自己本位となり、万物の霊長としての本性を忘れ、動物的情欲の虜となりやすい。

愛を忘れた肉欲的本能は、人間社会を混乱に導き、己の心に苦しみの原因を造り出す。そのため、悟り(気づき)の道に入ることはむずかしい。

私達は、現象界(地上生活)の栄華に憧れ、世を楽しむことと、道を楽しむこととは全く別であることを知らなくてはならない。

過去に繁栄した国々がなぜ滅亡し去ったのであろうか。弱き者達を犠牲にし、権力者は増上慢となり、栄耀栄華の明け暮れ、動物的本能まる出しの肉欲的行為にうつつを抜かし、良心という仏性さえも失って自我我欲の権化と化したところに原囚があった。

心の修行を怠り、栄華を楽しむだけの人生を反省し、正しい生き方の道を自ら求めねばならない。

自ら求めたものが与えられたときの喜びは、何物にも代えがたいものである。

心の道は深遠であり、悟ればこれに勝る喜びはない。

この喜びを得るには、あらゆる諸現象に対して、正しく判断する理性、喜怒哀楽を表現する感情、神仏より与えられている本能、人生経験と智性、これらのものが互いに調和を保ち、心にとらわれのない生活をすることが必要である。

万象に対する感謝と報恩、そして施しの心を持って、真の道の実践生活をすること。

それによって心の窓は開かれ、自らの力で偉大な智恵の宝庫を発見することができるのである。

このとき、己の心に気がつき、私達は、魂の兄弟や、守護、指導霊と調和され、私たちがより良い人生を送れるよう、慈悲と愛に満ちた指導、協力がなされることを悟るであろう。

実在界であるあの世においては、この現象界(地上生活)の様相を、場所、時間に関係なく見ること、聞くことができる。つまり、素通しで見えているということだ。

このような能力は、実は、人間の誰にでもあり、太陽の熱、光のエネルギーが、地位、名誉、金持貧乏に関係なく、万象万物に慈悲と愛を平等に与えているように、自らの行為、想念が人々に対し、万象万物に対し、正しく為されていいく生活努力の中から心の眼は開かれるようになっている。

この生活努力の精神も、その根本は神仏より与えられた本能であり、衣食住は生活に欠くことのできないものだが、人類は気候、環境に応じ、適応した衣服生活の工夫を知っている。

肉体保存のため、動、植、鉱物のエネルギーを吸収することも知っている。

自分自身を自然環境から守る場所として、住居を持つことも知っている。

これらのすべては、本能の働きによるものである。

また、私達の経験してきた智性だけを心の表面に出した場合は、その経験を過信して、物ごとを判断しがちになることが危険に通じるといえる。

偏らないバランスの心を失った智性は、人類を不幸に陥れることを私達は知らなくてはならない。

未来を考えることなく発展した物質文明は、公害という大問題を造り出してきた。今は中国がその公害対策に追い付けないという厳しい状況下にある。

物質経済文明の大きな歪みといわざるを得ない。

しかし、私達は今、真の法則を知り、万象万物は相互関係の上に成り立っていることを知っている。

想念を中心として感性、理性、智性、本能のバランスが、常にとれている心の中の状態、それが安らぎの姿である。

愛も慈しみもここからしか発生しない。

理性は心の制禦装置であり、いかなる現象、出来事に対しても正しくコントロールできる自分自身にならなくてはいけない。

不調和で、感情的な想念行為は、相手に対しても良い霊域を与えることはできない。

私達は、心の安定と、明らかな知見によって得られる、動かない心の悟りが人生の大きな目的の一つであることを知らなければならない。

常に煩悩に振り廻されて無益な境遇に遊び、常に落ちつきのない不安定な生活と、騒いだ心の中にいる人々があまりにも多い。

そのために私達は、いつも生と死、物質と経済などあらゆる欲望の荒海にさ迷って、自身のなかの神性仏性を悟れず、且つ、困難にしているのである。

私達のほとんどの人々は、肉体を持ったら今度こそ業(カルマ)の修正を果たし、人間としての使命をやり遂げて帰ろうと誰も考えてきているのだが、悟り切れずにいる人々があまりにも多い。

転生輪廻の過程では、あるときは王者として大衆の上に栄華の暮らしを送って己の欲望を満たし、権力によって自己保存したため、やがて帰った暗い地獄で、人生で犯してきた罪を修正するのに苦しみ抜き、天上界へやっと上れる人もある。

そして天上界で反省し、今度は逆に貧しい人として生まれて懸命に働き、同じ境遇の人々を救うべく努力して目的を果たし、実在界(あの世)へ帰り光の世界で暮らすという経験を味わう人もいる。

人それぞれ、このように千差万別の人生を送ってきている。

私達は、常に、その心のままの人生を送っているのである。

そして、やがてはあの世にかえり生前の心のままに、あの世の段階へ進むのである。

この世においては、心が正しい法(生き方)を悟っていれば、煩悩に対しては理性が働き、常に想念行為に反省のブレーキが作用するため、誤りを犯すことが少ない。

このように、私達の意識の中心である心は、今までも私達に、あらゆる苦楽の人生を経験させてきたのである。

私達は、煩悩に支配されやすい心を、正しい生き方に習慣づけさせることが必要である。

安らぎと調和した自分の心を自覚するためにも、私達は不退転の勇気と決心でその法則を学び、気づかなくてはならないだろう。

この現象界(地上生活)の万象万物は、ひとときも休むことなく移り変わり、その位置にとどまることはできない。

また何一つとして自分のものは存在していないし、一的に借用しているだけである。

財産も地位も、名誉も、肉親も、また肉体も、この世を去るときに持って帰ることはできない。

すべてが、この現象界を修行して行く過程のものにすぎず、これが人生の事実である。

あの世へ持って帰れるものは、人生航路で経験した一切の善と悪、記憶された想念と行為である。

だから私達は、一日一日を最善の努力で悔いなくすごすべきなのだ。

常に反省する心は、人間を執着から離して行き、魂の浄化にもなるということである。

私達は、日常の生活の中から、怒り、そしり、むさぼり、愚かな心を離れ、一切の苦しみの原因を断ち切らなくてはならない。心の中の悪にとらわれないことが大切なのだ。

心中の悪へのとらわれから離れるということは、利欲、栄華に惹かれる煩悩を捨て、一念三千(自由自在な心)の心を、常に光の世界すなわち調和の世界におき、利害損得、情欲、地位、名誉などの執着から離れることである。

すべて、自ら求めることなく、自然な人徳によって与えられる人々は、己にきびしく、常に謙虚であり、誤りのない正法(偏りのない調和された生き方)を実践している人々といえる。

物質経済文明の高度成長によって、現代社会の人々の多くは、心を失っている。

私達は、足ることを知り、執着せず、調和された、正しい心をとりもどし、自我我欲の多い心と闘って、真に正しい心の文明を、物質文明の上に築かなくてはならない。

物質文明以上に心の文明を高めていかなければ地上破壊、人間破壊は続くであろう。

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金縛り

「あれ、目が覚めたのかな?」と思って薄目を開けても、まだ周りは暗い。よく見ると身体の上に何かが乗っていて、だんだん息苦しくなってくる。

胸の上のものは、この世のものとは思えない。怖くなって叫ぼうとするけれど、声が出せない。

逃げようとしても身体が動こうとしない。だんだん焦ってきて心臓がバクバクする。

もうだめだ!と思った瞬間に、身体の自由を取り戻して一息つける…。

この金縛りというのはもともと、仏教用語の「金縛法」(きんばくほう・かなしばりほう)からきています。

これは、お不動さんの名で親しまれている不動明王が、敵や賊を身動きできなくする密教の秘法です。ぴったりの言葉を当てはめたものだと、感心します。

世界的に見ても金縛りは、幽霊や生霊、悪魔、魔女、妖精、空想上の生物などが起こす超常現象と考えられてきました。

しかし最近の医学的分野においては「睡眠麻痺」という睡眠障害の一つと考えられて抗うつ薬を処方する場合がありますが、実態はそんな簡単なものではない。

躁うつ病や精神安定剤の使用、不規則なライフスタイルとの関係があるという報告もあるが、医学的には霊的な影響によって発生する現象ではないとしている。

しかし、旅館やホテルに泊まった夜、寝ていたら金縛りにあったという話をテレビでよく聞きます。

他の部屋では金縛りが起きていないのに特定の部屋だけで頻発するという。

これはあの世の霊のしわざである場合が多い。「しわざ」と記述したように、暗い霊、地獄霊です。

明るい霊はこの世の人が困るようなことはしませんが、これも「類は友を呼ぶ」の法則の通り、金縛りにあった人にも問題があるということです。

暗い想念の心の人に起こるといってもよいだろう。

それでは「暗い心」とは何でしょう。たとえば、悲しみ、恨み、悔しさ、嫉妬、異常に強い欲望、悩み、生意気、頑な、傲慢、わがままなどの暗い考え方があったということです。

暗い話ばかりでは嫌になりますから、今度は、幸福になる「明るい心」を列記してみます。

感謝の心、調和の心、愛、慈悲、敬虔、謙虚、勇気、努力、自信、報恩、人のためになる、反省する、許す心、相手を理解する、広い心、すなお、誰とでもすぐ話ができる、 いつでもよく眠れる、明るい所が好き、足ることを知るなどです。

金縛りによくあうという人は、自分の心の在り方、生き方を反省して、勇気を持って
生活意識を修正することです。あとは体調を調えることです。

愛深く正しく生きる人には、そこにどんな暗い霊がいようとヽまったく問題は起こりません。

『同類』にならないからです。

「憑依」とは「霊がとりつく」という意味だと先に述べました。そして霊の「しわざ」と説明しました。

「とりつく」とか「しわざ」という言葉はすべてあちら側の霊が一方的に悪いことをするととれますが、決してそうではなくヽ「五分五分」と言えます。

似たもの同士と言えます。その人にも問題があるということです。

いずれにせよ、金縛りにあう人、土地、家を霊的な見地から浄化すると発生しなくなることは確かである。が、しかし、本人が心不調和であれば、再び金縛りにあうことは避けられないことも事実である。

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仏教徒、僧侶のなかには、本来、悪はないと悪の存在を否定し、全ては善であり、悪に見えるものも実は善が悪を装っているに過ぎないと説く人がいるのだが、否、全くの間違いである。

人間の魂は本来、神の子として神仏に連なるものではあるが、悪を為すものがいることは紛れもない事実なのだ。

ああ、哀れなる哉!善に背を向け、悪への道を選びし人たちほど哀れなるものはない。

人間は霊界へ行ったからと言っても、地上時代といささかも変わるものではない。

その好み、その偏執、その習性、その嫌悪(けんお)をそのまま携えてあの世のいくのである。

変わるのは肉体を棄てたということのみである。

低俗なる趣味と不純なる習性をもつ魂は、肉体を棄てたとてその本性が変わるものではない。

反対に、それは、誠実にして純真なる向上心に燃える魂が死と共に俗悪なる魂に一変することが有り得ぬのと同じである。

考えてもみるがよい。純粋にして高潔なる魂が私たちの視界から消えるとともに一気に堕落することが想像できようか。

然るに指導者たちは、唯一なる存在を憎み善に背を向け肉欲に溺れし罪深き魂も、懴悔(ざんげ)一つにて心が清められ天に召されると説く。

読者であるあなたに問いたい。短気な性格を持った人間が、一夜にしてその癖を、傾向性を色を塗り替えるが如くに変われるとお考えだろうか。

前者が有り得ぬ如く後者も絶対に有り得ぬ。

魂の成長は一日一日、一刻一刻の歩みによって築かれるのである。

すぐに剥(は)げ落ちる上塗りではならない。

鉄に熱を加えて叩き、鋼を作り出す工程が必要なように、魂の成長も日々の勇気と弛みない努力が為されなければ向上しないであろう。

魂の本性に織り込まれ、切り離そうにも切り離せぬ一部となりきること、それが向上であり成長である。

そうして築かれたる本性がもしも崩れるとすれば、それは長き年月にわたる誤れる生活によって徐々に朽ちるのであり、織物を乱暴に切り裂くが如くに一夜にして崩れることはない。

習いは性となり、魂に深く染み込みて個性の一部となりきるのである。肉体の煩悩(ぼんのう)に負け続けた魂はやがてその奴隷となる。

そうなったが最期、純なるもの聖なるものを嫌い、死後もかつての地上の遊び場に赴いて肉の快楽に耽る。

魂が腐敗し切っているが故である。

この説明が納得できたでであろうか。

悪の軍団とは、かくの如き未発達、未熟なる霊のことであり、それが聖なるもの善なるものへの反抗心によって結束する。

彼らに残されたる更生の道はただ一つ。

高級なる霊の教唆(きょうさ)によって道義心に目覚め、懴悔のうちに一つ一つ過去の罪を償いつつ、歪める心を正し、苦しみの中に一歩一歩向上することのみである。

罪とは何か。

身体を以って為した悪だけが罪というのではなく、心に思った不満、愚痴、怒り、妬み、そねみ、誹謗、中傷、嘘、欺瞞(ぎまん)、これらが罪なのである。

善に対抗し真理の拡がりを妨げんとする悪の輩の存在を否定する言説こそ、私たちを迷わせんとする彼らの策謀であることを心すべきである。

更に、善を装い真理を説くが如くにみせて、その実は金と肉欲を貪っている偽善の者たち、霊能者、教祖の類が多いことを注視しなくてはならない。

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愛ある信は力

アルジェリアの天然ガス施設で続くイスラム武装勢力による人質事件では既に犠牲者も出てしまった。

人は誰しも目的をもって生きていよう。目的のない人は、まずいないと思います。

人の目的はさまざまであろうが、その要約された最終目的は地上を争いのない楽園にすることである。

もしも、この目的から外れた独善なり、野望なり、あるいは混乱と争いを求める不調和が目的とすれば、目的が達成される前に、あるいは後において、目的に対する反作用が起こり、その目的に対して、自覚をうながすことになるだろう。

作用反作用は、宇宙法則の定めによるからであるが、この法則は人間の心の作用、働きにも現れる。

ともあれ、人は目的をもって生活するが、その目的達成の原動は何かといえば、ほかでもない、それはであり、である。

つまり信念だ。

信念は行為の言動力である。

ものの成否のカギを握っていよう。信念がなければ、いかなる目的も、理想も果し得ないし、人生という大目的からも外れてくるだろう。

では何故に、信は力なのであろうか。

信とは、エネルギーが集中されたものであり、力はすべて、エネルギーの集中の度合いを示すものだからである。

信が強ければ、力が加わる。弱ければ、力もまた弱い。信の強弱によって、ものごとの成否が決められてゆく。

このことは読者も日常経験されるところであろう。つまり、こうなると思うと、そうなってゆくだろう。これは何も、肩をいからせ、我武者羅に振舞うことではない。

若いうちはそうなり勝ちだが、心の法即を知ると、安らいだ心が広がるほど、エネルギーが集中され、物事が成就してゆくものなのである。

事実、信念をもって、こうなると力んでみても、心の片隅に不安があると、その力は減殺される。

また、不安があると、肩をいからす格好になってこよう。不安を打消すために、そうなってくるからだ。

であるから、信念の要諦(ようたい)は、目的に向かって、そうなると堅く思い、安らいだ心で行為するときに、いかんなく発揮されよう。

信念は、往々にして、盲信や独善に陥る。信念はもともと、個人の心の問題であるからだ。

そのため、自己の信念に対して、常に前進への反省が必要になってくる。

私たちの生活は、人と人との関係のなかで行われるので、自己の信念が正しいものであるかどうか。

その目的意識が人との調和を乱すとすれば、改めねばなるまい。

人の心を乱すとすれば、それはやがて、自分にふりかかってくるからである。

こうして、人の信念は、反省を通して、いよいよ強固となり、不動のものとなってくるだろう。

このときにおいて、私たちの愛ある信念は、偉大なる力を発揮し、人びとを教化してゆくだろう。

正しい法則に裏打ちされた信念は、何者をも恐れぬ大きな光りの輪となり、力となって、信と勇気とを与えてくれるだろう。

正しい法則は、信と行との生活である。

愛と信のない生活行為は、浮草同様、世のカルマの波に絶えず揺り動かされ、大事な一生を無為のうちにすごしてしまう。

正しい法則の理解が深まれば深まるほど、法則の真実にふれ、まず、正しい調和の因果律にそった生き方をとるであろう。

なぜなら、自分の未来は、現在の信と行との生活にかかっているからだ。

この意味において、読者は反省を通した正しい信念をもって、毎日の生活を送っていただければと願う。

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