電話にでれない娘の悩みへのコメント

8月27日 風子様からのコメント

観童先生へ

いつもお世話になっております。

先生のブログを拝読しております。

「電話にでれない娘‥」にコメント入れたんですが、なぜか送信できなかったので、すみませんこちら(整体HP)にメールさせていただきます。

電話に出られない娘さんのお話しを読み、若い頃の自分と同じだと思いメールしました。

私も幼児期に吃音があり、小学生の時の音読の時、指摘されたり、からかわれたりと嫌な思いをいっぱいしました。

“あわてないで、ゆっくり‥” もよく言われました。

言われて意識すればするほど、また失敗して言われちゃうかも~と余計に緊張して言葉が詰まるんですよね~。

私もリラックスしている時はでないんですよ~。

本当によく似ています。

私は、接客の仕事に就き、お客様と向き合ってお話しさせていただくのは大丈夫でしたが、受付の仕事になった時、ある時電話に出たときにドモッてしまって相手方に電話の向こうで笑われてから、電話の受話器を持つと体が硬直して声が出なくなり、

さらにマイクで館内放送でお客様の呼び出しをしたりするんですが、マイクの前でも声が出なくなり、受付の仕事からはずしてもらった事があります。

声が出ない時って体も心もすごく緊張状態なんですよね。

緊張して息を吸ったまま固まっている状態なので、

何度か大きく深呼吸して、体から力を抜いて、

息を吐きながら声を出す練習するといいかもしれません。

あ~ とか う~ とか声を出しながら息を長~く吐く練習。

息を吐くと 体からも力が抜けてリラックスできるので‥。

一度 成功体験というか、“あ、大丈夫だ”って思えれば あとは だんだんに平気になっていくと思います。

電話が苦手なら 無理しないで そこからしばし離れて楽しいと思えることをたくさんやればいいと思います。

電話が出来ないだけで、後は普通にお話も出来るし、歌も踊りも出来るんだし‥

私も いまだに 電話とマイクは苦手ですが、図太いおばさんになっています。

私もそうだったな~。

苦しいんだよね~わかるわかる~と思い

コメントさせていただきました。風子より。

風子様 ご自分の体験をお話しくくださるなかに、あなたの温かいお心を感じております。娘さん(相談者)とそのお母さんも読まれて参考になろうかと思います。

この場を借りて心からお礼を申し上げます。

ほんとうにありがとうございます。感謝。観童

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娘のたった一つの願い

夫婦喧嘩

男と女は巡り会い、恋をし、結ばれる。

やがて子宝に恵まれて尊い命が誕生する。

親と子どもは同時に生まれる。

なぜなら子どもが生まれたときに初めて親が誕生するからだ。

子どもが授かったことの嬉しさや、責任を忘れ、あるいは知らず、親になりきれない大人もいるだろう。

今朝は相談者の快諾をいただき、そのまま掲載させていただけることになりました。

訪問してくださった皆様の参考になればと思います。以下。

 

8月24日 受信

観童先生。おはようございます。

今朝は朝からとても悲しくて、泣いてしまいました。

今日は長女の中学校生活最後の試合でした。

小学生の頃から強いクラブチームに所属していた娘は、司令塔選手として頑張っており、厳しい練習にも耐えて素晴らしいプレイヤーに成長しました。

とても頑張り屋で努力家の長女は、学校の勉強も努力して成績も良く、クラスのお友達や先輩後輩からも親しまれて、小学校の卒業文集では、〇〇ちゃんがいたから引きこもりにならずに学校が楽しかった。

というような内容を書いて下さったお友達が何人もいて、長女の明るさに私も励まされております。

中学校に入学してからも、未経験のチームメイトを引っ張って、キャプテンとして本当によく頑張っていました。

お友達のお母さん方からも、「部に引っ張ってくれて本当にありがとう。」と言って頂き、「厳しい練習に耐えられたのも、いつも明るくはげましてくれた〇〇ちゃんのお蔭です」と、本当にもったいない言葉をかけてもらいます。

いつも謙虚に感謝を忘れずを心にしている長女です。

そうなれましたのも娘を支えて下さった先生やお友達のお蔭様だと、私の方が大変感謝なのですが・・・・・。

子供にスポーツをさせたきっかけは、主人の家系の糖尿病を絶ち切りたかったことからでした。

何か厳しい事に直面すると、お酒や食べる事、遊びに買い物に逃げる家系の心ぐせが、とても嫌で、厳しい事から逃げずに乗り越えられる喜びや、人の役に立てる喜びを味わえる子にしたかったのです。

まずは親である私が見本をと思い、自分自身の心ぐせを徹底して改めようと努力しました。

まずは朝は誰よりも早く起きて、美味しいご飯を作ること。

どんなに疲れていても笑顔でいること。

絶対に人を責めないこと。

これは、外では出来るのですが、家の中では本当に努力のいることでした。

特に主人に対しては、本当に精進でした。

主人は家に帰るとたくさんの我がままをそのままぶつけてきます。

にっこり笑って「はい♪そうですね♪」とはとても言えないことも度々あり、私にとっては家庭が一番厳しい修行でした。

昨日も主人にいつもの様にお弁当を作って渡しましたが、気難しい主人は、自分の中で何か気にいらないことがあったのでしょう。「いらない!」とお弁当をおいて出勤しました。

私はまたか。と思いましたが、気を取り直して、お弁当にごめんね。と謝りました。

子供たちは小さい頃からそんな主人のわがままぶりを見ているので、逆にお弁当美味しかったよ。とか、ママいつもありがとう♪と私を気使ってくれます。

子供は本当にいい子に育ってくれるのも、そんな主人のお蔭なんだと思うことにしておりました。

好き嫌いが多い主人はお野菜など、食事を残す分だけ子供たちは、絶対に残さず食べてくれたり、経済が厳しいのをわかっている子供たちは、自分たちの欲しいものを我慢してくれています。

そういう時に、主人は仕事で自分の思い通りにならないストレスを大きな買い物をして発散するのを見て、娘は、自分のことだけ考えないで周りの人に心を配ろう、と学び、少ないお小遣いを一生懸命貯めて、お友達にお誕生日プレゼントを買っていたり、根性のある前向きな性格に育ってくれているのが、本当に心の救いです。

そんな長女が初めて主人にわがままを言いました。

それは、小学校の時から一度も見に来てくれることのなかった、最後の今日の試合をお酒を抜いて見にきて欲しいというものでした。

主人はアルコール依存性なのでしょう。365日、一日もお酒を飲まない日はありません。

糖尿病で入院した時もロッカーに大量のお酒を隠して飲んでしました。

きっと仕事中も飲んでいると思います。

休みの日は朝から飲んでいます。

私はそれでも、子供たちにお父さんはよっぽど仕事が大変なのかも知れないね。

それで気が落ち着くなら受け入れておこうね。と育てていましたが 子供たちの中ではお酒を飲まないよそのお父さんが本当に羨ましいと心の奥では思っていたと思います。

私もアル中の母に普通のお母さんが羨ましいと何度も思いましたから。

でも 子供にはわからない何か辛いことがあるのかな?と思って気にしないようにしておりました。

長女のお願いを聞いた主人は「わかった」と言ってくれ、長女は本当に嬉しそうでした。

終わり良ければすべてよしで今までの事はすべて水に流して、今日は長女の為に精一杯 夫婦で応援出来る!と私も嬉しかったのです。

ところが、朝早く出る為と、早朝から準備をしていると 主人が起きて来ました。

足がつって痛いというのでさすってあたためると、すぐにおさまり、良かった。とホッとしてまた台所に立つと、「プシュッ」と音がしました。

振り替えるとビールを飲んでいる主人がいました。

私は肩が震えるのを押さえて「今日は娘の試合ですが!」と言うと、「わかってる。一杯だけだ。」と主人。

私は長女の心を思うと涙が出て止まりませんでした。

健全で純粋な場である試合会場でお酒の匂いぷんぷんでは、とても行けません。

甲子園会場とは全く違います。

起きてきた長女はお酒を飲む主人を見て、やっぱりそうだよね。と悲しい目をしていました。

私はごめんね。と長女をギュッと抱きしめて、この子の痛みを全部すいとりたいと思いました。

女は笑顔でいってきます。と出かけました。

主人は自分のことしか考えてないと思うのは間違っていますか?

今思うと足がつったのも、お酒を飲もうとして立ち上がった主人の心の間違いを改めなさいという、自然の法則の気がしてなりません。

飲んでさらに足の付け根に痛みがはしり、全体の足が痛いと訴えていますが、私は自業自得です。と冷たい心がやみません。

さすってあげようとも思えません。

先生。いつもの様に笑い飛ばせる勇気と元気を下さい。

 

同日返信

唯一の救い

こういった言葉を使ったらあまりにも失礼でしょうか。

それは今の家庭環境下で長女の娘さんがとても健やかに成長しておられるということです。

子どもは誰もが家庭環境の影響、友人の影響、社会の影響、教育の影響をうける中で成長していきます。

なかには不遇な環境に不満の気持ちが向き過ぎて荒れる子供もいます。

子の姿は親の姿そのものといえましょう。

あなたが明るく成すべきことを淡々とこなしてきたことを、娘さんはずうっとみて育ってきたのです。

それが今の娘さんの姿です。

「手塩にかけて育てる」ということを実践してきたことの証が娘さんの姿でしょう。

ご主人の姿から学んだことは、「こうあってはならない」という自覚だったのではありませんか?

ご主人は優しい方かと思いますが、人間の優しさは、反面、優柔不断とう側面をもっています。

しかし、ほんとうの優しさはそうではありません。

自分に責任を持って律することができ、他に寛容でありながら、人を思い遣るこころをもっていることかと思います。

しかし、娘さんのただ一つの願いを聞き入れるという、父としての慈愛を忘れていましたね。

「求不得苦」という言葉があります。

ご存知でしょうが、求めても得られないことを言い表しています。

そして

「愛別離苦・あいべつりく」愛する者と必ず来る別れの苦悩があります。

「怨憎会苦・おんぞうえく」怨み憎んでいる者に会うことの苦しみ。

「五蘊盛苦・ごうんじょうく」人間の肉体と精神)が思うようにならないこと。

これが人生でおこる人間の現実です。

しかし、あなたは娘さんの明るい姿に勇気と元気をもらいながら生かされてきました。

ありがたいですね。

家庭という形態をもってそれぞれが関連して生かされた生活をしています。

しかし、肉体は親子でも、魂は夫婦でも、親子でも固有のもので遺伝ではありません。

根本的にはれぞれが自己責任において向上するしかありません。

ご主人は自分のカルマを改善して向上するどころか、上塗りして還ることになるかもしれませんね。

こればかりは如何な夫婦といえども、ご主人の心根は変えられないのです。

心の不調和は様々なかたちをもって自覚症状として身体に現れてきますし、不摂生をすれば病気もするでしょう。

また、身体の不調によって心に不安が生まれ翻弄されるのも人間の弱さでもあります。

これは肉体への執着の強さがそうさせます。

しかし、心(魂)と身体の主従関係、すなわち心が主で、肉体が従う立場、人生の乗り物であることを知るならば身体に翻弄されてはなりません。

ご主人の心には、自分が生まれ育った家庭環境における業が深く潜在しているのではないでしょうか。

そのことに気づき、自身が悔い改める勇気と決断がなければ、これからの生活意識や態度が変わることはないでしょう。

そういう意味では、あなたが言うように「自業自得」ということになります。

先ずは、あなたは自分の人生を生きることです。

淡々と。

観童

 

同日夕受信

観童さま。早速のお返事ありがとうございます。

「自分の人生を生きなさい」というお言葉が心に響きました。

主人には主人の娘には娘の私には私の生き方があるんだ。と思いました時、主人に理想や正しさを求めている自分に気づき、私は自分自身を律しようと気持ちを切り替える事が出来ました。

それから、腹が立って「絶対に一緒に応援には行きたくない!」という私の思いは、横において、母親として長女の喜ぶことをと視点を変えてみるとやっぱり主人に応援に来て欲しいだろうな。と思いました。

主人にお願いをして、(嫌がっておりましたが)朝からお風呂に入ってもらいお酒を抜いて、スッキリした顔になり一緒に夫婦揃って応援に行きました。

長女はすぐに気づき、お父さんのしらふの顔にとても嬉しそうな顔をしていました。

試合はかなりの竸戦でしたが、長女らしい最後まであきらめないねばり強いプレーを見せてくれ、試合に勝つことができ感動をいただきました。

私はこの長女の頑張りを主人に見てもらえたことが、本当に良かったと思いました。

今朝 観童さまにお言葉をいただいていなかったら、悶々とした思いで、きっと一人で応援に行ったと思います。

親子共々最後まであきらめないという心に変えてもらい、感動をいただき、本当にありがとうございました。青樹君子(仮名)

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失敗・挫折・無駄骨の効用

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釈尊とは仏陀「真理に目ざめた人」の意味

一般には釈迦とよばれている釈尊は、古代ギリシアの大哲学者ソクラテス、イェス・キリスト、儒教の祖である孔子とともに『世界の四聖人』に挙げられています。

また釈尊がはじめて説いた「仏教」は、「キリスト教」、マホメッ卜が開いた「マホメット教(イスラム教・回教とも)」とともに『世界の三大宗教』の一つです。

釈尊が生まれたインドは、歴史のない国、と言われるほどで、とくに古代には正しい記録がないといわれております。

はっきりと年代がわかるのは紀元前三世紀のアショーカ王朝からのようです

したがって、釈尊の生誕年代にも諸説がありますが、紀元前四六三年誕生説をとっておきます。

釈尊は八十歳で没したとありますから、その生涯は、紀元前四六三年からおなじく三八三年の間となります。

ということは、釈尊はキリスト(紀元前四年生誕)より459年先輩で、孔子(紀元前552年生)より89年の後輩となるわけです。

釈尊の出生地は、ヒマラヤ山麓の小王国、インドのカビラヴァースト(千葉県ぐらいの面積)という地で、そこの統治者、釈迦族王家に王子として生まれます。

釈迦族はアーリヤン系の人種(異説あり)のようです。

このように、釈迦″は種族の名ですから、種族名に敬称をつけた″お釈迦さま″の呼称は、本来適当ではありません。

現在は″釈尊(迦牟尼世の略称)″と呼んだり書いたりするのか通例になっています。世尊は聖者と同意語です。

西洋人はブッダ(仏陀・目覚めた人)と呼んでいるようです。

ブッダは梵語の音写で「真理に目ざめた人」の意味です。

釈尊は、母のマーヤーの右の腋の下から生まれたと伝えられますが、その理由は決して偉人説話ではなく、インドのカースト(封鎖的な身分階級)の深刻な史実を伝えているのです。

インドでは現在でも数多くのカーストがあり、近代社会への発展を妨げています。

釈尊の当時では、四姓(種)のカーストがありました。

第一階級の「ブラーマン(世襲宗教者クラス)」は、神の頭から生まれ、

第二階級の「クシャトリヤ(武士)は神の腋の下から生まれ、

第三階級のペイシャ(農工商クラス)は、神の足の股から生まれ、

第四階級のスードラ(奴隷クラス)は、神の足首から生まれると信じられていたのです。

釈尊はクシャトリヤ(武士)階級だから、脇の下から生まれたとするわけです。

50年前も現代もインドのカースト制は職種とからみあって複雑です。

古いこのカーストの不合理な階級差別が、上記のようにかくも具体的に示された点を重視すべきです。

また、カーストの事実が、のちに釈尊をして「すべての人間を公平に見る真理」を求めさせます。

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釈尊の誕生時の像を「誕生仏」と言いますが、七歩あるいて右手で天を、左手で地を指しています。

そして「天上から地底まで、いつ、どこでも、誰もが真理の命を持っているから人間は尊いのだ(天上天下 唯我独尊)」とかけがえのない人間の尊厳性を訴えた相を表わします。

「天上天下 唯我独尊てんじょうてんげゆいがどくそん」と言っても、おれが世界で一番偉いんだ、という思いあがりではありません。

「三界は皆苦しみなり。我まさに之を救うべし」

この三界とは、欲望の世界のことであり、物の世界であり、精神世界のことです。

人間の生きる場は、つねに苦しみに充ちている、私がこれを救ってあげようと。

もちろん、生後間もない赤ん坊が、指さしたり、歩いたり、発言するわけがありません。

釈尊の誕生にちなんで、のちの人が『釈尊の教え』とは、こういうものであると、誕生に寄託した「仏教の宣言」にほかならないのです。

私たちは合理的解釈に慣れて、とかく伝説や説話を、非合理だとして葬りがちです。

しかし、″火のないところに煙は立たぬ″の譬えどおり、伝え話は何を表象しているかを読みとるのが大切です。

た、伝え話の形を借りなければ、合理的にはどうしても表現不可能の人生の事実があるものです。

また釈尊が誕生偶を唱える前に「七歩あるいた」という伝え話があります。

この数字の「七」はインドでは「永遠」の意味です。

すると、永遠の真理とは何かとの問いかけにもなります。

のちに臨済宗を日本に伝えた栄西禅師が、

「大いなるかな心や、天の高きは極むべからざるなり。しかるに、心は天の上に出づ。地の厚きは測るべがらざるなり。しかるに、心は地の下に出づ」と言っているのは、この誕生仏のことば、つまり「誕生偈」です。

意味は、

なんと心は大いなるものか。

天の高さは極めることが出来ないほど高い。

けれど心はその上に出ることもできる。

地の厚さは測ることができないほど厚い。

けれど心はその下に出ることもできる。

というところでしょうか。

また大応国師(禅僧)は、[衆のためにつくせ]といいます。

衆は人間です。「衆のためにつくす」とは、自他のため、つまり「自利利他」です。

自分が苦悩を知って、はじめて他者の苦悩かわかります。

すると他者の苦悩が自分の苦悩と受けとれます。

自他の区別なく、つくしてゆくのが「衆のためにつくす」ことです。

苦悩に限らず、喜びや楽しみの場合も同じです。

この自他の差別のない、おおらかな心の誕生こそ、人間の原点であり祝福に価いするものでしょう。

よく「他のためにする」と言います。

たいへんカッコイイのですが、あまり気張ると、そのことに偏り過ぎるがゆえに破綻を生じます。

実際に人の為にと少しばかり海外の途上国への寄付を隠れ蓑(みの)にして信者から金を集めているカルト教祖がいます。

それでも信者は教祖の教えを信じて経済的に無理をしてまでお金を寄進するのですが、家庭はうまくいくはずがありません。

「他のために」、それよりも、すなおに自分が一番可愛いのだと認めることです。

そして、愛する自分のために、自分で納得のできる生き方を精いっぱいするのです。

精いっぱいとは無心です。

執着せずに為すことです。

無心とは充実した心です。

それが自利となり、そのまま利他となるのです。

花が無心に咲くところに″精いっぱい″のよろこびを他に与える事実を感じます。

それがわからない人の心には、エゴが渦巻いています。

エゴと自利は違います。

エゴは自分を愛するのではなく、自分を食い物にしている寒々としたとした存在です。

また、ある修行者が、おなじく大応国師に質問します。

「釈尊の歴史上の誕生の事実は別として、釈尊はいま、どこにいらっしゃいますか」と尋ねます。

つまり、永遠の釈尊の実在を知りたいというのです。

国師は「脚下を看よ」と答えます。

看脚下、つまり足もとを看よ、とは自分への問いかけです。

自分を見つめ、自分の中に分けいり、自分を学ぼうと思い立ったそのときこそ、ほんとうの意味で、永遠に生きている釈尊、つまり真理に出会えるのです。

それは、尊敬する人と死別して幾十年後に、その人の教えが、すんなりと自分の胸の奥にストンと落ちたときが、深い意味でその人に出会えたといえるのです。

作家の故吉川英治さんは、青年時代に川柳に熱中した時期があったようです。

そのころの作に、
「あめつちの  中に我あり  一人あり」という詩があります。

川柳というより俳句と言ったほうがいいかもしれません。

自分がそうであるように、私たちの周囲の人たちもみなそれぞれ、かけがえのない「絶対の一人」なのです。

絶対の一人とは、それぞれみな″心″を持つ人ということです。

釈尊の誕生をただ単にお釈迦様の誕生と理解するのではなく、わが光(魂)の誕生と受け止めれば、「天上天下 唯我独尊」は、釈尊だけの叫びではありません。

私たちが「生命の尊厳」に目ざめてのよろこびの声となります。

さらに、どこの赤ちゃんの泣き声にも、犬や猫の鳴き声にも、小鳥の鳴き声にも「天上天下 唯我独尊」と「永遠のこころ」の尊厳性が叫ぼれているのを実感しなければならないでしょう。

私たちの迷いを表現した先の三界メリーゴーランドのように果てしなく回転する心の煩悩、執着した状態をいいます。
それを欲・色・無色の三つに分けて三界とします。

専門的解釈はとりあえずおいて、先ずは「現実の人生」と受けとめたいところです。

2500有余年前も、今も、現実の人生は確かに苦です。

それを安らげるために釈尊は生まれたのです。

釈尊の誕生を歴史的事実だけにとどめず、私たちの向上心の誕生と同時点に置くと、新しい人生が展開します。

大分古い話ですが、関根けいさんという一主婦のことばですが、彼女は、毎日新聞の「女の気持」欄に投書して言います。

「花は美しくてやさしい。

花は大をなぐさめてくれる。

花は大に愛される。

花はどのようにふまれても耐えて春を待つ。

花は人の心を明るくする……私は、自然を愛しながら、あたかいに親切をつくし、世の中を明るくするような人間になりたい。

花のように、木のように……」

「花の誓い」、あるいは「花のこころ」とでも言ったらいいでしょうか。

こうした誓いの心を持つのが、また釈尊の誕生は我が光なりという自他の区別が無い心に通じるのでしょう。

「目的のための難行苦行は無意味である」

釈尊の出家前の名をシッダッタといいます。彼の誕生後七日にして母のマーヤーは没します。そして母の妹、つまり叔母に養育されます。

また彼は幼少のころ、恒例の農耕祭を観覧しますが、たくさんの牛が鋤を引いて土を起こすと、いろいろの虫が掘り出され、それを小鳥がいち早くついばんで飛び去ろうとすると、どこからか猛鳥が襲って奪い去ります。

自然界の弱肉強食と力の闘争に、シッダッタの心は大きくゆさぶられます。

それは、人間社会でもおなじだからです。

とくに当時のインドにおけるカースト制は、より残酷な仕打ちを人間に科しています。

母に早く死別したこと、生物世界に見る非情で力の争いが盛んであること、おなじ人間でも差別があることの三点が、彼を深い苦しみに追いこむとともに、思索にふけらしめます。

ほんとうのしあわせは、心身両面の安らぎを得なければならぬこと、ラソクづけでは決定されない人間の真実の価値を発見しなければ、心身の安らぎは得られぬこと、この探求がシッダッタをして出家せしめた原因である、と私は考えます。

彼は、出家前に結婚したヤスーダラとの間に、一子ラーフラがあります(ラーフラは、のちに父のもとで出家し、十大弟子の一人となる)。

しかし、妻子への愛情以上に、人生の真実の幸福を追求する念のほうが強く、ついに父と妻子を城内に置いてただ一人出家します。

このとき、シッダッタは二十九歳。

彼は、それから六年間、苦行生活をつづけます。

そして、「これほど激しい苦行をしたものは過去・現在にはいない。未来にもけっしていないであろう」と、師も仲間も極めをつけるほどの成果を挙げます。

しかし。この体験の結果、「何かの目的のためにする坐禅や、自分の欲望を適えたいための荒行や、霊能力を得んがための難行苦行は無意味である」との結論に達します。

彼は、求道のためには教えられたとおり、すなおに心身を打ちこんで実行しました。

しかし、実際にやってみて、それがまちがいであることがわかれば、すぐに改めるのが彼の生き方です。

実行して反省し、改正する真剣な生き方です。

彼にしてなお、六年のむだ骨を折るのです。

身体を傷めつける荒行、難行苦行は、痛みや空腹に耐える行にはなっても心に安らぎを得て大悟することにはならないと気づき、それを捨てて菩提樹の根元に乾燥した草を敷いて死の決心で禅定に入っていきます。

やがて時が過ぎ、七日目の朝に明けの明星の光にふれて彼の心には静かではあったが、大きな爆発がおこります。そして今までわからなかった人生の疑問が氷が溶けるように一つ一つさわやかに解けていきます。

12月8日、暁の日とされます。

文字通り大聖者の誕生です。

自分の心の中に宇宙がある、宇宙のなかに自分がいるという「宇宙即我」の境地です。

六年間の無駄骨、このむだ骨を折ってはじめて、心の眼が開かれたのです。

むだ骨を折るのはいいものです。

僭越(せんえつ)ではありますが、私自身、学生時代に勉強など嫌いで仲間との遊びに興じていましたし、社会に出てからもたくさんの挫折を味わいましたし、組織のなかの矛盾や人間不信も体験しました。

思えば遠まわりをしました。

しかし、結果は、それがありがたかったのです。

詩人の、をさ・はるみ氏は、
「私が 私になるために人生の失敗も 必要でした ムダや苦心も 骨折も 悲しみもすべて 必要でした 私が 私になれたのもみんな あなたのおかげです 恩人たちに 手をあわせ ありがとうございます と一人ごと」

とあるのを知り、すっかり共感を覚えたものでした。

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電話にでれない娘の悩み

今回の相談内容をブログに掲載することを快諾してくださった娘さんとそのお母さんに心から感謝を申し上げます。

併せて、この掲載がブログ訪問してくださる方々の参考になれば望外の喜びであります。

 

以下、

観童様、相談を快く引き受けていただきありがとうございます。

本来なら本人が相談すべきことですが、娘が直接メールすることに抵抗があるようなので、私が娘に代わってお伝えいたします。

今困っていることは電話がかかってきたときに声が出なくなってしまうため、電話に出られないこと。要件があって相手方に電話しなくてはならないときも、じぶんからかけられないこと。

アルバイトをしたいけれど職場の電話がとれないし、面接の依頼さえできないと意気消沈しています。

本人がネットであれこれ調べた結果、吃音の一種であり、行動障害や精神障害の可能性もあるということを知ったようです。

精神障害の診断が出れば障害者手帳をもらえるので、それをハローワークなどに提示すればそれなりの就職先を紹介してもらえるかもしれないと言っています。

それで私が「焦って決めつけないで、観童さんに相談してみたらどう?」と促しました。

というのもネットでの情報は特定の学者さんや偉い方の意見や研究の結果であって、それだけが正しいとは思えなかったし、もっと広い視野で考えることが必要だと直感したからです。

娘は幼いころから言葉の発達が早い方で、よく喋りボキャブラリーも多い方だと思います。今でも食事の時と寝ている時と何かに夢中になっているとき以外は何だかんだと喋っていて、話し好きです。

確か3歳くらいの時から吃音(た行など)が出て、親が特に咎めたこともなかったですが、小学校の国語授業の読みのときはかなり辛い経験をしたようです。

現在は普段の生活で吃音(た、た、た、というような)は出ていませんが、娘は自分がそういう質を持っていることを気にしているみたいです。

それと音楽(楽器と歌)が好きでステージで発表するようなことも時々ありますが、観客が大勢いても上がってしまうこともなく、普通に歌って踊ることができます。

親の私から見ると、決まった文章や、アルバイト先での接客マニュアル対応などに拒否反応が出たり、他人の発する波動にも影響されているのかもしれないと思えます。

逆に決まった枠に押し込められることなく、自由に自分を表現できる事や場所ではとてもスムーズに進むことができるのではないかなと。

私自身も小学校高学年まで学校に行っても一言も誰とも喋らず帰ってくるようなこどもでした。後で知りましたが選択性緘黙というらしいです。

そういうことからも私の親や先祖代々の不調和ということも否定できないと思いますし、成仏していない先祖の関与もあるかもしれません。

また娘や私の魂の学びであるのかもしれません。

ざっと書き出してみましたが、不明なところがありましたら、こちらのメールアドレスに連絡してくださるようお願いします。

娘共々返信をお待ちしております。

返信

「吃音(どもり)の一種、行動障害や精神障害の可能性もある」とのこと。

吃音はたしかに医学的には行動障害に分類されているようですが、要は、吃音がなぜ起こるのか、どうしたら少しでも改善できるのかでしょう。

事例を一つ上げましょう。

私の経営する院の若いスタッフに、ひとり吃音る人がいます。

私は彼にゆっくりと、落ち着いて話すことを忘れないようにと指示しそれを継続することを提案しました。

結果、完全ではありませんが、随分と吃音ることが減り通常の会話と何ら変わらないところまで修正できました。

彼の個性はひとことでいうと、「せっかち、早口、頑な、生真面目、まっすぐ」です。

これは彼の長所部分でもありますが、短所の部分でもあります。

当初、彼には心のバランスを偏らせないようにとアドバイスしてきました。

娘さんの家での会話が通常通り?なのに、電話に出れない、かけれない、という背景には一言でいうならば、「極度の緊張」が潜んでいると思われますがお母さんからみてどのように感じているのでしょうか。

会話の速度は、早口ですか?普通の速度ですか?スローですか?

「極度の緊張」ということについてですが。

大勢のひとがいてもあがらずに普通に歌い、踊ることができる人が何故電話ができないのか。

電話もおなじように人を相手にしているのですが、違う点は、目の前に人がいるのと、いないのとの違いでしかありません。

目の前にいたら会話ができて、電話のように相手の姿が見えないだけで会話ができないというところが注目すべき点ではないでしょうか。

考えてみますと、

相手の姿が見えることで安心感がある。

相手の姿が見えないことで不安感がある。

ということではありませんか?

この点について娘さんに確認をしてみていただければと思います。

考えられること。

相手の姿が目の前にあって会話するということは、お互いの顔や目、姿かたち、服装、動き、こういったことが確認できることになります。

これは娘さんにとってはコミュニケーションをとるにあたってとても会話がスムーズに成立しやすい条件なのではありませんか?

そうだとすれば、逆の姿が見えない人とのコミュニケーションはやりにくいという意識があるかどうかです。

一般的には、顔をみて会話するより、電話での会話の方が難しさはあると思われますが、お母さんはその点どう感じますか?

医学的解釈で分類して、吃音の一種だとか、行動障害や精神障害の可能性がどうだとかいうより、もっと単純に苦手意識の延長上で電話に出れない、かけられない問題とは考えられませんか?

ここで視点を変えてみましょう。

私がこれまで経験してきたことを霊的な視点から述べますが、

お客さまからかかってくる電話の場合、相手の心の状態によって受話器を手にして第一声を聞いたときの感受反応がまったく異なります。

これは私が人間の持つ波動エネルギーに敏感であるということでわかる感受反応です。

相手の心から発する波動エネルギーは粗雑であるか、柔らかで穏やかな波動であるかによって受ける感覚が違ってきます。

こういうことを分らずとも直感的に電話から伝わる波動を嫌がって避けているのであれば、それは霊的エネルギーに対する防衛手段と捉えることができるかと思います。

私が思うには娘さんは霊的なエネルギーには敏感なタイプであり、無防備でいるとその影響の為に娘さん自身が心身の乱れを起こしやすいのではないかと思われます。

あまり霊的な視点を強調することも良くはありませんが、かといってそのことを無視することも片手落ちになろうかと思います。

ですから、霊的な部分に関しては今後、娘さんに理解できるように説明をして受け入れてもらうことも必要かと思います。

これまで述べたことを一考願えればと思います。

そのうえでお返事をいただければまた対処させていただきます。

観童

 

受信

娘がどうしても今すぐ伝えてしてほしいと泣いていうので、夜分に申し訳ありませんが、メールさせていただきます。観童さんからの返信は翌日以降で構いませんので。

以前フランチャイズの写真屋でバイトをしていたとき、スムーズに話せるようにと「練習」をさせられたのがきっかけで、言葉が出しづらいのが悪化したとのことです。

本人が言うところでは、対面の場合普通の会話はできるが接客マニュアルに従ってはなさなくてはならないような時言葉が出ない。(たぶんプレッシャーを感じているのかも)

アルバイト先での「おはおうございます」や「いらっしゃいませ」も言うことができない。

電話の場合は家族とかよほど親しい人でなければ話すことができない。

これは指摘されたように、相手の姿や表情が分からない不安があるからだそうです。

娘の特徴としてはせっかち、まっすぐ、以前はやはり早口でした。

「人と話す時、ゆっくり落ち着いて」というアドバイスについては今まで何人もの人に言われてきたらしく、とても嫌がります。

「私の気持ちなんて何もわからないくせに!」と。

今夜は遅いので、続きは明日メールさせていただきます。

 

8月17日 返信

「私の気持ちなんて何もわからないくせに!」

この言葉は過去に起きた出来事に対してそう思ったことだとは思います。

そしてこのようなケースは世の中にたくさんあります。

ここに事例を一つあげてみます。

40代後半の主婦二人、親友を自負するAさんと、Bさんがいました。

Aさんはガンを発症し、片方の乳房を全摘手術しました。

転移を避けるために抗がん剤治療を継続しました。

費用も毎月10万円ずつかかりました。

Aさんはご主人が大酒のみで仕事も休みがち、給料も少なく、生活に困窮していました。

AさんはいつもB さんを呼び捨てでしたが、しかし、BさんはいつもAさんを〇〇ちゃんと呼んでいました。

実はBさんのほうが3歳年上です。

仲はいいのですが、Aさんはいつも強気発言で、強引で、お金がないのに見栄っ張り、

そんなAさんの話をBさんはいつも聞き役、受け止める役目です。

ある日、BさんがAさんに言いました。

〇〇ちゃん。ガンを患って辛いだろうけど、そういう風に心を取り乱しばかりいては回復も遅れると思うよ。

こういうときこそ心を冷静にして調えることをしたほうがいいんじゃないの?

そしたらAさんは言いました。

「あんたがガンを患ったわけではないでしょ。私の気持ちなんて何もわからないくせに!」と。

Bさんは戸惑い を隠せず、返す言葉を失いました。

その後もAさんは問題発言をしてBさんの心を深く傷つけたのです。

それ以来、この二人の長年の友情関係がプッツリと切れました。

Aさんはいつもご主人の愚痴を言い、社会を呪い、他を批判していました。

私は、随分とAさんの考え方、言動を注意したものです。

しかし、最後までAさんの心には落ちませんでした。

どれほど苦しんでいても、助けてほしいと心からそう思って素直な気持ちで手を差し出さないと、その手を引くことはできません。

自我心が強ければ強いほど素直になれないのが人間の心です。

「受けた被害を強調する人の心には、隠れた敵意があります。」

この敵意の背景には自分中心的エゴが潜んでいます。

自分の問題を、他にぶつけるときの言葉は逃避であり、言い訳の道具でしかありません。

逃避、言い訳、これは人間のエゴであります。

自分の思うようにいかないことに立腹することもまた人間の最たるエゴであります。

人間は少なからずエゴを持ちえていますが、その程度によって社会との孤立が深まってくることを気づかなくてはならないでしょう。

人間のエゴは、感情の起伏となって言動に表れてくるものです。

電話に出れない、かけれない。

このことだけに目をや ると事の真実、真相を見失ってしまうでしょう。

根本的な心の改善を心掛けることから始める方が最善の道かと思いますがいかがでしょうか。

 

8月17日 受信

返信いただきましてありがとうございます。

過去に小学校の担任の先生や親しくしていた人から言われたそうです。

当時は娘も子供だったので「ゆっくり落ち着いて話すように」という指示の前に

「言葉がでなくて今日は辛かったね」というような受容の言葉、共感が欲しかったのだと思います。

比較や競争ばかりのこの時代、子供だけでなく大人も優しい言葉をとても必要としているのではないでしょうか。

それでも娘も二十歳になり成長しているわけですから、自分のことをもっと解ってほしい!というエゴに気づいて行かなければなりませんね。

観童さんの仰るように電話に出られる、出られないということに固執するよりも根本的な心の改善から始めるということが必要だと私も思いました。

その辺は娘が受け入れやすいように導いて行くことも私の役目かなと思います。

生きづらくて嫌だ。と言って泣いたり当たったりしているけれど、このまま行けばいつか孤立するということを一番わかっているのは本人だと思うので、その辺も併せて話をしてみようと思います。

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心に思うことが罪

釈尊の教えは心の正しいあり方を教えている

ある人が釈尊に聞いた。

「身体で実際に人殺しをした者と、言葉で人を貶め苦しめ悩ませた者と、心ではいろいろ思っても、実際にはそういうことをしたことはない善人と、この三人のうちでいちばん罪の重いのは誰でしょうか」

釈尊は答えられた。

「それは身体や囗ではなんにもしないが、心にいろいろと思っている人である」と。

その真意を述べてみたい。

道徳は生まれてから死ぬまでの人間のあり方を説くので、生まれてくる前の世界、死んだ後の世界のこと、すなわちあの世とこの世の関係は説かない。

ですからその人の生活が道徳的に正しいかどうかが問題とされるのです。

例えば、争ってはならない、腹を立ててはならないと道徳ではいう。

「喜怒哀楽を色に表さず」という儒教の言葉が道徳の美徳を示しています。

簡単に説明すれば感情に左右されずということでしょうか。

心のうちにはどんな思いを持っていても、それを行動に表しさえしなければそれでよいということになるが、実際問題として社会生活の上で、心に思っても顔に出さないという自己管理ができる人は大変な人ともいえる。

しかし、行為やことばで人を傷つけた人は、自分のしたことが自分に見えるから、良心があれば必ず反省の心が生じてくる。

が、心の内で思っただけで、実際に人を傷つける行為をしなかった人は、現実に何もしていないので、道徳的に責められることはない。

したがって、反省の心が生じないか、生じても極めて薄い。

反省の心のない人は、心が怒りや憎しみや暗い思いでいっぱいのはずである。

実は、そういう心こそが宗教的には最も罪深いものといえる。

顔では柔和な素振りをしていて第一印象がいいようにみえる人なのに、内面には非常に不満と怒りを溜めこんでいるために、心から発する波動が突き刺すように伝わってくる人がいるのである。

この世では通用しても、そういう心はあの世ではいちばん重い罪悪となる。

例えば、モーセの十戒にある「汝、殺すなかれ」というとき、実際には殺してはいないが殺したいほどの憎しみを心の内に思うことすら、禁ずるという徹底した深さと厳しさがある。

だから、正しいということは、この世でだけ正しかったからといってそれで正しいとはいえないので、この世とあの世とを通じて正しいことでないと、本当に正しいとはいえないのです。

釈尊が、心で思っている者の罪がいちばん重いのであるといわれたのは、釈尊はあの世とこの世とを通して見る力を持っておられたからだといえるでしょう。

あの世とこの世とを通して正しいことでないと真の正しさではないという基準がわかると、この世は真に平和になることができる。

この正しさの基準をもって宗教というものを解釈すると、はじめて正しい教えであるかどうかがわかってくるのであり、これまで仏教がなかなかわからなかっだのは、この正しさの基準と見方が、余りにも哲学的表現や当て字や理論に過ぎてわからなかったからである。

そして教義や著書では立派な事を信者に宣伝したり、一部慈善活動を行ってその光景を撮影し、ビデオやポスター、著書に載せ、立派な教祖だと信じ込ませることに余念がない。

しかし、内情は信者に負担を強いて金を吸い上げることに一生懸命である。

信者は無理をしてまで金を都合して教団に支払って家庭内トラブルまで発展しているという事実が数日前に相談にみえた。

実態を知らぬ信者とは言え、そうして間違った教団、間違ったご利益教義に盲信していく信者の心もまた立派に罪を重ねていくことになるのである。

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聞き上手は話し上手

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Tom様のコメントへ返信

あなたからのメールを拝見しまして文章の流れの良さにとても感心しております。

これほどの文章を書けるあなたは捉えどころが良く、論理的に物事を考えることができて素晴らしいと思っております。

そういうあなたがどうして「日々のちょっとした会話の中でさえ、他人を不快にさせてしまう自分にがっくりしています。」ということになるのでしょうか。

その辺のところを何故不快にさせてしまうのか。

あるいは不快にさせているのではないかと自身のなかで思い込んでいるだけではないのか。

コミュニケーションという言葉があります。

会話はというのは自分の意思を伝える手段でありますが、同時に相手の意思を確認する手段でもあります。

しかし、コミュニケーションを図ることは必ずしも上手に話すことでもないように思います。

会話の上手下手を問われれば、上手な人が少なく、下手な人の方が多いかもしれません。

アナウンサーや落語家、漫才師、講演の講師、等々の話しのプロならともかく、私は話が上手ですと言える人なんて限られたものではと思います。

昔から、「話し上手は聞き上手」とはよく言ったものです。

どれほど話し上手であっても、一方的、且つ、能弁にまくしたてる相手とはあまり話したいとは思わないでしょう。

コミュニケーションをとるということは聞き上手でありたいものですね。

例えば、私の場合、相談者との会話は、相手の話したいことをじゅうぶんに受け止め聞き役に徹します。

そのうえでアドバイスではなく、先ずは私から問いかけをします。

そうするとその問いかけに答えてきます。

そこに相手の意思、思いを感じ取れます。

聴いて受け止める⇒問いかける⇒相手が答える⇒問いかける⇒相手が答える。

このような連鎖があることで相手は話すチャンスがあり、聞き入れてもらえているという実感があると思うのです。

問いかけるときに自分の考えも入れながら質問すれば、それで十分自分の意見を言ったことにもなるでしょう。

先ず、完璧な会話を求めず、聞き役から始めて、問いかけることをやられてみてはどうでしょうか。

観童

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宗教被害・マインドコントロール

禅定

マインドコントロール

毎月の会費、救霊費、諸々と何をするにもお金がかかるシステムの教団は多い。

〇〇の〇学や、当時の〇〇〇真理教が社会問題化して以降、〇ー〇〇メ〇トでもトラブルが続出し、会員の家族から多くの苦情もあがり、「息子が帰ってこないので脱会させたい」との声があがったことがあった。

また、〇ー〇〇メ〇トの幹部にあたる『九頭龍師』に認定されるには当時1000万円近くの費用が掛かったとも言われ、高額の御祓い料が問題視されたこともあった。

実際、過去には「救霊」「秘法」と称した儀式への献金を集め、関連会社が64億円もの所得隠しを国税当局から指摘されてニュースにもなっている。

九頭龍師になるには過去200万円程度必要でした。古い話になりますが、第1期九頭龍師が1990年頃に募集され、その当時の研修費(玉串料)が200万円現金一括払いということでした。

ちなみに九頭龍師の資格と同時に救霊師の資格も併修する者が多数いました。

この研修費(玉串料)は300万円でした。

クレジットを組んでまでもそういった霊的な力を得たいとする会員の盲信は、人間の欲望という愚かさゆえのことであるが、これこそが人間の心理をうまく利用したマインドコントロール以外のなにものでもない。

そしてまた今、この教団に関わる人から霊障の相談が一件きている。

自己を愛する

信仰は自己を愛することから始まる、こういうと殆どの人が、それは間違っている、慈悲とは他者を愛することだと反論されるかもしれません。

もちろん、他者を愛するということも大事なことである。

だが、他者を愛することが大事だからといって、自分自身は粗末にしてもよいのか、他者は人から愛されて幸せになったとしても、自分自身が不幸になれば、幸せはどこにもなく、これもまた偏ってしまう。

これまでの宗教家の大きな過ちの一つは、「他を愛することばかりを強調して、自分自身を大事に愛することを教えなかった」ことにあると思われますがどうでしょうか。

だから、人に施しなさいといわれて人のために布施し、教団に寄付しても、自分自身では幸せにならなかったという人が実際にたくさんいる。

ことわっておかなければいけないが、ここで「自己を愛する」というのは、私を愛して欲しい、愛されたい、私だけを愛して、というような利己的な愛ではなく、自分も他も同時に幸せになるという「真実の愛」のことである。人間の持つ愛は、他を愛する以上に己が可愛いものである。

ある王がお釈迦様に尋ねた。「仏陀よ、人を愛するとはどのようなものか。」

お釈迦様は答えられた。

「人の思いはどこにでも飛んで行くのだが、どこに飛んでいこうと自己より愛しいものを見つけることはできない。それとおなじように、他の人々もまた自己をこよなく愛するものだ。されば、自己の愛しいことを知るものは、他の人々を害してはならぬ。」と

愛とは相手に対する深い理解である。

自分自身を大事にできるのは自分自身しかない。

自分身を大事に愛することができる人が幸福になるのであり、自分を粗末にして愛さなかった人が不幸になるのである。

自分を大事にする人は、人をも大事にすることができる。

自分自身を自分が愛すると同じように、他を愛し、他を大事にすることが本当の愛ではなかろうか。

利己主義は、表面は自分を愛しているようであるが、実際は人から嫌われ軽蔑されて自分を不幸にする。

自分の生命を大事にしなければならないことがわかっている人は、決して他の人の生命を粗末にするようなことはしない。

私たちは、自分が自分自身を愛すると同じように人をも愛さなければならない。

釈尊がいわれたのは、自分が自分を愛する愛と、自分が人を愛する愛とに、なんら差別があってはならないということであろう。

自分を正しく愛することができる人がまた、他の人をも愛することができるのである、ということであった。

さて、自分自身の心の中に苦しみや悩みをつくることは、自分で自分を愛することになるのであろうか。

自分が不幸になるような心を持つことは真に自分を愛することになるのであろうか。

このことを考えたら、宗教団体が「神仏を愛せよ」という言葉の下に、間違った教導を行い、信者に心の苦しみを与えていることは真の愛であろうか。

無理して寄付せようとするということが愛になるのであろうか。

口では愛だ、慈悲だ、布施だ、布教だ、奉仕だといいながら金銭的負担を強いて家庭崩壊寸前まで追いやることが真の愛だろうか。

真の教導だろうか。

毎月これだけ本を買えということが愛なのであろうか。

やめて行く信者の背後から、「恩知らず」とか「罰が当たる」という言葉を浴びせることは愛なのであろうか。

救霊師の称号をもらうために数百万の金をクレジットを組んでまでも会員に推奨するカルト教団が慈善活動を以って隠れ蓑にするという事実は多くの家庭崩壊のもとになっているようだが、これが愛のある教団であろうか。

ともかくブログを訪問してくださっているあなたが、これまでなんらかの信仰をしてきて、そのために心に苦しみと悩みを感じたとしたら、その信仰は間違ったところがあるのであるし、自分自身を愛するならば、心に苦痛を感ずるような宗教は、自分自身を愛するが故に勇気を以てやめるべきである。

そうして、真に心の安らぎを得られる道を求めることであると思う。

だから、真の信仰には、取るべきものを取り、捨てるべきものを捨てるという勇気が必要になるのである。

得るべきものを得ず、捨てるべきものを捨てきれないでいる信仰者は実に多い。

疑問を持ちながら、苦しみを感じながら、「恩」という言葉や人間関係等にとらわれて、信仰をしている人は、自分を愛することを知らない人たちである。

釈尊が説かれたような真の愛、慈悲がわかっていたら、信者の心を苦しめるような教えを説き、運営をすることは絶対に出来ないはずであるが、現在の宗教団体の信者が、みな、心に苦しみを持っているということは、その指導者たちが神理がわかっていないからである。

だから私は、「自分を愛することに勇気を持ちなさい」と申し上げたい。

人間は正しい教えを心で感じたときにこそはじめて心の安らかさをもつことができる。

心に疑問奇持ちながら信仰しても、疑問を持っている信仰が私たちに心の安らかさを与えることは絶対にない。

罰が当たるといって後ろから脅す宗教が正しい宗教であるはずがない。

「罰が当たる」といわれたらその人は心をおののかせるであろうことを考え、愛の心があればそういうことは絶対にいえないことであると思う。

正しい宗教か否かを判断する基準としていくつか述べてみました。

細かく挙げればまだあるが、しかし、ここに挙げた基準を以て、現在の日本の宗教を見るならば、その判断は自らして正しい判断ができるはずであります。

正しい信仰をするためには、間違ったことは信じないという意志の明確さと、正しいと思うことは実践するという勇気を持たなければならない。

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喫茶喫飯

30818

Tom様へ

一昨日頂きましたコメントへの返信

あなたのいう「天命を信頼して不安感をなくし生きる」これが実行できていないということですが、先ず、あなたのいう天命とはどういう意味を含んだ言葉なのでしょうか。

一般的には、「天命」は大きく分けて2つの意味で用いられているようです。

ひとつは《天から与えられた使命》という意味での為すべきこと。

もうひとつは、人間の力では如何ともしがたい《運命》や《宿命》を意味し、天から与えられた宿命ないしは寿命を意味するようです。

 『人事を尽くして天命を待つ』という言葉があります。

つまり努力、忍耐、最善を尽くして、あとは何も期待も抱かず、囚われず生きることかと思いますし、私自身もそうありたいと願って生活しております。

そういう自覚で日々の生活を淡々と為していきたいものですね。

男に生れたこと、女に生れたこと、貧乏の家に生まれたこと、このように生れたその境遇を嫌だといって女が男になることはできません。

これが宿命です。

しかし、命を運ぶことのなかでどのような生き方をするかは自分次第でありますから当然、様々な結果が待ち受けています。

貧乏が嫌なら努力をすることで経済的にもある程度改善可能となるでしょう。

これがすなわち運命です。

天命を信頼して、とはいっても実際には行いが伴わない生活。

そうだとすれば、もっと基本的な生き方をすることから始める必要があるのではないでしょうか。

過去に辛い思いをされたことがおありかと思いますが、先ずは、自分を卑小な者、という思考は捨てなくてはなりません。

総じて、心病む人たちにある思いのなかに、卑小(自分を小さく見る、価値の低い者、取るに足らない者)というか、卑下というか、そういった傾向があります。

こういう思いが、どれだけ自分の心身を蝕(むしば)んでいるかということに気づいていただければと思います。

神は人の差別も分け隔てもしませんし、人類はみな平等な魂と権能をいただいて誕生しております。

人間がそれぞれの置かれた立場、環境のなかで自分の運命を良きものにする勇気と努力とを惜しんではならないのではないでしょうか。

あなたのいう親鸞聖人の教えは、それはそれとしてまた心の支えであろうかと思います。

善人にも悪を為した人にも同じように心があります。

ただ、社会の法律に反するような罪を犯してはいなくても心に罪をつくっている人たちは多いでしょう。

足ることを忘れ、金や物の亡者となり、地位に固執し、傲慢となり、欲望のままに生きるもまた心に罪をもった生き方といえます。

御承知のように、親鸞の生きた鎌倉時代前半から中期は非常に混沌とした戦乱の時代でもあり、末法の時代ともいわれ、源頼朝が征夷大将軍に任じられ鎌倉時代へと移行していったときでした。

そういうなかで親鸞は、無学文盲の人々の多い世に仏法を広めて、心の安息を与えるために必要な法便ということで、あなたのいう「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」といって、「南無阿弥陀仏」と唱えれば悪人でも極楽浄土に救われるという死への恐怖回避でもあった他力本願の教えを広めました。

本来は、お題目を唱えることではなく、一切の煩悩、心の執着から離れて調和することでしか魂の調和とステージアップを図ることができないのですが、時代背景が戦乱の世であり、無学文盲の民衆が多い時代でしたから、阿弥陀如来に一切任せて、丸投げしてすがるという信仰スタイルを取らざるを得なかったのでしょう。

それが「南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏」の連呼として今日まで継承されてきたのです。

南無は帰依する。阿弥陀は仏の名称。仏は悟られた方。という意味かと思います。

何遍も、何遍も南無阿弥陀仏を唱えるということは、阿弥陀様の教えに帰依します。阿弥陀様の教えに帰依します。阿弥陀様の教えに帰依します。と限りなく唱えていることになります。

よくよく考えてみれば滑稽な話しです。

これが本来の信仰のあるべき姿でしょうか。

私はそうは思いません。

阿弥陀如来の教えに帰依されるなら、その尊い阿弥陀経の教えを日々の生活に実践することこそが信仰ではないでしょうか。

Tom様の御質問から脱線したようですが、今回、親鸞聖人の教えがあなたの文章内にありましたので敢えて触れさせていただきました。

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Tom様のおっしゃる「喫茶喫飯」

この禅語は私も好きです。

お茶がでれば、お茶を飲む。

飯がでれば、飯を食べる。

人生をそのまま味わう境地。

禅の世界では衣食住と日々の作務を非常に尊び、また規範ともしました。

人間の分別など大したことはない。

損得・良し悪し・好き嫌いを消滅させれば、道を極めるのは、難しく無いと教えておられます。

眼、耳、鼻、舌、身の五官に囚われるから心を病むのだということでしょう。

実際にこれまで対峙してきた悩める人たちの心はいつも、何かに拘り、手放せず、自分を卑下し、人を信じることもできず、疑念と猜疑心を持ち、不満と、愚痴と、怒りと、悲しみと、渇愛を抱えています。

「受けた被害を強調する人の心には、隠れた敵意があります。」

どんなに素晴らしい著書、知識を得、集積しても自分の心が救われることはなく、勇気と、日々の行いと、継続の中にしか大悟はありませんし、心の癖(傾向性)は修正不可能であります。

失礼いたしました。

観童

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親と子の心理

涙

不自然で無理な躾

『立派で素敵なお家でございますわね。』(実際は世間並み以下の家)

我が家の居間に招いた来客についてきた幼い子どもの言葉である。

小学校4、5年生頃かと思われる女の子がいった言葉だが、その物腰と言葉に私は一瞬戸惑いを隠せなかった。

私の近くに土地を所有している男性が我が家に用事があってたまたま連れてきた娘さんなのだが、その親子を居間に招きお茶を差し上げたときに切り出したその子の言葉だ。

私はその子の言葉遣いに、何かしら子どもらしくないとても馴染めない耳障りな異様さを感じた。

後日、私は用事があってそのお宅に電話した。奥さまらしき女性の声がした。

『はい。』

『柳林さんのお宅でしょうか。』

『はい。』

『観童と申しますが、ご主人はいらっしゃいますでしょうか。』

『はっ?うちの春治が何か?』

『実は土地の件でお電話をしましたが。』

『何の土地ですか?それはどういう意味ですか?』

『実は草刈りの件ですが・・・・・・』と、何故かとっさに話しをはぐらかしてしまった。

非常に人を威嚇するようなもの言いの奥さまの言葉に何かしら知られてはまずいようなことがあると直感したからだった。

後日ご主人が訪ねてきて、あの土地は家内には内緒で購入したものだと聞かされた。

ご主人は教師をしていましたが、旧家に婿養子にはいって全く女房の尻に敷かれて男の威厳などないとぼやいていた。

あの小学生の娘さんのもの言いは、お母さんの教育の影響だったと合点し納得いったのだった。

躾、教育の在り方を考えさせられた一件だった。

父と子と母・その健全な在り方

親と子はどちらが先に生まれるのでしょうか

このように問いかけましたらほとんどの人は、「そりゃ、わかりきったことだ、子が先に生まれることがあるものか、親が先に生まれて、親があって子供が生まれるんだ」といいうでしょう。

またそれを当然のことだと皆さん考えると思います。

常識的には、そういえるでしょう。

ここで敢えてわかりきった、このような問いかけをするのは、皆さんに、人生というものをもう少し深く、ちょっとだけ哲学的に考えてみてもらいたいと思っているからです。

「夫」といった場合、「妻がいる」と考えなければなりません。

妻がいない男を「夫」とは呼ばないでしょう。

妻がいない男は単なる一人の男にしか過ぎません。

それと同じように「妻」といった場合はすぐ、その人には「夫がいる」と考えなければならないでしょう。

一切は相依性である!

これはお釈迦さまがおっしやった有名な言葉です。

物事を考える場合、常にこのような考え方があってもよいのではないでしょうか。

それだけでもあなたの心に安らぎがうまれてくるはずです。

「相依性」であるというのは、この世の中に、それ自体として単独で存在するものは一つもない、ということをいったものです。

私達が生きてゆくのでも、よく若い人のなかで、勢いのある人や反発心の強い人の場合、「おれは誰の世話にもならずに、ひとりで生きてゆくんだ」と言うことがあります。

本当にひとりで生きてゆくことができるのでしょうか。

生きてゆくには食べなければなりません。

その食べる物は自分が作ったのでしょうか。

食べるには煮るか焼くかしなければなりませんが、ではその電気やガスやプロパンガスなど、自分で作ったのでしょうか。

電気やガス等があっても器具がなければ煮ることも焼くこともできない。

食べるには、どこかで働かなければお金がもらえない、そこには働く場を与えて下さった人の存在があるでしょう。

一人では仕事ができません。

上役があり同僚があり部下がいます。

機械は全て自分が造ったのでしょうか。

違います。

人間は裸ではいられませんから、衣服を着ています。

それならその衣類は自分で作ったのでしょうか。

例えばウールのシャツ、セーター、背広を着ているとしたら、まずそれらを作ってくれた人があります。

毛といえば羊毛です。毛は羊から取るわけですが、その羊は自分が造ったのでしょうか。

住む家はどうでしようか。「いや、わしが金を出して造ったんだ」という言い方をよくしますが、それはそれでいいですが、まさか自分で建てたわけではないでしょう。

建築屋さんがいて、設計屋さんがいて……たくさんの人の手がかかっています。

家は、木材で、石で、金属でと、いろいろの組合せでできているわけですが、その木材を、玄関の大理石を、セメントの原料となる石灰石を採取した人がいるでしょう。

一人では仕事ができません。

上役があり同僚があり部下がいます。

第一に自分がひとりで生きているといったって、呼吸しなければ死んでしまいます。

それなら、空気を自分で造ったのでしょうか。

水がなければ生きてゆけませんが、水は自分でつくったのでしょうか。

それに太陽がなければ生きてゆけませんが、太陽は一体誰がつくったのでしょうか。

お蔭さまで

「おれはひとりで生きているんだ」という自我意識の強い人間が出てきたのは、遡ってみると明治維新になって西洋の合理的精神、自己中心の考え方が入ってきてからだと思われます。

昔の日本人は、何ごとでも「お蔭さまで」と感謝してきました。

相依性とは、お陰様ですということです。日本を悪く言う人が大勢いますが、日本人の優秀なさは様々な分野において活躍していることをみてもわかると思います。

西洋よりも今、日本の方が技術面でも人材の面でも世界を抜き出ています。

話題は変わりますが、インドでは昔から、男性器を「リンガ」、女性器を「ヨニ」といって神さまとして拝んでいます。

そのインドの性器崇拝信仰が仏教と一緒に日本に入ってきたのです。

男性器に似た岩に″しめ縄″を張ったり、女性器に似た割れた岩があるとそれを神聖な場所として拝んだり、ある神社の神体は男性器です。

昔のインドの人は子供が生まれてくることに不思議さを感じたのです。

男性器の先から出た″しずく々が、女性器の子宮に入ると、影も形もなかった所から人間が生まれてくる。

それは人間の力ではない。ふしぎな神さまの働きである。

だから男性器女性器にも、神様が宿っていると考えたのです。

インドへ行った日本人は、インドの人達が男性器「リンガ」女性器「ヨニ」を拝んでいるのを見て、エロだと笑ったといいますが、インドの人は、日本人が見ているような浅い考えで拝んでいるのではないのです。

その国の信仰、文化には、それが発生した原因があるのですから、それは尊重しなければなりません。

相依性の説明が、こういうことになりましたが、しかし、やはり一度は真剣に考えておかなければならないことだと思うのです。

衣食住すべてにおいて自分一人でというわけにはいきません。

ここに感謝という心の働きと、恩に報いるという行い、すなわち報恩があります。

十月十日で、お母さんの子宮の中で、赤ちゃんが造られるというその生命の神秘さには驚きと感謝が必要でしょう。

私がふしぎに思うのは、私には五人の姉妹がいますが、その五人が皆、顔形が違い、性格までも違います。

当たり前だといったらそれまでですが、その不思議さを思った時、生命の神秘さと親に感謝せずにはいられないということです。

子供を拝む

よい子に育てる秘訣は子供に感謝して拝むことです。

親だからと上から目線で物申してはならなりません。

一人の人間に対する気持ちで、子供と言えども尊重の気持ちを持たなくてはならないのです。

「あなた達は、ようこそお父さんとお母さんのところに生まれてきてくれました。」と、それぞれ顔形の違った、性格の違った、その顔をつくづく眺めて「もっと違った顔の、違った性格の子供であっても不思議はないのに、選りに選ってこういう子供を持って、この子供達が生まれてきてくれて、親となる喜びを与えてくれた」とそう思うと、その子供の顔をしげしげと眺めているうちに、自然に涙が溢れてきて「神さま、ありがとうございます」と、この子供達と親子となる縁を与えて下さったことに感謝せずにはいられないのです。

なぜ、子供のために泣かされるのでしょうか。

なぜ、子供が不良になるのでしょうか。

それは今いったような、子供に感謝するという心が親になかったからです。

子供にそういう感謝ができるためには、夫婦が調和していなければできません。

夫と不調和であると、「この人の子供を生みたくない」と思うでしょう。

すでに子供が生まれていたら、「この人の子供を生まなければよかった」とか、この夫が死んでしまえばいいと思っている女は、つい子供に向って「あんたなんか、死んでしまえ」といいたくもなるでしょう。

実際にそういう言葉を自分の子供に浴びせた親がいました。

やはり、その子は後々、心が病んでいました。

「出て行け」とか「生まれてこなければよかったんだ」とか「死んでしまえ」とか、いわれて子供はどんな悲しい思いをするでしょうか。

「生まれてこなければよかったんだ」といわれれば「それなら、生まなければよかったんだ」「生んどいて文句いうな」と、反抗したくなるのは当然でしょう。

我の強い女というのは、感情的になりやすく、自分を見失い、且つ、自分のことしか考えていないから、自分の独りよがりの言葉によって、どんなに夫の心を傷つけているか、どんなに子供が悲しい思いをしているか、そこまで考える心のゆとりがないのです。

夫や子供に嫌なことをいって、それで心が安らかになるわけがないでしょう。

自分でいって自分でプリプリ怒って、自分でイライラしている。

そういう自分のことしか考えない妻を持った夫、そういう女を母としなければならなかった子供はほんとうに気の毒です。

親と子はどちらが先に生まれるか、ということを説明しようとして、前置きが永くなりました。

親と子は同時に生まれる、というのが、哲学的な解釈です。

おわかりになるでしょうか。じっと考えてみて下さい。

先に、「夫」というのは「妻」があっていうこその言葉であるという説明をしました。

それと同じように、「親」というのは「子供」があってこその、子供に対していう言葉です。

子供がいない人は、親になる資格はあるが、まだ子供がいないから、ただの「男」であるか「女」であるか「夫」であるか「妻」であるかに過ぎません。

子供はないのに「親」とはいいません。

だから、子供が、オギャーと生まれた瞬間に親になるのです。

ということは、親と子の関係は同時に生まれるというのが哲学的な親子の関係の考え方です。

子供を持たれた方はおわかりでしょう。

「オギャー感激と感動を」と生まれてきた子供の顔を見た瞬間に「親になったんだ」というあの、もしそういう感激と、身の引緊まるような感動がなかったという人は今からでも子供が生まれてきた時のことを思い出して、感激と感動を新たにしてみてはどうだろうか。

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tom様コメントへの返信

Tom

いつもブログを訪問していただきありがとうございます。

ご質問の土地の件ですが、必ずしも自分の波長が低いからいわくつきの土地を購入してしまうということでもなく、実はいわくつきの物件が多いという側面もあるということです。

Tom様が体験された夢の中の出来事は単なる夢ではなく、実際の霊的な現象を睡眠するなかであなたの潜在意識が感受したということでしょう。

覚醒しているときよりも、睡眠中のときのほうが潜在意識が表面に出て働きやすいからです。

 二階にあがるのに気が進まなかった、という直感は正に的を得たということであろうと思います。

『この家を大事に使いますから』と心で念じたということは良かったですね。

 もうひとつ加えるなら、成仏できていない霊に対して祈りを捧げることも有効かと思います。

例えば、『この家、土地にいる霊よ、あなたに心からの供養を申し上げ、冥福をお祈りいたします。あなたは既に亡くなってこの世の人間ではなく、あの世の住人となったのであります。ですからいつまでもこの家と土地に居続けてはなりません。あなたも生前の不調和な心と行いを反省して一切の執着、拘りから離れてください。そしてあなた自身の心の中の罪を悔いて神仏に心から詫びるのです。あなたの心が調和されますと、そのときに天上界からあなたを迎えに来てくださいます。娑婆への未練と執着を断たないとあなたは天国にあがることができないのです。ですから心を調和するべく、あなた自身の過去の反省をおこなってください。私も神仏にあなたの冥福を祈りましょう。神よこの地に居る霊たちの心に慈悲の光と安らぎをお与えください。』というようにです。

自分自身の日頃の健康管理は難しいものではなく、また特別なものではなく、シンプルに基本的なもので十分ではないでしょうか。

就寝時間、起床時間を乱さない、贅沢ではなく、粗食でも偏りのない食事、暴飲暴食しない。毎日の適度な運動、一日を振り返り思いと行動に偏ったところがあれば、それを改める決心をして一日の終わりとする内省の時間をちょっとだけつくる。

こういったことのシンプルな生活こそ心と身体を整える必須条件かと思います。

これは私自身が実践していることをそのまま述べさせていただきました。

あなたがいう『天命を信頼して不安感をなくし生きること…今の私には、このくらいしか「正しいこと」を思いつきません。』これ以外の何があるでしょうか。

これが本当に実践できているなら申し分なしと思いますがいかがでしょうか。

お互いにお身体に無理をかけずに暮らしてまいりましょう。

観童

次回は14日(木曜日)『親と子の心理』投稿予定しております。

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