神社参拝で業が消せるという話し

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パワースポットビジネス

パワースポットに関する開運のメリット(ご利益)を説明することから始まり、その一貫として神社に参拝することで自分の悪い業を消すことができるという。

聞く人によっては非常に興味というか関心を引くようなキャッチフレーズでPRすればそれに乗る人もいるのだろうか?

こういった広告やサイトを見る方のなかに、何かしら悩み苦しみを抱えている人、いろいろと良かれと思うことをお金も使い試してみたが何ら好転していない人にとっては、自分も悪い業を消すことが叶うなら行ってみたいなという気持ちが湧き出ることもあるかもしれません。

わくわくして興味をそそるような文章から始まり、最終的には、期待する気持ちまで駆り立てる内容でアピールすればその気にもなるでしょう。

「私が紹介する神社に参拝すれば業の解消が可能となります。」

「私の指定する日時、参拝時の願い事に関する言葉は私の指定する内容で口上すること」

「詳しい内容を知って業を消したい方は以下のボタンからクリックしてダウンロードしてください。」

「決済は銀行振り込み、入金確認次第ダウンロードできます。通常は29800円ですが今回は特別、サイト訪問者限定で先着20名に限り19800円で全ての内容をお分けします。」

おおざっぱですが、こういう流れで集客したらあなたは飛びつくでしょうか。

「とんでもない、私はそんなものには引っ掛かりませんよ。」という声が聞こえてきそうです。

実はこのような話しに乗った人がいましたが、結果は何も変わらずお金を散財しただけのことでした。

今の時代、ネット上でのビジネスは良くも悪くも進化していますから集客の為のホームページ、ブログのノウハウも相当手が込んだものが公開されるようになりました。

さて、神社に参拝すれば業を解消できて本当に運気が上がるのだろうかということです。

先ず、神社に参拝することの意味を参拝する人自身がどう考え、理解しているのかということを確認する必要があろうかと思います。

何事もそうですが、同じことを行っていても、それを行っている人の心の内で何を考え、思い、取り組んでいるかによって、途中経過や、後々の結果がまったく違ったものになってくるものだからです。

例えば1、「何としても宝くじで五億円を当てたいから宜しくお願いします。」といってお賽銭箱に百円をポンと投げ入れて参拝する人。

例えば2、ひとつの商売を起業するときに、

「この仕事を立ち上げて社員たちには福利厚生も整え、働く若い人たちの将来に役立つことができれば、それが社会にも貢献できるかと思います。

だから是非ともこの仕事で成功するよう自分の努力は勿論ですが、何卒、神様のご協力を頂きたくお願いにあがりました。」

こういう志をもって、お百度を踏み、真剣な決意で仕事に臨む人。

読者の皆さんが神様の立場なら、上記の1、2のどちらに協力をしたいと思うでしょうか。

参拝する神社にもし神様がおられるとするならば、神様の意に沿わない意思をもって参拝することは全く場違いな窓口に行って口上を述べるようなことだと思うのです。

誰も市役所の市民課に行って宝くじの当選をお願いをする人はいないでしょう。

しかし、これに近いことを日本全国の神社では行われているのです。

もっとも神社そのものが観光化やビジネス優先化して万屋(よろずや)になって、様々な願い事が成就するというように霊験あらたかだとしていることもその理由、一因ではあると思います。

神社に詣でることの収穫

神社に行くと何がよいのかといえば、参拝して自分の業(心の良くない癖、エゴ、拘り、執着)が消えるということではなく、その神社としての霊域が清浄で高次な波動を放っている所ならば、安らぐ気持ちで満たされるであろうし、心洗われる想いをも実感できるというところにあると思います。

そういった経験が私たちの心にとって、普段の生活の中では味わえない貴重な感覚を養ってくれるし、神仏と向き合う精神性を修養してくれる切っ掛けになると思うのです。

但し、神社とはいってもただ単に観光化して人間の出入りが多いだけで、有名な神社とは言っても実際に参拝してみると、境内も奥の院もそこで祭祀しているという〇〇〇之大神様の高次な波動すら感得できず、逆に邪気に満ちている境内もあります。

ですので、一般的にはそういった区別がつかずに、有名できれいに作られた建築物や周囲の環境だけをみて素晴らしいと判断する場合が多いかもしれません。

大切な事は、参拝したときに自分の私心のない感性でもって何を感じるかです。

先ずは出向いた折には礼儀をもって参拝しなくてはなりません。

このことは人間社会のなかでもまったく同じことがいえると思います。

誰かと連れだって訪れた場合などは特に、おしゃべりしながら境内を歩いていたのではその神社のもつ神聖な空気も目に見えない高次な波動も感じることはできないと思います。

心静かにゆっくりと謙虚な姿勢で参拝することで高次な波動と自分の心の波動が一致して感じるものがあるはずです。

先ず最初に、鳥居の前中央より少し左よりに立ち止まり、一礼して心で挨拶をします。

なぜ通路の中央より左かといいますと、後ろから来る方が右側を通過しやすくする為でもあります。

挨拶は、「〇〇市に住んでおります佐藤太郎(仮名)と申します。きょうは是非こちらの神社をおたずねして神様にご挨拶を致したく出向いて参りました。作法も何も分かりませんので、ご無礼がありましたらその点は何卒お許しください。」とこのように申し上げてから通路の左寄りを歩くのがよろしいでしょう。

こうして素直で謙虚な心で参拝するならば、その心は神社で祭祀されているところの神霊(唯一神の下の神格をもつ、人間としてこの地上に生まれない自然霊)に通じ「うん、よくぞ参った。」と親心で見守ってもらえるような縁ができるかもしれません。

人間の業というのは、今はやりの言葉でいうなら、ネガティブな思考です。

心の良くない癖の部分であり、私はそれを心の傾向性と呼んでいます。

こういった心の傾向性というのは相当な決意と勇気と努力をもって継続していかないとそう簡単には修正できるものではないということを私自身が実感しておりますし、これまでいただいた相談者たちも最終的にはそのことでご苦労されているのです。

正直なところ、神社に詣でたからといって「はい、調いました。」というようにはいかないでしょう。

それはあなたも十分に理解できるかと思います。

神社という一つの霊域に身を置くことでその清浄な霊域からクリーンなエネルギーを頂くことは、自分の心身の波動を高めるという意味で有効だと理解しています。

うまい話には気をつけなくてはなりませんね。

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憑依された神官

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神社ではない神社

私が30代中頃、30年まえのことですが、いっとき神社や仏閣に関心を持つようになり、仏像にも強く惹かれ、仏像彫刻の教科書を買って全くの独学で仏頭や手だけの彫り方から始め、やがて全身の仏像まで彫るようになったことがあります。

私の場合、スピリチュアルな世界に関わるきっかけがこういうところから入っていったのでしょう。

大きいのは一本彫りで直径1メートル高さ2メートルを超える丸太を使い、不動明王や観音像を彫ってお寺や市に寄進し、事故の多い交差点に安置され、交通安全不動尊として祀られたことがありました。

仏像彫刻をしていた時は、とても精神統一ができていて心の充足感があり、言葉では表現しきれない安らかな気持ちになっていたことを覚えています。

用材を前にじっと見つめて心を沈めますと、用材のなかに彫りあげたい御姿が見えてきます。

形を作ろうとするのではなく、その現れた御姿以外の余分なところを削り取っていくことで美しい仏の御姿が完成するという不思議が魅力でした。

無駄な所を削り取ると美しい姿が現れるというこの原理は、私の煩悩だらけの心にもあてはまる道理なのだろうと気づかされた瞬間でした。

そういうことに夢中になりながら、方やどこに出かけてもその地域の神社や仏閣をみれば立ち寄ってその雰囲気を楽しんでいた時期がありました。

自分の中で神社仏閣に対する意識があったこともあり、不思議とどこにいっても小さな祠からお宮、道端にある庚申塚やお地蔵さん、お不動さん、観音様等々、神仏という存在はどのようなものかという探究心で魅かれるように見入ったり立ち寄ったりしていました。

ある日の事、仕事で遠出をして沿岸の町まで車で2時間近く走りました。

たどりついた小さな町の入口の手前に小高い山があり、その山の入り口に鳥居が見えます。

やはり気になってその山に登ってみることにしました。

鳥居の奥には登っていく階段がみえます。

おそらく200段ぐらいはあろうかと思いました。

一歩一歩階段をゆっくり上っていくと眼下には豊かな緑と小さな街並みが見えます。

初夏の風が頬をなでていく心地よさに、胸いっぱいに空気を吸い込む動作をしながら頂上までたどり着きました。

大きくはありませんが、お宮がありました。

愛宕神社とありましたが御祭神に関することは表示されていなくてわかりません。

愛宕神社といえば、火伏せ・防火に霊験のある神社として知られ、京都市の愛宕神社が有名かと思います。

地方に点在する愛宕神社という名称の神社ではあってもその御祭神には違いもあるようで、日本の神話に出てくる下記のような神々の名前などが見受けられますのも不思議です。

伊弉冉尊 いざなみのみこと)

埴山姫神(はにやまひめのみこと)

天熊人命 (あめのくまひとのみこと)

稚産霊神(わくむすびのかみ)

豊受姫命(とようけびめのみこと)

さて話しを元にもどしましょう。

その神社の境内は小高い山の上にありましたから見晴らしがよく、空気の通りもよいのです。

しかし、境内の鳥居をくぐるまえに一礼して「失礼いたします。境内を散策させてください。」と挨拶してから鳥居をくぐって拝殿のほうに近づいたのですが、何故かその前に足が止まってしまいました。

止まってしまったというより、足がすくんで歩けないのです。

あれっと、思いながら周りを見渡すのですが眺めのいいはずの景色が歪んで見えるので私の眼がおかしいのか目眩がしているのかと思いましたが違います。

拝殿に近づこうとする意志とは反対に、前に進んではいけないという意識が働いて動きがとれません。

おかしい。と思いながら何かしら気配を感じて身が硬くなるのです。

これは前に進んではいけないなと判断して引き返すべく向きを変えました。

すると今度は背中の方(拝殿)にただならぬ人のいる気配を感じて顔を振り返ってみるのですが誰もいません。

ゆっくり、ゆっくり歩を進めて引き返しますが、とても後ろの気配に圧倒されて身の毛がよだつ感覚です。

階段でも後を振り返りながら何とか降り切りましたが、その町の古いお店の主人に聞いてわかったことは、「あそでは大昔に処刑があって首塚になっていたところで、後には供養のために神社の形態をとって祭ってあるのだ」ということでした。

この体験で知ったことは、神社という形態ではあっても必ずしも清浄な神々しい霊域に満ちている神社ばかりではないということがわかったということでした。

江戸時代後期に斬首したあとの首塚だったと聞かされて鳥肌がたったのを記憶しています。

神社というと神を祀っている所と思うのが一般的だろうし、私自身もそう思っていましたが、無知とはいえ無闇に境内に入ることの危険性を思い知らされた一件でした。

稲荷神社稲荷神社の邪気

私の友人に食堂を営んでいる男性がいます。

彼は大晦日の夜になると毎年の行事として年越しそばを振る舞うために某神社に出向きます。

夜の10時頃から元旦の朝まで夜通しの仕事で、それを三が日は続けますから相当疲れるということでした。

私は彼の徹夜の仕事に一声かけたいと思って車で一時間の距離を出向きました。

近づくにつれて「何となく、もしかして」と思い始めたのですが着いたところがやはり覚えのある神社でした。

私が神社巡りしていたときに立ち寄った20年前の神社でした。

赤い鳥居が拝殿に向かって参道にいくつも立ち並んでいる稲荷神社だったのです。

20年前に訪れたその時、私はその参道の脇にたくさんいる卷族キツネたちのただならぬ形相にはとても前に進む気になれず、暫く思案した末に引き返したのでした。

『この神社の境内には入ってはならぬ』と威厳のある声(後に私の守護霊と知る)が胸の中でするのです。

初めての経験に私自身も驚いてその時はまったく理解ができなかったのでした。

3年ほど前にわかったことですが、この神社の宮司さんが神社敷地内にある自宅の二階から飛び降りて亡くなられたということを聞き及びました。

首の骨が折れていて即死状態だったということです。

二階の部屋の窓際には履物が揃えてあったいうことですが、亡くなる数年前から随分と悩んでいる様子で元気がなく、近所の人たちの話しでは精神科の薬を飲み、心が病んでいるようだったということです。

会社もトップの人間(社長)の人間性がどうであるかによってその会社のカラーができ、社員だけではなく社会にまで影響を与えてくるものです。

そういった道理からすれば、神社の宮司の心が調和されていればその神社の霊域も非常に清浄なものとなり、参拝する人たちの心身を癒す場にもなるのです。

お稲荷さんのご利益と災い

通称お稲荷さんは、家の神棚に祀るお札や陶器でできた白狐などがありますが、小さな祠のお稲荷さんから、自宅や会社などの神棚に祀られているお稲荷さん、個人の宅地や会社の敷地に立派なお宮をつくって祀るお稲荷さんもあります。

そして神道系では日本稲荷神社の総本社といわれている京都伏見稲荷神社や、仏教系では愛知県豊川市にある曹洞宗の寺院に祀られる豊川稲荷のような大きな社まで、その規模はいろいろあります。

ですが、お稲荷さんとの関わりは結構気をつけてかからないと危険なところもあります。

比較的お願いを聞き届けてくださるという意味ではご利益を求める人たちにとっては好都合なのですが、自宅で祀るにも神社への参拝にも注意しなければならないことがあります。

お稲荷さんは、人間が願い事するときや、一心になって信仰する人々のその心から発する念波動をエネルギーにしているのです。

ですからお稲荷さんを信仰して祈る人が多ければ多いほど、神社に出向く人が多ければ多いほどその念波動をたくさん頂ける事になり力がつくということになるわけです。

当然、力がついてくれば願い事が叶う確率も高くなるということになります。

人間は苦しい時や、商売を始めた時は志をもって謙虚に純粋に努力もし、神祭りもしていますが、豊かになると原点を忘れ、驕り、傲慢になり、初心の神祭りをしたときの気持ちすら忘れて疎かにしてしまいます。

真面目に努力をし、神祭りもちゃんとおこなっているうちは何も問題もなく良いのですが、慣れ合いになって祭りごとをしなくなるとお稲荷さんの力はドンドン弱くなってくるのです。

いわゆるパワーダウンです。

こうなると、お稲荷さんといわているが実際は(霊格の低い卷族・使い獣・狐)不機嫌になり、怒りだしてきます。

(※高次な神格をもった自然霊としての稲荷大明神は怒らない)

「お前たちが商売繁盛と願い事をするから叶えてやったのに、少し豊かになるともう俺たちを無視してしまうとは何事か。許さん。」となるわけです。

これまでは稲荷神社に足しげく通って参拝していたのに、今はもう全く行かなくなったという人の家庭に様々な災いや病気が次々と起こってくる場合があります。

稲荷信仰は全てがそうだとは言いませんが、往々にしてそういう傾向にあることは否定できませんし、そういったトラブルを何度かみてきました。

なかには精神病になった人もいます。

稲荷神を祭祀する神社では、卷族という使い(神獣)が数頭から数十頭、数百頭もついて働いているものですし、日本を代表するような稲荷神社ともなると卷族たちの数はどれほどの数かと思います。

この卷族という使い(神獣)も霊格があり、ピン切りで、霊格の低い者は人間が無知で見えないことをいいことに悪さをする未熟な卷族たちも多いのです。

稲荷という神格の使いであるからとはいっても、必ずしも安心はできないし、油断もできないのです。

ですから、そういった未熟な卷族たちの霊障(憑依)にあわないためにはどうしたよいかということですが、先ずは自分たちの心の波動を上げることです。

波動を上げるとは、心の調和です。

調和とは、過ぎた拘りや執着、不満、愚痴、怒り、妬み、驕り、欺瞞(ぎまん)嘘、などの心、行動をせず、いつも「ありがとう」「おかげさま」という心からの感謝の念、そして足ることを知ること、言葉、行動を日々実践することです。

そうすれば自ずと心の波動が上がってきます。

心の波動が上がってきますと、低級な霊や霊格の低い神獣たちと波長が合わなくなり、憑依されることもなくなってきます。

本来は、物事の成果、成功、成就というものは、神頼みで得るものではなく、自らの努力で成していかなければならないものでしょう。

それが他力信仰ではない、真の自力信仰だろうと思うのです。

信仰によって安らぎを得たり、大切なことに気づくということからすれば、信仰を持つことは悪いことではないと思いますが、しかし、人間のこの世的、物質的、経済的な欲求の為に祈る信仰は非常に低い心の波動を放つものだということを知っていただきたいと思います。

それがどれだけ霊的次元の低い世界の者たちとコンタクトされ、つながってしまい、前回の投稿で述べたように霊障となって災いしてくるかということです。

人と人とが出会うとそこで縁が結ばれることもあるように、霊の世界、つまり、神社や仏閣に参拝するとそこでも縁が結ばれる場合もあります。

しかし、それはその時、その人、その時の心の状態にもよっても縁ができるか否かです。

霊格の高い神社の神(人の上の神であって天地宇宙創造の絶対唯一の神ではない神)の場合、人間が多少の粗相をしても寛大な心で見守るのですが、霊格の低い祭神の場合、その卷族として働く使いたちもまだまだ未熟で幼く、悪さをするような霊たちも多いのです。

このような理由からお稲荷さんを信仰している人、神棚に稲荷神社のお札がある人は、これまでの自分たちの祀り方をもう一度見直してみてどうでしょうか。

これまでのように祀っていくならば、ちゃんと礼儀をつくして(1日と15日を目安に)行うべきだし、祭りごとは負担ばかりだし、形式的な祀になってしまって無い方がいいと思われるならば、これまたちゃんと礼儀を尽くして御帰り頂く手はずを取らなくてはなりません。

御帰り頂くときは、これまでお世話になった神社の神官にお願いして心付けを添えて引き取ってもらうのが一番無難であり、陰で働いてきた卷族たちに対する礼儀でもあると思います。

稲荷信仰による霊障は、元を正せば、卷族たちが悪いのではなく、人間の都合によって卷族たちを翻弄させた結果による反動が報いとなって人間にかえってきたとうことです。

ほんとうの犠牲者は卷族たちかもしれないと考えれば、よくよくご利益信仰を見つめなおす必要があろうかと思います。

最後に、神社、仏閣で祭祀されている神と呼ばれている存在、仏と呼ばれている存在は、大宇宙、天地創造のgod絶対唯一の神とは違うと考えていますことを述べておきます。

大宇宙、天地創造の神が全ての生命をつくられたと考えるとき、野の花一輪にも神の意思が働いていると観じられてきます。

したがって、godはどこそこの人間が作った建築物に宿っているようなものでは決してなく、全ての宇宙空間に存在し、私たち人間の心の内にも神性仏性として備わっているし、自分が意識をすればいつでも私たちの心の内に神がいることになるのではないでしょうか。

神社仏閣で祭祀されている神と称するもの、仏と称するものは、あくまでも人間の上の神であって、god絶対唯一の神の下で働く、神格をもった自然霊であると思うところであります。

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邪気をもらってしまうということ(エンパス)

霊

感受反応

普段は普通に生活できているのに、人の体に触れることで具合が悪くなることがある、体調不良となる、気持ちが落ち着かず、息苦しさを感じる、胸が苦しい、背中が重苦しい、肩が重くなった、首から頭にかけて締め付けられる、頭痛がする、動悸がしてきた、めまいがする、ふぁふぁする、変な汗がでて気持ちが悪い、等々というようなことを言う人がいます。

あるいはこういった身体感覚が人に触れなくても、他人の傍にいるだけでそうなる人もいます。

また、特定の場所にいたときにそうなる場合もあります。

例えば、学校や、病院、ショッピングセンターなどのように人が大勢いるような集団のなかでそうなる人たち、つまり、体調を崩す生徒や先生もいます。

事例-1

とある小学校に勤務する男性の先生が定期的に体のメンテナンスのために私の院においでになっていました。

彼はいつ来院しても体に随分とマイナスエネルギーを溜めこんでくるのです。

ですから、施術前にはときどき彼を浄化してから施術をスタッフに任せていました。

何故にこれほどマイナスエネルギーを溜めこんでくるのか不思議でなりません。

何となく勤務する学校に問題があるような気がして引っかかります。

思いきって切り出ししてみました。「あなたが勤務する学校に行って様子をみたいのですがどうでしょうか?」と。

「是非お願いします。」ということだったので院が定休日のときに車で40分ほど離れた学校に出向いて校庭を観させてもらい、玄関から入って校内を観させてもらったら校舎の裏側に引かれるように意識が向かうのです。

一旦、外に出て校舎の裏側に回りこんだら校舎の真後ろに大きな墓地があるではありませんか。

ああ~っなるほど。ここの墓地からの霊波動だったんだと納得いきました。

先生にそのことを話したら「校舎内で子どもたちが幽霊を見るといって騒ぐこともあります。」ということでした。

その先生は出勤前になると決まって頭痛がするというのです。

子どもなら学校に行けないとか、行きたくないといって腹痛を訴えたり、頭痛を訴えたりする精神的なストレスからくる症状も考えられますが、先生の場合はそのような様子はまったく考えられないのです。

それから3年ほどしてその先生は転勤になり沿岸のほうの小学校に単身で移動したのです。

久しぶりに院においでになったときに「実は不思議なんですが、転勤になってから出勤前にする頭痛がまったく無くなったんですよ」というのです。

明らかに外部からの見えないエネルギーによって身体に感受反応が出ていたということがいえる事案だと思われます。

さて、感受反応という言葉についてですが、上記のような症状を抱えて内科や婦人科、心療内科で投薬治療を試みたが改善されず、私の整体院に自律神経失調症です、心身症です、パニック障害です、更年期障害です、と言われましたといっておいでになる方々がいます。

ところが現代医学でいうところの上記の症状は必ずしも、自律神経の失調によるものでもなく、心気の不調による症状でもなく、更年期によるものでもなく、精神的トラウマによるパニックとばかりも言いきれないものがあります。

これまで数多くの患者さん、クライアントさんたちを診てきました。

エンパスという言葉について

上記に述べたような感受性の強い人、直感や感覚の鋭い方、周囲のエネルギーを感じやすい人の場合は、もしかしたらエンパス体質かもしれません。

一方、霊媒体質といわれている方、そう思っている方・霊能力のある方も同時にエンパス体質と表現できるかもしれません。

相手の人の気持ちがなんとなく分かってしまう、他人の痛みを自分のことのように受け取ってしまうし、相手の方と同じところが痛む・・・・・・・・・。というようにです。

とりわけ対人間において敏感に感じ取る場合が多いのですが、人によっては動物や植物、自然や宇宙にまでその感覚は広がっていることもあります。

人間関係、場所、などで体や心で感じる敏感な特質、人との共感する意識の高さ、こういったことがエンパス(感受反応)だといえます。

共感する意識の高い人というのはどういうことなのか、それは心優しく、いたわる気持ちが強い人が多いのも特徴です。

他者の心の苦悩、痛みが分かるがゆえに、より心が磨かれて成長してゆくのですが、気をゆけなければならないのは、自分自身が流されないように、心の安定を保つよう精神バランスの調和を常に心がけておかなくてはなりません。

他者の感情に共感したとき、それが自分の意識だと思ってしまうことは、他者と自分の感情を混同してしまうことになって危険性をももたらし、自分自身のバランスの取れた精神生活を送ることが困難になりかねません。

偏りなく、拘りなく、執着せず、調和された心をしっかり持つことの大切さはここにあります。

また、これまでの直感力や共感する心、そして体に感じる上記のような感受反応を「気のせい」として片付けたり、誰かに相談しても取り合ってもらえなかったり、おかしいんじゃないの?などと言われて悩んでいる人も少なくないと思います。

体には特に医学的な疾患がないのに上記のような身体症状が時々あるという人たちでも、その様子を詳しく聞いて確認してみると、エンパス(感受反応)の体質として敏感である場合が多々ありました。

そしてその真実を知ることで対処法を教え、上記症状が回避できたり、改善できたケースが多くあります。

私自身の事例で言いますと、患者さんが何かしら重篤な病気を抱えてきたり、心に重大な問題を抱えてきたり、あるいは霊的な問題を背負ってきた場合、身内に不幸があったばかりの時、結構な体調不良でおいでになったときなど、その患者さんが駐車場に着いた瞬間にその人の状態が良くない状態であることがわかるという場合が少なくありません。

その患者さんが駐車場に着いた途端に私の胸に強い衝撃がくるからです。

その衝撃が強い場合はドンッと心臓までショックが走ります。

気分のいいものではありませんが、長年そういう状態が続いたこともあって慣れてしまって動じなくなりました。

当初は自分の心臓に病気があるのではないかと思って、24時間の心電図と心臓のエコー、脳波検査、CT検査をしたのですが、何ら病気が発見されることもなく、健康な心臓だといわれたのでした。

ある日、過去にガンを何度も手術したけどまた今度手術の予定が入ってるというご婦人が尋ねてきたことがあります。

彼女は二時間30分、相談なのかなと思いきや、自分の一方的な話しを延々とまくし立て、身内への愚痴と怒り、夫への不満、自分はあの人たちにあれをしてやった、これをしてやったと常に自分が正しいと自己主張し、昼の時間をとっくに過ぎているのにそれを気にかけることもなく、最後まで自分の話しだけをして帰られました。

私はこの女性と対面しているだけで体から汗が噴き出ているのがわかりました。

そして同時に、私のエネルギーを猛烈なスピードで吸収されていることも実感していましたし、彼女の心と身体から発する不調和な精神エネルギーと、その身体の邪気が私のエネルギーと交換されているのがわかっていました。

私は彼女が帰られた後に十分に自己浄化をしたのですが消耗したエネルギーをチャージしきれていなかったのです。

その日の深夜2時、胸の苦しさからいきなり目が覚めたのですが、案の定、心臓が不整脈を起こしました。

拍動がドンドンと強くなり、脈が止まったり、早くなったりを繰り返すこと30分くらい続いたのですが、これが非常に気持ち悪く生きた心地がしません。

当然、自己浄化を繰り返し、腹式呼吸を繰り返し、身体が落ち着くのをひたすら耐えて待ちます。

サンリズムというお薬は循環器科ではよく処方される不整脈のお薬ですがそれを飲んでも私の場合は殆んど効果はみられません。

こういった身体の変調を経験した当初は、心拍数が120、強度の拍動、血圧上昇というあまりの苦しさに耐えきれず、初めての経験ということもあり、救急車を呼んで搬送され不整脈専用の点滴を入れて落ち着いたということがありました。

しかし、先に述べたように検査しても何も問題がなく、心臓疾患がみつからないのです。

こういうような不調は、疲労が極限に到っていることに加えて、他人からの邪気を目いっぱい被ってしまったこと、そして自分のエネルギーを使い過ぎたときに限って発生してきたことが何度も同じ体験をすることでわかってきたのです。

「治療家は短命だ」という話し

私の知っている治療家で52歳という若さですい臓がんで亡くなられた整体師がいますが、彼はとても腕のよい治療家で、朝から晩まで一人で仕事をしていましたが、来院者が絶えない忙しい毎日をすごしていました。

どれほど腕が良くても52歳の若さで他界は早すぎますし、とても残念なことです。

なぜ治療家は短命といわれるのだろうか。

実は医学的な根拠も、証明もありませんが、ハッキリと私自身が体験して言えることは、見えないエネルギー、つまり人間の体に溜まったマイナスエネルギー、不調和な心の波動エネルギー、邪悪な霊的波動エネルギーに常時関わっているために、どうしてもそういったマイナスエネルギーの影響を自分の身体に溜め込んでしまうというリスクは免れないということが挙げられます。

エステサロンで仕事をしている人が疲れきって来院したときに話していましたが、「どうしても直にお客様の体に触れるために、邪気をもらって体が参ってしまう」と。

こういう来院者には自分がもらったとき(被ったとき)にどのようにしてその邪気、マイナスエネルギーを除くのかを確認して、その方法を知らない方には私なりの方法を伝えるようにしております。

実際に私自身が体験したことですが、だいぶ前の話しです。

患者さんの体に触れた途端に一気にマイナス波動を被ってしまい、胸が苦しくなって意識が遠くなり、その場に倒れてしまったことがありました。

れも同じ患者さんに二回とも同じ経験をしたのですから単なる疲労ではなく、霊的背景による影響であること、マイナスエネルギーの作用は否定のしようがありません。

この患者さんは糖尿病を患い、血圧が高く、後には、身内に自殺した方がいるということが分かりましたし、夫婦関係が非常に良くない状態であることも聞かされたのです。

私が倒れて意識が遠のくなかで、患者さんは大丈夫ですか?と声を掛けてくれていたのは分かっていましたが、その声がはるかに遠くに聞こえ、自分は完全に血の気が引いて真っ青になって倒れこんだようです。

このまま死ぬかな?と思いました。当日はそれ以降の施術はできませんでした。

事例2、20年近く前でしょうか、患者さん(40代の女性)の問診を終えて施術を始め、一通り終わってから私は何故か仰向けになっている患者さんの額に手のひらをかざしていました。

何故か私自身の胸に悲しみが溢れてきてやりきれないきもちになった。

なぜそういうことをしたのか自分でもわかりませんし、普段はそういうことを全くしないのです。

患者さんは仰向けの状態で目にいっっぱいの涙を浮かべて肩を震わせて泣いています。

「どうしました?大丈夫ですか?」

「先生は私が何も言わなくても解るのですね。」(実は何もわかっていません)

「何があったのかわかりませんが、とても悲しく苦しいことがあったのですか?」

「主人が亡くなってまだ日が浅いものですから」

「そうでしたか。それはお気の毒に、辛いですね。」

「なんだか分かりませんがとても気持ちが安らぎます」そう言ってまた涙を流していました。

施術が終わったときの患者さんのお顔が明るい表情に変わっていたのは嬉しかった。

私が質問したわけではありませんでしたが、彼女は自分から話してくれた。

ご主人が会社の経営に行き詰って自ら命を絶ったことを。

治療家が健康であるために

整体師、カイロプラクター、柔道整復師、あん摩マッサージ師、鍼灸師、エステテシャンなどのこういった治療家、療術師の場合、先に述べたように、どうしても相手の負のエネルギーと関わることになりますからその影響がないという訳にはいきません。

ということは、先ずは、施術後の自分自身の状態をよく把握することが自分の体を健康に保つ条件であるといえます。

施術前の自分の状態と施術後の状態の違いを意識するところから始めることです。

そういう習慣をしっかり忘れないで心掛けていますと、いつかはその違い、変化に気づくようになってきます。

微細な違いをハッキリと自覚できるようになってくるし、自覚できるようになってくるといい状態を維持したいと思うようになってくるものです。

こういう肉体感覚てきなことから始まって、やがては触れなくてもその人の持っているエネルギー状態が波動となって自分に伝わってくることを認識できるようになってきます。

ここでいうエネルギー状態というのは、その人の体から発するエネルギーや、精神状態から発するエネルギーや、あるいはその人に関連する霊的な背景からくる波動の事です。

治療家、療術師はこういったエネルギーの作用をよく理解して、それに対処できるような知識と技術を学び、実践していくことが自分の健康を維持しながら短命にならずに長寿で、長く現役でいられることにつながると思います。

私自身も定期的、且つその都度ケアを怠らずに、疲れを取るための時間はもうけるようにしています。

スタッフの皆にも、仕事ばかりではなく自分たちでお互いに声を掛け合って、わずかな空き時間でも利用してメンテナンスをするように指導しています。

同時に体のケアはお互いに施術しればよいことですが、そうでない部分でのケアについても自己浄化を率先して行うような指導をしてきました。

しかし、何事もそうですが、エンパス体質やそうでない鈍感な体質でも、先に述べたように、施術前と施術後の自分の体の変化を意識するようにしていると徐々にその変化に気づくようになってくるから不思議です。

このエンパス(私は感受反応といっています)については早い時期に感じてわかる人と、そうではなく相当に年月が経ってから感じ始める人がいることもわかってきました。

最初の頃は「さっきの患者さんを施術してどうだった?」ときいても全く他人事のような顔をしていたスタッフが今は、「先生。あげてください。」というようになってきたのです。

自分で自己浄化をして上げきれないとわかるとこうしてお願いしてくるのです。

すぐに浄化をしてやりますと、「あ~楽になりました。」という。

ようやくクリーンにしておくことの大切さに気付き始めたわけです。

一般的に、整体師もカイロプラクターも一人で仕事をされている院が多いかと思いますが、そうすると自分自身の体のケアは疎(おろそ)かになりがちなものです。

かつては私自身が一人でやっているときは他院に行って施術を受けてはいたのですが、その頻度はとても少ないものでした。

少ないというのは、仕事の内容からして疲労が相当に蓄積されている事に対する不足という意味です。

一日に10人から15人くらいも施術をすれば相当な疲労が溜まってきます。

一人45分で手抜きなしのガチンコ勝負という感じで、ソフト、レギュラー、ハードで区別するならハードな手技でやっておりましたから結構な疲労がありました。

そういう辛さを経験しているからこそスタッフには自分たちのケアをしっかりやりなさいよと指導しています。

エンパスはあらゆる場所でも起こることですし、誰もが少なからず経験していることだろうと思いますが、その身体感覚には程度の差があるだけで気づいていない人たちも多くいることでしょう。

また、エンパスとしての身体感覚があってもそれが感受反応からくる身体感覚だと気づいていないか、もしくは知識として知らないだけの人もいると思われます。

このエンパスという感受反応は、ともすれば病気による体調不良だと思っている人も多くいましたし、病院に行って症状を話せば大体は、更年期障害、自律神経失調症、心気症、心身症、パニック障害、うつ病、といわれて向精神薬を処方され、体に依存性ができてしまい、長期にわたって副作用に苦しんでいる場合が少なくないようです。

次回は霊的なことについて少し触れてみたいと思います。

※きょうも最後までお読みくださいまして感謝もうしあげます。何かしら参考になることが有りましたら下のバナーをポチッとワンクリックして頂ければ有り難く思います。

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惰性に流されない結婚生活

夫婦

結婚生活をどう生きるか

結婚生活が長くなってくるとどうしても結婚当初の気持ちが薄れ、あるいは忘れてしまい馴れ合いのなかでやり取りをする傾向にあります。

夫婦は一体であるということを前回話しましが、そういったものであることのなかでもお互いが独立性をもって生きることは極力相手に依存しない、不要な負担をかけないという意味において大切なことだろうと思うのです。

そのために常に何かの目標を持つこと。

男性の場合でいえば、生涯の仕事を持ち、それを生きがいとしているのはいいのですが、定年によってその仕事を失った時に、無気力状態になってしまうようではこれもまた問題です。

個人としての生涯に渡る自分が心を向けられるような内容の目標を若い時から見つけておくことがそういった無気力を防ぐ方法でもあります。

女性の場合でいえば、結婚への心構えとして、結婚生活に安住し、惰性に流されない生き方を心がけることが大切です。

長い結婚生活の果てに、女性としての魅力を失い、夫に対する言動にも横柄になってきたり、結婚生活がわびしくなっている人たちがいます。

その原因はいろいろありますが、自分としての独立した目標を持たず、ただ夫に従属するようなかたちで生きてきた結果ということもいえるのではないでしょうか。

子育ての最中はそれだけでもとても立派な生き方なのですが、子どもたちが成長していったその後の結婚生活が問題なのです。

妻として女性として魅力的なのは、ある種の独立性を持った女性であることも忘れてはならないでしょう。

もう少し言うなら、家庭の仕事をこなしていくこととは別に、自分独自の目標を持つこと、何かしら自分が打ち込めるもの、自分が輝けるようなものが大切です。

もちろん家庭人として他に特別に何がなくてもいいんです。

その家庭に素晴しい何かを工夫して付加できれば、それがあなたの価値となります。

心がわくわくするような目標を見つけられれば最高に素晴らしいことですね。

生きる力強さは目標を持ったときに現われます。

毎日のわずかの時間を自分に合った能力を身につけることに使えば、その積み重ねの結果、女性として素敵な生き方になるでしょう。

こういった生き方こそが心に幸せを感じ、健全な結婚生活を創ります。

自分優先をやめる

通常一般的に、結婚生活を始めてしばらくの間は蜜の如く甘い生活がつづきますが、やがて二人の間に込み入った感情的な問題などが起こってくるようになります。

しかし、結婚そのものが妥協であったり、打算であったり、仕方なく結婚を選んだりと、お互いが喜びのなかでの結婚でない場合はとても問題です。

人生はプラスの部分だけということは決してなく、いままで生きてきたマイナスの部分が二人の間に関わってきたりするからです。

人は幼児期からの家庭環境、友人関係、生活習慣、社会環境の影響を色濃く受け、そして抱えてくるようになり、それらが次第に二人の関係が長くなるにつれ、深くなるにつれ、重い課題となって現われたりします。

問題が発生したとき「俺の何が悪いんだよ。私のどこが悪いのよ。私は間違っていない。私に落度はない。」と思っているうちは、二人の関係はこじれて行きづまります。

愛情が冷めてしまうのはこういう時です。

愛が試されるのあこういう時です。

お互い、何事もうまくいっているときは相手を非難したりすることはないが、一旦、何かしら問題が発生して自分に都合のよくない事態になると自分を守ろうとする「自己保存」の気持ちが表面に出てきて相手を非難したり、言い訳をしたりします。

人間は逆境や、試練と思えるようなときこそ自分の持っている本質が現れてきます。

ですから、こういうときこそ相手の負の部分を理解して、受け入れて、自分の事として向き合っていくことが大切です。

また、結婚によって家庭生活が深まるにつれて、自分だけの楽しみや、好みなどを我慢したり、あきらめたり、独身時代の自分中心で好きなようにしていた生き方や生活のパターンを改めたり、捨てなければならない状況にもなってきます。

自分中心ではなく、自分優先ではなく、相手のためになることを心がけ、二人にとって必要なことを最優先にする生活にしていくことが求められます。

困難ですが、この「自分優先」をお互いが捨てる必要があります。

結婚前のときのように、自分のことより、相手が何よりも大切だと考えられるようになれば、二人の結婚生活は生き生きとして輝いた生活になります。

二人が結婚することで失われるもの

私は春夏秋冬、リビングで外の景色、野鳥の餌をついばむ様子を見ながら朝食を頂いています。

野鳥たちの喜々とした姿は心が和みます。

しかし、この野鳥たちを捕えて鳥かごで飼ってしまったら今のような野鳥の姿はみられなくいなるでしょう。

自由で輝いている美しい野鳥も、それを捕まえて檻に入れてしまうと、みずみずしさや生き生きとした力は失われていきます。

私たちは結婚生活において、これと同じようなことをしているかもしれません。

自分だけのものにしておきたい衝動で、私たちは知らず知らずのうちに相手を閉じ込めようとしてしまいます。

愛を独占したいのです。

そして愛されたい欲求が強くなるにつれて、愛することの本質を見失っていきます。

独身時代のように、自由に行動されるのが怖いという心理も働きます。

今の時代は自分の思いを簡単に表現し、相手に伝えるということからすれば、恋愛感情の抑制が希薄になってきているかもしれません。

もちろん、メールや携帯電話で簡単にやり取りできるという便利さにもあると思います。

相手を自由にすることの不安は誰もがもつ感情かもしれません。

しかし、パートナーのことを思ったとき、辛抱しなければならないこともあるでしょう。

女性の場合ですと、夫のために友人や仕事、もろもろの活動を止めたり、控えめにしたりするかも知れません。

男性の場合ですと、一人でいる楽しさを捨てたりして、結婚のために何かしらの犠牲をはらうかも知れません。

その結果、一人で自由にできていた独身時代、恋人時代の生き生きとした魅力をしだいに失い、二人の 人間関係が色あせていきかねません。

カウンセリングを希望して相談にみえる女性たちの共通点ですが、特に女性の場合、一般的に広くコミュ二ケーションを求め、多くの親しさに結びつくことを好みますから、結婚による閉塞感にはつらいものがあるようです。

こういった結婚生活におる閉塞感を改善するために大切なのは、お互いの独立性です。

相手に束縛されない自分だけの時間を持つことは、結婚生活にとってきわめて大切なことのように思われます。

そのためにはお互いの強い信頼関係が根底に必要です。

この信頼関係の構築は結婚前から始まっています。

結婚前に不信感がありながら結婚したから独立性をもちましょうなんてできない相談です。

普段からの生き方が決め手になります。

理解しあっての親密さと自由さ、この二つが結婚生活をいっそう充実させるでしょう。これも大切な結婚を正しく、そして幸せを実感するための心構えです。

女性が失くしてはならないもの

夫に求められるもの、それは寛容にして包んで守るという男の包容力でしょう。

そして、結婚生活や家庭でとても大切な役目を果たすのは女性のしなやかさです。

もちろん男性にもしなやかさは求められ、ただ剛直なだけの人はどこへいてもスムーズにはいきません。

ですが、女性がしなやかさを失いますと結婚生活や家庭からゆとりと潤いが無くなりますから不思議です。

女性の存在がどれほど大きなものであるか実感するところです。

これは結婚生活に限りません。職場においても同じです。

しなやかさの反対は頑固でかたくなな心ですから、こえだと夫婦の間や家庭から対立が絶えなくなります。

また、剛直なだけの男性ではうまくいかないように、しなやかさだけの女性でもやはり偏ってしまいます。

理想的な女性ということでいえば、それは強さとしなやかさを兼ね備えた人です。

結婚生活の難しさはパートナー次第で人間性が如何様にも変わっていくことです。

特に女性は夫の人柄や性格、生き方にかなりの影響を受けるでしょう。

ある人は輝くような悦びを発散する女性になっていく人もあれば、暗く沈みこみ自分や周りの人に悪影響を与えていく人もいます。

結婚生活を長きに渡って夫から強い束縛や苦しみ、そして傲慢さを与えられますと、女性の中からしなやかさが消えていき、暗い心の波動を発散するようになるのです。

こうなると内心の反抗心が頑なな性格を形づくっていくのです。

女性は本来強いのです。

その女性が頑固で凝り固まった心になりますと容易に調和は取り戻せません。

元のしなやかな女性に戻ることも容易ではありません。

夫や家族は妻や母のしなやかな優しさに包まれていたいのです。

女性の心構えとしては、夫へ素直に自分のつらさ苦しさを伝えていくことが大切です。

我慢の結果が無意識的な反抗心をつくることにもなります。

自分の思いや考え、そしてそのことで自分がどんなに傷ついているかを素直に話す。

こういった実践は自分の心を開くための言葉なのであって、結婚生活の大切な心構えです。

愛が苦しみに変わる時

人は恋をした時とても大きな悦びに浸ります。

愛する相手と心が一つになった時の高揚感、これこそ人生の最もパワフルなひと時です。

パートナーが側にいる、それだけで充分の満足感があります。

しかし、漫談の綾小路きみまろさんの、あれから40年ではありませんが、なぜかこの状態はいつまでも続きません。

お互いに愛しているのにぎくしゃくとした雰囲気が生じたり、時にはいさかいまで起こり、しまいには一緒の空間にいることさえ苦痛になってしまうことさえあるでしょう。

かつての愛しあった高揚感は失われ、苦しみが顔をのぞかせ、憎しみにまで突き進んでしまうカップルもあります。

何故だろうか。

出会い、お互いの愛を確認した時は間違いなく一体感を感じています。

相手の全てを無条件で受け入れいることを喜びとしていたはずです。

お互いに相手の意思を尊重し、相手のことを優先に考えていたでしょう。

やがて、二人が共にいるのがあたり前になってくると、相手の意思より自分の意思に重きを置くようになり、相手をコントロールしようとします。

ここから問題が発生し始めます。

人が生きるということは無意識的にでも自分の意思をもって他の人をコントロールする働きでもあるのです。

ガミガミ言う母、すねる子供、これらもガミガミ言ったり、すねたりすることで自分の意思を通そうとする表現です。

人はそれぞれその人なりのコントロールする方法を知らず知らずに身につけています。

恋愛中は相手への思いやりに満ちていますから、自分の意思は抑制されます。

がしかし、結婚生活も落ち着き、あるいは恋愛の期間も長くなってきますと、この身についた相手をコントロールする働きが動き出してはっきりと表に出てくるのです。

ところが、自分の意思を通そうとするのは対立を意味します。

これが二人の間にぎくしゃくとした感じがしたり、衝突を起したりする一つの原因なのです。

もう一つは相手の欠点に心がとらわれ始めると二人の間から一体感が失われていきます。

いわゆる、相手のあら捜しです。

自分とパートナーを違う存在として位置付けることになるからです。

社会構造のなかで最も身近な存在、それが家庭であることはいうまでもないでしょう。

家庭における結婚生活は人間関係の先端でもありますから、さまざまな姿を現します。

日々の生活にただ流されるだけですと苦しみを抱え込むことになります。

目の前の問題点を見つめ、自分をコントロールする知恵が求められます。

これは家庭生活を調和させるうえで必要欠かざる大切な結婚への心構えではないだろうか。

愛は求めるだけであってはならない。

自分が欲するものを与える愛でありたいものです。

次回は「邪気をもらうということ」について明日2月23日 投稿予定しております。

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恋愛・結婚・愛と苦悩・そして憎しみ

夫婦

日本における離婚率は3組に1組が離婚しているという統計も出されております。

語りかけても返事がない、意見がない、反応がない夫も困りますが、何かしら些細なことでもヒステリックに反応してくる妻もまた手ごわいものがあります。

離婚の危機にある夫婦が平和な心で結婚生活できるようになれたらそれはそれで喜ばしいことですが、その前に離婚の危機に直面しないような生き方ができたらそれは最も喜ばしいことではないだろうか。

きょうは家庭における結婚生活がお互いにとって価値ある時間であるために、幸せを実感できる人生であるために、どういう心構えでお互いを受けいれることが望ましいかについて話してみたいと思います。

5項目に分けて述べていきますから少し長くなりますが、最後までお付き合いいただければと思います。

男と女の解釈と価値観の相違

結婚して家庭生活をおこなうにあたって知っておかなければならないこと、それは男と女が感じるところ、つまり敏感で傷つきやすい心の部分は違うのだ、ということを正しく認識しておく必要があると思います。

男と女の間にはちょっとしたきっかけで色々なトラブルが起こります。

そうした諸問題の中にはどうしても理解しにくいものもあるでしょう。

例えば、「どうしてこんな他愛のないことであんな怒られ方するのだろか?あるいは無視をされたり、何日も口をきいてもらえなかったりしなくちゃいけないんだろう?」と感じたことはないだろうか。

男性には男性の特性があり、女性には女性特有の性質、気質というものがありますからそのことを良く認識しておく必要があります。

男にも女にも人間として共通する点もあります。

それは人間だれでも「認められたい」という潜在的な欲求です。

ところが、思いは共通しているのですが、実際は中身では結構な隔たりがあるのです。

男性は自分のどこを認められたいのだろうか?

一般的に男性は自分のスキル(能力)や男らしさ、地位を認められたい場合が多いようです。

例えば、会社のなかでは肩書きのない自分がコンプレックスを持ったり、不安感に陥ったり、それが長じてノイローゼにまで到る人もいるのです。

時には昇給よりも昇格を望む場合があるでしょう。

つまり男性は社会から認められたい意識があるものだということが理解できるかと思います。

会社や社会から認められることで自分の存在意義を感じるのが男性でもあるのです。

ですが、ここに男性のプライドと弱点が発生してきます。

男女の争いの理由の一つに、こういった男性の気持ちをわからない女性、妻の立場があります。

何の気なしに「どうしてできないの?」とか「ダメねえ~」などと簡単に言った女性の言葉が、実は男性にとっては許しがたいほど傷ついていることがあります。

 さて、それでは女性は自分のどこを認められたいという気持ちがつよいのだろうか?

摂食障害で相談にみえる若い女性 が抱える問題の背景には「キレイ、美しい、美」への偏った拘りが潜んでいます。

つまり、一般的に女性は自分の女らしさを認められたい欲求があるのです。

男性から自分の女性らしさを認められることで、自分の存在意義を感じるのも女心故でしょうか。

それだけに女心を傷つけるような発言「太ってるね、肌が黒いね、鼻ぺただね」をして気づかない無神経な男性は気をつけなくてはなりません。

人間は自分の尺度で相手を見ることによって、相手の反応が意にそぐわないと相手を悪く見て感情を波立たせます。

他人は自分ではありません。

特に心が傷ついたり、感情的になる心の部分は、その人の生い立ちや家庭環境、性別、親の教育、生活習慣などにより微妙にそして深く異なります。

男女が結婚して家庭生活に入りますと、恋人時代の恋愛感情とは異なり、 更に近しい間柄になりますので遠慮がなくなり、本来もっている心の深層にある生の本質的な感情や思いが出てきやすくなります。

夫は妻に母との葛藤の部分を重ねる場合もあるでしょう。

妻は夫に父との葛藤の部分を重ねたりするでしょう。

男と女の様々な問題では、お互いが相手の心が傷つくポイントがまったく違うことに気がついていない場合がとても多いのです。

こういった相方の違いに気がつかないと、男と女という関係性を理解することは到底出来ないのではないでしょうか。

両親がもたらす子どもへの影響

女性にとって結婚は生涯の大事な問題だというような言葉はよく聞くことがあります。

しかし最近ではその大切な結婚に対する意識もそれほど深刻に考えているとは思えないような一面もあります。

結婚に対する適齢期は相当希薄になってきて、結婚年齢も随分と遅くなり、30代になってから考える女性たちも増えてきています。

結婚生活にはさまざまな問題が発生してくるものだという意味においては、結婚は早く結婚しても遅く結婚しても、軽い気持ちで結婚しても真剣に考えて結婚しても、いずれにしてもその結婚でもたらされるさまざまな心の葛藤は、当事者の人生に重くのしかかることに変わりはありません。

結婚における夫婦の人間関係は、二人の間に出来た子どもの人生に、その運命に根本的な影響を与えます。

結婚をするにはしたけどうまくいかなかった、ではすみません。

結婚生活の不調和で不幸な人間関係は、子どもを不幸に突き落とします。

真剣な気持ちで結婚しても難題が発生すのが結婚生活なのに、安易な気持で結婚に入りますと、「好きだ、愛している」という情熱期間が過ぎたとき、優しかったはずの夫が身勝手な人に変わったり、しとやかな物分りのいい妻がわがままな人に変わっていったりしやすくなります。

これは恋愛時代の精一杯自分のいいところを見せようとする努力さえもしなくなり、そのままの自分が出てくるからです。

こうして少しずつ夫婦の信頼関係がこわれてくると、相手の嫌なところだけが見えてきます。

夫は妻の、妻は夫の荒探しをし、徐々に不和な夫婦関係ができあがってくることになります。

子ども達はそれをどう見て、感じ、受け止めるのだろうか。

そうした家庭の中にいますと、子ども達はどちらかの親の味方をして、父か母を憎むようになりかねません。

実際にお父さんが嫌いになった子ども、お母さんを嫌いになった子どもたちがいるのです。

親に反抗的な子どもになったり、物言わぬ沈んだ様子の子どもになったり、外では悪さをする不良になったりと寂しい心の子どもたちになっていきます。

ほんとうは子ども達の奥底の心では、お父さん、お母さんのどちらも愛しているのに、表面意識では憎しみや怒りの感情となって子ども達の心を苦しめ通します。

とても可愛そうな結果です。

一方、夫婦の信頼関係が本質的にはくずれない結婚生活を構築している家庭の子どもは、安心と安定した成長をしますので、おだやかな性格となり、才能も伸びやかに発達し、円満な人柄に成長します。

夫と妻の争いは些細なことから

お見合い結婚するカップルもあるでしょうが、多くの人は恋愛から結婚生活に入るケースは多いでしょう。

ですが、結婚生活への過度な幸福を期待しない方がいいと思われるところもあります。

それは期待が大きければ大きいほど、そうでなかった時の失望が大きくなるからです。

結婚生活は期待するという気持ちより、二人で築いていくものという覚悟をもって臨む方が賢明だろうと思うのですがどうでしょうか。

恋愛中は楽しい空想の主人公になっていろいろ思いをめぐらしていればいいのですが、現実に夫婦生活を伴にすれば、 独身時代の責任の必要ないときと違い、生身の良さも醜さも出てきます。

人格的にも二人はまだまだ未熟なのですが、これは必ずしも年齢だけの問題ではありません。40代、50代になっての再婚でも失敗するカップルもいます。

人間としての未熟、それに加えて、結婚することで二人だけではない人間関係や社会関係がかかわってくるでしょうから、そこにもまたきびしい現実があります。

多くを望まず、結婚にあたっては晴れて二人が夫婦になれたということだけで足ることを知るということが大切でしょう。

「大好きなこの人とともに生涯を過ごせる」ということの悦びで充分満足すべきなのであって、事実、結婚生活はそれ以上の悦びないはずですがいかがでしょうか。

さらには夫も妻もお互い「この人を幸せにしてあげたい」と痛切に思えるようであれば問題ないでしょう。

心構えとして問題となるのは「この人に幸せにしてもらえる」、「彼女なら何でもやってくれる」という依存した思いをもって結婚生活に望む人です。

自分が愛して貰うことばかり考えていて、夫、妻、がお互いを愛そう、妻の喜びが自分の幸せ、夫の幸せが私の喜びとの思いが少ない場合に、さまざまな夫婦のトラブルが起こってきます。

自分は愛していると思っていても、根底では相手にもとめる不満の心が頭をもたげているからです。

求めるだけの『誤魔化しの愛』これが夫婦の人間関係における破壊の魔です。

三陸津波で夫婦の人間関係が更に強い絆で結ばれることはあっても壊れる話しは聞きません。

夫婦は必死ですからお互いが協力して支え合い、一体となって生活します。

しかし、小さなどうでもいいような事で意見の相違を起こし、激しい言葉のやりとりとなり、やがて口もきかない夫婦喧嘩になるから人間は不思議です。

そうなりますと相手のあら捜しが始まり、過ぎ去った古い出来事まで言い出し、腹の虫が治まらないからと罵声まで浴びせ怒り狂います。

些細な事と言えばそうですが、私の場合も若いころは、妻の返事のしかたひとつで腹を立てたものでした。

いや、今もです。

男性から見ると妻の返事のしかたはとても大切です。

素直に「ハイ」と応じてくれたときには、ほとんど喧嘩は起こらないでしょう。

反抗的に「何よ!」「でも」「だって」と対応されたときに不調和が漂います。

一番の喧嘩の元はこうした些細なものなのです。

妻の側から見ると「あんな小さいことで怒って!」とこちらも我慢出来なくなります。

しかし、結婚前にはそんな心ない返事などなかった妻が長い結婚生活を経てくるといつの間にか心ない返事をするようになるからいただけない。

大変なのは結婚前には見えなかった心の傷を抱えている場合です。

予想外のやり取りが起こってきます。

でもこうした二人の世界を繰り広げながら、年輪を重ねてお互いに成熟していきます。

まさに結婚は人生修養の場なのです。

安易な考えや気持を改め、これからの結婚生活に腹をすえてかかることが一番の対処法と言えるでしょう。

結婚は永久就職でも人生の逃げ場でもない

結婚生活につまずき悩み苦しんでいる人のなかには、結婚生活に入る時に現状の生活から逃げ出したいがために結婚を選んだということが原因のケースもあります。

そういう人の結婚への考え方は、相手に依存をして生きようという安易な気持であったり、生活上の困難さや一人でいることの不安から逃げ出したい気持で結婚を選択したりという場合が少なくありません。

こうした結婚はほんとうは結婚生活というより依存生活とでも呼ぶべきものかも知れませんね。

本人にそうした意識はなくても、出発点からして間違った考え方ですから、結婚生活の根底に明るさと強さが欠けていしまいますし、悦びや晴れやかな気持ちのない沈殿した生活、ネガティブな生活になっていきます。

こういった考え方の人たちの場合、一般的にいうと、自分の弱さからもたらされる結果についての認識はあまりありませんが、私の経験からいえることですが、依存心からくる弱さは幸せを阻害する大きな要因の一つだということです。

依存心は常に失敗と苦悩をくりかえし招きますし、時には体を病むことで相手に意識を向けさせ病気というかくれみので現われたりもします。

ある意味では、結婚生活は逃げ場のない相克の人間関係の場でもあります。

二人で様々な心の重荷を負いながら家庭を創り、未来を創っていきます。

優しく、しなやかな心であるということは本当の強さがなくてはできないことです。

そういった強さがなければ幸せは築けません。

もし結婚を選択するにあたって、結婚生活を人生の逃げ場のような気持でいた人は、その心持ちを変える必要があります。

結婚生活は自己鍛錬と向上の場であることをしっかりと認識すべきです。

逃げる心から向かっていく心に変わらないと決して幸せは創れません。

結婚生活から味わうしみじみとした幸せ感は、強さと駆け引きのない純粋さからもたらされるのではないでしょうか。

妻として女性として

よりよい関係を保った結婚生活を始めるにあたって大切なのは結婚への心構えだろうと思います。

ただ「相手が好きだから」、「あの人を自分だけのものにしたいから」結婚するというのでは、調和を得た永続的な結婚生活は難しくなってきます。

こうした自分中心の気持ちや考え方は相手を束縛し、相手に求めることの多い結婚生活となり、ゆきづまりが起こってきます。

結婚するにあたって大切なのは、「あの人を愛しているから、あの人に尽くしたい」という心からの愛と行いを相手に与える決心でしょう。

自己中心的な都合によって相手に執着する気持と、相手のことを思うがゆえの愛とを混同せず、別けて考えるようにしないと、夫婦の調和は得られないと思うのです。

夫婦は凧と糸のような関係だと言われています。

夫が凧で妻が糸です。

夫が社会で大きく伸びやかに働くことが出来るのは、妻の巧みな糸さばき、つまり夫が如何にしたら天高く上がることができるかという妻の対処の仕方如何にかかっているということだろうと思います。

凧と糸、その引き手は一体なのです。

夫と妻も別々の存在ではなく、本来一体でしょう。

夫婦は一つの存在なのです。どちらが欠けても困るし、自分を主張し合っていたのでは一つの存在にはなり得ません。

もちろん自分を主張しないで我慢をしている関係は正しくありませんが、主張の度が過ぎると衝突になりますからそれもまた偏った自己主張です。

家庭においては、最終的には夫を立てていくことが家庭が円滑に進む道です。

例えば、会社に社長が二人いたらどうなるでしょう。

また一艘の舟に船長が二人いたら、その舟は迷走してしまいます。

家庭にも中心となる家長としてのご主人が必要です。

社会一般的にも家庭においての中心は、夫であるほうが調和された姿である場合が多いのです。

妻はその夫を立て、やさしく柔らかく上手に夫を操縦するほうが賢明なのです。

これが妻として女性としての結婚生活のあり方ではないでしょうか。

次回もこの続きをと考えております。

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不登校・2・大人の対処

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不登校に関しては様々な理由があり、その原因や対応の仕方についても親や学校がそれぞれの立場で冷静に誠意を以って対処していかなければならないと思います。

この問題はとても大切な事だという認識から、今朝は過去に取り上げた記事を一部編集して再度掲載させていただきます。

いじめなどの対外的理由の如何を問わず子供たちの不登校の問題を解決していくためにどうしても考えてみなければならない最終的、かつ大きな難問が親子関係であり家庭環境だとつくづく思わされます。

親はよく自分達にできなかったことを子供に託して、子供の意思に沿わないことでも、その希望を果たそうとする傾向があるひともおり、社会の一般的傾向や教育や、虚栄心による子供への束縛を原因として家庭が不調和になる場合があります。

肉体は確かに親が与えたものです。

しかしその心までは両親の与えたものではないということを知らなくてはいけない。

全くの親子であっても、心は個の生命であって、相違があって自然なのでしょう。

なぜなら、心も親が与えたものであり、親の分身だと思うなら、その思考性や行為のすべては同じでなくてはならないからです。

残念なことに、一定の年齢になってくると自分の主張をし、親のいうことを利かない子供が多い事実を考えなくてはなりません。

従って親達の、子供の環境や教育についての育成は、溺愛でなく、家柄や利己的な考えを捨てた純粋な心からの愛でなくてはならないということです。

地位や知識が高く、子どもたちを指導する立場にある人でも、私生活では必ずしも心やさしく、家族や縁者から尊敬されているとは限らず、逆に社会的には立派な職業といわれる仕事に就いていながらも人間としての温かみのない、どこか冷たささえ感じさせ、近づきがたい人もいます。

子供が子供自身の思った通りの道を歩きはじめると、ご両親の中には『あんなに可愛がって育てたのに、親の恩を忘れて、親不幸をしている』などと嘆く人もいる。

これは単なる文章ではなく事実に基づいて記述させていただいていることです。

しかしこれも親のエゴイズムでしょう。

報いを求める、そんな心を言葉にするぐらいだから子供達は自分達の真実の道を求めて去ってしまう。

こうして親との間に距離ができていくのです。

親子相互の対話の不足を考え、子供の人格を認めてやることも親の愛であろう。

対話のない家庭、親のエゴを優先した家庭の中には孤独な子供達が育ってしまう、これも現実です。

両親は、『与えた』と思う心があるから、親の尺度ですべてを計り、子供を叱りつけます。

親の意志に反したことをすれば、きびしく怒り、肉体はおろかその心まで束縛してしまう。

大人は、こうしたことを良く考えて、子供達を指導することが必要でしょう。

最も自由自在の中で、良く心の在り方を教え人間としての道を教え、感謝と報恩の意味をさとし、両親が自ら、行うことの大切さを示した生活環境を造り出すことが先決ではないかと思うのです。

純真な子供心を、素直に育ててやることが、より良い豊かな心を大きく育てる道、これが本当の愛情と思われてなりません。

相談をいただく度に涙を流す子供の悲痛な心の叫びを思うと胸が張り裂けそうな思いがします。

きびしく叱ることも、偏りのない判断によるものであれば、その真心が子供心に響くことです。

大事な場面で親の感情というエゴをもって怒ってはならないし、溺愛によって過干渉になってもいけないでしょう。

子供と親の対話、日々の行動が、心の交渉が、愛の心をより豊かに育てて行く。

子供の心もそこではじめて広く人々と溶け合うようになり、自分自身の心を磨いて行き、円満な人格を作って行くのである。

また先走ったおせっかいもやる気を失わせ距離を作る要因となるから気をつけなければならない。

親が子を放任し、正しい道をその愛情によって示さない生活の中で育てられた子供達は、気の毒といわざるをえない。

たとえば学校の成績ばかりを気にしている親の心が自己慢心にしかすぎないということに気づいていない。

心の中の知識の領域だけが発達しても、心にゆとりがなく情緒のない人間は、人生での正しい判断すら決定することはできない大人になるであろう。

智性は、人生をいかに正しく生きるかという、調和した生活をするための早道であって、自己保存、自我我欲の道具ではない。

『智策、智に溺れる』の愚を犯してはならない。

知性理性本能感情、そして想念の領域が調和された、円満な人間に成長することが最も重要である。

試験、試験の人生は、自己保存的な、偏った人格を造り出し、人間本来の心を失ってしまう結果にもなってしまいかねないから心しなければならないでしょう。

また本能的な領域だけが発達しても、不調和な人格を造ってしまうものである。
いずれにしても心の不調和が、想念に曇りを造り出し、心の病に発展しているケースの多くをみてきました。

心の病は自身の問題ではあるがさかのぼると幼少時の家庭環境にまでたどり着くのである。
不調和な満ち足りぬ心の病いは、調和された生活以外、修正することは不可能であり、 根本的には薬で治るものではない。

実際に、不登校状態にある子どもを心療内科に連れて行って向精神薬漬けにされていた子どももいますが、無知な親にも責任があるだけではなく、そういった薬を処方して服用するまでは何もなかった副作用に苦しませるビジネスライクな医師にも大いに疑問をもってしまいます。

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不登校の背景

ijime

原因

不登校という問題はその本人が一番つらい思いをしているのですが、その親もまた悩みの種となって長期間苦しんでいる実情のようです。

その原因には、家庭での親子関係、家族間のトラブル、学校でのクラスメートどうしのトラブルや、先生と生徒間のコミュニケーション不足や不信感、対応上の不手際、等々様々あります。

例えば、直接いただいた相談では「いじめ」があげられます。

多分これが一番多い問題であろうと思います。

きっかけは交遊関係における問題ですが、クラスメートから急に無視されるようになったり、みんなの前で悪口を言われたり、ありもしないことを言いふらされたりしていじめられてしまうことえと学校には行きたくなくなってしまった、行けなくなってしまった、というケースがあります。

また、仲が良い友達と何かしらがきっかけになってケンカしてしまった場合も不登校の原因になってしまう可能性がありますし、実際にそういったことがきっかけで不登校になった子の相談もありました。

このように対人関係、特に友人関係における問題というのは子供たちにとってはものすごく重大な問題なのです。

次に先生と生徒の関係が挙げられます。

先生というのは子供にとって良き理解者の先生ばかりが学校にいるわけではないということ。

言葉はきついかも知れませんが、性格が悪い先生だったり、相性が合わない先生だったり、露骨に好き嫌いで生徒を差別扱いする先生や、ワンマンな先生、強引な先生、色んなタイプの先生がいます。

本来はこういうことがあってはならないのですが、やはり先生といえども人間です。

どういった先生と関わるかによっても不登校の原因になってしまったりする現実があります。

最後に不登校のきっかけになる原因のひとつとして「学業不振」が挙げられます。

勉強についていけなくなると授業そのものが苦痛なものとなり、ついていけないところに先生からの度を過ぎた暴言等があるとそれがきっかけで不登校の原因にまで発展してしまう場合もあるでしょう。

このように学校生活において、不登校の原因となるものと言うのはたくさんあることが分かります。

きっかけをきちんと見極めて対策を講じていくことが大切となります。

家庭生活に起因する不登校

次に、不登校になってしまう原因として家庭生活におけるトラブルです。

例えば、家庭環境が急に変わってしまうと言うこと。

両親が離婚して環境が変わってしまった、親がリストラにあって経済的に生活環境が急変変してしまったことが子どもにまで影響したケースがあります。

離婚やリストラは今の世の中では決して珍しいことではありませんが、当の親自体が精神的に余裕がなくなってしまったこと加えて、子供はもっと余裕が無くなり、どう対応していいかわからなくなり、自分の殻にとじ込もってしまうケースも少なくはないのです。

いわゆる家庭の不和が起因する例も少なくないということです。

親子関係の悪化は子供への期待から始まる

子供と親の関係性について

母親が教育ママだったり、父親の期待に答えなければならなかったり、父親が仕事ばかりで家庭を顧みず、全く子供に興味がないと言ったケースですが、これらも実際にあった相談内容です。

小学生の低学年頃までは親の言ううことに従って「素直な子」「いい子」でいた子が、中学生になって思春期といわれる時期になると「自我」という心の領域がハッキリと表面に表れだし、自分の意思表示を行動で示すようになってきます。

このときにこれまで抑圧されてきた自分の心が反発心となって言葉や不登校というかたちになるケースもありました。

子供自身は、なんのために自分がいるのかとか、自分では何がどうなっているのかは明確に分別できてはいなくても自分というものを主張しだしているのです。

最後に家庭内の不和状態に起因する問題

家庭内で両親がケンカばかりしていつでも暗い雰囲気、いづらい雰囲気だとすると子供は現実に対する価値観を失ってしまう場合があります。

そういった失望感、悲しみ、というものが将来に希望が持てなくなったりして学校に行く意味を見いだせなくなってしまう場合があります。

不登校の子どもへの対応

「不登校」や「登校拒否」をしている子供に関して、なんとかしてあげたいと思うのは親も先生方も同じだろうと思うのです。

しかし、対処方法に関してはマニュアルと言うのは無く、不登校の生徒の数だけ対処方法があると思って取り組んでいただかなければ改善には結びつかないと思うのです。

それぞれの状況に応じた対応が欠かせないのが不登校、登校拒否への必須条件だと実感するところです。

絡まってしまった糸を強引に引っ張ったり、無理やりほどこうとしてもかえって絡まってしまって状況を悪化させることになりかねません。

糸ならば切ってまたつなげば事足りることもあるでしょうが、人間関係という糸は簡単に切ってつなぐということができない場合が多いのです。

仮に、切ってしまってもその部分わだかまりが残ってしまうことが多いでしょう。

ですから時間をかけて、ゆっくりと心のもつれを解きほぐすこと、つまり子供のおかれた状況、立場、思いというものを受け止め理解してあげるところから始めなければなりません。

押し付けではなく、時には「待つこと」が大事な場合が多々あります。大人の分別や都合で事を進めることについてこれない場合があるからです。

黙って、じっくり待って子供の方から歩み寄ってくるのを待ってみる配慮も必要でしょう。

そうすることで、徐々に絡まった糸もほどけてくることがあります。

親側はその間心配で仕方ないでしょうから、専門のカウンセラーや学校の先生がたと連携をとっておくようにすることもいいでしょう。

不登校を改善させるには少しずつ焦らずに絡まった糸をほどいていき、子供の不登校の原因となる事を分かってあげて、適切な対応をして行くことが改善への近道になると思います。

いじめと不登校

いじめという問題は昔からありましたが、私が中学生の時(53年前)はクラスに1人はいじめから助けてくれるような硬派のヒーローがいたものでした。

しかし、今ではいじめられている人を助けてしまうと今度は自分がいじめられると言ったような恐怖感にかられてしまい、結果的に長いものには巻かれろみたいな感じで見て見ぬふりをしている状態が多数あるといった現状にあるようです。

いじめと言うのは実に大変なことで、恐喝や暴力と言った目に見えるものから、無視や仲間はずれと言った目に見えにくい陰湿のものまでさまざまあります。

こういったことが深刻化してくると、受けた子どもは不登校になってしまったり、学校で受けた不条理などに対する怒りを家庭内暴力として行うようになったり、最悪は自殺までに発展してしまう危険性もあるのです。

不登校になった子どもと話してみて感じることは「孤独」の部分です。

周りは楽しそうなのに自分だけが仲間に入れてもらえない。

自分が何をしたのだろう。

先生も取り合ってくれない。

先生に相談したら逆に先生に怒られてしまって不信感で不登校になった。

こういった理由から悲しみと怒りが入り交じって孤独感に襲われて苦しんでいる子どももいます。

自分のことを友だちも親も、先生さえも分かってくれない。ということになれば当然、孤独感に苦しむ、人間不信になるのはあたりまえのことです。

いじめが原因で不登校になってしまった場合、原因がイジメであると親が知ると、後先を考えず感情的になって学校に押し掛けて捲(まく)し立てるといった行動に出る親がいますが、これは本当に要注意行動であって、何の解決にならないだけではなく、かえって事態を深刻にし、悪化させてしまうことになります。

親は子供がかわいいので良かれと思ってする行動なのですが、子供にとってはその行動をとったがために余計いじめられるのではないかという恐怖感に怯えてしまう可能性があります。

そしてそういった事態になる事例もあるのです。

ですから慎重に物事を進めていくよう冷静な大人として、事態の把握がなされた上での対処が必要なのはいうまでもありません。

子どもたちの不登校の問題は簡単ではありません。

それだけに大人が変われば子どもが変わるということも忘れてはならない重要な基本姿勢であります。

親は「同情」と「共感」は違うということをよく理解しておく必要があります。

不登校が原因で親子で喧嘩があるなら、それは分かりあえていない親子だということ。

こどもの辛さ、心の痛みが分からない、共感できなければ子供に手を差し伸べることはできません。

不登校の問題については非常に深く広い問題があり折を見て再度取り上げてみたいと思います。

霊的な背景の影響によるケースもまれにみることがありますが、それはまたの機会に視点を変えて取り上げてみたいと思います。

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業の輪廻

やじろべえ

業という言葉は、仏教における基本的概念として理解されてきました。

人間が為した善悪に応じて結果という報を生じ、それは死によっても失われず、輪廻転生に伴って繰りかえされ、伝えられる個性といえるでしょう。

業は、前世において肉体修行をしてきた生命にも、あの世で修正するための生活をしてきた人にも、いわゆる行をしたという人の場合であっても、その意識の中には未だ少しは残っているものです。

この業を、私達はまたこの地上生活において修正するために肉体を持つのですが、人間はともすると、肉体の眼、耳、鼻、舌、身、の五つの感覚や意識に振り廻され、己を失いがちになります。

業というと悪い心の代名詞のように思われがちですが、業の中には、良い業と悪い業があり、現在私達が思っている不調和な考え方や行為は、そのまま自分自身の現世で作りだした業と過去世の業の合成された姿だと思っていいでしょう。

この姿を悪い業といいます。

しかし、この地上に肉体を持っても、悪い業をさらに自ら造り、重ね、修正はおろか、悪しき業に更に悪しき業を重ねてあの世に帰ってしまうという人々が少なくない。

それはわずか10%の表面意識で思考し、判断する生活するになっているため、つい肉体的な感覚器官と意識に支配されやすくなり、自分の善なる本質を忘れてしまうからです。

何事においても物や現象的な面に心を奪われ、自分自身の理性と知的本質を見失って行き、環境の中で起こった結果についてその原因を反省しないため、ますます自分の業、すなわち過去世の業を悟れず、不調和な現象に悩まされるということになるわけです。

潜在意識の90%は、私達の生き様の一切、そして過去世のこともを知っているのに、正しい心の調和ができないため、良く己の特長をつかみ得ないのが人間であり、それだけに大きな修行ができるというこのリスクのある地上生活だともいえるでしょう。

巷では前世のことや、過去世のことを話題にしてお金儲けをしている人たちも近年多いようですが、実はそれほど自分の前世や過去世を知ることがこの世の人生修行においては重要なことではない。

今の生活姿勢が問題点の多い状態なのに、前世や過去世に云々することは本末転倒と言わざるを得ない。

現在の自分の心の想念の状態が調和されたものであるか、あるいは不調和なものであるか、そして、自分の為している行為の姿こそ、己自身の過去世の姿だとうけとめなくてはならないでしょう。

自分の本当の姿、それは、地位、名誉、経済、持ちえる物を除いて最後に残るものこそ己自身の本性の姿だということ。

大自然界の慣性の法則と同じように、現世に肉体を持つと、過去において造り出した不調和な業が表に出てくるということですが、しかし正しい心の制御、理性、調和、働きによってそれを修正することはできるのです。

自分が変わりたい、心をステップアップさせたい、向上したいと思うならば、正しい想念の働きによって、ひとつ一つ努力するなら必ず自己改革ができるものです。

だが、過去世において、地位ある立場の人生を生きた人や、知識人、支配階級に生まれた人々、経済的に豊かな暮らしをした人ほど、とかく自己主張が強がったり、人を見くだしたり、排他的であったりして、本来人間は、愛と慈しみをもつ寛容な心でなくてはならないということを忘れてしまっている。

人間は皆、神性仏性を頂いているという意味において平等であるのですが、人間は自分が厳しい環境や試練にたったときに自分の不遇を嘆き、呪い、他のせいにしたり、自分の内にある愛と寛容も悟らず、権力や虚栄の座への執着心が強くなったりします。

こうした自己の内にある神性仏性を忘れた人間、自我我欲の強い人間は、良く肉体の支配者である己自身の心を反省をし、調和と安らぎの生活を心掛けて努力することにより、早く悪い業を追放しなくてはならないでしょう。

一見、理性もあり、分別のある優しい人とみえる人間が、お互い良い関係でいられるときはそんな顔でいても、とっさに自分に不都合なことがあると豹変して感情的になり、乱暴な言葉を相手にぶつけてしまうということがありますが、こういったことは表面的にはできた人とみえても、実際はまだまだ悪しき心の癖である業が内面に残っている証拠だということです。

悪しき心の癖、即ち業というものは、とっさのときにその姿を現すものである。

ですから己の心の修正なり改造が必要となるです。

こうして正しい心の基準を求めていく行為の中にこそ、自身の魂がより次元の高い境涯に進んで行ける可能性があるといえるでしょう。

自分の心の内にある神性仏性を忘れてただ人間として動物的本能まる出しの生活をしている人々には、本当の安らぎを得ることなどほど遠い話である。

また自分の思っていることの邪悪な想念やすべての行為は、私達の潜在意識にすべてが記録されて行き、時の経過とともに必ず現象化する。

このような人々の心の中は常に格闘の連続であり、安らぎなど見出すことはできない。

私たちは肉体を去るとき、すべての所有物を手放し、人間としてなしてきた不調和な想念と行為など、一切を清算しなければなりません。

そして自分の潜在意識に記録されているあの世の世界に行き、自分の内にある神性仏性という自覚について強い反省をすることになるでしょう。

また一部の生命(人間)は、死してなおこの地上世界に未練を持っている意識の場合は、ある程度のステージに悟るまでそこで苦しい魂の修行を課せられる。

自縛霊、地縛霊、浮遊霊、地獄霊などがそれである。

あるときは光の天使達によって補導され導かれることもあるでしょう。

それら未浄化の生命は、未だ自分が地上世界で肉体を持っているような錯覚をしていて、死を悟れないでいる場合が多い。

このように、死んで肉体を去った人々の中には、物理的現象と同様な慣性を持ち続けることか起こる。

地上界の時間で計算すると、四、五百年近くも己を目覚めさせることなく、不調和な地獄界と称する場所に住んでいる人々もある。

しかしいつの日か、人間は必ず己の内にある神性仏性を自覚し、救われることになっているし、それがいつになるかはそれぞれの業の深さによっても違いがあるのです。

どのような苦しい生活も自分自身に原因があるのであり、決して他人の故ではない。

蒔いた種の結果は、自分で刈りとるのが神性仏性を頂いている人間としての掟である。

だから私達は、悪い種を蒔かないように心がけなくて生きなくてはならない。

悪い種は意識の中で悪い業となる。

悪い業は想念や行為を善なるものから離れさせ、悪を為し、更に業を重ねていくのである。

そして輪廻転生して肉体を持って出てくる度に業の芽を出してくる。

私達はこの悪い種によって生じた悪い芽を摘みとり、調和のとれた、真理に適った新しい種を、意識の中にしっかりと実らすことが、悪い業をのぞく人生の修行であると心得ねばならない。

人類が、この地球上に天孫降臨してきた当時は、他の天体からこの地上世界に適応した肉体舟を得てきた私達が、楽しく生活できた調和のとれた平和で豊かな楽園であっただろう。

その頃の人類は、寿命も非常に長く、あの世と常に交渉を持ち、人々の心に自己保存、自我我欲の不調和な考えはなかった。

しかしその子孫は、人口増加とともに、それぞれの種族保存の自我に陥り、神性仏性をいただいた人間だあり、人類はみな兄弟であることを忘れ、他の種族との争いや同族の階級闘争に明け暮れるような仏性を失った存在になって行った。

やがて人類の心の不調和は黒い想念と化し、地球の表面を覆い、遂に、眼、耳、鼻、舌、身、意識という肉体に執着、囚われた虜となってあの世との通信を途絶えさせてしまった。

そのためあの世から多くの光の天使達が、人間の自覚を促すため地上世界に肉体を持って生まれてきたが、神性仏性を失った人類は、ますます闘争と破壊の業を造り出してしまった。

その結果、心を悪魔に売った人類の想念は、もはや神仏の光を失い、過去に高度な文明をもって栄えた大陸の陥没という現象に見舞われるような事件を招くことになったのである。

そうした幾度かの天変地変があっても、物質文明をよしとする偏った価値観は人々の心を失わせ、人々は闘争と破壊の業をくり返してきた。

現代社会の物質文明は、あくまでも人類の生活に対する智恵の物質化というだけのことでしょう。

歴史は語る。

その土地における種族の長によっての支配の座から豪族が生まれ、やがて外敵から種族を守るために武力の進出があり、武将を生む結果となる。

武将は武力によって他の種族を統合し、生活環境は自然界の恵まれた地域に構成され、次には他部落との経済交流が発達して経済力を持った人々として豪商を生む。

それらを統括して、武将が一つの支配圈を持って地域を拡大して行き、やがて武力の秀でた武将が一国を形成し、王を生んでいったというこれまでの歴史があります。

王侯、貴族、武将、豪商達は永い年月人々の多くを犠牲にして栄耀栄華をくり返した。

しかし我欲は闘争を起こし、国々の間の戦争となり、主権者は権力の座の収奪を繰り返し、一時は宗教の名のもとの僧侶の時代となったりしながら歴史は変遷してきた。

宗門も戦火に洗われたが、常に殺りくの時代の犠牲となったのは一般の庶民であったことを忘れてはならない。

それは昔の出来事ではあるが、しかし、現代でも世界のどこかで同じような愚かが繰り返されているのです。

人間の心は荒み続けています。

ここで学問の普及からなる文化が登場してきて、国の間の交流も盛んになり、人間社会の近代化が封建制度を覆えしていく。

しかし、だからといって人間のエゴイズムが消えたわけではなく、人類の変型した不調和な業は変わることなく今も続いていて、闘争と破壊は別の形でくり返されるというのが実情でありましょう。

社会は、いつか上流と下層というふうに段階が作られ、上流は下層の上にあぐらをかいた考え方をやめず、遂に階級闘争を生んでいく。

文明は発達する、という片側の思想の歪みが資本主義と社会主義の分裂にまで発展して果てしがなくなる。

こうしてみると主義思想もこれひとつで全てが万全という訳にはいかないのがご理解いただけるかと思うのです。

やはり何事もすべてにおいて、偏った価値観や判断というものが、人間の心に業を重ねていくことになるのだということがいえるのではなかろうか。

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笑顔

笑顔

いつお会いしても笑顔の素敵な人がいた。

その笑顔から学んだこと。

何もできなくてもいい。

ただ笑顔でいたい。

笑顔でいると、不思議と何事もうまくいく。

ほほ笑まれた相手も、そして自分も豊かになれるから。

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「長く」よりも「深く」

農夫

長命とか短命という言葉がありますが、普通は時間、年数の長さをもって長命、短命を意味するのだろうと思います。

「あの人は50で死んでしまった」とか「あの人のお父さんは95まで生きた」とか、年齢の話は日常よく耳にします。

なんといっても年齢は数字になっていますので、基準にしたり比較したりしやすいのです。

しかし、自分の思うようにならないのも年齢です。

長生きしたくても病気や事故で亡くなる方もありますし、生きていたくないと思いつつ生き続けている人もいます。

それに対して、その人の姿勢や努力で変わってくるのが、幅や深さでしょう。

人生は必ずしも長命、短命にあるのではなく、私は、生き方の深さにあるのではないかと思います。

人間はどういう死に方をするかという、ほんとうはどういう生き方をしたのかということの方が大事だと考えるからです。

もっとも、どういう死に方をするかということを突きつめていきますと、どういう生き方をするのかで死に方が決まってくるということも言えるでしょう。

そういう意味では、死に方は生き方にあると。

いずれにしても、生き方は必ずしも長さではなく、価値ある、深みのある生きかたでなくてはなりません。

そうなるとどうしても日々の生活のなかで、自分自身が納得できるような生き方が大事になってきます。

物作りでは丹精をこめて作ると言いますが、自分の人生も日々丁寧に、大事にという意味で、丹精をこめて、精いっぱい生きるということが必要だろうと思うのです。

心をこめて物事を処理していくということでしょう。

こういう生き方が、長さよりも、深い価値ある生き方をするということだろうと思います。

そうすると自然に、年を重ねた顔にも、人生の苦労を経た美しさが現れて、何とも威厳のある風格、魅力が額のシワ一本にもうかがうことができます。

茶道でいう、「わび」とか「さび」というのは、目に見える綺麗さではなく、そのきれいさという世間一般的な美しさを一度否定してしまったときに、そこにでてくる姿、様子をいうものでしょう。

人間も、表面的な容姿を超えて、そこにある「わび」と「さび」のなかにこそ長さではない、深さで生きてきた人間のもつ美しさがあるものだと思います。

幅のある人、器の大きい人、こういう人こそ深さも備わっているのでしょう。

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