職業的能力

『天才は努力』だといいますが、しかし、いくら努力しても上手にならない人もいます。
少し練習すると上手になるという人もいます。
例えば、同じ環境で同じ条件で門下生に整体の技術を教えます。
ある人はすぐに上達するが、ある人はなかなか飲みこみがよくなく上達が遅い。
しかし、長い目で見ていると上達が早かった人よりも遅かった人の方が技術的に上回っているときがあります。
このようなことがどうして起こるのか。それは、上達の早い人が陥りやすい『自分は上手だ一人前だ』という慢心(おごりたかぶること。自慢する心。)です。
上達の遅い人は本人がやる気がある限り上達したいがために努力を惜しみません。このひたむきな努力が上達の早い人を超えさせるのです。
生れつき手先の器用な人がいます。不器用な人もいます。
親が器用だから子供が器用だとは限らない。ではどうして生まれつき才能が違うのだろうか。
偉大なる名医がいた。どうしてその人はトップレベルの名実ともに有名な医師になれたのだろうか。
それはいつかの前世において人間の健康に非常に興味を持った。家族や親せきや近隣の人たちの病気に心を痛めた子供であって、健康と言うものに人一倍の関心をもったのでした。
それが長じて薬草の勉強をしたり、ケガの手当てを学んだりと、医学的なことまで興味を示し一生を終った。
そうした蓄積があってその次に生れた。すると成長するに従ってどの子よりも先に医学に興味を持ち始めた。
そのようなカルマが繰り返されて今世において偉大な名外科医となったのである。
一般的に判断すると一代で成功し、偉大なる政治家、芸術家、技術科、プロフェッショナルになれたように思うだろうが、実際はそうではない。
生れて来たその人生をどのように生きるか、生まれ変わりを繰り返す輪廻転生のなかで継続されてきた努力、精進の蓄積が結果となって現れ、その人の人生を決定するのである。
子供たちの習いごとでも、稽古を始めてすぐに上達する子は前世でもそのような稽古をしていたことが多いのです。
同じ先生に同じ時間だけ習っても上手にならなかった子は前世でそのような稽古をしたことがなく、今世ではじめて習ったのです。
ですから何でも急に、いっぺんに上手になり、成功するものではないのです。
人生において大事なのは努力であって、上達し成功することではない。
たとえ上達しなくても、成功はしなくても、その人が一つのことに、たゆまず努力を続けてゆくならば、それでその人の人生は成功したのである。
成功不成功は結果だけにあるのではない。従って、ただ単に結果だけによって評価し、採点することは人間を育てる観点から正しいありかたではないということです。
人々の誕生目的はさまざまで、勉強しようと思って生れてくる者もいれば、前世でたくさんの勉強をしたから、今世では勉強をせずに肉体労働をしようと思って生れてくる人もいるのである。
それを一律に高校に進学させて、大学に進学させて勉強をさせようとするから、勉強をせずに実地で行こうと思って生れてきた子供は勉強嫌いになったり、落ちこぼれたりするのです。
過去も現在も教育改革がおこなわれてはいますが、本来ならもっと早く高校に入学する段階で実地の就職希望する者と、大学で勉強を希望する者とをはっきりと分ける方が子供たちに方向性を見出させるためにはよいのです。
人間は何度も生まれ変わることによって、またいろいろな勉強し、職業に就くことによって、どういう生き方、考え方をするかによって、その人の人格、性格、才能は決まってゆくのですが、こういうことは進化論では全く説明ができない。
いろいろな面で成功した人を目標にすることはよいが、その人と現在の自分とを比較して、とても自分はそうなれないと思い、さじを投げ、劣等感をもってはならない。
その人が成功するには、それまで何世代もの努力があったからであって、現在の自分がそこまでならなくても、その人を羨ましがらずに自分なりに精いっぱい真面目に努力すればいいのである。
その努力がすぐに収入につながらなくても、努力するべきことは努力すべきなのです。
結果的にそれが後々に心の糧になり、実を結ぶことになるからです。
だから子供の教育もどれだけいい成績をとったかよりは、どれだけ努力したかを高く評価しなければいけないのである。
子供は成績より努力を評価してあげたほうが心豊かに育つ。