人生
私は宗教家ではない。勿論、特定の集団や教団にも属していない。特別にカウンセリングの為の知識や手法を学んだわけでもない。
それでも毎日のようにどなたかと直接お会いして、あるいはメールで人々からの相談を受け、『人生の意義・人間の心』ということをいつも考えさせられ、自分が体験したこと、確信をもてたことをこれまで述べてきた。
「俺なんか生まれてこなきゃよかった」とやり場のない気持ちをぶつける若者、「早く死にたい」と、老いていく自分の姿に失望する女性、「死にたくない、死ぬのが怖い」と、病気をしてうろたえる人、重篤な病をしていながら淡々と日々感謝の生活をする者。
人間はなぜ生まれ、年老い、病気をし、死ぬのであろうか。
思えば、人生に疑問を持ち、幼いながらもあれこれ考えていたのは、非常に厳しい環境のなかにあった小学生の頃からの私だった。
悲しみと苦しみの多い人生に、自分の無力を痛感して悔し涙をしたが、小学生の私にはどうにもならず、ただ母親を助けたい一心だけで昼夜なく田畑で働いたが、それが辛いとは思わなかった。
どこの家庭も一様ではなく、様々な苦悩を抱えながらも必死に生きているのが現実だろう。
親しい者との離別、嫌いな者と生活する悲しみ、
経済的な苦しみ、
恨み、妬み、そねみ、怒りの心、で自らを苦しめる生き方、
独占欲、
表面華やかでも心の淋しい者、
結ばれぬ恋、
売名行為のむなしさ、
有名人をかさに着た増上慢、
肉体的障害で心病む者、
子どもの心を知らず、大切なものから遠ざかる親のエゴ、
大宇宙大自然の法を悟らず人々の心を狂わせる指導者、
宗教を私利私欲の為に利用する偽善者、
限りない欲望、地位名誉欲、
人種差別に泣く人々、
同族の権力争い、
派閥争い、
主義主張の異なる闘争と破壊、
等々、書けば限りもない不調和な人生。
こうした悲しみ、苦しみの原因は、すべて偏りのない中道の心を失い、真の愛と慈しみの心を忘れた行為によって生じた結果である。
人々の多くは、欲望の渦の中に自分自身を埋没して、この苦しみから抜け出すことができない。
ある者は人生に失望し、人間としての使命を果たさないまま自らの手で肉体を捨て去る。
しかし、人生は決して不可解なものではない。
ただ、難解なだけである。
この難解な人生について、もっとも分かりやすく、日常的な言葉で人生の在り方、そしてその目的と使命を説いた光の天使がいる。
それは、インドの釈迦牟尼仏やイスラエルのイェス・キリストである。
だが、その尊い言葉も、永い年月経過の中途において、多くの僧侶や学者達により知と意の産物に変えられ、哲学仏教となってしまった。
キリスト教も、仏教も、智の学問化と、ビジネス化になってしまったことで、その中から真(まこと)の理(ことわり)を見出すことが困難になったといえるのではないだろうか。
つまり理屈は分かっているのだが、人間の真実の心の在り方と実行の仕方が、はっきりしなくなったのだ。
心ない宗教、実践のない宗教が、現代社会の歪みを造ってしまったといっても過言ではないと思う。
少し厳しいかもしれませんが、神官も、牧師も、そして僧侶も人間。
その世界に入れば一通りの学問はするのだろうが、知識は得ても心に仏がない僧侶、心に神性仏性がしっかりと落ちていない聖職者は、いざ自分の身に問題が起こると簡単に取り乱してしまうのである。
聖職者といわれる人たちも人間である。
今、私達にとって心安らぐ唯一の道はとなると、知と意によってメッキされた仏教やキリスト教を捨てて、本来の教えに帰ることといえるだろう。
学問宗教、観光宗教、葬式宗教では、現代社会の人間の心を救うことはできない。
そうした宗教の堕落によって、人生の目的や使命を悟ることができず、自分勝手な人生を送ってしまい、物質経済の奴隷に自らを追いやって仏性を失った人々は数多いのである。
大宇宙の法則である真理の哲学化、宗教プロによる他力本願への扇動、ご利益主義への宗教のおき替え、神仏の大量生産方式など、それらは宗教の歪みしか語らないものとなってしまった。
しかし、それでも大衆は心のよりどころを求めて行く。
歪みを造った宗教家達の罪は深いといわざるを得ないだろう。
しかし別に見れば、他力本願、ご利益主義に変化した宗教にも、それなりの歴史的な背景がある。
私達は、その事実を良く考えてみることが大切ではなかろうか。
誰の罪ということでない、人類の心の難しい在り方が、そこにそのままあるかも知れないと思えるからだ。
法然や親驚の時代は鎌倉時代の前期から中期の戦乱の世であり、心ある僧侶達は、多くの人々に対し、哲学化した仏教をどのように指導したら良いか、恐らく迷ったことであろう。
当時の無学で無知な民百姓(たみひゃくしょう)を死の恐怖から救う道は、「南無阿弥陀仏」と簡単な念仏を唱えることにある、と教えざるを得なかったのだろうと思う。
また衆生(人々)も、念仏によって神仏を信じ、あの世の実在を信じ、心の安らぎを得たことであろう。
日蓮の時代もまた、親鸞より約40年ほど後ではあるが、社会的背景が大きく影響していたことは否定できない。
時の権力と組んで自己宗派の安泰を図ったり、他力本願による無智な多くの民百姓達の仏教帰依、つまり先祖崇拝と阿弥陀浄土への即身成仏信仰への変貌。
しかし心を忘れてしまった宗教は、ひととき栄えても必ず人々から忘れられ、いつか宗派の乱立と派閥争いの修羅場に変わってしまう。
また永い歴史的年月の中で、肉体先祖より受け継がれた檀家という得意先があるために成り立った葬式仏教というものもある。
だがかっての釈迦の仏教は、このような派閥の乱立や生きた人間の心を救うことができないものであったであろうか。否、であろう。
仏教は学問ではなく、生きた人間の実生活の中に存在していたはずである。
経文は、生きている人間生活の在り方を説いていることを忘れてはならない。
釈迦の教えは大宇宙の法則に沿った人間の心の法則であり、現代社会人類の心の故郷であって、私達はこの故郷に帰ることではないだろうか。
私達は、肉体先祖のしきたりや宗教的慣習にならって生活しているため、あらゆる宗教のそれぞれが、正しい法であるのか邪法なのか、区別もはっきりしなくなっている。
そのため、神社、仏閣、教会が神仏の在る場所、祈る場所であるかのような錯覚をしてしまって、いつか他力本願的なご利益信仰に変わってしまったといえるだろう。
神社、仏閣、教会は、生きている人間に対して、万物の霊長である自覚と真の理(ことわり)を教え、実生活に生かすところでなくて何の役目を果たすことができようか。
なぜなら、釈迦が神仏を祭ったり、偶像を祭って多くの衆生や弟子達に拝ませたであろうか。
修行する伽藍(建物)である多くの精舎は、各国の王様や長者達によって寄進されたものであり、釈迦の集団が造ったものではない。
それは男女出家者達の宿舎であり、教えを説くための殿堂であった。
またあるときは、山頂や公園の広場などが説法の場所となった。
イスラエルにおいて愛を説いたイエス・キリストも、神仏や偶像を祭って祈らせたであろうか。
多くの教会を造ったであろうか。やはりそうはしなかった。
自分の使命を悟って病める衆生に愛の手を差しのべ、あるときはヨルダン河、ナザレの丘、ヘルモン山において心の法則を説いたのである。
こうして説かれた愛の真理は現代においても不滅であり、私達は釈迦やイエスの時代の真の法にもどるべきである。
そこにこそ、心の教えはあったのであり、経文の真の精神があったといえるだろう。
宗派の争いや派閥の醜い闘争を捨て、大宇宙の普遍的法則の大道へ宗教をもどさないと、やがて多くの心ある人々からは見離されることにもなるだろう。
巷では相も変わらず宗派の争いがあるのだが、宗派の固執は己自身も救うことかできず、破滅に導いてしまうことを悟らなくてはならないのである。
真の教えであっても、実践に乏しい学問宗教は、智のみにとどまって心で悟ることができないため、行為として日常生活の中に現われてこない。
実際に聖職者と言われる人たちの中にも地位や名誉に固執する者、そして、同門のなかでのイジメや争いが実在し、金の為に人を誘惑する者までいる。
行為と真の法は不二一体であることを知るならば、人間として生まれてきた目的と使命、己の人生の価値を己自身で悟ることが可能になるはずである。
釈迦やイェス・キリストの説いた心の在り方である真の教えは、永い年月の間に人々の智と意によるメッキが施され、遂に週末の法となってしまった。
その結果、人々の多くは自分の心を失い、不調和な生活行為をするようになり、社会混乱の原因を造っている。
だが、物質経済至上主義の現世において、果たして人々は心の安らぎを得られるであろうか。否、であろう。
それが得られないから神仏に心のよりどころを求めて行くのではないか。
そして、荒(すさ)んだ社会のために不自然なご利益宗教、他力本願に狂信、盲信して、増々自分を失い、宗教指導者などの犠牲者になって行くのだ。
また、ある者はあの世の魂の存在や、神仏を信ずることなく、唯物主義に心を偏らせてしまっている。
人間社会は階級闘争によって発展して行く面もあるが、物質文明はそれによって繁栄して行くという考えを持っている。
だがそうした智と意によって心を失った人々の思想は、実は動物的本性が根底に潜在しているために、弱肉強食的闘争と破壊の社会を造ることにしか役立たなかった。
こういった思想と行動は現代でもその道を歩いているが、物質的なものの考え方に立っているため、心不在、の暴力によって血の革命を実行しようとばかりする。
平家物語の「沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす」とあるように、それはたとえ一時期成功しても、やがて衰退するときがくる。
片寄った思想と行動は、真の法則に沿ったあり方ではないため正しい心の人々まで征服することはできないとやがて悟ることであろう。
今も世界で行われている一時的な権力や暴力によって民衆を規制し、武力で鎮圧し、思想を統一しても、人間というものは、物質経済に恵まれ、生活が安定するに従って、本来の神性仏性に帰り、一念三千であるその心は自由を欲するようになり、心の安らぎを求めるように変わって行く。
このことによっても、心を忘れた智と意のみの指導者に押しつけられた思想は、たとえ洗脳などといっても、それはただのメッキにすぎなかったことを人々は悟るだろう。
いつの日か、外面的な心ないメッキは自然にはがされ、人間本来の神性仏性の素肌が現われてくるのである。
苦しみの原因は、大宇宙の法則である真の理に反した不調和な想念と行為が造り出したものだ。
不調和な思想は、人々の心に生ずる想念行為となって闘争と破壊を造り出し、苦しみと悲しみの現象となって循環されて行く。
なぜなら、闘争によって勝ち得たものは、いつの日か必ずまた闘争によって失われるからである。
このように、不調和な思想で心の悩みを解決することはできない。
人間の心は無限大に広いものであり、智と意の産物によって考えられた小さな思想でそれに枠を造ることはできない。
心は、想像することも考えることも自由自在であって、誰にも制約することはできないのである。
制約可能なのは、自分自身以外にない。
善か悪かの判断は、大宇宙の法則である調和された真理、即ち愛と慈しみに合っているかいないかによって定まる。
己自身の偏りのない正しい心に忠実に人生への想念と行為をなしているか、自己中心ではなく他人のことも考えて中道な判断をして生きているか否かによって、それは定まる。
真理は不変であって、人間の意と知で変えることはできないものだからである。
それは天の智であり、心であり、意であることを、私達は悟らなくてはならない。
それなのに人類は、永い年月の過程において、調和と破壊の同居する社会を造り出し、現世の姿があたかも自然であるが如く、物質的な物の考え方になってしまった。
この考え方は、大きな誤りである。
人間は万物の霊長であり、神性仏性をいただいた子でありながら、心が何よりも優先することを忘れてしまった点に、不調和な原因があるということを知らねばならない。
大自然の万象万物は、皆相互の作用によって成り立っており、大調和を教えている。
私達の肉体にしても、一つの細胞が狂ったり、また諸器官の一つの不調和によって、いろいろな現象が現われる。
病気というような現象がそれであろう。
すると私達は、それ医者だ、鍼だ、あんまだ、近年は整体だとすぐに騒ぐだろう。
調和は、そうしたことへの克服をもふくめて、人類の修行目的の重要課題である。
それが、上部層と下部層の闘争的などいう、この社会の様相で、果たして人類は幸福になり得るだろうか。
できようはずがない。
不調和な行為が人類を幸福に導くことはできない。
なぜなら、物質経済至上主義には心がないため、本当の安らぎを得ることは無理だからである。
権力者と、その同志に銃剣を突きつけられているような人々の人生に、真の自由が存在するであろうか。
昨日の同志は今日の裏切者、他人を信ずることもできない心は地獄の阿修羅の世界に通じ、そんな生き方は愚かというしかない姿である。
このような結果を招いたのも、一部の大地主や上流社会の人々によって独占されていた政治、経済の不平等な行為の積み重ねが、大衆の不満となって生じたものであり、指導者は良く反省しなくてはならない。
たとえ努力によって積み重ねられた経済力や地位であっても、自分自身に足ることを知らないで、より以上の執着を持ち、気の毒な人々に慈悲も与えず、自我我欲、自己保存の権化になった人間は、心貧しい人であり、低俗な精神の人間といわざるをえない。
社会に、このような人々が多いと混乱が起こる。
原因結果、作用反作用の法則は大自然界の法則、真理であって、私達の肉体はおろか、意識にも作用することを忘れてはならない。
神仏の慈悲、すなわち肉体保存のできる大自然の環境に対して、感謝の心を持ったなら、それは行為として現わさなくてはならない。
この行為が報恩である。
社会人類の調和のために、自分自身のできる範囲で奉仕することが、人間相互の信頼につながり、調和と安らぎの社会の完成に役立つことになる。
人間は本来誰でも平和な生活を望んでいる。
また誰も悲しみや苦しみの生活を望んではいない。
だが人々は、眼先の諸現象にとらわれ、心を失って自分自身に苦しみや悲しみの原因を造ってしまう。
心ない知識的な考えが不調和な思想を生み、表面的な物質経済の追及に専念させ、人間本来の使命、目的を探求することをおろそかにさせたため、人々は内面の心を忘れてしまった。
そして苦しみや悲しみ、不平等な社会を造り出し、不幸をくり返してきたのである。
このように、物質経済を否定するのではないが、あまりにも偏り過ぎた物質経済至上主義が根本だと考えている間は、人類は調和のとれた社会を完成させることはできない。
物質文明は、生活の智恵であって、決して精神文明、心の進化ではないことを私達は知らなくてはならない。
現代人は物質経済にほんろうされて、かえってあらゆる欲望の奴隷となっているのではないだろうか。
この奴隷から解放されることが、人間として神性仏性を悟る第一歩であろうと信ずるものである。
大宇宙大自然に学び、その法則、真理に適った人生を送ること、これが真の幸福へ通ずる道である。
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