他人の言葉を聞く姿勢

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信じて耳を傾ける

軽度のうつとパニックを抱えた50代のご婦人が治療においでになり、女性スタッフが担当することになって、いろいろと話を聞きながら施術をおこなっていました。

「不安なんです」、「いつも不安が消えないんです」

「何が不安なんですか?」

「娘が明日車を運転して帰ってくるから雨だったらどうしようかと思って」

「雨が降ってもゆっくりくれば大丈夫ですよ」

「ん~(;一_一)ここに来る途中もいろいろと考えてしまって」

「今も何か考えていませんか?」

「はい。骨格調整が痛くないかと思って」(実は初めての施術ではない)

こういった会話の他にも、自分の体の一つ一つの症状や変化にも、とても細やかに心を向け過ぎて、自分で不安感を増幅させているところがみえる。

こういった傾向は体だけではなく、すべての出来事が不安材料であり、悩みの種になっているという。

その不安な出来事に対して「そのような時はこのように受け止めたらいいよ。それはこういうことじゃないの?」と問いかけても、帰ってくる言葉は「ん~(;一_一)」という返事だけで言葉が返ってこない。

自分の世界にどっぷりと浸かって他人の言葉が心にとどいていないのです。

こういう心の癖を修正するには、本人が自覚を以って学ぶ姿勢にならないと修正は限りなく不可能に近い。

拘りが強く、頑なに自分の世界からしかものごとを見ることができず、およそ客観的に第三者の立場で自分自身を観ることができない場合にこういった心の傾向性ができあがってきやすい。

ちょっと話題を変えてみましょう。

「この世知辛(せちがら)い世の中、他人の話は疑ってかからなければとんでもない目に遭う」そう公言する人がいます。

他人の話を鵜呑みにして、ひどい目に遭った経験が重なり、そんな人生訓を囗にさせるのかもしれません。

寂しいことです。

わたしは、他人の話や自分で感じたことは、まず、素直に聞き、あるがままに聞くことが大切だ、と考えています。

「如是我聞・にょぜがもん」という言葉がそれを教えてくれています。

それに関して次のような逸話が伝わっています。

お釈迦さまの高弟のひとりであった阿難尊者は、いつもお釈迦さまのそばにあって、数々の法話を耳にしていました。

衆生にその教えを伝える際、阿難尊者が最初に聞いたのが如是我聞という言葉だった、とされています。

そのままの意味は、「わたしは(お釈迦さまから)このように聞きました」ということだと解していますが、そこにはお釈迦さまの教えに対する、阿難尊者の揺るぎない確信が含まれています。

「わたしはこのように聞きました。この真理は絶対のものです。ですから、疑いを抱いたり、不安を持ったりせずに、信じて素直に耳を傾けなさい」というこれが、如是我聞という言葉が意味するところだろうと思います。

疑いの心があっては、真実は理解できないし、ましてや、真理に到達することなどできはしない、ということでしょうか。

自分の我が強くあったり、何かしら心に思いをもっていると他人の言葉が耳には届いていても、心には届かないものです。

素直に聞くと学びが始まる

素直に聞くという姿勢も、現在では失われつつあるものかもしれません。

他人が真剣に話しているときも、上の空でいたり、最初から「話し半分」と疑ってかかったりする。

思いあたるフシがあるという人もあろうかと思います。

そこに見え隠れするのは心の内に潜む傲慢さです。

自分を一段高いところにおいて相手を見下したり、否定的にとらえたりしたのでは、素直に聞こうとする姿勢は生まれてきません。

しかし、知識を超えた真理や、理屈では推しはかれない真実というものは、いくらでもあります。

相手の話のなかに、それらが散りばめられているかもしれません。

また相手の会話のなかにも何気に道理を得た内容がふくまれていることがあり、とても勉強になります。

傲慢さは、せっかくそれらにふれていながら、やり過ごしてしまう、という愚をもたらすだけです。

まして、相手の話を遮って自分が言いたいことだけをまくし立てる、といったことをすれば、まわりから一人去り、二人去り、ついには孤立することになってしまいかねません。

人の話しを聞いていながら心では別な事を考えていて、こちらが何かを問いかけると「ん~(?_?)」と返事が返ってこない。

仏教で「聞く」姿勢をとくに重んじるのは、素直に聞き、素直に感じるところから、学びが始まる、と考えるからなのでしょう。

経典はお釈迦さまが入滅されてから、四百年から五百年経って編纂されたものかと思います。

それまで教えは口伝、つまり、囗から囗へと語り継がれるものだったようです。

お釈迦さまが語られる珠玉の言葉を、弟子たちは澄み切った心の素直さで聞き、血肉としていきました。

その姿勢があったからこそ、真理は仏典としてまとめられ、こんにちまで伝えられている、といっていいと思うのです。

過去の歴史でも、現代における先駆者たちも、さまざまな世界で確固たる地位を築き、偽善の宗教家以上にすばらしい社会活躍している人たちがたくさんいます。

その成功の因は、すぐれた統率力であったり、不断の努力であったり、不屈の精神力であったり、人々から人間として尊敬されていることがあるからなのでしょう。

しかし、そういう地位にある人たちが共通していることとなると、それは素直に純粋に他人の話を聞く心を持っている、ということです。

まず、しっかり耳を傾け、助言としてみずからのなかに活かす。

それも成功の大きな要因、おそらくは最大の要因ではないか、とわたしは思っています。

しかし、素直に聞くことと、盲信、狂信することは全く意味がことなるものです。

何故なら、盲信すること、狂信することは、明らかに全体像を観ることができておらず、且つ、事の善悪を見極めるという客観的な視点を見失っています。

その集団のリーダーに偽りや傲慢さ、驕りがあっても、その集団の業に引きずられ、自分の不安や見栄などもあり、批判などを恐れて去ることができないでいるケースもあります。

悪しきを為す者は

いまにくるしみ

のちにくるしみ

ふたつながらにくるしむ

「悪しきをわれ為せり」と

かく思いてくるしむ

かくて

なやましきみちを歩めば

いよいよ心苦しむなり(法句経より引用)

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生命の原点・あの世とこの世

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生命という言葉は何の抵抗もなく、問題もなく、また特に意識もせずに誰もが知っていると同時に何気に使用している言葉だろうと思います。

特に宗教の世界や思想哲学という学問のなかでは日常的に使われているでしょう。

それでは「生命」、「生命体」というのはどういうものを言うのか、どういう状態を指していうのか説明を、ということになるとこれはまた非常に難しいところです。

「そもそも、何が生命か?」この問題について考えはじめると生物学者たちは、すっかり悩んでしまい、夜もおちおち寝ていられないのかもしれません。

生命とは、さまざまな定義があるようですが、基本的には「生きているもの」と「死んでいるもの」、あるいは物質と生物を区別する言葉として使われているのが一般的かと思います。

伝統的に、生き物が生きた状態であるという状態そのものを生命と呼んだり、あるいはまた生きた状態というものは、目に見えない何かが宿っている状態であるという捉え方をして、その宿っているものを「生命」「命」「魂」などと呼んでおり、現在でも広く日常的にそういう意味を含んだ用法として使われています。

それでは、

火は、生命体なのか?生命体ではないのか?

水は、生命体なのか?生命体ではないのか?

上記のように、目に見えない何かが宿っているものを生命体とするならば、火も水も、そのものには宿っているとはみないでしょう。

ただ、科学的には火も水も仕事を成し得る能力を備えているちう意味では一つのエネルギーと言えます。

生物学は生命に関する学問だというのに、その基本である生命定義ですら互いに合意することすらできない、というような状態です。

古代から多くの人々が、生命とは何なのか、ということについて様々に論じられてきました。

自然哲学には自然哲学の生命観があり、宗教には宗教的な生命観があります。

現在、一般的・日常的には、生きものが生きている状態を指して「生命を持っている」「生命を宿している」と呼び、文脈によっては非物質的な魂のようなものを指す場合もあります。

細胞のひとつひとつも「生きて」いて、それぞれ生命があるのでは?

という問いかけや疑問には、おそらく誰もが、細胞の一つ一つにも命があると答えるでしょう。

こういったことを踏まえながら生命ということを霊的な視点から言葉にしてみますと、

霊は生命そのものであり、生命は霊そのものだということがいえます。

そうなると霊の無いところには生命は存在しないといえるし、物質そのものは形であり、殻に過ぎないという捉え方もできます。

とすれば、生命の本質は霊にあるのであって、形や殻にあるのではないということ。

即ち、肉体はこの世という3次元の物質世界で生きるための器だと理解することもできます。

肉体という器は生命の宿った物質ではありますが、やはり物質には寿命という限界がついてまわりますから、いつかは形が滅びるときが必ずやってきます。

れが肉体死です。

この世の物質、すなわち3次元に存在するものは、霊という4次元の働きによって投影されたカゲ(現象)だということがいえるのですが理解いただけるだろうか。

生命は物質それ自体には存在はないのであって、霊的なエネルギーの存在が物質を動かしめているということ。

いまこのブログを訪問していただいたあなたが存在し、呼吸し、動き、考え、判断し、反省し、要約し、決断し、勘案し、熟考することができるのは、あなたの本質が霊であるからこそです。

霊があなたの身体を動かしているからです。

脳ではありません。

脳は肉体のという機能のパーツだと捉えます。

脳を支配するものが霊です。

パソコンには素晴らしい機能を備えたソフトが内蔵されていますが、その素晴らしいパソコンは電気エネルギーという、人間に例えると食事というエネルギー源が必要です。

そしてどれほど素晴らしい高機能のパソコンでも、それを操作する人間がいなくてはその頭脳は用を成しえません。

人間の身体が素晴らしい脳を備えていても、それを正しく発揮する心ができていなければ、偏った価値観によって歪んだ生活意識をもったり、自らが精神を病んだりすることになります。

人間の場合、霊が離れたら最期、その身体は崩壊してやがては土に同化していくことになります。

宗教に入信する人たちのなかでも物質を本当の存在だとする考え方、そう捉えている人たち、また形を崇拝する人間は間違った偶像を拝していることになります。

なぜ間違っているかとなると、物質という存在のそこに実在(霊)が無いからです。

物質は一時的な存在であって、現象にしか過ぎません。

しかし、地上で生活をする私たちは形のあるものに拘り、囚われ、心の中に苦しみを増やしていきます。

形のあるものは永遠ではありません。

だが、霊という4次元のエネルギー活動はすべての存在物を形成する基本的素材であるが故に永続性があります。

例えば、人間によって表現されている生命力は、小鳥、動物、魚類、樹木、草花、果実、野菜等に表現されているものと同じ生命力であります。

いかなる形体にせよ、生命のあるところには必ず霊という4次元のエネルギーが働いています。

そのことに関する自覚の程度、意識の程度にはさまざまな段階があります。

霊の表現形態は無限だからです。

無限なるものに制限を加えるわけには参りません。

逆も然りで、この世的な価値観に支配されている人の場合は、物や形に拘るが故に自分に備わっている本当の自分の可能性を有限のものしていまいます。

生命の背後の力は全ての霊の極致であり源泉であり頂上であります。

動物、植物、鉱物と、いかなる形態を取ろうと、創造者たる天の表現であることに変わりありません。

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文字からの霊波動

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精神波動&霊波動の影響

Aさんの質問

「働いているお店の同僚がちょっと変に具合が悪いというから体の邪気を除いてあげられたらと思ったけど、体は特に問題があるようには思えなかった。たまたまお店に新聞を持ってきて置いて行った方がいて、その新聞に気づいて手に取ったら手のひらがピリピリして嫌な感じがしました。この新聞の影響かな?」これはどういうことでしょうかという質問でした。

実はこの新聞、某宗教団体が信者当てに発行しているものなのですが、目を通して見ると内容が教祖の功績を讃えるもの、教団がいかに素晴らしいことを行っているかという宣伝、書籍の宣伝、信者の体験談、その他諸々、等々派手な見出しの新聞です。

あまり詳しく書きますと問題もあろうかと思いますので深くは触れませんが、選挙があると信者の活動がやたら活発になって、普段はまったくお付き合いがないにも関わらず、投票依頼の電話をかけまくる信者たちがいる教団といえば想像がつくだろうと思います。

文字の波動

相談者のAさん(男性)は霊的な能力という意味においては、何ら具体的に自分自身の状況を知っている訳でもなく、霊的能力というものを感覚として理解しているわけでもありません。

しかし、この教団の新聞に触れたときの手のひらの嫌な感覚のピリピリ感は、新聞から発する邪悪な波動を手のひらを介して魂が感じたということです。

自分が自覚をしていなくても、Aさんはある意味では霊的な能力が覚醒しているということがいえるでしょう。

ですから仕事(お客様に触れる)の最中にお客様がついついコックリ、コックリと眠ってしまうことがよくあるといいます。

「何で私のときだけお客様が眠ってしまうの?」というのですが、これなどは体の邪気が抜けるときにはよくある現象の一つであって珍しいことではありません。

私のところで直接浄化を受けた人が、その晩は「タダタダ眠って翌朝はすっきりした」という人もいます。

Aさんは私と知り合ってから「最近、何かしら段々手のひらが敏感になってきました」と話していますが、こういう現象もまた霊的な波動の影響によるもので、個人差はありますが、こういった能力も多少は覚醒してくるものです。

素直な心をもった人の場合は特に覚醒しやすく、それはそれで驕ることなく人の為に癒してあげられるのであれば更に自分自身の心もステージアップしていくことでしょう。

逆に、その方法を教えても自我心があればあるほどその覚醒は難しくなってきます。

パフォーマンスはやれども浄化ができていないという場合がそれです。

但し、このことは必ずしも自我心だけの問題ではなく、前世、過去世においてそのような心の学び、霊的な学びをしていなかったということも大きく影響しているといえます。

人間的に素晴らしい人柄、人格であっても霊的な能力を発揮できない人たちはたくさんいることをみればそのことが理解できるかと思います。

社会的にリーダーシップを発揮することで世に貢献することを人生の課題として生まれてきた人の場合は、敢えて霊的な能力を必要としないわけですから、人間性に優れ、人格としての器が大きければ今世の使命は果たせることになるでしょう。

つまり、誕生前のあの世での計画と約束は、この世での人生に色濃く反映されることになるわけです。

もう一度話を霊波動に戻しますが、私の場合ときどき書店に行くのですが、著書を手に取ると本によっては体に悪寒が走ったり、頭部がざわついたり、胸が苦しくなったり、肩が重くなったり、目がかすんできたりすることがあります。

これはその本の著者の想念から発するエネルギーが、文字を通じてその本に凝縮されるため邪悪な波動を発しているということです。

ですから、どのようにきれいな言葉を並べた内容であったとしても、著者の本当の姿である想念が本に霊波動として働いていることですから自身の霊波動は偽ることができないわけです。

つまり、言葉で偽っても魂から発する霊波動は偽れないし、著者の想念がそのまま著書にあらわれてしまうということです。

先のAさんの話しにでてきた、新聞を発行している教団は国内ではかなり大きな教団ですが、表面的にはともかく、霊的な視点からすれば相当に邪悪な霊波動をもった教団であることは否定できないでしょう。

拝めば救われるといって盲信、狂信の信者を作りあげ、他力信仰の弊害をまき散らし、人間が生まれながらにして備わっている自立心や、無限の可能性を秘めている神性を破壊する危険な教団です。

上層部幹部になれななるほど見栄や権力争い、地位欲等、腐敗している事実を知っているだけに、末端の信者たちが気の毒といったら失礼だろうか。

人間の想念は、それが現象化するだけではなく、言葉にすることで言霊というエネルギーとなって働き、さまざまなものに作用することになります。

勿論、自分の体にも他人の心身にも強く影響します。

「あの人の傍にいるといつも体調が悪くなる」、「あの人の傍にいるといつも癒される」というようにです。

相手がそういうことを口に出して言わなくても、どれだけ自分の不調和な想念エネルギーが自分自身を破壊し、他に対して良くない波動として伝わっているかということでしょう。

それだけに人間の心で念じたこと、思った事、その時の心の状態が、良くも悪くもエネルギーとなって作用したり、反作用となって自分に帰ってくることを知っておく必要があるわけです。

心を調和している人の想念エネルギーは自他を癒しますが、心に不満や愚痴、怒り、嫉み、傲慢さをもっている人間の発する波動エネルギーは、その人が語らずとも周りに居る人たちに強く影響を与えてしまうものです。

そして何事もうまくいかなくなってきます。

しかし、そのことの根本的な原因に気づく人は少ない。

それはちょうど、下の画像のように水の波紋が広がる波動となって拡散し影響を及ぼすというようにです。

波

 

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自分の信じるものが自分の人生をつくる

20150517_064518生きるということ、人生の織りなす模様は艱難辛苦(かんなんしんく)もあれば機微もあり、人それぞれに様々な方法や生き方あることでしょう。

人生これからという若い人たちに願うことは、自分らしい生き方をしてほしいと思うところです。

ただ何の工夫もなく、探究心もなく、ましてや一番大事な忍耐や努力もなく、易い道だけを探し求め歩いている姿だけは見たくないと思う。

どのような状況であれ、結果であれ、私自身のいまの姿は自らが為した結果であることは間違いがない。

いや違う。これは相手が良くないからだ、就職先の企業が良くないからだ、といって他のせいにしているようでは決して自分の周りの環境がよくなることはない。

失敗、おおいに結構。

失敗がなければ人生を失敗することにもなる。

だから夢中になって今、目の前のことを成さなければならない。

65歳、前期高齢者ではあるが、後期高齢者となる75歳までまだ9年と2か月ある。

私には目標と夢がある。

分からないこともたくさんあり、専門家の智慧や手助けもいただいだいているが、働くことが楽しくてしかたがない。

ありがたいことだと感謝の気持ちが湧きだしてくる。

衣食住と仕事

私の場合およそブランド品というものにはまったく興味がなく、身につける衣類も洗濯さえできて清潔であれば破れるまで着ているほうで、そういう意味では無頓着なのか拘らないほうかと思う。

食事についても特別な贅沢をしたいとは思わないし、好き嫌いもなく何でも食べますが、お酒と煙草だけは体が受け付けない。

住まいは42歳のときに、記事の冒頭に添付した写真の家を、半分は自力(基礎工事、水周り配管工事、便槽埋め立て、内外塗装工事、用材調達など)で半分は大工さんにお願いして一年がかりで完成させた物好きです。(実はお金がなかったから自分が動いただけ)

仕事は現在でも現場に立ち、患者さんたちの声に耳を傾けて、満足し、納得して帰っていただけるようにとコミニュケーションを図るようにしています。

将来のある若いスタッフたちが育っていく過程は頼もしくもあり、たのしみでもあり、人を育てることの難しや醍醐味は何とも言い難い充実感の日々。

無理をせず、出来る限り現場に立ち、仕事を通じてまだまだ学びたいことがある私です。

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なぜ人は働くのか

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働くことの意味は?

近年、比較的わかい年代のひとたちでも、何らかの理由で学業にも就いていなければ、働くこともできないでいる、あるいはしない若者が増えている、とメディアで報じられ、その実態や原因究明について問題提起していることがあります。

当事者にとっては深刻な問題であろうことは勿論ですが、それでも生きていられるという現実、こういった背景にはある意味で日本の豊かさを象徴する一面といえるのかもしれません。

大方の人は働く意欲を持っていると思います。

所用があってハローワークに行きますと、働く場を求めて就職活動をしている人たちの姿もたくさん見かける。

きょうは少しばかり視点を変えて、働くことの意味を考えてみたいと思います。

今現在働いている人、職を探している若い娘や息子をもっている親御さんたち、あるいは30代、40代、50代とみなさんそれぞれの立場で仕事を得るためにいろんな思いが交叉しているようです。

そこで働くことの意味は?となると、「もちろん、収入を得て自分や家族の生活を支え、それをよりよいものにするために決まっている」と答えてきます。

あるいは若い人ならば「車が欲しいから」「マイホームが欲しいから」「旅行がしたいから」「欲しいものがあるから」「結婚資金を貯金したいから」等々その想うところは多種多様です。

たしかに、それは働くことの意味には違いありません。

ただし、意味のすべてではないと思うのです。

働くことにはいろんな意味があって、自分が体を動かすことによって「誰かを楽にさせる」「傍らにいるひとを楽しくさせる」という意味もある、とわたしは思っています。

自分や家族だけでなく、傍らにいる人とも支え合って、楽にし合っていく。

それが働くということを通じて大きく周囲に影響を与え自分の喜びともなり、厳しさのなかで自身の心を成長させるという本源の意味であることに、気づかなければいけないのではないかと思うのです。

「働く喜び」という言葉がありますが、古代の日本では働くことが、文字どおり、喜びでした。

稲作文化が日本に入ってきたのは縄文期の終わり頃だと思いますが、弥生期になると農耕を基盤とする人々の暮らしが始まります。

彼らの労働観は「労働神事」というものでした。

つまり、働くことは神に仕えることだ、と考えられていたわけです。

古代人は「八百万の神」、八百万もの神々がいると信じるほど、信仰心が高かったため神に仕えることは喜びであったに相違ありません。

私が子どもの頃の農作業も親戚どうしが支え合って協力していましたが、農耕は共同作業ですから、自分が働くことが相手を支え、相手の働きが自分を支えてくれることにもなります。

親戚同士、隣近所が協力し合って田植えなどの農作業をすると、一服の時間、昼食の時間はご馳走が楽しみで働いた子どもの頃です。

神に仕える喜びとともに、「傍を楽にする」喜びも、古代の彼らには実感されていたのではないでしょうか。

知識ではなく、分別ではなく、助けることで自分も助けられるということを労働で実感していたように私も感じていました。

今でいう「相互扶助」の精神に則った生きかたであったろうと思います。

悪いこだわりをなくす言葉

もちろん、現代の働く環境はストレスも大きく、また多く、資本主義構造、利益追求、営利主義、と古代の農耕社会とは大きく変わっています。

「傍を楽にさせる」「傍らの人を楽しませる」といった感覚は、忘れ去られてしまっているかにみえます。

「働く喜び」も、現在では縁遠いものかもしれません。

だから、他人を騙してでも自分の利益を追求することがまかり通ってしまうのでしょうし、同じ会社に属していながら、同僚をライバル視し、妬みもあり、中傷もあり、スキあらば足を引っ張る機会をうかがう、といったことが日常茶飯事ともなっているのです。

そして昇進はしたものの、責任が重くのしかかり家にまで仕事を持ち込み悪戦苦闘する中堅幹部のうつ病発症。

こういった相談も後を絶ちません。

ひとは本当の自分に気づかない

世の中では株のインサイダー取引や贈収賄、談合など、自己利益の追求だけが働く意味としてしまった、視野狭窄(しやきょうさく)の人たちもたくさんいます。

迷える煩悩の火は感覚の世界を追い求め、欲のままに走り続けます。

まるで斜面を焼き尽くして走る野火のように。

のようにして、日夜に諸々の欲の限りを尽くし、悪事を我が得として、善いことはかえりみないケースもあるでしょう。

人をそしる者もいれば、真の教えを知ったら、それが心目覚めたものとなる可能性を焼き滅ぼすことさえ考えもしないし、気づかない。

自分は人間らしく生きていると思い込んでいる人ほど実は、人間は神性仏性を宿しているのだという、本当の自分に気づかず、執着のままに貪っていたり、自己中心的な言動に走っていることがあります。

善悪の判断もできず、他人を蔑ろにしていたり、「私は真っすぐな人間です」と思ってそれを言葉にするのですが、しかし、そういう人こそがエゴ心が強い。

そういったエゴ心こそが、自分白身を知り、光とともに生きていく可能性を自ら焼き滅ぼしているのだ、ということを考えもしなければ、心の底から気づくこともない。

案外、自分自身の姿が見えないのが人間です。

まして、視野狭窄に陥っていればなおさらです。

視野を開くカギは自らの内にしかないと思うのです。

働くことの本源の意味を思ってみると、「働くことは傍を楽にさせること」。

最終的には、自分自身の魂のステージアップの為の行為でなくてはならいということ。

そして、物やお金は生活のための最低限の道具であって、それが目的ではなくツールに過ぎないということ。

働くことのほんとうの意味は、私たちが働くことを通じていろんな苦労もし、試練を乗り越えていくなかで多くの気づきがあり、それが心を大きく成長させることだということではないでしょうか。

つまり、働くことは自身の心を成長させるために頂いた環境であり、試練だと思うのです。

そういう気持ちがなければ不満だけが心を支配してしまい、心の成長や感謝の心など生まれようがありません。

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才能と品性

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静寂のなかで養われ

品性は

世の嵐のなかでつくられる(ドイツの詩人・ゲーテの書簡から)

随分と若いころに目にした言葉ですが、折に触れて思い出してはそらんじながら自戒し、心に持ってきた座右の銘のひとつです。

この世の中のように騒々しい環境のなかでは、私のようなささやかな才能など、風の前の塵の如く吹き飛ばされてしまいますし、世間の風潮に流されやすい、情に流されやすい性格では品性など観単に低劣になってしまうおそれも大いにあります。

このように素直に解釈してこの言葉を大切にしてきました。

目の前に何かしら問題があるとき、慌ててしまうとどうしても自分を見失って、必要な答え、正しい答えがでてきにくいことが多々あります。

そういうときこそ息を調えるというか、間をおくというか、時間を置いて冷静に考えてみるということが静寂ということに当たるのだろうと思います。

日中の活動エネルギーは夜の睡眠、つまり静寂のチャージによってつくられるように、静が動をつくるように、人間の思考力や直感、インスピレーションという働きも、やはり静寂の心や時間があればこそ生まれてくるのだというこを実感してきました。

よく使われている「瞑想」、「止観」という言葉もそういったインスピレーション、才能というものにつながってくることも体験してきました。

様々なものが混沌とする世の中で、若気の至りからおこした数多くの失敗や過ち、そして懺悔と反省の繰り返しの数知れず。

ああ~これではいけないな、あのような振る舞いはしないようにしよう、などと社会の嵐から学ぶことがたくさんありました。

卑しくならない振る舞い、下品にならない振る舞いはとなると甚だ未熟者ではありますが、このことについてはたくさんの人間関係から学ぶ機会をいただいてきたと思うし、今でもそうならないようにしたいと先の言葉を大切にしております。

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生かされているということ

元旦過去の記事でも一部は話したことがありますが、私は過去に死線をさ迷ったことが何度かあります。

一度は、中学生のときに鉄棒から水平に背中から落ちて後頭部を強打し、意識不明の状態になったとき。

一度は、高校生のときに海で泳いでいるときに足がつって溺れてしまい、お線香の匂いがして意識がなくなったとき、気がついたら岸にいたこと。

一度は、20代の時に信号待ちしていて後ろからきたトラックに追突されて乗っていた軽乗車が大破し、意識を失い救急車がきてはじめて事故に気づいたとき。(この後にムチ打ち症で長年苦しむ)

一度は、58歳で過労で倒れて死線をさ迷ったとき。この時はさすがに死を覚悟したが、体力回復まで3年かかった。

こういった経験は私の心に大きな影響を与えました。

人間というものは何度も死を意識するような出来事に直面すると、死というものへの恐れが少しずつ薄らいでくるようです。

ですがその半面、生への価値観を強く認識するようにもなります。

今の私は、自分以外の偉大なものによって生かされている実感がハッキリと、強く思えるようになりました。

それだけに難しいことではありますが、生きている間は賢明に生きなければといつも心に言い聞かせています。

賢明に生きるとはどういうことを言うのか。

誠実に、そして選択を迫られたときに、私心ではなく、偏りのない心で判断をして生きることと思う。

自分の分をわきまえずに富や地位を追いかけたら、心の平安や充足は遠ざかるだけではなく、人間の心に豊かさが失われることも知りました。

しかし私は有り難いことに、この年になっても一生懸命に働けることがどれほど恵まれたことであるか図りしれないものがあります。

このいのち、あらゆるものの生命と、あらゆる人々のおかげをいただいて生かされています。

だから何かの形でお返ししなければ申し訳がないと思う。

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泥まみれのなかで育つ

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汚れにまみれても清く生きられる

酒をたしなめる人はそれが楽しみでもあり、一日の疲れを癒し、心を解放するひと時でありましょう。

古来、お酒の事を般若湯とよぶこともありました。

なぜ般若湯というのだろうか。

ご存じのように、お酒は少量にすると体のために滋養やお薬のような働きをするところもあるし、精神的にもリラックスして知恵も生まれるということから「般若湯」と表現されたようです。

般若とは智慧の意味で、波羅は行くとか到達するという意味、蜜多は内在するという意味で、内在する智慧に到達する心経(心の教え)ということになります。

これが般若心経にでてくる『般若波羅蜜多』の意味でご存じの方も多いでしょう。

この『般若』というのは、実際は単なる人間の知識や知恵ではなく、真実を見抜く悟りへの智慧と理解すべきかと思います。

仏教徒、特に出家僧が守るべき日常生活における規則に「五戒」というものがありますが、そのなかの一つに「不飲酒戒・ふおんじゅかい」という、お酒を飲んではならないという教えがあります。

この教えは、酒を飲むこと自体を戒めたというよりも、酒を飲むことによって堕落し、悪を行うことを戒めているようです。

そして不飲酒戒という戒律が日本に伝わってくると、日本人は「酒を飲むこと自体がいけないのではないから、酒を飲んでも他の悪いことをしなければよいはずだ」と解釈するようになったようです。

特に禅宗系の寺院の門前には、酒を飲むことが激しく戒められていましたが、薬として身体のために少しぐらい飲むのならよかろう、ということで、酒として飲むのではない、という意識から、「智恵のわきいずるお湯」、「体の滋養やお薬」という意味を持った「般若湯」という名をづけたのでしょう。

このような日本酒(般若湯)ではありますが、なかにはお酒に呑まれてしまって大トラになって家庭の破綻になる人もいます。

どんなに良い般若湯でも心を見失うほど呑まれてはいけませんね。

さて、人間はだれでも清廉(せいれん)に生きたい、という思いをもっているものではないだろうか。

この世の汚れにまみれずに人生をまっとうできたら、それはまたそれでどんなにかすばらしいことでしょう。

しかし、人によっては嫉妬の海に投げ込まれて苦しんでいる場合もあるでしょう。

思い通りにいかないことに苛立ち相手にぶつけることで疎遠になることもあるでしょう。

私自身も未熟者なのですが、日々を生きているうちには小さな欲にとらわれたり、怒りの業火に焼かれたりします。

そんな自分を感じると、「まだまだなっちゃいないな。こんなことじゃいい人生なんか送れそうもない」といった思いがしてきます。

しかし、生命という生命はもともと全てが入り混じった混沌のなかから生まれています。

いってみれば、どろどろした塵芥(じんかい)が生命を生みだしている。

塵芥とは、ゴミ、あくた、汚れもの、のことです。

しかし、塵芥は生命を育てていく不可欠の養分でもあります。

寺院などの池で見かける蓮の花は泥のなかに根を降ろして、そこから栄養を吸収して美しい花を咲かせています。

どのような花もきれいな水の中だけでは丈夫になれず、立派な花を咲かせることはできません。

人間だって、たとえ様々な欲があったとしても、その欲によって生かされているところもあります。

そういう意味からすれば、欲とまったく離れて生きることができない人間だともいえるでしょう。

しかし、その欲に染まってしまってはならない。

さまざまな欲のなか、そういう世の中で暮らしていても、こころのなかに欲を持っていても、塵芥(じんかい)のなかに浮かんでいながら、なお、美しい花を咲かせる蓮華のように、清らかな生き方はできるのではないだろうか。

蓮華の花は、わたしたちに人生を教えてくれているようです。

欲にとらわれることがあっても、嫉妬に身を焦がすことがあっても、怒りを抑え切れないことがあっても、いいではありませんか。

そういう自分に気づいたら少しずつ手放す努力をすればいいでしょう。

蓮の花は泥に浸かっている自分を静かに受け入れています。

「まだまだ人間ができていない、自分は罪深い人間だ、」などと思い詰めたり、過去に囚われて苦悩したり、自己否定したりすることはありません。

そのときどきの白分を素直に認め、ただ、そのままに受け入れればいいと思います。

これは罪を犯して良いという意味ではありません。

これまでの欲や嫉妬や怒りに気づいたらそれを成長の糧にすればよいと思うのです。

怒りを感じた相手を責めるのではなく、まず、自分の怒りを鎮めることを考えたい。

落ち着いた気持ちになると、怒りの真の原因が見えてきます。

たとえば、自分に「あのひとならきっとこうしてくれるだろう」とか「彼ならこんなふうに考えてくれるはず」という、勝手な思い込みや期待感があると、それがかなわなかったとき、失望や怒りが込み上げてきます。

しかし、相手は自分の信念や思いにしたがって発言し、ふるまったに過ぎません。

相手に対して怒りを向けるべきことではありません。

それならば、「あのひとはそんなふうに行動するひとなのか」「彼はそういう考え方をするひとなのだ」と受け止めればいいと思うのです。

それは相手をより深く知ることに繋がっていきます。

そんなことを通して、人を見る目が磨かれ、人のこころを理解する力が豊かになります。

欲や嫉妬や怒りを、まず、白分で引き受けるのは忍耐や理性という冷静さがが要ります。

人間には耐えるという心がなくてはなりません。

そういうときに耐えることによってのみ心に光が差してきます。

仏教では悟りに至るためにおこなう修行として六波羅蜜を定めています。

そのひとつが忍辱の修行、つまり、なにごとにも耐え忍ぶ修行です。

耐える力を養っていないと、欲や嫉妬や怒りが高まって、心の動き、流れがとどこおってしまいます。

こういった欲や嫉妬、愚痴、不満だけではなく、周囲への過ぎた気遣いもまたその背景には自分の奥底に、いい人でいたい、悪い人と思われたくない、という評価を気にする心理が働いている場合があります。

その結果、いつまでもそれらに振り回されることになります。

思いを手放し、しなやかに耐えてこそ、塵芥(じんかい)のなかにいて、なお、清廉(せいれん)に生きる可能性が広がるのではないだろうか。

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