転生輪廻

秋明菊循環の科学

庭には秋名菊の花が咲き始めた。

毎年この時期になると純白の花やピンクの花など色鮮やかな秋名菊が心を和ませてくれる。

生命の神秘は謎に包まれている部分が多く、それらを科学的な根拠で説明できる範囲は非常に限られたものでしかない。

この地上で生命体として存在する動物、植物、はじめ無数の限りない命が循環を繰り返していることは誰もが理解できる事実です。

ただ、その循環の詳細について説明できる科学的範囲は限られている。

輪廻すなわち循環とは、この世に生を受けたものが、土に還り、種子や、その精(意識)は、またあの世に帰ることをいいます。

これを化学的な言葉でいうならば循環している状態といえるでしょう。

循環は、種子が土に埋もれ翌年に芽を出すまで越冬するように、あの世に帰った霊(意識・魂)は、一定の期間と心の修養を経て再びこの地上に生まれる、というふうにそのくり返しを続けることです。

人間にはこの循環である転生輪廻の過程を通して、二つの目的がある。

その一つは、己自身の魂の調和と向上、即ち魂のステージアップであり。

もう一つは、地上に争いのない楽園(ユートピア)を造ること、それである。

私は相談者によく尋ねるのだが、『あなたは何のために生きていますか?』と。

個人の視点からすれば、『幸せになるため』、『成功するため』、『夢を実現するため』と言うのですが、地上の人類という全体視点からすれば先に述べたようなことになる。

『人は幸せになる為に生れてくる』とは言いますが、実際は『幸せ』、『不幸せ』というものは、とても抽象的であり、その人の境涯によっても違い、価値観によってもちがうものです。
同じ環境にいながら、一人は『不幸』だと言い、一人は『感謝してる』、『幸せよ』、という。この違いは本人の受け止め方の違いによるものだということです。
幸、不幸は、魂を向上させるための人生の過程において生じてくる生活要素であり、暮らしの一コマにすぎない。
人間はこのような『幸せになるため』という表面的な言葉のためにだけこの地上に輪廻してくるのではありません。
あくまでもその奥にある魂の向上が人類の生きる目的なのである。
一人一人は個の生命体ではあっても、地上生命体という視点でみるならば共同生命体ということがわかるだろうし、相互扶助の精神なくして人間は生きられず、ましてユートピアの建設はできない。

転生輪廻は個人的価値観の小さな目的だけではなく、人類共通の大義の基に繰り返されているということを知らなければならないだろう。

それが魂の向上でありユートピアの実現である。

そのような意味から、この地球上に降り立った人類は、きびしい環境、すなわち荒廃した地上に、万生万物の調和を目的とした理想郷建設に努めてきた。

しかし、業想念にとらわれ、肉体の五官六根にふり回されているときの人間は、邪悪な者たちと関わり、またあの世の邪悪な者たちに翻弄されてしまい、その時の人間は、やはり獰猛(どうもう)で陰湿な傾向にある。

人類は、子孫が子孫を生み、地上の生活に溺れたり、慣れるに従って、地上的価値観が蔓延してあの世を忘れるようになり、種族優先、自己保存の想念が強く、その心をエゴが支配するようになって行き、そのため、平和な地上は争いの巷と化してきたのだった。

今現在でも、世界の各地でテロや内紛や戦争が行われていることがそれである。

過去においても種族は、領土問題や境界問題など、他の種族と感情的にもつれ、闘争を生んで行き、やがて、力の強い者が戦争、略奪に勝ち、支配者と被支配者の関係が生まれ、独裁者が命令をかけるようになっていったのである。

したがって地上からあの世に去る者達のなかには、人生での目的を忘れ、不調和な暗い想念を自らの心に造り、地獄界に堕ちて行く者が多くなって行った。

宇宙の意識である唯一なる存在は、本来、地獄というものを創ってはいないのですが、地上の生活を縁として、人々による一切の執着心が霊囲気を曇らせてしまったため、地獄界が出現してしまったのである。

地獄界は地上に生きた人間の業がつくった結果だといえよう。

このようにして、文明が栄えるに従って、幾度か人類は心を失い、暗い想念で自らの心を曇らせ、光をさえぎり、人類滅亡の危機にさらされてきたのである

地上人間の悪しき業想念は、結果的には地球を取り囲む気象さえも悪影響を及ぼすことになる。

そして、転生輪廻で造り出してきた悪い性格、不調和な業を修正しなくてはならない。

一人一人が、万物の霊長として、己の内に内在する神性仏性を自覚し、この地上界の動物、植物、鉱物をして地上の調和に役立たせるように生活をしなくてはならないのだ。

進化論

今一度、進化論についてふれてみよう。

人間はアミーバーからできたという説がある。

そうかと思うと、人間の祖先は猿であるとか、北京原人、南方諸島で発掘された頭蓋骨をみて、人間の進化の過程が想像されるとさえいっている。

アミーバー説についていうと、アミーバーそのものは、いったいどうしてつくられたかである。

アミーバーをつくるにはアミーバーの元がなければならない。

水素やヘリウムなど、百種あまりの元素について、では何故に、元素は存在するかという点になると、今日の科学は説明できない。

今日の自然科学は、一つの壁にぶつかっている。

その壁とは物質の元である原子、素粒子についての状態は説明できても、その状態を生み出しているところのエネルギーそのものがわからないからである。

心ある科学者は、そのエネルギーについて、それは神の力であるといっている。

原子は光の粒子で構成され、光の粒子は霊子というものからつくられている。

といってもこれは客観的にはまだ証明できない。

ここで北京原人や古代人について、考えてみよう。

もしも、人間が猿の進化物とするなら、今現在も進化途上の類人猿がいても不思議ではないはず。

しかし人間に進化している途上の類人猿は、現在いない。

北京原人や、南方諸島の原始人の頭蓋骨の大部分は人間とは異なる類人猿のものである。

人間の頭蓋骨、骨格は、今も昔もかわらない。

百万年前も、今も大差はない。大差ないという証明は、すでに科学によってなされているし、将来は猿の進化物でないことがいっそう明らかになっていくであろう。

また、もし進化論で片づけられるなら、現実に、猿から人間に変わる過程の人間がいても、少しもおかしくないと思う。

多くの場合、文明文化の進化の過程をとらえて、人類にも進化の過程があるとみているようである。

考えようによっては、そうみえてもしかたがない。

では、今から四千年前のエジプトの文明やインカの文明をどう説明するかである。

インカの場合、ネコ科動物をモチーフとした像や力強い土器、金、銀、銅などの装身具、雄大な石造神殿、大規模なかんがい工事や、ひな壇畑の造成、これらの技術、経済の発展は地方的とはいえ、現代でも十分通用し得るものである。

現代でも、そのナゾが解けぬという千三百メートルにわたるサクサワマンの防壁、接着剤を使わずに、巨大な石を組み合わせた石積みは、今日なお、びくともしていない。

石と石の接着部分は、あの薄いカミソリの刃さえも入らないほど密着し、何千年を経た今日でも、ビクともしないというのである。

当時の技術が、いかに進歩していたかが分る。

エジプト文化にしても、そうである。

とりわけ絵画については、日常生活のあらゆる情景が生き生きと描かれ、数千年のへだたりを忘れさせる新鮮な魅力に満ちあふれている。

当時のエジプト人は、精神的に、すぐれていたといえよう。

まず、人間には来世かあり、そうして、再び、現世に舞い戻ってくることを知っていた。

このため、あの巨大なピラミッドは、人間が死して、現世に舞い戻った時に、それを使ってエジプト文明を、より栄えさせるために、必要な財宝、資料を保存させるために、つくったものであり、墓場ではなく神殿の意図がある。

今から四千年以上も経つ、ギゼーのクフ王のピラミッドは、底辺の一辺が230メートル、高さ百146・5メートルもある。石灰石の重さは平均2・5トン。個数にして230万個に及ぶ。

2・5トンもある切り石を、百メートルを越す高さに運びあげた方法は、今でも不明であるといわれるぐらい、当時の技術は進歩していたといえよう。

クフ王のピラミッドは一説では20年といわれるが、本当は35年を要しているという説がある。

石灰石は、主として、地中海沿岸、それもヨーロで、大陸側から船で運んだものもかなりあったようである。

それほど、当時の海洋技術も発達していたし、建築、土木、絵画、彫刻にしても、インカ文化とならんで進んでいた。

こうみてくると、人類の歴史は、古い、新しいだけでは律しきれないものである。

いわんや、現代人の生活をみて、過去の人類は猿とか、アミーバーだったという進化論は、性急にすぎるといえよう。

生命というものは過去世、現世、来世の三世にわたって、永久に不変なのである。

太陽の周囲を地球が円運動を描くのも、人間がこの世を終えればあの世の生活が待っているのも、ともに生命の流れ、運動というものがあるからである。

停止は死を意味するが、死は生命体には与えられていない。

宇宙が永遠の活動をやめないように、人間の生命エネルギーも止むことを知らないのである。

これは動物、植物にしても同じこと。ただ人間とちがうことは、彼等は選択の自由、創造の自由が与えられていないだけに、人間ほど苦楽を感じない。

それだけに進歩も遅くなるだけのことであろう。

苦楽の苦は、渦中の人間にとっては厳しい試練ではあるが、自分がこの地上に降りてきた使命を悟るならば、逆境こそが学びのチャンスであることに感謝できるようでなければならない。

我が心の師はいっている。

『この世は調和されるようにできており、人間の肉体も、精神も、天の意識と同じように造られているため、調和に反する行為があれば、それに比例する反作用として自らが苦悩するように人間の心は造られている』と。

蒔かぬ種は生えぬ、蒔いた種は刈りとること、これは宇宙自然の摂理であり、私たち人類の生き方にも言える法則といえる。

動物は本能と感情だけでいきているのだが、人間だけは創造する能力を備わっている。

知識智慧理性という心の働きは人間だけのものである。

しかし、人間はこの知識、智慧、理性のバランスを崩した時に苦しんだり、悲しんだりすることを知っておかなければならない。

個人的悩み、相手があっての悩み、さまざまな悩みを抱えてくる相談者は必ず精神のバランスを崩してくるのだが、その背景には過去、現在、未来への拘り、不必要な執着、不安、恐怖というものが控えている。

人間から物を創造する能力を抜き取ってしまえば、こうした我執も生じてこないだろうし、植物や動物とあまりかわりません。

本能感情だけの世界で暮らすなら文明も文化もつくられないだろうし、反対に苦しみもズッと少なくなり、喜びさえも知ることはないだろう。

人間は限りない転生輪廻のなかで、いつも心の向上を目的に地上に降りてくることを忘れてはならないのです。

その為のプロセスにおいて逆境や試練に心を見失い大きな目的を忘れてはいけない。

俗に、人間の魂が昇華し仏(悟る)になると、もはやその魂は二度と再び地上に生を宿すことがないといわれていますが、そういうことはありません。

そのような説は、もともとヨガ、インドのバラモンがはしりといってよいでしょう。

仏教ではそのようなことはひと言もいっていないはずですし、仏教の中に、もしそのような説があるとすれば、それはインドから中国に渡った際に、ヨガ、バラモンの思想が仏教のなかに混入したためと考えてよいと思います。

バラモンは、この世にたいする人間の願いと、階級制度をまぜ合わせ、形のみを追い求めた結果、そのような空想を描いたものでしょう。

生命の循環である転生輪廻は大自然の法則に沿った摂理によって生かされているのです。

そして、人間の魂は、永遠に転生を輪廻し、その姿はとどまるところを知りません。

それはちょうど、太陽の周囲を、地球が自転公転しながら三百六十五日と四分の一の周期で、再び同じ軌道を回転し続けるように、生命の流れ、生命の運動というものは、常に円を描きながら進歩の過程をふんでゆくものなのです。

原子の姿も同じです。原子核と陰外電子の両者から成り立ち、原子核の周囲を陰外電子が猛烈なスピードで回転しています。

陰外電子が原子核の周囲を回転することによって、原子核の生命、陰外電子の生命が、たがいに相補いながら、生かし続けています。

我々人間の五体についても、同様のことがいえます。心臓という五体にとって必要欠くべからざる器官は、五体全体の生命活動を継続的に維持促進するため、昼夜の別なく働いています。

すなわち、その生命機能は、各諸器官が十分にその機能を果たすための、新しい血液を送り込んでいるのです。

送り出された血液は、各所を万遍なく通って、やがて再び心臓にまい戻り、酸素と栄養を含んだ新しい血液となって各所に散ってゆきます。

心臓を太陽とすれば、送り出された血液は、太陽の熱、光のエネルギーとみていいでしょう。

そのエネルギーが胃や腸、肝臓、肺臓という惑星に生命を与え、その生命活動を助けているのです。

同時に、胃腸や肝臓の働きが心臓の働きを促しています。

このように、各諳器官は、新しい血液の助けを借りて、それぞれの細胞集団の新陳代謝を行っており、その新陳代謝は、そのまま細胞の転生輪廻を意味しています。

人間の魂についても同様、この世の生活を終えればあの世で生活をします。

水の生命が、気体(雲)液体(水)固体(雪や氷)と三相に変化するように、人間の魂も前世、現世、来世の三世の循環をくりかえすものです。

生命というものは、すべてそのように循環という輪廻の過程を通るように仕組まれているのです。

この仕組みから外れるわけにはゆきません。

釈迦やイエスキリスト、あるいは悟りをひらいた多くの天使は、地上にふたたび、その生命を宿すことがないという俗説もありますが、生命の原則、生命の仕組みを理解するならば、そのような考えは改めなければなりません。

転生輪廻は、生あるものの命であるからです。

※きょうも最後までお読みくださいまして心から感謝もうしあげます。このブログを他の方にも読んでほしいと思われた方は下のバナーをポチッとクリックして頂ければ幸いです。
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