自分を知らない人・苦楽と努力と独善

マイホーム

営業に行った得意先のお客様にえらい剣幕で怒られて会社までクレームが届き、担当者を拒否するというケースがあった。

会社ではその担当者に変わる、別な人を差し向けたのだが、新たな担当者は、お客様は全く良心的な方であったということで会社に報告した。

その後はその新たな担当者が引き継いで、お得意様に良くしていただき、お付き合いを頂いているという。

よくよく事情を聴くと、前任の担当者は別なお客様ともトラブったり、ちょくちょくお客様からクレームがあるということだったようである。

これはいったいどういうことであろうかというと、前任の担当者の場合、自分が正しく、独善的思考、事の善悪への拘り、白黒への拘りが強く、人を裁きがちな心の傾向があった。

そのような日頃からの心が時として、言葉に温かみが無く、ときに冷たい言葉となって相手の胸に毒矢となってグサッと突き刺さる。

かたや後任者は、どんな小さなクレームにも最善を尽くし、お客様の条件に沿った営業をし、決して出しゃばらず、笑顔を絶やすことはなかったのである。

私たちは、自分を知るということがどういうことなのかを考えてみなくてはならないだろう。

「牛の歩みも千里」
牛の遅い足取りでも、やがては千里の先まで行くことができるという意味で、何事もたゆまず続ければ、大きな成果をあげることができるという教え。
努力、人は結果のみに期待はするが、努力を惜しむという悪い癖を持っているものです。しかし、人生の意義は結果だけではない。
一見、無駄なように思えることであっても、努力する過程の中に価値があり、光がある。
そのときに光明が見えなくても、後から光が見えてくる場合が多いものだからです。
「馬には乗ってみよ人には添うてみよ」
馬には乗ってみなければ善し悪しがわからないし、人とは付き合ってみなければその人の性質、本質はわからないということから。
何事も経験することによって、そのもののよさが初めてわかるのだから、始める前から軽々しく批判するのはよくないという戒め。

経験、人はややもすると困難を避けて、平坦な道を選びたがるものだ。
だが、病気をすることで健康の有難味や素晴らしさが心底身にしみるように、
多くの事を知るには、多くの困難に当たらないとその深さは知ることはできない。
、イライラしたり、反発的な気持ちが湧きあがったりするとき、肩の力を抜いて一呼吸すると怒る心がおさまるものです。
悲しみが襲ってきたら下を向かず、大きく背伸びをするがよく、
判断のつかぬ時は天を仰ぐことだ。冷静さを得ることができよう。
焦りがでたら、瞑目し、心を静めよ。我に帰ることができる。
人の心はどこまでも広がるもの
それはイメージや瞑想世界の広がりではではなく、行いによって経験からくる、物事を成し得た喜びであり、他に喜んでもらえた心の広がりである。
そのように、身体を動かすことによっても心の針を平常に戻すこともできるのである。
「人の一生は、重荷を負いて、遠き道を行くが如し、急ぐべからず」
「勝つことばかり知りて、敗くることを知らざれば、害その身に至る」
人生、人の世は苦楽の連続体です。
しかし、苦しみにとらわれてはならないし、焦ってもいけない。
何故なら、苦楽は、心の向上のための、学びの材料にしか過ぎないからである。
また不必要で、些細なことに拘って、明るく生きることの大切さを見失ってはいけない。
善人だが、暗き人
善人だが人を裁く人
明るいが是非をわきまえぬ人
いずれの人も、心に安息を得ることはできない。
語る者は多い
しかし、光を放ち
行う者は少ない。
人を裁くより
よく見て行え
己のこととして正せ。
過去の成果や栄華、功績に酔うな
そして明日に迷うな。
何事にも執着せず、
今に生きる者こそ
真の勇者である。
真の知者は知の限界を知り
知にとらわれざる者をいう。
下座にあって
一隅を照らす者
その人は、自らの内に安息と、王国を得ているものであり、
地上の天使である。
自分を知る
正しい法則に適った生活以外に、私たちの正しい心の窓が開かれることはない。
いかに特異な知識や能力があっても、正しく調和された心の法則を悟らない者は、人々に対する慈しみも、愛も、謙虚さもない人間になり、増上慢になってしまう。
そういう者は心に身勝手を持ち、言葉で人を切り裂き、行動で反作用に苦悩する。

独善

私たちにどれほどの知識があっても、素直な心がない場合には、自分の考えにとらわれ、視野もせまくなって、往々にして独善の姿に陥りかねない。

お互い人間というものは、常に過ちなく物事を考え、行なっているかというと、なかなかそうもいかないようです。

たとえ自分ではまちがいない、正しいと思い込んでいたとしても、客観的にみれば、ずいぶん道を外れ、誤った姿に陥っているというような場合が少なくないということもある。

ところが問題は、その過ちを自分自身ではなかなか気づかない、気づくことができにく いということです。

気づかないどころか、むしろ間違いない、これが正しいのだ、と決め込んでいる場合が少なくないのである。

これはまことに困った姿です。というのは、そういう姿では、もし仮に他の人びとからその間違いを指摘されたとしても、それを素直に受け入れることは少なく、往々にして、それをいわば非難や中傷であるかのごとく受けとりかねない場合もあるからである。

相手の言動に対し、正邪、善悪をハッキリさせなければ、白黒つけなければと正義感をもって臨むことによって、逆に冷たい仕打ちを受けてしまう場合もあるでしょう。

しかし、こうした行為も過ぎることによって独善の姿に陥ってしまったのでは、さらに他との摩擦、トラブルなどの好ましからざる姿をもたらす場合もある。

ではなぜこうした独善の姿が生じてくるのかというと、もちろん見方、考え方はいろいろあるのでしょうが、こうした好ましからざる態度、姿や、事態というものは、やはりお互いに素直な心が働いていないところから生ずる場合が多いのである。

というのは素直な心が働いていない場合には、やはりどうしても自分の考えのみにとらわれてしまい、 自分が正しいというように思い込みやすくなるからです。

こういった傾向は一つの人間関係をみるときに、自分が正しいと思い主張している人の姿が第三者から見た場合に必ずしもそうではない場合がある。

傾向として独善的思考や言動になりがちな人の場合は孤立しやすく、敵対する場面が多いことをみれば、その様子をうかがい知ることができるであろう。

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