自己と宇宙意識

宇宙
どこの集団、どこの会社にも、どこの学校にも職員同士による人間関係のトラブル、子どたちのトラブルはあるが、更にそれが、心ある人生を学ぶべき宗教団体にもつきものだから疑問でならない。
おなじ群れでも動物世界のほうが統制がとれている部分もあるが、知恵のある人間が群れるということは陰湿な無視や批判、中傷、になってしまうしまう傾向があるから困りものである。
人が集まり、行動が組織的になってくると、その組織や人の行動が気になり出す。

そうして、肝心かなめの正しい生き方である法則がどこかへ行ってしまう傾向になりやく、人間の心は周りの人たちの動きに左右されやすいものでもある。

人の噂や中傷に気をとられ、その噂や中傷に心をゆだねると、もはや、法則を学ぶ者とはいえなくなる。

何となれば、正しい法則を学ぶ者は、何時どんな場合でも、摂理、秩序、慈愛という宇宙大自然の原理を尺度に、生活の中に実践して行く者であるからだ。

集団生活や組織というものは、この地上に生きて生活していく上に欠かせないものだが、さりとて、これにウェイトがかかると、自分を失いがちとなる。

読者のなかにも、そういったことを実体験された方もおられることでしょう。

自分の身の回りに現れる様々な出来事、現象は、自分の心を育む材料に過ぎないものだということを覚えておかなくてはならない。

これはどんなに世の中が進み、文化や科学、人々の精神が向上し、調和された姿が現れたとしても、その基本的態度を変えてはならないものである。

調和の姿というものは、これが完全というものは本来望み得ないものだし、調和が進めば進むほど、より高度の調和が私達を待ち受けているからだ。

魂のステージアップは上限がないということです。

また、この宇宙を認識しうる意識は何かというと、ほかならぬ各人の意識であり、心である。

そうして、その宇宙の存在を理解出来るのも各人の魂だ。

これをもっと平易に説明すると、私達は眠っている時は、外界の様子がわからないし、鼻をつままれても気づかないでいるが、めざめてはじめて、自分の存在を認識し、昨日のこと、今日のことが理解出来る。

つまり、自分という意識があってこそ宇宙の存在が理解出来る。

これを逆にいうと、宇宙は自分がなければ存在しない。

さまざまな諸現象は自分があるからそれをとらえることが出来る。

おわかりでしょうか。外でカラスがカーと鳴くその声を聞いている自分がいるから聞こえた、そしてそれはカラスが存在していることを認識したということ。

自分という個の存在がなければカラスを認識できないことになります。

人間関係のトラブルも相手のせいにしがちですが、不愉快な思いをしているのは自分自身の心であって、その心のあり方ひとつで不愉快なトラブルは解決できるのです。

それなのに相手が悪いと、矛先を相手にばかり向けてしまうようでは一考にトラブルは絶えないだろう。自分自身を見ることの大切さはここにある。

こう見てくると、自分以外の諸現象は、自分の心を育む材料であるが、その材料の中に、自分を没入させてしまっては、自分を失ってくることになろう。

没入とは囚われのことであり、執着のことです。

自己という存在は、大自然という中道(調和)の法則の中にこそ生きているものなのだ。

人の噂や組織に気をとられ、それに心を振り回される愚を、人生の在り方を学ぶ者は犯してはならない。

つまり、私達の大事な対象は、人や組織ではなく、調和という大自然が教えてくれている摂理、秩序なのである。このことを私は法則と呼んでいる。

ある人はこんな名言を吐いている。

『天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず。』これは平等をいっているようだが、もう一歩進めて、人を相手にせず、天を相手にするとき、人の心は大きく広いものとなり、人を裁かず、批判せず、人を許し、自己に厳しく、正しい生き方である法則の実践者になってくるものであろう。

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