人間のエゴ

お金

自分自身の欲望を満足させるのみで、他人のことなど考えない人は、自己保存心の強い偏った心の人間といえるだろう。俗にいう自己中心者がそれである。

このような人は、自分自身の都合の良いことのみを主張し、その地位、名誉、物欲のためには他人を犠牲にしてかえりみない。

そして自ら望んでいながらも、自分に都合の悪いことを忠告されたり、指摘されたりすると猛然とまくし立てたり、自己弁護をするための言い訳を並べ立てる傾向にある。

自分の名前や家柄に傷がつくなどと、常に考えている人。

人から称賛されることを望み、満足して、それを期待する人。

忠告に対しては感情的になり、怨みの念を持ち、報復を考える人。

経済力で人々から尊敬されようとし、過信し、その心の行為に調和がない人。

いつも誰かに愚痴をこぼし、誰彼の区別なく批判の口調で他人を裁いている人。

言葉に優しさがなく、家族や他人に対しても、言葉でグサッと刺しても気づけない人。

常に自己中心的にものを考え、目先のことにとらわれて物質経済がすべてだと、物と金に固執する人。

他人を信じることなく、自分を信じさせようと金品を使ってつなぎ止めようとする人。

他人に裏切られると恨みを持つが、自分は他人を詮索し、裏切りを平然と行なう人。

このような人は、一時は栄えたかに見えても、心に慈しみや愛がないため必ず没落して行くことになる。

心に安らぎがなく、いつか近親者からも不信の念を持たれるようになり、最後は孤立してしまう。

足ることを知らない心貧しき者、とはこのような人々をいうのである。

その心は餓鬼道に通じ、反省がないため、人生が終わると、地獄で仏性を悟るまで、より苦しい修行をしなくてはならない。

この地上生活において心に悪を持ち、不調和な生き方をした人間が、死んで肉体から離れた途端にあの世で成仏して霊界に入ることはできない。

その理由は、宇宙大自然の法則である因果の法則が人間の肉体生命と心にも反映されているからにほかならない。

車を運転していてカーブを曲がろうとすると、外側に車も運転者も体を持って行かれるが、速度が早ければ強く働き、遅ければ弱く働きます。

慣性の法則にしたがって物体はまっすぐに進もうとるが、曲がった道では抵抗が生じるということは理解できるかと思います。

この慣性の法則は自然界だけの問題ではなく、実は、私たち人間の心にも常に作用しているのである。

まっすぐに生きるということは、執着せず心を調和して生きるということをいうのであり、曲がった生き方、すなわち偏った生き方はカーブを無理な速度で走ろうとする車のようなものだということです。

こういう生き方、走り方をした人間は、死後も心の癖(慣性の法則)が働き、あの世で不調和な生き方をするのである。

それは物質界であるこの世とは違い、心の姿がそのままハッキリと現象として表れてしまう世界である。

その原因は、正しい心の在り方、法則を悟らず、物や金がすべてであると錯覚して、人間としての生きる目的を忘れ、心の乗り舟である肉体の煩悩に支配されて、すべてが自分のものであると考えているため固執するのである。

肉体は決して自分のものではなく、やがて時期が来れば返さなければならないものだ。

私達がこの世を去るときには、経済も地位も名誉も持って行くことができないこと、人生経験の善悪に対する一切が記憶された意識、すなわち魂を持って行くのみであることを悟るならば、物にこだわりを持つことはおかしいことではなかろうか。

人間は、心に執着がないから安らぎのある生活ができ、争いを捨て、万物の霊長としての満足感、楽しみが得られるものである。

また、一つの宗教団体組織にあって己を忘れ、組織の細胞になっている人々は、自分の宗教の教義こそ絶対である、と盲信し、自分のよりどころとする。

自分の属している教団の教義こそ絶対であるとして、他の教義を愚かとののしり、互いに論争する。

それは「正しい神理である」と、他から称賛されることを望んだり、あたかも神理を悟っているような言葉で論争し、反論されると向きになって心に不調和を起こし、相手の欠点を探してまた論争にふける。

しかしそんな称賛、反論が果たして何の役に立つか。

それは自己満足にふけるのみである。

自己慢心は破滅のもとであり、道理が分かっているのなら論争などすることはない。

哲学的仏教の用語を駆使して、得意満面な人は、自分自身の心の内面の姿ですら見ることはできない、己を忘れている組織の細胞である。

個の生命、すなわち個人個人が調和な心を改め、悟ってこそ、不退転な組織は確立されて行くのである。

人間のつくりだした智と意の論争では、組織に歪みが生じること以外に効果などあるはずがない。

仏罰法罰は、自分自身の不調和な黒い想念が造り出す作用、反作用の法則によって現象化されて行くものであり、神仏の意ではない。

もし教団や教祖への不信によって罰を与えるとしたなら、それは神と自称して語る低級霊のいたずらであることを知るべきである。

正しい心で、正しい行為にもとづいた生活をしている人々は、心が調和されているために、悪霊が災いを引き起こすことはできない。

それは、肉体の支配者である已の心の中へ、誰も入りこむことはできないからである。

罰などというものは、あくまで不調和な想念と行いによって、自分自身が呼びこんでしまい、それが現象となって身に降りかかってくるものなのである。

人間は、心の中に自分の造り出した罰を恐れる想念を持てば、その世界に通じ、現象化されることを知らなくてはならない。それが災いだということを。

神理でない屁理屈や並べ立てられた哲学的な言葉を信じ、常に心のなかで不安と格闘の信心をしている人々は、自分自身の心とその行為に対して、良く反省してみることである。

信仰に対して恐怖心を持つこと自体、すでに己を失った組織の細胞であり、心の中の恐怖をより高めて行く結果になると知らねばならない。

このように、正しい生き方、法則というものを悟らず、心の内面的智慧を悟っていない指導者が、自分の都合によって組織を拡張しても、その不調和な想念は、自分自身に帰ってくることを悟るべきであり、肉体的にも不調和が現象化されて、已に帰ってくることを知るべきである。

神理を悟らない指導者達こそ偽善者であり、その持論は、結論において、自らを裁かなくてはならないのが神仏の掟、すなわち大宇宙大自然の法則であろう。

心を説く宗教指導者が、自分の心に安らぎを持たず、常に心の格闘をし、他の宗教を無智と攻撃するというのは、心の指導者とは言えない。

そうした人々はその偽善を認め、偽りの指導を放棄し、偏りのない正しい法に従うべきである。

また指導者として、多くの人々の上に立っている者こそ、人々に福祉と心の安らぎを与えるための責任と行為を持たなくてはならない。

平家物語の冒頭の一節にあるように、

猛き者も遂には滅びぬ(どれほど勇猛な者でもやがて滅びる)

偏に風の前の塵に同じ(それは風に吹かれた塵と変わらない)

つまり、自我我欲の本性は、遂には自分を滅すことになるからである。

欺満(ぎまん・自分の心をあざむく)と流言飛語(りゅうげんひご・根も葉もない噂)に惑わされることなく、正しくその事実を己自身の心で見極めなくては、烏合の衆と化し、争いと破壊の渦の中に巻きこまれて己を失ってしまうであろう。

心ない不調和な一握りの人々によって、大衆が煽動され、闘争と破壊の行為があたかも自然のように実行されるのは、まさに地獄の阿修羅である。

愛と慈しみを忘れた主義と主張によって暴力を行使し、あたかも社会の勝利者と自負する、その彼らは自己保存者(自己中心)であり偽善者である。

それらは、物質経済を主眼とした心ない人々の集団であって、人間を信ずることのできない、物質と経済の奴隷と化した群れである。

その中では、裏切り行為が平然として行なわれている。

弱き人々は抵抗することができず、剣や銃による暴力に屈服せざるを得ない。

しかし、それでも、正しい心を持つ人々まで束縛することはできない。

肉体は束縛できても心までは暴力で支配することはできないということだ。

暴力を行使した人々は反作用の暴力を受け、心の中に安らぎを得ることはできない。

これが作用と、反作用の法則であり、大宇宙の法則である。

権力の座についているときでも、だからその座を他人に奪われることをのみ思い、心の安泰は計れなこのような社会は、暗い想念に覆われ、幾度かの混乱を経験する。

そしてやがて、嵐の後の静けさがくるように、自由と平等の心が芽生え、調和への想念は現象化されて行く。

それは、人類が万物の霊長であることを自分自身で悟り、自らの内面にある神性仏性に気づくようになったとき、一人一人が良く已に問う反省の時間を持ち得るからである。

人類は、封建あるいは独裁の歴史を、永い闘争と破壊の業を変遷して進化してきた。

そして神体であるこの地球上に築き上げてきた、一部の人間の物質経済の独占は大衆の不平不満を誘発し、社会主義的階級闘争と変化してきた。

だがこれも、やがては原始共産社会から、より次元の高い万民平等の、共存共栄の社会になって行くであろう。

物質経済を超越した心の人々によってである。

そして心優先の社会に進展されて行くであろう。

なぜなら、人類は、已の心の中に潜在している智慧の宝庫を自らの力で開くことができるからだ。

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霊体と肉体の関係

怒り

体の具合が悪ければ病院にいって診てもらうのは誰でも経験していることでしょう。

しかし、どのような検査をしてもこれといった病態が発見されず、病気が特定できないケースがあります。

私は、そういう人たちの症状を数知れず診てきたのだが、このような場合は精神的アンバランスが影響して、その結果として症状を体に現わしている場合が多々あります。

「胸が苦しい。喉がつっかえる感じがして二年になる。呼吸がしにくくて息苦しい。体がざわついて落ち着かない。布団に入ってから眠れない。朝に起きれない。倦怠感がとれない。動悸がする。いつも冷や汗が出る。気持ちが沈む。集中力がない。気がつくと同じ事ばかり考えている。悩みがある。人に会うのが怖い。ちょっとしたことで涙が出る。感情の起伏がある。イライラしやすい。音に過敏に反応する。光に弱い。テレビが見れない。活字が読めない。」等々。

こういった症状は体が起因する以上に、心の状態が良い状態ではないために発生してくることが多くあることを、多くの患者さんや、相談者の回復をみることで確証を得ている。

例えば、「背中や胸が苦しく、息ができない、不安と恐怖心で眠れなくて体が休まらないから助けてください」といった男性Qの相談例があった。

この男性は、「病院を信用できない」と話しながらも、ドクターショッピング(病院のハシゴ)をしていたが、いよいよ窮地に到り為す術もなく相談にみえたのだった。

「治るなら何でも聞きますから、ハッキリといってください。」ということでしたから、前置きしてから話した。

「あなたの物事の受け止め方、考え方を変える勇気と決心があるのであれば症状にも改善がみられ、回復に向かう可能性は限りなくあります。

その為には、あなたにとって都合の悪いことであっても、それを認めて受け止めなければならないこともあるかも知れませんが、それができますか?

それができるならお話ししましょう。」

「お願いします。もう苦しさから解放されたいです。」

私は彼の話を十分に聞き届けてから、ゆっくりと、優しくアドバイスの言葉をいくつか話し出したが、しかし、彼は私の話しをさえぎるように反発してきた。

「いや、それは本当の自分ではないです。違うんです。病気をしたからそうなったんです。本当の自分はこうではないんです。」

やはり彼は、聞く耳を持っていなかっただけでなく、一番改めなければならないはずの「自我」というものを理性をもって抑えることができなかったのである。

完全に精神バランスを崩していた。

彼は、病気が自我を強くしたというのであったが、真実は違う。

自分自身の心のが、自律神経を通じて肉体に及び、息苦しいという症状をつくっているのである。

特に心身症の相談者には説明するのだが、肉体は自律神経の支配下にあり、自律神経は脳の支配下にあり、その脳を支配するものは心、すなわち精神であるということを。

自我ということの意味は、執着、偏り過ぎた拘りであるがこのことについては順をおって述べていきたい。

気の毒ではあったが、相談者Qの次回以降のカウンセリングは丁重にお断りした。

何故なら、自分が変わろうとする勇気と決断がなければ心の癖(傾向性)は修正できるものではないからだ。

今の結果の原因を他のせいにする、自分の不調を自分が原因であると認めたくない。

こういったケースは間々見受けられるのだが、こういう人の場合は自分が変われることもなく、生涯にわたって心身の不調を訴えて生きていくことになるだろう。

精神的疾患者の中には、後天的に自分自身の心の不調和によってうつ病や、ノイローゼなどに陥っている人々が多いが、これらは自分の状況を知り、正しく心を調和する勇気と努力をもって実践する以外に回復の可能性はないといえる。

病気を、恐れてはならない。かといって、おろそかにしてもならない。

但し、うつ病、パニック障害、その他の精神的疾患に関しては、心療内科、精神科の投薬治療だけでは改善は期待できないところもあるというのが実態でもある。

いずれにしても、生活上の諸問題や病気もそうであるが、結果を良く反省し、良いことはより伸ばし、悪い想念と行為は捨てて、偏りのない心になることが必要であるし、それが正しい反省ともいえる。

そうすれば、心が浄化され大自然との波長も合い、そのエネルギーによって心身が満ちてくることになり体も早期に癒えてくることになるであろう。

常に病気で沈みがちな人々は、自分自身の心の在り方を良く反省し、その原因を知ることが必要である。

人間は肉体がすべてであるからといって、内面のことを考えないで医者などにかかっても完全とはいい難い。

心の内面こそ、本当の自分自身であることを知ったなら、肉体の故障の修理も、より完全にできるといえるからで、こうした結果、自分の治癒力を信じることによって、その効果は現われてくるものなのである。

私達の多くは、この現象の世界である地球上に生まれると、肉体先祖から伝わってきた、習慣や両親の教育、社会の思想、先輩や友人、兄弟の影響を受けて、自らの個性とともに人格を形成して行く。

それには、五官が常に作用しているということを見逃せない。

五官は、肉体の感覚器官で、人間が生きていく上にあたって、あらゆる障害を超えていくために、正しく判断する機能として与えられたものである。

がしかし、この五官は肉体感覚であるために、どうしてもひとりよがりの判断となりがちである。

そのため、自ら苦しみや悲しみの原因を造ってしまい、あるいは、恨み、妬み、そしり、怒り、闘争、破壊の行為によって、自らを人生の泥沼のなかに没して行くことになる

自己中心、自己保存、自我我欲、自分さえよければよい、という偏った生活が、混乱した社会を造り出しているといえるだろう。

の原因は、五官をとおして心に作用する諸現象に対して、正しく判断する″正しい″という基準の決定ができなくなってしまったからである。

この原因はとなると、眼、耳、鼻、舌、身の五官だけを頼りとして生活していたため、肉体の主である意識、すなわち魂の存在を忘れてしまい、肉体こそ本当の自分だと思ってしまったためということだ。

そして、意識の中心である心の尊厳性をかえりみないで、人生における物質文明社会での地位や名誉に対する欲望、金に対する執着心、すべてに足ることを忘れ去った不調和な心にあるのだ。

想念の曇りが、神性仏性である心の光を小さくし、苦しみの種を蒔き散らしているのだといえよう。

この地上に生まれてきた目的や使命を忘れ、欲望のとりこになってしまったのだ。

前世において約束をしてきたことなど、思い出す余裕すら失ってしまったのである。

欲望のままに生き、自分に不都合なら他人を蹴落としても自分を守る。

そして遂には心が魔に支配され、己の中に内在する善なる心、という意思にそむいた苦しみの一生を送ってしまうのである。

このような一生は、正しい生き方とはいいがたい。

五官というものは、客観的にとらえた感覚であって、五官から大脳に通信され、その電気的振励が肉体の主である意識に通信され、心に作用して行くものだ。

心の内部には、本能の領域、感情の領域、智性の領域、理性の領域があり、意志の作用によって、行動になったり、心のなかの想念が作用するのである。

このように、心も含めて、私達の魂こそ、永遠に変わることのない自分自身だといえよう。

「魂や意識などは存在しない。人間はすべて頭脳が思ったり考えたりするので、一切の諸現象の根はそこにあるのだ。死んでしまえば何もないのだ。すべて終わりなのだ」という人も多いだろう。

このような考え方の人達に、私は質問をしたい。

「では眠っているとき、鼻の穴も耳の穴もあいているのに、なぜ枕もとでの他人の話し声や匂いなどを感知したり、記憶することがないのだろうか、脳細胞が記憶しているとしたならば、当然眠っているときでもすべて記憶してよいはずだ」と。

しかし実は全く覚えていないし、人によって、感度の差はあるだろうが、それでも記憶にないという事実は、万人が否定できないだろう。

また神経痛やリューマチなど、起きているときには痛みで苦しんでいるが、眠ってしまえば痛みがないではないか。

このように、私達の生活のなかで、起きているときと眠っているときの状態を考えると、現代医学も、科学も、まだ正しい解答ができていないという他はない。

悲しいときや嬉しいとき、感激したときなど、涙の出る前から胸にこみ上げてくるものは何の働きだろうか。

それは、心のなかの感情の領域がふくらんだときの現象が、肉体的に現われているということだ。

魂と肉体は、このようにはっきりと区分されてはいるが、また何らかの糸で結ばれている、ということも否定できないであろう。

これを色心不二と説いている。(物質と見えないエネルギーは表裏一体)

肉体と霊体を繋ぐ見えない糸を呼ぶとすれば霊子線といえるだろうか。

この霊子線は、次元を超えて、どこにでも通じるのだ。

肉体と魂を結んでいるもので、私たちが母親の胎内で、へその緒で結ばれて母親から栄養を頂いているようなものだ。

死は霊子線が切れたときに、この世の原子細胞である肉体と決別して、新しい四次元以降の肉体ともいうべき霊体(光子体)で、あの世の世界に帰っていく状態なのだ。

人間は、肉体に乗ってしまうと皆肉体の五官が優先になるために盲目になりがちだし、善と悪が同居している地上世界だけに、心の修行はむずかしい。

しかし、この心の在り方を良く知って、転生輪廻の過程で造り出した不調和な個性や特徴、つまり″業″というものを正しくし、調和のある心にしなければならない。

人生体験をとおして、いつの間にか心と行ないのなかに出てくる″業″を、修正しなければならないのである。

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転生輪廻

秋明菊循環の科学

庭には秋名菊の花が咲き始めた。

毎年この時期になると純白の花やピンクの花など色鮮やかな秋名菊が心を和ませてくれる。

生命の神秘は謎に包まれている部分が多く、それらを科学的な根拠で説明できる範囲は非常に限られたものでしかない。

この地上で生命体として存在する動物、植物、はじめ無数の限りない命が循環を繰り返していることは誰もが理解できる事実です。

ただ、その循環の詳細について説明できる科学的範囲は限られている。

輪廻すなわち循環とは、この世に生を受けたものが、土に還り、種子や、その精(意識)は、またあの世に帰ることをいいます。

これを化学的な言葉でいうならば循環している状態といえるでしょう。

循環は、種子が土に埋もれ翌年に芽を出すまで越冬するように、あの世に帰った霊(意識・魂)は、一定の期間と心の修養を経て再びこの地上に生まれる、というふうにそのくり返しを続けることです。

人間にはこの循環である転生輪廻の過程を通して、二つの目的がある。

その一つは、己自身の魂の調和と向上、即ち魂のステージアップであり。

もう一つは、地上に争いのない楽園(ユートピア)を造ること、それである。

私は相談者によく尋ねるのだが、『あなたは何のために生きていますか?』と。

個人の視点からすれば、『幸せになるため』、『成功するため』、『夢を実現するため』と言うのですが、地上の人類という全体視点からすれば先に述べたようなことになる。

『人は幸せになる為に生れてくる』とは言いますが、実際は『幸せ』、『不幸せ』というものは、とても抽象的であり、その人の境涯によっても違い、価値観によってもちがうものです。

同じ環境にいながら、一人は『不幸』だと言い、一人は『感謝してる』、『幸せよ』、という。この違いは本人の受け止め方の違いによるものだということです。

幸、不幸は、魂を向上させるための人生の過程において生じてくる生活要素であり、暮らしの一コマにすぎない。

人間はこのような『幸せになるため』という表面的な言葉のためにだけこの地上に輪廻してくるのではありません。

あくまでもその奥にある魂の向上が人類の生きる目的なのである。

一人一人は個の生命体ではあっても、地上生命体という視点でみるならば共同生命体ということがわかるだろうし、相互扶助の精神なくして人間は生きられず、ましてユートピアの建設はできない。

転生輪廻は個人的価値観の小さな目的だけではなく、人類共通の大義の基に繰り返されているということを知らなければならないだろう。

それが魂の向上でありユートピアの実現である。

そのような意味から、この地球上に降り立った人類は、きびしい環境、すなわち荒廃した地上に、万生万物の調和を目的とした理想郷建設に努めてきた。

しかし、業想念にとらわれ、肉体の五官六根にふり回されているときの人間は、邪悪な者たちと関わり、またあの世の邪悪な者たちに翻弄されてしまい、その時の人間は、やはり獰猛(どうもう)で陰湿な傾向にある。

人類は、子孫が子孫を生み、地上の生活に溺れたり、慣れるに従って、地上的価値観が蔓延してあの世を忘れるようになり、種族優先、自己保存の想念が強く、その心をエゴが支配するようになって行き、そのため、平和な地上は争いの巷と化してきたのだった。

今現在でも、世界の各地でテロや内紛や戦争が行われていることがそれである。

過去においても種族は、領土問題や境界問題など、他の種族と感情的にもつれ、闘争を生んで行き、やがて、力の強い者が戦争、略奪に勝ち、支配者と被支配者の関係が生まれ、独裁者が命令をかけるようになっていったのである。

したがって地上からあの世に去る者達のなかには、人生での目的を忘れ、不調和な暗い想念を自らの心に造り、地獄界に堕ちて行く者が多くなって行った。

宇宙の意識である唯一なる存在は、本来、地獄というものを創ってはいないのですが、地上の生活を縁として、人々による一切の執着心が霊囲気を曇らせてしまったため、地獄界が出現してしまったのである。

地獄界は地上に生きた人間の業がつくった結果だといえよう。

このようにして、文明が栄えるに従って、幾度か人類は心を失い、暗い想念で自らの心を曇らせ、光をさえぎり、人類滅亡の危機にさらされてきたのである

地上人間の悪しき業想念は、結果的には地球を取り囲む気象さえも悪影響を及ぼすことになる。

そして、転生輪廻で造り出してきた悪い性格、不調和な業を修正しなくてはならない。

一人一人が、万物の霊長として、己の内に内在する神性仏性を自覚し、この地上界の動物、植物、鉱物をして地上の調和に役立たせるように生活をしなくてはならないのだ。

進化論

今一度、進化論についてふれてみよう。

人間はアミーバーからできたという説がある。

そうかと思うと、人間の祖先は猿であるとか、北京原人、南方諸島で発掘された頭蓋骨をみて、人間の進化の過程が想像されるとさえいっている。

アミーバー説についていうと、アミーバーそのものは、いったいどうしてつくられたかである。

アミーバーをつくるにはアミーバーの元がなければならない。

水素やヘリウムなど、百種あまりの元素について、では何故に、元素は存在するかという点になると、今日の科学は説明できない。

今日の自然科学は、一つの壁にぶつかっている。

その壁とは物質の元である原子、素粒子についての状態は説明できても、その状態を生み出しているところのエネルギーそのものがわからないからである。

心ある科学者は、そのエネルギーについて、それは神の力であるといっている。

原子は光の粒子で構成され、光の粒子は霊子というものからつくられている。

といってもこれは客観的にはまだ証明できない。

ここで北京原人や古代人について、考えてみよう。

もしも、人間が猿の進化物とするなら、今現在も進化途上の類人猿がいても不思議ではないはず。

しかし人間に進化している途上の類人猿は、現在いない。

北京原人や、南方諸島の原始人の頭蓋骨の大部分は人間とは異なる類人猿のものである。

人間の頭蓋骨、骨格は、今も昔もかわらない。

百万年前も、今も大差はない。大差ないという証明は、すでに科学によってなされているし、将来は猿の進化物でないことがいっそう明らかになっていくであろう。

また、もし進化論で片づけられるなら、現実に、猿から人間に変わる過程の人間がいても、少しもおかしくないと思う。

多くの場合、文明文化の進化の過程をとらえて、人類にも進化の過程があるとみているようである。

考えようによっては、そうみえてもしかたがない。

では、今から四千年前のエジプトの文明やインカの文明をどう説明するかである。

インカの場合、ネコ科動物をモチーフとした像や力強い土器、金、銀、銅などの装身具、雄大な石造神殿、大規模なかんがい工事や、ひな壇畑の造成、これらの技術、経済の発展は地方的とはいえ、現代でも十分通用し得るものである。

現代でも、そのナゾが解けぬという千三百メートルにわたるサクサワマンの防壁、接着剤を使わずに、巨大な石を組み合わせた石積みは、今日なお、びくともしていない。

石と石の接着部分は、あの薄いカミソリの刃さえも入らないほど密着し、何千年を経た今日でも、ビクともしないというのである。

当時の技術が、いかに進歩していたかが分る。

エジプト文化にしても、そうである。

とりわけ絵画については、日常生活のあらゆる情景が生き生きと描かれ、数千年のへだたりを忘れさせる新鮮な魅力に満ちあふれている。

当時のエジプト人は、精神的に、すぐれていたといえよう。

まず、人間には来世かあり、そうして、再び、現世に舞い戻ってくることを知っていた。

このため、あの巨大なピラミッドは、人間が死して、現世に舞い戻った時に、それを使ってエジプト文明を、より栄えさせるために、必要な財宝、資料を保存させるために、つくったものであり、墓場ではなく神殿の意図がある。

今から四千年以上も経つ、ギゼーのクフ王のピラミッドは、底辺の一辺が230メートル、高さ百146・5メートルもある。石灰石の重さは平均2・5トン。個数にして230万個に及ぶ。

2・5トンもある切り石を、百メートルを越す高さに運びあげた方法は、今でも不明であるといわれるぐらい、当時の技術は進歩していたといえよう。

クフ王のピラミッドは一説では20年といわれるが、本当は35年を要しているという説がある。

石灰石は、主として、地中海沿岸、それもヨーロで、大陸側から船で運んだものもかなりあったようである。

それほど、当時の海洋技術も発達していたし、建築、土木、絵画、彫刻にしても、インカ文化とならんで進んでいた。

こうみてくると、人類の歴史は、古い、新しいだけでは律しきれないものである。

いわんや、現代人の生活をみて、過去の人類は猿とか、アミーバーだったという進化論は、性急にすぎるといえよう。

生命というものは過去世、現世、来世の三世にわたって、永久に不変なのである。

太陽の周囲を地球が円運動を描くのも、人間がこの世を終えればあの世の生活が待っているのも、ともに生命の流れ、運動というものがあるからである。

停止は死を意味するが、死は生命体には与えられていない。

宇宙が永遠の活動をやめないように、人間の生命エネルギーも止むことを知らないのである。

これは動物、植物にしても同じこと。ただ人間とちがうことは、彼等は選択の自由、創造の自由が与えられていないだけに、人間ほど苦楽を感じない。

それだけに進歩も遅くなるだけのことであろう。

苦楽の苦は、渦中の人間にとっては厳しい試練ではあるが、自分がこの地上に降りてきた使命を悟るならば、逆境こそが学びのチャンスであることに感謝できるようでなければならない。

我が心の師はいっている。

『この世は調和されるようにできており、人間の肉体も、精神も、天の意識と同じように造られているため、調和に反する行為があれば、それに比例する反作用として自らが苦悩するように人間の心は造られている』と。

蒔かぬ種は生えぬ、蒔いた種は刈りとること、これは宇宙自然の摂理であり、私たち人類の生き方にも言える法則といえる。

動物は本能と感情だけでいきているのだが、人間だけは創造する能力を備わっている。

知識智慧理性という心の働きは人間だけのものである。

しかし、人間はこの知識、智慧、理性のバランスを崩した時に苦しんだり、悲しんだりすることを知っておかなければならない。

個人的悩み、相手があっての悩み、さまざまな悩みを抱えてくる相談者は必ず精神のバランスを崩してくるのだが、その背景には過去、現在、未来への拘り、不必要な執着、不安、恐怖というものが控えている。

人間から物を創造する能力を抜き取ってしまえば、こうした我執も生じてこないだろうし、植物や動物とあまりかわりません。

本能感情だけの世界で暮らすなら文明も文化もつくられないだろうし、反対に苦しみもズッと少なくなり、喜びさえも知ることはないだろう。

人間は限りない転生輪廻のなかで、いつも心の向上を目的に地上に降りてくることを忘れてはならないのです。

その為のプロセスにおいて逆境や試練に心を見失い大きな目的を忘れてはいけない。

俗に、人間の魂が昇華し仏(悟る)になると、もはやその魂は二度と再び地上に生を宿すことがないといわれていますが、そういうことはありません。

そのような説は、もともとヨガ、インドのバラモンがはしりといってよいでしょう。

仏教ではそのようなことはひと言もいっていないはずですし、仏教の中に、もしそのような説があるとすれば、それはインドから中国に渡った際に、ヨガ、バラモンの思想が仏教のなかに混入したためと考えてよいと思います。

バラモンは、この世にたいする人間の願いと、階級制度をまぜ合わせ、形のみを追い求めた結果、そのような空想を描いたものでしょう。

生命の循環である転生輪廻は大自然の法則に沿った摂理によって生かされているのです。

そして、人間の魂は、永遠に転生を輪廻し、その姿はとどまるところを知りません。

それはちょうど、太陽の周囲を、地球が自転公転しながら三百六十五日と四分の一の周期で、再び同じ軌道を回転し続けるように、生命の流れ、生命の運動というものは、常に円を描きながら進歩の過程をふんでゆくものなのです。

原子の姿も同じです。原子核と陰外電子の両者から成り立ち、原子核の周囲を陰外電子が猛烈なスピードで回転しています。

陰外電子が原子核の周囲を回転することによって、原子核の生命、陰外電子の生命が、たがいに相補いながら、生かし続けています。

我々人間の五体についても、同様のことがいえます。心臓という五体にとって必要欠くべからざる器官は、五体全体の生命活動を継続的に維持促進するため、昼夜の別なく働いています。

すなわち、その生命機能は、各諸器官が十分にその機能を果たすための、新しい血液を送り込んでいるのです。

送り出された血液は、各所を万遍なく通って、やがて再び心臓にまい戻り、酸素と栄養を含んだ新しい血液となって各所に散ってゆきます。

心臓を太陽とすれば、送り出された血液は、太陽の熱、光のエネルギーとみていいでしょう。

そのエネルギーが胃や腸、肝臓、肺臓という惑星に生命を与え、その生命活動を助けているのです。

同時に、胃腸や肝臓の働きが心臓の働きを促しています。

このように、各諳器官は、新しい血液の助けを借りて、それぞれの細胞集団の新陳代謝を行っており、その新陳代謝は、そのまま細胞の転生輪廻を意味しています。

人間の魂についても同様、この世の生活を終えればあの世で生活をします。

水の生命が、気体(雲)液体(水)固体(雪や氷)と三相に変化するように、人間の魂も前世、現世、来世の三世の循環をくりかえすものです。

生命というものは、すべてそのように循環という輪廻の過程を通るように仕組まれているのです。

この仕組みから外れるわけにはゆきません。

釈迦やイエスキリスト、あるいは悟りをひらいた多くの天使は、地上にふたたび、その生命を宿すことがないという俗説もありますが、生命の原則、生命の仕組みを理解するならば、そのような考えは改めなければなりません。

転生輪廻は、生あるものの命であるからです。

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religion(宗教)&科学

太陽系

イメージが良くない宗教界

日本では全体的に宗教という言葉に対してネガティブイメージが強いように思われるが、あなたはどうお考えだろうか。

戦後の宗教界においては強引な折伏なども行われ、入信にあたってこれまでの仏壇を焼かれるということがあって、その家族や既成宗教の信仰者から批判の声が囁かれたこともあったことは事実である。

このようなことは私の親戚筋にもあったことだ。

カルト

一方、19年前の1994年(平成7年)6月27日に、長野県松本市で、猛毒のサリンが散布され、死者8人・重軽傷者660人を出した事件。

これは、平和国家としての日本で、一般市民に対して無差別に化学兵器が使用されたテロ事件であり、ずさん極まる捜査を実施した警察とマスコミのなれ合いの果て、無実の人間を犯人にでっち上げた免罪報道被害事件でもある。

オウム真理教が一連の事件を起こした後の「カルト」への一般市民の反応、そこから繋がる「宗教全体のイメージ悪化」は相当に助長された観はある。

元来、カルトという言葉は「祭祀」とか「儀礼」を意味するラテン語 “cultus” に由来するといわれていますが、本来は純粋に宗教を表す言葉で、決してネガティブなイメージではなかったはずである。

だが、現代ではカルトというと怪しい、いかがわしい、危険、邪教の代名詞のように受け取られ用いられるようになってきた。

怖いだろうが、カルト教団に起きた実際の事件を紹介しておきたい。

1978年の35年前、ガイアナでの人民寺院の信者914人以上の集団自殺等(内267人は18歳以下の子供)を皮切りに、マスメディアが「カルトと洗脳」を問題視するようになり、その後「マインドコントロール」等の概念と結びつけて考えられるようになる。

この集団の教祖、ジェームス・ウォーレン・ジョーンズは自らが精神疾患者であり、実質的な監禁状態におかれた信者への暴力事件やレイプが常態化し、さらに信者に対し銃を使った軍事訓練をも行っていたのである。

死者の中には無理矢理自殺を強要され、300人程度が他殺されたという報告が、かろうじて集団から逃げた人たちによって証言された。

実際に生存者の証言では死を拒否した信者は集団で押さえつけられ、無理やりシアン化合物を注射されたり、逃げ出そうとして銃撃され殺害された者も多数いるという。後の検死で本人には到底刺せない位置に注射の跡があった死体や、背後から撃たれた死体なども多数発見されている。

同時にジョーンズも自らの妻子を先に自殺させた上で、自らのこめかみをピストルで撃ち自殺した。検視の結果、ジョーンズの体からは大量の薬物が検出された。

なお、この集団自殺の生存者はジョーンズタウンから脱走した167名のみであった。

同日夕方にはジョージタウンの教団本部でメンバーのシャロン・エイモスが自身の3人の子供たちを包丁で殺害後自殺している。

この事件による犠牲者は、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロまで、アメリカ市民の事件による死亡者数では最大であった。

日本でも時期は遅いものの概(おおむ)ねアメリカと同じ流れがあり、「異端宗教」としてのイメージの後の「オウム事件」、そして「カルト」や「マインドコントロール」の社会問題化と進んでいく。

公にはなっていないが、国内の宗教や霊能者、カウンセラーによる被害者がたくさんいるのは事実である。

私の所で受けた相談によっても明らかであるが、告訴したり、裁判問題になるケースは非常に少なく、表面化するのは被害者の全体からすれば極一部で氷山の一角でしかないだろう。

多くのカルト教団は「我々は宗教団体である」とバカ正直に教えてくれるはずもなく、一般市民の「悪質な新興宗教がある」というだけの薄っぺらい知識では、あの手この手のなカルト教団の手口に翻弄され、引っかかる人が絶えない。

彼らは「心の隙間」「無知」を狙ってくるのだ。

宗教と科学

宗教というと、いかにも抹香臭く念仏をあげたり、経文を学ぶことのように思われていますが、本来はそんなものではないはずである。

宗教の目的とするところは人間の心を知ることであり、その心がわかれば自然の理も明らかとなり、人間としての在り方、安らぎが生まれてくるものです。

俗に、安心立命ともいわれていますが、この言葉の意味よりも実はもっと深く、広いものであり、己自身の調和と同時に、地上の調和をはかるもののはずである。

したがって、この目的から外れたものは宗教とはいえないだろう。

いたずらに殿堂をつくり、全国に支部の事務所を増やし、信者を増やすことに奔走し、我こそはと反り返るものがあるとすれば、それは宗教の本旨から遠く離れたものである。

一方、科学の目的は、自然の解明にあると同時に、地上の調和(生活を豊かにする……)に役立つためにあります。

化学にしろ、物理学にしろ、自然の不思議を究明し、人間生活をより豊かにエンジョイするためにあるのであって、ただ単に文明の利器によって贅をきわめるためにあるのではない。

宗教と科学、この両者は一見異なった世界、次元のちがう分野のように思われますが、その目的を分析解明してゆくと、全く軌を一つにするものであることに気づきます。

宗教も科学も、この人間社会をより進化させ、豊かにするためにあるからです。

正しい宗教は、人間の心を解明しますが、科学は、自然の神秘、そのなかから、自然を動かしている、法則の存在の発見につとめ解明します。

したがって、そのいきつくところは、ともに同じです。

自然を科学すればするほど、その神秘さがわかり、偉大な科学者ほど宇宙意識の実在を信じるようになります。

すなわち自然の解明は、人間の解明につながってくるからです。

逆に、人間の解明は、自然の謎を解くカギが与えられます。

このように人間と自然というものは、もともとひとつであり、人間と自然を切り離して考えることはできないものなのです。

大自然を大宇宙といい、人間を小宇宙ともいいます。

地上の水圏は71%、陸地は29%であるという。

人間の肉体も水分が約71%、蛋白質、燐酸カルシュウムなどの部分が約29%です。

地球と人体の構造はまったく同じように作られているというこの神秘。

また人間が誕生する、あるいは他界するその時間も、潮が満ちるときに誕生し、干潮のときに息を引き取り、女性の生理現象についても、ばらばらではなく、月の公転と関わりながら干潮、満潮に密接な関連を持っています。

このように科学する心は、そのまま宗教の目的である人間の心、自然の心につながってゆき、大自然の法則につき当ってくるものです。

ゆえに、正しい法則、真理というものは、物理学でも科学の面から推しても解明されてきましょう。

もしも既成の宗教で自然科学の面から割り切れないものがあるとすれば、その宗教はどこかに間違いがあるというべきでしょう。

もっとも、地上の科学は真の法則そのものをまだとらえてはおりません。

しかし、心の法則は今日の物理学の範囲内でも、結構うかがえるものです。

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魂の先祖&soul brother

 瑞光 様のコメント: 2013年9月20日 9:19 PM

観童様のブログを昨年の一月から拝見しております。

私は僧職にある者ですが、得度して五年ほどの新参者でわからないことばかりです。

ぜひお尋ねしたいことがあります。 教えて頂ければ幸いに存じます。

私は、仕事で先祖供養ということを日常的に行っているのですが、観童様のコラムを拝見して、供養ということに対するこれまでの私の考えを、今一度点検しなければという思いがしたところでもあります。

日本の仏教界では、親や先祖、そして、縁者というように、血縁の肉体先祖を供養してきたのですが、魂の先祖魂の兄弟という言葉の意味をもう少し分かりやすくご説明頂けませんでしょうか。

宜しくお願いいたします。

返信

瑞光さま。いつもブログを訪問していただきありがとうございます。

先ず、ご質問の魂の先祖、魂の兄弟ということの前に、肉体先祖ということについて少し触れさせてください。

これまでの仏教界では因果律については触れてきておりますが、魂の存在や輪廻転生などのことについては殆んど説くことがなかったのではないでしょうか。

まして、魂の兄弟とか、魂の先祖、そして、守護霊や指導霊という言葉もとなると全く別分野の話しという観があったかと思います。

肉体先祖とは、文字通り肉体の系譜であり、肉体の系譜には、さまざまな個の魂が関係してきます。

この世の肉体上の親子関係は、過去世においての約束、あるいは、あの世で約束を交わし、縁を持ったもので、魂の関係からみると親子というものではありません。

現世の親子関係は、過去世やあの世での友人であったり、知人であったりと、深い契を結んだ縁者であります。

しかしながら、私たちの魂がこの世に出生し、地上調和をつくるための修行にいそしめるのは、先に生まれ、この世に出生している親のおかげであり、そうした意味では肉体先祖なり、親には感謝しなければならないでしょう。

こういうことで、自分が現在ここに存在するということは、魂の先祖や、肉体の先祖の関係においてあるわけです。

これは現実の親子関係を通した俗にいう家柄、血筋をいうものであり、これまでの先祖供養についての観念は肉体先祖のみでした。

ところが同じ親子であっても、魂はみなちがうのです。

その証拠に、自分の子であっても自分の自由にはなりませんし、性格、考え方、生き方は異なります。

肉体は遺伝されますが、魂は遺伝されません。

似たような考え方、興味を持つ親子もおりますが、これは類似の傾向を持った魂なのであり、肉体に遺伝されたものではないということです。

このように、肉体と魂は違うのであり、魂にも肉体とはちがった先祖があるのです。

その意味で、魂の先祖というのは、自分自身の過去世といえば理解できるだろうか。

たとえば、あなたが今世で男性として生まれていても、五百年前、千年前に、中国に生をうけ、あるいはインドに生まれ、あるいはアメリカに生まれ、今世と同じように生活していたかもしれません。

また、その時は今世とはちがって、女性であったかも知れません。

過去世というのは、こうした五百年前、千年前の自分自身の生活の記録であり、それは親から受け継がれたものではないということです。

その記録は自分自身の魂の中心である心に、記憶という形で内在されています。

ただ、通常、一般的には過去世の記憶を認識することがないだけです。

過去世の自分を知るには魂全体にある、表面意識と中心部分にある心(潜在意識)の間にある想念帯を通り抜けて同通する必要があります。(下記の図表面の表面意識、中心の黄色潜在意識、グレーが想念帯心の仕組み

 

この記憶は、人にもよりますが、偏りのない正道の生活を行なうことにより、心が調和されてはじめて可能となり、潜在部分が表面化して自覚できる場合があるものだということです。

いわゆる過去世の記憶がよみがえるという場合です。

また、過去世で暮らした外国の地に惹かれて再びその地で永住する人もいます。

このように、魂の先祖がわかりますと、いまの生活に対する自覚が生まれ、魂の先祖すなわち過去世の自分に劣るまいとする向上心に燃えるものです。

もちろん、人によっては、今世は過去世以上の恵まれた生活をしている人もありますが、そのときは、昔の苦しい生活に思いを馳せ、謙虚な自覚が芽生えてくるものである。

こうして過去世の自分を知ったときは、人生に対する目的と役割に目覚め、人の一生は今世だけのものでないことがわかり、愛の生活に徹することができるようになるでしょう。

この意味で、魂の先祖を知ることは社会の平和に貢献する、人生の大転換になるものです。

守護霊・指導霊

ここでもう少し、魂の先祖、魂の兄弟ということに関連して、一般的に聞きなれている守護霊や指導霊という言葉の意味について述べておきたいと思います。

守護霊や指導霊という言葉は聞いたことのない人はいないほど知られた言葉かもしれません。

まず結論から言いますと、守護霊は心の潜在部分に内在しているものであり、その殆んどが自分の過去世であるということ。(まれに肉体先祖が務めるケースもある)

『あなたに徳の高い守護霊をつけてあげます。守護神をつけてあげます。そうすればあなたはこれまで以上に何事もうまくいき幸せになれます。』という甘い言葉に誘われて大金を支払ったという人がいます。

実は、守護霊は人間がこの地上に生まれた瞬間から誰にでも公平についてくれている存在ですから、営利を目的とする人たちが後から取り付けるようなものではありません。

4次元世界と3次元世界の関わりには厳然とした摂理と秩序が存在していて、何人たりともこの秩序を破ることはできない。

したがって後付するような霊は邪悪な霊か地獄霊でしかないのです。ご注意ください。うまい話はいつも誘惑と疑惑に満ち、危険がはらんでいます。

私たちの背後(4次元)にはいろんな役目の霊が存在しています。

目的がいろいろとあるからですが、しかし、その霊がすべて同じレベルにあるわけではありません。

各々の霊に割り当てられる守護霊や指導霊としての役目は霊的な成長と発達の度合によって異なります。

例えば、物理化学について詳しい霊がいても、あくまでその時点までの経験の結果としての知識で協力するということで、まるで知らない霊界の仕組みや政治行政のことについては協力できようはずがありません。決してパーフェクトではないのです。

ですから知らないことは何一つないような霊は決していないということです。

物理化学に精通している霊は高等な思想上の問題についてはよく知りませんし、高等な思想・哲学を説くことを使命としている霊は物理化学に関しては苦手かもしれません。

このような意味から、霊をぜんぶ同一水準に置いて考えることは禁物です。

どんな霊が背後霊(守護霊・指導霊)となるのか。

多くは魂の先祖、魂の兄弟(同義語)が受け持ちます。魂の先祖と兄弟は別な存在として表記したのではなく、同義語であり、別な言葉を使用しただけとご理解ください。

また地上的な縁故関係はまったくなくて、果たさんとする目的において志を同じくする者、言ってみれば霊的親近感や霊的使命感によって結ばれる場合もあります。

先のように、多くは魂の先祖、魂の兄弟と上述したのは、守護霊は、まれには地上での血縁関係によって担う場合もあるからであります。

そこには民族や国家の違いはありません。地上を去り4次元世界に行き、地上的習性が消えていくと、民族性や国民性も消えていきます。

魂には民族も国家もありません。あるのは地上生活のときの肉体上の差異だけです。

背後霊として選ばれる基準は何か

4次元世界にいる段階で地上世界(3次元)のために為すべき役目があることを自覚して、みずから買って出る霊もいますし、ある霊的な発達段階まで来ている霊が、人類啓発の使命を帯びた霊団から誘いをかけられる場合もあります。

誘われた魂は困難を承知で人類愛のために引き受けるのです。

また自分から進んで背後の指導を買ってでたとしても、その霊の人間性が未熟ならば叶わないことです。

あの世においては、心から発するオーラ、すなわち色彩、光輝の大小がその霊人の本性を全て示しているのです。

あの世では地上人間のように嘘は隠せませんし、心の状態がすべてオーラとなって表れているからです。あの世における霊体だけの生命はこの地上のような肉体はまとっていませんから心の状態がすべて丸見えなのです。

守護する力量のないものがその任を担うことはできません。その人には協力できないことが明らかなのですから。

ですから、地上のあなたが人類のための仕事に志を抱く霊を呼び寄せようとしても、あなたご自身が霊的成長によって霊格の高い指導霊を引きつける力を具えていなければ、それは叶えられないということです。

指導霊にも段階ありです。殆んどは自分と同等レベルの指導霊が背後にいると解釈してよいでしょう。

つまり、自分の魂のステージに見合った霊が守護霊や指導霊という立場で背後の協力をするのです。お判りでしょうか。

この世においても資格のないものにはやりたくても出来ないことがあるのも道理でしょう。しかし、ここでいう資格は学歴や運転免許や国家試験で得るような形の資格ではありません。魂の成長度合の意味です。

偉大な聖者たちは大学をでたでしょうか?

先ずは私たちが心磨きを実践して魂のステージを上げることが先です。そのことによって段階的に指導霊が入れ替わることがあるのです。

私たちが意識するしないに関わらずです。

仏像や曼荼羅に向かって真言を唱え、読経をして拝むことは、本来の仏教からすれば御利益求めであったり、他力本願で依存型信仰の代表と見えてなりません。

実際に、このような考えと行動が邪悪な霊人を引き寄せるケースが多いことを知る一般の人たちはとても少なく、災いに苦悩する人が後を絶ちません。

人間に必要なものはすべて生れ落ちるときに備わっていることを悟らねばなりませんよね。

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妙薬は愛の言葉

親孝行1あい 様のコメント:&返信2013年9月10日 10:40 PM

先生こんばんは。
先日コメントした三児の母です。
今日も記事を読ませていただきました。
質問あります。
実の父親がもう40年近く精神科に通院し薬を飲んでいます。
詳細はわかりませんが両親離婚、兄弟不仲の家庭環境だったようです。

先生の記事を読ませていただいて、父も憑依されているんだるなぁと感じています。
普通の人と変わらないような状態の時もあれば、普通でない状態の時もあります。目付きが違います。
特に春と秋は普通じゃない期間が多いような気がします。

もうすぐお彼岸ですが何か関係あるのでしょうか?

父の病気が恥ずかしい、父のせいで地元の人とは結婚できないだろうなどと親不孝な考えを持ったこともありました。
今、自分も親になり両親に感謝しています。病気の父 、そして働けない父の代わりに頑張って働いて家族を支えて来てくれた母に恩返ししたいです。

自分なりに考えた親孝行は私が幸せでいることだと思っていますがこの考えで良いのでしょうか?
40年も飲んでる薬を簡単にやめさせることは難しいでしょうし、憑依じゃないかと言ったところでなす術もないんじゃないかなと思っています。

お時間ある時で構いませんので、精神病の身内をもつ家族にできる何か良い事などありましたら教えてください。
どうぞよろしくお願いします。

あい様。おはようございます。コメントくださいましてありがとうございます。

返信が遅くなりまして失礼いたしました。

ご実家のお父様の長年にわたるご病気、ご本人の辛さはいうまでもありませんが、それ以上に、娘としてのあなたの心痛もいかばかりかとお察しいたします。

併せて忙しい育児もご苦労様です。

両親の離婚、兄弟の不仲、家庭環境としては非常によくない、不調和な状況であったことは不幸なことです。

不仲は、協調性に欠けるエゴの心が端を発して作られた葛藤です。

その奥には人間の業、つまりカルマが潜んでいると言ってもよいでしょう。

お父様の様子の目つきが変わる時があるということですが、誰でも病をすれば精神的にも、肉体的にも辛いものがあり、気分も滅入って鬱々としてしまいがちなものです。

特に、精神的な疾患(うつ病)をもっている方の場合は余計にそのような状態になりやすい傾向があります。私はこれを心の傾向性、心の癖と表現しています。

その意味では一概に憑依とも言い切れませんし、また、憑依がないと断定することもできません。

憑依については厳密に霊査する必要があります。

お父様の状態が、特に春と秋のお彼岸の時期にそのような傾向にあることについてですが、これには幾つかの理由があります。

私は、治療家として23年の経験から言えることなのですが、毎年のこと、決まって春と秋には一気に体調不良を訴える患者さんが増えます。

例えば、病気ではありませんが、腰の弱い人は春の雪解けあたりから、木の芽が動き始める時期までギックリ腰で歩けないほどの状態になって来院してきます。

丁度、春彼岸の時期がピークです。

そして、秋には残暑が終わり朝夕に冷えるようになり、夜露に葉っぱが濡れて見事に紅葉が始まる10月頃までの時期、つまり、秋彼岸の時期にピークになります。

ギックリ腰の症状以外にも、不定愁訴(更年期障害)といわれる症状の人、自律神経失調症と病院で言われた人たちがこの時期には集中する傾向にあります。

このようなことから、人間は自然界のなかで生かされている生命体であること、そうなると当然ながら、自然界の影響をうけている存在であるといえます。

身体が病んでいると自然界の変化についていけない人たちもいるのです。

身近な例では、低気圧がくると頭痛がするとか、肩こりが増すとか、体が重くなるとかいうようにです。

そして、ここにもう一つ条件が加わってきます。

日本の文化として、死者の霊に対する供養、先祖を祀り供養するという習慣がありますが、古くから伝わってきた伝統によって慣れ親しんできた習慣は、死んであの世に行った人の心の中に残っていているものです。

春彼岸や秋彼岸になると子孫が故人や先祖に対して意識を向けて祈ることによって、「呼んでもらえる、供養してもらえる」ということでこの世の人たちと関わることになるのです。

実は、このことが私たちにとっては決して良いことばかりとは言えません。

あの世の霊人たちがこの世の人たちに関わることは、地上の人間が心身ともに不調をきたし、安らぎを乱すことになる一因となるからです。

未浄化(執着)な霊は心の波動が荒く暗いために、地上で暮らす人間にとってはその波動が辛いものでしかありません。

だだ、その波動をどれだけ自覚しているかは個人差があるというだけのことです。

死者の霊は、悟ってこの世に未練もなく、心に執着がなければ、この世的な価値観から遠ざかり、この世の人間に関わることもなくなるのですが、それには時間がかかります。

亡くなってあの世に行った人たちは、この世にいるときの価値観である、物中心の価値観、お金中心の価値観、地位や名誉、職業などに対し、地上生活のときの偏った価値観から卒業するまでには相当な時間を要するのです。

あの世の価値観はとなると、愛と慈悲から発する心の実践、これであります。

愛と慈悲と、言葉では簡単にいえるのですが、行うことは簡単ではありません。

愛と思ってはいても、私的な都合、感情からの情愛であったり、慈悲とはいっても押し付けの偽善であったりする場合が少なくないのです。

愛も慈悲も私心があってはなりませんし、偏ったら、その本文から遠ざかってしまいます。

あなたの現在の存在と、ごく普通の暮らし、幸せは、40年もお薬を服用しているというお父さんがいたからであり、お母さんがいたからであります。

あなた自身も子どもの親となった現在、ご両親に感謝の心をもっておられるようですが、これは当たり前のことですが、とても尊いお心であり、皆がそのような心になっておられる訳ではありません。

よくぞその心になってくれたものと非常に喜ばしく思います。

親孝行を考えてみますと、人によってさまざまな考えがあるでしょう。

一つは、物やお金を与えることができる人たちの親孝行、それができない人たちの親孝行。立場や状況によって親孝行のしかたにもいろいろあるでしょう。

大事なことは自分にできる方法で心を尽くすこと。これではないだろうか。

謝の心を持っていても、それを言葉にしなければ、行動にしなければ伝わらないことが多いものです。

お父様に対する最大の妙薬はお薬ではありません。

あいさんの、心から発する言葉、

「お父さん、いつもありがとう。お父さんが元気でいてくれるだけで私は幸せだよ。」

「お母さん、いっぱい苦労させて育ててくれてありがとうね。子どもをもって、今初めてお母さんの苦労が少し分かるようになってきたよ。」

こんなような言葉をいただいたらご両親はどれだけ幸せな心に満たされるでしょう。

親孝行は、難しいものではないと思います。

娘から頂いた愛の言葉は、どのような物をも及ばない、ご両親の心に至福をもたらすでしょう。

あなたがいうように、あなたが幸せであることが最大の親孝行となることです。

私のこれまでのカウンセリングという経験で得たことは、精神疾患を癒やすのは愛しかないということです。

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宗教にみる阿片作用

稲荷

迷信、盲信、狂信

家相が良いとか鬼門が問題だとか、厄年の新築は禍の元になるとか、迷信のたぐいはたくさんある。

だが、盲信、狂信は、人間の造り出した信仰であって、神理にはほど遠いものであることを私達は知らなくてはならない。

神社、仏閣にお詣りに行き、祈ることが信仰であると思っている人々が、何と多いことか。

神仏を祈ることによって、自分の幸福が得られるという誤りに、私達は気がつかなくてはならない。

信仰とは

一般世間をみると、「信仰を持たないものが恵まれ、信仰者が不幸で貧しいという現象にぶつかることがあります。何か矛盾を感じるのですが、これはどういうわけなのだろうか」という質問をいただく。

厳格な意味では信仰を持たない者は一人もいません。

何故なら、自分を信じているか、金を信じているか、地位や名誉を信じて生きているのか、何かを信じて生きているのが人間です。

何も信じることができなくなったならば、人は生きてゆくことさえ難しいでしょう。

先ず、信仰のない人たちが比較的恵まれている理由は、その生活態度が自力的だからです。

そういう人たちの場合は依頼心が少なく、原因と結果について自分なりの見解を持っており、ものの成否は努力の結果とみているからです。

それだけに偏ると自己中心的であり、思念の力も人一倍強く働いています。

恵まれた環境は、そうした諸条件が生み出したといえるでしょう。

ところで人の幸、不幸は本来、主観的なものです。

第三者が見て、経済的に恵まれているから幸せかと言うとそうではなく、それを維持するために戦々恐々とした生活であったり、親子の断絶があったり、形だけの夫婦であるとか、内と外では大違いの場合もあるようです。

また金ができ、地位があがると、今度は慢心を起こし、分を超えた金使いや投資などで大きな損失をしたり、金持ち三代続かず、のように新たな執着の原因をつくり出してゆきます。

こうしてみると、物や金の価値に偏り、地位や名誉、、知識や資格などに偏り過ぎた唯物論者の心ない思想によって、人類は灰色の人生を送らなくてはならないだろう。

なぜなら、(知恵)と意(意思)によって造り出された闘争と破壊の思想は、自由と安らぎの心を乱し、団結という美名のもとに、個人の自由を束縛し、きびしい弾圧によって、人は苦しい生活に追いこまれてしまう。

しかし彼らも心の悩みについてはどうすることもできない。

従って心を失った人々によって、類は類を呼ぶ法則に従い、指導者を中心に集団を形成していく。

唯物思想に応じない自由意志の一言は、取巻きによって抹殺されてしまう。

思想によって洗脳された人々は、目的のためには手段を選ばない暴力によって行動し、そこには、慈悲も愛もない行為が展開されて行く。

思想イデオロギーのためには、犯罪意識もないのである。

思想的な人々の集団は、指導者のロボットと化し、人間性を失ってしまっている。

現代のテロ集団がそれで、本当に哀れな人々としかいいようがない。

互いに信じられない人間の集団は、いつの日か、内部闘争によって破壊されて行く。

私達はこのような思想から、自分自身を守ることが必要である。

それには、正しい宗教観を身に着け、正しい真理に私達がもどることだ。

失われつつある人間の心をとりもどすことができるからである。

人間としての偉大な心の尊厳を知り、調和のある社会を築くことが、必要なのである。

しかし仏教もキリスト教も、信仰する人たちの言葉や内情を聞くにつけ、あまりにも人々の知恵と意思によって改められすぎていることを痛感させられます。

そのために、大自然を支配している意識、すなわち真理は偶像化され、さらに光の天使達も偶像化され、拝む宗教の氾濫に侵された末法の世となってしまっている。

本来の正しい教えも、その真髄が分からなくなってしまったため、多くの人々は、神仏の名のもとに祈ることが宗教である、と考えるようになり、一握りの悪質な宗教者によって、食い荒らされる宗教となり果ててしまった。

生活の中で、マンネリズムになってしまった信仰は、一日の形式的行事におちいっている。

「仏教とはむずかしいもので、その真髄をきわめることは困難である」と仏弟子であるはずの、僧侶達までが、このようなことをいっている時代なのである。

知的で、我流の解釈の成立している姿こそが、現代の仏教なのではないだろうか。

私は大いに疑問に思う。

人間の在り方を教えている仏教が、なぜ哲学にならねばならないのか。

なぜきびしい戒律によって、一定律を作らねばならないのか。

それこそ摩訶不思議である。

多くの人々は、仏教から遠くなった。

否、遠くなったというよりは、仏教が民衆から離れたといったほうが正しいだろう。

時の権力者や、貴族、僧侶達のための哲学と化した宗教は、すでに真の心のものではない。

きびしい階級制度がなぜ宗教を必要とするのか。

これは、彼ら特権階級と思っている連中の、自己保存の手段なのである。

神の名のもとに、彼らは大衆を犠牲にしてきたのである。

一部のそうした特権階級や、僅(わず)か5%の貴族や僧侶の私利私欲のために、弱い立場の95%の人々を犠牲にする宗教は、阿片にひとしい。

阿片となった宗教は、すでに人を救うことはできない。宗教のかたちをとった霊感商法も然りであるが、ご利益をうたう教えは神理でも何でもない。

人間の私利私欲の産物であり、それが神意でないことを、私達は良く知らなければならないでしょう。

彼らは、神仏の名を騙って生活している偽善者なのである。

祈ることのみが救われる道でないことを私達は知り、盲信、狂信、迷信、が邪道であることを忘れてはならない。

宗教の正しい神理から、心を遠ざけられていることを改めて認識すべきである。

万物の霊長として、私達が宇宙の法則が真理であることを信じることが、人間として当然であり、その営みを悟ることなく、教団の指導者を盲信、狂信することは、自分自身を失うことになることを悟らねばならない。

人間らしい生活を忘れ、不調和な苦楽両極端の人生を送り、正道の心を無視した片寄った生活をしたのでは信仰の意味がない。

毎週日曜日には教会に通い讃美歌を歌い、牧師の声を聴きながら、家や職場ではお局様になって傲慢な言動をして嫌われている人がいるのである。

何のための信仰であろうか。

指導者のいいなりになったり、求道心をただ祈る方向だけにおく、というのは盲信である。

行いが祈りであるが如くに生きればよいであろう。

もはや神の名のもとに、疑問を持つこともなく、自分の心を失い、心の安らぎを得ることもなく、祈りによって人生の逃避へ走るという結果になってしまうのである。

このような人々は、早く自己の心を取り戻さなくてはならない。

指導者は、″紙″として祈らせたり、

「あなたの家の不幸は、何代前の先祖が浮かばれないからである。祈って供養しなさい」とか、

「あなたの病気の原因は、屋敷内の守り神であった竜神を粗末にしたための祟りであるから、祠を作ってお詫びしなさい」

といって、皆祀らせてしまう。

これが彼らの常道である。

旧家ほど、祀った神さまと称する〝紙″が多い。

「あなたの商売がうまくいかないのは、稲荷大明神を祀らないからだ。一日と十五日にお祭りをすることによって救われる」

などといわれれば、私利私欲の心が優先して偶像を祭ってしまう、という具合である。

こういった事例はこれまでたくさん見てきた。

欲望を満たすための信仰は、祈れば祈るほど心が不調和となり、不幸な人生を送るようになることを知らねばならない。

祀った当時は一心に祈り、祈る心で仕事にも精を出すから、商売は繁盛、金もできる。

しかし金と暇ができると、祀ったものには無関心になり、形式的なお勤め信仰になって行き、繁盛したことへの人々への感謝の心も忘れてしまう。

驕り高ぶる。

浪費をはじめる。

傲慢になる。

欲望の満足ばかりを考える。

いつか、そうした心の魔に克てなくなり、心は暗い想念に覆われ、安らぎもなくなり、家庭生活をジワジワと破壊し、邪悪な霊を呼び寄せ、やがて支配されて没落への一途をたどるようになる。

不幸を自ら選んで行くのである。

「さわらぬ神に祟りなし」という諺は、真に的を得た言葉である。

神仏にさわらず、頼らず、神理に即した生活を、自らの努力によって築き上げることが、神仏の心に通じることなのだという道理を悟るなら、必ずしも既成団体に入信する必要はないのである。

人間らしい生活への最善の努力こそ、私達の心に平和な安らぎを与え、大自然の法則に沿った生き方であり、繁栄をもたらすということである。

人間らしい生活とは、偏りのない実践によって調和した正しい想念と行為、万物の霊長たる自覚を持って衣食住に足ることを知った生活、それである。

限りない欲望は、足ることを忘れさせて苦しみを造り出して行くのみである。

私達の環境の中で、さわりを起こす眼に見えない憑依霊や地縛霊は、神でもなければ仏でもない。彼らに憑依されるには必ず原因がある。

想念と行為についてまず反省すること、これが先決だ。

反省もなく、さわりの霊を皆、祀ってしまうことは、彼らを増上慢にし、さらに災いを後世に及ぼすことを考えなければならない。

一例をあげよう。旧家での出来事だが、息子が狂ってしまった事件があった。

息子の父は自分の妻には辛く当り、姑もこの妻に辛くあたり、狂った息子の父と、この父の母親、つまり姑と親子でマザコンかと思えるほどのやり取りをしている異様な家族。

この父親は何故か息子を可愛がることはしなかった。不憫(ふびん)に思った母は、自分にも夫からの愛を向けてもらえない分だけ息子を溺愛したのだった。

こういう家族のなかであれば、歪んだ精神構造ができあがって当然のことであろう。

息子は小学校5年生あたりから内向的になり、友人ともうまくいかなくなり、孤立するようになっていったのである。

中学に入って被害妄想が出てくるようになり、ありもしないことを想像でつくり出し、事実であるが如く語りだすようになってきた。

私は、中学のときのこの息子に会っているが、この息子の背後に居る邪悪な存在に気づいていた。

この旧家では稲荷神を屋敷内に祀っていて、代々願い事をして祭りごとをしてきたのであるが、息子の父親の時代になってからは一切これまでのような祭りごとはしなくなっていたというところまで確認した。

ある日、発狂した中学の息子と、父親と、息子のおばさんとで、息子の相談をしているところに立ち会うことになった。

このときに息子が父親に飛びかかったのだが、私がなんとか力づくで息子の暴力を制止したことがあった。

ランランと不気味に光り輝く息子の目は邪悪な霊の支配下にあったことが見てとれる。息子は精神科に通い、統合失調症と診断を受けることとなった。

以上のように、深い関わりをもってきた霊の災いを治めるには、自ら心を正してから、彼らに正しい道を説明供養し、人類に迷いや苦しみを与えないようにその誤りを諭し、彼らの住む世界に帰してやることが正しい法であって、祀ってやることが正道ではない。

霊を祀れ、という行者や教祖がいたら、それは正しい霊力のない人であることを知らなくてはならない。

正しい霊力があれば、彼ら邪悪な霊の誤りを指摘して正しい道に帰依(きえ)させることができるはずである。

同時に、こうした宗教的環境に苦しんでいる人々に対して、「なぜ苦しんでいるのか」という原因を教え、正しい心の在り方や生活の在り方についても導くことができるはずだ。

狐の祟りだの、蛇の祟りだの、先祖の祟りだのといって、祀らせてしまう信仰は、自分自身が万物の霊長である自覚を忘れているのである。

「臭い物には蓋をしろ」式の信仰から、脱出することが、私達の幸福を得る道といえる。

形式信仰に迷わされるに従って、生活も不安定になり、ますます安らぎを失って行く。

迷ってはならない。

阿片の中毒から、自分の心を救わなくてはならない。

已に強くなり、何ごとにもとらわれない大きな心を持って、人生に立ち向かう勇気を持つことが必要である。

不幸な現象については、自分自身と、その環境について良くその原因を探求し、苦悩のもとを除去し、より良い人生に進歩するための努力を失ってはならない。

大宇宙、大自然はその努力に対して、平和と安らぎの光を与えてくれる。

私達にです。

人間の心を盲目にして、祈ることによってご利益が得られる、と教えている宗教指導者達やスピ系の人たちは誤りを犯している。

大宇宙、大自然は、人類がこの現象界に肉体を持って魂の修行ができる環境の一切を、提供しているではないか。

太陽の熱光のエネルギーによって、植物、鉱物、動物相互の関係が生まれている。

この姿こそ、愛でなくて、慈悲でなくて何であろうか。

大自然によって生かされ、肉体的先祖代々に、子孫保存の本能を与え、私達は肉体を両親からただで戴いたはずである。

両親の慈悲であり、愛でなくて何であろうか。

元来は、天の慈悲と愛によって、魂が乗るための肉体が提供されたということです。

その肉体の運転手である私達自身の意識、すなわち魂の不注意で、不調和な現象が出たからといって、自分の心も行ないも正すことなく、祈ることによって救われると思っていることは大間違いである。

大自然の恵みに感謝して、生活するとともに、心から人々に対しての恩に報いる行為を実践してこそ、社会の調和が完成されて行くものでしょう。

私達は、病気、貧乏、家庭の不調和などの悩みに対して、その原因を追求することなく、結果だけを見て、己の都合、己の幸福、己の利益だけを祈願している人々が何と多いことであろうか。

神仏を始めとして、私達の守護、指導霊や、魂の兄弟達も、我田引水の祈願に対しては、協力されないことと知らなくてはならない。

神仏の働き、エネルギーは、偏りのない調和された法則によってすべてが定まっている。

私達が鏡を見るとき、私達の姿は実物と同じように映る。

実物が美しければ、映し絵もまた美しい。

私達の心の鏡も、全く同じように、あの世の天使達や、みなさんが言うところの神々に映るのである。

心の中は光の天使に対して、絶対にごまかしは通用しない。

私達の心が、已に嘘がいえないように、真実は真実以外にないということを悟るべきだ。

最善の努力をしている人々に対しては、必ず私達に関係の深いあの世の人々によって、常に協力がなされているということを忘れてはならない。

「自ら求める者に与えられる」ということを悟らなくてはならない。

求めるためには、正しい想念と行為が一致した、目的のための努力がなくてはいけないのである。

自己都合のために祈ることによって、救われるのではない。

そのときの心の状態が重要なのである。

家内安全、大漁、交通安全、五穀豊饒、安産といういろいろな祈願がある。

人々のためにも、心を正して祈ることは、守護霊や魂の兄弟達によって天に届き、慈悲が戴けることにもなろう。

与えられた慈悲に対しては、当然感謝の心を持って布施することが道であろう。

特に大漁祈願や五穀豊饒を祈る場合などは、生物の生命を取ることになるため、収穫物を無駄にしたり粗末にしたりしてはならない。

彼らは私達の血肉、骨となるのであるから、その身の供養という事実を忘れてはならなず、その生物に対して、感謝する心を持つことが当然であろう。

食事ができるのも、多くの生命が身を供養しているのであるから、神仏に感謝するとともに、万物に感謝することを忘れてはならない。

しかし多くの人々は、このような大宇宙、大自然の大慈悲に対して、心からの感謝を忘れている人々が多い。

祈願は自己保存の一方通行であってはならず、得られた慈悲に対しての、感謝の印としての施しを忘れてはならないのである。

報恩の行為は、人々の心を調和し、近隣愛を生んで行く。

自然に行い、それへのまた報いを考えてはいけない。

正しい施し、供養の意味がなくなってしまうからである。

また、仏教は本来一つであるにもかかわらず、いくつかの宗派に分裂して他の宗派を邪宗と決めつけ、心の、闘争と破壊の種を蒔いている不自然な思想もある。

仏教にもキリスト教にも、闘争と破壊の教えは存在していない。

もし闘争と破壊の道を正当化して教えている指導者がいるとしたならば、それは我流で、自分の都合で指導しているということを知らなくてはならない。

時代に応じた神理などは、存在していないのである。

神理は、新旧に関係なく、太陽が東から出て西へ沈むように、不変である。

それを知らず、人問が勝手に私利私欲の思想を造っているが、それは不遜の行為といわねばならない。

仏教の哲学化も、このような人々の独りよがりの産物によって造り出されてしまったものである。

化石化した宗教を、自己流に解釈して、あたかも正しい法のように手直しし、神理を悟っていない指導者によって題目闘争を教えられ、人々を格闘の世界に追いこんでいる例がある。

ある信者はまた難しい哲学的用語を使って自己慢心し、用語も分からない人々に相対しても仏教哲学を学んだ仏弟子のごとく、高圧的に振まって折伏行為をし、要求をする。

こうした連中の心は、慈悲も忘れさった阿修羅界、地獄に通じているものである。

このような不調和な行為を、神仏の名を借りて人間の心を狂わしてしまう指導者の心は、安らぎを失い、地獄の生活に追いやられるであろう。

その罪を、反省しない限り天上界に行くことはできず、地獄できびしい反省を、自らの仏性によって矯正されることを悟らなくてはならない。

神仏は教団のためにあるのではなく、金儲けのために利用されるものでもない。

眼に見えないものを利用し、人の心も分からない連中が自分のご都合主義で判断し、組織のために人々を利用しているだけなのである。

その罪は、生きながらにして償わなくてはならなくなることを、思い知らされるであろうことは明白である。

罰が当たる。

功徳がなくなる。

と教えられている信者は自らが救わなくてはならないが、自己保存欲の強い狂信者は、それを信じている。

しかし彼らは、自ら造った不調和な想念によって、ますます心の安らぎを失って行く。

勤行に対しても、心の中では抵抗を持ちながら、お勤めを休むことを怖れている。

それは、自己保存の強い信者ほど、罰が恐いからである。

彼らにも両親があったであろう。両親は、子供の幸福のために、丈夫で正しく成長し、立派な人間になるように指導したはずである。

神仏も、盲目同然の人生の修行に出ている人類に対して、なぜ罰を当てよう。

罰は、自分自身の不調和な生活によって、自身が造り出していることを、そして、罰を恐れる不安や恐怖心が現実のこととなって創造されることを私達は忘れてはならないのである。

可愛い自分の子供を、なぜ親が不幸にさせようか。

私達の親、神仏は、慈悲と愛の塊りであることを、忘れてはならない。

親の注意を聞かないで、自由勝手な行動をして、自ら苦悩の人生を渡っているのが、人間なのである。

しかしまた親の自分勝手な価値観によって子供に押し付けて子供をつぶす親もいる。

そういう中から、いろいろな疑問が生まれ、その疑問が解決されてくれば、正しい大自然の法則にに達して行くのである。

心の窓が徐々に開かれて行くに従って、生きる喜び、人生の意義を悟るようになって行くことができる道こそ、正道であろう。

万象万物、大自然界が、神理を教えてくれることを悟るからである。

それを知らないで、罰を恐れ、自分の心に足枷(あしかせ)をはめて、心の自由を失ってしまった教えは、神理ではないということを、悟らなくてはならないでしょう。

心から道を求めている人々に対して、このような不自然な指導をしている指導者は、偽善者といわざるを得ない。

信者達にお布施を供養させるために「供養した人々は、その何倍、何十倍にもなって幸せがかえってくる」といって、強欲な人々の心をかき立て、莫大な布施供養をさせた。

その結果、強欲な信者も仏教哲学を学んだ仏弟子のごとく、高圧的に振まって折伏行為をする。

こうした連中の心は、慈悲も忘れさった阿修羅界、地獄に通じているものである。

このような不調和な行為を強い、神仏の名を借りて人間の心を狂わしてしまう指導者の心は、安らぎを失い、地獄の生活に追いやられるであろう。

だが、「灯台もと暗し」というように、教団や集団に属してしまうと自分の真の姿を見失ってしまうのも人間の弱さである。

第三者から見て、明らかに不自然であり、言動にも無理があり、生活自体も何かしら偏った生き方をしているのだが、入信した本人は教団が一番であり、教祖が一番である。

例えば、私が時々お茶屋さんに行ってお茶を買っていたときに、そのお茶屋さんはサービスの特典ということで住所、氏名、電話番号を所定の用紙に書くよう提示してきた。

私はお茶以外は特典など何も欲しくはないのだが、何の抵抗もなく要望に応じたのである。

しかし、時を経て選挙の時期になったら「◎◎党の○○さんに投票をお願いします。」と電話が鳴ったのである。

以来、選挙のたびに同様の電話が鳴るようになった。

私はハッキリと断った「私は、お宅のお店にお茶を買いに行ったのであって、選挙活動に参戦するために行ったのではありませんよ。今後はこのような電話はしないでください」と。以来、電話がこなくなったし、お茶を買いに行くこともなくなった。

このようなケースで迷惑を被っている事例は多いのである。

先に述べたように、宗教指導者は、阿修羅界という地獄にも通じるその罪を、反省しない限り霊界に行くことはできず、地獄できびしい反省を、自らの仏性に強制されることを悟らなくてはならない。

強欲な信者達は経済的に不調和を造り出し、自ら造った罰に当たった人の多いことを、私達は知っているはずだ。

夫婦別れをして家庭を破壊した者、事業を破産に至らしめた者、闘争に疲れて若死にした者、このような多くの犠牲者を手を差し伸べることが、先決ではないだろうか。

「人に尽くすは小善」といっている不調和な思想家達に、このようなことを説いても、通じないだろう。

しかし、人々の哀れな心に「足枷」をはめた、犠牲者によって造り出した浄財で、山中に金ぴかの建物を、莫大な金をかけて造っている。

彼らは、この地球が神仏の体の一部分であり、大神殿、大仏殿であることを知っているのだろうか。

その大仏殿の中に、貧しい人から集めた金で、また山中に小さな建物を造って、人間を救うことができると思っているならば、これはもはや人間の考えではない。

それによって利益を得ることのできるのは、建設会社と幹部だけではないだろうか。

時代錯誤もはなはだしいことを痛感する。

生きている人間を救うことこそ、大善であることを、思い知らされるときがくるであろう。

それは、最高責任者達に悪しき現象となって現われることになっているからである。

人間の力でどのように工作しても、その罪の償いはさせられるのだ。

ヒットラーにしても、スターリンにしても、無間地獄に陥ちているだろう。

人間の心を狂わしてしまった指導者に対しては、数十年ではなく、数百年もしくは数千年という特にきびしい苦難の現象があの世の地獄界において現われてくるであろう。

この世においては、肉体的に、頭が割れそうに痛み、心に安らぎはなく、自分の自由意志はなくなり、不調和な幹部によって突き上げられ、ロボットになっていく。

そのうちに身体はしびれるようになる。しかしそれでも自己保存の心は捨て切れず、「神仏を信仰しているのに、なぜこんなに調子が悪いのか」と自問自答する。

しかし心の窓が開かれていないから、「体の調子の悪いのは、信者の想念を受けているのだ」と自分に都合の良い解釈をして、自慰をしている。

またある宗教指導者は、経済力に物をいわせて、信者の上にあぐらをかき、堂々と悪いことをしている。

神の名のもとに、狂信者、盲信者を操って心を失わせ、罪を犯しているのである。

自分の肉体的不調和が慢性化して、心の安らぎを失い、私利私欲の権化と化し、組織の内部は権力闘争に悩まされている。

このような、心を失った宗教が乱立している社会を、末法の世というのである。

「民衆を惑わし、苦しみのなかに落し、自らが欲望の渦中にあり、神仏を冒涜している指導者には、心の平和、安らぎは与えられないのがあの世の掟である」ということを悟るべきである。

神理は、人間が変えることはできないものであり、人間がつくることができないものであるということです。

病苦も含め、心の苦しみの生活は、地獄の生活であることを世の指導者達は良く悟り、人間としての在り方を、もう一度全面的に反省してみることが自分自身を救う可能性であること、ただ一つの道であることに気づかなくてはならないだろう。

人間の想念というものを信じない人でも、レーダーもラジオもテレビも、高層ビルも、宇宙船も、人間が作ったものだということは認められるだろう。

とすれば、人間の想念は、物を造り出す能力を持っている、ということも十分に分かるはずである。

不自然な信仰をしている指導者達は、自分の心にウソのない生活を実践することにより、現在の信仰の正否を自らの力で悟ることである。

きびしい心の抵抗を正しい法則の実践のために自ら破らなくてはならない。

そして、己の心を失わせた阿片を、自らの力で破棄し、ウソと偏りのない正道につくことがより自分の価値を高めることになることを知るべきである。

戦争もまた不調和な想念行為以外の何物でもない。

戦勝祈願などというものがあるが、勝負を争う場合、スポーツを除いて、そんな祈願は人がなすべき行為ではない。

神仏は常に中立であるからいずれにも加担などしないのである。

親が子供の喧嘩に対しては平等な判断をするように、片よった肩入れをしないのが両親の愛ではないだろうか。

親は子の争いを望まない。

まして、神は戦争など好むものではない。

シリア問題に関連してロシアや中国が関わり、アメリカや他の諸国が関わってくる国際問題。戦争は、絶対に人間のなすべき行為ではない。

人間の肉体を破壊するばかりでなく、他人にも同じみじめな思いをさせ、罪なき人々の心に不安を与える。

戦争は、人間最大の犯罪である。

その指導者、戦争を喜ぶ者は、生ける地獄の阿修羅であり、その償いは、肉体が破壊されても地獄界で戦争をしなければならない。

国家権力による命令によって戦争に巻きこまれても、良心を持つものは否定する。

権力と争えない立場の人間であるとしても、常に正しい自分自身の心に問うて、正道に適った行動を実践することである。

聖戦などという戦争は存在しない。

争いは、理由のいかんにかかわらず、五分と五分、人間は、万物の霊長として、その自覚をし、戦争など絶対にしないようにすべきである。

闘争は闘争を生み、尽きることがない。

調和への勇気は、忍耐と努力によって、いつの日か平和な社会を完成させてゆくのである。

どのような環境にあっても、自ら一人一人の努力によって、己の心を開くことである。

その喜びは大きい。

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逆境で咲く心の花

蓮華草試練のなかで感動

エンジンの回転がスムーズでないと車は機能しない。6年前の4月に私が倒れた時の原因は、過労による心臓の異常頻脈だった。

病気という病気は一切見つからなかったが、歩くことができないほど心臓が疲れ切って息切れしていた。

5月に入っても立って歩けば動悸するから四つん這いになって庭を歩いていたのだが、ふと目の前に蓮華草が咲き始めていたことに気づいた。鮮やかなピンク色の綺麗な花が強烈に目に入ってきた。

これまでは特段、意識することはないのに、この時は花、自らが眼に入ってきたように強烈に感じた。

私が見向きもしなくても蓮華草は咲いていたであろうに、四つん這いになって手足で歩くことで、初めてその静かに咲いている偉大な存在に気づいたのである。

そして思わず上に眼をやるとしだれ桜の花が咲き始めていたのだった。体調が良くないことで上を向くことを忘れていたのである。

謙虚さも忘れ、足もとで咲いている花にさえ眼をやる余裕がなかったことに改めて気づかされた。

以来、毎朝、庭の花を見ることが楽しみとなった。

あるがままの姿を観、それに同調するとき、心は風を感じ、空気の匂いを感じ、緑の鮮やかさを体いっぱいに吸い込むことができる。

起床して、ブログを投稿して、日課のウオーキングを済ませ、いっとき、庭に咲く花に目をやるとき、一輪の花にも広大で深遠な風景が広がっていることを実感することができる。

ささやかな至福の時間である。

どんな場所でも幸せはある

自分の置かれた環境、職場、家庭に対し不平不満を持ち、他人の出方で幸せになったり、不幸になったりするようでは、私達は環境の奴隷でしかない。

「人に生まれること難し」というが、人間として生れたことは、自らが望んでこの世に出生できたのであるが、そのこと自体たいへん尊いことなのです。

私達は、どんな所に身を置いても、そこの環境下で、そこの主人となり、自分の花を咲かせなくてはなりません。

それは「自分が変わる」ことのみによって可能となるものです。

自分の花を咲かせるということは、「仕方がない」と諦(あきら)めることではありません。

それは、自分が笑顔で幸せに生き、家族や周囲の人々も幸せにすることによって、自分がここに生れ、ここにいて良かった、有り難い、と証明することなのです。

自分がいる場所、置かれた環境で心の花を咲かせる、これはすべての人々に必要な、生きるための心得ではないだろうか。

進学しても思うようにいかないこと、就職しても困難にあえぐこと、結婚しても、子育てをしても「こんなはずじゃなかった」と思うことが色々と出てくるでしょう。

そんな時にも、その環境下で勇気をもって努力してほしいものです。

しかし、どうしても心に花を咲かせることができない時があるでしょう。

そんなときは、無理に咲かせなくていいのです。

その代わりに、心の根を下へと降ろして張るのです。

根を下へ降ろすということは、心に偏ったところが無いかを点検することです。

どのような出来事に対しても偏った思考をすれば根を張ることができません。

根を張ることができなければ、水分、養分を吸い上げることができないのです。

養分を吸い上げることができなければ、綺麗な花を咲かせることができないでしょう。

根を張ることは、次のチャンスに、より大きく花を咲かせるための準備なのです。

今、自分が置かれた立場、環境が、理不尽、不条理な仕打ち、憎しみの的、信じていた人の裏切り、年をとって片隅に追いやられている人もいるかも知れません。

こういった厳しいものであるならば、私たちは、より大きな花を咲かせ、その花をもって天に帰ることができるでしょう。

私たちに与えられた多くの試練を有り難く両手を広げていただき、自分しか作れないオリジナルな心の花束にして、笑顔で天に持ち帰りたいものです。

自分の偏りのない心を、真の神性仏性と信じて、人々と調和して生きること、これこそが真の信仰だといえるでしょう。

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見える命・見えない命

供養

 人の命はみなつながっている

社会の仕組みを見ると、漁業で使う網のようにもみえます。

人間は、一つひとつの網の目であり、そうした多くの網の目が集まって大きな網ができあがっている。

しかし、網の目が集まれば即、網になるというものでもなく、一つの網の目が歪むと全体が歪む。それぞれの網の目はみなつながっているからです。

人間社会も、個と個が互いに結ばれ、交流し合って初めて成り立つものです。

こうしてみると、大自然界における命の法則は、この世と、後世はつながっており、人は亡くなっても魂として生きています。

だからこそ供養ということが行われているのでしょう。

いま、「無縁社会」という言葉がよく使われますが、人は無縁でなど生きられるはずがない。このことをまずしっかりと認識しなければなりません。

例えば、三陸沿岸の震災を通じて、命というのはこんなにも重たく、尊く、かけがえのないものだとあらためて強く感じた人は多いのではないでしょうか。

そしてその命はみんなつながっているのです。

命には「見える命」と「見えない命」があります。

見える命とは生物的生命で、とても尊厳なものです。

一方、見えない命とは神や仏という宗教的言葉でいえば宇宙的生命のこと、つまりわれわれを支えてくれている物の奥に潜むエネルギーです。

見える命、見えない命のそうした無量の見えない力に支えられているのです。

そのように考えると、すべての命に感謝しながら、心豊かに暮らしていきたいものです。

供養・家庭の和合

供養というと、昔から仏とか、先祖の霊に物を供えることのように思われているが、本当はこれでは供養にならない。

供養の意義は「先祖の霊よ安かれ」とする子孫の祈り心でなければならないからです。

物を上げ、それで″よし″とする考えほど安易なものはない。

私たちが現在こうして肉体を持って生きていられること自体、それぞれの先祖が私たちを生み育ててくれたからであり、それに対する感謝の心は、報恩となって形の上に現われてこなければ意味がありません。

死者の霊にもこの世にいたときと同じように、日常的な普通の言葉で、人間としての正しいあり方を語って聞かせることが最も大事であり有効な内容となるのです。

その為にも地上で生きる私たちが偏りのない、執着しない生活をしなくてはいけない。

地上の人間が不調和な生き方をしていながら故人や先祖の供養というのもおかしな話しだと思わないだろうか。

人を諭すということは、先ず、自分自身が中道に沿った偏りのない生活をしていなければならないでしょう。

夫は妻に対し不満と愚痴と怒りをぶつけ、妻も夫に対し同じことを思い夫婦がバトルの生活をしていて先祖供養などできようはずがありません。

故人や先祖にしてみれば、『私たちを供養する気持ちがあるなら、あなたたちがもっとしっかり仲良く執着しないで愛も慈しみも実践した生活をしなさい。』ということになるのです。

自分の日頃が、足ることも忘れ、不満を持ち、愚痴を言い、怒りをもって生活していながら、故人や先祖に対しては成仏してください、安らかに眠ってください、自分が意味の解らないお経を唱えて供養のつもりでいる形式的なことに囚われている子孫をみるあの世の縁者や先祖たちは、滑稽(こっけい)な光景に苦笑することだろう。

自分が、故人や先祖の立場に立ってみたら簡単にわかる物事の道理ではないだろうか。

供養の真意はそれゆえに、先ずは、家庭の和合、調和にあるといえるのです。

人間の霊魂は、死という肉体機能の停止によって、あの世で生活をはじめます。

世間の人は、肉体が灰となれば人の魂まで無に帰すと思っていますが、それは間違いです。葬儀の席上で故人に対して弔辞を述べるときに「安らかに眠ってください」というのですが、死者は眠ってなどいません。

人間の予知能力や、天才児に出現、霊の存在については、その例は枚挙にいとまがないし、こうした諸現象は人間である以上、多少の差はあっても誰しも備わっています。

こうした諸現象は、すべてこの世の人の心と、あの世の霊とが作用しておこるものです。魂の永遠不滅と、転生輪廻ということも単に人間の願望としてではなく、事実として存在するのです。

あの世は三次元ではなく、四次元以上、多次元の世界であり、それだけに、普通はある人には認知できても、ある人には全然わからぬということもあり得ますが、だからといって否定できるものではありません。

法事で物を供えることは、本来、気安めにすぎませんがヽ死ねば無になると思いながらも、物を供えるその心を確かめたことがあるでしょうか。

家庭の和合、調和が先祖への最大の供養という意味は、あの世に帰った先祖の霊が、その子孫の家庭をたえず見守っており、もしも先祖の霊が地獄に堕ちて自分を失っていたとしても、子孫の調和ある家庭をながめることにより、己自身の不調和を改め、その霊をして昇天させる原動力となるからであります。

子の幸せを思わぬ親はないはずです。しかも、その子が親より立派であり、家庭が円満に調和されていれば、親は子に励まされ、その子に恥ない自分になろうとするのは人情ではないでしょうか。

あの世もこの世も、人の心に少しも変わりはないのです。

もちろん、なかには例外がありましょう。地獄に堕ちれば文字通り苦界にあえぎます。

類は類をもって集まるの喩(たとえ)で、その霊は自分と同じ思想、考えを持った人に助けを求め、いわゆる、憑依作用となって人の体、実際には意識に憑いてしまいます。

すると憑かれたその人は、心が乱れたり、精神的疾患になったり、病気をしたり、最悪は自殺するということになってしまいます。

地上が調和されると、あの世の地獄も調和されるための光となります。

あの世とこの世は、いわば相関関係にあって、個々別々に独立して存在するものではありません。

先祖の供養というものは、このように、まず個々の家庭が調和されることであり、調和こそ最大の供養ということを知って頂きたいと思います。

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人間らしく

友人「神のご宣託」などという言葉を聞くが、その実態は神の言葉ではなく、その人自身の人格、霊性の高低の違いから発する言葉であり、あるいは人霊の言葉であったり、邪悪な霊の言葉であることはあっても、神が直接、地上の人間に言葉や意思を伝えることはない。

神がこう言っている・・・・・。と話す人間に限って、その本人の行動はとなると、まるっきり、ハチャメチャで物欲、金銭欲は人一倍強く、深酒で酒癖は、はなはだ目を覆う言動にあきれ果てた人物がいた。

霊界の仕組みとして、地上の人間には守護霊や指導霊が協力することはあっても、神が直接つくことはないし、そういう仕組みにはなっていない。

そのような事情から、人間は人間であって、しょせん、神になることはできないのです。

そして、神とやり取りしていると思っているのは、実は、神ではなく守護霊、もしくは指導霊、あるいは高級霊とのやり取りであって、心不調和な人の場合は邪悪な霊である場合が100%だと思ってよく、決して神と直接コンタクトできるのではない。

なぜかというと、この地上では何人といえども、己の心を練磨するという修行の第一目的を外すわけにはゆかないからです。

全てが大宇宙、大自然の法則にしたがって循環するように、そして、転生輪廻が永遠に続くように、この地上の修行も、また永遠に続いてゆくものです。

これでよい、これで完成したという行き止まりはない。

医学の進歩、科学の発展は、人工心臓や宇宙船をつくり、百年前の人知では想像も及ばないような進展をみせています。

しかし医学の進歩は、反面において必要以上に薬を多用したことによって、かえって副作用が肉体に負担を強いて新たな病態をつくっています。

薬の多用による新しい病気と医学は、いわば追いつ追われつつで進んでいるのです。

科学の発展によってつくりだされた原子力や宇宙船は人類に新たな希望を与えたでしょうか、逆に人類絶滅という不安感をも同時に与えています。

このように科学ひとつとっても、これでよい、これで終りであるという到達地点はない。

同様にして、人間の魂も、時々刻々、より以上の完成をめざして進んでいるのです。

こういう意味からも、肉体人間が神仏になる、ということはあり得ないのです。

そこで人間は、まず人間らしく、生きてゆくことが大事でありましょう。

人間らしく生きるとはどういうことかといえば、人間として、生きることの目的をはっきりと自覚し、その自覚にもとづいて思惟(しい・深く考える)し、行為することではないだろうか。

中道の心、即ち、偏りのない心を忘れないということです。

反省ばかりしているとかえって心は狭くなります。

さりとて、反省を怠ると自我に流されます。

そこで、働くときは働く。

体を休めるときには休むことです。

ときには家族総出で旅行し、自然と語るのもよいでしょう。

芝居見物も楽しいでしょう。

音楽を聴くことも情操を高めます。

こうした中からでも数限りなく教えられるものです。

やむを得ない事情とはいえ、夜遅くまで、仕事、仕事で追いまくられ、追いまわしていると、やがて丸く大きな心までいびつにしてしまわぬとも限りません。

また、社会生活から遠ざかり、山にはいって滝行や禅定三昧、にも問題があります。

正しい生き方の基準を知って生活に実践している者が、肉体的鍛錬を目的とするなら悪くはないでしょう。

しかし、心の実態を知らず、正しい生き方の実践することを怠っている自我の強い人が、こうした力を求めて霊的な行をすると、心に隙ができ、非常に危険であるということです。

反対に、人間は神様ではない、やりたいことをした方が楽しいし、得だと考えるのも真の人生の目的を見失ってしまいます。

大事なことは、人間がなぜ生まれ、どんな目的で何をなすべきかをはっきりと自覚し、その目的に沿った想念と行為をなしてゆくことでしょう。

体を休める、音楽を聴く、旅に出る、芝居を観る、アウトドアを楽しむもよし、子供だちと語る、そうした時間のない人生は砂漠をゆく旅人に等しく、人間らしいふくらみ、安らぎから遠ざかるものでもある。

こうした機会は、人間の目的から少しも離れぬばかりか、むしろその目的を、いっそう叶えさせる原動力となるでしょう。

日常の生活はやることがたくさんあって忙しいのに、信仰を持ったがための義務感や罪悪感から貴重な時間をさいて読経をしなければならない生活は、形だけの信仰生活といえるだろう。

に安息を得る方法は、いわゆる修行ばかりでもなく、精進ばかりでもない。

普段の生活を偏りのないものにするならばそれで十分人間らしい生き方といえるのだ。

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