絹の心


明治27年に生まれ、大正、昭和を生きた名随筆家であり参議議員もされた森田たまさんの『絹の随筆』の文章から冒頭の部分だけ紹介したい。
絹の心
以下随筆から一部引用
日本の絹の美しさを、日本の女の心としたい・・・・・・。新春の床掛けに何か一筆と頼まれて、あれやこれやと思いまどっているうちに、ふっとこんな文句(絹の心)が浮かんだ。
昔から、女の肌の美しさを羽二重にたとえることがよくあった。きめ細かく、すべすべして、ひやりと冷たい感触の中に、やがてほのぼのと絹のあたたかさがかよってくる。ここまで。
(以下、この文章のなかに登場する人たちの心と作品の真意を述べてみたい。)
世俗から隔離された上流階級で育ったある女性が、今まで一度もご飯を炊いたこともなく、弁当というものをつくったことがなかった。
主人が出勤したあと戸棚の中におかずを発見した。弁当に入れ忘れたのである。
夫は弁当をもらって、会社へ行って、開いてみたら、ご飯ばかりでおかずが入っていなかった。おむすびでも梅干しぐらいは入っている。
ご飯ばかりの弁当は、彼にとって生れて初めての経験で、腹が立つよりなんとなくおかしかったようだ。
家へ帰ってみると、若い妻は瞼を赤く泣き腫らして迎えに出てきた。
『ごめんなさい、おかず入れるのを忘れちゃったの』彼女はお昼ごはんをたった一人で、おかずなしで食べたのである。
『ご飯だけ食べるのってとってもつらいのね。お湯をかけて流し込んだけど、それでも喉につかえるような気がして、一膳がやっとだったわ。ごめんなさい。』
自分の落ち度をすなおに認めて、自分に罰を科したこの新妻の、優しくも厳しい心情には、どんな夫でも心を打たれるであろう。
彼女はその後もしばしば間の抜けたことをしたけれども、そのたびに、『ごめんなさい、すみません』と、優しく詫びるのであった。
それだけに夫の愛情はますます深まっていった。
さてブログを読んでくださっているあなたが結婚されいる女性の場合、もしも夫の弁当におかずを入れ忘れてしまったことに気づかれたら、この新妻のように、
『あの人だけおかずなしの弁当を食べていただくのは申し訳がない、すまないことをした』と、自分もお昼はおかずなしでご飯だけ食べるというようなことをされるであろうか。
『ああ、忘れたわ、わたしまたへまをやったわ』とは思っても、自分の失敗を自分に科して、また夫の身になって、ご飯だけ食べるというようなことは絶対にされないのではなかろうか。
『どこか食堂へでも行って、食べているさ』といって、のんびりおかずをそろえて食べられるに違いない。
そうしたからといって何も悪い事ではない。むしろそうするのが当たり前だと多くの人はいうに違いないでしょう。
そうしたからといって誰も責めるわけではない。事実、夫は、『ご飯だけ食べられるか』といって外で食べたかもしれない。
ここで大事なことは、事実はどうであったかということだはなく、その新妻の、夫を思う心の優しさ、自分の失敗をすなおに認める心の謙虚さ、それが夫の心を限りなく感動させるのであるということ。
頭のいい女の人は、この新妻を気の利かない馬鹿な女だと思うかもしれません。
しかし、人生を幸福にするのは、夫と妻との間に通う限りなく優しい理解と思いやりであることは間違いない。
学問をした頭のいい女が男から敬遠されるのは、なまじ知識があるがゆえに、その知識を誇るばかりで、そうした優しい理解と思いやりに欠ける傾向にあるからだろう。
実は、すなおにおっとりした、『絹の随筆』のなかの優しい妻は、早く死んでしまった。
その夫はあまりにも思い出が深く、一生独身で通すつもりであったが、年と共に会社での地位も上がると、独身ではいられなくなって二度目の妻を迎えた。
その女性はやはり名門の出で、昔の殿様の御姫様であって、料理から裁縫から社交まで、あらゆる点で、できないことは何一つもないという、実に優れた賢妻であった。
天地が逆さまになっても、夫にご飯だけの弁当を持たしてやるようなへまはしないという実によく気のつく人であった。
その二度目の妻を迎えた本人が、森田たまさんのところに来ていわれるには、
『前の妻は、絹のようなあたたかさをかよわせてくれる優しい妻でした。
やることなすことへまだらけで、何にもできない妻でしたが、そのたびに(すみません)(ごめんなさい)と、自分の失敗をすなおに認めて謝ってくれる優しい妻でした。
しかし、それに反して二度目の今度の妻は、何でもできないことはないという素晴らしい妻ですが、前の妻が絹のような心を持っていてくれたのに比べて、今度の妻はズックの袋のようです』と。
ブログの読者が女性ならば、夫にとって、或いは恋人にとって、絹のようなあたたかさを通わせる優しい思いやりのある女性であるのか、ないのか。
それともズックみたいなゴワゴワした、ガサガサした荒っぽい、ひとりよがりの妻なのか、恋人なのか。
どのような妻であることが、恋人であることが、あなた自身にとって幸せなのか、よく考えてみられるのもよいだろう。
だから森田たまさんはいわれるのである。
『気性の勝った、どんな落ち度もない女というものは、他人から誉められるかもしれないが、夫の愛情は、そういう女からは薄れてゆくものであるらしい』と。
そして最後にこう言っておられる。
『七十になろうと、八十になろうと、女というものが、どういう存在であるべきかを忘れないでいる人の心には、羽二重のようなすべすべした、キメの細かな思いやりが潜んでいるのであって、お弁当にご飯ばかりを持たせた新妻の、あのおっとりした、すなおな気持が一生つづいているようであってほしい。
それは人の中へしゃしゃり出て、何でも牛耳るという社交夫人ではなく、といって家庭の中で、子どもの勉強を励ます教育ママでもなく、格別に内助の功のある良妻でもなく、ただいつも涙もろく、人の哀れな話しを身にしみて聞くという普通の優しい女、私は、そのような心を絹の心と思うのです。
絹のものは、最初肌に触れた瞬間は少しヒンヤリしているが、そのうちに、心の中からほのぼのとしたあたたかさを通わせてくれる。
毛のものは、肌にふれた瞬間からぽってりしたあたたかさが通うけれどもそのあたたかさは、深く心に染まない。
日本中のすべての女性が絹のようなあたたかさを通わせてくれるとしたら、夫たちはどんなにかありがたく思うであろうか。』と。
現在は、たとえ大学まで言っても、良き妻良き母となる教育は全くされていないのである。
まして高校でもそうである。高校や短大、専門学校、大学を卒業して、しばらく就職してそれで結婚をするのだが、最近は独身主義者や晩婚が多くなって、年をとって老後を意識し始め、慌てて結婚を模索する人たちが増えている。
良き妻、良き母となるための教育は何もうけていないのですから、本当になにもできない妻や母が増えて、夫や子どもを逆に苦しめることになってきたのもやむを得ないかもしれない。
お釈迦さまは、夫にとって有り難い妻は、従順で恥じらいを持った妹のような、それでいて時には優しく姉のように、夫をいたわってくれる妻で、そういう妻は死後に天上界へ行くといわれたのである。
おろかなるもの 己おろかなりと思う
彼、これによりて
また賢きなり
おろかなるに
おのれ賢きと思うは
彼こそ まこと
愚かといわるるべし
※愚かな人は自分を愚かだと思う、しかし、このように思える人は賢明なのだ。愚かでありながら、自分は賢いし知識もあると思う人こそ、本当の馬鹿者である。自分の未熟さに気づけない人こそが真の愚か者だ。
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