カウンセラーのパニック障害

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カウンセラーのK・Yさん32歳、最近は頻繁といえるほどパニック状態になって過呼吸になり、不安感と恐怖心がおそってくるということで心療内科の処方箋をいただいてはいるものの改善されず相談に見えた。

K・Yさんは過去の出来事ではあるが、妊娠5カ月で死産を経験し、それがきっかけで彼と別れることになり、その時のショックが整理も解決もできず、これまで心の奥底にしまいこんできたのだった。

K・Yさんの心の不安、恐怖心、過呼吸についてゆっくりと90分のあいだ話しを聞くことにした。

死産した赤ちゃんの供養をお寺にお願いして、お経の勤めをしていただいたが心が晴れることはなかったと打ち明けてくれた。

このような話しを心療内科では話題にすることもなかったというが、当然といえば当然かもしれない。

心療内科では、例えそれがパニックやうつ病の原因となっている場合でも、個人の根本的な悩みを聴く体制になっていないからである。

症状を聞いて向精神薬を処方するという場合が多いからだ。

元彼の現在の彼女から嫌がらせのメールが頻繁に送られてきたことで、精神的にも追い詰められていた。

真の供養とはどのようなものであろうか、死産、水子、堕胎した子どもの供養と、巷では様々な方法をもって行われてはいますが、その実態はパフォーマンスとしか思えない内容である場合が多いように思います。

本当に経文の読経が必要でしょうか?読経によってその子たちが成仏するというプロ達の説明は信用してよいものであろうか?

さて、死産はやむなしとして、中絶するときの状況や理由としては色々あるでしょうが、いずれにしても女性にとって中絶に対する心と肉体的痛手は大きく、後々まで尾を引く人もおられるのです。

そういう女性の心に付け込んだ供養という美名の営利主義、いわゆる霊能者といわれる人たち、拝み屋、宗教団体、仏教界の僧侶たち、本当にこんなことで良いのだろうか。

正しい供養法とはいっているが、一霊に一位牌をつくることを勧めている方法。

踊らされてはならない。

間違っても死産した子どもや水子は位牌を望むことはないということと、戒名をつける必要はなく、戒名は本来、出家した場合つけてもらう修行僧の名前にすぎないということ。

永代供養しますというケースもあるようだが、これは終わりのない供養という意味であるがその必要がない。

むしろ僧侶が水子供養するより、親の心からの一度の懺悔と、二度と同じ過ちを犯さない決心こそが最も大事であろう。

明るく健やかな家庭生活、人々への愛の奉仕、そういった心の拡大こそが最大の供養となることを知っておくことです。

そのような愛の行為は天にも地にも万物に伝わる安らぎのエネルギーであるからです。

1・先ず胎児に魂が宿る(下生)のは妊娠3~4ヶ月頃であること。

2・堕胎された胎児が2ヶ月の場合はまだ魂が宿っていない。

3・胎児に魂が宿った後の堕胎の場合、胎児はこの世に生まれず、この世の汚れに触れていませんから魂が無垢のままのため執着もありません。

4・堕胎された水子霊が祟るとか、障るとかいうことは全くありません。

以上のことから、汚れていない魂は霊障をするようなことはないのです。

肩に丸い球が付いているとか、背中に乗っているから水子と結びつけるとかいうのは真実とは程遠いもので正しいことではありません。

水子の霊障?に対し、除霊や代理供養するといってお地蔵さんや供養グッズを買わせたり、位牌を作らせたり、お金をもらうことを仕事にしている人たちの都合による作り事や方便に過ぎません。

今まで言われるままに供養していたのに、別な霊能者に水子が憑いているといわれ、またお金をかける人もいますが、これではどこに行っても同じように言われて心が安らぐこともないでしょう。

大事なことは中絶した後の身体の養生と、二度と中絶をすることにならない生活をすることです。

それと死産や堕胎した赤ちゃんのためにも、人々に対して愛ある生活を心がけること。

愛のある行為は地上の人間だけではなく、あの世の人たちにも調和されたエネルギーとして届くのです。

これがあの世とこの世の連なりであり、あるべき真実の供養といえるのです。

これは想像論ではなく、大宇宙自然界の法則なのです。

そして、一度心から反省したら過去を引きずらないこと。

そして先を憂えず今日を執着せず生き切ることです。

自分の生活が偏らず、心を乱さず、何事にも執着せず生きることができてこそ真の供養につながるのです。

K・Yさんはたくさん泣き、心から懺悔をし、涙したが、それ以上にとても明るい顔で語った。

「生きるということがどういうことなのか分りました。」と。

もうパニックに陥ることはないだろう。

満面の笑みを浮かべて帰って行った。

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自分を知らない人・苦楽と努力と独善

マイホーム

営業に行った得意先のお客様にえらい剣幕で怒られて会社までクレームが届き、担当者を拒否するというケースがあった。

会社ではその担当者に変わる、別な人を差し向けたのだが、新たな担当者は、お客様は全く良心的な方であったということで会社に報告した。

その後はその新たな担当者が引き継いで、お得意様に良くしていただき、お付き合いを頂いているという。

よくよく事情を聴くと、前任の担当者は別なお客様ともトラブったり、ちょくちょくお客様からクレームがあるということだったようである。

これはいったいどういうことであろうかというと、前任の担当者の場合、自分が正しく、独善的思考、事の善悪への拘り、白黒への拘りが強く、人を裁きがちな心の傾向があった。

そのような日頃からの心が時として、言葉に温かみが無く、ときに冷たい言葉となって相手の胸に毒矢となってグサッと突き刺さる。

かたや後任者は、どんな小さなクレームにも最善を尽くし、お客様の条件に沿った営業をし、決して出しゃばらず、笑顔を絶やすことはなかったのである。

私たちは、自分を知るということがどういうことなのかを考えてみなくてはならないだろう。

「牛の歩みも千里」

牛の遅い足取りでも、やがては千里の先まで行くことができるという意味で、何事もたゆまず続ければ、大きな成果をあげることができるという教え。

努力、人は結果のみに期待はするが、努力を惜しむという悪い癖を持っているものです。しかし、人生の意義は結果だけではない。

一見、無駄なように思えることであっても、努力する過程の中に価値があり、光がある。

そのときに光明が見えなくても、後から光が見えてくる場合が多いものだからです。

「馬には乗ってみよ人には添うてみよ」

馬には乗ってみなければ善し悪しがわからないし、人とは付き合ってみなければその人の性質、本質はわからないということから。
何事も経験することによって、そのもののよさが初めてわかるのだから、始める前から軽々しく批判するのはよくないという戒め。

経験、人はややもすると困難を避けて、平坦な道を選びたがるものだ。

だが、病気をすることで健康の有難味や素晴らしさが心底身にしみるように、

多くの事を知るには、多くの困難に当たらないとその深さは知ることはできない。

、イライラしたり、反発的な気持ちが湧きあがったりするとき、肩の力を抜いて一呼吸すると怒る心がおさまるものです。

悲しみが襲ってきたら下を向かず、大きく背伸びをするがよく、

判断のつかぬ時は天を仰ぐことだ。冷静さを得ることができよう。

焦りがでたら、瞑目し、心を静めよ。我に帰ることができる。

人の心はどこまでも広がるもの

それはイメージや瞑想世界の広がりではではなく、行いによって経験からくる、物事を成し得た喜びであり、他に喜んでもらえた心の広がりである。

そのように、身体を動かすことによっても心の針を平常に戻すこともできるのである。

「人の一生は、重荷を負いて、遠き道を行くが如し、急ぐべからず」

「勝つことばかり知りて、敗くることを知らざれば、害その身に至る」

人生、人の世は苦楽の連続体です。

しかし、苦しみにとらわれてはならないし、焦ってもいけない。

何故なら、苦楽は、心の向上のための、学びの材料にしか過ぎないからである。

また不必要で、些細なことに拘って、明るく生きることの大切さを見失ってはいけない。

善人だが、暗き人

善人だが人を裁く人

明るいが是非をわきまえぬ人

いずれの人も、心に安息を得ることはできない。

語る者は多い

しかし、光を放ち

行う者は少ない。

人を裁くより

よく見て行え

己のこととして正せ。

過去の成果や栄華、功績に酔うな

そして明日に迷うな。

何事にも執着せず、

今に生きる者こそ

真の勇者である。

真の知者は知の限界を知り

知にとらわれざる者をいう。

下座にあって

一隅を照らす者

その人は、自らの内に安息と、王国を得ているものであり、

地上の天使である。

自分を知る

正しい法則に適った生活以外に、私たちの正しい心の窓が開かれることはない。

いかに特異な知識や能力があっても、正しく調和された心の法則を悟らない者は、人々に対する慈しみも、愛も、謙虚さもない人間になり、増上慢になってしまう。

そういう者は心に身勝手を持ち、言葉で人を切り裂き、行動で反作用に苦悩する。

独善

私たちにどれほどの知識があっても、素直な心がない場合には、自分の考えにとらわれ、視野もせまくなって、往々にして独善の姿に陥りかねない。

お互い人間というものは、常に過ちなく物事を考え、行なっているかというと、なかなかそうもいかないようです。

たとえ自分ではまちがいない、正しいと思い込んでいたとしても、客観的にみれば、ずいぶん道を外れ、誤った姿に陥っているというような場合が少なくないということもある。

ところが問題は、その過ちを自分自身ではなかなか気づかない、気づくことができにく いということです。

気づかないどころか、むしろ間違いない、これが正しいのだ、と決め込んでいる場合が少なくないのである。

これはまことに困った姿です。というのは、そういう姿では、もし仮に他の人びとからその間違いを指摘されたとしても、それを素直に受け入れることは少なく、往々にして、それをいわば非難や中傷であるかのごとく受けとりかねない場合もあるからである。

相手の言動に対し、正邪、善悪をハッキリさせなければ、白黒つけなければと正義感をもって臨むことによって、逆に冷たい仕打ちを受けてしまう場合もあるでしょう。

しかし、こうした行為も過ぎることによって独善の姿に陥ってしまったのでは、さらに他との摩擦、トラブルなどの好ましからざる姿をもたらす場合もある。

ではなぜこうした独善の姿が生じてくるのかというと、もちろん見方、考え方はいろいろあるのでしょうが、こうした好ましからざる態度、姿や、事態というものは、やはりお互いに素直な心が働いていないところから生ずる場合が多いのである。

というのは素直な心が働いていない場合には、やはりどうしても自分の考えのみにとらわれてしまい、 自分が正しいというように思い込みやすくなるからです。

こういった傾向は一つの人間関係をみるときに、自分が正しいと思い主張している人の姿が第三者から見た場合に必ずしもそうではない場合がある。

傾向として独善的思考や言動になりがちな人の場合は孤立しやすく、敵対する場面が多いことをみれば、その様子をうかがい知ることができるであろう。

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節度・協調を持って

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戦後68年、日本の経済は鉄鋼、造船、自動車、電化製品などを中心に、異常なまでの発展を遂げてきました。

その成長率はたしかに、世界の注目に値したでしょう。

しかし天井知らずの高度成長は、日本の国土をいびつにする勢いであり、産業優先の経済政策には、人間を海に追い落す役目を果たしているかのような錯覚すら感じられました。

政府も、産業人も、時の流れを忘れ、高度成長に酔っていたかのようでした。

ニクソン声明(金とドル紙幣の交換停止は世界経済に多大な影響を及ぼした経済政策)は晴天の霹靂(へきれき)だったからです。

予測されていたとはいえ、株式市場は、その驚きをうつして戦後最大の暴落を演じています。

ドルショックの名にふさわしい仰天ぶりでありました。

アメリカの不況の第一は、ベトナム戦争による膨大な出費に原因があり、日本の好況は、その間隙をぬった利益追求の経済競争にあったといえるでしょう。

当然、その反作用はいつの日か訪れてくるものでした。

ニクソン大統領は、まず中共に手をのばし、戦争終結の希望を託し、次いで、大国のメンツをかなぐり捨てる声明となり、声明が出た途端に、我が国の高度成長にブレーキがかかりました。

いずれこうなるであろうことはわかっていたことではあろうが、しかし、誰かが荒療治しなければ、アメリカも、日本も、それこそ本当の大恐慌の洗礼をうけなければならなかったでしょう。

なんでもそうですが、出る杭はうたれるのです。

出すぎても、引っこんでも反作用はついてまわります。

日本の経済は、近年まですさまじいといっていいほどの伸びでありました。

明治以後の経済事情として、こんな経験は初めてでした。

しかしそうした成長のかけ声の陰では、公害は都市ばかりではなく、農村や山間部、そして海にまではびこり、その自然破壊は、人間生活の安否にまで発展してきたのです。

近年の中国内の政情をみると強硬姿勢をとることで、近隣の国々と摩擦を起こしているし、先日はまた、一方的な防空識別圏を新たに設定して、日本だけではなく、韓国やアメリカも反発し、世界的な問題となりました。

対話の外交を呼び掛けたかと思うと、次々と新たな問題を勃発して相互利益を失うような宣言をしているのは残念なことである。

国内の風俗習慣にしても、糸の切れた凧(タコ)のように、あてのない空間をさまよっています。

いったいその原因は何でしょう。

いうまでもなくそれは人間の自我心であります。

人間は悲しきかな、宗教などで心を学んでいながらも、相手の立場を考えず、自分の都合だけで物を言い、相手の心をグサッと突き刺す人もいるのであるが、そしてその事に気づいていないのである。

そして他人だけでなく、そういった心が原因で、自分の子どもまでもダメにしてしまっていることにさえ気づけないでいることは悲しいことである。

他人事だと思ってはなりません。自分の心と言動を点検していただきたい。

こういうことは、執念にも等しい自己保存(自己中心)と、競争意識が、個人にも集団にも作用しているからにほかなりません。

高校や大学の殺人的入試ひとつとりあげても、その事実がはっきりと現われています。

かつて、日本の高度経済成長の骨格は、こうした自己保存という自我にもとづいた無秩序、無節操な経済競争にその原因がみられるようです。

個人でも集団でも、節度、協調、勇気、平等、感謝報恩、そして慈悲、愛という心を失うと、家庭も社会も分解します。

なぜなら、自然はそうした法則の下に運行しており、人間だけがこの例外ではないからです。

人間の社会をより円滑に、健やかに、豊かに永続的に発展させるためには、節度、協調といった、偏りのない、中道の心を尺度とした、助け合う環境をつくることがまず必要でしょう。

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親子の情愛・うつ病からの脱出

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38歳の独身女性Aさん、うつ病で8年間体調不良(不眠、頭痛、腕の震え、無気力、倦怠感、食欲不振)が続き、精神科に通院し、高額なお金を負担しながら定期的に民間のカウンセリングを受けてはきたが、全く改善されず困り果て、知り合いから紹介されたということで、うつろな目で相談にみえた。

彼女は向精神薬と胃薬、鎮痛剤を含めて7種類の処方箋を服用していた。

毎度のことではあるが驚くばかりの薬の量であり、作用が重複している薬の多さには唖然としてしまう。

薬が増やされてから震顫(しんせん・ふるえ)が始まった。腕の震顫は薬の副作用である。

最初はAさんが相談にくるまえにお母さんが相談にみえたのだが、翌日、本人に来ていただいた。

いつものように私は相談者の心の深層にアプローチしていく。

Aさんが小学生のときに、お母さんがAさんの幼い妹だけを連れて家を出たのだが、一人残された悲しみ、淋しさ、このことがAさんの心の奥底に深い傷となって残っていた。

その後に母はAさんを不憫(ふびん)に思い帰ってはきたが、その傷は消えることはなかったのである。

Aさんは泣いた、泣いた。

さらに二年ほど前に自分を可愛がってくれたお爺さんが闘病の末に亡くなったことを機にうつ状態が酷くなったことも話してくれた。

Aさんは根が真面目で良いのだが、ひとつの事に拘る傾向があるために、それを長期に引きずる傾向があるようだった。

彼女の心にはこれまでの38年間の不必要な心の曇り、垢が溢れるほどに詰まっていたのである。

私は話し掛けた。

「あなたの事を愛してくれたお爺さんにはどうあって欲しいと思いますか?」

「最後が辛そうな闘病生活でしたから、しあわせになって欲しいと思います。」

「お爺さんがしあわせになるためにはどうしたらよいでしょうね?」

「わかりません」

「あなたがお爺さんを思い悲しまないことです。あなたの悲しみはお爺さんの心をこの世につなぎとめる呪縛の力となってしまうのですよ。あなたが心からお爺さんに感謝することはお爺さんの心に明るい光となって響くのです。

その感謝とは言葉だけではなく、あなたが何事にも執着せず、不必要に拘らず、自分の人生を生き切ることなんです。これがお爺さんの恩に報いること、すなわち、報恩となるのであって、真の供養なのです。

あなたが笑顔で生きている姿をお爺さんがみたら、お爺さんはどれほど安堵するでしょうか。」

「自分がお腹を痛めて産んだかわいい子を置いて出なければならないお母さんの置かれた状況はどれほど厳しいものだったのでしょか。

お母さんはそのことを心から反省し、あなたに対して懺悔の気持ちしかないのです。

許してあげなさい。お母さんが出なければならなかったのはお父さんにも原因があったのです。今はお父さんも深く反省していますよ。

またAさんは泣いた、泣いた、私までがもらい泣きするほどにAさんは嗚咽していた。

2時間のカウンセリングが終わった後の顔は笑顔がこぼれ、うつろな目が消えて別人のようだった。

後日、紹介者からから連絡が入った。カウンセリングのあと、帰りの車中で娘からお母さんにいろいろと話しかけ、お互いに話し合い、喜びの涙を流しながらの2時間半の帰途であったと。

親子の情は言葉では表現しきれるものではなく、幼い頃の自然体の愛情がどれほど豊かな子供の心を育むものであるか、私はいつも思い知らされる。

Aさんは、一週間後の来院を約束して帰って行った。

話しは一転しますが、私が生まれ育ったのは農家だったために、豚舎があり、豚の出産には子供のころから立ち会って取り上げ、お産の手伝いをするのが常だった。

子豚が小さいうちは親から隔離しないと圧迫死する場合がある。

この危険があるから隣の部屋に離しておき、時間が来れば出してお乳を飲ませるのだが、この授乳は小学生の私の仕事だった。

一度の出産で生まれた10頭前後の子豚たちは、競って母の乳房にむしゃぶりつく。

生命の誕生や死を、幼少の頃からみてきたことが私の犬好きを助長したのかもしれない。

動物は生まれるとすぐ歩き出して行動する。

人間は生まれて一年くらいしないと歩き出さないし、自分では着ることも食べることもできず親が世話をしてやらなければなりません。

そのために、ダーウィンの進化論を盲信している医学者や動物学者達は、「動物は人間より胎内で進化しているのである、人間は動物ほどの進化をしないで未熟なままで生まれる、だからそれだけ手がかかるのである」といっているのです。

しかしこれは、生後すぐに歩くか否かを論じているのであって、本当の進化という意味においては生後すぐに歩くかどうかで進化を論じてはならないだろう。

動物の世界においては、生後すぐに歩けなければ天敵の餌食となってしまうことになり、子孫は残っていけないことになる。

動物が生後すぐに歩くのは自然界の仕組みでもあろう。

そのように肉体的なことだけで判断するのは間違っている。

ダーウィンの進化論を信ずる人達の盲点は、肉体的、身体的なことだけを見て「心」の発達を無視していることにある。

動物の赤ちゃんは生まれた時から毛皮という着物を着て生まれてくる。

人間の赤ちゃんは裸で生まれてくる。

目も見えない、つきっきりで世話しないと赤ちゃんは生きられないのである。

そのように世話するようにつくられてあるところに、私は天の深い慈悲という意義を感ずる。

赤ちゃんを世話することによって親子の情愛は深くなり、愛の神秘さを経験することになる。

その愛情の如何によって子どもの精神的な成長、その子どもの人格の発展に大きな影響を与えることになる。

そのことについて先人達の経験が生み出した諺(ことわざ)が「三つ児の魂、百まで」ということである。

育児の本を買って勉強して、その通りにいかないことでかえってノイローゼになって相談に見えた若いお母さんがいましたが、学問的育児学だけに頼ってばならず、また囚われてはならず、もっと人間のもっている感性を大事にしなくてはならないとうことであろう。

心の発達とは

私の母親もそうであるが、戦前の母親達は育児学というものは全く知らなかったし、そういったものがなかった。

それまでの母親達の経験に学んで教えられてりっぱに子どもを育ててきた。

最近の若い母親達は、育児書なしには子どもを育てられなくなっている。

育児書が与えてくれる科学的な知識とはなんなのか。

「育児学」という言葉は、フランスの医師ロマンによって、1858年に初めて使われたということになっているようです。

例えば、今から200年ほど前のフランスでは、当時の女性は十五~二十人くらいの子どもを産むことは、さしてめずらしいことではなかったようです

しかしそのうちのわずかな子どもしか生き残ることはできなかった。

それで子どもをどうやって生かすかということが切実な問題であった。

乳児の死亡率をいかにして減少するかということである。

衛生的にりっぱに育つようにという育児学によって乳児の死亡率は減った。

しかし、身体的、肉体的な面だけが重視されて、心の発達は全くとりあげられていないのである。

胎内で赤ちゃんは安らかである。

もちろん後に書くように、妊娠しているお母さんの心の状態が赤ちゃんにいろいろな影響を与えるのであるが、一般的にいって胎内の赤ちゃんは安らかである。

裸で生まれた赤ちゃんは早速、お母さんの胎内にいた時と同じ温度にあたためなければならない。

教えたわけでもないのに赤ちゃんは自然にお母さんの乳房を求める。

授乳することになる。

そして排泄が始まる。

赤ちゃんは胎内にいた時の心の安らかさを記憶している。

胎外に生み出された赤ちゃんはお母さんのふところに抱かれた時に胎内で経験したと同じ安らかさを感ずるのである。

なぜ赤ちゃんは頭を左にして抱くことが多いのか、「赤ちゃんを抱く時は、頭を左にして抱きなさい」と誰から教えられたわけでもないのに左にして抱く。

なぜそうするのか。ここにも神秘的な天の慈悲を感ぜずにはいられない。

胎内の赤ちゃんが、一番最初に聞く音は、お母さんの腹部大動脈を流れる血液の流れの音である。「ドク、ドク、ドク……」と一定のリズムをもって心臓から血液が送り出される。

赤ちゃんは胎内でその音を聞いていた。

心は安らかであった。

いざ、胎外に生み出された赤ちゃんの頭を左にして抱くと、そこにお母さんの心臓がある。

そのお母さんの左の心臓のところに頭をつけて赤ちゃんは「ドク、ドク、ドク……」という、胎内で聞いていたと同じ、なつかしい音を聞くのである。

すると胎内にいた時の安らかさを思い出して泣きやんでスヤスヤ眠るのである。

教えられもしないのに自然に赤ちゃんの頭を左にして抱くことの不思議さ、その神秘にわれわれは感動しなければならないだろう。

心を育てることは妊娠した時から既に始まっているのであって、以前に投稿してある胎教1~6という言葉がそれであります。

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夫唱婦随・真の安らぎ

夫婦愛

安らぐ家庭

『最近、主人は仕事が忙しくストレスもかなり溜まっているようで、家庭では少しでも安らいで欲しいと願っています。主人は「○○(私)の顔を見るだけでホットする」といってくれますが、精神的にも辛いみたいで助けになりたいです。男性は奥さんに何をしてもらえば嬉しいのでしょうか?、どんな時、癒しを感じるのでしょうか?』というお話しがありました。

この奥様の気持ちはご主人に伝わっていることでしょう。

ストレスが溜まっていながらも奥さんに、顔を見るだけでホットするって言ってくれるご主人もとても心優しい方なのだということが伝わってきます。

そんな関係のご夫婦でしょうから、いつも通り食事し、お話しをされて、奥さまも甘えればよいのです。

ご主人も愛する奥さまを守るためにつらい仕事に耐えているのでしょうから、奥さまが明るく接してくれているのが一番心が癒されるはずです。

そしていつも感謝している事をさりげなく生活のなかで伝えられれば、それで良いのではないだろうか。

また、環境や条件が許されるならば旅行などに行って日常から離れるのも良いかもしれません。お互いを思いやる、穏やかな愛が感じられ、素晴らしいご夫婦だと思います。

夫婦の縁

なぜ家庭に帰ると心が安らかになり、

なぜ家庭が崩壊すると心がむなしく淋しくなるのか。

夫婦の縁はどうして決まるのか。

私たちの心はいつも動いています。

これを無常と言います。(常ではない、そのままではないという意味)

女は一人では生きてゆけない、女は男に頼らなければならない弱い者であるからとか、そうした経済的理由によって結婚してはならないでしょう

女が家事、出産、育児に専念することは、男が外で働くのと同じように価値のあることであって、役割が違うというだけのことでありましょう。

男と対等になるためには、女の役割を捨てて、男と同じように外で働いて収入を得なければならないという社会であってはいけないし、またそういう考えであっては、女は絶対に真の幸福になれないのである。

女の幸福は、男にはできない女の役割を充分に果たすことによって、男性の尊敬を得るということの中にあるのではなかろうか。

また男性としては、いくら共働きのじだだとはいっても、女性が家事、育児に専念しているのを見て、自分で収入を得ないから男より劣っているというように女性を見てはならない。

従来の夫唱婦随(夫婦の仲が非常によいこと。夫が言い出し妻がそれに従う意)の道徳が、亭主関白となってきたのは、男性の誤った女性観にプラスして、女性白身が自分を弱者としてみる見方が、そうさせたところが大きいだろう。

これを正しく理解して取り戻すには、女性は家事、育児に専念することが、男が外で仕事する以上に価値のあることであることを認識しなければならないのである。

だからして、女が経済的理由によって外で働く心理の底には、口では男女平等といいながら本来の女の役割である家事、育児をつまらない仕事だと見たり、女は弱い存在だと思っている心があるからではないのか。

その心が潜在的にある限り、どんなに経済的に収入があっても、心の淋しさを隠すことはできないのです。

実際のところは、女が女自身を弱者だと見るのは、その肉体的構造からきている場合が多いのだが、女はその肉体的特徴の故に自分を弱者だと見てはならないのである。

それは、女に与えられた神聖な役割の象徴(勲章)なのであって、女はむしろそれを誇りとして、その与えられた役割を充分に果たさなければならないのです。

故に、女は、その役割を果たした時に初めて心の底からの幸福感を感ずるようになっているのであり、女の役割を放棄して、どんなに他の方法で幸福を追求しても、それらの方法では真の幸福感を感ずることはできないようにつくられてあるのである。

男は、女を、女の肉体的構造、特徴、その役割の故に、男より劣っているもの、弱者と見てはならないのである。

これまでの歴史の中で、女を不幸にしたのは、男のそのような見方が原因であったのですから、男は女をよき人生のパートナーとし、尊敬し、女の性を大事にしなければならないのである。

男は、女の性の前に跪(ひざまず)く謙虚さを持だなければならない。

家庭とは、因縁によって親子、夫婦、兄弟姉妹となった者が、それぞれ固有の魂を頂いた人間であることを自覚し、霊(魂)を磨いて向上していかなければならないということだ。

男女は、神がつくられ造られた共通の生活の場所において、家庭に帰るということは、神のふところに帰るのと同じであり、神のふところに帰った安らかさ(宇宙大自然によって生かされている喜び)、それは真実の家庭に帰った時の安らかさと同じものである。

だからして、特に男性が家庭を大事にすることは神の意思を大事にすることであり、家庭を粗末にすることは神を粗末にすることであり、自分の都合とはいえ、家庭から逃げて自分だけの世界に迷妄し、ほったらかしにして真の幸せはないのである。

小さなことにいつまでも拘り、プライドを砕かれて意気消沈しているその姿は、人生の本らの目的や意味を理解することなどできていないだろう。

大きな視点に立ってみると、小さなことに拘っていたことに気づかされるときがあるものだ。

夫よ、不要なプライドなど捨ててしまうがよい。そのほうが楽に生きられる。

妻よ、男が嫌いな嫉妬は捨てるがよい。そのほうが自分も夫も笑顔になれる。

おかみさん」とは良く言ったものである。

「おかみさん」を粗末にして、「お神さん」を大事にすることなど有りえようがない。

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間違った努力・ぶれない生き方

紅葉

戻るべき場所に帰る

心はそもそも、ぶれるものだと言います。では、どうすれば悩みから解放され、苦しみを乗り越えられるのでしょう。

心がぶれない生き方・・・・「理想だけれど難しい」というのが実感ではないだろうか。

日頃の自分をふり返れば、腹が立つ、苦手なひとがいる、いきなり病気や災難に襲われる、胸の内には淋しさや不安、忘れたくても忘れられない過去がいつもつきまとう。

苦しい思いもする・・・・「さて、どうしよう?」と考えるけれど、解決策は見つからない。

正直なところ、心は自分でもどうにもできないところもあり、心は、そもそもぶれるものというのが本音だよとお考えの方もいるかもしれません。

そこからどう抜け出すか。この辺を検証してみましょう。

ひとつには「余計な分別はしない。」というのがあります。

人は目の前の出来事を「良いとか悪いとか」「好きとか嫌いとか」つい判断してしまいまがちであり、白黒つけたがります。

自分にとって都合が悪く、よからぬ現実に直面すれば、これはいけない、なんとかしなくちゃと「闘おう」としてしまう。

しかしそう考えれば考えるほどに、疲れや怒り、うずくまってしまうというのが常であり、苦しみはとても身近な出来事であろう。

間違った努力をしないために

こうした分別、判断に対して先ずは一旦、「待つ」こと。

分別、判断とは「我がつくりだす反応」であって、そこから始めるのではなく、ワンクッショッおいて「ありのままを見てみましょう」というのです。

そのための「待つ」なのです。

なにごとも最初は事実確認から。深呼吸して、落ち着いて、いま心に何か起きているのか感じとろうと心がけます。

①怒り(不満)がないか。

②求めすぎる心(欲や期待)がないか。

③無理に答えを求めて心が囚われていないか。

もし、これらに該当する条件が一つでもあるとすれば、それが苦しみの原因となっているといえるのです。

安心を他に求める人は、相手にしがみつきながら、相手を信じられないという悲劇を背負うことになります。

これが「求める心」が常に勝っている人の心理であります。

心が成長し、ぶれが無くなる為には、現実をそのまま、ありのまま認めること、否定するから苦しくなるのであることを深く知って、心に落としておかなければなりません。

心を和らげるためには、先ずは起きている事実の肯定からということです。

心の修養をしようと思うならば、静けさのなかで、自分の心の内側をひたすら見つめます。

これが「よく気づく」こと。

自分の心に強引さはなかったか、無理押しをしなかったか、偏った考え方をしていなかったかです。

一日五分でも、ひとり静かに心を見つめて、怒り、欲、妄想の三つがないかを確認してみる。

ぜひ試してみてください。

ずいぷんと心が健康になっていきます。

ぶれない人生の原理原則は心のバランスを取り戻すこと、それを維持することだといえるでしょう。

一つの思いをよりどころにして、そこにいつも立ち返ること。心の原点に立ち返ること。

右にも左にも、上にも下にも偏らない、客観的思考を忘れないことが、中道という原点であり、ぶれない心ということです。

そうはいっても、もともと人の心は揺れるものと言いたいでしょう。

でもその中にあって、いざいつでも戻るべき場所があれば安心できるのです。

「これこそは真実」「これは私にとって正しい」と思える心がけ。

その心がけを人生の指針とするのです。

心のぶれ、苦しみの源。これらを素直に観察することを心の習慣にしましょうというのです。

心をありのままに見つめるように心がけると、それだけで胸のざわつきが静まるものです。

では、人生の指針となる心がけとはどういうものか。

究極のところひとつです。

それは〈慈しみ〉の心を忘れぬこと。

自分の家族、友人、縁ある人々、これから出会うだろう人々、この世で生きているすべての命に「幸せでありますように」と思える心であります。

私たちは、ついつい自分の欲や不満に自分自身を閉じ込めてしまいがちです。

しかし、自分ひとりの思いにしがみついている限り、人生どこにも行けませんよ、命はもっと広く深いつながり(因縁)によって続いているのだから、その真実に思いをやって、自分以外のだれかの幸せのために命を活かしなさい、それが一番の幸福への方法ですよ、と言いたいのです。

ちなみに私自身のことを申し上げますと、及ばずながらも時間の都合がつく限りは、希望して相談においでになった方々に、出来る限りの対応はさせていただいております。(無償)

私は20代、30代の前半は失敗だらけの人生でしたが30代後半になってからようやく生活が少し楽になり、50代に入ってから人の為にということも考えられるようになりました。

人生で大切なのは正しい動機、心がけ。それは慈しみだろう。

その思いに立ってひとさまのために何かしらできることをという思いに到ったのが50過ぎてからです。

無理をして倒れて、ひん死の状態になり、あの世も往復したおかげで気づかせていただいたこともあります。

それが生老病死です。

自分を見失わない

心をつねによく客観的に見つめること。

慈しみの心から人生をスタートすること。

それだけでも、かなり環境も自分も変わります。

たしかに人生に悩みはつきもの。でも自分の心そのものが悩みに染まってしまったらもったいない

心は何か起こるたびに動揺する、翻弄される。

しかし、そんな常にあって、「これだけは忘れないようにしよう」「苦しくなったらこの思いに帰ろう」という場所があれば、自分を見失わずに日々を乗り越えていける。

それこそが「ぶれない生き方」ではないでしようか。

最近お会いした17歳の女子高生。中学の時に三分の二は学校に行けず自宅での学習、高校生の現在も時々休みがちだった。この子は素直で優しい子です。

繊細な心も持っており、友達を思いやることを知っている子ですが、小学生の時に心ない女性教師の乱暴な言動に恐怖心をもっていたのである。

そして、似たような教師に中学生のときにも巡り会わせていたことも話してくれた。

そういった恐怖心が対人恐怖症的な精神状態にまで陥り、友情のスムーズに円滑さを欠いていたのである。

学校内でのカウンセリングを受けてはいたが、登校できずにいました。2回にわたって約3時間、この子の話をよく聴き、心の叫びをすべて受け止め、諭した。

「あなたのような優しい心をもった女の子こそ、学校にもクラスメートにも必要なんだよ。」と。

翌日、お母さんから連絡を頂いた。「娘が学校に行き始めました」と。

何かをこの子は発見したのだろう。

気づくことを「正念」と呼び、ありのまま悩みの源を正しく理解することを「正覚」といい、余計な分別をしないことを「捨る」、「手放す」と表現し、こうした良き心がけに立って幸せに向かって生きていこうと決意することを、「信をもつ」と言い表します。

ぶれない生き方とはこういうことを言うのです。

ぶれない生き方、は難しいけれど可能なのです。

今日を生きる。揺れる。ときに見失う。

でもどんなときも、正しい心がけを忘れない。

慈しむ。

思いやる。

よからぬ思いは気づいて手放す

そうした思いに立ち返って、また新しい一歩を跏みだせばいい。

そうした日々をあとで振り返ってみたときに、自分が歩いた後には、案外ぶれのない自分らしい道のりができているでしょう。

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夫婦の調和・出生の真実・親子の縁

夫婦喧嘩

若い夫婦へのメッセージ

親と子の幸福は切り離せない。

結婚すると子どもが生まれる。

夫婦の関係は同時に親子の関係でもある。

親の苦しみは子どもの苦しみとなり、子どもの苦しみは親の苦しみとなる。

親は幸福で何一つ不自由はないといっても、子どもが不幸になれば親も幸福でなくなる。

育児うつということで相談にみえた若いお母さんがいたが、別居状態にまで至っている。

若い夫婦に子どもが産まれたら親となるのだが、若い親達は、自分達だけのことだけに翻弄されて自分たちが置かれている立場、状況ということをあまり把握もできず、考えていないようなところもある。

特に、自分達の夫婦としてのあり方が、子どもにどう影響するかなど、全く考えていない人もいるのですが、考えていなくても、子どもが生まれれば考えないわけにいかない。

どうせ考えないわけにはいかないのですから、生まれてから慌ててどうしようなどと考えるより、生まれる前から充分に考えておく方が賢明でしょう。

勿論、夫婦としての在り方のことであり、家庭生活の有り方の事です。

要するにここで言いたいことは、健康で、よい性格を持った子どもと、病気がちで、歪んだ性格を持った子どもと、どちらの子どもを持つ方が親にとって幸福なのか、ということです。

当然、前者でしょう。

そこで、健康で、よい性格の子どもを持つにはどうすればよいか、どういう時に病気がちで性格の歪んだ子どもができるかを、知る必要が生ずるわけです。

さて、日本の「神道」では「女先立ちてふさわず」と教えているのですが、女が先に立って男を尻に敷くと、「蛭子」、即ち足の立たない小児麻痺の子どもが生まれたというのである。

この事は何を示唆しているのであろうか。

天は天で、地は地であること。

上のものは上に、下のものは下に、それが自然の法則であって、この自然の理に反して、地が上に、天が下にというように天地逆転すると、そこに自然の理に反したという戒めが生ずるのである。

男は男としての役目を果たし、女は女としての立場を守り役目を果たすことが、自然の理に沿う生き方とであるということであろうが、これが反対になってしまうから問題がおきてくる。

そいうとき人間は、その戒めとしての凶事、禍という現象だけをみるから不幸と受け取るのであるがそうであってはいけない。

禍は進歩と成長へのメッセージと謙虚に受け止めてこれまでの生き方を省みて改める必要がここに生じるのである。

キリスト教では夫婦、親子の問題をどう教えているであろうか、一例を記します。        
『われ結婚したる者に命ず(命ずる者は我にあらず主〈神〉なり)、妻は夫と別るべからず、もし別るる事あらば、嫁(とつ)がずして居るか、又は夫と和(やわら)げ。

夫もまた妻を去るべからず、もし或る兄弟に不信者なる妻ありて偕(とも)に居ることを可(よ)しとせば、之(これ)を去るな。

また女に不信者なる夫ありて偕(とも)に居るを可(よ)しとせば、夫を去るな。

そは不信者なる夫は妻によりて潔くなり、不信者なる妻は夫によりて潔くなりたればなり。

然(さ)なくば汝らの子どもは潔からず、然(しか)れど今は潔き者なり。』

一旦結婚をした以上は別れてはならないというのが、神の命じ給うところであろう。

だから結婚した妻は、夫と不調和であったら、どうして別れようかなど考えないで、どうして夫と調和しようか、ということだけを考えるようにせよ。

もし、ある夫に、神様も信じない、できの悪い妻があったとしても、この妻を離縁するというようなことをしてはならない。

また、妻は、夫が神を信ぜず、できの悪い夫であったとしても、その夫と別れようなどと考えてはならない。

神を信じない、できの悪い夫は、神を信ずる、できのよい妻の行為を見、且つ、学ぶことによって夫もよくなり、また、神を信じない、できの悪い妻は、神を信ずるできのよい夫によって、神を信ずるよき妻となるためであるのだ。

そのような姿勢で夫婦のあり方をすると、厳しい現実でも、子どもはりっぱに育つけれども、もし、そうでなく別れるというようなことをすると、子どもの心に悲しみや、怒りがうまれ、素行不良となり、不幸になるのである。

『子たる者よ、なんぢら主にありて両親に順へ、これ正しき事なり。なんぢの父母を敬へ、これ約束を加へたる戒命(いましめ)の首なり)。

然(しか)らば、なんぢ幸福を得、また地の上に寿命長からん。

父たる者よ、汝らの子どもを怒らすな。ただ主の薫陶(くんとう)と訓戒とをもって育てよ。

子どもは、神を愛し信ずると同じような心で両親のいうことに順え、それがもっとも正しいことである。

「父母に感謝せよ」

このことが父なる神と、子との間にあって、子たる者が順い、且つ、守らなければならないことのうちの第一番に守らなければならないことである。

そうあると、子たる者は幸福となり寿命を全うすることができる。

ということは、親に感謝しない者は、不幸となり本来の寿命をまっとうできないということになる。

父たる者よ。とあるが、父という言葉は母という言葉に対して使われる言葉ですから、母をも含んでいることになります。

子どもを怒らせたり、悲しませたり、子どもの心を苦しませ悩ませるようなことをしてはならない。

もしそういうことをすれば不幸になるということである。

夫婦間で問題が発生し、夫婦が自分たちの都合だけに右往左往していて家庭の何たるか、夫婦の何たるかさえ見失っている家庭の夫よ、妻よ、あなた方は自分と同じ罪を子どもに背負わせるのですか。

神が人を愛し給うように、親は子どもを愛し、慈しみ、人として守らなければならない戒めを、親自らが実践して子どもを育てなさいということです。

そうすればみな心から幸福になるのである。

ここで注意しなければならないことは、もし、子どもの不幸に泣く親があったら、その親は、子どもの不幸を嘆く前に、自分は親を泣かしてはいなかったか、親不孝してはいなかったか、ということを反省しなければならないということです。

そして、そのことを良い方向に改善するためにも自分一人のことにばかり囚われず大きな視点で人生をみるということをしなければならないのです。

自分の為したことは良くも悪くも子供に影響します。

因果は巡るというが、私たちの生活の中で気づいてはいなくても、そういったことは常につきまとっているのです。

そのことを反省せずに、子どもだけを良くしようとしても絶対に良くならないということである。

迷える夫婦よ、自分だけの世界に入って苦しむなかれ、心の調和の意味を考えるべし。

2500有余年前、インドの釈尊は、「年寄りを大事にし、親を大事にする国は絶対に滅びない」と教えられました。

夫婦が争っていたのでは親に心配を掛けるばかりで、親を愛したことにならない。

また、子ども夫婦が孫と争っていてもその親を愛したことにならない。

ここを深く悟っていかなければなりません。

子供の心を大事にしようと思うならば、自分の小さな我を捨ててしまうことである。

親を大事にすることの中には、夫婦の調和、親子の調和が含まれているのであり、イエス・キリストが「自分の親を愛すると同じように、年長者を愛せよ」といっていられるように、年寄りを愛する心は、親を愛する心と同じ心から出るのである。

釈尊やイエス・キリストが言った、この「親を愛せよ」という教えのポイントから中国へ伝えられ、中国の儒教の教えと一緒になって「父母恩重経」というお経がつくられたのである。

「このようにせよ」ということは、「そのようにしなかったら不幸になるぞ」ということを同時に教えているのであって、夫婦親子の関係は、一体であって切り離して考えるわけにはゆかない。

だからこそ、健康でよい子どもを持つにはどうすればよいか、病気ばかりして親を苦しませるような子どもを持たないようにするためにはどうすればよいか、こういうことは、当然、結婚をする前に「結婚の心得」として知っておいたほうが良いのである

人間の出生について

人の出生は、心の世界、すなわち非物質の4次元世界から物質世界の3次元であるこの地上界に、両親の縁によって肉体をいただくものであります。

そうしてその両親を誰によって定めたのであろうかといえば、それは自分自身であろう。

天上の世界において、両親となるべき人たちと相談し、了解を得ることによって結ばれたのである。

地上における生活をみても、路傍の人に金を無心したり、なれなれしく言葉を交わすことはまず少ないはずだ。

交際し、気心がわかってくるにしたがって、情が移り、相互扶助の関係が強くなってくるのである。

親子の関係もこれに似て、天上界において相互の約束の下に、もっとも修行しやすい縁を求めて結ばれるものであろう。

ところが私たちは、肉体を持ってしまうと肉体の五官である眼、耳、鼻、舌、身によって、心を惑わしてしまう。

同時に、この心に内在する自我は、その自我発祥地や過去世に連結れていて、それがカルマ(業)となって、それぞれの性格なり、個性を形作っているのである。

だから、肉体を持ち五官の影響をうけながらも、人によって、その感じ方、受け取り方がちかってくるのである。

それゆえ、同じ肉身でありながら、親の心、子の心がわからない場合が多いのです。否、子供が成長すると、たいていは子供は親からいよいよ遠のいてゆく。

いちばん近いはずの親子が、心の世界ではもっとも遠いところで生活しているのが親子の関係ではないだろうか。

これを裏がえすと、魂と肉体とは、本来別々であるということがいえるのである。

親子による争い、兄弟は他人のはじまりというような結果がしばしば生じてくるのも魂の所在なり、転生輪廻の遍歴が違うためにおこってくるのである。

しかし、そうであってはならず、そうならないためには、いま、自分がこの地上に生を受けた事に対し、どれだけ感謝の心が持てているかを省みて点検する必要があります。

これは欠かすことのできない人間としての原点である。

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医食同源・ガン克服メニュー

病気

「医食同源」

この言葉は大抵の人が聞いたことのある言葉であろうと思います。

先日行った私が主催する『心と体の健康教室』で取り上げた具体的な食養について、このブログにもアップしておくことにします。

これは病気をした人たちが食事について様々な取り組みをしておられることを承知のうえで、敢えて、ここに提案するものですが、決して強制でもなければ、これがすべてということもありませんし、その効果を確約するものでもありません。

しかし、実際にガンを克服された方々がおられることも事実であります。

病気をしている人それぞれの各自が、主治医の先生からアドバイスをいただきながら努力をしておられるであろうし、当然、ご自分のお考えもあることでしょうから、それはそれでよろしいかと思います。

ここに提案する内容については、あくまでも参考にしていただければと思い掲載するものであります。以下本文。

「人生を変える健康法」

ガン細胞は、その細胞自体が増殖するスピードが通常の細胞よりも速く、増殖に当たってはより多くのブドウ糖を必要とします。

大切なことはガン細胞の増殖を、どうしたら自然な状態に戻せるのか、増殖を弱めることができるのかという点に注目したい。

そのために身体全身が本来の正しい状態で働いているかどうか、血液が酸性に傾いていないか、などは重要な条件であろうと思いますし、このことは医学でも重視しているところでもあります。

癌の食事療法

食事のときに心がけるべきこと。

1・腹八分を守る(食べ過ぎはカロリーオーバーだけでなく、自律神経の働きさえもアンバランスなものにしてしまう。)

2・食べたものが未消化物となって体内毒素になら ないようにすること。(未消化とは胃腸での消化という意味だけに限らず、エネルギーとして使い切っているかどうかであり、カロリーオーバーは弊害以外の何物でもない。)

3・老廃物はすみやかに体外に出すこと。(病気全般にわたり排泄ということは重要な課題である。快食、快眠、汗、大小便)

4・特に健康回復の途上にある人は、消化の負担にならないで効率よく必要な栄養分を摂取できるようにすること。

食事に関する原理

豚肉、牛肉、特に特に獣肉の脂は極力体内に取り込まないようにする。(病気回復を目指す場合、栄養学からいう動物性蛋白質の必要性と、身体をリセットするということにおいて意味合いが違う)

揚げ物を避ける。(血液の酸化を防ぐことと、余分な脂肪を摂取しないこと)

新鮮な野菜を豊富に(昼は地上の生野菜、夜は地下の温野菜の摂取、ビタミン、食物繊維、内臓の洗浄作用)

芋類、カブ類などは控える。(でんぷん質)

皮膚の弱い人はアクの強い野菜を避ける(特にナス科:ナス、トマト、じゃがいも)

野菜を食べるときはゼラチンと一緒に(コラーゲンは摂取後にアミノ酸に変わる)

精白した米、パンは避ける、複数の穀類を同時に食べない(相克作用)

柑橘系の果物を豊富に摂る、穀物と一緒に食べない。(酸化防止の為)

1日の水を飲む量を増やす。(排泄を促す)

砂糖を多く含む菓子類を食べない。(血液の酸化と冷え)

怒っているとき、悲しんでいるときは食べない。(内臓への負荷が増大、体内毒素がつくられる原因となる)

ガン発症の概念

現代医学におけるがん治療の現状を概観したうえで、ガンという疾病に対して見解を示しておきます。

血液の質が劣化し、そのために人体の重要な治癒能力である「老廃物や壊れた細胞の隔離除去」と「血液のペーハー維持、凝固」が正しく機能しなくなり、障害を受けた細胞組織の修復プロセスに異常が生じ、そこにがんが発現する。

がんの治療という視点に立つと、血液の酸素供給能力と体内毒素の排泄がきわめて重要になります。

その意味において呼吸が浅いということは血液への酸素供給が効率的でないということが言えるでしょう。

呼吸が浅いということの大きな原因は、交感神経の働きが副交感神経の働きに勝っているということがいえるでしょう。

腹式呼吸の奨め、反省と瞑想の奨めがここにあります。

したがって、呼吸の浅い人、血液中の酸素濃度が薄い人は、日頃の生活状況を省みることを薦めるものです。

いつも心が騒ぎ、常に何かを求めて、心が外に向き過ぎるのも交感神経が高ぶる原因となります。何かに拘りをもっていないか、執着していないか、それがたとえ、良いことであっても心を偏らせてはいけません。

ここに提案する効果を発揮するためには、食事療法と毒素排泄で血液を浄化しておくことが必須であり、併せて腹式呼吸の実践、これまでの人生の反省と瞑想で心を静めることである。

食事、排泄(汗、大小便)深く静かな呼吸、これらは必須の条件といえよう。

ガン治療のための食事の典型は

  • 朝食には:柑橘系の新鮮な果物(オレンジ、みかん、デコポン、イヨカン、ハッサク、グレープフルーツ等)、または消化の良い穀物(シリアルでも良し)
  • 昼食には:葉物を中心にした新鮮な生野菜。(野菜スープがお奨め、お通じに有効)
  • 夕食には:温野菜と消化しやすい少量のタンパク質と穀物。(お魚がお奨め)
  • という組み合わせが最適。

朝食には、柑橘系のものと、穀物系(シリアル)を交互に食べることも有効。

たとえば、月、水、金は柑橘系の果物にし、

火、木、土は穀物系にし、日曜は好きな朝食にするといった感じにします。

もちろん、もっと厳密に、1、 3、5……の奇数日は柑橘系にし、2、4、6……の偶数日は穀物系にするといった方法もあります。

体調を観察して、自分に合う食べ方を見つけてください。

また柑橘系の果物は、穀物と一緒に食べると酸性食品になってしまいます。

柑橘系は穀物と同時に食べてはならないことを覚えておきましょう。

お昼の食事には、新鮮な生野菜(特に葉物)がお奨めです。 

これを、本人の消化力に 合わせて、細かく刻んだり、あるいは、ミキサーにかけて流動食のようにするということもよいでしょう。

特に血液を浄化する野菜であるレタス、ニンジン、クレソン、セロ リなどはお奨め。

またレタスは色の白いものよりも、緑の濃いものを選びます。

「ウサギのように緑の野菜を食べていればガン予防」というのがキーポイントです。

ゼラチンは、たんぱく質(体内でアミノ酸に分解され吸収)補給になる。

ガンを治そうと思うなら、昼食のほとんどが新鮮な生野菜になるように工夫したい。

夕食には、消化しやすい温野菜と、体の要求に応じて少しばかりの魚あるいは鳥、ラ ム(羊)という組み合わせをメインにお奨め。

豚肉・牛肉は原則的に禁止です。

特に、 豚肉・牛肉の脂はがんを喜ばせる食べ物であると心得たい。

穀物はかなり消化力を要する食べ物ですので、本人の消化力が落ちているような場合は、お粥にするといった工夫が必要です。

※食事を改めることで血液の質を高める。排泄を促すことで身体をクリーンにする。これが癌を克服するための条件として欠かせない必須の二大テーマと捉える。

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真の財産・心の借財

お金

心の財産&煩悩

11日は私の主催する月に一度の『心と体の健康教室』があり、今回は「心の財産」ということをメインテーマでハートスクールを開催した。

参加者は老若男女、職業問わずの自由参加、もちろん会費、会則なし。

身体の健康に関しては『自律神経失調症』『ガン発症した時の食事』をテーマにし、心に関しては、何が『人間の財産』であるかを話題に提案してみた。

先ず自律神経失調症について霊的な視点から事例を一つ紹介します。40代半ばのご婦人が、動悸、不眠、頭痛、が周期的に発症し病院で検査をしたが、これといって特に病態が発見されず、医師には、更年期による自律神経の失調ではないかと言われたといって私のところに来院してきた。

問診の段階で頸椎の5番に少しだけ捻じれが確認できただけでそれ以外は肉体的には何ら問題点が見つからなかったのである。

しかし、実はこの女性、霊的な影響のあることは問診時にわかっていたのだが、問診で霊的な背景が関わりあることを説明することはしない。

本人の希望どうり、整体をきっちりおこない、そのうえでカウンセリングルームに招き、生活の様子、症状が発症した頃の状況などを確認していく。

その会話の中には霊的背景を説明するキーワードが必ず含まれているものだからである。

原因は、ご主人が単身で岩手県の大船渡(沿岸)に赴任し、週末には自宅に帰ってくるという生活状態の中で、震災で亡くなられた方々の未成仏の霊波動をたくさん浴びて帰ってきていたことが影響していたのだった。

本人が希望したため、事情を説明し、浄化をして帰っていただいた。翌日「お陰さまで頭痛、動悸、不眠がなく、ぐっすりと朝まで眠れました」と連絡をいただいた。

現代医学で対処できない症状については、「自律神経失調症です」と説明すれば、大概のことは更年期によるものだと片づけることができるという現実。

ホルモン剤や、向精神薬など簡単に処方箋をだしているのであるが、読者の方々にもこの点はご一考いただければと思います。

『ガン発症した時の食事』については次回にゆづります。

さて、『菜根譚』(さいこんたん)という処世訓(しょせいくん)の書があります。

この菜根譚は中国の古典がベースとなって作られた思想書ですが、中国明代末期「処世修養篇」の随筆集として刊行されたが、中国ではあまり重んじられなかった。

この「菜根譚」は日本においては三教である儒教、仏教、道教の教えを短文にまとめた書として約230年ほど前に刊行された哲学書ですが、禅僧などによって盛んに愛読されてきた経緯がある。

さて、菜根譚からひとつ紹介しましょう。

「身を立つるに一歩を高くして立たざれば、塵裡(ちり)に衣を振い、泥中に足を濯うが如し。如何ぞ超達せん。世に処するに一歩を退いて処らざれば、飛蛾(ひが)の燭(ともしび)に投じ、羝羊(おひつじ)の藩(まがき)に触るるがごとし。如何ぞ安楽ならん。」

一人の人間として生きていくには、一歩高い視点に立たないと、まるで塵のなかで衣を振るい、泥の中で足を洗うようなことになる。

このような状態で、どうして世俗を超えていけるだろうか。
更に、俗世間とつきあうには身を一歩退いてつきあわないと、まるで蛾(が)が燈火に自ら身を投じるように、牡羊が垣根に角をつっこんだようになる。

このようなことで、どうして安楽に暮らせるだろうか。

物事に埋没して、捉われてはいけないということの教えでしょう。

どうしても現実に生きていると、現実にはまり込み、随分低いところまで心を落して生きているなということに気付きます。

自分では、塵の中で衣振るうような愚かなことはしていないと思っているし、泥の中で足を洗うようなことはしていないと思っている。

しかし、本当にそうであろうか。

常に高い視点、すなわち執着しない、偏りのない心で物事を捉え直すことが必要だと改めて感じます。

高い視点というのは、驕る、自惚れるということではありません。客観的に見ることで気付くことがあったなら、どんなに仕事中であっても、進んでいても、直ちに修正しなければならないということです。

一歩を踏み込むときと、一歩退くとき。

一段降りるときと、一段昇るとき。

歩も退くもしっかりと制御しなければと思います。

人間は、物を創造する智慧を頂いている生き物ではありますが、この智慧があるが故に苦悩というものも持ち併せております。

しかし、厳密には執着のない心、偏りのない想念、言葉、行動を以って智慧というのであって、これに沿わないものは智慧とはいわない。

真の財産は何も無いこと

お金はあるにこしたことはないが、さりとて無いのも困る。あることによって余計な心配が発生し、それに伴う苦労もあるだろう。

世にいう、『借金も財産のうち』という言葉がある。

親が亡くなって土地や預貯金を相続する段になると、子どもたちが一斉に遺留分を言いだすという話しはよくあることだ。

プラスの財産だけなら問題も少ないだろうが、借金が残っている場合、相続する人はその借金も同時に相続しなければならないことになります。

これが借金も財産のうちということになります。

また事業を為すにあたって、銀行から借り入れをし、やがては利益を生み出すまでに成長すれば、これもまた借金も財産のうちといえるでしょう。

自分の利己的都合だけでプラスの財産だけ欲しいというわけにはいかないのである。

心に余分な執着、拘り、囚われ、がなければどれほど清々しい生き方ができるであろうか。

人生は執着のないのが至高の財産といえるであろう。

したがって、何もないのが財産とはこのことである。

一転して、私たちの心というものを考えてみてほしい。

「損か得かは人間のものさし、うそかまことか、如来のものさし」

どうしても損得勘定に走るのが常でありますが、これが人間です。

しかし、よくよく悟った人は、人の言動に嘘があるか、真があるかをみて処するものだということでしょう。

この違いは人生に大きな差異となって現れるであろう。

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女性の自己愛

男女平等

日本では江戸時代の初代将軍、徳川家康の時代から奥女中のなかから選ばれた家柄や容姿の優れたものが側室として将軍の寝間の世話をしていた。

世界にみる一夫多妻がある国の底流には、男尊女卑の思想が流れており、女は男の道具でしかなかった。

もともとこうした思想が生じたのは、男は腕力にすぐれ、女はそれに憧れを抱くようになったからであった。

いってみれば力がすべてであり、力は正義であり、弱肉強食の動物界の姿が人間社会に持ち込まれていたといえるだろう。

力は正義とする思想は、今日でもなお人々の心の底に流れており、この思想がいろいろな面に顔を出している。

政治も、経済も、教育も、国と国との外交にしても、昔ほど露骨さはなくなったが、最後の切り札となるものはやはり力である。

軍拡は無益だといっても、米ソを頂点として、どんな小国といえども、多大の犠牲を払ってもこれに力をそそいでいるし、経済は競争を建前として動いている。

また教育にしても、才能教育、天才教育が巾をきかせ、科学技術が何よりも優先している。

腕力から頭脳に……過去と現代では、その力のおき方が単にこのように肩代りし、形を変えているにすぎない。

男のこうした世界に対して、女はそれに魅力を感じ、追随している。

一夫一婦、男女平等とはいえ、心理的に男女にこのような心の動きがあるかぎり、男尊女卑の弊害はなかなか崩せまい。

この弊害を崩すには、まず五官六根という煩悩から離れることだが、平均的な考えは、まず男にあっては、力は正義とする本能的思考を改めることだ。

力は正義とする煩悩は、地位、名誉、権力欲などを生じせしめる自己保存が根底にあるが、現実的には、孤独感、対立感、そして競争心、こうした煩悩に火をつけることになる。

煩悩の終着点は常に虚しく、救いのないものである。

先を争い、地位や名誉を得れば、肩の荷は重くなっても、心の安らぎはますます遠のいて行く。

心の安らぎは、自分と他人との壁を外し、助け合う愛の共同社会にしかないものである。

愛の共同社会は、そのまま天国の社会を映し出している。

一方、女性の心的地位の向上は、肉体的自己愛から脱却することである。

男が頼もしく、頼り甲斐があると見える心的発火点は、男とはちがった自己の肉体に対する偏愛が病巣であろう。

腹を痛めた我が子は自分の分身のように思い、我が子を養育できるのも、こうした自己延長の偏愛が一つの支えになっている。

決して偏ってはいけない。

男女の数は、あの世もこの世も一対一であり、男が少なく、女が多いということはない。

地上における男女の比は、戦争や、その時々の思想、行為によって多少のアンバランスをみることはあるが、やがて男女は一定の比率となってくるもので、もともと平等に出来ており、一夫一婦は天の計いである。

女性が男性と対等の立場に立つにはまず経済的基盤が必要と考える人もいるが、それは、経済優先の今日の社会思潮が生んだ思想であり、この考えには、もともと無理がある。

家庭や子の養育を誰がするかである。

人間にとって、情緒教育は欠かせないものだし、情緒教育には家庭が一番である。

親子のつながりは約束ごとであるし、その約束ごとは家庭を通して果たされていく。

生まれ出た子どもは、国や社会施設で面倒を見ることになれば、こうした約束事が果たされないばかりか、員数教育に流れ、片寄った思想が育ち、混乱に輪をかけることになろう。

女性の役割は家庭にあって、次代の子弟を正しく養育することであって、それは男とはちがった役割を持つものなのである。

つまり、女性が子を生み、子を養い、子を育てることによって、私たち人類は絶えることなく、連綿とそのきずなを保つことができる。

もし、女性のこうした役割がなく、子を生むことがないとすれば、私たちは過去と現在にしか生きることがないし、地上での生活の場を失うことになるであろう。

そこには、魂の進歩も、転生もないことになる。

私たちに転生があり、輪廻という法に生命が宿るのも、そして、過去、現在、未来という連続された生命が成り立つことも、いってみれば女性のこうした役割があるからである。

女性のこうした法を生かす特性は、天が与えた義務であり、責任であるといえよう。

こうした意味において男は現実社会に、女は未来社会にその義務と責任を有する、ということになろう。

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