広大で永遠なる心

禅定
宗教との関わり
書店に行くと、随分と宗教に関する著書や雑誌、冠婚葬祭などについての書籍が豊富なスペースを確保して並べられています。
どうしてこれだけ需要があるのだろうか。
理由の一つには、私のような団塊世代の人間がまじかに感じ始めた『死』に対する準備が必要だと思い始めたところがあるのでは思います。
ちょうど年齢的には自分の親や配偶者の親を見送り、友人などの葬式の回数が増えてくることで、何かしら自分も先のことを意識し始める。
内心では自分はまだ時間があるよ、と思いながらも自分の最後の迎え方などを考えたり葬式の仕方などを調べたりするようになってくる。
そうして死の意味を真剣に考えるようになってくると、宗教的なことにも関心を持つようになってくるのは自然ではないだろうか。
常に戦後の社会を大きく背負って変えてきた団塊の世代は、出生率最大の人口をもって戦後日本を支え、宗教の分野においても大きな要となってきたのです。
きょうは日常生活における日頃のものの見方を離れて、私達は、地球という環境に何の目的で何をしに生まれてきたのだろうか、ということについて話してみたいと思います。
そして、我々が現在持っている肉体や、その肉体を支配している主(あるじ)である霊というものについて、これらを、永い歴史の中で我々の生活に密着している宗教問題などとの関連においても考えてみましょう。
さて、国が違えばその信仰のスタイルや内容も異なりますが、私達は、神様、仏様といいますと、ほとんどが神社や仏閣に祀られているところの神様、仏様だと誰しもが思っているところがあります。
これは日本の文化でもあり伝統の部分でもありますが、しかし、このことと真実とは別次元のことであります。
私達は、一番大事な自分自身の心の中に存在している不変的な本性、すなわち霊性を理解することなく、神様は何か遠くの方にいるんじゃないか、あそこの神社にご利益のある神様がいるんじゃないかと、多くの人々は錯覚を起こしています。
そうして、本当の神様というのは、人の囗を通して『我は〇〇の龍神じゃ、我は〇〇稲荷大明神なるぞ、心して聴くがよい』などと、神のお告げだというのがそうだろうか、また現象的に相談者や信者に龍の姿や、菩薩の姿を見せる者が神だろうかと思ったりします。
ところが本当の神というのは、そんなちっぽけな人間によって創作されるようなものではありません。
私の地域から車で40分程いったところに某稲荷神社があります。
その地域の人たちだけではなく近隣の地域からも参拝客があるようで、私も一度その境内に足を運んでみたが、二度と足を踏み入れたくないところであった。
その数年後その神社の宮司が自宅二階から飛び降りて自殺したと風の便りに訃報を聞いたのだが、事の経緯や真相は知る由もない。ただ亡くなる数年前からノイローゼ状態であったと聞いた。
社風というものはその会社のトップや役員たちの高い志によってその意識が末端まで行き届き、立派に社会に貢献できるような会社でいられるものだろうと思うのです。
それは宗教の世界においても何ら異なるものではないと思うのですが、神社や仏閣においても、その代表者の思いが崇高なものであればその境内は清涼とした空気が流れているものであります。
私事ですが、自分は、物事を知識から身につけるタイプではなく、実践で学ぶタイプだと思っています。
したがって、納得できて深く心に落ちるまでは非常に時間もかかり、気づきの遅い人間でありますが、これまでの人生のなかで探し求めていたという存在が、外にあるのではなく、自分自身の心の中にあったのだということをようやく気付いたのです。
その実証として、神社や仏閣へ行きますと、我々が今まで神と思って祈っていて祀られているそこの神と称するその実態は、必ずしも信じてよいようなものではなく、むしろ非常に危険なものであるということがわかってきました。
本来の神とは、この大自然、大宇宙そのものの意識が神なのであります。
そして、この大自然というものは万生万物の生命の根元です。
更に、この大自然そのものの法則の中に、私たち自身が人生において成すべき道が存在しているのです。
私達は、神様として祀られているところや、仏様が祀られている前へ行くと祝詞を上げたり、お経を上げます。
このお経を奉唱することが信仰の対象のような錯覚を起こしておりますが、とんでもない間違いです。
お経というものは皆さんもご存じのように仏教においては、今から二千五百有余年前にゴータマ・仏陀釈迦牟尼仏といわれる方が、人間はこのように生きなさい。
このような苦しみがあるときは心の持ち方をこういうふうにしなさいと、誰にでもわかる人々の言葉で説かれたものでしょう。
そして、心でこのように思い、語り、さらに、その道はこういうものだと、片寄らない中道というものを説いたものを後世の人々が書き記したものがお経なのであります。
しかし、後世の人たちが書き記し哲学化された難解なお経は、チベットを超えて更に難しくなり、中国から日本へ渡ってきて、そのお経の意味さえ理解することができなくなりました。
我々は、時代の流れと共に、いつの間にかお経を、先祖の仏壇の前や、お寺の仏像の前で上げるようになってしまいました。
そして、それに矛盾を感じてこなかったわけです。
あまりにも永い歴史の中で、先祖はそういう習慣の中にいたからなのです。
しかし、お経の中身をよく見ると、人間はこのように生きなければいけない。
こういう苦しみを持っている時は、ここにその原因かあるのだ。
こういう原因を除かない限り苦しみはまたくるのだ。
というように人間としての心と行ないの道を説いてあるのです。
信仰をもっていながらも、私のところに来た悩める相談者には、朝晩のお経はやめなさい。もっと先に行うべきことがあるはずですとお話しするのですが、お経が無くなれば何だか寂しいという人がいるのです。
自分自身が真に意味のわからないお経をいくら上げても、発声練習にはなろうけれども、これは貴重な時間を無駄にしているだけなのです。
要は、お経の真意は唱えることにあるのではなく、その真意をよく理解して生活のなかで行動に活かすことで心の調和を図ろうということにあるのです。
実践のない唱和をするくらいならもっと心を打つような歌でも歌った方がましです。
私たちの肉体という物質は全く大自然のままに作られています。
この地上界を、天の意思が魂の修行場として作り、我々は先祖代々を経て今、肉体があります。
多くの人は、この肉体は自分のものだと錯覚を起こしています。
私たちの今持っている肉体も実は私たちのものではありません。
「そんなバカなことがあるはずはない、実際にこの体が温かいし、冷たさを感じるし、現につねれば痛いじゃないか」と誰もが思うでしょうが、それは違うのです。
今の私たちの肉体はあくまでもこの世の人生を閉じるまでの借り物です。
肉体は永遠ではありません。変化をしやがては朽ち果てるものです。
永遠のものは私たちの魂であり、その中心に在るところの心そのものです。
心というものにもちゃんと形があります。
心なんて形はないと思っていました。またそう言われてもおります。
ところが心の目で見ると一人ひとりに形があるということがわかります。
確かに昔から、心は三角だ四角だなんていってません。
心は丸くといっています。
その通りです。それも生まれてきた時の子供の心というのは非常に丸く澄んでいて豊かです。
その心が年を取ると共に家庭環境や教育や生活習慣、思想、思考が片寄り、歪みを作り、そうして公害と同じように心にいっぱいスモッグを作り出しています。
こうなってきますと、そういう人の傍にいるとその心の荒い波動が突き刺さるように伝わってきますからよくわかります。
人間の心はとても精妙にできていて、私たちの思ったことや行なっていたことが間違っていた場合に、スモッグになるのです。
そのスモッグになった量だけ心に歪みやストレスを生じ、その量だけ実は苦しみを持つようにできております。
つまり、苦悩というお荷物を持ってしまうのです。
人間は苦しむと人のせいにします。
しかし、同時に苦しんでいるのは自分自身だということをしっかりと自覚しなくてはなりません。
精神的にも肉体的にも苦しんでいるのは他人ではなく、自分自身であるということ。
ここが大切です。自身を省みてその原因を追求することなく人のせいにして、この人がこうしたから、あの人がああしたからといいます。
精神的に追い詰められている状態にある人の場合は特にそういう傾向になりがちです。
現に苦しんで精神的にイライラしているのは自分であるにもかかわらず、僕が小さい時に、お母さんが僕にこうしたから、お父さんがこう教えたから、こういうことをしたから、ああいうことをしたからと、友達のせいにしたり、両親のせいにしたり、社内においては同僚のせいにしたり、部下のせいにしたり、上司のせいにしたりします。
しかし、今、苫しんでいるのは自分自身だということを忘れているのです。
そうすると、自分の力ではどうにもできない、何とかしてその苦しみをなくそうとして見えない世界の力を借りようとします。
そこで神様が登場してくるわけです。
その神様を自分の目や耳で体で確かめることもできないで盲信してしまう、狂信してしまう、更に、病気に関しては、医者に匙を投げられ、薬も駄目で、ついついそういう神秘的なことをいう人の言いなりになって間違った依存世界に入ってしまうのです。
そして、我々は、神”と名乗るものの実体さえわからぬままに信じてしまうのです。
実は神と名乗る者ほど危険なものはありません。
それが、たまに病気が治ったり、出来事を当てたりするものだから、却って人間の心の本質を見失わせてしまい深みにハマって抜き差しならぬ状態にまで自分を見失うわけです。
心の光
善我と偽我
人間の心の世界は、この大宇宙と同じように無限に広いのです。
それゆえに、私たちの思ったことは、次元の違ったそれに比例した世界にも自由自在に通じていきます。
人間の想念は時空を超えて瞬時に相手にも、場所にも届きますし、現象となって顕われるものであります。
ところが、その思うということに関しては自由であるがゆえに心に法律がありません。
こういうことを思えばこう苦しむのですよ、こういうことを思えばいい結果が出るのですよ、といような働きはあるのですが、しかし、この思うということについては全くの制約がありません。
私たちの社会生活に立法があるようには、心の世界には立法がないのです。
ここに問題が起こるわけです。
精神的疾患者の根本的原因は、自分の思っているところの歪み、正しい基準を失った生活行為、この中から出てくるのです。
それは、全てが偽りの我です。
偽りの我について述べておきましょう。
我々の心の中には偽我善我というものがあります。
どんな状態でも、人間は自分に絶対に嘘のつけないところの善我があります。良心といってもよいでしょう。
この善我こそが本当の神の子の証なのです。
これは次元の低い地獄に落ちても同じであって、地獄の霊達も必ず心の奥底には善我を持っているのです。
ところが、彼らは自分さえよければいいという自己保存の固りなるがゆえに、地上の生活よりもちょっと厳しい地獄の世界で暮らさざるを得ないのです。
ですから、人間には誰にも善我なる心があるのです。
しかし、人間の心の中には、あたかも自分が犠牲になって損することであるかのように錯覚を起こしやすく、また、競争意識が過ぎて相手を蹴落としてまで自分が優位に立とうと考えたり、虚栄心ゆえに見栄を張って無理な身の丈以上のお金の使い方をすこともあります。
心に感謝以って働く者とその義務を怠る者
心調和して行動する者と傍観する者
何事も謙虚な姿勢で学ぶ者と享楽に耽る者
執着せずに今日に生きる者と明日を楽しむ者
自分を律して生きる者と人を他人を責める者
他に愛深き者と他に愛を求める者
いつも和合を旨とする者と争いの種を蒔く者
心貧しき子を愛せない親
謙虚な者と自分を高く見せようとする者
責任を果たす者と依頼心の強い者
足ることを知る者と欲深いこと限りなき者……。
善我偽我の心のいずれの働きも私たちの心の内に存在する。
宇宙大自然界とその意思は、決して人間を不平等には扱ってはいない。
がしかし、人間は己の偽我によってのみ不平等や不公平をつくり、差別をつくりだしている。

自らの心に思うことや行なうことにおいての調和度がその人をつくり、偏りのない正しい者達の心には、光明が射し、安らぎに包まれるのである。

ちょうど、青天の太陽の光が、万物万生の成育のエネルギーへと変わるように、人間の心のエネルギーもさまざまのものを育てる。

その成長は有限ではなく無限であり、広大無辺で永遠である。

次回は6月18日(木曜日)人生案内『出産祝儀ない義父母』を投稿予定です。

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