いうは易く行うは難し

つい最近のこと。車で移動中に赤信号で停まったとき発車寸前になってバックミラーへ何気に目をやったら後続車が灰皿を窓の外に出し道路に煙草の吸殻をゴソゴソ捨てたのが見えた。目を疑った。
唖然として呆れてしまったが注意をしようにもすぐに青信号に変わったため発車せざるを得なかった。
おそらく子も孫もいるだろうに、白髪頭の年の頃70代とおぼしき男性である。子育てにおいては躾(しつけ)や教育もしてきたことでしょう。
吸殻を捨てた車の後続車にも見えているはずであるが、恥ずかしくないのだろうかと気の毒にさえ思った。
例えば電車に乗って、ようやくの思いで空席を見つけ、ホッとして坐っているとき、次の駅で老人が乗ってきて傍に立ったとしましょう。
代わってあげるべきだという気持ちは、どんな人にでも具わっている。だから自分が立たないで居眠りの振りをするのは心苦しい。
にもかかわらず素直に立てないというのは、何という悲しい人間の性(さが)であろうか。
一方、綺麗な廊下に紙屑が落ちていたとしよう。どんな人でもそれを見れば、拾ってゴミ箱にいれようかという気持ちが起こるであろう。
これは人間というものには生まれつき、素晴らしい心が具わっているからです。
これを仏心ともいいます。
ところがすぐ後から、「自分がしなくても、誰かがするだろう」という別な想いが湧き、せっかくの思いやり(仏心)が踏みにじられてしまうのである。
だから私たちはそういう魔心に負けないように、最初起こった気持ちのままに行動すればいいわけです。
そう言われても、何となく気恥ずかしいまま通り過ごしてしまうのが、人情というものだというかも知れません。
しかし、そう想いながら実践不履行のままでは、親切という善行はいつまでたってもできないであろう。
『三歳のおさな児、道を得るとも、傘寿(80歳)のおいびと(老人)行ないえず。』
たとえ三歳の子供でも、何が善いことか、何をしたらいけないかぐらいよく知っている。
にもかかわらず、八十歳にもなったという老人でもそれができないとは。
昔、唐の修行僧である白楽天が道林という老僧に、「仏の教えとはどのような教えですか」と尋ねると、道林和尚が、「どんなことであれ悪いことはしてはならない。
できる限り善いことをしなければいけない。そうすればおのずから心は浄くなる。これが仏たちの教えだ」と答えられた。
修行僧の白楽天は「そんなことだったら、小さな子供でも知っていることでしょう」となじると、道林和尚は「三歳の子供でも知っていることを、八十の老人でさえ行なうことが難しいのだ」と言われた。
私たちの今の生活は情報や知識に関しては過剰なほどに偏っているところがあります。
しかし反面、何事にも実践という行いはとなると言葉ほどには行動できていない傾向が多くはないだろうか。
私自身はいつもこのことを念頭におかずともできることは自然に行い一日を過ごすようにしている。敢えて意識せずともできるようならばそれでよい。
行いと想いは不二一体のもので相互関係にあるべきものと捉えています。
何故なら想いは行動にしてこそはじめて用を成し得るもので、行動はまたそのことによって自身の心に深く気づきを落とし、また新たな想いを創るものだからです。
想いと行動は連動して働いてこそ、循環してこそ心(魂)の学習に成り得るものです。
 

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Posted by kansindo