生き物の憑依霊・摂食障害

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摂食障害

『食行動の異常に基づく原因不明の難治性の疾患』と、医学的には説明されていますが、これではその内容がよくわからない。

一般的には、拒食症過食症などとして知られています。

おもに女性に多く、ひとつは思春期から青年期にかけて発症し、最近では結婚後、および出産後に発症して相談にみえる場合もしばしばみられるようになりました。

現代は女性にとってストレスの大きな時代といえるのでしょうが、いまや拒食症は女性のライフサイクルのあらゆる段階でみられる病気?となってきています。

男性でもまれに発症しますが、その男女比率はおよそ1対10~15といわれています。

◎あるきっかけ(ダイエットや受験、失恋、自信を失うような失敗、クラスメートの思いがけない一言、セクハラ)で拒食となり、痩せが異常進行して真の健康状態ではなくても食事をとる量が増えず、ますますやせが進行していくケース。

◎拒食状態にあった人がある時点から突然大量の食べ物をとるようになって過食症へ移行する2種類のタイプが知られています。

いずれにしてもその状態に陥った若い女性の多くは深刻に悩んでいるのですが、どうみても過食状態にあるのに深刻にならず、笑顔で大食いをしている中年以上の女性とのギャップをみるとき。

ここで問題なのは、『食べることをどう受け止めているか』というその人の心の状態にあるということです。

Complications1

過食に移行するケースでは、自分で意図的に吐き出す自己誘発性嘔吐や下剤などの薬物乱用を伴う場合があります。

やせていることが美しいとする文化的な背景のある地域に多くみられ、約95%が女性、それも思春期・青年期の女性に多い。

最近、低年齢化および高齢化しているといわれ、世界的にも大きな社会問題になっているようだ。

一般に慢性の経過をたどる場合が多く、症状は対人関係の問題や社会環境でのストレスに敏感に反応し、容易に再発することも知られています。

つまり心の状態にあることは明白であり、不安定、価値観、自身のエゴ、拘り、ストレス回避の延長で過食、拒食といった行動になっている。

多くの女性は心療内科や精神科に通院して服薬治療をしているという現状ですが、しかし、脳や自律神経に作用する薬はあっても人間の心に作用する薬は存在しない。

ここのところをよく理解してほしいのだが、脳や自律神経に作用した結果、緊張の中枢であるところの交感神経の働きを抑制してストレスから回避させようとしているにすぎないということ。

しかし、これで摂食障害からまったくと言ってよいほど卒業できていない。

何故なら、薬物依存によって本人の心が薬によって変わることがないからです。

米国の報告では、加齢という10年以上の経過で約60%が治る一方で、6~7%が死亡するといわれていますが、向精神薬の長期服用による副作用は確実に肉体機能を蝕んでいき急性心不全まで引き起こす事例もある。

日本における最近の報告でも同様の結果が報告されており、思春期・青年期女性の疾患としては最も重症な疾患のひとついえる。

何故なら、過食症、拒食症のその原点が自身の心のあり方にあるとは考えていない、あるいは受け止めていない人が実に多いからだ。

医療の現場でもそのことに着目せず、あるいは時間を設けて心の内面にアプローチするようなこともせず、薬物療法に頼って薬の販売に熱心である。

食べ物への感謝

摂食障害は、過食、嘔吐、拒食の連鎖、これが実情ですが、精神バランスを崩し、病んでいる人にとっては、食べ物に感謝するということの意味など考えもしないところでしょうし、それどころではないだろう。

まして自分が動物、植物、鉱物、あらゆる生命物質の恩恵によって生かされていることなど気づくはずもなく、美への偏った拘りが心を占めてさらに拒食、過食に拍車をかけていく。

しかし、これではいけない。

関連記事として一例ですが『愛・過食症からの卒業』稿投稿日:

過食症、拒食症で私のところにおいでになる相談者には、先ずは、その人の『心の癖』すなわち傾向性というものを省みて知っていただくような内容で会話をすすめていきます。

具体的に長所、短所は勿論、最も重要な、内なるエゴ(自我)の部分まで引きだし、心の癖を修正するべく努力をしていただくようにしている。

その詳細については割愛させていただきますが、ここで少し、摂食障害に関連することとして、私たちの命をつなぐ『食べ物に感謝する』ということを霊的な視点から触れてみたい。

「一寸の虫にも五分の魂」

小さく弱い者にも、それ相当の意地や根性があるのだから、どんな相手でも侮(あなど)ってはならない、馬鹿にしてはならない というように、動物、植物ほかの生物もまた、生きる権利を天より与えられ、種族保存の相互関係を成立させています。

地上生命の全てはこの相互関係のなかにあってはじめて成り立っていることも忘れてはならないでしょう。

一つの生命体は一つの生命体の犠牲の上に存在しているという法則は神が造られた摂理と秩序でもあります。

大切なことは、あらゆる生命体に対して感謝と報恩の心を忘れないことだと思うのです。

感謝は、心や言葉に表現することであるとすれば、報恩は行いとして表すことでしょう。

そうなると粗末にできないし、無駄にもできません。

虫は更に弱い昆虫を食べ、あるいは植物を食べて生命を維持していますし、モグラやネズミが食べるのは昆虫であったり、木の実であったりします。

小鳥たちもまた昆虫や小さな木の実を食べています。

そして猫やキツネ、フクロウはネズミを食べます。

野生動物の世界では一見残酷なようにも感じられますが弱肉強食が繰り返されて生命活動の循環がなされています。

草食動物ばかりが増えれば自然破壊につながりますが、肉食獣がいることで大自然の均衡が保たれています。

私たち人間は他の動物や植物を食べていきていますが、これは人類誕生と同時に古代からの食習慣です。

それぞれの生命活動を維持するために他の生命を頂く。

諸々の生物のエネルギーを吸収して、万物の霊長である人間は肉体を保存しているのです。

動物、植物、鉱物の子孫保存の本能を知っているにもかかわらず、私達は私達の血や肉や骨にしてしまっている。

人類の栄養にしてしまっているのである。

私達は、魚にしても動物にしても、感謝の心を持たずに殺生してしまうことが問題であろう。

そのため、彼らも生への執着のため成仏できずに人間に憑依する。

私達は、彼らへの、感謝と供養の心を忘れているのだ。

動物、植物、絋物のエネルギー源があるから私達の肉体保存ができている。

食事のときの感謝、私達のための犠牲者への冥福を祈るなどということは当然の行為なのである。

私達は彼らに対して、「あなた方が私達の血肉、骨の栄養となることによって私達は肉体が保存できます。心から感謝します。あなた方も生命の不滅を知り、成仏をして戴きたい」と日夜感謝の心を忘れてはならない。

偏った美意識に翻弄されて自分を見失い、決して太ってはいない若い女性が、太るのが嫌だといって拒食をするという未熟な心故の摂食障害。

ここには食べ物に感謝の心など存在しない

拒食も過食も共に、食べ物に対して真に感謝の心と報恩という行為があるならばこれほど精神を病まなくても済むのだろうと思えるのだがいかがだろうか。

同じように厳しい環境にありながらも特に問題がなく生活している人がいる一方で、肉体への拘り、人間関係でのストレスによって陥る摂食障害ではあるが、必ずしも他からの影響によって発症しているとばかりはいえず、自身の偏った思考、拘り過ぎる傾向が起因している場合がとても多いのである。

食べ物に感謝することの意味、その大切さの背景にある心の問題。

仏教において無益の殺生を禁じたのも、こうした心からであろう。

生きる権利を持っている他の生物を殺すのであるから、無駄のない食事のとり方をしなくてはいけない。

太陽の熱、光のエネルギー、動植物、鉱物のエネルギー源に対して、日常多くの人々は感謝の心を忘れているということを、反省しなくてはならない。

人間が常に足る心を持ち、感謝して生活することが、他の生物へのいたわり、慈悲深い共存共栄への道となる。

生命の不変を知った植物や小さな生物は、迷うことなく平和な世界へ帰って行く。

しかし感謝の心のない人間には、生物の霊がその意識に憑依していることも多い。

そんなことはないだろう、と疑問を持つ人も多いだろうが、これは事実である。

そして拒食症、過食症で相談にみえる若い女性の精神はバランスを崩しているだけではなく、霊的な背景も決してよろしくはない。

万物万象の相互作用があるから、私達の肉体保存はできるものであることを深く心に落して彼らの魂の存在を思い、人間は感謝の心と、報恩という行いのなかで生きるべきである。

そして、偏った美意識に翻弄されて自分を見失うことのないような生き方をしなければ過食症、拒食症というバランスを崩した心は改めることができないだろう。

今回は摂食障害の問題と生物霊の憑依について取り上げてみましたが、これは何も摂食障害に苦しむ人が、生物霊の憑依を受けているというのではないことを申し添えておきます。

ただ、摂食障害で相談にみえる方の場合、非常に心の波動が低く荒く不調和そのものであることは毎回実感する。

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過去世より重要な現世のlife

4次元

過去世

万象万物は、瞬時も停止することなく循環を続けている。

私達も神理に従って転生輪廻をくり返し、現在は地上界に生まれて、魂の向上願って生活をしているのである。

意識の世界、つまり見えないエネルギーを支配している神仏の世界というように、あの世も意識の調和度によって段階がある。

神体といえるこの地上の現象世界も、あの世を通して循環がくり返されている。

あの世とは前世、のことで、一般的な呼名である。

現代と同様に、過去の世において肉体を持った時代のことを、過去世という。

私達は去世、現世、来世と区分しているが、過去世に続いて前世から現世、来世というように、あの世とこの世を輪廻しては永遠に自分の魂を磨いている。

つまり私達の目的は、人類の心の調和、それによって神体であるところの地球の調和がなされ、地球の霊域オーラーがより浄化されるように努力することである。

反対に地上で争いごとが絶えなければその場は非常に粗雑な波動の霊域となって荒涼していく。

肉体的な生と死の循環を続ける私達の生命には、始まりもなく終わりもないのが実相である。

私達の意識は、心の調和の度合いによって、こうした過去世の経験を追憶することもできるのである。

これは決して夢物語りではない。

人間の一生は、日本人の平均寿命からいえば四捨五入して男性が80歳、女性が86歳と公表されております。

しかし、肉体をもっての一生はそうであっても、実際の生命活動はそんなに短いものではありません。

科学的ではない、非現実的だといって信じない方もおられるだろうが、少なくてもこのブログを訪問してくださっている方々は否定はしないのではないでしょうか。

実は、私たちの生命は、何億、何十億年の年輪を重ね、現在、ここに在るのです。

ただ、何億、何十億年の過去世は、潜在意識の中に沈み、容易に表面意識には出てこないのですが、これはこれでそうでなければならない意味があってのこと。

自分の過去世が大富豪の主で膨大な富と権力と名誉の栄華を極めていたことがリアルにわかったら、いま自分が置かれている、貧しく苦学している姿、環境に愕然として余りの環境の違いに不満をもったり、疑問に悩みやる気を見失ってしまわないだろうか。

反対に、過去世では貧困のなかで懸命に働く自分であったことを知った人が、今世で億万長者となり、欲しいものを自由に手に入れることができたなら、自分の心に驕りや傲慢な心がでてしまわないだろうか。

また、過去世において、人を欺いて陥れたり、詐欺を働いていたが故にその罪の重さに打ちのめされ、遂には更生することができずに荒んだ人生のままに終わった人間が、今世においては、自分自身の業ゆえに何度もチャンスがありながら他人によっていつも蹴落とされながらも必死になって頑張っているという試練にあるとしたらどうだろうか。

このような自分の過去を知ることによって『どうせ俺は罪人よ』と、今世で成さなければならない業の修正を断念するとしたら、これもまた知らなくてよい過去世を知ってどれほどの価値があるといえるだろう。

人はそれぞれにこうした過去をもって、今ここに生きているのですが、そうした長い年輪と、その短かい肉体生命としてのこの世の一生とは、比べものにならない開きがあるのです。

実は、過去世を知ることはそれほど重要でもなく、また必要なことでもありません。

現実の生活、生き方を全うせずに過去世のことに云々することは、緊急オペが必要な患者さんが手術台に乗っているのに、医学書を開いてどこが悪いのか調べてみましょうかと言っているようなものです。

私たちがいま為すべきことは、過去に拘ることでもなく、しかし、先(未来)のことを思い煩って苦悩することでもありません。

まして、自分の過去世を知ることでもありません。

自分の過去世は、自分がこの世の生命活動を終えてあの世に還ればわかることであります。

この人生を終っても地上生活が終わっただけのことであり、あの世にいけばまたあの世で別次元での肉体(光子霊体)生活が始まります。

調和した生活によって、やがて時期が来て心の扉が開かれたときに、霊道が自然に開花し、自分の過去世を知って、悪い業(カルマ)を修正することは、自身の向上になるであろうが、しかし、本来は自分の過去世を知るようにはなっていない。

仮に、過去世を知るようになっていたとしても、何故それができないかとなると、心が完全調和されていないが故に霊道の扉が開かれないということであり、そういった専門的な修業を過去世においても行っていないということがあるからだ。

ですから、私たちの過去世がどんな人であろうが、今生は今生であり、大切なことであることを忘れてはならないでしょう。

そして過去世以上に、今の世での人生の方が遥かに重要であるということを忘れてはならない。

前世の霊視とか、前世療法、などという言葉も知られてはきましたが、しかし、いきなり『あなたの前世は、高貴な士族の姫であり・・・・・・云々』と実しやかに断じて切り出すやり方は相当に危険要素を含んでいる可能性も高く気を付けなくてはならない。

そのことによって、その人が心の向上を図ることができたかどうかとなると、何らの進歩もなく、ただ一方的に前世占いをしてお金を使ったというだけの話しでしかない。

最近は、資格商法によって得た資格を以って行う療法が増えてきましたが、大切なことは、はじめにきちんとクライアントの話を聴き、状況把握をする姿勢が流れとして行われているかどうかであって、セラピストが説教じみていたり、自分の価値観を押し付けるのは論外です。

さて、きょうは過去世と現世に関することを述べていきます。

向上

向上とは、正しい心の在り方に適った想念と行為が、今生においてより心を進化し、物質経済や目先の諸現象に惑わされない人間となることかと思います。

たとえ過去世が立派な人であっても、現世で肉体を持っている人間がその価値を見いだせないで、自我我欲や目先の諸現象に惑わされていたなら、低俗になるばかりではなく、心の向上などできないだろう。

私たちが神仏の子たる自覚を持って生活しているかいないかによって、今生におけるその人の価値は大きく異なってくる。

そして、仏教的な表現として使われる如来や菩薩といわれるような、どれほど崇高な魂の人間でも、一旦この世に肉体を持ってしまうと、普通の人間として修行していくのです。

そのため、環境や教育にも影響され、経済的な苦しみや人生の悩みにもぶつかって人生に対する疑問を持ち始める。

かつてお釈迦様といわれたゴーダマシッダルタ、イエスキリストをみてもわかうように、この世での間違いを犯すことを回避するために、僧侶や学者にはあまり生まれてこない。

釈迦牟尼仏は武家の王子として生まれ疑問のなかで出家をされましたし、イエスキリストも宗教家の家には生まれていない。

魂のステージが高い天使ほど自分に疑問の出る環境、修行できる場を選定しているのである。

ゴータマもイエスもモーゼも、僧侶や学者ではないことを私達は良く知っている。

末法の時代になると、真実の理に手が施されてしまう。

その中の小さな枠に絞られてしまうことを恐れるから偉大な光の天使でさえ改めて苦楽を経験する場に出る。

そして偉大な光の天使(如来、菩薩)たちはこの世を去るまでに一応は悟って帰る。

しかし偉大な光の天使たちの場合、ただ悟って帰るのみでは使命は果たされたことにはならない。

死の近くで悟ったのでは遅すぎるのだ。

五体が健全なうちに、自らも神理であるところの宇宙の法則と心の真理を悟り、調和のある人生を、他の人々にも教えなければならないのである。

古来より今までも、何人かの如来や菩薩が現世に出た。

しかし人生の苦難に逢着し、使命を果たさず、環境に甘えて生涯を送ってしまう人もいたであろう。

日本にも、昔から神理を説く使命を持って生まれてきた光の天使が多くいる。

五世紀(西暦4001~500年)の聖徳太子、小野妹子もそうである。

日出ずる国に神理を伝える使命を持って、天上界あの世から肉体を持って出、小野妹子は聖徳太子の命によって隋(ずい・中国王朝)の国へ留学し、仏教の偉大さに触れ、帰国して日本国民の心に信仰の道を教えた。

八世紀には伝教大師や弘法大師も出生し、伝来した仏教の中より自己の使命を悟り、中国へ留学し、仏教の真理を、さらに奥義を学び、帰国後仏法を日本に広めたのである。

伝教(最澄)は、天台山(中国三大霊山のひとつ)において、法華経を学び、その当時の御題目は、ほう れん げん さん がん じゅ「法 范 華 僧 伽 呪」と唱え、声の波動に乗って心の調和を計ったとされている。

とは、宇宙の神理、悟られた方の教えであり、蓮華とは心を表現しているのであり、僧迦とは、法に学び実践している者をいう。

私達の人生を渡って行く肉体は、眼を見れば眼ヤニ、耳を見れば耳糞、鼻を見れば鼻糞、歯を見れば歯糞、皮膚を見れば臭い汗、口からは痰、大小便の排泄、というようにこの肉体から綺麗なものは何一つとして出てこない。

このように汚い、泥沼のような肉体舟であっても、泥池に蓮の花が咲くように、私達の肉体を支配している意識(魂)の中心の心が宇宙の法を悟って生活し、その法を順守したならば、宇宙の法との心と私達の心は調和され、真の安らぎが生じて天国の境涯に達する。

というように、私の心の師は、私のような仏教を全く知らない人間に対しても解るように教えてくださっている。

この法蓮華僧伽呪の御題目は、伝教が日本流に改め、妙法蓮華経と訳したようで、地水火風空の大自然と、私達との関係、色心不二の法を、天台教学の一環として比叡山を中心に弟子達に教えたようである。

伝教大師の過去世が、中国の隋(ずい)の時代に漸江省(せっこうしょう)の天台山を開かれた、天台智頭(ちぎ)という僧侶であったことを、我が心の師は教えておられる。

これは、日本の伝教大師という僧侶が、過去世においては中国の天台山を開かれた天台智顗という魂のステージが如来界の僧侶であったということであります。

このように、光の天使は使命をもってこの地上世界に、国境を越えて出生し、法を説き残しているということがわかります。

そして、伝教大師(最澄)は後に現在の滋賀県大津市坂本本町に比叡山を開かれた。

「天台智顗の仏法は、諸宗の明教なり」と道を求める人々に教えたようです。

天台が中国に出た当時も、仏教が学問仏教に変わっていたことを非常に悲しんで、自ら仏教の精神は行ないが伴わなくてはならないと思い、天台山に居を構え、心と行の実践をされたそうである。

このような考えは、伝教大師の菩提心の表れとして「わがために、仏を作るなかれ。我がために、経を写すなかれ。わが志を述べよ」と、遺言された言葉にうかがいしることができる。

伝教大師は、「神理を説く人こそ国の宝である」といわれ、また遺言でもこういったそうである。

「未来の仏が、この世に出られるまで、法灯を絶やすべからず」しかし、その後の弟子達が、寺を守るという名目で作られた僧兵については、どれほど残念に思っていることであろうか、それは伝教大師に聞くしかない。

我が心の師の守護霊がいわれた言葉、

「いつの時代においても歴史的な物的証拠というものが優先されがちであるが、それはあまり大事なことではない。

なぜなら、神理に関してあまり過去のものにこだわりを持つと、つい智と意が先に出て、自己を失いやすくする。

自分を失っては、神理を悟ることはできない」

たしかに、過去の史実にとらわれ、文献をたよりにしていると学問的探求に片よってしまい、心という自己の個性か失われて行く場合がある。

学問知識、すなわち智に過ぎては、ものの本質を見失ってしまうということであろう。

自然科学の分野においては文献も非常に参考になっているが、神理に対する問題は、その時代の心ない権力者によって、歪められてしまうことが多いこともまた事実であろう。

仏教も各国を経て伝来しているだけに、その国々の従来の思想がまじりこんでいる。

そのため、仏教にしてもキリスト教にしても、原典にもどるとことが非常に困難なのである。

神理は、大自然の法則であるから、年代の新旧などにはかかわりがない。

古いも新しいもない、不変のものである。

誰の心の中にも、厳然として、神仏の子としての神理は記録されているのである。

ただ、偏った見方、すなわち偏見によって事の真実を見失っているだけである。

いわゆる煩悩という心のスモッグのことだ。

神理は自分自身の心の中にあり、自己の心に正しく忠実に生活をし、常に中道によって我欲を捨てた生活を続けて行けば、誰でも、神仏の子としての価値を自覚せざるを得ない。

弘法大師、空海というお方は菩薩界の魂で心眼を持っており、病人に憑く憑依霊が良く分かったために、加持祈檮をなされたようです。

親鸞もまた菩薩界の魂を以って下生した人間であり、当時の戦乱の世では『南無阿弥陀仏と唱うれば罪びとも救われる』と説くことによって無学文盲の民百姓や民衆に仏法を広めるしか手段がなかったのであろう。

本来、神理は変わるものではないが、説く人の智と意によって変えられる場合は多い。

しかし、変化した神理とは、「本来の力」を失うものであり、人間の心は、自己保存の観念によって神性仏性を見失って行くものであるだろう。

厳密にいうと、『南無阿弥陀仏』と、他力本願のみで一切仏に任せてしまう、という考え方は、己を失ってしまい本来の人間の内に輝ける価値を発見することはできない。

自力努力の中にこそ、神理があることを知るべきである。

しかしその当時、戦乱の時代の人々を救うには、このような方法でなければ、死の世界を信ずることも死の恐怖を脱することもできなかったものと思う。

このように、光の天使が肉体を持って出てきても、その生存のうちに己を知るということはとても困難なことだったのである。

菩薩界の魂といえども、肉体を持つと、このように自身も過去世が分からなくなってしまう。

たとえ上段階光の指導霊でも地上に降りれば悟ることはむずかしいのである。

それだけにこの地上界はリスクも大きいだけに、修行場としての大きな価値が同時存在するといえるであろう。

使命を果たすということは、聖人になることでもなければ生き神さまになることでもない。

人々の心を心とした、人間の本来自然の道へ導くための努力、これが必要なのである。

迷える人々に与える修行の糧、それは愛であり、慈悲であって、太陽が万象万物に、熱、光のエネルギーを平等に与えることと同一なのである。

そして神は、決してその代価を求めることはない。

陰徳、この行為こそ真実のそれなのである。

あの世、すなわち4次元以上の世界へ帰ってから、ああもすれば良かった、こうもすれば良かった、と思っても過ぎた時間は何人たりとも取り戻す術がない。

私のように勉強嫌いだった学生は論外であるが、学問にしてもそうです。

欲が出てきてから、「ああ、子供のときにもう少しやっとけば」などと考えても手遅れである。

人間というものは、毎日の生活がいかに大切であるかは知っているのだが、ついおろそかにしてすごす人が多い。

菩薩界、如来界の魂の人間であっても、この地上での肉体生命が終わってあの世に帰るとき、多くは必ずもっと多くの人を救ってくれば良かったと残念がると心の師に学んだ。

なぜなら、肉体を去った私達は、地上界にいたときと全く同じ意識の状態で、光子霊体という体を持っている。

だから人間生活の過去か、その当時の一切の想念と行為が明白に現われる。

そして犯した罪は自分で償わなくてはならない掟があるから残念がる。

自らを裁くのである。

幽界の入口でそれをやる。

神仏は裁くことはしないのだ。

しかしそれは神仏の子としてむしろ当然であろう。

人間の価値を忘れて不調和な人生を送っている人々は、心に安らぎがなく、暗い想念に覆われている。

この現象界を去るときも、同じ暗い想念の世界に落ちて行く。

心を浄化するまではその地獄界で暮らすしかない。

これも、自分自身で作っていた世界であって、責任転嫁はできない。

転嫁すれば苦悩は重くなるばかりである。

だから幸福を掴む近道は、過去世で犯した業をしっかりと確認して、過誤のない人生を送ることである。

そのためには、常に反省する心を持って、自分の悪しき性格に打ち克つことが必要である。

反省の冥想は、心を浄化する。

そして、自身の心が調和されることによって内なる心は目覚め、神仏の光によって覆われてくる。

そのときは生もなく死もない、生命の輪廻転生を悟ることができる。

私達は、ただ肉体という現象面を考えているため、それが無に帰するとすべてが無と考えがちだ。

しかし肉体の支配者、魂は、この世とあの世の環境に適した衣の脱ぎ着替えをするにすぎない。

そのことを悟ったならば、生命の不変を疑うことはできないであろう。

今日のあなたは、来世のにおいては過去世となって地上に降りた魂の兄弟の背後から守護する使命を担うだろう。

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人生案内『女児出産祝儀ない義父母』

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記念日という行事、国が制定したものから個人の記念日まで数えたらどれだけの記念日があるのだろうか。

そして祝い事を数えたら相当な数になりそうです。

結婚記念日、出産祝い、子どもの日、父の日、母の日、敬老の日、バレンタイン、ホワイトデー、快気祝い、七五三詣り、変わったところでは、求婚の日、愛妻家の日というのもある。

今朝は、読売新聞に興味深い内容の記事がありましたので、今回はその記事を抜粋転載させていただきました。文字を赤く色づけした部分はこの内容のキーワードと思えるからです。以下

女児出産祝儀ない義父母

娘を出産した30代の主婦。

長男を産んだ時には夫の両親からお祝いをもらったのに、今回は何もありません

どうして何もくれないのだろうと思って、ずっと心がスッキリしません

女の子の孫は初めてで、喜んでくれてはいます

夫はお祝いなどに無関心で、何とも思っていないみたいです。

でも、私は一生に1度のお祝いだし、考えれば考えるほど腹立たしくなります

こどもの日に夫の実家に行った時も、何のプレゼン卜もありませんでした

物がほしいわけではないのですが、私の両親はいつもお祝い事をしてくれるので。

子どもたちになんと説明すればいいかわかりません。

かわいいと思ってくれているなら、何かしてくれてもいいんじゃないのかなと思うのです。

夫の両親を嫌いになりたくありませんが、心にひっかかっています。(福岡・W子)

回答者「心療内科医・梅原純子」

国には国の、地方にはその地方のルールやしきたりがあります。

それと同様にそれぞれの家にはその家のしきたりがあります。

あなたが育った家庭は、お祝いに品物やおもちゃを贈るのがルールで、贈らないと非常識に感じるのかもしれません。

しかし、すべての家庭があなたの家と同じルールを持つわけではありません。

夫がお祝い事に無関心ということからも、夫の家では別のやり方があるのではないでしょうか。

お子さんの誕生を喜んでくれている、とあなた自身も感じているのですから、お祝いの品を愛情や喜びの目安ととらえない方がよいのではないでしょうか。

子や孫をもてなす準備を含め、夫の両親が家に来るすべての孫に毎回プレゼントをしていたら、経済的にも精神的にも負担だと思います。

あなたのご両親との違いをお子さんに説明できないとおっしゃいますが、「人はそれぞれでみな異なる」「違う方法で愛情や気持ちを伝える」ことを教えるいいチャンスです。

義理のご両親にしてもらうことと同時に、ご両親にしてあげられることや、ものをプレゼントする以外に気持ちを伝える方法についても考える機会のように思えます。ここまで。

私(観童)の感想

生活習慣、教育、躾(しつけ)、家庭環境や社会環境からくる価値観の相違というものはときに人間関係にまで影響を与えて影を落とす場合もあります。

そして物やお金に拘る心が強くなるほど影の部分が大きくなってくるようですが、しかし、悩み拘る当の本人は、自分の考えや習慣が常識的なことだと思っていたり、それが社会通念だと思っている場合があるためにそのギャップに問題が発生してくる。

ちなみに私自身は儀礼的なプレゼントということには殆ど関心がなく、他に対してそういったプレゼントということをしたことがゼロではないが記憶があまりない人間です。

それでも関わる人たちとの人間関係に支障をきたしたと思えるようなケースは見当たりませんし、今でもすこぶるいい関係でお付き合いをいただいていることに感謝しているものです。

上記相談者に対して心療内科の梅原純子医師がお答えしている『祝いの品を愛情や喜びの目安ととらえない方がよいのではないでしょうか。』という言葉に、プレゼントという物やお金に偏った価値観に対する適切な忠告のように私は感じました。

ブログを訪問してくださったあなたはどのような感想をお持ちになられたでしょうか。

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広大で永遠なる心

禅定

宗教との関わり

書店に行くと、随分と宗教に関する著書や雑誌、冠婚葬祭などについての書籍が豊富なスペースを確保して並べられています。

どうしてこれだけ需要があるのだろうか。

理由の一つには、私のような団塊世代の人間がまじかに感じ始めた『死』に対する準備が必要だと思い始めたところがあるのでは思います。

ちょうど年齢的には自分の親や配偶者の親を見送り、友人などの葬式の回数が増えてくることで、何かしら自分も先のことを意識し始める。

内心では自分はまだ時間があるよ、と思いながらも自分の最後の迎え方などを考えたり葬式の仕方などを調べたりするようになってくる。

そうして死の意味を真剣に考えるようになってくると、宗教的なことにも関心を持つようになってくるのは自然ではないだろうか。

常に戦後の社会を大きく背負って変えてきた団塊の世代は、出生率最大の人口をもって戦後日本を支え、宗教の分野においても大きな要となってきたのです。

きょうは日常生活における日頃のものの見方を離れて、私達は、地球という環境に何の目的で何をしに生まれてきたのだろうか、ということについて話してみたいと思います。

そして、我々が現在持っている肉体や、その肉体を支配している主(あるじ)である霊というものについて、これらを、永い歴史の中で我々の生活に密着している宗教問題などとの関連においても考えてみましょう。

さて、国が違えばその信仰のスタイルや内容も異なりますが、私達は、神様、仏様といいますと、ほとんどが神社や仏閣に祀られているところの神様、仏様だと誰しもが思っているところがあります。

これは日本の文化でもあり伝統の部分でもありますが、しかし、このことと真実とは別次元のことであります。

私達は、一番大事な自分自身の心の中に存在している不変的な本性、すなわち霊性を理解することなく、神様は何か遠くの方にいるんじゃないか、あそこの神社にご利益のある神様がいるんじゃないかと、多くの人々は錯覚を起こしています。

そうして、本当の神様というのは、人の囗を通して『我は〇〇の龍神じゃ、我は〇〇稲荷大明神なるぞ、心して聴くがよい』などと、神のお告げだというのがそうだろうか、また現象的に相談者や信者に龍の姿や、菩薩の姿を見せる者が神だろうかと思ったりします。

ところが本当の神というのは、そんなちっぽけな人間によって創作されるようなものではありません。

私の地域から車で40分程いったところに某稲荷神社があります。

その地域の人たちだけではなく近隣の地域からも参拝客があるようで、私も一度その境内に足を運んでみたが、二度と足を踏み入れたくないところであった。

その数年後その神社の宮司が自宅二階から飛び降りて自殺したと風の便りに訃報を聞いたのだが、事の経緯や真相は知る由もない。ただ亡くなる数年前からノイローゼ状態であったと聞いた。

社風というものはその会社のトップや役員たちの高い志によってその意識が末端まで行き届き、立派に社会に貢献できるような会社でいられるものだろうと思うのです。

それは宗教の世界においても何ら異なるものではないと思うのですが、神社や仏閣においても、その代表者の思いが崇高なものであればその境内は清涼とした空気が流れているものであります。

私事ですが、自分は、物事を知識から身につけるタイプではなく、実践で学ぶタイプだと思っています。

したがって、納得できて深く心に落ちるまでは非常に時間もかかり、気づきの遅い人間でありますが、これまでの人生のなかで探し求めていたという存在が、外にあるのではなく、自分自身の心の中にあったのだということをようやく気付いたのです。

その実証として、神社や仏閣へ行きますと、我々が今まで神と思って祈っていて祀られているそこの神と称するその実態は、必ずしも信じてよいようなものではなく、むしろ非常に危険なものであるということがわかってきました。

本来の神とは、この大自然、大宇宙そのものの意識が神なのであります。

そして、この大自然というものは万生万物の生命の根元です。

更に、この大自然そのものの法則の中に、私たち自身が人生において成すべき道が存在しているのです。

私達は、神様として祀られているところや、仏様が祀られている前へ行くと祝詞を上げたり、お経を上げます。

このお経を奉唱することが信仰の対象のような錯覚を起こしておりますが、とんでもない間違いです。

お経というものは皆さんもご存じのように仏教においては、今から二千五百有余年前にゴータマ・仏陀釈迦牟尼仏といわれる方が、人間はこのように生きなさい。

このような苦しみがあるときは心の持ち方をこういうふうにしなさいと、誰にでもわかる人々の言葉で説かれたものでしょう。

そして、心でこのように思い、語り、さらに、その道はこういうものだと、片寄らない中道というものを説いたものを後世の人々が書き記したものがお経なのであります。

しかし、後世の人たちが書き記し哲学化された難解なお経は、チベットを超えて更に難しくなり、中国から日本へ渡ってきて、そのお経の意味さえ理解することができなくなりました。

我々は、時代の流れと共に、いつの間にかお経を、先祖の仏壇の前や、お寺の仏像の前で上げるようになってしまいました。

そして、それに矛盾を感じてこなかったわけです。

あまりにも永い歴史の中で、先祖はそういう習慣の中にいたからなのです。

しかし、お経の中身をよく見ると、人間はこのように生きなければいけない。

こういう苦しみを持っている時は、ここにその原因かあるのだ。

こういう原因を除かない限り苦しみはまたくるのだ。

というように人間としての心と行ないの道を説いてあるのです。

信仰をもっていながらも、私のところに来た悩める相談者には、朝晩のお経はやめなさい。もっと先に行うべきことがあるはずですとお話しするのですが、お経が無くなれば何だか寂しいという人がいるのです。

自分自身が真に意味のわからないお経をいくら上げても、発声練習にはなろうけれども、これは貴重な時間を無駄にしているだけなのです。

要は、お経の真意は唱えることにあるのではなく、その真意をよく理解して生活のなかで行動に活かすことで心の調和を図ろうということにあるのです。

実践のない唱和をするくらいならもっと心を打つような歌でも歌った方がましです。

私たちの肉体という物質は全く大自然のままに作られています。

この地上界を、天の意思が魂の修行場として作り、我々は先祖代々を経て今、肉体があります。

多くの人は、この肉体は自分のものだと錯覚を起こしています。

私たちの今持っている肉体も実は私たちのものではありません。

「そんなバカなことがあるはずはない、実際にこの体が温かいし、冷たさを感じるし、現につねれば痛いじゃないか」と誰もが思うでしょうが、それは違うのです。

今の私たちの肉体はあくまでもこの世の人生を閉じるまでの借り物です。

肉体は永遠ではありません。変化をしやがては朽ち果てるものです。

永遠のものは私たちの魂であり、その中心に在るところの心そのものです。

心というものにもちゃんと形があります。

心なんて形はないと思っていました。またそう言われてもおります。

ところが心の目で見ると一人ひとりに形があるということがわかります。

確かに昔から、心は三角だ四角だなんていってません。

心は丸くといっています。

その通りです。それも生まれてきた時の子供の心というのは非常に丸く澄んでいて豊かです。

その心が年を取ると共に家庭環境や教育や生活習慣、思想、思考が片寄り、歪みを作り、そうして公害と同じように心にいっぱいスモッグを作り出しています。

こうなってきますと、そういう人の傍にいるとその心の荒い波動が突き刺さるように伝わってきますからよくわかります。

人間の心はとても精妙にできていて、私たちの思ったことや行なっていたことが間違っていた場合に、スモッグになるのです。

そのスモッグになった量だけ心に歪みやストレスを生じ、その量だけ実は苦しみを持つようにできております。

つまり、苦悩というお荷物を持ってしまうのです。

人間は苦しむと人のせいにします。

しかし、同時に苦しんでいるのは自分自身だということをしっかりと自覚しなくてはなりません。

精神的にも肉体的にも苦しんでいるのは他人ではなく、自分自身であるということ。

ここが大切です。自身を省みてその原因を追求することなく人のせいにして、この人がこうしたから、あの人がああしたからといいます。

精神的に追い詰められている状態にある人の場合は特にそういう傾向になりがちです。

現に苦しんで精神的にイライラしているのは自分であるにもかかわらず、僕が小さい時に、お母さんが僕にこうしたから、お父さんがこう教えたから、こういうことをしたから、ああいうことをしたからと、友達のせいにしたり、両親のせいにしたり、社内においては同僚のせいにしたり、部下のせいにしたり、上司のせいにしたりします。

しかし、今、苫しんでいるのは自分自身だということを忘れているのです。

そうすると、自分の力ではどうにもできない、何とかしてその苦しみをなくそうとして見えない世界の力を借りようとします。

そこで神様が登場してくるわけです。

その神様を自分の目や耳で体で確かめることもできないで盲信してしまう、狂信してしまう、更に、病気に関しては、医者に匙を投げられ、薬も駄目で、ついついそういう神秘的なことをいう人の言いなりになって間違った依存世界に入ってしまうのです。

そして、我々は、神”と名乗るものの実体さえわからぬままに信じてしまうのです。

実は神と名乗る者ほど危険なものはありません。

それが、たまに病気が治ったり、出来事を当てたりするものだから、却って人間の心の本質を見失わせてしまい深みにハマって抜き差しならぬ状態にまで自分を見失うわけです。

心の光

善我と偽我

人間の心の世界は、この大宇宙と同じように無限に広いのです。

それゆえに、私たちの思ったことは、次元の違ったそれに比例した世界にも自由自在に通じていきます。

人間の想念は時空を超えて瞬時に相手にも、場所にも届きますし、現象となって顕われるものであります。

ところが、その思うということに関しては自由であるがゆえに心に法律がありません。

こういうことを思えばこう苦しむのですよ、こういうことを思えばいい結果が出るのですよ、といような働きはあるのですが、しかし、この思うということについては全くの制約がありません。

私たちの社会生活に立法があるようには、心の世界には立法がないのです。

ここに問題が起こるわけです。

精神的疾患者の根本的原因は、自分の思っているところの歪み、正しい基準を失った生活行為、この中から出てくるのです。

それは、全てが偽りの我です。

偽りの我について述べておきましょう。

我々の心の中には偽我善我というものがあります。

どんな状態でも、人間は自分に絶対に嘘のつけないところの善我があります。良心といってもよいでしょう。

この善我こそが本当の神の子の証なのです。

これは次元の低い地獄に落ちても同じであって、地獄の霊達も必ず心の奥底には善我を持っているのです。

ところが、彼らは自分さえよければいいという自己保存の固りなるがゆえに、地上の生活よりもちょっと厳しい地獄の世界で暮らさざるを得ないのです。

ですから、人間には誰にも善我なる心があるのです。

しかし、人間の心の中には、あたかも自分が犠牲になって損することであるかのように錯覚を起こしやすく、また、競争意識が過ぎて相手を蹴落としてまで自分が優位に立とうと考えたり、虚栄心ゆえに見栄を張って無理な身の丈以上のお金の使い方をすこともあります。

心に感謝以って働く者とその義務を怠る者

心調和して行動する者と傍観する者

何事も謙虚な姿勢で学ぶ者と享楽に耽る者

執着せずに今日に生きる者と明日を楽しむ者

自分を律して生きる者と人を他人を責める者

他に愛深き者と他に愛を求める者

いつも和合を旨とする者と争いの種を蒔く者

心貧しき子を愛せない親

謙虚な者と自分を高く見せようとする者

責任を果たす者と依頼心の強い者

足ることを知る者と欲深いこと限りなき者……。

善我偽我の心のいずれの働きも私たちの心の内に存在する。

宇宙大自然界とその意思は、決して人間を不平等には扱ってはいない。

がしかし、人間は己の偽我によってのみ不平等や不公平をつくり、差別をつくりだしている。

自らの心に思うことや行なうことにおいての調和度がその人をつくり、偏りのない正しい者達の心には、光明が射し、安らぎに包まれるのである。

ちょうど、青天の太陽の光が、万物万生の成育のエネルギーへと変わるように、人間の心のエネルギーもさまざまのものを育てる。

その成長は有限ではなく無限であり、広大無辺で永遠である。

次回は6月18日(木曜日)人生案内『出産祝儀ない義父母』を投稿予定です。

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禍を転じて福となす

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社員同士の確執がある一方で、上司によるパワハラ、セクハラ、といった相談を聞くにつけ何とも悲しくもあり、寂しい気持ちにもなります。

また家庭内の夫婦間の諸問題、兄弟姉妹の確執、ぎくしゃくした親子関係、職場における諸々のストレスに対する受け止め方の相違、育児の疲れにイライラする若いママの苦しみ。

心の葛藤のなかには、相手に変わることを望んでいる気持ちが大きく自分の心を占めている場合があります。

人間はなぜこうまで自己中心的になるのであろうか。

素直な心ということの重さは、私自身が最も大切にしている言葉であり心がけでもあります。

様々な危機に直面したときにこそ素直な心になれなければその危機ははとても困難なものとなるばかりではなく、乗り越えることができなくなってしまうことも多い。

人間の素直な心の偉大さは、危機、困難、試練というこれらの苦境を逆にチャンスとして受けとめることができようになるし、むしろ禍を転じて福となすこともできるようになるものです。

お互いがそれぞれの立場だけで物を考え、発言をし、事を為し、あるいは仕事をすすめてゆくことは、また人生の歩みの上においても、ときに非常な困難、危機ともいうべき局面にぶつかる可能性を大きくすることになっていくでしょう。

そして、このような難局に直面した場合、人によってはそれに負けてしまい、ゆきづまってしまうような姿もあるのでしょうが、その反対に、それらの難局を一つのチャンスと捉え、非常な努力を注いで取り組んだ結果、ものの見事にその難局を乗り越えるばかりではなく、むしろよりよき発展を遂げた、心も成長した、というような姿もあるのではないだろうか。

後者のような人間の生き方は、いわゆる″禍を転じて福となす”といった姿として大いに称賛されるに値する行為といえると思うのです。

しかし、こういうことは、社会の関わり合いのなかでお互いが素直な心になればこそ事がうまく、スムーズに運び、この後者のような姿を実際にあらわすこともできるようになるのでしょう。

すなわち、すなおな心の効用の一つとして、禍が転じて福となったというこではないでしょうか。

それでは何故、素直な心になれば禍を福にすることができるのだろうか。

これについては、いろいろな見方、考え方ができると思いますが、たとえば次のようなことも考えられるのではないかと思います。

すなわち、いま仮に世の中が不況だからという理由でお客さんが減ってしまった接骨院やカイロプラクティックや、整体院があったとします。

これらの治療院としては、いわば商売上の危機を迎えたわけです。

私の近くでも閉鎖した店舗が数店あります。

しかし、これらの院のオーナーやスタッフに素直な心が働いていたならば、お客が少なくなったからといって、少しも慌てないだろうと思うのです。

というのは、素直な心の院であれば、「この不況は自分の力を存分に発揮できるチャンスだ」、「自分の本当の勉強ができるときだ」というように受け止めるだろうと思うからです。

したがって、その整体院や接骨院、カイロプラクティックのオーナーやスタッフは、従来の自分たちの商売のやり方とか考え方を、私心なく、第三者の立場に立ってみつめ、考え直すはずです。

今までのやり方を徹底的に反省してみるわけです。

食べ物のお店であれば、これまでの昧かげんはどうだったか、素材の味を殺していないか、お客さんに接する態度はどうだったか、食堂も院の経営も同じでしょう。

来院者のニーズに応えきれているのか、通り一遍の作業になっていないか、その患者さんのそれぞれの状況をしっかり見極めているかどうか、といったことを素直に真剣に考え直してみることでしょう。

食べ物のお店も場合によっては、お客さんに加減をたずねてみる。

そして、一杯一杯の食事を、心をこめてつくり、新しい工夫も加えてお客さんにさし上げる。それで、従来よりも一段と昧もよくなってくる。

こういった姿になれば、お客さんも十分に満足されて、「同じ食べるなら、あの店へ行こうか」といったことにもなるのではないでしょうか。

私の故郷にとても美味しいラーメンと餃子のお店があります。

今は年に一度のお盆にしか立ち寄れないが、そのお店のラーメンと餃子を食べて40年になる。

味が変わらずに40年は素晴らしいことです。スープを飲み干しても後で喉が渇くということがなかった。

しかし最近、スープを全部飲み干すことができなくなった。

味噌ラーメンのお味噌が変わったことと、マスターがお店に出る機会が減ったこともあるのでしょうが、お味噌の量と味が濃くてこれまでのようにダシのきいた美味しいスープを全部飲みたくても残してしまう。

マスターにこのことを伝えて帰りたかったがあいにく不在だった。

私の整体院では、ほぐしの強弱は勿論だが、来院者が望むポイントに正しく手が行っているか、必要なポイントを捉え切れているかどうかを確認するように指導している。

勿論、それぞれの患者さんが抱えている疑問に的確に答えられるような指導もしてあります。

どれほど医学的な知識を並べて説明しても、施術を受けた患者さんが結果を実感できなければ再び来院したいという気持ちにはならないと思うのです。

接客態度も院長の思いやりや志、そしてスタッフの個人個人の思いの状態が言葉一つにも表れてくるものだと思います。

お客さへ負担にもならず、押し付けでもなく、必要なところはちゃんと受け答えするという、ちょうどいい按配の接し方、つまり接客がでればと願っています。

そうなると、人から人への口伝えによって評判も高まり、自然にお客さんもふえてくることにもなるでしょう。

このようにして、その整体院なり、食べ物のお店なり、会社なり、みんなが素直な心で対処してゆくならば、不況に際してもゆきづまることなく、かえってお客がふえて繁盛してきた、というような姿を生み出すこともできるようになるわけです。

2007年のサブプライム住宅ローン危機問題に端を発したリーマンショックという米国バブル崩壊を動機に、借金の転売による多重債務があり、多分野の資産価格の暴落が起こって世界的に経済が疲弊したことがあった。

このときも景気が低迷してそのあおりを受けて倒産する企業も続出したり、個人経営の多分野の店舗が閉店していったことを記憶している。

私の経営する整体院も来院者が減るのかなと一抹の不安がなかったわけではないが、しかし、こういう時こそしっかりと患者様の声に耳を傾けていかなければと心を引き締めたものでしたが、おかげさまで来院者が減ることもなく逆に増えていく一方でした。

現状に甘んじてこれで良しとする考えほど衰退を招く危険要素はないというのが私の心の根底にある。

もちろん、こうした姿は業界を問わず、どういう商売、仕事でも、またその他いろいろな場合にあてはまることではないかと思います。

つまり、何事によらず、困難に直面して志を失わず、よりよき道を素直に私心なく考えつづけていくならば、そこによき知恵も集まってきて、いままで考えもつかなかった画期的なより良い道が拓けてくるということも考えられるでしょう。

人間の過去の歴史をふり返ってみても、戦争とか天災とか、そういう事あるごと、困難、混乱に出あうたびごとに、お互い人間の知恵、才覚が新たに生まれ、それによって人類の文化が一層すすんできた、という面もあるわけです。

しかしまた、現在も隣国同士で領有権争いを意図的に行っている感心できない戦いもあります。
そういうことを考えてみると、やはり、お互いが素直な心になったならば、″禍を転じて福となす”ということもできるようになってくると思うのです。

こうした点も、素直な心というものの真によって、得難い効用の一つではないかと思います。

そして、こういう効用のあることを思うにつけ、一人でも多くの人々が素直で謙虚な心を培って、いかなる困難に際しても動ぜず、勇気をもってとり組み、そしてそれをよりよい方向へ転じ、進めていって、つねによりよき共同生活を実現し保持してゆくということが、きわめて大切ではないかと痛感するのです。

孔子が「子曰く、君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」と言いましたが、君子は誰とでも調和するものだが、道理や信念を忘れてまで人に合わせるようなことは決してしないということの意味であろうかと思います。

これもた根底には人間としての私心を離れた『素直な心』というものがあってのことではないだろうか。

次回は6月16日(月曜日)『永遠なる心』投稿予定

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憑依は何故おこるのか

短気

譫妄(せんもう)

前立腺結石によって痛みがひどく、手術をすることになった84歳の男性Sさんが入院して順調に手術を終えた。

しかし、麻酔から覚めて数時間するとソワソワ、座ったり、横になったり落ち着きなく、変な事を言い出し、言動がおかしいと病院から家族に電話がはいった。

『手術を終えたあとに様子がおかしくなる患者さんが時々おられます。しばらく様子をみますが、どうしても手に負えない時は深夜でもお電話してよろしいでしょうか。その時は病院まできていただいて看てやっていただきたいです。』という看護師長さんからの電話で医学的には譫妄(せんもう)ということだった。

息子さんが会社の帰宅途中とのことで急きょそのまま病院へ向かうことになった。

この話しの経緯を連絡受けた私は直感した。憑依ではないかと。

以前、連れあいお婆さんを整体のために車で乗せてきていて、顔を知っている方なので、すぐにこの患者さんのSさん84歳を遠隔で浄化することにした。

浄化すること数分、私の皮膚全身に悪感が走って鳥肌が立ち邪気が伝わってくるが、間もなく落ち着いた。

病院についた息子さんから家族へ連絡が入った。『親父は普通にしていたよ。』と。

その夜は休む前にもう一度Sさん84歳と病院全体も浄化してから休んだ。

翌日の朝にお爺さんの様子が落ち着いていると連絡をいただいた。

病院は身体を病んでいる人が行くところであり、入院するところでもありますが、総合病院の場合は息を引き取る方も相当におられることになります。そして霊安室もあります。

外来の患者さんや入院患者さんたちは身体だけではなく、病をすることによって精神も落ち込み不安定になり、なかには心疾患にまで陥っている場合も少なくないでしょう。

日頃、心の状態が非常に不調和な人の場合は病気をすることによって更に心が不安定になりやすく、そこに体力の低下が重なると非常に霊的な波動の悪影響を受けやすいものであるということ。

そのような意味で、このSさん84歳は一時的な憑依をされたのであった。

その理由はご本人の心の不調和に原因がある。元々このSさん84歳は、不満と、怒りと、傲慢さを顕わにする心の傾向性(癖)があった。

心の隙間、そこに未浄化な霊たちの波長が合い憑依を受けたのである。

ここで霊的な視点だけではなく、譫妄(せんもう)について医学的な説明も加えておきます。

譫妄とは、軽度の意識混濁を背景に活発な錯覚や幻覚などの症状を示す最も代表的な意識変容の形のこと。

外界は夢のように変容し、周囲の人や物は鬼や怪物などに錯覚され、さらに恐怖の場面の情景的な幻覚が次々に不連続的に現れる。

患者は幻想的な世界に巻き込まれているため、幻覚や錯覚に左右され、ときにはその人の職業にかかわるしぐさをすることがあり、これを作業譫妄(職業譫妄)という。

うじ虫のような小動物がうごめきながら体にいっぱいたかってくるような幻覚が起こったり、蛇や奇獣の幻覚をみるばあいもある。

いずれにしてもあまりいい情景が症状として出ることは少ないのだが、当然と言えば当然かもしれない。

これは患者自身の心が日頃いかに不調和であったということの証左でもある。

さて、憑依についてもう少し触れて説明してみましょう。

人間の(意識)が動物霊や地獄霊に憑依されると、ひとりよがり、無口、多弁、嘘つき、深酒、怒りっぱい、愚癩っぱい、自閉的性格などの現象が顕著になってくる場合があります。

憑依がさらに進行すると、精神分裂状態にもなりますし、通常の社会生活ができないような状態にまで陥ってしまう場合がある。

こうなると自分の心(意識)が他界者に完全に占領され、就眠することができなくなってしまいます。

ノイローゼ状態の場合は憑依によるものがあることも否定できない事実であります。

なぜこのような憑依現象というものが起こるのかと言うと、その本人の物の見方、考え方が非常に片寄っており、欲望や執着、拘りが強いがために、心のバランスを崩してしまっているために起こるのです。

同じような心を持っている動物霊や非常にエゴに満ちた人霊が、「類は友を呼ぶ」ということわざのように寄ってくるというわけです。

つまり、波長共鳴の原理によってつながるということです。

現代では、「動物霊、地獄霊に憑依されて」という言葉を使いますが、以前は「たたる」とか「とりつかれて」という言葉を使われていました。

このような言葉は、いかにもこちらの方は何も悪いことはしていないのに、一方的に向こうの方から悪いことを仕掛けてくるという意昧にとれますが、決してそうではなく、今までの説明のように、こちらに原因があったということです。

例えば、生前の思念と行為ゆえに、ある人が地獄の世界に堕ちたとします。

その人は文字通り苦界にあえぎます。すると苦しさ、厳しさのあまりに助けを求めます。これは全くこの世に生きる人間の様子と同じです。

ものを頼む場合、聞いてくれそうな人に頼むでしょう。

「類は類をもって集まる」というたとえの通りに、これが「憑依」というものなのです。

憑依と邪気(マイナスエネルギー)を被ることとは異なります。

邪気を被ることは、未成仏な霊や、人ごみの中や、特定のスポット、あるいは特定の個人がそばにいることによって、その不調和な霊気に触れて一時的に身体の不調を感じることを意味します。これは自己浄化の方法さえ覚えれば解決することであります。

一方、憑依は四六時中続いているかというと、通常は憑いたり離れたりします。

心が片寄った想念に支配されると憑依し、そうでない時は離れます。

飲酒すると人が変わって酒癖が悪くなったりするが、ふだんは真面目人間という人がよくいます。これも憑依によるところが大です。アルコールによって表面意識が潜在し、逆に潜在意識が表面化することで憑依を受けやすくなるのである。

もちろんご本人の日頃の心に不調和な部分が潜在しているから起こることである。

しかし、憑依の時間が長くなるにしたがって、そして長期化することによってその性格が変わってゆき、心身ともに病気がちになってきます。

精神的な疾患は、その憑依時間が長時間、長期間になるほどに深刻な状態になっていく。

欲望が強く偏ってしまうと動物霊が、感情が激しく動くと自縛霊や地縛霊が、知識や知能におぼれ増長慢になるとまた動物霊、地獄霊が、意志が強すぎ頑固になってくると自縛霊、地獄霊が憑くようになってくる。

しかし、これらはひとつの傾向性であって、内容によって憑依も多様化してきます。

憑依から己の意識を守るには正道に適った想念と行為が必要です。

一時的に憑依を取り除いても肉体を持っている本人が心改める想念と言動をしていかない限りは決して憑依はなくなることがない。

何度も申し上げるように、憑依は、向こうが勝手に寄ってくるのではなく、自分が呼び込み、自分がつくり出しているのです。

つまリアンバランスな精神状態がつくっているのです。

ですから、明るく調和された心を持つ人は、たとえどのような地獄霊、動物霊がいても恐れることはないのです。

いかなる悪霊といえども心の調和された人の心に憑くことはできないのだということを知ることです。

バランスを崩し、片寄った思いがあるから彼らは集まるのです。霊と地上人間は常に紙一重の関係にあり、裏と表があって一枚だということを理解していただきたいものです。

もし、自分か憑依されていることがわかっても、決して恐れてはいけません。

自分でもおかしいと思ったならば、自分の心を常に平静に保つように『八つの正しい生活規範』に適った生活を送るように心がけることです。

そうすると向こうの波動と合わなくなってきますから、憑依現象も自然と解消されてきます。

また、執着に固まった心をほぐすには、肉体的な程よい運動も効果があります。

なぜなら、「心身一如、色心不二」と言われるように、心と肉体は切っても切り離せない関係ですから、肉体が正常な働きをすると、心も自ら正常になっていくからです。

ところが、少しおかしいと言っては、お払いや祈祷をしてもらって解決しようとする人がいますが、自分からつくり出してしまった原因は、だれもそれを取り払うことはできないのです。

たとえ一時的に除霊しても根本的な解決にはならないことを申し上げておきます。

自ら蒔いた種は自ら刈り取らなければならない。

これは心の法則であり、摂理です。

憑依されている人を救うには

問題点その第一、これまで、祈祷師や霊能者によって除霊とか浄霊ということが行われてきましたし、現在でも行われております。

そのような方法で除霊してもらうと、当初はよい結果が出たように見える場合がありますが、そのうちに、以前よりもっと悪くなったという結果も間々あります。

このような事例は相談者のなかにもありました。

なぜかと言いますと、祈祷師や霊能者による除霊の問題点は、まず第一に、神理や心の法則、憑依の問題をどれあけ正しく理解しているかという点にあります。

心の法則を知らないために、その人の心と生き方を正しく導くことができず、または後回しになりがちであり、偏った心の修正ができないことは、相談者の霊的な能力に対して依存心だけが増幅してしまい、結果的に他力本願になり、問題を深刻化させてしまいます。

そして第二点は、憑依の根本的な原因を取り去らないために本人の心と行いが変わっていないので、しばらくしたらまた別の憑依霊が憑いてしまうことの問題です。

これは痛みを止めるために鎮痛剤を使用するものの一時的に痛みは止まりますが、鎮痛剤が切れると、また痛みが始まるのに似ています。

そういった痛みを訴えてくる患者さんは実に多いのですが、鎮痛剤の服用を極力最小限度に減薬してもらって施術をしていくと回復の速度が随分と違って早まります。

鎮痛剤の功罪といいましょうか、効用とリスクはハッキリしています。

痛みを抑える、殺すことは痛みから一時解放されるという点においては効果的であり有効な部分であります。

しかし、痛みが抑えられたことによって根本的な痛みの原因を追究することもなく、また原因を悪化させることにもなっていきます。このことは24年間の施術の経験と結果からいえる実例をいっているものです。

現代では、鎮痛剤の効用やリスクについては医学的にも説明されております。

話しを本題に戻しましょう。

第三点は、地獄の世界は弱肉強食の世界で、強い者が弱い者を制するがごとく、どうしたらいいものかと、あっちこっちと迷える人々の弱い憑依霊を祈祷師や霊能者に憑依している強い憑依霊が追い払うために、一時憑依が取れたように見えますが、今度は、祈祷師や霊能者の憑依霊の子分や配下がその人に憑くために、もっとひどくなるということになるケースがあります。

この三つの問題点をよく考えてほしいものです。

そして、また何でもすべて憑依霊のせいにして、具合が悪いと「何か憑いているんじやないでしょうか」という考え方も偏った考えで賛成できません。

そんなに簡単に憑依するものでもなく、逆に心を明るくしようと努力している人には絶対に憑依しないものです。

憑依されている人は、その期間が長ければ長いほど、その人の心も暗く固定化してしまっているために、心を変えなければならないといくら言っても憑依霊がしっかりその人を支配し、念波を吹き込んでいるのでこちらの重要な話しを聞き入れようとしません。

こういう人は、頭が重いとか、自分に話しかけてくるから会話をしているといって一人でブツブツと語っています。

このために、憑依されている人は、自分の頭が自分のものであるようなないような、考えることが自分の考えであるのかないのかわからないような気がいつもすることになります。

そのような場合に、憑依霊を取り払えば、頭が軽くすっきりとさわやかになり、本当の自分にかえることができます。

そのような状態の中で、正しい心の持ち方をその人に何度も繰り返し教えるのです。

これ以外に根本的な解決方法はありません。

もちろん、一度教えたからといって人間の心が急に心が変わるわけではなく、永い間の習慣が働いて暗い心になると、またその心を縁として霊が憑依してくるので、憑依霊によく摂理を教えると同時に、また憑依されたその人にも真理を教えるということを繰り返さなくてなりません。

幸福になるために必要な信念

潜在意識の活用

今まで長い間、あなたが不幸続きだったとします。

すると必ず「幸福になりたい」と思われるでしょう。

たとえ現状は不幸続きでも、そのためにすでに自分か幸福になっている状態を心の中にありありと描いて、「自分はすでに幸福である」と思うことです。

常にそう思いながら「これから、あらゆることにおいて一層よくなる」と思うこと。

その上でこれからどうすればいいかを考え、自分にわからないことがあれば、専門家や経験者の指導を受け、智慧を出して努力することが大事です。

現世利益を願って、念仏を唱えたり、神頼みをしたり、他力信仰、他力本願に走っては絶対にならないことです。

しかし、ただ考えるだけで、何もしなくては実現しません。

心をそのようにして切り替えてゆくことがとても重要です。

困ったときの神頼みとばかりいろいろな神社仏閣に出向き祈願をする姿。

いろいろな宗教や団体に入会し、お題目を唱える日々の生活。

しかし、人は何かことあるごとに固有の神々の名を呼び、天使を呼ぶことが多いが、あの世での天使には天使のやるべきことがあります。

私たち地上の人間にはすべて内なるものとして備わっているのですから、すべては自力で如何様にもなることを理解しなければならないでしょう。

次回は6月12日(木曜日)『禍転じて福となす』を投稿予定しております。

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ドキュメント・退会で得た安らぎ

登記上は宗教法人ではなく、一般社団法人という形態で認可を受け社会的には朝起き会という名称で知られている実践倫理宏正会という団体があります。

今回はこの団体に属していた会員の苦悩と、家庭内における夫婦間の深まる溝の実態をありのままに公開して皆様にも何かしら参考にしていただければと思う次第です。

尚、掲載に当たっては当事者ご本人からの、「私のような体験が皆様のお役にたてるのであれば・・・。」と、快く承諾をいただくことができました。

ここにK・A様のご厚意に対して心より感謝を申し上げたく思います。

以下やり取りの本文。(受信メールに対して私からの返信がない部分は電話による会話のため欠けてあります)

2014年4月25日  受信

私も実践倫理宏正会に入会して10年になります。主人はとても反対していましたが、私は押し切って毎朝集いました。

きっかけは良い子育てができると思ったからです。

しかし、主人は何度も入退院を繰り返してその度に辞めて欲しいと言う主人に逆らって生活をしていたと反省の日々です。

お役を全うすれば幸せになれると思い込み経済が苦しい中、仕事をしてほしいという主人の思いとは反対に頒布に出ました。

結果夫婦の溝は深まりました。

10年たった今借金がふくらみ目が覚めました。

只々主人の大きな愛に感謝しかありません。

まだ朝は集っています。昼間の活動はやめてフルタイムで働き借金を返しています。

どのように会と離れたら良いのか毎日悩んでいます。どうぞよろしくお願いします。 K・A

4月25日 返信

K・A様 こんばんは。

はじめまして。

あなたの信仰は「良い子育てができると思ったから」ということですね。

この点については親としての愛が根底にあったという意味において救いがあります。

あなたの心の中には元々、信仰に対する潜在的な欲求があったが故の行動だったのではないでしょうか。

しかし、あなたの信仰生活は正しいものではありません。

御主人の反対を押し切って集い、お役を全うすればということで頒布に出て結果的に10年間で残ったものは借金と病に苦しんでいたであろうご主人に与えたたくさんの気苦労。

「御主人の大きな愛に感謝しかありません」といっていながら何故、今でも朝の集会に行かれるのでしょうか?

感謝の本当の意味はどういうことでしょうか?

恩に報いること。

それは言葉や行動に表されたときにこそ真の感謝といえるのではありませんか?

しかし、あなたは今でも朝の集会に参加しておられるようですね。

何故ですか?

これまで関わってきた方々への義理ですか?

それともやめることが怖いのですか?

あなたは何を恐れているのでしょうか?

「どのように会と離れたら良いのか毎日悩んでいます。」とのことですが。

本当におやめになるお気持ちがあるのでしたら明日からきっぱりと退会する事を御自分の心と、一番心配しておられる御主人に誓ってはどうですか。

もし、ためらう理由があるとすれば、それは全てあなた自身の都合であり、それはそのまま業として消えることなく魂に刻まれていくことになるでしょう。

魂に業を上塗りしてこの世の人生を終えてはなりません。

何故なら、あなたもこの世に生まれる時は御自分に誓いを立てて下生したはずだからです。

「今度こそはしっかりと心を正しく調えてきます」と。

私はこれまで実践倫理宏正会に入信して随分悲惨な思いをした方々からも御相談をいただいてきました。

みなさん退会された方は、幸せに穏やかな生活をしておられます。

信仰を持つことによって自分自身は勿論のこと、家族、他人を幸せに導けるような教導なら、その教団に苦悩する信仰者はいないはずです。

しかし、現実は信者の苦悩は増すばかり、経済的な負担に苦悩し、犠牲を払い、ひたすら盲信し、自分の行っていることを正しいものと思い込もうとする愚か。

非を認めたくない心のエゴ。

こういった心がありながら「良い子育てのため」と弁解を逃げ口上にする弱さ。

自分を救えるものは他人ではなく、最終的には自分の心なのだということに気づかなくてはなりません。

あなたのこれまでの実践倫理宏正会との関わりを断つには惰性に流されてはいけません。

心から家族を思い、安らぎのある夫婦生活を希望されるなら今からでも決して遅くはありません。

どれほど立派なことを言って教導しても、信仰する人たちを苦悩させ、経済的負担の上に成り立つような信仰ならそれは邪教です。

邪教に関わっていてあなたの心に本当の安らぎがあろうはずがありません。

もう目を覚ましなさい。

あなたの心の内にある良心、神性仏性を信じております。

観童

26年4月26日 受信

観童様

早速のご返答ありがとうございました。

誰にも相談できずにおりましたが、勇気を出して正直に胸の内を話せて心軽くなりました。

見ず知らずの私に観童様の心あるお言葉に涙がでました。

主人に後ろめたい思いの日々に自分を正当化させたいという強い我がありましたこと、世間知らずで無知であったこと、何か強い恐れを感じていたことに気づかせていただきました。

今朝主人に朝起きを辞めたいと思っていることを話しました。

しかし10年の間お世話になった方へ申し訳ないという思いがあることを正直に話しました。

まだまだ今からしっかりと我をとる勉強だと思います。

私にとりましてはすごい一歩です。

私の中に間違った倫理観がマインドコントロールされているように思うので、素直になって主人に1つ1つ尋ねながら、主人に愛を返していこうと思います。

勇気のいる一歩を踏み出させていただき本当にありがとうございました。K・A

4月26日 返信

K・A様。よくぞ決心なさいました。

あなたには厳しい事もいいました。

それはあなたの心の中に純粋な善我があることを私は知っているからです。

あなたはこの善我故に信仰に走っただけなのです。

真の正しい信仰とは己の内にある善なる我を信じて生きること。

それは心のなかにある神性仏性のことです。

日々の家庭生活のなかには多くの学びがあります。

親子のやり取り、夫婦の何気ないやり取りのなかに失ってはいけないものがあります。

それが愛です。

「主人に愛を返していこうと思います。」この言葉こそが真実ですね。

愛は求めるうちはまだ小さなものでしかありませんが、与える愛となったときは広く大きな光りとなって全ての存在を活かすものです。

このことを忘れずに御主人と共に生きてください。

あなたの心の安らぎを心からお祈りしております。観童

2014年5月5日受信

観童さま

本日のお話し(5月5日投稿記事・AC・結婚・離婚・言霊の働き)に、言葉って文面でも言霊があるのかな?って思いました。
頭のいい方なんですね。でも愛を求めてるようにも感じました。

私もアル中の母に育てられましたが、いい子に育ちましたよ!

いじめも経験しまたが、いじめなかった友達がいたことに感謝でした。

私も普通に生きてる人が羨ましいとか、自分が一番不幸だって思ってる暗い時期がありました。

自分がこの世に生まれてきた使命はなんだろう?

子供をわたしと同じ思いをさせたくないと宗教にのめり込んだ10年も、先日観童さまに背中を押していただいたお陰様で、普通の生活の幸せをとりもどしつつありまます。

先日は本当にありがとうございましたm(_ _)m

私にはとてもとてもその方のお心を察する事は出来ませんが、お幸せをお祈りします。*・゜゚・*:.。..。.:*・’(*゚▽゚*)

観童さまお体に気をつけて頑張って下さい来週もブログのアップを楽しみにしております(*^_^*)

K・A様

こんばんわ。コメントを下さってありがとうございます(^.^)

こうしてあなたからメールを頂けること、とても感謝しております。

そして、「普通の生活を取り戻しつつある。」という言葉に何よりも喜ばしく思っております。

また、「アル中のお母様に育てられましたがいい子に育ちましたよ。」というお話しも、

たくさんの拍手をして差し上げたい気持ちになりました。

私ごとですが、あなたと同じように、私が物ごころついた時は、父が酒乱で母を追いかけまわして暴力を振るっていました。

5歳の頃には父親の前に立ちふさがり母を暴力から守ろうとしていたことを絵に書けるほど心に鮮明に記憶しています。

最悪の家庭環境でしたが、私もあなたのようにではないですが、何とか今の自分になることができました。

年を重ねるほどに親には感謝の心しかありません。

私からみたK・A様は愛に溢れた素晴らしい方だと思います。

いつまでブログをアップできるかわかりませんが、できる限り継続していきたいと思っております。

またK・A様のようにコメントを下さるかたがいることで気持ちも新たに励みとなります。感謝します。観童

電話で会話のため文章無し

2014年5月14日 受信

貴重なお時間(電話での会話)をいただきまして、本当にありがとうございました。そうだったんですね。

そういえば以前、お坊さんだったか、見えないものがよく見えるという方が、一度だけ会場に来られたことがあり、ここは邪念や霊がたくさんいすぎてとても居られないとすぐに帰った方がいました。

心がクリーンと言っていただき本当に良かったと心救われました(*^o^*)

主人は元々飾りっけのない素朴な優しい人でした。

いつもいつも家族の事を思って周りの人の事を考えて行動する人柄でした。

それがいつの間にか、怖い人になっていき、子供たちも怯える時もありました。

それもこれも、私の間違った心の気づかせだったんだと心にストンと落ちました。

主人は私にとりまして、本当にかけがえのない存在だったんだと改めて、観童さまのあたたかいお言葉にふれ、心から感謝が溢れて涙が出ました。

主人が心からくつろげる「ホっと」できる家庭になるようにさせていただきたいと心から思いました。本当にありがとうございました。

これから、本物の調和の心を磨いていく人生を歩もうと前向きになれました。

私は25年間美容師の仕事をしています。人に直接触れる事で、その方の波動を感じやすく体調を崩すことも度々あります。

(お客様はあなたにやってもらったら身体が軽くなったわぁ~~!次は指名するわね♪)と喜んでもらえるのは嬉しいのですがくたくたになり過ぎてお役に立てられた事を素直に喜べない時も多々ある未熟者なのですが。。。

観童さまも奥様おすすめで行っておられるとブログでお話下さったカットハウス的な短時間のお店です!

私の勤めている店はパーマもカラーもありますが、忙しい店で1日100人は来店されます。

改善として常に自分の波動を高める努力をしています。

観童さまの言われます、心の在り方をきれいに正しく受け入れることや鏡として自分を見ることなど。

でも、まだまだ自分をわかっていない未熟者で毎日修行です。

観童さまも人に触れられるお仕事をされていらっしゃいますが、どのようにご自分の体のケアをされておられますか?

いや、いや、今の観童さまの境地にはとてもおよびませんので(>_<)

観童さまのお若い時に心がけていたケアなどありましたら、よろしくお願い致します。(お時間のある時でかまいません)K・A

2014年5月31日受信

観童さま実践倫理宏正会をやめてから一ヶ月たちました。

10年間朝起き会に毎朝5時に集っていた私は、普通の価値観が取り戻せるまでにどの位時間がかかるのか、とても不安でした。

朝起きてから会場に足を運ばないことに罪悪感を感じなくなり人と接してもその人を裁く心がなくなり、穏やかに日々を送れている今に観童さまのあたたかいお心に感謝しております。

それまでの私は、朝起き会は、宗教ではなく正しい倫理観の教え、正しい生活生きる筋道を学べる場なのだと思って毎朝勉強しておりました。

そして、会に合わせることが自然の摂理にそった生活であるという教えにそうなんだと思い、主人の反対も全く聞く耳を持たず子どもと一緒に集いました。

子どもがいい子に育つと何の疑いも持たず盲信しました。

主人からは、朝起き会をやめてほしいと何度も言われその度に何にもわかってくれない主人だと、主人を責め、また実践が足りない自分自身を責め、家庭の中は暗くなり子ども達にもとても嫌な思いをさせていたと思います。

子ども達が集ってくれていたのは、母親の私を喜ばそうと健気に思っていてくれたからで、朝起き会が良かったからではなかったんだと、今では思えます。

主人は、この10年で何度も体調を崩し入退院を繰り返しそれでも、離婚せずにいてくれたのは、父親として子どもへの愛情の深さとこんな私にも愛情を持っていてくれた優しい人柄の主人に感謝しています。

きっぱりと辞める決心がついたのは、会に疑問を思いながらも集っていることを誰にも言えずに悩んでいることを勇気を持って打ち明けさせていただき、観童さまに(主人に感謝していますといいながら、ご主人の嫌がる朝起き会に何故今でもつどわれるのですか?)とご指摘いただき、決心がつきました。

それから様々な方から『やめたら、主人が地に落ちる』的な言葉や『子どもの受験が心配』などの言葉でしたり、又仕事場に親子でお客さんで来て、子どもさんがフロア中に聞こえる大きな声で、『K・Aさんは朝起き会のホープだぁー』など叫び(その子どもさんは精神科に通われており悪気はなかったと思うので子どもさんの心を傷つけないように、落ち着いてなだめました。)盲信しておられる方からの言霊に私自身がしっかりと毅然とした心でおられるかが課題でした。

この一ヶ月間観童さまのブログを何度も何度も読ませていただき、その度に心を調和し、なんとかクリア出来ました。

今朝も早朝から、私が辞めたことを知らない方から月末報告書の提出依頼の連絡が入り、私はやめましたのでと何の躊躇もなく返信出来たので心の整理がついたんだと気づき感謝のご報告をと思いました。

主人はあれから少しですが早く帰宅出来るようになりました。

でも仕事はハードな様で毎日クタクタになって帰りますが、先生のお陰様で以前のように寝ている時にあーとかうーなど叫ぶことはなくなりました。

本当にありがとうございました。

以前、言っていただきましたブログへのアップのお話今なら大丈夫です。どうか悩んでおられる方のお役にたちます様に。K・A

 

5月31日 返信

K・A様。こんばんは。

あなたからの御報告のメール拝見いたしました。

朝起きて会場に足を運ばなくなっても罪悪感を感じなくなったこと。

人を裁く心が無くなり、穏やかに日々を送れていること。

あなたが実践倫理をやめたことを知らない方からの連絡に対して何の躊躇も無く「私はやめましたので」と返事ができたこと。

こんな喜ばしいお話しはありません。

どれほ御主人やお子さんたちが安堵しておられることでしょか。

そして無理のないお母さんの姿にどれほど嬉しさを感じておられることでしょう。

特別な信仰がなくても人間は普段の生活の中でも気づかされることがたくさんあります。

そして学ばされることが多くあります。

不思議なもので、信仰生活は組織的になればなるほど真理とかけ離れ、素直さが失われ、競争意識が溢れてきたり、嫉妬や中傷が行きかうようになり、業の集合体と変わっていく傾向があるものです。

そしていつの間にか本来もっている優しさ、慈しむ心、思いやり、穏やかな愛という人間らしさを見失ってしまうのです。

しかし、あなたは自分の過ちを素直に認めて悔い改めてくださいました。

このことはどれだけ勇気がいったことでしょうと考えれば、無条件にあなたの思いと行動に感嘆と称賛の声を掛けたく思います。

「持ち物が少なければ少ないほど多くを与えることができる。」

おかしな話だと思われるかもしれませんが実はこの論理のなかにこそ愛の本質があるのです。

人間は物をたくさん持つとそれに反比例するように心見失いやすく、貧しくなる傾向があります。

反対に物がなければそれだけ心をもって尽くすようになります。

少ない食料をお隣に分け与える貧しい国の人々の行為にもそれがみてとれます。

この言葉は、何も物に限らず、心にも余分なものを持たないで軽くすると正しい愛を与えることができるという解釈ができるのではないかと思うのです。

いわゆる業とか自我とか、エゴとか欲とかいう煩悩のことでしょうか。

あなたはもう大丈夫です。

よくぞ決心してくださいました。

そして本当の感謝の意味を悟ってくださいました。

あなたと御主人と子どもたちの健康と安らかな幸せを願わずにはいられません。

神よこの御家族に愛の光りをお与えください。

そして心に安らぎをお与えください。

観童 合掌

感謝 

6月9日(月曜日)は『憑依はどうして起こるのか』を投稿予定しております。

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予言や予知の背景にあるもの

阿含宗1

『私には人を呪う力があるし、先を見通す力がある。だから私の言うことをきかないと必ず問題が起きて、最悪の場合は死に至る場合がある。だから私の言う通りにしなさい』

とんでもない非常識なことをいうこの人間は外交員で某保険会社に勤務する女性であるが、この言葉に怯えた女性から相談が入ってきた。

『人を呪わば穴二つという言葉があるように、この諺はほんとうにその通りになります。営利目的のために人を脅かすなんて人の道に反します。こようなことを言ったその女性こそ自分に禍が発生するでしょう。あなたの心が鏡のごとくキレイでいたならそのような邪悪な念は返り念となって本人に災いをもたらします。全く心にとめる必要はありません。』とお答えした。

『生老病死』という言葉が示すように人生には生きることの中で様々な困難や苦悩、そして老いることによって発生する諸問題、病気によっておこる悩み苦しみ、死を迎えるにあたっての不安と恐怖心などといった心の動揺にもであうことになる。

亡くなる方があればそこには必ず悲しみがありますが、家族があるかぎり死者のない家はなく、必ずどこの家でも何らかのかたちで葬儀を執り行うことになります。

家庭のトラブルがあれば誰かに理解をしてもらいたい思うだろうし、相談もしたいというのが人情というものであろう。

そういう困り果てたときに訪れてみる占い師、霊能者、霊媒師のことに関しては『当たる、当たらない』という話が必ずと言ってよいほどついてまわる。

生活があることは理解するのだがしかし、その為に言わなくても良いことを相談者に言う霊能者、また言うべきでないことまでも言ってしまう場合もあったことを後に相談者ご本人からも聞かされます。

『この件はこうなるからやめなさい。これはこうしたほいうがいい。』というように、アドバイスをされることで、相談者の意思によって為すべき自立のための大切な選択を人任せにしてしまう傾向もみられます。

例えば、『あの時に霊能者の人がこういったけどそうはならなかった』『こうしたほうがいいと言ったからその通りにしたけど事態が悪化した』等々、岐路に立った時に、自分ではなく他人の意見に従うことは必ずしも問題解決になるとは限らない。

その結果、相談者自身もあのことは当たっていたけど、このことは当たらなかったということに一喜一憂して本来の問題が解決できるでもなく、相変わらず悩みを抱えている場合が多々ある。

冷静な心でよくよく考えてみれば『こうすることが一番いいだろう』という方向性が自分でもわかっているのにその内なる自分の声にしたがって行動できずに他人に答えを求めてしまう依存心や責任の欠如。

本当の進むべき道は、問題が発生して岐路に立った時に自分の内にある思いが偏った思考によるものでなければそれは今の自分が進むべき道と判断するのが正しいということだ。

例えそれが棘(いばら)の道でもである。

きょうは予知したり予言したりすることができるということはどいうことなのかを霊的な背景から述べてみたいと思います。

予知や予言は、現象としてこの世にあらわれることを事前に知るということであります。

それがなぜできるのかとなると、それはそういう事実がどこかの世界にすでにつくられているからということでもあります。

その意味で言えば、あるから知ることができるのであって、全くないものを知ることはできないわけです。

それではどこに既につくられているのかと申しますと、「念の世界」、「意識の世界」、「霊の世界」、つまり「あの世」にすでにつくられているということです。

つまり、結論を先に言いますと「この世」3次元に起こることは先に「あの世」4次元でにおいては、この世のように形こそないが、現象化されているということです。

例えば、私たち人間が何かを作るとすれば、先ずはその前に計画を立てますが、その計画はまだ形にはなっておりません。

そしてその計画のまえには意識が必ず働いていますから、意識のないところには計画も創造も有り得ないわけです。

人間の意識のなかにおいて物事の想像、創造がなされるということはそのまま、4次元という意識の中に現象が創られたことになります。

このような意識の働きがこの世の3次元世界に現象(形)となって顕われるまでは一定の時間がかかることになります。

具体的な事例をひとつ紹介しましょう。

山が割れてその割れから水が吹き出し洪水になり人々が非難する夢、その2か月後には海水が増水して人里が水没していくイメージが鮮明に心に残っていてとても嫌な胸騒ぎがした。

この夢の一か月後に三陸津波の震災が発生したのである。

もうひとつ愚かな話しです。私が20代の頃、パトカーに追いかけられれて捕まった夢をみて目覚めが悪い思いをしたのだが、その日の午後にスピード違反で捕まってしまった。仕事で空港まで人を迎えに向かう途中のできごとである。

夢が現実になることを何度も経験するとある種の嫌気がさしてきた時期もあったのだが今は素直に受け止めることにしている。

このような体験はこのブログを読んでくださっている人たちのなかにもあるのではないかと思います。その意味では何も特別なことではないのではないか。

単なる妄想、夢だといえばそれまでのことですが、イメージとして心に浮かんだことや、目が覚めてもしっかりと記憶に残っている夢が現実のこととなったのはこのことが初めてではないから、単なる妄想や想像夢としてかたずけるわけにはいかない。

しかし、このような事は軽々しく公言できることではなく、またそうするべきでもないと思います。

さて、本題にはいりましょう。

予言や予知は、私たちが日頃活動しているときのわずかな10%の表面意識(現在意識)ではそれを知ることはできませんが、地上で何かしらの使命を担っている人間の場合、あるいは地上生活をしながらも上段界光りの天使で潜在意識の開発された人は、それを事前に知ることができます。

そのようにして事前にあの世での現象をキャッチすることができるからこそ予言ができるということ。

ところが、これらの特別の使命を持った光りの天使すなわち如来や菩薩界以外の人でも千言ができるのはなぜだろうか。

予知や予言にもその内容や信憑性はピンきりである。

実は動物霊(特に狐霊、蛇霊)や未成仏の霊や地獄霊に支配されている人はできるのです。

地獄霊や動物霊に支配されている人は、地獄霊や動物霊が、あの世につくられたその事実を知り、その人に伝えるからです。

霊視、霊聴、予感などの霊示としてその人に伝えるために、予知、予言ができるということになります。

それ故に、あそこはよく当たるという評判によって人が集まる仕組みとなりますが、実はここにこそ危険が潜んでいるということを知っておいていただきたい。

重要なことは予言をする人の日頃の生活観や人格を正しく見ることです。

かつて、大本教の出口王仁三郎氏は、「現界(この世)に起こることはそれ以前に霊
界(あの世)に現われ、霊界と現界は照合している」と説いていますが、注目すべきことです。

出口王仁三郎氏は、宗教の誤りを覚醒させる使命を持って生まれた菩薩界の人であった、とおっしゃった方(故人)がおられますが、この言葉は信頼に足る言葉と私自身は受け止めております。

こうしてみると、この世はあの世から映し出された世界であり、本来別々のものではないということがいえるでしょう。

この世に起こることは、先にあの世に起こるということを理解していただいたと思います。
あの世の動物霊による予言と光の天使による予言の違い

動物霊(特に蛇やキツネ霊、霊格の低い龍)や地獄霊があの世に先に起きたことを見て知らせるという事実も、使命を担ったあの世の光の天使がその事実を知って教えることも、同じではないかと言う人もおられるかもしれません。

しかし、それは違います。

地獄霊や動物霊は万能ではなく、知ることのできる分野、範囲は限定されますし、 一局部のことしか知ることはできません。

ですから、動物霊、地獄霊は低い所、暗い所にいるので、人の死や不幸な出来事などの暗いことは見事に当てても、明るい未来の部分に関した知り得ることができないのです。

世界がどうなるとかの広い範囲にわたる明るいことについては、全く感知できないのです。

低い山の上から見る範囲と高い山から見える範囲は違う道理は簡単にわかることです。

人類の滅亡を予言したような情報が流れたこともありましたが、そのようなことはないと信じておりますから全く意に介することもありません。

キリスト教で言う「光の大天使」、仏教で言う「菩薩」「如来」などの上段階の方達は、知ることのできる範囲が、上段階に行けば行くほど広くなるので、その予知が比類なきほどに正確になります。

ですから地上に肉体を持ってはいても、霊格の高い方の場合は当たりはずれがなく、予言、予知は百発百中となるのです。

さらに、大きな違いは、光の天使は勇気と希望を持たせるような予言、予告をします。

たとえそれが悪い結果となる予言であっても、その原因を教え、明るく生きる勇気を奮い立たせるように教え導くのです。

ところが、動物霊や地獄霊などの予言は、不幸なことや心が暗くなるようなことばかりがよく当たり、心理的な強迫さえすることがあります。

そして、「私がその悪い因縁を取ってあげましょう」などと言って、お金と引き換えに加持祈祷などを行って因縁を取るという人がいますが、実際は人の因縁は取ることはできないのです。

ここに盲点があります。多少の霊的な現象をみせられると人間は弱いものです。

何度も言うように、自分の因縁は自分で取り去る以外にありません。

自分の人生の在り方をよくよく省みて、原因となるものを根っこから取ることです。

それを以ってすべては「自力」だということです。

使い姫としての動物

たびたび動物霊の良くない点を言葉にしてきましたが、なにも動物を悪者にしようとして述べているのではありません。

動物霊もほとんどが立派なのに、特に一部は人間を支配したいと思っている動物霊が人間に憑依するのです。

現世において犬や猫を飼うのと同じように、あるいは介助犬として人間に飼われるように、あの世では「使い姫」として動物を使う場合があります。

このようなことから、地上では動物霊を神として祭るという誤ったものになったのです。

この事はこれまで狐信仰(稲荷神)や蛇霊信仰(蛇神)龍神信仰の場で動物が関わっていることを申し上げてきました。

古代インドの時代、お釈迦様には猿が使いとして現われたと言います。

戦後の日本において法を説かれた菩薩界の方の場合、鳩がよく現れて終わるまで傍にいて静かにして、法を説き終わると飛び去ったとその方の法をお聞きになった方々は言い残しておられます。

このように、かつて蛇や狐を使いとして現わしたことがあったので、後世の人が、狐や竜などの動物霊を神として崇拝するようになったのです。

蛇は地球の人間の誕生の歴史より古いと明らかにされていますが、動物は自分の本性を人間に見せたくないために、いろいろな霊的現象、主として菩薩の姿を見せる場合が多いのです。

そのために、偽の菩薩像をみた人間が、神のお告げがあった、お告げを聞いたと錯覚を起こす者があり、ついに動物霊に支配される結果となるのです。

日本を代表する古来からの霊峰富士ちわれているのだが、山頂部は浅間大神が鎮座するとされたため、神聖視された経緯があります。

噴火を沈静化するため律令国家により浅間神社が祭祀され、浅間信仰が確立された経緯があります。

しかし、天下の霊峰といわれた富士山は今や霊的な視点からすれば、必ずしも清浄な霊域とはいえず、自縛霊や狐の巣と化しているといってもよい。

富士山麓には信者からの汗と血と涙の布施や喜捨によって集められたおかねで金ぴかで豪華絢爛な宗教本部があちこちにできあがって、そこに集合する人間の業火が未浄化な蛇や狐の霊を呼び寄せているのである。

動物霊はその人の心を見て、この人にはどういう姿を見せれば信ずるかを見抜くのです。

観世音菩薩を信じている人にはそれに、不動明王を信じている人にはその姿に、龍神を信じている人にはその姿に変化して見せると、あたかも自分が特別な人間であるかのごとく、あるいは悟ったかの如く錯覚を起こし、完全に動物霊に支配されてしまうのです。

その人達の死後は地獄界に住し、心の境涯によっては狐や蛇の姿にもなるのであるが、このように間違った信仰は、神の子・人間が動物の支配下におかれて苦しむのである。

万物の霊長である神の子・人間は、動物霊より上段階にいるのですから、動物霊にコントロールされることは実に愚かなことであり、人間としての本性を決して忘れてはならないのです。

使命を持った菩薩界の霊や光の天使は芝居じみたことや、人をおどしたり驚かしたりするようなパフォーマンスは絶対にしません。

よく当たるからということで自分の考えでも出せるようなことを聞くために尋ねに行く人も多くおられるようですが、無知とはいえ残念に思います。

何人もの政治家がお尋ねに行っている所もあるように聞きますが、お尋ねしたあとでなければ行動できないとは、子供よりまだ悪い。

自己確立からは程遠いのです。このような人達に国をまかせたならば、この日本はこの先どうなることでしょうか。少し厳しいことを述べさせていただきました。

動物霊信仰

人々の中には、本体がどのようなものであるかを知らずに動物信仰をして、庭の隅などに動物霊を祭っている人がいますが、決して正しいことではありません。やめることです。

動物霊信仰者でも少しの奇跡はあるでしょう。彼らにもそれくらいのことはできます。

ところが動物霊は、所詮、動物であり、真理は説けません。真しやかに並べてはみても必ず矛盾が出てきてコロコロ変わります。

蛇の獰猛さ、狐のずるさを想像してみてください。蛇や狐に、慈悲とか愛がわかるだろうか。

とても上手に人間を騙しますが、もともと動物は本能のままに生かされているのですから、こうしたものが人間に憑くと、いっときは利益を与えても、ある程度時間がたつと本性を現わし、人間を食いものにしていきます。

熱心な信者ほど病気をしたり、家の中がうまくゆかなくなったりするのも、そのためであり、ご利益があるという信仰の危険性がここにあります。

動物霊が憑いている教団の教祖や熱心な信者の状態をよく観察してみると次のような状態が見られことが多々あります。

顔色が悪い、病気が絶えない。人を非難する、人をおどす、自己本位、エリート意識が強い、比較の観念にとらわれる、我が強い、感情的、欲望的、愛がない、計算高い、無理を平気で言う、などです。

また教団によっては、動物霊以外に阿修羅が憑く場合もありますが、この時は、戦闘的、排他的、一本調子、他をかえりみないなどの状態が見られます。

動物霊はこの世に非常に執着を持っていますから、神理があいまいだったり、あるいは全然神理か説けず、占いに熱中している場合など、これらは動物霊の仕業とて差し支えないでしょう。

何々の神、何々権現、〇〇如来、〇〇菩薩などというようなことを喋るようなら、これはほぼ間違いなく動物霊です。

動物霊や魔王でも奇跡を起こしたり病気を治したりしますが、これと、神理に適って調和された生活の随伴現象として起こってくる奇跡とは、自とその内容を異にしております。

第一その永続性、心身の安らぎという点で、まったくの異質であることを知っていただきたいと思います。

動物霊に支配(憑依)されている人の特徴については次のようなことああります。

動物霊が支配している場合は、神がかりになって、体を上下に動かしたり、合掌している手先が蛇行したり、座ったまま数十センチから1メートルも空中に浮いたり、飛びはねることもあります。

彼らは人を驚かすところに特徴があると言えます。不動明王だの、竜王だの、稲荷大明神と名乗って出てくる場合も動物霊がほとんどであり、まことしやかに振るまうので特に気をつけなくてはなりません。

このような人々はまことに危険極まりなく、健康にも、日常生活の上においても、いろいろ支障が起きてきます。

また、こうした動物霊達は肉体祖先が浮かばれていないからお祭りをして供養しろとか、あるいは多額の金品を要求したりもします。

動物霊が憑依している者は欲が強く、したがって憑依されている者は、金とか地位とか物や名誉などに固執します。

予言する、病気を治す、それだけで信じてはいけません。

また罰があたると脅迫するようなことがあれば、これもまた地獄霊です。

一番大事なことは、神がかっている人間の品性や言動をよく観察することであり、人としての正しい道を心の物差しとして生活しているかどうかが問題なのです。

地獄霊が憑依すると、おごり、怒り。そしり、ねたみ、欲望の渦の中にひきずられるため、心は常に動揺し、不安定です。

いくら口先でうまいことを言っても、その考えることと行為に大きな矛盾が出てきます。

自然な霊力や脅迫にあうと、人はつい盲信、狂信になりがちです。

正しく見ることが如何に大事であるかを理解していただきたいと思います。

稲荷大明神、竜神、竜王らの本来の使命は、動物霊達に動物としての道を教える役職にある天使達であり、本体は竜とか蛇、狐ではなく、人間の魂としての天使であいます。

この使命を担ったあの世での立場は、仏教で言えば菩薩段階であり、キリスト教で言うところの上段階の光の指導霊になるための修行過程です。

これは、もっとも厳しい修行過程であり、学習なのです。

動物霊達は感情の気性が強く、本能的で、指導はむずかしく、この世的な概念で言えば、数百年にも当たる修行が必要だと我が心の師は言っておられます。

ただ蛇や竜達がよくよく正しい法を勉強して、竜王達の仕事を手伝うことはあるらしいのですが、彼らは竜神でも竜王でもありません。

稲荷大明神、竜神、竜王は仏教で言う人間の天使の役職名なのです。

「不動明王」とはあの世の秩序を正す役目と、この世で肉体を持っている正しい心の人々を魔から守る使命を持つ、諸天善神の一人です。

商売繁盛を目的に、よく稲荷神と思って本体は狐などを祭ってある家庭や店舗があるが、非常に危険なことだといえるでしょう。

彼ら動物言達は、盲目同様の人間をからかったり、また彼らも人間になりたいと思っているため、いろいろな現象を出したりするものであるということ。

こうしてみると予言や予知の背景には必ずそれを知らせてくれる存在があるというとが霊的世界の仕組みを知ることによって理解できるのではないでしょうか。

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