いうは易く行うは難し

つい最近のこと。車で移動中に赤信号で停まったとき発車寸前になってバックミラーへ何気に目をやったら後続車が灰皿を窓の外に出し道路に煙草の吸殻をゴソゴソ捨てたのが見えた。目を疑った。

唖然として呆れてしまったが注意をしようにもすぐに青信号に変わったため発車せざるを得なかった。

おそらく子も孫もいるだろうに、白髪頭の年の頃70代とおぼしき男性である。子育てにおいては躾(しつけ)や教育もしてきたことでしょう。

吸殻を捨てた車の後続車にも見えているはずであるが、恥ずかしくないのだろうかと気の毒にさえ思った。

例えば電車に乗って、ようやくの思いで空席を見つけ、ホッとして坐っているとき、次の駅で老人が乗ってきて傍に立ったとしましょう。

代わってあげるべきだという気持ちは、どんな人にでも具わっている。だから自分が立たないで居眠りの振りをするのは心苦しい。

にもかかわらず素直に立てないというのは、何という悲しい人間の性(さが)であろうか。

一方、綺麗な廊下に紙屑が落ちていたとしよう。どんな人でもそれを見れば、拾ってゴミ箱にいれようかという気持ちが起こるであろう。

これは人間というものには生まれつき、素晴らしい心が具わっているからです。

これを仏心ともいいます。

ところがすぐ後から、「自分がしなくても、誰かがするだろう」という別な想いが湧き、せっかくの思いやり(仏心)が踏みにじられてしまうのである。

だから私たちはそういう魔心に負けないように、最初起こった気持ちのままに行動すればいいわけです。

そう言われても、何となく気恥ずかしいまま通り過ごしてしまうのが、人情というものだというかも知れません。

しかし、そう想いながら実践不履行のままでは、親切という善行はいつまでたってもできないであろう。

『三歳のおさな児、道を得るとも、傘寿(80歳)のおいびと(老人)行ないえず。』

たとえ三歳の子供でも、何が善いことか、何をしたらいけないかぐらいよく知っている。

にもかかわらず、八十歳にもなったという老人でもそれができないとは。

昔、唐の修行僧である白楽天が道林という老僧に、「仏の教えとはどのような教えですか」と尋ねると、道林和尚が、「どんなことであれ悪いことはしてはならない。

できる限り善いことをしなければいけない。そうすればおのずから心は浄くなる。これが仏たちの教えだ」と答えられた。

修行僧の白楽天は「そんなことだったら、小さな子供でも知っていることでしょう」となじると、道林和尚は「三歳の子供でも知っていることを、八十の老人でさえ行なうことが難しいのだ」と言われた。

私たちの今の生活は情報や知識に関しては過剰なほどに偏っているところがあります。

しかし反面、何事にも実践という行いはとなると言葉ほどには行動できていない傾向が多くはないだろうか。

私自身はいつもこのことを念頭におかずともできることは自然に行い一日を過ごすようにしている。敢えて意識せずともできるようならばそれでよい。

行いと想いは不二一体のもので相互関係にあるべきものと捉えています。

何故なら想いは行動にしてこそはじめて用を成し得るもので、行動はまたそのことによって自身の心に深く気づきを落とし、また新たな想いを創るものだからです。

想いと行動は連動して働いてこそ、循環してこそ心(魂)の学習に成り得るものです。

 

なぜ苦しみがあるのかⅡ

前回に続き苦しみの意味について考察してみたいと思います。

生きることのなかで解決しなければならない問題もなく、挑むべき目標もなく、克服すべき困難もない生活には、人間の魂の奥に秘められた神性が開発されるチャンスはないでしょう。

悲しみも苦しみも、神性の開発のためには最大のチャンスなのです。

私のわずか62年の旅路を振り返った時、あらゆる局面で宇宙を支配する絶対的摂理の見事さに感嘆(かんたん)するばかりです。

一つとして偶然というものが無いのです。すべてが不変絶対の法則によって統制されているのです。

霊的な意識が芽生え、自身の真我に目覚めた時、何もかも理解できるようになります。

人々はいったい何を恐れ、また何故に天の力を信じようとしないのか。人間は宇宙の一部なのにその宇宙を支配する絶対的存在になぜ心を向けないのか。

あらゆる恐怖心、あらゆる心配の念を捨て去って天の法則に沿って生きるべきです。天の自然なる心を我が心とするのです。自然な心とは流れです。囚われがなく、執着がなく、ありのままです。

心の奥を平静に、そして穏やかに保ち、しかも自信をもって生きるのです。そうすればごく自然に天の心があなたを通して発揮されます。

愛の心と叡智をもって臨めば、何事もきっと成就します。聞く耳をもつ者のみが天の意思を知ることができるのです。

愛がすべての根源です。

慈しみが全ての源泉です。

心の霊的真理を知った者は一片の恐怖心もなく毎日を送り、いかなる悲しみ、いかなる苦難にも必ずや天の協力があることを一片の疑いもなく信じることができなければいけません。

苦難にも悲しみにも挫(くじ)けてはなりません。なぜなら心的な力はいかなる物的な力にも勝るからです。そして何人も他の肉を傷つけても心を侵すことはできないでしょう。

しかし、恐怖心こそ人類最大の敵です。恐怖心は人の心を蝕(むしば)みます。恐怖心は理性を挫き、枯渇(こかつ)させ、マヒさせます。

あらゆる苦難を克服させるはずの力を打ちひしぎ、寄せつけません。心を乱し、調和を破壊し、動揺と疑念を呼びおこします。つとめて恐れの念を打ち消すことです。

心の真理を知った者は常に冷静に、晴れやかに、平静に、自信に溢れ、決して取り乱すことがあってはなりません。

心(魂)の力はすなわち天の力であり、絶対的な叡智であり、絶対的な愛でもあります。

生命の全存在の背後に天の絶対的影響力が控えているのです。

“はがね”は火によってこそ鍛えられます。

魂が鍛えられ、内在する無限の神性に目覚めて悟りを開くのは、苦難の中においてこそです。

苦難の時こそあなたが真に生きている貴重な証です。

夜明け前に暗黒があるように、心(魂)が輝くには暗闇の体験がなくてはなりません。

そんな時、大切なのはあくまでも自分の責務を忠実に、そして最善を尽くし、自分につながる天の力に全幅の信頼を置くことです。

霊的知識を手にした者は挫折も失敗も天の配材の一部であることを悟らなくてはいけません。

陰と陽、作用と反作用は正反対であると同時に一体不離のもの、不二一体のもの、いわば硬貨の表と裏のようなものです。

裏表一体なのですから、片方は欲しいがもう一方は要らない、というわけにはいかないのです。

人間の進化のために、そうした表と裏の体験、つまり成功と挫折の双方を体験するように仕組まれた法則があるのです。

心の神性開発を促(うなが)すために仕組まれた複雑で入り組んだ法則の一部、いわばワンセット(一組)なのです。

学びこそ不動の基盤であり、不変の土台です。

恐怖心、信念の欠如、懐疑(かいぎ)の念は、せっかくの調和された自分の霊域をかき乱します。

あなたのガイド(守護・指導霊)たちは信念と平静の霊域の中において初めて地上人間と接触できるのです。

恐れ、疑惑、心配、不安、こうした邪念は正しき霊界の者が地上人間に近づく唯一の道を閉ざしてしまいます。

太陽が燦々と輝き、全てが順調で、銀行にたっぷり貯金もあるような時に天に感謝するのは容易でしょう。

しかし真の意味で天に感謝すべき時は、辺りが真っ暗闇の時であり、その時こそ内在する力を発揮すべき絶好のチャンスです。

然るべき教訓を学び、魂が成長し、意識が広がりかつ高まる時、その時こそ天に感謝すべき時です。

人生航路のマストに帆(ほ)をかかげる時です。

あえて申し上げますが、4次元の霊的真理は単なる知識として記憶しているというだけでは理解したことにはなりません。

実生活の場で真剣に実践し体験してこそ、初めてそれを理解できる魂の準備が出来あがります。この点がよく分かっていただけないようです。

種を蒔(ま)きさえすれば芽が出るというものではないでしょう。芽を出させるだけの条件がそろわなくてはならないでしょう。

養分がそろっていても太陽と水がなくてはなりません。そうした条件が全部うまくそろった時にようやく種が芽を出し、成長し、そして花を咲かせます。

人間にとってのその条件とは辛苦(しんく)であり、悲しみであり、苦痛であり、暗闇の体験です。

何もかもがうまくいき、鼻歌まじりののんきな暮らしの連続では、心に潜在する神性の開発は望むべくもありません。

努力の末にいったん霊的智慧に目が覚めると、その時からあなたはこの宇宙を支配する天の意識と一体となり、その美しさ、その輝き、その気高さ、その厳しさを発揮しはじめることになるでしょう。

そうしていったん身につけたら、もう二度と失うことはありません。

それを機に4次元世界との磁気にも似た強力なつながりが生じ、必要に応じて4次元世界から力なり影響なり、インスピレーションなり、真理なり、美なりを引き出せるようになります。

あなたの魂が進化しただけ、その分だけ自由意志が与えられます。

霊的進化の階段を一段上がるごとに、その分だけ多くの自由意志を行使することを許されるでしょう。

私たちはいかなる困難、いかなる障害もきっと克服するだけの力を秘めているのです。

霊(意識エネルギー)は物質に勝ります。

意識エネルギーは何ものにも勝ります。

意識エネルギーこそ全てを造り出すエッセンスです。

なぜなら、意識エネルギーは生命そのものであり、生命は霊(意識エネルギー)そのものだからです。

苦しみは魂の進化向上のために欠かせない要件であることがご理解いただけましたでしょうか。

苦と楽は手のひらと、手の甲のようなもので、裏表が別物ではありません。同時存在して用を成す大事な手という機能です。

なぜ苦しみはあるのかⅠ

このブログを読んでくださる方が、ここに記すことを読むことによって楽な人生を送れるとしたら、それは私の意図とは違うことになります。

私は人生の悩み苦しみを避けて通る方法を述べたいのではありません。試練や逆境に敢然(かんぜん)と立ち向かい、それを克服し、そしていっそう力強い人間となってくださることがブログに書く真の目的です。

潜在的な心(魂)の宝は地上のいかなる宝にも優ります。それは一度発見し身につけたらお金を落とすような具合になくしてしまうことは絶対にありません。

それがどれほど素晴らしいことか、あなたの想像をはるかに超えたものです。そのために苦難から何かを学び取るように勤めることです。

天は耐え切れないほどの苦難をあなたに背負わせるようなことは絶対にありません。なんらかの荷を背負い、困難と取り組むということが旅する魂の本来の姿なのです。

それはもちろん楽なことではないでしょう。しかし、心(魂)の宝はそうやすやすと手に入るものではありません。

もしも楽に手に入るものであれば、なにも、苦労する必要などないでしょう。また楽に手に入れば人間の心には驕(おご)りが生れます。

痛みと苦しみの最中(さなか)にある時はなかなか得心がいかないものですが、必死に努力し苦しんでいる時こそ、心(魂)にとってはいちばんの薬なのです。

あなたの守護霊という存在は、いくらあなたのことを思ってはいても、あなたが重荷を背負い悩み苦しむ姿をあえて手を拱(こまね)いて傍観(ぼうかん)するほかない場合があります。

そこから教訓を学び取り霊的に成長してもらいたいと願い祈りながらです。

知り得たことには必ず責任が伴うものです。特に霊的な事を知り得た者は責任を持たなくてはなりません。

例えば霊的な能力には様々なものがあり、その力にも高低があります。本来どのような能力であろうが、それを使用することで金銭的な利益を得ることは邪道です。

その能力は一個人の能力ではなく天のエネルギーであり守護指導霊の協力においてのみ発揮されるものです。

心(魂)はいったん視野が開かれれば、悲しみは悲しみとして冷静に受け止め、決してそれを悔やむことはないはずです。

燦々(さんさん)と太陽の輝く穏やかな日和(ひより)には人生の深さや教訓はなかなか身に沁みません。

魂が目を覚まし、それまで気づかなかった自分の可能性を知るのは時として暗雲垂れこめる暗い日や、嵐の吹きまくる厳しい日でなければならないのです。

地上の人生は所詮(しょせん)一つの長い闘いであり試練です。魂に秘められた可能性を試される戦場に身を置いていると言ってもよいでしょう。

魂にはありとあらゆる種類の長所と欠点が秘められております。

本能と感情と理性と知性のバランスが基本となって個性が表面化します。

本能が過ぎた個性は異性に執着し物に、金に、食に貪欲(どんよく)になります。

感情に過ぎた個性は怒りやすく、沈みやすく起伏の激しい性格となります。

理性が過ぎた個性は冷たく他を批判し排他的な言動があらわれます。

知性が過ぎた個性は何かと自己主張の虚栄心と言動から反感を買います。

すなわち人間は最初から人間として地上に誕生してはいますが進化の段階で動物的な下等な本能的欲望や感情もあれば、あなたの個性的存在の源泉である神性も秘められております。

そのどちらが勝るのか、その闘いが人生です。地上に生まれてくるのはその試練に身をさらすためなのです。

人間は完全なる絶対的存在の分霊を受けて生まれてはいますが、それは魂の奥に潜在しているのであって、それを引き出して磨きをかけるためには、是非とも厳しい試練が必要なのです。

人生のなかでは運命の十字路にさしかかるごとに右か左かの選択を迫られます。

つまり苦難に厳然と立ち向かうか、それとも回避するかの選択を迫られるわけですが、その判断はあなたの自由意志に任されています。

しかし、回避すればそのことがクリアできていない宿題として生涯にわたってあなたの心(魂)についてまわるでしょう。

もっとも、自由といっても完全なる自由ではありません。その時点においてあなたの置かれる環境という制約があり、これに反応する個性気根の違いによっても選択の仕方が違ってくるでしょう。

物事に対して客観的に判断すれば正しい選択ができるのに、欲心をもって目先の利益やプライドや自己都合で判断すれば誤った選択をして迷路の人生に苦悩することになります。

地上生活という巡礼(じゅんれい)の旅において、内在する神性を開発するためのチャンスは実は誰にでもあらかじめ用意されているのです。

そのチャンスを前にして積極姿勢を取るか消極姿勢を取るか、滅私(めっし)の態度に出るか自己中心の態度に出るかは、あなた自身の判断によって決まるということです。

地上生活はその選択の連続と言ってもよいでしょう。

選択とその結果、つまり作用と反作用が人生を織りなしていくのであり、同時にまた、寿命つきて霊界へ入った時に待ち受けている生活、新しい仕事に対する準備が十分に出来ているか否か、能力的に十分か不十分か、霊的に成熟しているか否か、といったことも地上の成果それによって決まります。

単純なようで実に複雑なのです。作用と反作用は物理的な道理ですがしかし、心にも作用と反作用は厳然として働いています。

自己中心で他に接すれば相手からそれと同じような扱いを受けるでしょうし、心穏やかな慈愛をもって接すれば、やはりそのような慈愛に触れるでしょう。

地上生活に関連して忘れてならないのは、持てる能力や才能が多ければ多いほど、それだけ責任も大きくなるということです。

霊界から地上へ再生するに際して各自は、地上で使用する才能についてあらかじめ認識しております。

才能がありながらそれを使用しない者は、才能の無い人より大きい責任を取らされます。当然のことでしょう。

またその才能を自己の欲心のために使用した者は霊界に還ってからそれだけの軌道修正を図るための非常に厳しい反省と心(魂)の調和の修練をすることになるでしょう。それが才と能力を持てるものの責任を取るということです。

一方、悲しみは魂の悟りを開かせる数ある体験の中でも特に深甚(しんじん)なる意味をもつものです。悲しみはそれが魂の琴線(きんせん)にふれた時、いちばんよく魂の目を覚まさせるものです。

魂は肉体の奥深く埋もれているために、それを目覚めさせるためにはよほどの体験を必要とします。悲しみ、無念、病気、不幸等は地上の人間にとって教訓を学ぶための大切な手段なのです。

もしもその教訓が簡単に学べるものであれば、それはたいした価値のないものということになります。

悲しみの極み、苦しみの極みにおいてのみ学べるものだからこそ、それを学ぶだけの準備の出来ていた魂にとって深甚なる価値があると言えるのです。

繰り返し述べてきたことですが、宇宙の真理、心の法則は魂がそれを悟る準備の出来た時に初めて学べます。霊的な受け入れ態勢が出来るまでは決して真理に目覚めることはないでしょう。

こちらからいくら手を差し伸べても、それを受け入れる心の準備が出来ていない人の場合は霊的覚醒が叶うことはないでしょう。霊的知識を理解する時機(とき)を決するのは魂の進化程度です。

肉体に包まれているあなたが物質的見地から宇宙を眺め、日常の出来事を物的モノサシで測り、考え、評価するのは無理もないことですが、それは長い物語の中のほんの些細なエピソード(小話)にすぎません。

言い方を変えると3次元的思考で4次元世界の広大さを推し量るのは無理があるということです。

心(魂)の偉大さは苦難を乗り切る時にこそ発揮されます。失意も落胆も魂のこやしです。

魂がその秘められた力を発揮するにはいかなるこやしを摂取すればよいかを知る必要があります。それが地上生活の目的なのです。

地上生活の目的を幸せになるためとかいう方もいますが、それは単なる魂の向上をはかるためのファクターでしかありません。地上生活における幸せの条件はとても不確実なものです。

失意のどん底にある時は、もう全てが終わったかの感じを抱くものですが、実はそこから始まるのです。

私たちにはまだまだ発揮されていない力・・・それまで発揮されたものより遥かに大きな力が宿されているのです。

それは楽な人生の中では決して発揮されません。苦痛と困難の中にあってこそ発揮されるのです。

金塊(きんかい)もハンマーで砕かないと、その純金の姿を拝むことができないように、魂という純金も、悲しみや苦しみの試練を経ないと出てこないのです。

それ以外に方法がないのです。人間の生活には過(あやま)ちはつきものです。その過ちを改めることによって魂が成長するのです。

苦難や障害に立ち向かった者が、気楽な人生を送っている者よりも大きく力強く成長していくということは、それこそ真の意味でのご利益と言わねばなりません。

何かにすがり真言を唱えて御利益があるとする教えは危険この上ありませんし、邪道です。

何もかもがうまくいき、日なたばかりを歩み、何一つ思い患うことのない人生を送っていては、魂の力は発揮されません。

何かに挑戦し、苦しみ、天の一部であるところの地上という名の場において、魂の扉を開き、天の器を持ち出すこと、それが悟りを開くということでしょう。

困難にグチをこぼしてはいけません。困難こそ魂のこやしです。むろん困難の最中(さなか)にある時はそれを有難いと思うわけにはいかないでしょう。辛いのですから。

しかし、あとでその時を振り返った時、それが私たちの魂の目を開かせるこのうえない肥やしであったことを知って天に感謝するに相違ありません。

この世に生まれてくる霊魂がみな楽な暮らしを送っていては、そこに進歩も開発も個性も成就(じょうじゅ)もありません。

これは酷(きび)しい辛い教訓ではありますが、何ごとも価値あるものほど、成就には困難がつきまとうのです。魂の懸賞はそうやすやすと手に入れるものではありません。

宇宙は一瞬たりとも休むことなく働き、全存在のすみずみまで完全に通じております。

天は法則として働いているのであり、晴天の日も嵐の日も天の働きです。

有限なる人間に宇宙を裁く資格はありません。

天を裁く資格もありません。

地球を裁く資格もありません。

あなた自身さえも裁く資格もありません。

物的尺度が小さくしてはいけません。

物的尺度で見るかぎり世の中は不公平と不正と邪道と力の支配しか見えないでしょう。

当然かもしれません。しかしそれは極めて偏った、誤った判断です。

地上では必ずしも正義が勝つとはかぎりません。

なぜなら地上は肉体と物質の世界であって原因と結果の法則は必ずしも地上生活中に成就されるとはかぎらないからです。時間がかかるのです。

ですが地上生活を超えた長い目で見れば、原因と結果の法則は一分の狂いもなく働き、天秤は必ず平衡を取り戻します。

霊的に見て、あなたにとって何が望ましいかは、あなた自身には分からないでしょう。

もしかしたら、あなたにとっていちばん嫌なことが実は、あなたの祈りに対する最適の回答であることもあり得るのです。

ですから、なかなか難しいことではありますが、物事は物的尺度ではなく霊的尺度(中道の心)で判断するように勤めることです。

というのは、あなたにとって悲劇と思えることが、天から見れば幸運だと思えることがあり、あなたにとって幸福と思えることが、天から見れば不幸だと思えることもあるのです。

それは霊的判断によるちがいです。

また祈りというものにはそれなりの回答が与えられます。しかしそれは必ずしもあなたが望んでいるとおりの形ではなく、その時あなたの心的成長にとっていちばん望ましい形で与えられるでしょう。

天は決して我が子を見捨てるようなことは致しません。

しかし宇宙が施されることを我々人類が地上的なモノサシで批判することはやめなくてはいけません。

きょうの最後に絶対に誤ることのない霊的成長と真実が幾つかありますが、そのうちから二つだけ紹介してみましょう。

一つは、動機が純粋であれば、どんなことをしても決して魂は被害をこうむることはないということ。

もう一つは、人のためという熱意に燃える者には必ずそのチャンスが与えられるということ。

この二つです。焦(あせ)ってはいけません。何ごとも気長に構えることです。

なにしろこの地上に意識をもった生命が誕生するのに想像を絶するだけの長い歳月を要したのですから。

次回は『なぜ苦しみはあるのかⅡ』を述べてみようと思います。

 

いじめ

きょうはプロスキーヤーで冒険家でもある三浦雄一郎さんの言葉をそのまま掲載させていただきます。2003年5月22日、世界最高峰のエベレストに世界最高齢(ギネスブックに掲載)となる70歳7か月での登頂を果たすなど、数々の記録を残してきた。

以下は三浦雄一郎さんの言。

いじめはあるもの 何かに夢中になってほしい。

『生き物は弱肉強食。動物の世界では弱い者はいじめられる。

でも自殺する動物はいません。最後まで生きようとする。

人間は社会を作って、文明を作った。それでもいじめはある。

大人の社会にもひどいいじめはある。いじめはあるものだ。

なくすのは不可能だと考えた方がいい。』

世界最高齢の70歳でエベレスト登頂を果たした三浦さんはこう言い切る。自身も子供のころ、いじめられたという。

『小学校5回、中学校4回の転校。青森の方言をからかわれ、中学では落第も経験した。

思い詰めて1週間押し入れに閉じこもった。そんなある日、押し入れの前に、エジソンやキュリー夫人など伝記が並んでいた。何気なく手にとると、エジソンも幼いころにいじめられていたことを知った。

もちろん母の作戦。でも、世界の偉人もいじめられていた、苦しみを体験していた、と思うと少し気が楽になった。』

そして、雄一郎少年は母・むつさんに気合を入れられた。

『なにさ、中学1回落第したぐらいで、なにぐずぐずしてるの。あんたの爺さんは1回落ちたら4年は浪人なんだから』と。

母むつさんの父は、村長から中央政界に出た小泉辰之助。

『え、あんな偉いじいさんが?。大人というのは大変なんだと思わずうなずいた。』

『青森の名門・弘前高校時代、北海道大目指して勉強の遅れを取り戻そうと、机に向かっていたときも』

『雄ちゃんなにくよくよ勉強なんかしているの。大学なんて行かなくてもいい。学校行かなくて、歌手や俳優になったっていいじゃない』と笑い飛ばされた。

『祖父譲りの豪胆なむつさんを振り返ると、やはり子は親のコピー。悪いところも良いところも受け継いでいると思うことがある。』

『息子たちも、三浦雄一郎の息子というだけでいじめられた。金をせびられ、顔を腫らして帰ってきたこともあった。学校なんか行く必要ない。子供は自分で守る。面白いことは学校の外にいっぱいある。』

『海や山登り。私の都合に合わせて連れ歩き、うちの子は小学校に半分しか行ってない だから、もし死にたいという子供がいたら、「遊びなさい。わーっと」と言うつもりだ。へとへとになるまで思い切り遊べば、体を動かせば、嫌なことは忘れる。』と

『遊びを通して、思いやりや同情など、人間の基本を学ぶこともできる。死にたいというのは、それしかないと思い込み、真っ暗なトンネルに入ってしまうから。』

『その向こうに光があることを大人は見せてあげないといけない。もしその子が生きていたら、どんな才能が花開いただろう。絵を描くことでも、お菓子作りでも、音楽、コンピューターでもなんでもいい。何かに夢中になってほしい。せっかく生まれてきたのだから』

ここまでが三浦雄一郎氏の言葉です。

この記事を読んで思ったことですが、何が何でも登校や学歴や卒業という前提に立って物事を考えてしまうと、いじめの渦中にある本人にとっては逃げ場がなくなってしまうし、追い詰められてしまう。人間としての子供の心ををつぶしかねない。

母親、むつさんの肝っ玉ぶりは雄一郎少年にとっては懐(ふところ)の深い安心できる唯一の存在であっただろうと思う。

いじめは子供たちだけの問題ではないことは私も承知している。

家庭環境が背景にあり微妙に絡んでいて、そこには大人の問題が潜んでいる。

だいぶ前に学校の職員同士のなかでそれがあることを教師本人から相談を受けたこともある。

教員になるためには高いハードルをクリアする必要があるし、努力も大変なものだろうと思う。しかし、いざ学校社会に勤務していじめをする先生になっている事実、いじめられている教師がいる事実。

私はいつも思う。国家試験を取得するための学習はしてきただろうが、人間として心を豊かにする学習には努力をしない教師もいることは悲しいことです。

同時に国家行政の在り方にも足りないところがあると思えてならない。

教育現場は知識だけを詰め込むところではないはずです。とある専門学校の先生は話していた。学習や資格云々以前に人としての指導に時間が費やされると。

 

心の御洒落

親しい男女のなかにはいつもケンカの絶えないカップルもあったり、一緒にいながら安らぐことのないカリカリした夫婦もある。

想いの大切さはわかるが、その基本はとなると、極めて単純にいえばどれだけ相手に心配をかけないかだし、乱暴な話し方をしないことでしょ。

特に愛しあってる相手だからといって土足で踏み込んではいけない。会話は靴をぬいで家にはいるようなものです。

傲慢な接し方は必ず反発を生み破局を迎えるからだ。

想い(愛)はごく自然に満ちてくるし、与えようと思えば源泉から溢れ出てくるものでしょう。

この源泉は永遠に涸(か)れることはないが、湧き出していない人もいるし、汲みだそうとしない人もいる。

愛情が欲しい、もらおう、もらいたいとばかり思ってる人は生涯にわたって愛とパワーの物乞いをして人生を終えるだろう。

恋人同士だけではなく全ての人間関係において相手のことをよ~く観てごらんなさい、相手が何を求めているのか、何を必要としているのか、そうすれば相手の心の観えない部分まで観えてきます。

若いときは、あばたもえくぼでアツアツでいいが、やがて一緒になって幸せと同じだけ面倒が増えるのが結婚でもある。

毎日がディズニーランドみたいに楽しいと思っていたら大間違いですね。楽しみというものは苦労のうえにあるものだから。

「私らしく生きたい」と思うならまず自分を知ることから始めなければならないが、案外これが難しいしできていないものです。

容姿、容貌から好き嫌い、得て不得手、成功と失敗、過去と未来、長所と短所、癖、自分の全てを表に書き出してみてください。

マイナスだらけの自分に思えても必ずプラスを見つけられます。人生の岐路にさしかかった時、人間にとっていちばん大事なのは偏りのない理性と知性です。

人生が好転している人はこれまで岐路の判断に偏った欲心がないから正しい道を選択できている。

永遠に幸せでいる方法はたった一つ感謝の心を忘れないで行動に移すこと。これを報恩といいます。貧しくとも幸せと思い感謝できる人は生きるコツに気づいている人。

そうすれば、幸せはいつでもいくらでも自前で調達できます。試練のなかでも。

若さは一瞬のものです本当に考えなくてはいけないのはオジサン、オバサンになってからの時間のほうが長いということ。

人間は骨董品のタンスと同じ、手間隙かけて作られたものは時間を経ても愛され続けるのです。自分を磨く時間を惜しんではいけません。

かといって四角四面で生きることはない。静かな音楽を流し、美しい一輪の花を飾るもいいでしょう。心豊かな演出は自分に潤いを与えます。

生きていれば悩み落ち込む時は必ず訪れます。だけどそれは、あなたが弱いからではありません問題に対処するノウハウを知らないだけ。

この世は、ねたみ、そねみ、ひがみが溢れています。それの原因を知っているだけで人間関係はとても楽になります。これらはすべて自己堅持欲、自己保存欲、自己中心欲が背景にある。

先のことを悩みすぎると取り越し苦労をしたり、誇大妄想に陥ったりして人生に裏切れられます。

充実した人生を送るコツは生きがいをたくさん分散させておくこと。

場を広げるということです。一つだけで人生を謳歌(おうか)できたらそれはそれで立派なことだけど、一つがダメになったり、つまずいても他にも生きがいがあれば気落ちすることも少なく、小さくて済みます。

やはり男は生きざまを学ばなきゃならない。「俺が稼いだ金だから、俺に権利がある」『俺の働きでおまえたちを食わしてやってるんだ』そんな考え方は流行らないし、まったくナンセンス。

この程度の了見しかない男なら魅力はゼロ。

皆で分かち合うのが、家族の民主主義。

男も女も「何かしてあげる」と自分勝手な愛情を押し付けるのは自分がかわいいだけ。

本当の愛は見返りを求めない無償の愛。

いつまでも子供でいたい・・・無邪気な男は楽しくて魅力的でも、いずれ困る時が来る。

腹をくくってきっぱりと自分の幼児性を捨てなければいけない時が必ず来る。

成功したいからと、御利益があるからと言われて、信仰をもって、お経を何万篇唱えても、真言を唱えても行いがしっかり正しくできていなければ何の意味もなさない。

何事も実践あっての結果でしょ。成果は自身の努力の賜です。

男も女も本当のおしゃれは自分自身がブランドでなきゃ。

他人のブランドにしがみついてこれ見よがしに身にまとい誇張している姿はまだまだ未熟。

 本当の御洒落は心が粋でなくちゃね。(^.^)

自然寛解

体の病気&心の病気Ⅰ

私たちの体には、自分の病気を治す素晴らしい力が宿っています。

それを信じるか、信じないかは考え方しだいです。

『病気はよくなる』と信じてやってみる人には、大きな効果となって現れるでしょう。

名医と言われるお医者さんでさえ、こう言います。病気の回復には、「最終的には本人の意思・気力がものをいう」と。

だとすれば、私たちは自分の中に持っている治癒力に、もっと目を向けるべきかもしれません。

但し、その力が発揮するには、意識の転換(プラス思考)が必要になります。

なぜなら、自然治癒力は「プラス意識」の中でこそ、強く働くものだからです。

病気で寝込んだら、イメージなんてやっていられないと思うかもしれません。

しかし、疑わずに、あきらめず、 やってみることが大切です。たとえ、病院に入院していても、やろうと思えば出来ます。

もともと正常であった自分の遺伝子。病気になると、この遺伝子に変異が生じたことになる。すなわち、もともと正常にあった遺伝子を、不正常にさせたことになる。

もし、人間の体にそれだけの力があるなら、遺伝子の働きを正常に戻す力もあるはずです。

例えば、よく言われる「火事場の馬鹿力」、驚くべき力を発揮します。

これなどは潜在している気力が目覚めたことによります。人間の心にはこのような力が眠っているのですがそれを意識することで活用できるのです。

私たちは誰もが自然治癒力を持っているのだから、もっと自分の力を信じるべきです。

よくなったら信じる、治ったら信じる、という人がいるかもしれませんが、そうではなく、自分の中にある力を信じたら、奇跡が起きるのです。

人は、「目で見たものを信じる」ではなく、「信じたものを見る」のです。

この違いがおわかりでしょうか。できないと思えば、あなたはそれを見るでしょう。

できると信じれば、やがて信じたものを見ることになるでしょう。

自然寛解・・・ある時点を境に(あるいは何かを契機にして)、急速に病気が終息に向かうことがあります。医学では自然寛解と呼んでいます。

例えば、末期ガンで、余命数ヶ月と宣告された人が、手遅れのため何ら積極的な治療を取らなかったのに、数年後に癌が消失していたというような話がある。

しかし、この自然寛解には共通点がある。

メニンガー・クリニックの創設者、エルマー&アリス・グリーン夫妻が行った自然寛解の事例(400件)の研究では、すべての患者が、寛解が起こる前に「勇気と希望の道」を見いだし、積極的な姿勢に転じているという(劇的な意識の変化である)。

そして、これは外から強制されたものではなく、「自らの意思」という点に特徴があり、また、意識の奥深くに浸透しないと、効果は薄いと言われる。

自然寛解を経験した人の中には、あるときを境にして突然、自分が大自然と一体であるという言い知れぬ念にかられたと報告する者もいます。

私が過大な蓄積疲労の為に倒れたときは心拍数が120にもなり呼吸が思うようにならず死を意識した。短期間に4回も救急搬送されたが、しかし、何の病気も発見されなかった。

ダメージを受けた心臓の回復に3年の歳月を要した。倒れた時は歩くことさえできないほど体も心臓も衰弱しきっていた。体から魂が抜けてあの世を何度も往復し、気づかされることが沢山あった。

このときである。家の庭に四つん這いになり、天に大地に感謝の念が湧き、ひれ伏して号泣していました。これを境に心身が回復に向かいだした。

雨の日も風の日も、そして冬の風雪の日も、ただ黙々と歩く毎日を繰り返し体と心のバランスをとることに努めた。最初は5分歩くことが息苦しかったが徐々に徐々に時間も延長できた。

話を戻しましょう。

すべてに感謝したいという気持ちが起こったり、自分を苦しめる癌も自分の一部だという感覚が湧き起こったりして、気がついたときには、癌が消滅していたというような話もある。

これらはすべて心の変化によるものであることは疑いの余地がない。

私たちは肉体感覚の五官に左右された生き方をしがちですが、もっと自分の心(魂)が持つ無限大のエネルギー(力)をもっと信じるべきです。

自分を信じることの大切さに気付き人生観が変化して心の安息を得て幸せを実感している人たちがたくさんいます。

少しだけそのことを学ぶことでそれは実現されるのです。その為にわずかな時間をとることです。

健康は病によって知れり。

『何を食い、何を飲まんと生命の事を思い煩い、何を着んと体の事を思い煩うな。

生命は糧に勝り、体は衣に勝るなり。』

衣食住に執着して心を見失ってはならない、生命(魂)の真価は衣食住を超えたところにあり、肉体はどんな贅沢な衣装より優れたものです。ということでしょうか。

 

 

 

迷い道

ときが満ち

花はひらけど 人咲かず

かくも愚かな 迷いみち (観童)

草花は自然のままに生かされて花を咲かせますが、人間は頭が働くだけに執着して心の花を咲かせずに人生を終える人もいる。

私たち人間はこの大自然から多くを学び、気づかされ、そのなかで生かされているのですが、しかし、実際は自然に沿うことなく、気づかなかったり、無視したり、反発したり、大きな破壊をしたり、相反する方向に進んでいる傾向にあります。

個人だけにとどまらず世界レベルで相も変わらず戦争が絶えない。

自然を無視した場合の反動は必ずといっていいほど災難として人間に返ってきます。

大自然の摂理は人間がいかなる科学をもってしても侵せるものではありません。

このことを理解し原理原則として守らなければ人類のユートピアはないだろう。

効率だけを追求する社会構造は、経済、企業、学校教育、行政などのあらゆる面で効率優先の仕組みと生活となっています。

しかし、大切な何かを置き忘れて走り、道を迷っている。

災難は自然現象だけではなく人間の心にまで反作用として現象化がすすんでいます。

例えば精神的な疾患であるうつ病やパニック障害あるいは統合失調症などが代表的なところで、広くいえば自律神経失調症なども範ちゅうに入るでしょう。

自然のなかに生きる動物も植物も自然の法則に沿って生かされ生きています。

春夏秋冬はその時期が来れば雪が溶け花が咲き小鳥たちは繁殖のときが訪れて子孫を残し、やがて寒さが訪れて木々の葉も色づき動物たちも越冬の準備に忙しい。

冬の寒さは、しばし生命の休息の時間です。木々もすっかり葉を落とし、代謝を制限して翌春まで風雪に耐えている。

そして今また雪が溶け春の日差しが暖かく静かな風も心地いい。

岩手の桜ももうすぐ見られます。

無言に咲く桜にも心あり。

しかし、桜は語っています。

自然体の潔(いさぎよ)さと、その美しさを。

 

なぜ生まれてきたのか

ソウルsoul(魂)Ⅲ

私たちはなぜ生きているのか。

私たちが地上に生をうける時、地上で何を為(な)すべきなのかは魂自身はちゃんと自覚しております。

何も知らずに誕生してくるのではありません。幼少の頃からの記憶しかないだけで、実際のところは生まれる前の計画によってチャンスをいただけた時点で誕生しています。

自分にとって必要な向上進化を促進するには“こういう”環境で“こういう”身体に宿るのが最も効果的であると判断して、魂自らが選ぶのです。

ただ、実際に肉体に宿ってしまうと、その肉体の五官というしがらみのために誕生前の自覚が魂の奥に潜んだまま、通常の意識に上がって来ないだけの話です。

つまり、生まれた瞬間にあの世での意識の90%は潜在されて、わずか10%の表面意識だけで考え思いながら生きることになります。

地上の人間にとっての大きな問題点は、やむを得ないことかもしれませんが、人生というものを間違った視点から観ていることです。

つまり、あまりにも“この世的”・物質的観点からのみ、肉体的観点からのみ人生を考えていることです。

人生は確かに地上的な要素のなかで生きてはいますが、同時に霊的なものでもあり、霊的要素の重さに目を向けない生き方に問題が発生してきます。

言葉を変えると魂(心)の存在を意識しない生き方のために不満や愚痴や怒りに翻弄された生活をしてしまうことでしょう。

この永遠なる霊的要素を地上的視野だけで眺(なが)めてはいけません。それでは十全な判断はできません。

人間には一人の例外もなく、善悪ともに“埋め合わせ”の原理が働くのですが、地上生活のみで判断しようとすると全ての存在や要素や成り立ちを考慮することができなくなります。

埋め合わせの原理というのは足りないことは補うこと、余ることは捨てることによってバランスをとり、丁度いい具合に調えることの意味です。これは心のことです。

仏教的には心の煩悩の事です。

人生には目的があります。しかしその目的は、笛(物)に踊らされる人形ではありません。

人間は一人ひとりに分霊が宿っており、一人ひとりが無限の創造活動に参加できるのです。

つまり、私たちには個的存在としての責任と同時に、ある限度内の自由意志が与えられているのです。自由意志といっても、大自然の法則の働きを阻止することができるという意味ではありませんし、勝手に何をしてもよいという意味の自由意志ではありません。

ある限られた範囲内での選択の権利が与えられているということです。

その意味では運命全体としての枠組みは出来ております。

しかしその枠内の中で、私たちが自ら計画した予定表である青写真に従いながらどれだけ潜在的神性を発揮するかは、あなたの努力次第ということです。

もしかしたら、あなた自身が生まれる前に計画したその青写真さえ自覚できないかもしれません。

でも魂は神性を宿すが故に常に活動を求め、自己表現を求めて波のようにうねります。

時にはそれが悲嘆(ひたん)、無念、苦悩、苦痛、病苦という形をとり、無気力状態のあなたにカツを入れ目を覚ませることになるでしょう。

私が死線を彷徨うなかで4次元の世界を行き来し生還した体験がそれです。

もしも天があなたを創造活動へ参加させ、そうすることによって潜在的神性を開発させることを望まないのであれば、あなたがこの世に生をうけた意味は無いことになりましょう。

あなたも創造活動の一端を担って生まれてきたのです。

そして、ここに“埋め合わせの原理”が働いていることを理解しなくてはいけません。

つまり創造活動に貢献(こうけん)する仕事に携わりつつ潜在能力を開発していく生活の中で、あなたの人間的発達が促進されていくという仕組みです。

創造活動とは争いのない地上の安らぎと平和の建設です。

埋め合わせの原理は二重の仕組みになっているわけです。

進歩の誘発は内と外の両側から行われるのです。

魂の奥には物質界からのいかなるエネルギーよりも大きな威力が秘められています。

人間の魂は宇宙の大意識の一部だからです。

それが無ければ生命は存在しません。なぜなら生命は霊そのものだからです。

物質は影に過ぎません。霊という存在の殻(から)に過ぎません。

魂が光りです。

この二重のエネルギーをどこまで活用できるかは、その魂の悟(さと)りの程度にかかっています。

また次回まで。(^.^)

ソウルSeoul(魂)Ⅱ

上の画像は心の光を描いたもので、安らぎのエネルギー波動が潜在しています。見つめていると動きが感じられますからお試しください。

先ず宇宙の法則と天という言葉について簡単に述べておきます。

本文の中には宇宙の法則という言葉とという言葉が何度も出てきます。

ここでいう宇宙の法則とは物質世界(3次元)と非物質世界(4次元)の深い相互関係の秩序正しい営みをいうものです。したがって自然現象だけではなく、その奥にある根源的意志の発動を見逃してはなりません。

天とはただ単に空のことではなく、最も調和された摂理の上に存在するユートピアのことであり、その素晴らしさは地上の美しさの比ではない例えようのない神々しい4次元以上の実在世界のことをいいます。そして実在世界の中心にある意識を示す言葉としてのです。

さて本題に入りましょう。

いったいあなたとは何なのでしょう。ご存知ですか?。自分だと思っておられるのは、その身体を通して表現されている一面だけです。

それは奥に控える、より大きな自分に比べれば、ほんの毛先ほどのものでしかありません。ですから、どれが自分でどれが自分でないかを知りたければ、まずその総体としての自分を発見することから始めることです。

これまであなたはその身体に包まれた“小さな自分”以上のものを少しでも発見された経験がおありですか。

今あなたが意識しておられるその自我意識(小さな自分)が本来のあなた全体の意識であると思われますか。お分かりにならないでしょう。

となると、どれが普段の自分自身の考えであり、自分自身の想像の産物なのか、そしてどのようなものが大きな自分つまり高次元の世界からのインスピレーション(霊感)であり導きなのか、どうやって判断すればよいのでしょう。

そのためには正しい物事の観方を身につける必要があります。

つまり、あなたは本来が霊的存在であり、それが肉体という器官を通して自己を表現しているのだということをしっかりと認識することからはじめなければなりません。

霊的部分が本来のあなたなのです。船に例えると船体が肉体でありその諸器官です。

そして船長が霊(心)です。霊が先であり、身体が後です。霊が上であり身体は下です。霊が主人であり身体は使いなのです。霊が主であり身体はその従なのです。

霊(魂)はあなた全体の中の神性を帯びた部分を言うのです。

それはこの全大宇宙を創造し計画し運用してきた大いなる意識と本質的には全く同じ霊なのです。

つまりあなたの奥にはいわゆる“宇宙意識”の属性である莫大(ばくだい)なエネルギーが、未成熟のまま、あるいはミニチュアの形、つまり小宇宙の形で秘めているのです。

その秘められた神性を開発し、それを生活の糧とすれば、心配も不安も悩みも立ちどころに解消されていきます。なぜなら、この世に自分の力で克服できないものは何一つ起きないことを悟るからです。

その悟りを得ることこそあなたの努めなのです。それは容易なことではありません。

身体はあなたが住むであると考えればいいでしょう。肉体は“家”であって“あなた自身ではない”ということです。家である肉体は80年前後で朽ち果てて離れるときがきます。

しかし、あなた自身(魂)は未来永劫の生命体として輪廻しつづけます。

家である以上は住み心地よくしなければなりません。手入れが要るわけです。

しかし、あくまで“住居”であり住人ではないことを忘れてはなりません。

船と船長の関係と同じようなものです。

この宇宙をこしらえた力が生命活動を司(つかさど)っているのです。

生命の本質は物質(肉体)ではなく霊(魂)なのです。

そして霊は即ち生命なのです。

生命のあるところには必ず霊があり、霊のあるところには必ず生命があります。

これが宇宙の摂理であり、人間の摂理です。

あなた自身も生命そのものであり、それ故に宇宙の大意識との繋(つな)がりがあります。

それ故にあなたもこの無限の創造進化の過程に意識を傾けて同調することができるのです。

その生命力は必要とあればいつでもあなたの生命の井戸からくみ上げることができます。

その身体に宿る霊(魂)に秘められた莫大なエネルギーは、あなたの生命活動の動力であり活力であり、あなたの存在を根本において支えている尽きることのない4次元の源泉です。

あなたにはそれぞれに“この世界で果たすべき仕事”があります。それを果たすためには、こうした知識を吸収し、それを活力としていくことが必要です。

霊(魂)に宿された資質を自らの手で発揮することです。そうすることは暗闇で苦悩する人々に光を与える小さな灯台ともなり、あなたのこの世での存在目的を果たしたことになります。

宇宙には“摂理(せつり)”というものがあります。

私たちの心身は、それにきちんと合わさるように出来上がっているのですが、それに合わすか否(いな)かは本人の意志による選択の自由が与えられています。

『師は弟子に合わせて法を説く』という言葉があります。霊的に受け入れられる準備ができていればおのずと真理の扉が開かれるのです。

私から無理に求めなくても一つ一つ、ゆっくりと行動に移すことによって豁然(かつぜん)と視野が開き、そこから本当の仕事が始まります。

と言っても私はあなたの生活から問題も悩みも苦しみもなくなるというお約束はできません。お約束できるのは全ての障害を乗り越え、不可能と思われることを可能にする手段をあなた自身の中に見出すようになるということです。

内部に宿る資質の中の最高のもの、最奥のもの、最大のものを発揮しようと努力する時、4次元世界(霊界)に住する者の中であなたに愛着を感じ、あなたを援助することによって多くの人々の力になりたいと望む個人の霊を呼び寄せることになります。

俗にいう指導霊のことと理解していいでしょう。

悲しいかな、あまりに多くの人々が暗黒の霧に取り巻かれ、人生の重荷に打ちひしがれ、悩める身と心と魂をひきずりながら、どこへ救いを求めるべきかも分からずに迷い続けております。

常日頃行っているカウンセリングや月に一度の『心の教室』も私はこうした人々に手を差し延べたい思いだけで行動をしています。

もしも誰かが霊性の開発が容易であるとか、超能力の開発で富を得るとか、苦難の中にささやかなりとも光明をもたらしたいと願う人々の仕事や生活が楽に達成されるかのような口を利く事があれば、そのこと自体がすでに魔の誘いを証言していることになりましょう。決してそんな容易なものではありません。

歴史を見てもその反対を証明することばかりです。甘い話には必ず代償と落とし穴がまっています。真理と邪道とがいつ果てるともない闘いを続けております。

多分、この闘いは続くことでしょう。しかし、それでも私たちは長く困難ではあっても自分の魂に確固たる楽園が築かれるまで一歩ずつ歩を進めていかなければなりません。

これより先どれほどの偏見と反感と敵意と誤解と迷信と故意の敵対行為に遭遇(そうぐう)しなければならないかはあなたに想像もつかないでしょう。

怖(お)じけづかせようと思って言っているのではありません。事を成就するためにはそのあるがままの背景を理解しておく必要があるからです。私にはその大変さがよく分かるのです。

これまでも私は可能なかぎりの力を駆使して、克服不可能と思われた障害を克服して、人々の心に接してまいりました。しかし、それも私一人の力ではありません。

私は背後で守護してくださる霊や指導してくださる霊人たちの協力に支えられて苦難を乗り越えられたのです。このことはあなたにも言えることなのです。

人類自らが人類を、そして地球そのものを破滅に陥れかねない近代文明と不調和な心は、何をさておいてもバランスのとれたものに変えていかねばなりません。

人類は物質文明を自負しますが、霊的にはきわめてお粗末です。願わくばその物質文明の進歩に見合っただけの霊性が発達することを祈ります。

つまりこれまで“物”に向けられてきた人間的努力の進歩に匹敵するだけの進歩が精神と霊性の分野にも向けられればと思います。核開発を競う世界の現状は決して平和利用だけではありません。

文明の進歩に霊性が伴わない今の状態では、使用する資格のないエネルギーによって自ら爆破してしまう危険があり、既に原子力がそれを証明しています。

嫉妬心、口論、諍(いさか)い、殺人、戦争、混乱、羨望(せんぼう)、貪慾(どんよく)、恨み、こうしたものを地上より一掃することは可能です。そして、それに代わって思いやりの心、親切、優しさ、友愛、協力の精神によって生活の全てを律することができるのです。

それにはその根幹として、霊性において人類は一つであるとの認識が必要です。決して救いようのないほど暗い面ばかりを想像してはいけない。

明るい面もあります。なぜならそうした障害と困難の中にあっての進歩は、たった一歩であっても偉大な価値があるからです。

たった一人でいいのです。全てが陰気で暗く侘(わび)しく感じられているこの地上において、誰かを元気づけてあげることができれば、それだけであなたの人生は価値があったことになります。

そして一人を二人に、二人を三人としていくことができるのです。

霊(心)の宝は楽々と手に入るものではありません。もしそうであったら価値は非常に薄っぺらものになります。

何の努力もせずに勝利を得たとしたら、その勝利は本当の勝利と言えるでしょうか。

何の苦労もせずに頂上を征服したとしたら、それが征服と言えるでしょうか。

霊性進化というものは先へ進めば進むほど孤独で寂しいものとなっていくものです。

なぜなら、それは前人未踏(みとう)の地を行きながら後の者のために道標(みちしるべ)を残していくことだからです。そこに霊性進化の真髄(しんずい)があります。

何事もある程度まで道を究めようとするときに、孤独は避けられない影のようなものです。

地上の人間が何かを成就しようとして努力する時、少なくても自分と同等の、あるいは多くの場合それ以上の霊格者の援助の努力が霊界において為(な)されていることを此処に述べておきます。

援助を求める真摯(しんし)な熱意がなおざりにされることは決してありません。

忠信からの実践は、霊的つながりが出来ると同時に、援助を受け入れる扉を開いたことになります。その時に発生する背後での霊的事情の実際はとても言語では説明できるものではありません。

元来地上の出来ごとを表現するように出来ている言語では、次元の違う4次元以上の世界を表現しようとすることに無理があるのです。不可能です。どう駆使してみたところで、高度な霊的実在を表現するにはお粗末なシンボル程度のことしか果たせないでしょう。

いずれにせよ、その霊的実在を信じた時、あなたに霊的な備えが出来たことになります。

すなわち一種の悟りを得るのです。

大勢の人が真の実在であり全ての根源であるところの4次元世界の存在と自己の霊性に全く気づかぬまま生きております。

誰もが今現在こうして生きているのは霊的存在だからこそであること、それが肉体を道具として生きているのだということが理解できないのです。

人間には霊がある、あるいは魂がある、心があると信じている人でも、実在は肉体であって霊はその付属物であるかのように理解している人がいます。

本当は霊が主体であり肉体が徒属物なのです。つまり真のあなたは霊(魂)なのです。生命そのものであり、神性を有し、永遠なる存在なのです。

肉体は霊がその機能を行使できるように出来あがっております。その形体としての存在はほんの一時的なもので、せいぜい80年前後でしょう。用事が済めば崩壊してしまいます。

が、その誕生の時に宿った霊、これが大事なのです。この辺の理解ができた時こそあなたの内部の神性が目を覚ましたことになります。

肉体的束縛を突き破ったのです。魂の芽が出はじめたのです。

あとはあなたの手入れ次第で美しさと豊かさを増していくことになります。

そうなった時こそ地上生活本来の目的である霊と肉との調和的生活が始まるのです。

霊性を一切行使することなく生活している人間はあたかも目、耳、あるいは口の不自由な人のように、霊的に障害のある人と言えます。肉体に障害が出ても心(魂)まで障害にしてはなりません。

霊性に気づいた人は真に目覚めた人です。神性が目を覚ましたのです。

それは、その人が人生から皮相的なものではなく霊という実在と結びついた豊かさを摂取できる発達段階に到達したことの指標でもあります。

霊の宝は地上のいかなる宝よりも遥かに偉大であり、遥かに美しく、遥かに光沢があります。

物的なものが全て色褪(いろあ)せ、錆(さび)つき、朽ち果てたあとも、いつまでも存在し続けます。

魂が目を覚ますと、その奥に秘められたその驚異的な威力を確認するようになります。

それはこの宇宙で最も強力なエネルギーの一つなのです。

その時から霊界の援助と指導とインスピレーションと知恵を授かる通路が開けます。

これは単に地上で血縁関係にあった霊の接近を可能にさせるだけでなく、血縁関係はまるで無くても、それ以上に重要な霊的関係によって結ばれた霊との関係を緊密にします。

その存在を認識しただけ一層深くあなたの生活に関わり合い、援助の手を差し伸べます。

この霊的自覚が確立された時、あなたはこの世的手段をもってしては与えることも奪うことも出来ないもの磐石不動(ばんじゃくふどう)の自信と冷静さとを所有することになります。

そうなった時のあなたは、この世に何一つ真にあなたを悩ませるものはないのだ、自分は宇宙の全生命を創造した力と一体なのだ、という絶対的確信を抱くようになります。

人間の大半が何の益にもならぬものを求め、必要以上の財産を得ようと躍起(やっき)になり、永遠不滅の実在、人類最大の財産を犠牲にしております。

どうか、何処(どこ)でもよろしい、種を蒔ける場所に一粒でも蒔いて下さい。冷やかな拒絶に会っても相手になさらぬことです。

議論をしては決していけません。

伝道ぶった態度に出てもいけません。

無理して植えても不毛の土地には決して根づきません。

根づくところには時が来れば必ず根づきます。

あなたを小ばかにして心ない言葉を浴びせた人たちも、やがてその必要性を痛感すれば向こうからあなたを訪ねて来るでしょう。

私たちを互いに結びつける絆は絶対唯一の天の絆(きづな)です。

天なる宇宙は愛をもって全てを抱擁(ほうよう)しています。

これまで啓示された宇宙の摂理に忠実に従って生きておれば、その天との愛の絆を断ち切るような出来ごとは宇宙のいずこにも決して起きません。

宇宙の大霊である意識は決して私たちを見捨てません。

従って私たちも宇宙を見捨てるようなことがあってはならないでしょう。

宇宙間の全ての生命現象は定められたコースを忠実に辿(たど)っております。

地球は地軸(ちじく)を中心に自転し、潮は定められた間隔で満ち引きし、恒星(こうせい)も惑星も定められた軌道の上を運行し、春夏秋冬も巡りを繰り返しています。

種子は芽を出し、花を咲かせ、枯死(こし)し、そして再び新しい芽を出すことを繰り返しています。

色とりどりの小鳥が楽しくさえずり、木々は風にたおやかに靡(なび)き、かくして全生命が法則に従って生命活動を営んでおります。

私たちはどうあがいたところで、その宇宙の懐(ふところ)の外にでることはできないのです。

私たちもその一部を構成しているからです。

どこに居ようと私たちは天なる宇宙の無限の愛に包まれ、その御手に抱かれ、常に宇宙の力の中に置かれていることを忘れぬようにしたいものです。

ソウルsoul(魂)

このブログに訪問してくださったあなたが、もしも自分の信念をもって足れりとし、あるいはすでに事の真実について頂上を極めたと自負されるならば、このブログを読む必要はないでしょう。

だが人生は一つの冒険であること、ソウルsoul(魂)は常に新しき視野、新しき道と深さを求めてやまぬものであることをご承知ならば、ぜひお読みいただいて、これまで目を向けることのなかったソウルsoul(魂)の進化の一助にしていただきたい。

このブログの記述は古来からの正しい教えと何ら矛盾するものではありませんし、道を迷わすような意図があるものでもありません。まして宗教など立ち上げる意志などは毛頭ありません。

私たちの地上生活と、死んでなおのちにも続く魂の旅路に必要不可欠の霊的な知識を述べていきますが、きょうは序文に止めておき、更新の都度に詳しく具体的に述べていきたいと思います。

もしもあなたに受け入れる用意があれば、それはきっとあなたの心に明かりを灯(とも)し、魂を広く大きく豊かにしてくれることでしょう。

その中にはあなたの理性を反発させ、あなたの知性を侮辱するものは何一つありません。

何故ならすべては愛と奉仕の精神から生まれたものだからです。

私が利益とするものがあるとすれば、それは読者の心の平和と安らぎ以外にはない。

頑固(かたくな)な心、石ころのような精神では本当の理に触れることも気付くこともないでしょう。

受容性に富む心、素直に受け入れ、謙虚に学ぶ心においてのみ花開くときがくるものです。

私たちがそのような気持になるまでには、宇宙の真理、自然の法則を心の中核として受け入れる備えができるまでには、そのために用意される数々の人生体験を耐え忍ぶというプロセスが必要でしょう。

もしもあなたがすでにその試練を経ておられるならば、その時点においては辛く苦しく無情に思え、自分一人この世から忘れ去られ、無視され、一人ぼっちにされた侘(わび)しさを味わい、運命の過酷さに打ちひしがれる思いをされたかもしれませんね。

しかし、心は逆境の中にあってこそ成長するものです。

黄金は破砕(はさい)と精錬(せいれん)を経てはじめてその純金の姿を見せるように、あなたが、もしもそうした体験をすでに積まれた方ならば、いま私が述べる言葉の中に共鳴するものが随所に発見されるでしょう。

しかし、そのことは私が語ることのすべてを受け入れるよう要求するものではありません。

あなたの理性が反発することは遠慮なく拒絶なさってください。

あなたの常識的感覚にそぐわないものはどうぞお捨てになってください。

私もあなたと少しも変わることのない一個の人間的存在です。

ただ私は、死後もなお続く人生の道を少し先まで探求し、そのことを先人から学び、また、ガイドからも指導をいただいて歩んできました。

これからのちに誰もが直面することになっている新しい、そしてより広大な人生がどのようなものであるかをです。

天という宇宙の意識に向き合うとき、文明と科学と経済に、そして自我に翻弄(ほんろう)されることなく謙虚さと畏敬の念があるならば深遠な自然の理を悟ることができるでしょう。

ここでいう自然の理とは偏りのない宇宙の営みのなかにある普遍的意識の存在と、人間の調和された心は一如であり、そのことが真理であることをいうものです。

この真理こそがあなたに自信と確信と理解力と、そして何にもまして、永遠に失われることのない、掛けがえのない霊的叡智(えいち)をもたらし、あなたの心に太陽が存在するでしょう。

天空の太陽も、あなたの心の太陽も、いつもその輝きを失っていないのです。見えないところでも常に輝いています。

わたしの言葉を活字で読んで慰めを得たと言ってくださる方々、それまでは孤独な思いの中で生きてきたつもりが、本当は決して一人ぽっちではなく、見えない世界からの大いなる愛に包まれていたことに気づいてくださった方々に、わたしからささやかなメッセージを贈りたく思います。

わたしの言葉がたった一人の方の魂の核心にふれて真我の目を覚まし、心に執着のない真の自由に気づいたことを知るだけで、わたしは何よりもうれしく思います。

みなさんが無明(心の闇)を追い払うごとに、迷信が退散していくごとに、頑固さが消えていくごとに、偏狭さが薄れていくごとに、わたしの心は喜びに満たされます。

霊的知識を正しく理解され、地上の善男善女が天の愛の存在に気づき、その愛の摂理(せつり)を正しく理解すれば、物的世界(この世)のいかなる力をもってしても、与えることも奪うこともできない豊かさを見出させてくれることに気づいてくださるごとに、わたしは無上の喜びを覚えます。

空を雲がよぎり、日の光が陰ります。やがて夜になり、星がまたたき、淡い月の光が夜空を照らします。辺りが闇に包まれ、夜のとばりに被われます。が、やがて又、太陽が昇り、こうこうたる光を放ちます。

太陽は輝きを失ってはいなかったのです。見えないところで輝いていたのです。

これと同じように私たちの肉体は睡眠に入っていきますが、実際のところ肉体は休息をとっても魂は一時も休むことなく動き、あの世の光のチャージをいただいてくるのです。ただ眠っているだけではありません。

天の摂理は、たとえ皆さんにはそのすべてを理解できなくても、一瞬の途切れもなく働き、変わることもないのです。

自然界の宇宙意識と調和された人間宇宙の心はひとつです。不二一体なのです。

これを愛の根源と言わずして何と呼ばれようか。

そう思うとき、又してもわたしの心に大宇宙への感謝の気持が湧いてまいります。

『過去も現在も未来も永劫かつ無始無終に存在し給う大宇宙の心よ。わたしは(人類は)、あなたをいっそう深く理解し、あなたの摂理をいっそう広く生活の中で実践することによって、わたしども人間の一人一人に内在する、あなたの神性の豊かさと美しさを、よりいっそう顕現することになりますよう、ここに祈念します。』

宇宙の摂理と秩序の根底にある唯一の意識を理解するには自然現象にだけ目をやるのではなく、その営みの奥にある無実態の相に心を傾けることで可能となってきます。

そして理解が深まるほどに、自身の愚かさや、ソウルsoul(魂)というものの素晴らしさに気づかされるでしょう。