幸福への前兆

一見、不幸と見えることが実は幸福への前兆
このブログを読んでくださっている方で、もし正しく心を調和して人生を一生懸命やっていたのに不幸になってしまった。

事業に失敗した。会社を辞めなければならなくなった。色々な事情で住居を変えなければならなくなった。

あるいは、何も暗い心を持ったり、人を憎んだりしたこともないのに病気になってしまった。というようなことが起こって来たとしたら、あなたはそれを喜ばなければならない。

何を突拍子もないことをと思われるでしょうが、それはそのことによってあなたの魂が飛躍的に向上しなければならない場に立たされているからです。

今までやっていたことが続けられなくなったということは、それはあなたがその事から魂の勉強しなければならなかったことの転換期でもあります。

もはや勉強し尽くしてしまったから、そこに居てもこれ以上、魂の向上にはならないから、今度は違った環境で魂の勉強をしなければならないというガイドからのメッセージで場合があるからです。

既にそこでの魂の勉強が終わって、今度は別な違った環境で勉強しなければならないという事になった人が、自分の担った人生や役目にも、一向にその事に気づかずに環境を変えようとしない場合、守護霊や指導霊が強制的にその人を病気にしたり、あるいは仕事を失敗させて、どうしても、嫌が応でも変えなければならないという状態にさせることがあります。

また逆もあります。自分の隠れた欲望やその時のやましい都合などによって環境や仕事を変えるべきではないときに変える、新たな展開をする時期ではないのにやってしまうことによって、家庭環境や他との人間関係に問題が発生したり、または自分の健康が不健康な状態になっていく場合があります。

このような時も背後で守護霊や指導霊が強制的に働き、動機の誤り、行動の誤りを気付かせるために様々な禍を発生させるケースもあります。

失敗や怪我や交通事故なども自分のこれまでの心の不調和が原因である場合が多い。

要は正しい判断をすることですが、ではどうしたら正しい判断ができるのだろうかということです。

それは、このような時は、これまでの自分の考え方や行動に主観的な価値観に偏った自分の欲望からの判断が無かったのか、自己中心的な判断ではなかったのか振り返って反省してみると原因がはっきりとしてきます。

一時的な感情だけで、よく思慮もせずにただ単に回避したり、無理に押し通したりすることは禁物です。

大事な局面ではいつも私心を持たず執着せず、自身の偏りのない良心に従って言い、行動することです。

※人生の生き方には二通りある。
一つは、地位、名誉、金銭、物質欲、色欲を中心にして魂を汚し腐らせてしまうか。

一つは、魂(心)を大事にして、そういうことに執着を持たないで生きるか。

前者の生き方はやさしいし無難な人生を送ることが出来るが、後者の生き方は自分の心を大事に生きようとしても周囲に金銭欲、物質欲に執着している人が多いだけに苦難な道を歩かなければならない。
しかし、最後の真の勝利は敢えて厳しい環境に負けずに生活する後者の生き方によって得られるのである。
だからもし皆さんが、偏りのない囚われない人間の魂(心)というものを信ずることによって、良くも悪くも生活に変化が起こって来たとしたら、それこそ魂を成長させるチャンスが来たと、逆境こそチャンスだと明るい心で迎えることで、やがては流れも定まり人間の真価が決まってくる。
正しい想いや行動をしようとすると周りや社会の抵抗にあうのも世の常である。
悟り(気づき)のない禁欲生活は難行苦行となる
2500有余年の昔の話です。お釈迦さまに、性的欲望について注意された弟子があった。
その弟子は一物があるから欲望が起こるのだと思ってその一物を斬ってしまった。
そのためにその弟子は死んでしまったのですが、欲望にあって肉体にはないのですから、心をないがしろにして肉体だけを苦しめてみても、それで欲望がなくなることはない。
この簡単な原理にどうして気づけなかったのか、昔の人達は欲望の源は肉体にあると考えた。
だから、煩悩執着をなくせよ、といわれると肉体の力を弱くすればいいと考えて断食滝行などの荒行をするようになったのである。
また心の調和を実践しない者が霊的な能力を求めて滝行や断食行その他の荒行などを行うことは衰弱している体にとって非常に魔(地獄霊、動物霊)が入りやすいからとても危険なことなのです。
それで発狂や廃人になって死んでいった行者が昔はたくさんいたのである。
しかし、肉体をいくら苦しめてみても心が悟らなければ煩悩執着はなくならない。
実際に荒行で宇宙即我の境地までに悟った方は過去にいないのです。
お釈迦様は荒行を捨てて心の調和を行うことで悟られたのである。
昔、比叡山麓(ひえいざん)や高野山麓(こうやさん)に遊郭(ゆうかく)があったのは、難行苦行をしても性的欲望をなくすることの出来なかった僧侶達がストレスにまで高まった性的欲望を解放し発散するための場所であったことはご存じない方が多いのではないだろうか。
霊的観点からすれば高僧達によって代々守られてきた神聖な修業の道場であると見られてきた比叡山や高野山も、裏側から見れば欲望は肉体にあると思って悪戦苦闘の揚句に欲望を遊郭で吐き出すような俗人以下の心を持ったままで死んでいった数えきれぬ程の僧達の死屍(しかばね)累々とした山だといえる。
ですから霊場というのは実際のところ、この上なく危険な霊域であり世間で思うほど神聖な場所では決してないのです。

神道の「精進落し」と「直会」
日本の神社神道はまた不思議なしきたりを持っている。お祭りがある前になると祭主や祭人達は一ヶ月位、精進潔斎(しょうじんけっさいといって神に仕える為、飲食物をつつしみ身を清めること)するが、お祭が終わったとたんに「精進落し」すなわち「直会」(なおらい)をやって俗人に帰るということをやる。

お祭の間だけ「神人合一」になるとはいうが、後は俗人として生活すると言うわけです。

ここまで書けば、何故伊勢神宮のとこに遊郭があったかおわかりでしょう。

平安末期から鎌倉時代にかけて伊勢信仰の強化が行われ、御師(おんし)と呼ばれる祈祷師が、参宮の斡旋(あっせん)、宿泊の世話、祈願、各檀家への神札の配布などの世話をし、室町時代になると各地に伊勢講ができ、江戸時代になるにつれて、講参りといって伊勢講全体がお詣りした。

また代表が一人あるいは二人と代参をするということになり、せめて一生に一度はお伊勢詣りをという熱望がやがて爆発的な「お陰参り」となった。

その名残が今でも農村地帯では伊勢講として残っているし、部落の後ろの小高い丘の上に伊勢神宮の方に向かって礼拝した後が残っている。

お伊勢詣りに行く人達は、神様にお詣り行くのだから、行く前から、また道中も、精進して行った。

お詣りが終わるとこれで役目は終わった。さあ精進落しだと言う訳で遊郭が繁盛した。

お伊勢詣りに行った夫が旅の途中の女と一緒になったり、遊郭で帰りの旅費まで使い果たして帰れなくなったり、乞食のようになって帰ってきたという悲劇もあったのである。

煩悩執着は肉体的な欲望から起こるのだから、煩悩執着をなくするためには肉体の欲望をなくすることであると考えた所から、逆に、かえって煩悩執着の虜となって迷ったままで死んで行った人が多いことを考えた時、迷える霊もまた増えて来たことを考えなければならない。

煩悩執着をなくする道は本能を抑圧することではなくて、本能を正しくコントロールすることです。

本能を抑圧することはキリスト教もまた犯して来た。修道士、修道女のあり方がそうで、不自然な禁欲生活がそれを示している。反動で淫行に走るシスターたちがいたことの事実がそれです。

大分前の新聞に香港観光局が、日本の観光客で金遣いの荒いのは、坊さん、教師、中小企業経営者の順で、坊さんも教師も、お布施で生活しているからであろうか。

3年に1つ売れればいいと言われてる高価な硯(すずり)が注文に応じ切れないと言う事があった。

昔から坊さんと教師の宴会でのエロばなしが一番汚くてひどいと言われているのも、職業柄、日常は欲望を抑圧していることが、海外へ出た時、また宴会などで、信者や父兄から見られる事はないという開放感から噴き出して来る訳である。

私の知り合いが話していた。地元では顔が知れているから仙台の僧侶が盛岡市のホテルに泊まり繁華街に来て綺麗どころで遊び三昧して帰っていったと。

だから本能は抑圧する事だけでは解決しないのです。潜在意識の中に欲望を抑圧したままで亡くなれば、日頃どんなに謹厳な坊さんでもその欲望に比例した地獄界に行かなければならない。

  1. ※文中の用語解説
  2. ガイドguide(あなたの生涯における4次元からの守護霊、指導霊のこと。霊能者などが有料で後付けする守護霊とか、守護神は全くのウソである。ガイドは私たちが生まれたときから誰にでもパートナーとして見守り、必要に応じて指導もする使命をもった魂の兄弟や親しい友人たちです。ひらめき、インスピレーションとして心に浮かぶことがそれである。しかし、心に拘り、不満、愚痴、怒り、嫉妬、恨みなどの執着があると守護霊、指導霊のメッセージには気づけない。)
  3. 比叡山延暦寺(滋賀県の大津市西部と京都府京都市北東部にまたがる、なだらかな山。標高848.3m、に位置する。平安時代初期の僧侶、最澄767年 – 822年により開かれた日本天台宗の本山寺院
  4. 高野山(和歌山県伊都郡高野町にある標高約1,000m前後の山々の総称。平安時代819年頃より弘法大師空海が修行の場として開いた真言宗総本山。)
  5. 欲望(生きるための本能に偏り過ぎた思いは執着となって自分自身の心を苦しめる。眼、耳、鼻、舌、身の五官は生命維持のための重要な器官ではあるが、これに囚われて偏ると、やはり苦悩の原因となる。物や金、地位や職業に執着することも同じ。煩悩ともいう。)
  6. 自己中心(自分の価値観から他人の意見を聞き入れず、主張してしまう言動をいう。)
  7. 私心(欲望が根底にある自分一人の利益的考え、利己心、不調和な想い。)
  8. 宇宙即我(お釈迦様が城を捨てて出家修業を始めたが、あらゆる荒行で悟ることができなかったため一切の荒行をやめ、これまでの人生を振り返り反省された。そして心の調和が大事であることに大きく気づかれて大悟された。執着から離れた仏陀の心は広く宇宙大にまで拡大され、宇宙も我も一体であると、眼下に地球が見えるところまで悟られた。)
  9. 地獄霊(生前に心に執着を持っていた人間が心を調和することなく亡くなると間違いなく低いあの世にいくことになる。執着の度合いによってあの世の地獄にも段階あり。)

10.動物霊(動物は人間の都合によって虐待やその他の都合で不本意な思いで死ぬとやはり恨みの念が強くなり、この世の人間に障ってくる。特に野生のキツネは賢く念が強い。蛇は大変執拗な動物であるから憑依するとしつこい。まれに虐待された犬や猫が憑依して禍いする場合がある。)
11.遊郭(別名、女郎屋とも言った。女が体を売る場所を言う。)