偶然と必然

納得

生命の神秘

医学の進歩とともに生物科学が解き明かす生命の謎、その巧妙なしくみに対する驚きと賛嘆を表すときに人間は生命の神秘という言葉を使うことがあります。

また人智の及ばない現象を目の当たりにし、自然界森羅万象に対する畏怖の念をもつときにも生命の神秘を感じることがあります。

自然界の神秘性は必然的な法則によるものといえるでしょう。

この自然界の法則のなかで存在する人間もまた必然偶然が絡み合うなかで生かされているといるのではないだろうか。

例えば、人間が男女の愛情過程によって誕生する、という事実はごく自然の必然的法則といえます。

しかし、そのカップルが誰と誰が巡り合うかということは、運命的巡り合いという表現があるように、自然のなかでの偶然的な巡り合わせと捉える人が多いようだ。

更に、その数2億とも3億ともいわれる精子と卵子による受精は自然界の必然的法則ですが、約3億前後の数のなかでどの精子と卵子が受精するかということは、勢いのある精子ということだけではなく偶然による部分でもあるかもしれません。

実際に受精卵として生まれ変わることに成功した精子と卵子が、減数分裂(精子や卵などの生殖細胞ができるときに起きる細胞の分裂)の過程で遺伝子組換えを行う、ということは自然界の必然ですが、実際にどのような組換えが起るのかは、これまた偶然的法則といえるでしょう。

巷では運命的巡り会いだということが言われてみたり、人には運、不運が常につきまとう、といわれています。

道を歩いていて事故にあう、元気でいたいと思っても病気をする、あれが欲しい、こうもしたいと考えても必ずしもそうはなりません。

競馬、ギャンブルは、偶然の連続なので、面白さもあり、まるで人生をみているようだと断言する人もいます。

私自身は38年ほど前27歳のときに友人に誘われて初めてパチンノコ店にいったとき7000円勝ってビックリしたことがあり、また儲けようと思って欲をだして行ったら見事に負けてしまったことがあった。以来パチンコはしたことがない。

人によって運だとか、偶然を主張しながらも、これを信ずる人は少ないようです。

反対に、すべて必然と断言する人も皆無に近いようです。

人生は余りにも不確定な要素、つまり、認識出来る範囲が非常に小さいので、判断がつかない、というのが実際でしょう。

これまで何度も繰り返して言ってきましたが、私たちの意識量(物を認識する働き)は、普通で、その意識全体量の約10%しか働いていませんし、90%は潜在しています。

人によっては、覚醒状態(活動時)で働いている意識が7%か8%くらいでとまっている人もいるでしょう。

この意識が働きが多いほど潜在意識部分の働きが多いことを示します。

全体の意識を100として日常活動で働く意識が20%となると、ひらめき、つまりインスピレーションがよく働くということになり、予知などもおこるようになってきます。

さらにここで取り上げておきたい重要なことは、人にはそれぞれ過去世という魂の遍歴があるということ。

この魂の遍歴によって記録された想念と生活行為が私たちのなかにあります。

そのために、そういう記録された因縁にひかれ、その人の気質をつくり、性格に影響を与え、能力などを形作って行きます。

同じ両親の下で育った兄弟姉妹でありながら、楽天家もあれば内向性の者もいますし、拘りの強い子もいます。

これらは父母のそのときどきの精神状態なり、生活環境もありますが、実はこうした先天的な魂の遍歴に影響されている部分が相当に大きいものであります。

もっとも、後天的な生活環境にも人は大きく左右されますが、こうした先天的要素を外しては、偶然必然の判断は簡単に下せないのです。

運命の予知とか透視というものは、わずか10%の表面意識量では計れません。

それ以上の意識量が働くことによって、計れるのです。

100%の内のどれほどの意識量が働くはその人の心の調和度にも比例することでもありますし、日頃から自分自身の心の内をチェックする習慣も忘れてはいけません。

睡眠状態での夢が現実になるなどは、その人の場合、眠っているときの方が潜在意識がより強く働きやすいことを示しています。

運命の予知が可能だということは、偶然の連続ではなく、物事が必然の方向に動いているということです。

ただ普通は日中活動のなかで予知することが不可能なために、偶然とか、運、不運で片付けてしまうのです。

行動の連続結果として起こる出来事、それを理論的に証明できないから偶然と解釈するか、否、起こるべくしての出来事だとして必然だと解釈するのかということではないだろうか。

現代科学は壁に突き当りながらも発展の途上にあるが、物質科学をもって偶然必然を測定しようとすると無理が出ます。

なんとなれば、人間は物質だけではなく、意識という心を所有し、その心の一部に記録された過去世の遍歴と、今世の想念と行為が因果をつくり出しているからです。

そういったことが日常の行動に見えない形で働き、一見偶然と思えるようなことであっても、実は、これまでの流れによって成されてきた必然である場合が少なくないのであります。

人生の中での幸不幸にあって、偶然とか運、不運を口にする前に、本来のキレイな心の自分に立ち帰り、今を正しく生きるよう努めることです。

運はそうしたなかから拓けてくるのです。

こうしてみると、偶然も、必然も自分の人生において為してきた事実のうえに起きる現象であることは容易に理解できる出来ると思います。

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不安と安らぎ・心の眼を開く

yjimageCAQ3GXEJ苦楽の原点

私はこれまでさまざまな角度から人間の心というものについてブログを書いて来ました。これからも書きつづけてまいります。

記事を書く目的は、社会のより多くの方々に少しでも多く、心の仕組みについて、あるいは人の心の偉大さ、尊厳さを知っていただき、その心で現実の生活をしてもらいたいからです。

人間は心の安らぎがあってこそ平和も実感できるものであるし、幸せを感じることができるものです

人間は知恵のある動物という意味において他の動物とは異なった存在ですが、しかし、万物の霊長ともいわれる人間でありながら、その人生には苦楽があるのは何故だろうか。

苦楽の原点は、私たち自身の心の在り方、この一点にかかっています。

あの人が悪い、あの人のせいだ、霊のせいだ、あのことを切っ掛けにこうなってしまったといって他に責任転嫁をしているうちは絶対に心の安らぎなど生まれるはずがない。

実際に相談にくる方々の内情を確認すると、決して他人のせいばかりではなく、多少なりとも自分自身にも原因があることも浮き彫りになってきます。

否、むしろほとんど自分に原因がるといってもよいかもしれません。

事態を改善するうえにおいてこういったことを考えるならば、他人のせいにしていては苦楽からの解放はないということです。

往々にして自分自身の対応を変えるということには気づけず、相手が変わることを望んでいる場合があるものですがしかし、これでは事態の好転はのぞめません。

誰もが思い当たる、あれが欲しい、これが欲しい、あいつが憎い、あの人のせいでこうなった、負けてたまるかという心は、眼、耳、鼻、舌、身の肉体の五官に囚われることによって生まれてくるものです。

人間は肉体五官に心が傾き、心が外にのみ関心が移ってきますと、ものの本質を知ることもなく、争いや欲望がつのってくるようにできております。

私たちの身の回り、現実社会をみて下さい。

物質至上の考えが大手を振ってのし歩き、かつては高度経済成長の名の下に、人びとは物の渦の中に巻き込まれていきました。

その結果はどうだったでしょう。

公害、インフレ、物不足、そして、人びとの心は荒み、エゴと争いが巷にあふれ出ることになりました。

歴史は繰り返すといいますが、人が物にとらわれ、五官六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)に心が片寄り、自分を失って来ますと、残るものは苦しみ、悲しみだけとなります。

俗にいう霊障と言われている体の症状も実は本人の偏った知識がそうさせている場合があり、身体の症状を霊障だということで責任転嫁をして、自分の不調和な心故に出来上がっている心身症であることを認めたがらない場合が多々あります。

何かのせいにすれば都合がよいという自己保存の心理である。

つまり、目で見るものに囚われ、耳で聞くことに囚われ、鼻で嗅ぐことに囚われ、味覚に囚われ、全身の皮膚感覚に囚われ、内臓の不調に囚われ過ぎると、結果的に意識が不調和になってしまうのである。

つまり精神バランスを崩してしまうということだ。

こうしてみると人類の歴史は、五官におぼれた苦楽の歴史といっていいようです。

人が苦楽の中におぼれるかぎり、人も社会も安らぎあるものとはなりません。

このことを心の仕組みとしてよく理解して頂きたいと思います。

心の不安は、

心を外に向け、その出来事、すなわち事象にとらわれ執着すると起こり、自分の肉体感覚に執着すると起こります。

苦しいからとそのことの一つ一つに心を向けていては苦しみから脱するどころか更に不安や恐怖心の中に埋没することになります。こういう心の癖を私は「心の傾向性」といっています。

安らぎは、

心を内に向け、自分の心の状況をどういった傾向性があるのか把握し、偏りのない正しい心の法則に適った反省と実践の生活から生まれてきます。

学んでも学んでも同じところをグルグルと回って、自分の悪しき癖から脱出できないでいる不要な拘りの生き方はいつも苦しみしかなく、それは捨てるしかない。

しかし、それでも捨てきれないで自らを苦しみの中に埋没せているのが人間でもある。

これを称して「業・カルマ」というのである。

呪われた子ども

何をやっても仕事をこなせる人、努力をする人、これは素晴らしいことであるのは間違いないのだが、しかし、この人、いつも自らの言動によって敵を作っていることに気づいていないしトラブルも少なくない。

「どうしてそんなこともできないのよ」「そんなのやって何になるの?」子供のやる気を消失させるにはもってこいの言葉だ。

自分の子供たちから信頼がなく、子供たちの心を言葉によって傷つけ、我が子をつぶしてしまっているのだが、それでも自分の愚かさに気づけないでいる。

これもまた「業・カルマ」といえようし、できる人間の陥りやすい心の隙でもあろう。

誰もが安らぎを求めはしますが、安らぎは一朝一夕で得られるものではなく、日々の小さな実践と積み重ねでしか安らぎの境涯は得ることができないものであります。

この道理は、私たち人間が大自然という環境の恩恵によって生かされ、生きている限り、過去、現在、未来を通して変えることの出来ないものであり、大自然の法則であり、人間の心の法則だということです。

例え、大都会に暮らして、「俺たちの周りはビルだけで自然環境といえるようなものはないよ」と言ったとしても間接的には誰もが大自然の恩恵によって生かされているのです。

これまで、摂理、秩序という自然の掟である法則というもの、そして現実の社会に現われているさまざまな矛盾を、いろいろな角度から述べてアップして来ましたが、これからも述べてゆくつもりです。

このブログは、私の人生で体験したこと、相談者から学んだことをもとにして書き記したもので、人生に苦悩したり、疑問をいだいている方なら、きっと理解されるものと確信します。

ブログを訪問してくださっている皆さんにお伝えしたいのは、これまでの投稿が一人でも多くの方に安らぎを与えるものでありたいと願っているということです。

自分の生活を整え、健康で明るい生活を求めたいならば、心身ともに自然にそった生活をしていただきたいと思うのです。

私が言う自然に沿った生活というのは大自然に学ぶ心の法則に従ってという意味である。

禅定瞑想

人生と悟り

ブログをアップした当初は訪問してくださる方々もほんのわずかでしたが、それがひと月たち、ふた月たつにしたがって、訪問してくださる方が増え、心についてメールでお問い合わせおいただくようになりました。

そしてご自分の本当の心について再確認して気づかれる方々もおられます。

人間がこの地上界に出生する以前は、次元の異なった世界に存在し、さらにそれ以前には現在と同じように肉体生命を持って生活していたという事実は、読者の皆さん自身の心の窓をひらいたときに、それを知ることができるでしょうし、やがて地上生命を終えてあの世に還ったときにはじめて知ることになるであろう。

このことは物質界(地上3次元)をみると非常にはっきりします。

例えば、一枚の紙には表と裏があります。つまり陰陽二面性を持っており、その陰陽二面性はそのまま調和につながり、一枚の紙を存在せしめています。

私たちの肉体についても魂という普遍的な生命が同居し、生活しています。

死は肉体と魂の分離であり、肉体は土となり、魂は次元の異なる世界に帰っていきます。

紙は灰になり、土になり、エネルギーとして大気に戻っていきます。

この原理は地上生命の動物、植物、鉱物のあらゆるものに働いている法則である。

仏教には色心不二という言葉がありますが、これは肉体と精神は同時存在していることをもいっています。

物理学では、「質量と光の積は仕事をなし得る能力」と説明していますが、これは物質にはそれぞれの質量に応じたエネルギーがあるということをいっています。

仏教も、物理化学も、そのいわんとするところはともに同じでしょう。

私たちの普遍的な生命(魂)は、あの世という四次元以降の世界よりこの地上界に、自分自身が望んで両親を選び、経済的に豊かな環境に生まれるのも、貧しき環境を選ぶのも、そして不調和な環境を選ぶにしても、それぞれが望んで出てきているものです。

そうして生まれてきた出生の目的はとなると、己の魂の向上であり、調和にあります。

物質経済は生きるための一つの手段にすぎません。

地位や権力や経済の多寡によって人格が定まるものではさらさらありません。

ところが人間は、自分自身の知識に溺れ、物質経済の奴隷と化し、地位ある者、権力ある者が民衆を支配し、争いと闘争を生み出しています。

そのような現象はウクライナのロシア介入にも表れており、有事の危険性もあり得るような緊張状態にまでなっております。

何のことはない、国をあずかる最高責任者が和平を宣言すればよいだけのことだが、しかし、権力者の自己保存のエゴがここにも働いているということでしかない。

それでも私たちの魂は、この地上に出生して来るときにはほとんどが、あらゆる転生輪廻をくりかえし、偉大な丸く大きい豊かな心を所有していたのです。

人間の五体は、母親の胎内で約三ヵ月目ぐらいでほぼ形成され始めるとされています。

各人の魂はその時期になると、はじめてその胎児の中にはいり、人生において生涯世話になる肉体について確認をします。

この頃は母親につわりという現象が出ます。

つわりは母親の意識と胎児の意識(波動)のズレが原因で発生しています。

それが証拠につわりに苦しむお母さんが心を調和し、胎児に語りかけるとつわりが治まることで理解できるはずです。

赤ちゃんの魂のバイブレーションとお母さんの心の調和を図りバイブレーションを共鳴させること、それが調和です。

調和とは一切の偏った価値観を改めること、執着、エゴを手放すことです。

胎児への入魂は、各人(赤ちゃん)が自ら望んだものです。

かくて十月十日、母親のお腹の中で成長し、出産の刹那に、各人の魂は、四次元のあの世と断絶し、地上の制約のなかで生活します。

この時点で魂の90%は潜在し10%の表面意識で生きることになるのである。

これは視点の問題ではありますが、出産はあの世からみると死であり、私たちの肉体死はあの世では誕生ともいえるでしょう。

この世ではさようならですが、あの世ではお帰りなさいです。

乳児は一週間ぐらいたつと、周りに誰もいなくても、また教えないのに笑顔をみせます。

これはあの世にいる魂の兄弟や友だちが、乳児の前途を祝福にきたり、出生のはなむけの言葉に対する応答の現象でもある。

厳しい物質文明の奴隷と化さぬよう、人々と手を取り合って使命を全うする目的を果たすことを誓い、祝福に来た魂たちと交信し、乳児の魂は笑顔をみせるのです。

正に無垢な赤ちゃんの魂にはあの世の兄弟、友人の姿がみえているのである。

私たちが小学校を出て中学に、高校、大学に進み、社会人として巣立つときには、社会のため己のためにと、希望をもって出ていくように、出産の場合も、百人が百人、こうした気慨をもって出てくるのです。

ところが成長するにしたがい、自己保存が育っていって自我の虜になってしまう場合が非常に多いのである

自我心の芽は、肉体の五官(眼、耳、鼻、舌、身)によって増幅されていきます。

それだけに家庭環境における両親の調和された生き方が重要視されなくてはならないのである。

魂に内在された偉大なる智慧は次第に遠のき、闘争と破壊という不調和な環境をつくり出していきます。

人類の歴史は調和の日々より、暗闇の歴史といってもよいかもしれません。

現代は資本主義と社会主義の二大思想が対立し、調和された人間の神性仏性は、いつのまにか、物質文明に集中され、武力は資本力に支配され、労働者は団結してこれに立ち向かうという争いの場を生み出しています。

争いの根本は、すべての規準が物質経済におかれ、人間信頼という出産時の約束を忘れ去ってしまったからにほかならないでしょう。

しかしともあれ、私たちの一切の苦しみの根元は、他人でなく自らの肉体の支配者であるところの魂、己自身の心なのだということを忘れないでいただきたい。

喜怒哀楽を生み出すものは、他人のせいではなくすべて自分の心です。

本来の宗教はこういったことを教えてきたのですが、それすらもいつのまにか偶像崇拝になり、他力本願になってしまい、自分は楽して自助努力を怠り、神に祈れば救われるという間違った方向に進み、自分の判断、決断をせずに霊能者にお願いして被害に遭っているということになってしまったのです。

各人の心の中をひもといたときには、あるときは豊かな環境で人生を学んだことがあり、あるときは貧しい環境下で厳しい修業を選んで帰ったときもあるでしょう。

円には始めもなければ終りもないように、私たちの生命はあらゆる体験を積んで、現在地球上という環境のなかで、自分の本性を悟るべく修行しているのです。

ものにはすべて原因と結果というものがあります。

苦しみや悲しみ、病気にしても、そこには必ず原因があるものです。

うつ病に長年苦しむ人、パニック障害で不安と恐怖心に戦々恐々としている人、宗教被害に苦しむ人、霊障だといって自分の心に責任を持てない人、みなそれぞれに自分の心に端を発しているのである。

例え、霊障があるにしても、自分の心のバランス、不調和を改めるべく決心と努力をしなければ霊障は克服できない。

精神のアンバランスは自律神経である交感神経と副交感神経の働きをアンバランスにし、結果的に身体に様々な自覚症状をあらわすようになってくる。

体には特定できるような病態はないが胃腸の具合が悪いとか、胸が苦しいとか、呼吸が苦しいとかいわゆる医学的には心身症といわれるところがそれである。

そこで、その結果、症状、現象を修正するには、まず原因を追及し、その原因(心の癖)を正道に戻さなければなりません。

原因をそのままにしておいては、結果の好転は望むべくもないのです。

しかし、だからといってただ単に瞑想することは危険性を伴います。

何故なら、心の内にある不調和な想念(エゴ、執着、拘り、知識の偏重、プライド、驕り、不満、愚痴、怒りい、嫉み、責任転嫁、言い訳、間違った知識、偏った思考)が残っているからである。

このような状態で瞑想をすると邪悪な者の関わりを簡単に招き入れることになる。

いびつな心が不調和な結果を生み出しているのですから、本来の丸く大きな心にすべく、その原因を、偏りのない正しい道という物差しによって一つ一つチェックし、以後そのような原因を作らないように努力することです。

愛に生きるには、先ず上述のように、心の執着、エゴをとりのぞく反省の行為を怠らぬことである。

キリスト教では懺悔といい、仏教では反省を止観といっており、禅定の基礎も、中道に照らした反省にあります。

中道(偏りのない心)に照らした反省とその行為が生まれてくれば、間違った原因がとりのぞかれたことなのですから、天の光がふり注がれ、この世の生活は自然と整ってくるのです。

誰の魂にも本来与えられていた慈愛の光を、自らの力によって心のスモッグを取り去ることで再び輝かせることができるものである。

偶像崇拝や祈りによって心の安らぎがあると思う人がいるとすれば、それはその時だけの瞬間的なものでしかなく、逃避的なものであったり、自己満足、自己欺瞞(ぎまん)である、といっても過言ではありません。

信仰は対象にあるのではなく、己の心の内に潜在する神性仏性を信じて中道、すなわち偏りのない生き方を実践することによってのみ真の心の成長があるのであり、安定が生まれてくるのではなかろうか。

他力では決して人は救われることはできないのです。

次に大事なことは足ることを知った生活です。

足ることを知らないがために争いが絶えないのです。

足ることを知ることによって、自分一人がこの地上に生きているのではないことがわかるのですから感謝の心も生まれてきます。

この自然界は、万生万物が相互に関係し、依存しながら生活しています。

空気があり、水があり、樹木があり、海があり、氷河があり、川があり、大自然があればこそ、各人の肉体は保全することができるのですし、自然界のこの大慈悲に対して、我々は、無条件に感謝する心が生まれてくるはずです。

感謝の心は、行為によって人びとに尽くすこと、社会に還元することです。

感謝は報恩という恩に報いる行為の輪廻によって、はじめてその意義が見出され、実証されてくるものです。

世の中には感謝、感謝と言いながら、行為という勇気に欠けている場合が多いですが、報恩は、行為という勇気なしには実を結ぶことはないのです。

おわかりいただけるでしょうか。感謝という心と、報恩という行いは常に循環してこそ調和された働きとなり、慈愛のエネルギーとして人々に伝播していくものである。

「ありがとう」という言葉を一日百回言ってください。という指導をうけた人が事あるごとに「ありがとう」を連呼していた。

しかし、この言葉からは何らの温かさも、真心さえも感じることはなかった。

何故なら、極端に偏りすぎた連呼の挨拶は嫌味のような錯覚さえ感じさせる響きがあるし、耳障りで聞きにくく圧迫感さえ感じてしまう。

これを会話だけでなく、メールのやり取り全部で文章の頭に「ありがとうございます」、文末に「ありがとうございます」と受信するたびに「ありがとうございます」を繰り返されるともはや邪魔にさえなってくる。

やはり何事も程よく偏らずに一言「ありがとうございます」で良いのではなかろうか。

孝行したいときに親なし

形あるものは崩れ去っていきます。

全ては無常です。このままということは決してない。

どれほど豊かで勢いある人でも、風の前の塵の如く、やがては朽ち果ててこの世の人生を閉じるときが必ずくる。

現在健康であっても、いつの日かその肉体は朽ち果て、やがて我々は、あの世に帰らなくてはなりません。

己の人生の一切の責任者は自分であって他人ではありません。

自分自身がすべての根本です。

それゆえ、人はあの世に帰っても個性を失うことはありません。

これは霊が人の身体を借りて語る内容によってその個性が違うことで証明されます。

物理学の法則と同じように、魂もまた等速度運動をしながらあの世に帰っていきます。

病気で苦しんでこの世を去り、その病気の原因を追及せずして心が不調和なまま肉体が破壊されあの世に帰ったときには、その病気の状態であの世に堕ちていくのです。

肉体はあくまで人生という航路のための船でしかありません。

私たちの普遍的な肉体の主は魂であるということを知っていれば、肉体にまつわる執着は離れていくものです。

そのときの私たちは、平和であり、その心に比例した世界に昇っていくのです。

思うこと、行うことは、すべて善なる己自身の心の裁きにあっているのだということを知らなくてはなりません。

神が裁くのではなく、閻魔様(えんま)が裁くのではありません。

それだけに、毎日毎日の、一秒一秒の心と行いの在り方が、真実に適ったものでなければならないのです。

かつて地上に降りたメシアたちは、一切の苦しみというものは自分自身がつくり出し、苦しみから解放されるには、苦しみの原因をつくらないようにすればよいことを発見していきます。

ゴーダマ仏陀は、四十五年間この神理を説き、後にその教えはチベットを超えて中国に渡り、日本に伝わりました。

現代は、偶像を拝む他力にかわり、真の信仰は形骸と化しています。

葬式仏教、観光仏教、学問仏教、哲学仏教が今日の仏教の姿となってしまいました。

しかし、人間の心というものは、決してそうした形骸化されたものではありませんし、とてもシンプルなものであります。

一秒一秒の生活、心の在り方が信仰であり、勇気をもって修正する己自身に、すべてが託されており、悟りの彼岸も、八正道という正しい道を行じるなかにあることを知らねばならないでしょう。

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忘れないでください・3・11東日本大震災

遺族の祈り

朝日新聞から」東日本大震災から今日、3月11日で3年になるが、約26万7千人が今なお、避難生活を強いられている。

仮設住宅には約10万4千世帯が暮らし、岩手、宮城、福島の3県のプレハブ仮設住宅の入居率は約84%に上る。

同時期の入居率が50%台だった阪神大震災(1995年(平成7年)1月17日(火))と比べて、暮らしの再建の遅れが目立つ。

 

 震災で約800人が犠牲となり、約40人の行方がわからない宮城県名取市閖上(ゆりあげ)地区。小高い丘の日和山に建てられた慰霊碑には、犠牲者を悼む人たちの姿が絶えない。

 警察庁によると、震災による死者は1万5884人、行方不明者は2633人(10日現在)。10日も宮城県女川町の女川湾や福島県の沿岸部で海上保安部や警察が捜索した。

震災後の避難生活による体調悪化や自殺などによる「震災関連死」は3県で2973人

原発事故による避難が続く福島県では、地震や津波による直接の死者数を上回った。

住まいの復興は道半ばだ。復興庁によると、今月末までに3県で2347戸の災害公営住宅が完成する予定だが、計画戸数の9%にすぎない。

自力再建者が家を建てる移転先などに造成する宅地は計画の6%、1388戸分にとどまる。

地域再生の要となる学校でも、多くの子どもらが仮設校舎や他校の「間借り」で過ごしている。

また、被災自治体は人口流出や事業所の減少、まちづくり、被災者の心のケアなど、様々な課題に直面している。(ここまで引用)

病むのは体だけではない。

人間は体の不調も辛いものですが、心が病むことの方がはるかに辛いものです。

被災者のなかにはいまだに不安感が消えることなく増していて「心の病」の人が増えて来ているといいます。

ある漁師は「復活のために必至にやってきましたし、今も原発事故風評との闘いの中にいます。僕自身、先月に、フラッシュバック、不眠がひどくなり、現在入院して治療をしています。なかなか、回復しません。このような「心の病」を抱えてる人は、被災地にまだまだ沢山います。でも、我慢して、病院に行けないでいる人の数が圧倒的に多いのです。」という。

失った家の跡地に茫然と立ち尽くす人、幼い子どもを失って泣き崩れる人、夫が津波に飲まれて自分だけが生き残ったことに罪悪感をもって苦しむ妻の姿、職場を失い働くことができず路頭に迷う男性、夜中に発狂して大声をあげて泣き出すお婆さんの姿、こういった人たちにとって震災は今も続いている。

「自分も津波に呑まれたほうがよかった」

震災後半年過ぎた頃には、瓦礫(がれき)と呼ばれる廃棄せざるを得なくなった様々な漂流物の多くは片付けられ、家の基礎以外は何も残ってはいない。

その一角で、そこに住居があったというある初老のご夫婦の話し。

「毎日ここに来ては海を恨めしく眺めているんです」と。

「息子たちは数年前に独立し、これからの人生を夫婦で静かに過ごすつもりだった。それを津波がすべて奪い去った。本当は小さくてもまたここに家を建てたいと思う一方、やっぱり行政が勧める高台への移転の方がいいのかどうか。」

この老夫婦、現在は仮設住宅に入居されているが、狭いし、暑いし、暮らし難さで息が詰まるので、結局毎日ここに来ているという。

「いずれにしても、もう家なんか建てられない。お金がありません。こんなことなら、自分も津波に呑まれた方がよかった。生きているのが、苦しくて、辛くて…」

「希望」や「生きがい」などの言葉が被災地内外で飛び交っているが、掛け声だけではもはや手遅れになる。

もっと個人個人に対しての具体的な行政の救済策が実行されない限り被災者の苦悩は続くのであろう。

被災者に対して直接手を貸すことができない立場にあっても、我がこととして忘れてはならない歴史的なできごとではなかろうか。

被災された方々には心からお見舞いの心を捧げ、そして尊い命を断たれた御霊のご冥福を心からお祈り申し上げます。合掌m(__)m

次回は3月17日の投稿を予定しております。

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偽ることのできない心

怒り

自分には嘘をつけない

「お前、信心とか信仰はどういうものだと思う?」

「神様に手を合わせることじゃないか……」

「神社、仏閣などに行ってか?」

 「まあ、そうだな」

「じゃ、神社仏閣へいって、なんのために手を合わせるんだ」

「そりゃ、家内安全、商売繁盛を頼むのさ」

「頼んでご利益あるか?俺の知人がこの正月に成田山に行って、その帰り道、車にはねられて死んだよ」

「そりゃ信心が足りないからだ。信心が厚ければそんなことねえさ」

「ところがその人は、常日頃、非常に信仰心の厚い人だったんだ。月に一度は必ずお参りに行く。布施もする。人柄だって悪くない。その人が、あっという間に死んだ。

これをみて俺は、いったい、この世の中に、神様とか仏様はあるんだろうかと思ったね。日本には随分と、いろいろな教団や教えがあるらしいが、サッパリよくならないじゃないか。悪くなる一方だ。

第一、神様や仏様が多すぎる。仏教一つとっても何百何千だろう。その何百何千が我こそはとやっている。おかしいと思わないか?

俺は思うんだが、信心とか、信仰というものは、そんなものじゃない。神様、仏様に手を合わせることじゃないと思うんだ」

「じゃあ、どうすりやいいんだ」

「俺にもよく分からないが、神様、仏様が頼りにならないってことになるなあ。ならないとすれば、頼りになるのは自分しかないってことになるなあ。」

「・・・・・。」

「人には嘘は言えても、自分には嘘はつけないもの。自分に嘘がつけないってことは、自分のなかにも、神様、仏様があるってことじゃないかなあ・・・。だから手を合わせるとすれば、嘘のつけない自分に、手を合わせるのが一番だと思うが、お前、どう思う?」

「・・・・・。」

電車内での会話、二人とも中年の労働者らしい雰囲気で、言葉はぞんざいですが、話の内容は、筋が通っています。

この会話にもある通り、家内安全、商売繁盛のご利益信仰は、今や世上をおおっています。

神社や仏閣でも時代の流れと共に祈願内容も変わり、かつてはなかった交通安全祈願や受験合格祈願など、その他多彩に対応するように願掛けの場所へと変化してきている。

科学万能といわれながらも、これと併行して神信心が流行するのも、人間は一寸先が闇であり、同時に、自己保存の念がますます強くなっているからでしょう。

こういったご利益信仰の目的が自己本位、自分が良くありたい、よければという考えに根ざしているからです。

しかし本来、信仰とはとてもシンプルなものであって、自分ではどれだけ神仏を信仰しているとはいっても、その信仰の中身、動機に人間のご都合主義、エゴがあるならば真の正しい信仰とはいえないであろう。

実は、神信心して交通事故に遭うのも、こうした考え方、利益追及、自己本位というエゴが原因になっている場合が多いのです。

信仰する人たちの心の隙ということだ。

こうしてみると人間は、信仰するしないにかかわらず、各人の運命そのものは、自分がつくり出していることを知らねばならないでしょう。

運命とは、文字通り、命を運ぶことであり、命とは、己自身でありますから、己自身が暗い想念や、不調和な思いに支配された場合は、暗い想念に運命をまかすことになってしまい、それが私たちの生活に現象となって暗い影を落としていきます。

お互いが都合よく関わりあっているときは良い関係でいられても、一旦、何か問題が発生してしまうと相手に対して心無い言葉を浴びせてしまうことはよくある話です。

人間の持つ影の部分は、順調なときには見えないが、窮地、試練、問題発生のときにこそその人の業(影の部分)としてはっきりと表面化するものである。

先の話にあるような、成田山にいって死に見舞われるのも、その人の信仰そのものに、どこか間違いがあり、暗い想念は、やがて、動物霊の支配下に自分をおいてしまったことによる場合もある。

人間は、肉眼の範囲でしか物を見ることができませんから、動物霊というものが、どういうものか分かりません。

ところが動物霊は、厳として存在しています。

動物は、もともと本能的であり、自己本位ですから、こういうものが人間に憑くと、その人は、やがて、動物本能に左右され、知性や理性に欠け、人間としての自覚が働けなくなってしまいます。

自分に危害を与える者には、徹底した憎悪を持ち、敵対意識が常に自分を支配する。

ところが、この世は、自分一人で成り立っているわけではないし、人と人とが和合し、助け合うようにできていますから、調和を乱す想念は、やがて、その運命にも影響を与え、悪い想いは悪い結果を招くことになるわけです。

類は類をもって集まる

これは法則です。

従って、神社仏閣に行って、各人が利益追及のみを願ったりすると、その想念は、やがてその神社、仏閣を包み、動物霊の住家となり、そこにきた参拝者、信者が、もしも自己本位で手を合わせれば、そこにいる動物霊を呼びこむことになるのです。

このような問題は、何も神社仏閣に出入りする場合だけの問題ではなく、霊能者と関わることでも同じような現象が起きてくるのである。

禍、それは、多少の当て事や、占いなどに翻弄されることによって発生してくる、相談者の依存心がそうさせるのであり、不安と恐怖心が招く現象だと言えるだろう。

能力と人間、この関係は、能力を持つ者の人格、人間性、智性、理性、品格、徳性というものによって駆使される能力でなくてはならない。

自称霊能者といわれる者が一番優先しなければならないことは、能力や当て事ではなく、相談者への受け導きではなかろうか。

類は類をもって集まるという法則によって起きた事件の実例を参考にしてください。『死後の世界』 

信心は厚いが、年がら年中病気が絶えない。商売がうまくいかない。お参りにいって交通事故に遭った、というのは、大抵はこうした動物霊信仰に身をおく場合が多いのであります。       
仏教もキリスト教も心と生き方を説く

「人には嘘はいえても、自分には嘘はつけない」とする考え方は、真実そのままであり、人間の姿を、本来のありのままに見つめた正しい生き方(信心)といえるでしょう。

人間、神の子・仏の子といわれる理由も、また、万物の霊長といわれる所以も、ここにあります。

人間には、心があり、心は神仏に通じています。

なればこそ、自分の心には嘘がいえないのです。

ですから、信心とは、形式的な因習による神社仏閣に詣でることではなく、己の心を信ずることです、と申し上げたい。

特に信仰を持たなくても人間関係に潤いを以って生き、人々からも信頼を得て人生を全うする人もいます。

この潤いとは他でもない、他を思いやる慈しみの心であり、他を否定せず、愛を以って接する素直な心の事である。

嘘のいえない己の心を信じ、その心の命ずるままに、日々の生活を送るようにすれば、間違いはないということになります。

しかし、そうはいっても、偏った自分の心を信じてはならないし、その価値観は改めなくてはならない。

信仰とは、『嘘のいえない己の心に問う』、『己の心に聞く生活』であるといえるでしょう。

信仰をもつ者にありがちなこういうことが、これまでおろそかになっていました。

何度も言うようですが、神社仏閣にいって、手を合わせることが信心であり信仰であるとしたり、あるいは、ある集団に所属するということが信仰というものではありません。

拝む対象を求め、形に拘ることによって発生してきた偶像崇拝という、神仏と人間を切り離した考え方に、大きな間違いがあったと思います。

何故なら、神仏は私たちが意識することで心の内に拡がるものだからである。

人間神の子・仏の子であり、嘘のつけない心を誰もが備わっているとすれば、その心を、しっかりとつかむことが必要ではないだろうか。

難解な哲学宗教

釈迦の教えである慈悲、そしてイエスの説いた愛は、こうした正しい信心、信仰を、求めています。

時代の流れの中で人間の知と意で組み立てられた仏教や愛の在り方について、その誤ちを訂正する時期にきているのです。

それはどういうことかといいますと、釈迦の慈悲、イエスの愛は、今日では、すっかり哲学化され、お経はあげるもの、信仰は祈るものと変わったために、神理の光が、影をひそめてしまったといえるでしょう。

私が言う、信仰はとてもシンプルなものという意味はここにあるのです。

仏教もキリスト教も、その根本は、心の教えであり、人間は心であり、自分の心こそ、信心・信仰の対象でなければならないとするところにあります。

人間は、偏りのないバランスのとれた智情意が揃って、はじめて、円融無碍(えんゆうむげ・事物が完全に溶けあって何の障害もないこと)な人柄となり、神仏の光を、体全体にうけることになります。

智とは智慧。情は心。意とは、意思であります。

この三つの中心が、情、心です。

情は心の現われであり、それがあまり表面的になりますと感情になり、過ぎた感情は、己を失う結果になり、怒りにもなり得ます。

しかし、情が心となり、神仏の光を大きくうけるようになりますと、智は智慧となり、意は、大我心(エゴ執着のない心)の発動となるのです。

それ故、情は、智と意の間に入って、両者を支えています。

もしも、情がなく、智だけの人間になりますと、自分を見失うばかりか、人と人との交流が阻害され、暖かみのない人間となりましょう。

夏目漱石は言いました。「智(ち)に働けば角が立つ 情に棹(さお)させば流される 意地を通せば窮屈」と。

こういう教えにも示されるように、意の過ぎた人間は自我が露骨となり、自らして、自分の首を締める結果となりましょう。

それですから、情、心がいかに大事であるか、自分の心を整えることこそ、信心、信仰の対象としなければならないのです。

そこでいったい古来の正しい法則とはどういうものかといいますと、それは「心」です。

心そのもの、人間それ自身、宇宙全体でもあります。

その正しい法則はとなると、かつてインドで説いた釈迦の教えが、そのまま、日常の言葉として現代に再現されなければならないでしょう。

何故なら、万古不滅の神理は、そして、その光は、己の心を開かせ、これまで考えてきた、小さく、みじめな人間観から自分の心を解放することができるからであります。

そうして、そうした解放感から、一歩も二歩も先に自分を進めることができたとすれば、智情意の三体は、自然と整ってくるのであります。

霊能というと、いかにも、特殊な人間、特別な修行を連想させますが、人間誰しも、そのような能力を持っており、各人の心は、本来、すでに神仏に通じているのです。

しかし、神理の光、正しい法則の光を頂かなければ、その能力は開けません。

それは神仏のエネルギーによる光であり、正しい法則に沿った神理にふれなければ、各人の心の外壁をおおっている想念帯(様々な想念、。カルマ、あるいは原罪ともいいます)をうち崩すことができないからです。

これは理屈ではないのです。

心の眼が開かれてきますと、自と、その信憑性に一驚(いっきょう・おどろく、びっくいすること)されます。

神仏の光はもともと各人に内在します。

しかし、その内在する光を表に現わすには、それを現わすだけの心の準備が必要であります。

「求めよ、さらば与えられん」これはイエス様の言葉です。

この意味は、うちなる己の心の準備と、それを迎えてくださる神仏の慈悲、愛、より大きな心による愛の光の相叶う姿をいったものでしょう。

霊能といっても、各人の心の在り方が非常に重要であり、私利私欲、自己本位になりますと、動物霊や悪霊がその人を支配してしまいます。

霊能は、天才にも、狂人にも通じることになります。

自らがこの世の修行によって開いた霊能は勿論ですが、神理の法則に沿って心の扉が開かれ、結果として光を得られた場合には、その者は、普通の人以上に自戒、自重しなければならないわけであります。

この世的な贅沢を欲する心には必ず魔が入り込み、甚だしく人格障害を引き起こす可能性が大きいからだ。

光の天使は菩提心の求道者

人間の病気は肉体的な理由によるものばかりではなく、むしろ逆に精神的原因に端を発する病気の方が多いといえるかもしれません。

その事実は、人間の心に内在する豊かな心、つまり、宇宙の神理を理解すること、行ずることによって、病気が癒えていくということが証明されてきております。

実際に相談にみえた人たちのなかでも、これまでの心に溜め込んだ不調和な想念を改め、エゴを捨て、偏りのない生活をすることで精神疾患から解放されていく人たちがいる。

病気回復、事業の好転、不和だった家庭内が明るくなったなど、その数は枚挙にいとまがありません。

本来、こうした現世利益は、神理に適えば、一つの随伴現象として、具体化されるものであります。

なぜかといいますと、過去における偉大な指導者たちが説いた正法神理は、正しい法、正しい法則にそっているからです。

人の一念は岩をも通すで、その一念が正しく使われれば、その一念力は、正しくその人に還ってきます。

もしも、正しくない一念力を燃せばそれはその人に還り、その人の心身、環境を悪くすることになります。

正しいか、正しくないかは、嘘のつけない自分の心に問うてみることです。

またそのような偏りのない心、ウソのつけない心を己の信じるべき心として日頃から学び育てて実践していきたいものである。

自分の心は中正であり、公平ですから、いい悪いは、すぐ答えが出る筈のものです。

動物霊信仰でも、奇蹟はつきもの、といわれます。

確かにそうです。

ところが、動物霊は、前にも述べたように、動物は所詮は動物であり、神理は説けないのです。

ヘビの獰猛(どうもう)さ、キッネのずる賢さを想像してみて下さい。

ヘビやキッネに人間が持ちえるような慈悲とか愛が分かるでしょうか。

まことしやかに人間をだましますが、元々、本能のままに生かされているものですから、こうしたものが、人間に憑くと、一時は、利益を与えても、ある時間が経つと、その本性を現わし、人間を食いものにしてしまいます。

熱心な信者ほど病気をしたり、家の中がうまくゆかなかったりするのも、そのためです。

一般的にいって、教団の教祖、熱心な信者の状態をよく観察することです。

動物霊が憑いている場合は、顔色が悪い、病気が絶えない、人を批難する、人をおどかす、自己本位、エリート意識が強い、比較の観念にとらわれる、我が強い、感情的、金銭欲、物欲が強い、暖かい愛がない、計算高い、無理をいう、などです。

また、教団によっては動物霊以外に、悪霊と化した阿修羅が憑く場合もあります。

この時は、戦闘的、排他的、一本調子、他を顧みないなどです。

けれども、日々のその人達の行動、言葉を観察すれば、おのずとはっきり認識されてまいります。

また、霊能者といわれ、いろいろなものを当てたり、予言をしますが、実際はこういうものも動物霊が背後に憑いている場合が多いのですが本人の自覚がありません。

動物霊は、人間の世界に非常に興味を持っていますから、憑依される者が説いた神理があいまいだったり、あるいは全然説けず、八卦に集中している場合は、全て、動物霊とみて差支えないであろう。

実際に霊能者と称して易、八卦を利用している有名な教団がある。

また、何々の神、何々の命(みこと)というようなことを喋るようならば、これは間違いなく動物霊であります。

神仏そのものは、人間の体に、乗り移ることはありません。

なぜなら、神仏は、法そのものであり、慈悲と愛だからです。

如来、菩薩といわれる方々は、そうした神仏の法を説くために、この地上に神の使者として生をうけたのであり、光の天使ではあっても、神仏ではありません。

この辺のことが、これまで混同されていたようです。こ

うした動物霊、阿修羅でも、奇蹟や病気治しをやるといわれますが、これと、神理に適った生活の随伴現象として起こってくる奇蹟とは、自とその内容を異にしております。

第一、その永続性、心身の安らぎという点で、まったく、異質であることを知っていただきたいと思います。

自然現象の循環も宇宙の神理

それではいったい、過去における釈迦の正しい教え、すなわち正法神理とはどういうものか、どういう内容を伴なったものかを述べてみましょう。

正法とは、読んで字の如く、正しい法、法則、自然の摂理、変わりない宇宙の循環をいうのであります。

変わりない宇宙の循環とは、太陽の周りを自転公転する地球そのものの変わりない運行。

そして、その運行の過程において発生する春夏秋冬の循環。

生と死の絶え問ない循環、これです。

こうした変わりない循環が続けられるということは、その循環を循環たらしめているところの意思、エネルギーがなければなりません。

この意思、意識、エネルギーこそ、大宇宙生命本体であります。

これこそが神仏の実体ではないだろうか。

そうして、その意識、エネルギーは、法則そのものであると同時に、慈悲と愛に満ち満ちたものであります。

もしも、この世に、太陽がないとすれば、私共は生きてゆけません。

太陽の熱と光のお蔭で生きて肉体生命を保てるのです。

万物を育む太陽そのものは、法則そのままに何万年、何千万年と熱光を放射しています。しかも、その太陽が、法則の通りに熱光を地上に与えてくれているから、万物は生きてゆかれます。

ですから、法則は、そのまま慈悲と愛でもあるわけです。

人間を称して、小宇宙といいます、なぜ、小宇宙かといえば、人間そのものは大宇宙とつながっており、大宇宙の縮図であるからです。

まず、人体についてみますと、人体は、約六十兆からの細胞から成り立っていることは医科学の証明するところであります。

そうして、心臓、肝臓などの諸器官は、それぞれ特有な細胞集団によって形成されています。

特有な細胞とは心臓が肝臓になったり、肝臓が心臓になることはできないためです。

宇宙に目を向けてみますと、地球は地球であり、火星は火星としての特質を持って、太陽系に依存しているのと同じです。

そうして、各諸器官が、よく調和統一されることによって、人間それ自身の生活を可能にしているのです。

ですから、各器官一つでも欠けたり、痛めば、人間の五体は、全体的に、その機能を弱めることになります。

しかも、人間の五体は、血液の万遍ない循環によって保たれています。

心臓から出された新しい血液は、体のすみずみまでゆきわたり、各諸器官を動かし、再び、心臓に還ってきます。そうして、また、大気中の酸素を取り込みながら心臓から排出されてゆきます。

太陽の周囲を、九つの惑星が、円を描きながら、廻っています。

これもまた循環の法則に従って廻っています。

そうしてその法則を続けることによって、各惑星そのものは、惑星としての役目を果たし、太陽系を形成しています。

太陽系を人体にみたてると、人体と太陽系は、実に、よく似ていることが分かります。

地球や火星の円運動が可能なのも、太陽があるからであり、太陽の熱、光がなければ、こうした円運動、生命の躍動は停正してしまうでありましょう。

人体各部の諸器官が、その機能を果たせるのも、変わりない心臓の働き、血液の循環によってあり、心臓が停止すれば、各諸器官も、その機能を停めてしまいます。

しかし、人間の心そのものは、宇宙の意識につながっていますから太陽系よりも大きく、大宇宙に広がっていることを忘れてはならないだろう。

いずれにしましても、太陽系にしろ、人体にしろ、その機能を調和させているものは何かといえば、大宇宙を支配しているところの意識、エネルギーであり、人間にあっては、生命エネルギーであります。

その生命エネルギーは、大宇宙意識に同通しており、神の子・仏の子といわれる所以も、ここからくるのであります。

そうして、その生命エネルギー、意識の中心が、心であり嘘のつけない、心であります。

その心が、人体各部を調和統一させ、五体を維持させています。

液の流れも、胃腸の働きも、全て、人間の意識、生命エネルギーである心が指令していることを忘れてはなりません。

ですから、人間が感情的になったり、怒ったり、悲観したりしますと、体のどこかに、支障をきたします。

胃腸などはとりわけ敏感ですから、その働きを弱めることになります。

病は気からとは、この辺の事情、人間の心のあり方を伝えたものでしょう。

特に、怒りの心は相手に向けると相手を傷つけるだけはなく、必ず自分自身をも傷つけることになるものです。

怒りは破壊のエネルギー以外のなにものでもない。

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孤独のもつ二面性

孤独

ひとりの時間

病気で先立たれた御主人の葬儀を済ませて一周忌が過ぎた頃、A子さん45歳は所用があって薄暗くなった街へ出かけていった。

まばゆいばかりのネオンで輝く商店街は、行き通う人々の幸せそうにみえる家族の姿をみてふと立ち止まった。

淋しさが心に溢れてくるのだった。

ハッと我に帰り、振り切るように買い物を済ませて駐車場の車にもどった。

車内は冷え切っていた。

A子さんの心にふたたび淋しさが込み上げてきて溢れる涙を抑えることができなかった。

押し殺した嗚咽とともにとめどなく流れる大粒の涙が膝を濡らす。

賑やかな光景であればある程、対象にある自分の心の空虚感がはっきりと実感できるのだった。

まさに孤独という言葉を発していないだけで、その孤独を思い知らされていると実感したであろうことは容易に察しがつく。

当たり前のことですが私たちは「ひとり」では生きられません。

たとえどれほど好きで深山渓谷にこもったとしても、完全な自給自足をしなければ一人で生きたことにはならないし、それは社会的でもない。

自分の身にまとう衣類、日用品、食料品、これらの全てを手作りというわけにはいきません。このことをみても人のお世話になっていることがわかります。

有形、無形、意識、無意識の支え合いのなかでその恩恵を享受しながら生かされているのが人間ではないだろうか。

その点についてはまさに、「人」という字が示すとおりです。

かといって、一人で居たい人が決して「協調性がない」ということではありません。

何故なら、自分の心のバランスを保てる自律性というものは「ひとりの時間」の中からこそ育まれていく能力だからです。

反対に、「群れ」て協調性だけに気配りをしているようでは、自律性が細く弱くなってしまうでしょうし、周りに気を配りしすぎることで、人の顔色をうかがいながら生きることになっては心を病むことになりかねません。

一方、すべてが順調であるとき、その人は「孤独」に気づくことがないかもしれない。

人間はどのような時に「孤独」ということを実感するのだろうか。

孤独には、それに近い、もしくはそれに含まれる概念が多数存在するようです。

例えば、

他人から強いられた場合において発生する「隔離」、これは犯罪によって刑務所に収監されたり、法定伝染病によって隔離病棟に入院することになったりした場合などに感じる孤独であるかもしれません。

社会的に周囲から避けられているのであれば「疎外」、これは子供たちの社会において発生する「意図的な無視」などによっても感じる感情としてみられるが、大人社会においても同じような事例は少なくない。

単に一人になっている状態であれば「孤立」、これは自分の意思で他を避けることによって一人になっているといえる。

一人でいて、それがただ寂しい(他人との交流を求めているのに、その欲求が満たされない状態)という場合もある。

他には、

他を寄せ付けず気高い様子は「孤高」、これは当人の主観はどうあれ、その優れた性質にも拠り、他が近づき難い状況を指す。気高いとは、高貴、気品、上品ともいえる。

このように、孤独の『孤』という字の持つ意味合いにも二面性があることがよくわかります。

もう少し詳細にひも解いてみましょう。

例えば、どこの家族にでもあることですが、愛する家族を失って感じる感情は、悲しみがあり、淋しさがあり、悔しさが残る場合もあるでしょう。

また、「辛さ」、「ひとりぼっち」、「社会から見捨てられた」という、関係性を断たれたところからくる感情としての「孤独」もあるだろう。

人それぞれに立場が違い、環境の違いによって孤独の感じ方も違ってくるもののようです。

病気をして不安感が募り、孤独を感じる人もいます。

人に無視をされて孤独に苛(さいな)まれている人もいます。

対人関係がうまくいかなくて孤独を感じている人もいます。

「孤独」というこの言葉からあなたはどのような事を想像されるでしょうか。

おそらく言葉の持つイメージはネガティブな要素が多いのだろうと思います。

これまで孤独とどう向き合ってきたのか、つき合ってきたのか。

♪積極的に友達をつくってきたから孤独ではない。

♪仕事が忙しくて孤独なんて考えたことがない。

♪孤独は年をとってから感じるものではないの?

♪いつもポジティブな考え方だから孤独の実感がない。

などと様々な声が聞こえてきます。そしていずれもなんとなくうなずける意見です。

しかし、孤独を味わうことで心の充足を感じることができるのも人間です。

例えば、人、物、情報の洪水から解き放たれ、ひとり山を散策して自然に身を委ねるときに味わえる時間、早朝に外の景色に視線を移しながらいただく一杯のお茶、こんな孤独は動によって疲れた心を開放できる最良の静寂であります。

しかし、あまりにも長い間ネガティブな時間を生きてくると、孤独を良いものとして受け入れられなくなるようだ。

孤独は心のバランスを取り戻す「ひとりの時間」

余白の時間に生まれること

ところで、現在の子どもたちはどうなのでしょうか?昨日は中学一年生の男の子が不登校だということでお母さんと一緒にみえた。

顔はうつむき目には覇気がなく、子供らしい元気がまったくみなかった。

しかし、一時間のカウンセリングを終えた後の彼の顔には赤みが差し、目には笑顔がみえた。

帰りには礼儀正しく挨拶をして帰った。「ありがとうございました。」と。私はたまらずその子を抱きしめてしまった。

「ゆとりの教育」「個性重視の教育」との指針が声高にいわれていますが、塾やお稽古通いに費やされる時間は減っているのでしょうか?

学力の低下も危惧されているようです。

よって、塾の存在意義はますます注目され、その経営手腕、受験の合格率などから公立学校でも塾教師を招いての研究会が開かれている時代です。

低学年から携帯電話を持たされ、忙しいスケジュールを子ども自ら切り盛りする環境のなか、「個性」といわれても、自分の意見を「わがまま」ではなくきちんと表現することすら難しいのではないだろうか?

たしかに子ども部屋にパソコンがあるのはめずらしくない時代です。

それをツールとして使いこなす限り、ITは画期的な利便性があります。

一見パソコンを使いこなしているように見える子どももいます。

ただその膨大な情報を自分の軸でスクリーニング(選別)し、それに踊らされずに使いこなしているかどうかはわかりません。

そのためには、何よりも「考える力」が必要だからです。

私が思うに、「考える力」とは知識、体験、智慧の三つの要素が、何もしない一見ぼんやりとした余白時間において相乗効果を発揮し、高められる能力ではないかと思います。

「ひとりの時間を持つことができない」

自分の時間を持てない、こういった背景には「社会的な関係をたちきった」

こういった否定的な「孤独」だけにからめとられていると考えている人たちからは生まれてこない力なのではないかと思うのです。

必要と無駄

言い換えるならば、静けさの中で生まれる聡明観、ひらめき、発想、インスピレーション、などは「無駄の効用」とも表現できます。

何もしないことが無駄なのであれば、睡眠が一番無駄といってよいかもしれません。

しかし、誰も睡眠を「必要」とは思っても、「無駄」とは理解していないでしょう。

孤独をネガティブなもの、不要なもの、と捉えるかどうか、これは一考の値があるでしょう。

このように必要も無駄も視点を変えることでその意味合いがまったく違ったものになったり、逆転する場合もあります。

その時は無駄な事だと思っていたことが、時が過ぎて環境が変わったり、条件が変わったり、自身の価値観がかわることで「あの無駄があったから今の自分がある」と受け止め方にも大きな変化が生じるものです。

思えば、団塊世代の私は、親にレールを敷いてもらったことがないだけに、中学の頃から自分で考え、夢を持ち、身を立てることを考えていたのでした。

勉強などまったくやる気がなく、生きることと、働くことを考えていたのです。

幼い頃の恵まれない逆境と試練が自分の自律性を育んでいたのでしょう。

小学生の当時は、劣悪な家庭環境と孤独に耐えきれず、布団の中で声を殺して泣いていた記憶は今でも映像となって心の中に残っています。

しかし、この孤独こそが私を人間にしてくれたと解しています。

(次回は10日の月曜日投稿を予定しております。またの訪問をお待ちしております。)

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霊能者の常套(じょうとう)手段・脅しの話術

数珠

世の中に霊能者といわれる人たちがどれほどの数存在するのかとなると、これはとても測り知れない数だと思われます。

先ず、霊能力といえどもその能力にも種類があり、得手不得手があり、一様ではなく高低もあります。霊能者イコール特別な人という偏見が一番危険な考えであることを申し上げておきたい。

そして、通常一般的には持ちえないとする霊能力を前面に押し出して対応すればするほど、人間としての正しい生き方をないがしろにして対応してしまう傾向にある。

結果、人生に大切な自立心を育てるアドバイスではなく、反対に依存心を植え付けてしまうことになるのは霊的能力に依存した心を持たせることになるだけである。

実際に霊能者といわれる人たちに関わることで良くなるどころか、逆に霊能中毒症になってしまう人たちが後を絶たないのである。

家族の離散にまで発展した事例もあります。

金品を貢ぎ、借金にあえいだ家族もあります。

最初は幸せ気分に浸っていても、やがてはどっぷりと首まで底なしの泥沼にはまり込んで抜き差しならない状態まで陥る人もいました。

霊能力は阿片である。

きょうは相談者からの内容を実例として掲載させていただきますが、読者の参考にしていただければと思います。

快く掲載を許可してくださった相談者には紙面を借りて、心から感謝を申し上げます。

ありがとうございます。

この掲載はあくまでも実例を載せることによって実態を知っていただくことでそれぞれの立場でお考えいただきたいという思いからであります。以下

観童様

初めまして。緒方絹子(仮名)と申します。

観童様のブログを拝見して、悩んでいた折、様々なことに気づかされました。突然ながらご相談を差し上げて、失礼をお許しください。

私は二人の娘の母親です。

ご相談というのが霊能者の先生のことです。

実家の親のうつ病で悩んでいた3年前より、(今は治りました)友人の紹介で老齢の女性の先生(電話で予約して相談、後から振込なのでお会いしたことはありません)にご相談をたびたびしていました。

私自身が手相やタロット、感も強いほうなので、何かあると何かのお知らせなのかと考えるようになってしまっていました。(子供の手相が急に変わったとか 、不吉な夢を見たとか、人間関係でうまくいかないなど)

それで、数か月に一回の割合で、相談をしていました。一度相談すると2、3か月はセッションの期間が続きます。

一回のセッションが5000円で30分くらい。相談内容の一件につき1万円で文章を作ってもらいます。

そして何回かセッションを重ねて神社のお祓いみたいな文章を歌ってもらいます。

3年で60万円くらいは使ったかと思うのですが、その間、家族は円満になり、先生のおかげもあるのかな、とそれほど依存しているつもりもなく喜んでいました。

でも内容として、私から相談した内容より、先生が過去生(いわゆる前世ですね)をチャネリングしてこれをしないと命に関わる、というようなことになったり。。。

初めは主人の命に関わることで、そうなったら大変だと、相当にセッションして歌ってもらったのが2年前でした。

金銭的にはそこまで負担ではなかったし、主人も反対はしなかったので、それで心配事が先生の力で先にわかって大難が小難に抑えられるならよかった、と、私よりかなり先生に信頼を置いている紹介してくれた友人と、喜んで報告し合っていました。

しかし、去年あたりから、次女の名前が〇〇というのですが(現在幼稚園の年中さんです)〇の漢字がものすごくこの娘には悪く、清めてもらいたいと魂が言っていて、〇の名前でいいが漢字を変えないと死や、黄泉の国(あの世)というメッセージがくるので事故にあったり死亡するかもしれない。

と言われ、当時、まだ4歳で本当に車にひかれそうになることや短絡的な行動の多い活発な娘なので、出かけると毎回迷子になるほどでしたので、気が進まないけど、変えたほうがいいかな、とも思ったのです。

緒方〇〇、という漢字での字画は生まれる前に調べて、吉、くらいのはずなのですが
(先生も字画が悪いわけではなくご自分がつながっている高次の世界からのメッセージでチャネリングしているらしいです)

先生がチャネリングをして〇〇ならいい。小学校に行く前に申請したら名前を変えれるかもしれないから、と言われました。

主人とも相談して、確かに男の子に間違われることが何回もあったし、 本人はま だ漢字は書けないので、〇〇で一年間使って、

何かあってから後悔したら、嫌だし、名前の漢字なんてどちらでもいい、という気持ちになりました。

可能性は低いけど家庭裁判所に申請して小学校に上がるタイミングで申請したらどうかな、と話して、〇〇という漢字をここ一年間改名して使用してきました。

しかし、ここにきて、だんだん私が先生のいうことに、従えないというか。。。

自分自身が譲れない気持ちがどんどん出てきたり、

先生は「ご自由に、とか、お気持ちが進まないなら無理に言ってるのではなく高次のメッセージを御伝えしているのでこちらがご遠慮しますしお名前も引き上げます」

と言われますが。
だんだん。。。
これって脅しているんじゃ。。って思い 始めて 、
これはもしかしたら霊能者に依存している状態になっていたのかな?って思いはじめました。

名前を変えないと命に関わる事故にあう、とか、
今年に入ってからも、海外旅行に行く前に夢を見て不吉だったと相談したら、キャンセルするかセッションを直前に5回くらいして、と言われ、

実際に飛行機の不都合(バードアタックで飛行場に戻り4時間足止め)や夢で見た通りの場所がでて、(血まみれのトイレで夢で私がでてきた)トラブルも多く、先生にしてもらって旅行に行かなければどうなっていたのかと、信じる気持ちもまだまだあったのです。

帰国後も霊が憑依したからとか写真もお土産もすべて捨ててくださいと言われました。

それで、色々悩んで、
も う、 「先生には感謝はあれど(子育てのいいアドバイスなどもいただいたし嫌いになったわけではありません)このセッションで金銭的にも大変になってきたのでやめます、というと」

「でもあなたが4か月後くらいに墓穴か?穴におちるというか事故か?命に関わるメッセージがでていますよ」、と言われ、「現実に起きてから考えます」というと、

「実際にあなたに起こらずお子さんが身代わりになるのも考えられますよ」と言われて。

相当に、なんだか気持ちが滅入ったのですが、勇気をもって現実に自分で対処していく覚悟を決めました。

もしその通りに事故にあったり命の危険があったとしても、誰もがいつかは死ぬのですし、より一層、人に優しくしたり、自分らしく生 きていきたいと思 うようになりました。

その後は連絡先も消して、主人とも、これまでのことは感謝して否定はしないで、今後は家族で力を合わせて現実を困難があれば乗り越えていこう。

死は誰でも必ずあるものだし大事なことは、先生に頼っていて自分で決めれない人になってはいけないんだ、という話をしました。

でも、悩んでいるのが子供の名前のことです。

従来の〇〇で、変えないつもりになってきましたが、本当に命に関わることがあったら・・・・・とも思ったり。

主人は不安があれば(僕はどっちでもいいけど)正式な字画の判定を鑑定士にしてもらい、(霊能者とかではなく)本人が字画 が悪くていやなら大人になって、その 時本人が変えたらいいんだし、

また、『長じるまでの間に、霊能者の先生の言うように怪我や事故や死につながるようになったとしても、僕も名前のせい、だなんて思わないようにするから』、と言います。

確かにそうですよね。
私が心が弱かったのと、ずるずると、実際に当たったりよくなったと解釈して頼っていたのだと思います。

ものすごく長いご相談内容になってしまいました。
ここまで読んでいただいて、恐縮な限りです。

見ず知らずの方とはいえ、観童さまのブログを読んで、目が覚める思いがしました。
迷いや、不安を少し断ち切っていただいた気がします。

ありがとうございました。

もし、よろしければ、何かご意見をいただければ、幸 いに存じます。
寒さまだまだ厳しき折、どうぞお体にはご自愛くださいませ。

緒方絹子

緒方絹子様(観童から返信)

お待たせいたしました。

お子さんを思うあなたのお心は親の愛そのものと思います。

この愛には何人たりとも敵わないでしょう。

先ずお話しを進める前に申し上げておきたいことは、一連の内容に対して私が客観的に何かを申し上げても一切利益することはないということ。

ですから正直に、真実をお伝えしたいだけであるということ。

そのことをご理解いただけるものとしてお話しをさせていただきます。

私は全国の方々からご相談を頂いても一円 たりとも金品をいただいたことはありませんし、そのつもりもありません。

それが何を意味するのかをご理解頂けれ ばと思います。

私は正直に本音で正しいお話しをしたいだけであり、「人生は自分の意思で全うできるものだということ」このことを一人でも多くの方々に気づいていただきたいが故にです。

しかし、お話しの内容から感じることは、とても都合のいいように乗せられましたねということです。

典型的な美味しい客の流れパターンであります。

さて本題に入りましょう。

人生に占いが必要なものでありましょうか。

占う習慣に染まるほど占いに没頭して夢を占い、小さな出来事で占い、大きな出来事を小さな災難にしようとまた占います。

人間はそんなに弱いものではありません。

人間の心を円相にして成 長すればするほど困難があっても不安感が小さくなり、全く不安感がなくなるところまで成長できるものです。

「転ばぬ先の杖」、ということで占いを拠り所にするほど冷静さを見失い、自分では判断できない、決断できないという弱い人間になってしまいます。

しかし、神は人間をそのようには創っておられないのです。

人間の心は、あらゆる創造ができる完全な魂としてこの地上に誕生しています。

次女のお名前が〇〇ちゃんということですが、何と素晴らしいお名前をつけてくださったことでしょう。

永遠の真理、未来永劫の真

これは神が創造された大宇宙の不変と不偏の真理であり、神理そのもののことを いうのですよ。

一切は偏りのない調和された法則をいうのです。

これほど素晴らしいお名前をいただいた〇〇ちゃんにあなた方ご両親がバランスのとれたお心で愛を示すなら立派な大人になります。

何故名前を変える必要があるのでしょうか。

災いがあるとすればそれはあなたの不安感という心の隙が現実化されただけのことであって、あなたのお心が一切の不安もなく、扇動されることなく調和されているならば災いなど起きようがないのです。

〇〇ちゃんにはあなた方ご両親の愛こそが全てなのですよ。

そして〇〇ちゃんには守護霊もおられるのです。

どうしてそのことを信じてやれず、他に依存するのでしょうか。

目先の現象や事象に一喜一憂して、霊能者の言うがままでは自分の心が育たないのです。

そして、そのような子育てでは本当に〇〇ちゃんの人生を暗いものにしてしまいかねません。

前世もセッションも要りません。

今のあなた方の生き方が全てであります。

これまでのような生き方は感心しません。

あなたのご相談とまったく同じようなご相談を頂いたことがあります。

死者が出ると言われて怯えていたそのご家族は10年後の現在も円満で微笑ましい家庭生活をされております。

「愚かで幼稚な生き方をしていました」これがそのご家族の今日の反省の弁です。

あなたに不安感があればそれだけ夢と なって現象化します。

この時点ですでにマインドコントロールされているといってよいでしょう。

このような現象は今後も続くことになります。

しかし、あなたが決心して自立するならそのような現象は無くなっていきます。

不安な夢が生活にも現象化することがなくなってきます。

すべてはあなたの心と生き方次第なのですよ。

旅行帰りに憑依といいますが、本当に憑依されたら自分では居られなくなります。

憑依した者の人格が心を支配し表面に出てしまうからです。

そのようになりましたか?

別人格になって言動がまるっきり変わってしまったならそれは憑依も考えられます。

もうこのようなことにお金を使うのはやめましょう。

お子さんが成長してくれば中学、高校、あるいは大学となれば大変なお金がかかります。

そういうことを考えたら愚かなことはしている暇がありませんでしょ。

どうぞ冷静にご自分の心を信じて生きてください。

観童

追伸

何か疑問点がありましたらお尋ねくださいませ。

身勝手な言い草で失礼いたしました。

観童さま

ご返信、心に刻んで読みました。
涙が出てきました。

ご指南いただきありがとうございました。

私たち夫婦は、娘の名前は先に決めて漢字を字画を探して決めたときに、国や時代が違えど、人の真心は永遠にいっしょであり、変わらない不偏の真理だと思って、そういった人間の芯、みたいなものを軸に持った人間に成長してほしいと思って名付けたものでした。

素晴らしいお名前、と言っていただいて嬉しく思いました。

霊能者の先生に言われたことが当たっていたがゆえに、さらにどんどんお悩みはありませんか?と言われるごとにセッションが長引いてどんどん退きにくくなって、さらに命に関わることが言われれば動揺して依存していました。

すべて、私の気持ちの弱さや不安感から来ていたと思います。

先生の指示 に従えない 、って思っても、「ではどうなってもご自由に。ご自分のご選択で。」と言われると、断りきれないでいました。

しかし、紹介してくれた友人のお子さんが、娘と同級生で、「この子は、〇つ〇ちゃん、というのですが、つ、が不運を呼ぶし、性格がきついから、〇ち〇に変えるように」と言われ、戸籍上でも漢字が一緒で呼び名を変えるのは簡単らしく手続をしたのでした。

でも最近、

「この女の子が2年後に白血病になる、結婚できるくらいまで長生きできない血筋、これが家系的業があり、業を清めるには800万円くらい医療団体に寄付する必要があるし、長生きしたくても家が建つくらいは徳を積まないとならない」

と言われ、名前を全く違うも のに変えればこの危険が減らせると言われ、もちろんご主人は激怒され(全く信じていません)夫婦仲が悪くなったのです。

それでも友人は先生から勧められた歌を書き清める修行を睡眠時間を削ってしていて、見ていても体調が悪そうです。(働いていてあまり裕福ではありませんが友人はもともと宗教に入っていたので何かに依存する気持ちがあると言っていました)

そういう友人の姿を見るにつけ、どうしても違和感をぬぐえなくなり、自分もこうだったのだ、霊能者の先生を恨む気持ちはないし、感謝こそあれど自分の人生や自分の生き方は自分で決めなくてはならない、今こそ、依存していたと自覚して、洗脳されていたなら離れなくては、と、決断したのでした。

そんな時にネ ットで色々探してて、観童さまのブログを拝見し霊能者に依存する、という内容が自分のことだと目が覚めました。

そして、霊的な世界や人の理を愛に満ちて、かつ、金銭は一切取らないで説かれている内容に感銘を受けました。

そうして、ブログを始められた、過去の記事までさかのぼってずっと読ませていただきました。

その結果、見ず知らずだけど、この方にメールしてご相談してみたい、と思った次第です。

災いがあるとすればそれはあなたの不安感という心の隙が現実化されただけのこと。。。と観童さまが、お書きいただいたように、私には漠然とした不安感がありました。

でもきっと、それは誰もがあるんだと思うのです。

それは、今が幸せだからこそ失い たくない気持ちだったんだと思います。

私は時に子育てに悩んだり、八つ当たりもしますが、本当に感謝するくらいの幸せな状態です。
なのになぜ、起きてもいない心配をわざわざ招いて悩むのか、自分でも冷静に考えると腹立たしいです。

「〇〇ちゃんにはあなた方ご両親の愛こそが全てなのですよ。そして〇〇ちゃんには守護霊もおられるのです。」と、観童さまがお書きくださいましたが、

本当に、そうだった。。と目からうろこでした。

子供は自分のものではないですよね、体は小さくても魂は高尚な子もいるんだと信じています。

娘には娘のお守り(守護霊)がいらっしゃるんですよね。

私自身、あまり感心されないかと思いますが、タロットカー ドや手相を習い、友人などにしてあげていました。
でもそれは、幸せになってほしくて、ツールとしてのもので、自分のことはほぼ占っていませんでした。

でも、夢は確かにほぼ見ないのですが、明け方にカラーのまるでそこにいるかのような具体的な夢を時折みたり、頭に映像や言葉が浮かぶ時があります。

そういう時にどうしても何?って不安に感じたりしてしまっていました。

でも、ある友人から(乳がんで母親を亡くされ、ご自分も乳がんになり若くして乳房をとって、その後は子供のために乳がん検診推進のNPO法人を立ち上げ頑張っています)

「私みたいに、死の淵に行くと、生かされてること自体が感謝だし、自分にできることを損得なく考えている 。ひとの命を誰かが長生きささせれるようにする、って無理だと思うよ。」

「占いやチャネリングはあくまでツールで考え方のひとつで、貴女が先生の言葉に振り回されて、摂理に反したこと言われて(友人は人の命に関する預言は軽々しく言うのは脅していておかしいと言いました)動揺しているのは、親としてそんなこと言われたら不安になるのはわかるけど、人生を無駄にして悩まなくていいことで悩んでいる。勇気をもって離れよう。前から心配していたんだよ。」

と私が先生から離れようと感じていたときに、相談したらアドバイスをもらいました。

その時には、自分では、振り回されてなんかいないけど。。とも思いましたが、

気づかなかった けど、マインドコントロールされていたんでしょうね。

私はそれでも、また、こういった先生が言うところの夢やお知らせが来ると、きっと何でかな?何か悪いことでも待ち構えているのか、と不安を抱くと思います。

それを抱えていくのが怖くもありました。

でも、観童さまから、

「しかし、あなたが決心して自立するならそのような現象は無くなっていきます。不安な夢が生活にも現象化することがなくなってきます。すべてはあなたの心と生き方次第なのですよ。」

と言われて、そうだな。。。私次第なんだって思いました。そう信じて生きたいと思います。

憑依と言うのは、娘が、旅 行から帰って、姉と取っ組み合いでけったり殴ったりの喧嘩をしたり、夜中に寝ないで鉛筆を削ったりして叱って、懲らしめの気持ちで玄関から出したんです。

ポーチの椅子で泣いてるだろう、5分もしたら入れようと思っていたら、裏の家から電話があり、娘は、出されてすぐさま、雨の中を、11時半に、庭を走って背よりも高い門を超えて、3軒裏手の親しくするおばさんのところにいきベルを鳴らして、ママが家に入れてくれない助けてと呼び出したので、仰天してしまいました。

まったくもって憑依です、と言われ、そうかと思ったのでしたが。。。

まさか庭の門を超えるとは思わず、本当に怪我がなくて、よかった、裏のおばさんが起きていてくださって助かった 、事故に合わすよかった。とひやっとしました。

でもこれも憑依かと言うと、よく考えると、もともとちょっとエキセントリックで頭が5歳児にしては、よく言動や理解度も高い娘なので、親が困るようにふるまった、とも言えます。

その後は外に出すのはやめて、本当に悪いときには正座をさせるようにしました。

(娘は自己主張が強く、屁理屈を言っては、刃向ってくるので、私も困る時があります。手をあげたりはしていません)

でも、本当に娘たちを愛していますし、宝物のようなかけがえのない存在で、自分が上手に子育てできない時に悩んだりします。

私自身の問題なのだと思いました。

観童さまの言うように、もうこのようなことにお金を使うのは、やめようと、改めて決意いたしました。

最初に相談した3年前の時のみが、実家の母親が自殺未遂をしたり家に灯油をまいたりして本当に心が弱ってどうしたら。。と

子供も小さく、藁にもすがりたい思いでした。

でも、そのあとは、自分が不安を煽(あお)られて、依存していたのだと思います。

愚かだったと自覚していますがまだ、騙されていたなどとは思えないのです。

でも、もう、そこはどうでもいいのです。

これからの人生はどんな困難があろうと、自分の決断で家族で力を合わせて乗り越えていく勇気と強さを持とうと夫婦で話し合いました。

(主人はもともと信じるというほどではなく、私が家族の幸せを思ってした いならそれでいい、と言っていました)

私のために、心に響く、励ましのお言葉をありがとうございました。

感謝します。

これからも、時々は、わけもなく、不安に苛まれるかと思いますが、まずはお返事を印刷して、心が不安になってまた霊能者の先生のことを思ったり頼りたくなったとしても、揺り戻しがないように、観童さまから頂いた文面を読み返したいと思います。

親として二人の子供を育てて、しっかり強く生きていきたいと思います。

これからも、観童さまのブログを拝見して勉強にさせていただきます。

決して、押し付けでないお言葉の中に、時に厳しく、時に優しく、

慈愛の心を感じることができました。

お手を煩わせてしまいまし たが、本当に。。。ありがとうございました。

緒方絹子

緒方絹子様

よくぞ決心してくださいました。

私が申すまでもなく、あなた自身が気づいておられた事だと思います。

これほど文章の表現力をお持ちのあなたはとても知性豊かな方だと思います。

しかし、これまでみてきた多くの事例に習うことは、どれほど知識が豊富であり知性に溢れていても、己自身の思考を客観的に観ることができないときに限って人の影響を受けやすく、扇動されやすいものであるということです。

私のハートスクール「心と身体の健康教室」に参 加している60代後半のお婆さんがいます。

この方は生家が貧しく中学を出ただけの方です。

このお婆さん、「自分は無学で何にもわかりません。」といっているのですが、参加者の中では一番優秀な方だと思っています。

何が優秀か というと「心のバランス感覚がちょうどいい」偏見を持たない、物事を客観視できている、足ることを知っている。

これです。

その方はいつも言います。

「苦労させてもらったから自分がここまで来れた。」

何と謙虚で前向きで、勇気ある生き方だろうと感動させられます。

経営する温泉が倒産して借金も相当な金額でしたが、羽振りの良かったその当時の生活よりも、親子で慎ましく暮らしている今のほうが幸せだというのです。

何がそう思わせたのでしょうか。

苦悩していた当時は、あっちの霊能者、こっちの寺院とすがっていても心休まらず、私の講座に参加するようになって物事の考え方が一変してしまったとのことです。

そしてどれほど経済的に豊かでも戦々恐々として暮らす人生 に疲れ切っていたと いいます。

このような場合、霊能者といわれる多くの人は、何々の神を勧請して祀りなさいとか、何代前の先祖が苦しんでいるから供養しなさいとか、その為にここで供養するしかないとか、金品に結びつくように誘導していきます。

字画が悪いだの、名前が悪いだの、家相が悪いだの、霊が憑依しているだの、人の恨みの念が災いしているだのと、形に見えないことを利用して、全てが金品に直結する口実を言って扇動していくのです。

一つや二つの当て事をすると、俄然とその霊能者、拝み屋、占い師、教祖に傾倒していきます。

人間は何故これほどまでに当てごとに弱いのでしょうか。

それは見えない先への不安感を当てごとによっ て示されるからです。

人間は自分にない能力を見せられるととても弱いのです。

しかし、私のブログにも書いてあるように、動物霊(蛇霊、狐霊)や邪悪な地獄霊(人霊)が関わっていてもその程度の当て事は簡単にできることなのです。

むしろそういった霊ほど当て事をして相談者の虚を突いて喜んでいるものなのです。

そうなると見えない、解らない人間は盲目同然ですから信じてしまいます。

もうあとは自由自在に操れることに霊能者は快感をおぼえてエスカレートしていきます。

天狗、増長慢、驕り、こういった邪心が霊能者という者の心を支配していきます。

「家系の業を清 めるのに8百万円のお金を寄付しなさい。」

これなど、当事者には失礼かと思いますが、余りにも滑稽な霊能者の話しに苦笑してしまいます。

どこから割り出した金額なのでしょうか。

幼稚極まりないお話しですね。

業というものは、自分たちの家庭生活を無視した寄付で家系の業が清められるほど簡単なものではありません。

地獄の沙汰も金次第とはこの世の都合だけであって、あの世では一切そのようなことは通用しないのです。

何故なら、あの世は心が全ての世界だからです。

人間は自らの精進、努力によって心が成長し、他人にも愛や、慈しみの心を尽くすことができるようになるのではないでしょうか。

そのような生きざまをあの世で見る先祖の御霊たちも感心もし、感化され、執着から離れていくことになるのです。

私たちがお手本を示すこと。

これが真の先祖供養であり、家系の悪因縁改善のために必要欠かざる生き方でしょう。

決して歌を書き清めることを睡眠時間を削って体調不良に至るまで行うことでもなく、または読経や霊能者のところで行うパフォーマンスで先祖供養になることはありません。

何故なら、自分自身の心が慈愛に満たされることがないからです。

本来の家庭生活がどのようにあるべきかを見失っているからです。

先ずは翻弄(ほんろう)されない生き方をすることでしょう。

あなたはとても素晴らしい友人に恵まれていますね。

友人はガンを超えてとても重要なことを悟られていると感じました。

その友人がおっしゃるように、人間には他人の生命を変える術はないのです。

もし、可能なことがあるとすれば『気づき』を促すことだけでしょう。

あとはご本人の気づきの深さによって人生観が変わり、生き方が変わってくるということではないでしょうか。

こういう生き方ができれば大難が小難になり、小難が福徳に転化していくのだろうと思います。

娘さんは感性が豊かで鋭い子ではないでしょうか。

ある意味、お母さんのあなたと共通するところをお持ちなのかもしれません。

もしそうだとすれば、人の心を敏感に感じ取る心を持ち合わせているのではと思います。

それだけに感情的になって接したり、親のエゴで接したりすると娘さんの心が乱れて不安定になりやすくなりかねません。

幼少期の親子愛は溺愛も困りますが、行き過ぎた厳しさも心に傷を残しかねません。

親が心を安定させるとその波長が見えないエネルギー波動となって子供の心に伝わり影響を与えます。

こうなると如何に親自身が心の安定を図ることが大切かお分かりだろうと思います。

古来、『親の因果が子に移り』といいます。

これは子供をみれば親の姿がわかるということでもあります。

このような人間の心に端を発する子孫の禍(わざわい)は嫌というほどみてきました。

子を責めてはいけません。自分が歩いてきた人生です。

親を愚弄してはいけません。自分が行く道です。

娘さんのような子ほど穏やかな愛情で接することが必要ですね。

躾や教育だけに偏重すると心が渇いてきます。

何も語らずとも、娘さんが甘えてきたら心からギュッとしてあげる。

いか がでしょうか。

追伸

今後もし、娘さんに異常行動がみられたときはご連絡いただければ遠隔で浄化をしてみたいと思います。

一例ですが、

過去にも4歳児を浄化して普通の子に戻った事例があります。

(幼稚園でもみんなの輪に入れず一人でうつむいて隅っこにいて、家では昼夜問わず夜泣き、昼泣き、怯えたように、狂ったように泣いていましたが、小児科でも何も発見されず異状なしでした。しかし、霊障でした。お爺さんが亡くなってからの事件でした。)

観童様

重ねて、心のこもった、お返事をいただき、感謝いたします。

明日は元より、これからもブログを拝見して、心の在り方を勉強させていただきたいと思っています。

べて、は無理ですが、観童さまのブログの過去の記事を読んでおります。

たくさんの気づきや、そうだったんだ、と腑に落ちる思いがする記事がたくさんあります。

霊的能力があるからと言って心が優れているとは言えない。

と、今まで霊能者の先生の霊的能力に(当たる、とか長年悩んでいた子供の癖が治るとか、主人の仕事の配置など)当て事が当たったり、願いが叶うと、信じる気持ちが強くなっていましたが、あなた様のおっしゃるように、

霊能力と心の持ち方は別だと気づきました。

ここを混同していたので傾倒してしまったのだと思います。

先生は上品なお話し方をされ良いアドバイスもくださいました。

でもそれが霊能力によるものであっても、友人のアドバイスのように、命に関わることを軽々しく予言したり、

言うとおりにしないとこうなる、と脅す内容を話されるのは(自分の意志ではなくメッセージですとは言いますが)やはり、私には承服できないものでした。

観童さまがおっしゃる、60代後半のお婆さんがのお話には納得がいきます。

若いころ、私はちょっとした学歴主義の偏見のある人間でした。

でも、社会に出て、様々な人に会って、

裕福でも心が貧しい、貧しくても人に恥じない生き方や志が高い人がいて、学歴が高くなくても有能に仕事をこなして人間関係も良好に気配りができる、

そういう方にたくさん出会って、心の在り方が、大事なんだな、

人に押し付けたり、学歴やお金のあるなしで、人を判断して自分より、上や下に位置付けるような生き方はしまいと、思っています。

足ることを知る

本当にこれが大事だと、つくづく思うのです。

そのおばあさんはたくさんの経験や人との 出会いから、大事なものがわかったんですね。

母はうつ病の時に、そうはいってももっと不幸な人がたくさんいる、といっても聞く耳を持たず、自分が世界で一番不幸な気持ちで痩せたり酒びたりになったり、自殺しようとしたり、頻繁に愚痴の電話をかけてきて切ると死ぬと脅したり、

全く周りを見ようとしませんでした。

自分のことを冷静に見るのは本当に難しいです。

まだまだ私にはできません。

見栄もあれば迷いも出てしまうし、未熟で自分が嫌になるときもが多いです。

私は、歴史が好きなので、歴史からもたくさん気づきをもらっています。

今はなんて幸せな時代で、その中でも自分は恵まれていて健康でありがたい。

感謝して暮らそう 、と毎日思うのです。

それでも、子育てでうまくいかなかったり自分の短気に嫌気がさすと、うまくいかず、何かに頼りたくなってしまいました。

しかし、観童様のおっしゃるように、娘は本当に感が強い子で、憑依というのも時々は、ありうるのでは?という状態になります。

私の心の持ち方で、長女と同じように次女に接してはいけないと常々思っていましたが、より穏やかに諭すように心がけたいと思いました。

のんびりしている長女(8歳、平和主義者。未熟児で生まれて大変だったが今では大変な努力家)はちょっと声を荒げて高圧的に叱るとわりということを聞くのでそういう躾をしてきました。

しかし、次女5歳は反抗心とプライドが高く、大声で言うと怒るし、自分の意見をまず聞けと言ったり、素直ではありません。

もちろん娘たちには誉めたり、スキンシップをして愛情を伝えていますが。。。

次女は、予見しなかったような、高いところによじ登ったり、憑りつかれた様に泣き叫んだり、危険な、突発的なことをすることもたびたび、あります。

そのくせ、頭はいいというか、物覚えや言語指示も高いレベルで知能は良いと思いますし、幼稚園での友達関係も良好です。

外見も、人様に言わせれば、アイドルのように可愛く、親も甘く育ててしまったのもあるかもしれません。

その、門を超えて行った時には狐か、動物霊がついたと先生には言われ、翌日には本人は何故そうしたか覚えてませんでした。

もしそのようなとき、が長く続いて、悩んだ折には、またお言葉に甘えて、観童さまに、ご相談をするやもしれません。

その折には、申し訳ありませんが、どうかよろしくお願いいたします。

おっしゃるように、次女は、人の心を敏感に感じ取る心を持ちあわせていると思います。

感情的になって接したり、私のストレスからぶつけるように当たると、てきめんに指摘されます。

ものすごく情緒も不安定になり、ママなんて大嫌い、と言って泣きます。

習い事のピアノとダンスも、姉の同年齢の時に比べてできないので厳しく言いましたが人には得手不得手があるのだし、この子なりの出来栄えでよいし、次女には違う方面での得意なこと(絵を描くとか文章とか)があるので、

ありのままで愛して受け止めようと、思い出したら気が楽になりました。
次女の態度も変わりました。

私が、子供の出来が悪いと、親と しての評価が下がるような気になっていたのも少しあったのだと思います。

こういった自分を顧みることなく、次女に厳しく追及していたことに気づいて、反省しています。

観童さまの言葉から、自分が子供を責めていたんだと思いました。

本当に、たくさんのご指南をいただいて、感謝でいっぱいです。

迷いが吹っ切れましたし、温かい気持ちになりました。

ありがとうございました。
ご縁に感謝いたします。

お会いしたこともない私に、大切なお時間をこれ以上割いていただくのも、もったいなく、ご返信は結構でございますので。

これからも、ご活躍を陰ながら応援して、ブログを楽しみに拝読させていただきたいと思います。

緒方絹子

総括

マインドコントロールされている人は自分がマインドコントロールされているとは思っていない。しかし、他者から見た場合、その様子が異常に思えることが多々あるものです。

私たちは、否、人間は自分のことがいちばん見えていないものです。一つや二つの当て事が的中すると盲目的に信じてしまう傾向にあるのも人間の弱さでもありましょう。

これは違う気がする、と思いながらも過去の的中があるために拒否することに不安を感じながらズルズルと断りきれず依存した生き方をしていくことになります。

こういったことは金額の問題ではなく、その内容、人の導き方の問題であろうと思うのです。

過去における偉大な聖者たちは、自立する人間の心を育てる指導はしましたが、誰一人として依存させる法は説いていないし、導いてはいない。

モーゼ、釈迦、イエスキリスト、近年ではインドのガンジー、ヘレンケラー、マザーテレサ、他、みな心の尊厳を説いている。

次回の投稿は臨時投稿として6日(木曜日)にアップを予定しております。

※きょうも最後までお読みくださいまして感謝もうしあげます。何かしら参考になることが有りましたら下のバナーをポチッとクリックして頂ければ幸いです。

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