生きる『お世話様です』

被災地の現状はまだまだ手つかずの所がたくさんあり、先が見えず、この先、生きる希望を持てずに暗澹たる生活を余儀なくされている人々は多い。

そんな中、純真な幼子の姿に意を決して生きようとする人々もまた多いのではないだろうか。人は生きなければならない。

今回は、先日、書店の小冊子で目にした記事が私の心に強く響いたところがありましたので、その内容を紹介させていただきます。以下原文のまま。

出雲遥(いずもはるか仮名)大阪府寝屋川市・公務員48歳

その言葉は私の胸に静かに染みわたった。

東日本大震災の発生翌日から、遠隔地の警察官ながら宮城県石巻市へ派遣された私にとって、東北弁独特の言い回しで物悲しささえ残るその言葉は、その時の私が置かれた状況と相まって、時に強く訴えるものがあった。

ご遺体を安置所に運び込む

出発前、『一人でも多く被災者を助けるぞ!』と固く心に誓って現地入りした私たちの行く手に立ちふさがったのは、怪物のような瓦礫(がれき)の山と何十、何百という老若男女のご遺体だった。

バール一本で瓦礫(がれき)と格闘しながら海岸や家屋の中でご遺体を発見しては安置所に運び込む毎日を送ることになり、死因を特定する検死が終わるのを待って納棺し、線香と花を手向けて合掌する日が続いた。

そして必然的なことだが、ご遺体の数だけご遺族がおられた。現地ではあまりのご遺体の多さに葬儀業者も手が回らず、遺体が高齢者の場合で運べない時には私たちが車まで運んだ。

ドライアイスでの保存が効かなくなれば指定の場所に穴を掘り、仮埋葬して番号だけの墓標を立てるなど、初めて経験する任務となった。

派遣が終わり、元の職場に戻った時、その任務内容を聞いた同僚達は、『そんなことまで!何でそこまで!』と驚いた。

上層部に至っては『遺体に長く触れると感染症になるじゃないか!』という者までいた。

連日のように安置所で号泣される遺族の悲鳴を耳にし、あの悲惨で哀しみの極致に居合わせなかった者が言う資格はない。

しかし、私がどれほど言葉をつくしてみてもその哀しみは伝わらなかった。

私たちが現地で行ったことは任務ではない。人間としての使命感だったのだ。

そして、そんな時に必ず遺族の口から聞かれた言葉が『お世話様です』という言葉だった。

普段、私たちが耳にする『ご苦労様です』、『お疲れ様です』という儀礼的なものではなく、冒頭に記したように東北派遣中は至る所でこの『お世話様です』を聞いた。

この言葉を聞く度に私の胸は張り裂けそうな感覚が支配した。

きっと、最初に決意した『必ず被災者を助けるぞ!』という意気込みが現実の厳しさを前に挫折して諦観にも似た感情に移っていったからだろう。

大津波や地震で犠牲となられた方や遺族から私たちは『お世話様です』と言われる立場にあるのか、という思いがそこにはあった。

だがその中でも最も哀切極まる、私を支えてくれた『お世話様です』を言ってくれた人がいた。

魂を揺さぶった幼児の一言

あれは何体目に搬送したご遺体だっただろう。長い髪の若い女性だった。

津波に襲われたその女性は、衣服のポケットにあった診察券から身元が判明し、遺族であるご主人と幼稚園児の娘さんが安置所で対面された。

号泣されるご主人の横でただ寄り添い、佇(たたず)むことしかできない私だった。

パパの傍らで棺の中に横たわるママの顔を覗き込むお嬢ちゃんは、しきりにママに囁いた。

『ママ。ママ。起きて。帰ろう。ね?』そう無邪気な声で囁いた。ママは今すぐ起き上がるのでは、と思うほど綺麗な顔をしていた。

私にとって長い長いご遺体確認の時間が終わり、明日引き取りに来る二人を出口まで見送った時だった。

『お世話様です』とパパと手を繋いでいた手を離し、お嬢ちゃんは気をつけの姿勢となって、『おまわりさん。お世話様です』そう言ってペコリとお辞儀をしたのだ。

一瞬、その子の顔が家で待つ自分の娘の顔と重なった。

突然、ぐっと迫ってきた涙を堪え、私はしゃがみ込んで、お嬢ちゃんの頭に手を置いて撫でてあげた。そうしなければ、私はきっと耐えられなかっただろう。

『えらいね。こちらこそ。お世話様です』泣き笑いの顔だったけれど何とか言えた。

お嬢ちゃんは嬉しそうな顔をして私に向ってバイバイし、何度も振り返っては頭を下げられるとパパと一緒に帰って行った。

東北への長い派遣を終えて元の生活に戻った今、仕事先から帰る途中に夜空を見上げることが多くなった。

澄みきっていた星を見上げながら思う。あの子のママもあの星のどれかになって、あの子をずっと守り続けてほしい。

そして最後にこう呟く。『お世話様です』戦後に対比される災後という言葉までが生れた東日本大震災。

我が国未曾有の困難に際し、被災地で多くの犠牲者の死と残された遺族の生を間近で見て、歯を食いしばりながら野辺の送りに寄り添った。

そして固く誓った。この事実を語り継ぐことを。それがせめてもの手向けになるのだと信じて。

『お世話様です』私を支え、魂を揺さぶった言葉である。

 

職業的能力

『天才は努力』だといいますが、しかし、いくら努力しても上手にならない人もいます。

少し練習すると上手になるという人もいます。

例えば、同じ環境で同じ条件で門下生に整体の技術を教えます。

ある人はすぐに上達するが、ある人はなかなか飲みこみがよくなく上達が遅い。

しかし、長い目で見ていると上達が早かった人よりも遅かった人の方が技術的に上回っているときがあります。

このようなことがどうして起こるのか。それは、上達の早い人が陥りやすい『自分は上手だ一人前だ』という慢心(おごりたかぶること。自慢する心。)です。

上達の遅い人は本人がやる気がある限り上達したいがために努力を惜しみません。このひたむきな努力が上達の早い人を超えさせるのです。

生れつき手先の器用な人がいます。不器用な人もいます。

親が器用だから子供が器用だとは限らない。ではどうして生まれつき才能が違うのだろうか。

偉大なる名医がいた。どうしてその人はトップレベルの名実ともに有名な医師になれたのだろうか。

それはいつかの前世において人間の健康に非常に興味を持った。家族や親せきや近隣の人たちの病気に心を痛めた子供であって、健康と言うものに人一倍の関心をもったのでした。

それが長じて薬草の勉強をしたり、ケガの手当てを学んだりと、医学的なことまで興味を示し一生を終った。

そうした蓄積があってその次に生れた。すると成長するに従ってどの子よりも先に医学に興味を持ち始めた。

そのようなカルマが繰り返されて今世において偉大な名外科医となったのである。

一般的に判断すると一代で成功し、偉大なる政治家、芸術家、技術科、プロフェッショナルになれたように思うだろうが、実際はそうではない。

生れて来たその人生をどのように生きるか、生まれ変わりを繰り返す輪廻転生のなかで継続されてきた努力、精進の蓄積が結果となって現れ、その人の人生を決定するのである。

子供たちの習いごとでも、稽古を始めてすぐに上達する子は前世でもそのような稽古をしていたことが多いのです。

同じ先生に同じ時間だけ習っても上手にならなかった子は前世でそのような稽古をしたことがなく、今世ではじめて習ったのです。

ですから何でも急に、いっぺんに上手になり、成功するものではないのです。

人生において大事なのは努力であって、上達し成功することではない。

たとえ上達しなくても、成功はしなくても、その人が一つのことに、たゆまず努力を続けてゆくならば、それでその人の人生は成功したのである。

成功不成功は結果だけにあるのではない。従って、ただ単に結果だけによって評価し、採点することは人間を育てる観点から正しいありかたではないということです。

人々の誕生目的はさまざまで、勉強しようと思って生れてくる者もいれば、前世でたくさんの勉強をしたから、今世では勉強をせずに肉体労働をしようと思って生れてくる人もいるのである。

それを一律に高校に進学させて、大学に進学させて勉強をさせようとするから、勉強をせずに実地で行こうと思って生れてきた子供は勉強嫌いになったり、落ちこぼれたりするのです。

過去も現在も教育改革がおこなわれてはいますが、本来ならもっと早く高校に入学する段階で実地の就職希望する者と、大学で勉強を希望する者とをはっきりと分ける方が子供たちに方向性を見出させるためにはよいのです。

人間は何度も生まれ変わることによって、またいろいろな勉強し、職業に就くことによって、どういう生き方、考え方をするかによって、その人の人格、性格、才能は決まってゆくのですが、こういうことは進化論では全く説明ができない。

いろいろな面で成功した人を目標にすることはよいが、その人と現在の自分とを比較して、とても自分はそうなれないと思い、さじを投げ、劣等感をもってはならない。

その人が成功するには、それまで何世代もの努力があったからであって、現在の自分がそこまでならなくても、その人を羨ましがらずに自分なりに精いっぱい真面目に努力すればいいのである。

その努力がすぐに収入につながらなくても、努力するべきことは努力すべきなのです。

結果的にそれが後々に心の糧になり、実を結ぶことになるからです。

だから子供の教育もどれだけいい成績をとったかよりは、どれだけ努力したかを高く評価しなければいけないのである。

子供は成績より努力を評価してあげたほうが心豊かに育つ。

運命の修正法

主婦のYさんは、二度の結婚をしたが最初の結婚生活にも増して今の御主人対して不満と愚痴と怒りを充満させて暮らしている様子が『私が何を悪い事をしたというのよ。』という涙ながらの感情的、一方的な話し方からうかがえる。

例え私が、この奥さんに全面的に味方をしたとしても何の改善にも、進歩にもならないだろうと思った。

この方の話しを聴いている限りでは殆ど御主人に非があり問題があるように聞こえるのだが、実際のところはとなると大いに疑問がある。

私は御主人に会った。『奥様に穏やかに暮らして頂くために協力してやってください。』と話した。

御主人は『女房には驕るなよと話したことがある。』と言っていた。この一言で家庭生活が理解できた。

仕事は何でもできるし、そつなくなくこなす、物知りで人に教えたがる。目立ちたがる。この奥さんの弁舌巧みな話しぶりは相手を圧倒する勢いがある。

御主人の生き方にも原因はあるが、そんな女房の押し付ける物言いに呆れて酒びたりになり、夫婦で会話することをしないのだった。

人間は前世の業(カルマ)を反省し、修正できてから生れてくるのだが、その時点で地上生活のときの魂の汚れを3割程度まで解消して生れてくる。

しかし、再び地上生活をすると多くの人は業の上塗りをし、生まれたときは3割程度であった業を5割、7割と魂の汚れを増して還っていく人が多い。

それは肉体をもったこの地上生活が如何に眼、耳、鼻、舌、身、の五官に囚われやすいか、物や金や職業や地位や名声、偽善に翻弄されやすいかということです。

だが前世でつくった業が全部そのまま今世に生じてくるのではない。

人間は死んだ時、自分がどのようにして生きてきたかを反省させられる。

この反省によって運命の修正が行われ、地上で重ねた業が再び生まれたときに、その通りに現れるということはなくなるのです。

多くの罪は反省と調和によって消えるが、重大な問題は、もう一度同じ条件で、あるいは全く反対の条件で人生を再演した方がよいのではないのか否か、自分の魂がその可否を決定する。

すると前世の業を修正するための事件がこの地上で起こるということになるのである。

予期しない病気、不幸というもののなかには、それも自分が決めてきたものがあるのです。

それほどあの世での決心や計画はこの世で現象となり反映されてくる。

ですからどうしてそうなったかをよく反省して、それまでの心の在り方、行為の在り方を変えると運命が修正されて好転してくるのである。

正しい心の教えというものは、自分で自分の運命を修正する方法を説くものでなければならない。

だから他人の力に依存したり、『御利益がありますよ。』というようなふれ込みで誘う宗教の教えには決して入信するべきではない。

他力で救われることはないのです。『運命が良くなりますように。』と祈れば運命がよくなると安易に幸福になれるような説き方をする宗教団体もあります。

また『先祖供養すれば運勢がよくなりますよ。』と説く団体もある。かと思えば『寄付をたくさんしなさい。私がよくしてあげますよ。』という教祖も、街の拝み屋もいます。

また護摩供養すれば運命が良くなるという僧侶もいる。そんなところでいくら金を積んでも、言われたとおりにやってみても少しも運命が良くならない、かえって悪くなっていった。

財産を無くした。破たんした。という人がいっぱいいるのです。

手相、人相、易、生命判断、墓相などの運命判断は花盛りである。

これで運命が良くなるのなら人間は努力をする必要がなくなる。しかし、現実は違う。

原因と結果の法則

100%確実に運命を良くする方法がある。

それは性格を変えることである。

心が変わると運命が変わるという人がいますが、心を変えようとしてもどのように心を変えたらよいか分らない人は多いだろう。

しかし、そんなに難しく心を変えようと力む必要はない。

性格を変えるとは、気の小さい人は大きく、怒りやすい人はにこやかに、せかせかした人はのんびりと、いつも自分本位であった人は相手の立場を考えてものを言えばよいだけのこと。

いずれにしても執着するから自分の我を通すことになるのです。

このような性格を変えるテストをするのに一番良いのが家庭である。

家族に対しての思いやりから変えてみることです。すると職場やその他の人間関係もうまくゆくようになるし、結果的に運命が自然に変わっていくのです。

その運命を早く変えようと思う人は禅定瞑想を取り入れることをお奨めする。

詳しくお知りになりたい方は問い合わせください。

ここまで自分が変わるには他への依存ではなく自分自身の生き方にあることを述べてきました。

現在のあなたは、過去の輪廻転生の総決算であること。例え現状が不満足であろうとも、まぎれもなしにそれがあなたなのである。

運命を良くしようと思うならば、たとえ嫌だと思っている自分の人生であっても、先ずはそれを受け入れて、そのうえでどうするかを考えることです。

受け入れるべきことを否定すれば、その問題は生涯自分についてまわることになるだろう。逃避と否定からは何も生まれてこないからだ。

自分の現在の人生を嫌ったままで、嫌だから仕方がない、こうしようと思って逃避的な考えだと失敗に終わることになる。

我々は何人たりとも原因と結果の法則から逃れて生活をすることができないのです。

この自然の法則、宇宙の法則から逃げようとせずに、原因と結果の法則を上手にコントロールすることである。

 

結婚と女性の運命

お見合い結婚であろうが、恋愛結婚であろうが、うまくゆけば限りなく幸福になれるし、悪く行くと、これぐらい不幸なことはないというのが結婚でもある。

かつては一緒に仲睦まじく暮らした夫婦が憎しみをあらわにして、骨肉の争いをし、裁判をしたり、お互いが金銭の請求で決着をつけるということは悲劇としかいいようがなく、心に大きな傷を残すことになる。

要するに人生が幸であるか不幸であるかは、その二人の結婚による結びつきがどうであるかによって決定されるといっても過言ではない。

誰と結婚するか。実は過去世で全く無縁であった人と結婚することはない。過去世でも縁のあった人の中から、自分の魂を磨くのに最もふさわしい人を選ぶことになるのです。

つまりこの世の結婚は単なる偶然の出会いによる結婚ではなく、あの世において縁のあるもの同士が綿密な計画と、お互いの約束のもとに、生まれてくる機会をいただき、この世で巡り会うのである。

見えない赤い糸とは真にうまい表現をしたものです。

一例。その夫は既に結婚前から女性関係が絶えなかったが、それでも彼に心を惹かれて結婚に踏み切った妻がいた。その妻は過去世において、自分が不貞を働き夫に苦しみを与えていたのでした。

少しばかりの美貌を鼻にかけて、次から次へと男を替え、夫を泣かせた。

その業(カルマ)があって今世では夫に不貞を働かれることによって、前世で夫が味わった苦しみを今度は自分が体験しなければならなくなったのです。

この場合、男女平等、男女同権ということで、夫がそうするなら私もという態度では、ますます業(カルマ)を重ねるだけであるし悲劇となる。

夫がそうしても、なお夫を憎まず、その夫の心をどのように大きな愛で包んでゆくか、どうすることが自分の魂の向上になるかを考えて愛を尽くしてゆくと、次第に夫の心は和らぎ落ち着き、夫自身がそれを反省するようになってくるであろう。

夫に求めることが多い妻はいつも不満の気持があるし、妻に対して求めることが多い夫は何かにつけて不満の心を持っているものである。

しかし、夫婦がうまくゆくのは求めることより与える気持ち、思いやる気持ちが優先されたときにこそそうなるのです。

女の穏やかな、そして謙虚で優しい態度は、凍りつき悲しく荒れた男の心を静かに溶かしてゆくのです。男はそのような母性の愛に一番弱い帰巣本能をもつ生き物なのである。

人間は逆境や不幸だと思ったときに、この逆境や不幸の中からどのように魂(心)の勉強をしなければならないのかと、人生を真剣に考える道を選ぶのか、または神も仏もないといって神仏を怨んで自分の心の在り方を少しも反省することなく生きるのか、この二つのうちどちらを選ぶのかによって、その人の運命が分かれる。

人生にはいくつかの岐路があるものです。その時に右をゆくのか、左をゆくのかでその人の運命が大きく変わっていくことはよくあることです。まさに私の若い時がそうでした。

人生の岐路における二者択一の場合に、正しい選択をする方法は、目先の利益や主観的な自己都合だけで判断しないことが遠回りでも正しい道を選ぶことになるのです。

自分が下した判断をもう一度、客観的に検証することで正しい選択ができるものです。

正しい夫婦の愛は求めることにあるのではなく、愛することにのみある。

人生には 山あり 谷あり

作用すれば反作用もあるが故に、行動すれば反発もある。

思いもよらぬ波風もある。

しかし答のない問題は一つも無し。

自分を縁として起きてきた課題は

自分の配慮で解決できるもの。

これも原因あっての結果で

心の法則の一つ。

人は難題で磨かれる。

この世でやり残したことは

あの世でより遂げることになる。

この世は数十年だが

あの世は数百年から千年以上

そしてあなたは再び生まれてこれた。

 

幸福への前兆

一見、不幸と見えることが実は幸福への前兆
このブログを読んでくださっている方で、もし正しく心を調和して人生を一生懸命やっていたのに不幸になってしまった。

事業に失敗した。会社を辞めなければならなくなった。色々な事情で住居を変えなければならなくなった。

あるいは、何も暗い心を持ったり、人を憎んだりしたこともないのに病気になってしまった。というようなことが起こって来たとしたら、あなたはそれを喜ばなければならない。

何を突拍子もないことをと思われるでしょうが、それはそのことによってあなたの魂が飛躍的に向上しなければならない場に立たされているからです。

今までやっていたことが続けられなくなったということは、それはあなたがその事から魂の勉強しなければならなかったことの転換期でもあります。

もはや勉強し尽くしてしまったから、そこに居てもこれ以上、魂の向上にはならないから、今度は違った環境で魂の勉強をしなければならないというガイドからのメッセージで場合があるからです。

既にそこでの魂の勉強が終わって、今度は別な違った環境で勉強しなければならないという事になった人が、自分の担った人生や役目にも、一向にその事に気づかずに環境を変えようとしない場合、守護霊や指導霊が強制的にその人を病気にしたり、あるいは仕事を失敗させて、どうしても、嫌が応でも変えなければならないという状態にさせることがあります。

また逆もあります。自分の隠れた欲望やその時のやましい都合などによって環境や仕事を変えるべきではないときに変える、新たな展開をする時期ではないのにやってしまうことによって、家庭環境や他との人間関係に問題が発生したり、または自分の健康が不健康な状態になっていく場合があります。

このような時も背後で守護霊や指導霊が強制的に働き、動機の誤り、行動の誤りを気付かせるために様々な禍を発生させるケースもあります。

失敗や怪我や交通事故なども自分のこれまでの心の不調和が原因である場合が多い。

要は正しい判断をすることですが、ではどうしたら正しい判断ができるのだろうかということです。

それは、このような時は、これまでの自分の考え方や行動に主観的な価値観に偏った自分の欲望からの判断が無かったのか、自己中心的な判断ではなかったのか振り返って反省してみると原因がはっきりとしてきます。

一時的な感情だけで、よく思慮もせずにただ単に回避したり、無理に押し通したりすることは禁物です。

大事な局面ではいつも私心を持たず執着せず、自身の偏りのない良心に従って言い、行動することです。

※人生の生き方には二通りある。
一つは、地位、名誉、金銭、物質欲、色欲を中心にして魂を汚し腐らせてしまうか。

一つは、魂(心)を大事にして、そういうことに執着を持たないで生きるか。

前者の生き方はやさしいし無難な人生を送ることが出来るが、後者の生き方は自分の心を大事に生きようとしても周囲に金銭欲、物質欲に執着している人が多いだけに苦難な道を歩かなければならない。

しかし、最後の真の勝利は敢えて厳しい環境に負けずに生活する後者の生き方によって得られるのである。

だからもし皆さんが、偏りのない囚われない人間の魂(心)というものを信ずることによって、良くも悪くも生活に変化が起こって来たとしたら、それこそ魂を成長させるチャンスが来たと、逆境こそチャンスだと明るい心で迎えることで、やがては流れも定まり人間の真価が決まってくる。

正しい想いや行動をしようとすると周りや社会の抵抗にあうのも世の常である。

悟り(気づき)のない禁欲生活は難行苦行となる

2500有余年の昔の話です。お釈迦さまに、性的欲望について注意された弟子があった。

その弟子は一物があるから欲望が起こるのだと思ってその一物を斬ってしまった。

そのためにその弟子は死んでしまったのですが、欲望にあって肉体にはないのですから、心をないがしろにして肉体だけを苦しめてみても、それで欲望がなくなることはない。

この簡単な原理にどうして気づけなかったのか、昔の人達は欲望の源は肉体にあると考えた。

だから、煩悩執着をなくせよ、といわれると肉体の力を弱くすればいいと考えて断食滝行などの荒行をするようになったのである。

また心の調和を実践しない者が霊的な能力を求めて滝行や断食行その他の荒行などを行うことは衰弱している体にとって非常に魔(地獄霊、動物霊)が入りやすいからとても危険なことなのです。

それで発狂や廃人になって死んでいった行者が昔はたくさんいたのである。

しかし、肉体をいくら苦しめてみても心が悟らなければ煩悩執着はなくならない。

実際に荒行で宇宙即我の境地までに悟った方は過去にいないのです。

お釈迦様は荒行を捨てて心の調和を行うことで悟られたのである。

昔、比叡山麓(ひえいざん)や高野山麓(こうやさん)に遊郭(ゆうかく)があったのは、難行苦行をしても性的欲望をなくすることの出来なかった僧侶達がストレスにまで高まった性的欲望を解放し発散するための場所であったことはご存じない方が多いのではないだろうか。

霊的観点からすれば高僧達によって代々守られてきた神聖な修業の道場であると見られてきた比叡山や高野山も、裏側から見れば欲望は肉体にあると思って悪戦苦闘の揚句に欲望を遊郭で吐き出すような俗人以下の心を持ったままで死んでいった数えきれぬ程の僧達の死屍(しかばね)累々とした山だといえる。

ですから霊場というのは実際のところ、この上なく危険な霊域であり世間で思うほど神聖な場所では決してないのです。

神道の「精進落し」と「直会」
日本の神社神道はまた不思議なしきたりを持っている。お祭りがある前になると祭主や祭人達は一ヶ月位、精進潔斎(しょうじんけっさいといって神に仕える為、飲食物をつつしみ身を清めること)するが、お祭が終わったとたんに「精進落し」すなわち「直会」(なおらい)をやって俗人に帰るということをやる。

お祭の間だけ「神人合一」になるとはいうが、後は俗人として生活すると言うわけです。

ここまで書けば、何故伊勢神宮のとこに遊郭があったかおわかりでしょう。

平安末期から鎌倉時代にかけて伊勢信仰の強化が行われ、御師(おんし)と呼ばれる祈祷師が、参宮の斡旋(あっせん)、宿泊の世話、祈願、各檀家への神札の配布などの世話をし、室町時代になると各地に伊勢講ができ、江戸時代になるにつれて、講参りといって伊勢講全体がお詣りした。

また代表が一人あるいは二人と代参をするということになり、せめて一生に一度はお伊勢詣りをという熱望がやがて爆発的な「お陰参り」となった。

その名残が今でも農村地帯では伊勢講として残っているし、部落の後ろの小高い丘の上に伊勢神宮の方に向かって礼拝した後が残っている。

お伊勢詣りに行く人達は、神様にお詣り行くのだから、行く前から、また道中も、精進して行った。

お詣りが終わるとこれで役目は終わった。さあ精進落しだと言う訳で遊郭が繁盛した。

お伊勢詣りに行った夫が旅の途中の女と一緒になったり、遊郭で帰りの旅費まで使い果たして帰れなくなったり、乞食のようになって帰ってきたという悲劇もあったのである。

煩悩執着は肉体的な欲望から起こるのだから、煩悩執着をなくするためには肉体の欲望をなくすることであると考えた所から、逆に、かえって煩悩執着の虜となって迷ったままで死んで行った人が多いことを考えた時、迷える霊もまた増えて来たことを考えなければならない。

煩悩執着をなくする道は本能を抑圧することではなくて、本能を正しくコントロールすることです。

本能を抑圧することはキリスト教もまた犯して来た。修道士、修道女のあり方がそうで、不自然な禁欲生活がそれを示している。反動で淫行に走るシスターたちがいたことの事実がそれです。

大分前の新聞に香港観光局が、日本の観光客で金遣いの荒いのは、坊さん、教師、中小企業経営者の順で、坊さんも教師も、お布施で生活しているからであろうか。

3年に1つ売れればいいと言われてる高価な硯(すずり)が注文に応じ切れないと言う事があった。

昔から坊さんと教師の宴会でのエロばなしが一番汚くてひどいと言われているのも、職業柄、日常は欲望を抑圧していることが、海外へ出た時、また宴会などで、信者や父兄から見られる事はないという開放感から噴き出して来る訳である。

私の知り合いが話していた。地元では顔が知れているから仙台の僧侶が盛岡市のホテルに泊まり繁華街に来て綺麗どころで遊び三昧して帰っていったと。

だから本能は抑圧する事だけでは解決しないのです。潜在意識の中に欲望を抑圧したままで亡くなれば、日頃どんなに謹厳な坊さんでもその欲望に比例した地獄界に行かなければならない。

  1. ※文中の用語解説
  2. ガイドguide(あなたの生涯における4次元からの守護霊、指導霊のこと。霊能者などが有料で後付けする守護霊とか、守護神は全くのウソである。ガイドは私たちが生まれたときから誰にでもパートナーとして見守り、必要に応じて指導もする使命をもった魂の兄弟や親しい友人たちです。ひらめき、インスピレーションとして心に浮かぶことがそれである。しかし、心に拘り、不満、愚痴、怒り、嫉妬、恨みなどの執着があると守護霊、指導霊のメッセージには気づけない。)
  3. 比叡山延暦寺(滋賀県の大津市西部と京都府京都市北東部にまたがる、なだらかな山。標高848.3m、に位置する。平安時代初期の僧侶、最澄767年 – 822年により開かれた日本天台宗の本山寺院
  4. 高野山(和歌山県伊都郡高野町にある標高約1,000m前後の山々の総称。平安時代819年頃より弘法大師空海が修行の場として開いた真言宗総本山。)
  5. 欲望(生きるための本能に偏り過ぎた思いは執着となって自分自身の心を苦しめる。眼、耳、鼻、舌、身の五官は生命維持のための重要な器官ではあるが、これに囚われて偏ると、やはり苦悩の原因となる。物や金、地位や職業に執着することも同じ。煩悩ともいう。)
  6. 自己中心(自分の価値観から他人の意見を聞き入れず、主張してしまう言動をいう。)
  7. 私心(欲望が根底にある自分一人の利益的考え、利己心、不調和な想い。)
  8. 宇宙即我(お釈迦様が城を捨てて出家修業を始めたが、あらゆる荒行で悟ることができなかったため一切の荒行をやめ、これまでの人生を振り返り反省された。そして心の調和が大事であることに大きく気づかれて大悟された。執着から離れた仏陀の心は広く宇宙大にまで拡大され、宇宙も我も一体であると、眼下に地球が見えるところまで悟られた。)
  9. 地獄霊(生前に心に執着を持っていた人間が心を調和することなく亡くなると間違いなく低いあの世にいくことになる。執着の度合いによってあの世の地獄にも段階あり。)

10.動物霊(動物は人間の都合によって虐待やその他の都合で不本意な思いで死ぬとやはり恨みの念が強くなり、この世の人間に障ってくる。特に野生のキツネは賢く念が強い。蛇は大変執拗な動物であるから憑依するとしつこい。まれに虐待された犬や猫が憑依して禍いする場合がある。)

11.遊郭(別名、女郎屋とも言った。女が体を売る場所を言う。)

病気と想念

身体が痛い、腰痛、偏頭痛、凝る、苦しい、めまい、突発性難聴、倦怠感、不眠、動悸、寝汗、ホットフラッシュ、等などいろんな症状を訴えてくる方は多いのだが、同時に心の疾患をもって来る方も多い。

人間、誰しも健康で元気に一生を過ごせたらこれほどの幸せはないと思うがどうだろうか。

『いや、お金があれば幸せは買えるよ。』

『出世すれば給料が上がるから、やはり出世しなくちゃ幸せにはなれないよ。』という人もいます。

ですが、ここでは敢えて、お金や出世ではなく、病気について検証してみることにします。

私たちは生きている限り病気がいつ発症するか誰も一寸先のことはわかりません。

病気の原因とその病気から解放されることは、人間である以上、無理で不可能なのだろうか。

病気は文字通り気の病いと書きます。気は心から発するものです。

身体の細胞が病んでいることは確かですが、実はそれぞれの内臓にも波動(意識)があり、その波動の不調な状態が病んでいる身体の症状として現れているものです。

胃腸には胃腸の波動(意識)が、心臓には心臓の波動があります。

その波動が正常な活動を失い乱れた場合にその部分が痛んだり病んだりしています。

当然、一つの臓器が病めば別の臓器にも体全体にも影響して、健康状態を弱めていきます。

人間の波動(意識)というものを大別しますと、心(魂)の波動(意識)と、それぞれの臓器を動かしている細胞意識(波動)の二つがある。

病気はこの二つが同時に病むときに表面化してくるものですが、その原因は私たちが普段の生活で活動しているわずか10%の表面意識にあります。

例えば、ビックリすると変な汗が出る。怖い思いをすると足元がすくむ。血の気が引いて顔が青ざめる。緊張すると手に汗を握る。顔が赤くなる。怒ったときに顔がつり上がる。心臓がドキドキする。笑ったらお腹が空いた。

精神活動全体の100%は、表面意識が10%、潜在意識が90%の仕組みになっています。

この様に日ごろの生活で働く10%の表面意識は人間の体に備わった五官、眼で見ること、耳で聞くこと、鼻で嗅ぐこと、舌で味わうこと、皮膚で感じることなどの感覚と直接つながって連動しているのです。

つまり、表面意識はこの五官と密接に関連して各細胞意識へと影響を与えていくことになります。

この様な意味から私たちの執着した心、拘り過ぎた日ごろの精神活動など不調和な心の使い方が如何に体の細胞意識を乱すことになるかということを深く知る必要があるでしょう。

したがって、先天性の場合を除いて、病気の大部分は日頃の10%の表面意識の在り方にその原因をみることができます。

また表面意識(心)に原因が見当たらない細胞の病気は伝染病を除いて多分に肉体遺伝性の場合が多いのです。

人間の魂意識(90%の潜在意識)は天から頂いたものですから、本来は調和されたものであって、それが起因して身体の病気をするようなことはないのです。

つまり、意識の中心である心は病むことがないのです。

このような意味から心だけをみるならば本来病気は無い事になりますが、しかし、現実に病気はあります。

病気の原因はここまで述べてきましたように、怒ったり、愚痴を言ったり、不満の思いを溜めこんだりというような争いの想い、対立感情にあるのですが、その感情の根本は想念にあります。

この想念というものは人間の個性ともいえますが、傾向性(心の癖)からきています。

言葉を変えるなら(カルマ)と表現できます。

こうしたカルマが10%の表面意識を通して想念帯に曇りとなって心の病巣をつくり、肉体的な病気にまでなって現れてくるのです。

また仮に、生れてから死ぬまで心を正しく調和して生きた人がいるとしましょう。

その人が病気をしないのかとなると、やはり病気をします。

ウイルスや伝染病によるものもあるでしょうが、生れてからが立派な人生であっても、先天的(前世)なカルマが表面に出てきた場合です。

この世は魂(心)を磨きカルマを修正するための厳しい環境ですが、皆それを承知で修業の機会を許されて再びこの地上に命をいただいてきたのですから、病気は後天的(生れた後)な理由だけではないのです。

但し、もって生れたカルマは人それぞれ差異があります。

先天的(過去世)のカルマを後天的(生れた後)善なる調和された生活によって十のものを五にすることも三にすることも可能であり、そのことによって悪と善の相殺作用が働き魂のステージがステップアップすることになります。

しかし、逆もありで、五官と10%の表面意識に翻弄されて囚われ、執着し、業の上塗りをし、心を汚して還る人たちが多いのです。

このような人たちはあの世に還ってから猛反省をする修行が待ち受けています。

人はこの世で悟ったとしても、肉体的な病気から全く解放されるということはないのです。

ただ、このように拘(こだわ)りがなく、調和されていて、いつも気づきのある人は、うつ病、パニック障害、摂食障害(過食症、拒食症)統合失調症のように心の病に侵されることはまずないのです。

また、人間は『仏のような人』、『生き神様』といわれても神になることはできません。

悟りに限界がないように、過ちは人間に常についてまわるものでしょう。

病気の一つは純然たる肉体の疲労と消耗によるもの。

二つは精神が先走り肉体が付いていけない場合によるもの。

三つは先天的カルマ(過去世の業)によるものなどですが、

いずれにしても病気は根本的想念の在り方に起因するものが多くみられるものです。

私たちが日々の生活を経済的、物質的な豊かさだけを追い求めてエスカレートさせると決まって家庭内のトラブルや病気が出てきて、これまでの生活が一変して困窮したものに変わってしまうケースは世の中にたくさんあります。

無理をせず、笑顔で暮らせる生活で、足ることに気づけば、これは大きな悟りです。

体は病んでも人間、心まで病んではいけない。病で気づかされることもまた多いものです。

逆境をチャンスに変え、悪を善に変えていく生き方は限りなく自らの魂と周りの人々の心を穏やかに成長させ、自らも死の際には、この上ない喜びに満たされて天に還るであろう。

 

福島の農に生きる

昨年被災された藤田浩志さんの覚悟の潔さに感動して掲載させていただきました。人それぞれの考え方があるでしょうがお読みください。

うつく島復興大使 一般の部 最優秀賞(藤田浩志さん)原文のまま。

「人殺し」。この世に生を受けて三十年余り、まさかこのような言葉を浴びせられるとは思いもよらなかった。

私は農家の八代目。直接言われたわけではないが、福島県の農家をこう呼ぶ人がいる。

悪夢のような地震と津波、そして原発事故。農業が続けられるか以前に、故郷に住めるかどうかも分からなかった、あの混乱を極めた一週間。

何とか農業ができそうだと見通しがつき、やらずに後悔するよりやってみようと思い立った決意が一転、ネットで見た冒頭の言葉(人殺し)。

精神的に追い詰められた一カ月。でも、「人」はやさしくもあった。

『君の作ったお米と野菜はおいしいから、これからも食べるよ。協力できることは何でもするから。』

うれしくて、うれしくて。

そしてある人の言葉。『人間七十億人もいればいろんな考え方があるさ。』

わかったことがある。福島県に放射性物質が降り注いだ事実はもう変えられない。

でも、そこから何を見いだし何を生み出すか、可能性は無限にあるんだ。

誰かが、福島県の農産物は危険で食べられないというのなら、私は、福島県が世界一安全性の確認された農作物の産地になることを目指そう。

誰かが、こんな所に子どもは住まわせられないというなら、私は、自分の子どもが福島に生まれて良かったと思えるような家庭を作ろう。

誰かが、怒り・哀しみ・絶望の目で「フクシマ」を見るのなら、私は、感謝・喜び・希望の目で「福島」を見よう。

福島県の農業を復興させるのは誰? 国? 自治体? 否、否。うちら福島県の農家でしょう。

「フクシマ」を悲劇の地として後世に語り継ぎましょうなんて、冗談じゃない。そんなのまっぴらごめん。

あんなに大変だった「フクシマ」が、こんなに素晴らしい「福島」になるなんて!そんな風に言ってもらえる、人生をかけるにふさわしいプロジェクトに携われるチャンスがあるのだ。

福島を捨てて新天地を求める? そんなのもったいなくてできない。

私は福島の農に生きる。

以上です。

極限状態の逆境と困難のなかで人間として誇りと生き方を忘れず自ら実践しているこの方の生きざまに脱帽です。なかなかできることじゃない。

私は、藤田浩志さんのこの文章にこみ上げる嬉しさを抑えられなかった。

 

育児は手塩にかけて

子育ては手塩にかけてとは自ら世話をして面倒みながら育てることをいいます。

フランスのアヴェマンの野生児と自閉症になる原因
1799年フランス大革命の10年後、ジャングルの中で12歳位と推定される裸の少年が発見された。彼は4、5歳の頃親に捨てられて、その後、一人で山野で生活してきたのであろうと推定された。

人間と全く接触することなく育ったこの少年は、発見した医師によってパリに連れて来られた時は、感覚器官は家畜にも劣っていた。

眼は落ち着きも表情もなく、何かを注視することもなく、ぼんやりと動き、大きな騒音に対しても、音楽に対しても無感覚で、声は完全に唖の状態であり、その一方、好きな食物であるクルミを割る音、食物を探すことに結びついた音に対しては鋭い感覚を持っていたといいます。

この少年を世話した青年医師イタールは、4、5歳頃までの間に両親から言葉を話しかけられなかった子供は、後でどんなに訓練しても聾唖者に近い状態にとどまるしかないといっている。

インドで発見された狼少年・少女は赤ん坊の時に、子供を生んだばかりの牝狼にさらわれて、狼の仲間で育てられた。この狼少年・少女も人間の言葉は使えずにただ狼のように唸るばかりであったといいます。

「自閉症」は乳幼児期に、母親その他周囲の人々から心のこもった言葉をかけられかった結果である場合が多いと幼児心理研究家や精神医学でも警鐘を鳴らしている。

母親の声を記憶している赤ちゃんや幼児は、母親の姿は見えなくても母親の声がするだけで安心する。だから昔から「赤ちゃんは声を掛けて抱け」といわれる。

声を掛けるのは、不意に抱いてびっくりさせないこともあるが、母親の声を聞かせることによって赤ちゃんの心に安心感を与えることの方の意義が大きいのです。

赤ちゃんは、なるべく刺激を与えずそっとしておいて、お乳さえ飲ませて置けばりっぱに成長するように思っているが、適切な刺激を与えないと精神的成長はしない。

アメリカの育児方は失敗であった-自然性を破壊した育児法

アメリカは鼓膜外麻酔の無痛分娩が現在の主流のようですが、アメリカの婦人に、「あなたは自然分娩しますか」と聞くと、憤然として怒って、「まあ失礼な、自然分娩するのは動物だけよ」と答える人がいるといいます。

「母乳を飲ませるんでしょうね」というとさらに怒って、「母乳を飲ませるのは動物だけよ」と答える。

この話はアメリカ出身の友人に聞いたこともある話です。

永い間、人類は、自然に分娩し、自然に授乳していた。その自然がいけないというのが西洋の考え方であった。

アメリカでは1950~1970年に(混合栄養も含めた)母乳哺育率が出生直後で30%未満、生後6ヵ月で10%未満というとても低い状態でした。

粉ミルク会社が販売促進のため産婦人科内で試供品を配布する習慣が浸透したこともあって、1970年代には母乳育児の比率が25%まで落ち込みました。

その一方で小児虐待、少年犯罪の増加、肥満が社会問題になっていたこともあり、アメリカ小児科学会(AAP)は大統領を先頭に母乳保育普及運動を推進したのです。

その結果、1990年には出生直後の(混合栄養も含めた)母乳保育率が60%、生後6カ月時に20%まで回復した。

米疾病対策センター(CDC)が2007年8月に最新の統計を発表した。

2004年に生まれた新生児に母親が母乳を与えた比率は74%と、調査を始めた1950年代以降で過去最高を記録した。(最低だった1970年代の約3倍です。)

しかし、完全に母乳だけで生後3カ月間育児する母親は全体の31%、6カ月間では11%に留まります。アメリカ小児科学会では現在も普及運動を続けています。

但しアメリカでは母乳育児とされている者のうち殆どが混合栄養のようです。

(日本でも1970年に完全母乳保育率は月齢4ヵ月で30%と最低を記録したが、その後45%まで回復した。混合栄養と合わせると90%程度が続いている。)

お乳が欲しくて、腹が減って泣いても時間が来なければ飲ませてはいけない。
母親に抱いてもらいたくて泣いても、抱くと抱き癖がついて、自立性が育たないから抱いてはならない。

おむつがぬれて気持ちが悪いから、新しいのと取り替えてもらいたいと思って泣いているのに、まだ替える時間でないからと、いつまでも濡れたおむつをさせている。

母乳の方がよいのに無理矢理に牛乳を飲ませる。

バストラインが崩れるから母乳はやらないという赤ちゃんの成長より自分の容姿を優先する若いお母さんもいた。

離乳の時期じゃないと思っているのに育児書に離乳期と書いてあるので無理矢理させられて、工場で造った離乳食を食べさせられる。・・・・・・等々。
赤ちゃんの側からいうと、そういうことになる。

育児に関する書籍はたくさん出ていますが、あまりにもマニュアル化し過ぎた内容を鵜呑みにして子供の欲する心の声を聞き逃すことが後々に精神の不安定をつくる原因となることも忘れてはならないことです。

岩手県 盛岡市 滝沢村 子育て 育児

胎教

胎教6

人間の出産に宗教や儀式はいらない
この世における人生とは、あの世即ち天上界で親子の縁を結んで生まれて来た人間が、一生を通じて、死ぬまで霊(魂)の修行をしてゆく過程。と私は思っている。

その人間の出生に際して、特別の信仰とか神社仏閣への参拝などの儀式が必要なわけではないことを言っておきたい。

生後6カ月まで何の問題も無くスクスクと順調に育っていた赤ちゃんを連れて、神社に参拝に出向き、お祓いをしていただいたその晩から毎日、機嫌が悪く、夜泣きが始まった例がある。浄化してピタリと治まったが気をつけなければならないケースです。

宇宙創造の意識によって、定められた自然の法則に従って生まれて来、その法則に従って心を調和させ、心を明るくして生きてゆけば、それだけで健康な明るい、人を愛せる子供が育って行くのです。

そして健康な心を持った人間は、自然に人生を真の意味で健康に生きることが出来る。

心の健全な人間だけがこの地球上に住むということになれば、そのような人間がつくる家庭や社会には、虐待、いじめ、差別、闘争、戦争、殺人等というようなことは絶対に起ることはない。

このブログを読んでくださっているあなたの心にイライラや不満、愚痴はないだろうか?

妻に対して思いやる心で接しているだろうか。夫に対して不満な想いだけを優先していないだろうか。

世界を平和にする近道は、現在の世界をどうするかという現実の世界の改革改造と同時に、心身に歪みを持たない心身ともに健康な子供を生み育てることではなかろうか。

こういうことを言う理由は、唯単に一人一人の皆さんの幸福を願うだけでなく、世界の平和、ユートピアの実現を念願しているからである。

これまで述べてきた胎教にある通りのことを実践されるならば、そして心のあり方をされるならば、必ず心身共に健康な子供を生み育てることが出来るのです。

決して何か特別の宗教や宗派の信仰をしなければならないということはない。

ただ、宇宙創造の意識が存在することを知り、それに感謝し、あの世がありこの世があり、あの世もこの世も、自然の法則によって存在せしめられていること、その法則に随(したが)って生きてゆけばよいことを知っていただきたい。

「つわり」は、体調だけの問題ではなく、妊婦と胎内の子供との魂波動の相違によって引き起こされる現象です。

つまり胎内の子供の魂は、天上界の光り輝く調和された世界から下生してくるのです。

その時、妊婦の心が調和され喜びに満たされていると、つわりは起らないが、妊婦の心が不調和で、不満、悲しみ、怒り、嫉妬、怨みなどの心があると、その度合いによって、つわりも弱かったり強かったりするので、つわりのひどい人は、自分の心をまず調和させることで改善できるのです。

『つわり』は胎児と母親のバイブレーションの不調和が根本にあることを知っていただきたい。

受胎してくる子供の性格の影響で、妊婦の食べ物の嗜好が変わることがある。

同じお母さんから生まれてくるのに上の子を妊娠した時は柑橘(かんきつ)類が食べたくてたくさん食べたけど、下の子を妊娠したときは野菜がダメで肉類が食べたくて食べていたというお母さんががいました。

やはり生まれてみたら二人の子の好みが全くその通りだという。これは胎児の好みをお母さんが感じ取っていたという証拠です。ですから自然に逆らわずに欲しくなったものを適度に食べていいのです。

障害の影響はどうしたら修正できるか

心を不調和にしたことが原因である場合、その子供を妊娠していた時の状態に心を帰すことです。

先ず、一人で心静かに瞑想をして、心を天(宇宙の意識)に対する感謝と、周囲のすべての人、物事に対する感謝で満たすこと。

そして、『お母さんの心の不調和によって、本来ならば健全な五体を持って生まれるべきあなたの肉体に、このような障害をつくってしまって申し訳ありませんでした。

お母さんは今、あなたがお腹に宿っていた時のことを反省しています。あなたが障害児として生まれてこなければ、お母さんはこのような反省はしなかったかもわかりません。

あなたは障害児として生まれることによってお母さんは大事なことに気づかされました。心からそのことについて感謝をします。』と。

そういって次に、既に子どもが健康体になっている状態を、心の中にありありと描き、宇宙意識に対し、

『この子どもに光をお与え下さい。この子どもを健全にして下さいましてありがとうございます。』と心で念ずるのです。

このような念じ方は「既に健康体と信じる」ことが効を奏する秘訣である。

しかめっ面で悲しそうな哀れな表情をして、乞食が物をねだるような、そういう気持ちで特別にお恵みを与えて下さい、というような心では祈りは実現しないのです。

子どもが小さければ小さいほど、肉体の新陳代謝が活発ですから改善や治癒するのも早いから、是非とも信じて実践してください。

精神障害、ノイローゼ、非行、暴力の子どもはこうすれば治る。

夫、または周囲の人々との不調和により、あるいは「性」に対する葛藤などから、妊娠を喜べず、否定的であったり、心ひそかに流産や子供の死を願ったりしたことが原因である場合が多いのですから。

『縁あって、あなたがわたしを母として生まれてきて心(魂)の勉強をすることになっていたのに、わたしはあなたが、わたしのお腹に宿ってくれたことを素直に喜べず、ひそかにあなたの死を願ってしまいました。どうぞ、わたしを許して下さい。』と、

心から反省し懺悔し、既にその子供が健全であることを心の底深く思い浮かべて念じ続けることである。

この場合に、その子供を妊娠していた時の状態を心に描き、その時の人間関係、姑、夫、小姑その他、自分が激しく感情を動揺させた相手との関係を思い起こして、『このようなことで、このような思いを持ちましたことをお許し下さい。』と、心から悔い改めることである。

一ぺんにパッと治るのではなく、ある程度時間がかかり、徐々によくなっていくから、少しでもよい兆候が見えたらそのことを喜び、『必ずよくなる』とますますよくなっている状態を心に描き続けることです。

変化の遅いことにイライラして、「まだよくならぬ」と否定的な悲観的な想念を絶対に起こさないことです。

胎教とは妊娠している母親の想念の在り方と生まれた後の子供の全てを意味する。

母体の持ち主であるお母さんの心の波動と宿った胎児の心は一つの身体を通して深く想像以上に深淵で霊的なバイブレーションのつながりをもっているものです。

そのことが良くも悪くも胎児にとってはストレートに影響することを理解できれば、如何に妊娠中のお母さんが心を安定させなければならないかがお分かりいただけるはずです。

人間は心でつながっているものです。お金でつながっている家族や人間関係はお金が不足すれば必ず溝がうまれて、やがて崩壊することになります。

目の前の夫婦関係を円滑にできない家族はいつも子供の諸問題で悩みを抱えて苦悩しています。子供の問題を解決したいなら、先ずは自分自身と夫婦関係を省みることで可能となるのです。

価値観が違うからと相手が変わることを望んでいるうちは問題が改善されることは100%あり得ない。自分の思いと言動を知ることから始めれば道は必ず拓けます。

胎教1~6迄、述べてきましが、今回で終了です。最後までお読みいただき、ありがとうございます。ご夫婦の問題、親子関係の問題など、相談をご希望の方はご連絡いただければお応え致します。岩手県 盛岡市&滝沢村 無料カウンセリングkandou0822@yahoo.co.jp

胎教

胎教5

今生最後の思いが優先される
人間には自由意志が与えられてあります。あなたはこの次(来世)は、どういう所に生まれてきたいと思われるであろうか。

今の人生の大きな流れは、その人の前世が終わる時に思ったこと、あの世で計画したことの結果ですから、この人生がどんなにつらいものであったとしても、それを敢えて受け止めて、自分はこの人生から何を学ぶべきかという謙虚な気持ちになった時に、その人の人生は上手くゆくようになる。

だから今、その人が、自分の人生が上手くゆかないのであれば、その人は自分の人生に感謝できず、自分の人生を自分で怨んでいる結果なのですから、たとえ今、自分の置かれている環境がどんなに厳しくつらいものであったとしても、まず感謝するということから始めなければならない。

そうすれば徐々に運命はよくなってゆく。今の人生を嘆(なげ)いたり、怨(うら)んだり、不平不満や愚痴、怒りの気持ちで送ることは明らかにマイナスエネルギーの環境を自らしてつくることになるので、決して明るい環境や幸せな人生になることはないのです。

あなたの人生がいよいよ終わろうとする時、あなたは何を思うのでしょう。

一生を振り返ってみて、自分の人生が成功(地位や経済力ではなく)であったか失敗であったか。

心に悔いは残っていないか、過去世において金持ちであったが、前生が終わる時、やはり人生は金ではなかった。

『金だけでは幸福にならない。』と思い知った人達は、この次には、その人が心で思った通りに、金は無くても心の豊かな生活をしたいと思って、自分で敢えて貧乏な生活環境を選んで生まれてくるということもあるのです。

それが魂の学習となることを知ったからです。

そのように、子供の縁もまた、前世、前々世などの過去世で縁のあったものの中から選ばれることになるのです。

縁があって、お互いに魂の勉強をすることを約束して生まれてくるのですから、生まれてくる子供は皆、障害の有無に関係なく祝福しなければならないのです。

再婚と未婚の母の子供

再婚した場合に新たに生まれる子は、母の方に縁の深いものの中から選ばれる。

再婚の場合は父があるから問題はないが、未婚の母の場合は父がいないことになるのですから、もしその子供が大きくなって「「自分の父は誰なの?」と聞いた時に未婚の母はどう答えるのであろうか。

答えても答えなくても問題があることは間違いないし、その時、未婚の母は苦しむことになる。

右肩上がり時代の先端を行くという人間の驕(おご)り、また女性の地位向上のためにと気負ったなかでできた未婚の母の子は、その子供が大きくなった時に思いがけない苦しみを受けることになる。

表面では強がりを言っていても、内心では未婚の母になったことを悔いて、子供というものはやはり、正式の夫婦の間で生まなければならないと思うであろう。

このようにして、人間のあり方は、自然に天が定められた秩序に従って生きて行くことが真の幸せであり、自然の法に反することはいけないのであるということを自然に知って自然に自分の心をコントロールして生きていくことの大切さを学ぶようになってゆくのです。

胎教2に書いたように、アメリカでは人口授精児の場合でも、子供が父親を知りたいと言えば知らせなければならないということになって来ていますから、未婚の母の場合は尚のこと、子供は知る権利があることを主張するであろう。

よい胎教
これまで胎教1~4で述べてきたように、神経質になる必要はないが胎教は大事であり、妊娠初期2~3ケ月間のちょうど頭が胎内で創られる時分の母親の心の不調和が、無脳児や精薄児やその他頭部に関係のある目、耳、口の障害を引き起こし、手足が出来る時分の不調和が手足の障害即ち小児麻痺などになる要因ともなる。

そうして妊婦の心の思いが、生まれてくる子供の性格に大きな影響を与えるのですから、よい子供を持つためには、生まれてくる子供を祝福し、心をきれいにする為の本を読み、いい音楽を聴き、いい絵を見、いいことを想像することをすればよいのです。

これらを全部ではないが、そういう心で生きるということです。

美智子妃がご懐妊された時、日常生活を正しくして、古今の名曲、名画を鑑賞されて、胎教を重んじられたことは有名であり、天皇陛下もまた、夫君として、日頃の起居動作を一層正しくされ、かねてにもまして、当時の妃殿下をいたわられたというのである。

いい本を読み、名画や名曲を鑑賞できる優雅な人はそれでもいいが、我々庶民はそんな時間も金もないという人があるかも知れない。

その人達は、自分の心の中に最高の智慧、愛、調和、平和、明朗、積極、堅実な状態を想像し、生まれてくる子供が、多くの人々に感謝され祝福され、またその子供が大きくなるにつれて、人々に愛を与え、幸せを与えてゆく状態を心の中に描けばいいのであって、そのことが何よりも大事なのです。

子供のことで苦労しているという親達は、子供の肉体に障害を与えるほどの心の不調和はなかったとしても、性格に歪みを与えてしまったことを反省しなければならないし、反省して心を調和してゆく時、自然に子供の非行も暴力もよくなってゆくのです。

子供に感謝すること

子供は親を思うものであり本来親孝行をしたくてたまらないのです。

だが、そのように考えている子供の心が期待を裏切られる時、逆に子供は親に失望して反抗するようになる。

何が子供を失望させるのか。

そのもっとも大きな原因は、子供が生まれて来たことを、子供が子供としてそこにいることを喜ばない心を持ち、そういう言葉を不用意にではあっても口にすることです。

「あんたみたいな子供は生まれてこなければよかったのだ。」と、夫婦喧嘩の飛ばっちりがついつい不用意に子供に向けられた時、子供は一体どう思うであろうか。

実際にこういうことがあったのです。

子供は思う。

それならどうすればいいのか。

自分は嫌われている。

生まれてこなければいいと言っても生んだのは親ではないか。

自分達が生んでおいてそう言うのは矛盾じゃないか。

自分が喜ばれていない。

いない方がいいのであれば今は子供で、家を出ても生きて行けないからここにいなければ仕方がないからここにいるが、自分で働いて食べられるようになったらここを出よう。

と心ひそかに家出を決心し、自分の存在を喜んでくれる所を求めて家出しようと思うのです。

「この子は困った。この子はいない方がいい。」と言うようなことは、心の中でも思ってはいけないのです。

子供の心はきれいですから、親のそういう心を敏感にキャッチするのである。

それとなく、何となくという雰囲気が子供に大きく影響するのです。

よい子供、人を愛し人に愛される子供、人に迷惑をかけない子供、自分のことは何でも自分でする子供に育てようと思うならば、親は子供に心から感謝することである。

子供は、親の心がよければよいなりに、悪ければ悪いなりに親の心の姿をはっきりと映し出してくれる。

子供が悪いのは親の心の在り方が悪いのですから、子供を良くしようと思う前に親自身がその心のあり方を反省し修正しなければならないだろう。

そのようにして親は、子供の姿を見ることによって自分の心を反省し勉強させられてゆくのです。

そういう親子関係を約束してあの世から生まれてくるのですから。

「あなた達は、よくぞ生まれてきてくれました。あなた達が生まれてきてくれたおかげで、お父さんはお父さんとしての、お母さんはお母さんとしての、あなた達が子供として生まれてきてくれなかったら味わうことの出来なかった喜びを、あなた達が味あわせてくれたということだけで嬉しい。ようこそ、お父さん、お母さんの子供として生まれてきてくれました。ありがとう。」という気持ちを言葉に託して伝えてみたらどうですか。

この言葉は特に保育園、小学校時代になら間に合うでしょう。中学、高校生でも親が心から子供に詫びたことをきっかけに非行がおさまった例はあります。

自分がそこに子供として生きてきたことを親が祝福し喜んでいたら、子供は決して親の心を悲しませ悩ませるようなことは絶対にしない。

もし、子供を持って、子供のために苦労しているという人があったら、その子供を妊娠して以来、その子供に対してどのような思いを持ってきたかを反省し、心のあり方を修正すればそれで子供もよくなるのです。

『子は親の鏡』とはよくいったものです。

次回は胎教最終回の予定です。

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