偶然と必然
生命の神秘
医学の進歩とともに生物科学が解き明かす生命の謎、その巧妙なしくみに対する驚きと賛嘆を表すときに人間は生命の神秘という言葉を使うことがあります。
また人智の及ばない現象を目の当たりにし、自然界森羅万象に対する畏怖の念をもつときにも生命の神秘を感じることがあります。
自然界の神秘性は必然的な法則によるものといえるでしょう。
この自然界の法則のなかで存在する人間もまた必然と偶然が絡み合うなかで生かされているといるのではないだろうか。
例えば、人間が男女の愛情過程によって誕生する、という事実はごく自然の必然的法則といえます。
しかし、そのカップルが誰と誰が巡り合うかということは、運命的巡り合いという表現があるように、自然のなかでの偶然的な巡り合わせと捉える人が多いようだ。
更に、その数2億とも3億ともいわれる精子と卵子による受精は自然界の必然的法則ですが、約3億前後の数のなかでどの精子と卵子が受精するかということは、勢いのある精子ということだけではなく偶然による部分でもあるかもしれません。
実際に受精卵として生まれ変わることに成功した精子と卵子が、減数分裂(精子や卵などの生殖細胞ができるときに起きる細胞の分裂)の過程で遺伝子組換えを行う、ということは自然界の必然ですが、実際にどのような組換えが起るのかは、これまた偶然的法則といえるでしょう。
巷では運命的巡り会いだということが言われてみたり、人には運、不運が常につきまとう、といわれています。
道を歩いていて事故にあう、元気でいたいと思っても病気をする、あれが欲しい、こうもしたいと考えても必ずしもそうはなりません。
競馬、ギャンブルは、偶然の連続なので、面白さもあり、まるで人生をみているようだと断言する人もいます。
私自身は38年ほど前27歳のときに友人に誘われて初めてパチンノコ店にいったとき7000円勝ってビックリしたことがあり、また儲けようと思って欲をだして行ったら見事に負けてしまったことがあった。以来パチンコはしたことがない。
人によって運だとか、偶然を主張しながらも、これを信ずる人は少ないようです。
反対に、すべて必然と断言する人も皆無に近いようです。
人生は余りにも不確定な要素、つまり、認識出来る範囲が非常に小さいので、判断がつかない、というのが実際でしょう。
これまで何度も繰り返して言ってきましたが、私たちの意識量(物を認識する働き)は、普通で、その意識全体量の約10%しか働いていませんし、90%は潜在しています。
人によっては、覚醒状態(活動時)で働いている意識が7%か8%くらいでとまっている人もいるでしょう。
この意識が働きが多いほど潜在意識部分の働きが多いことを示します。
全体の意識を100として日常活動で働く意識が20%となると、ひらめき、つまりインスピレーションがよく働くということになり、予知などもおこるようになってきます。
さらにここで取り上げておきたい重要なことは、人にはそれぞれ過去世という魂の遍歴があるということ。
この魂の遍歴によって記録された想念と生活行為が私たちのなかにあります。
そのために、そういう記録された因縁にひかれ、その人の気質をつくり、性格に影響を与え、能力などを形作って行きます。
同じ両親の下で育った兄弟姉妹でありながら、楽天家もあれば内向性の者もいますし、拘りの強い子もいます。
これらは父母のそのときどきの精神状態なり、生活環境もありますが、実はこうした先天的な魂の遍歴に影響されている部分が相当に大きいものであります。
もっとも、後天的な生活環境にも人は大きく左右されますが、こうした先天的要素を外しては、偶然、必然の判断は簡単に下せないのです。
運命の予知とか透視というものは、わずか10%の表面意識量では計れません。
それ以上の意識量が働くことによって、計れるのです。
100%の内のどれほどの意識量が働くはその人の心の調和度にも比例することでもありますし、日頃から自分自身の心の内をチェックする習慣も忘れてはいけません。
睡眠状態での夢が現実になるなどは、その人の場合、眠っているときの方が潜在意識がより強く働きやすいことを示しています。
運命の予知が可能だということは、偶然の連続ではなく、物事が必然の方向に動いているということです。
ただ普通は日中活動のなかで予知することが不可能なために、偶然とか、運、不運で片付けてしまうのです。
行動の連続結果として起こる出来事、それを理論的に証明できないから偶然と解釈するか、否、起こるべくしての出来事だとして必然だと解釈するのかということではないだろうか。
現代科学は壁に突き当りながらも発展の途上にあるが、物質科学をもって偶然必然を測定しようとすると無理が出ます。
なんとなれば、人間は物質だけではなく、意識という心を所有し、その心の一部に記録された過去世の遍歴と、今世の想念と行為が因果をつくり出しているからです。
そういったことが日常の行動に見えない形で働き、一見偶然と思えるようなことであっても、実は、これまでの流れによって成されてきた必然である場合が少なくないのであります。
人生の中での幸不幸にあって、偶然とか運、不運を口にする前に、本来のキレイな心の自分に立ち帰り、今を正しく生きるよう努めることです。
運はそうしたなかから拓けてくるのです。
こうしてみると、偶然も、必然も自分の人生において為してきた事実のうえに起きる現象であることは容易に理解できる出来ると思います。
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