喫茶喫飯

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Tom様へ
一昨日頂きましたコメントへの返信
あなたのいう「天命を信頼して不安感をなくし生きる」これが実行できていないということですが、先ず、あなたのいう天命とはどういう意味を含んだ言葉なのでしょうか。
一般的には、「天命」は大きく分けて2つの意味で用いられているようです。
ひとつは《天から与えられた使命》という意味での為すべきこと。
もうひとつは、人間の力では如何ともしがたい《運命》や《宿命》を意味し、天から与えられた宿命ないしは寿命を意味するようです。
 『人事を尽くして天命を待つ』という言葉があります。
つまり努力、忍耐、最善を尽くして、あとは何も期待も抱かず、囚われず生きることかと思いますし、私自身もそうありたいと願って生活しております。
そういう自覚で日々の生活を淡々と為していきたいものですね。
男に生れたこと、女に生れたこと、貧乏の家に生まれたこと、このように生れたその境遇を嫌だといって女が男になることはできません。
これが宿命です。
しかし、命を運ぶことのなかでどのような生き方をするかは自分次第でありますから当然、様々な結果が待ち受けています。
貧乏が嫌なら努力をすることで経済的にもある程度改善可能となるでしょう。
これがすなわち運命です。
天命を信頼して、とはいっても実際には行いが伴わない生活。
そうだとすれば、もっと基本的な生き方をすることから始める必要があるのではないでしょうか。
過去に辛い思いをされたことがおありかと思いますが、先ずは、自分を卑小な者、という思考は捨てなくてはなりません。
総じて、心病む人たちにある思いのなかに、卑小(自分を小さく見る、価値の低い者、取るに足らない者)というか、卑下というか、そういった傾向があります。
こういう思いが、どれだけ自分の心身を蝕(むしば)んでいるかということに気づいていただければと思います。
神は人の差別も分け隔てもしませんし、人類はみな平等な魂と権能をいただいて誕生しております。
人間がそれぞれの置かれた立場、環境のなかで自分の運命を良きものにする勇気と努力とを惜しんではならないのではないでしょうか。
あなたのいう親鸞聖人の教えは、それはそれとしてまた心の支えであろうかと思います。
善人にも悪を為した人にも同じように心があります。
ただ、社会の法律に反するような罪を犯してはいなくても心に罪をつくっている人たちは多いでしょう。
足ることを忘れ、金や物の亡者となり、地位に固執し、傲慢となり、欲望のままに生きるもまた心に罪をもった生き方といえます。
御承知のように、親鸞の生きた鎌倉時代前半から中期は非常に混沌とした戦乱の時代でもあり、末法の時代ともいわれ、源頼朝が征夷大将軍に任じられ鎌倉時代へと移行していったときでした。
そういうなかで親鸞は、無学文盲の人々の多い世に仏法を広めて、心の安息を与えるために必要な法便ということで、あなたのいう「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」といって、「南無阿弥陀仏」と唱えれば悪人でも極楽浄土に救われるという死への恐怖回避でもあった他力本願の教えを広めました。
本来は、お題目を唱えることではなく、一切の煩悩、心の執着から離れて調和することでしか魂の調和とステージアップを図ることができないのですが、時代背景が戦乱の世であり、無学文盲の民衆が多い時代でしたから、阿弥陀如来に一切任せて、丸投げしてすがるという信仰スタイルを取らざるを得なかったのでしょう。
それが「南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏」の連呼として今日まで継承されてきたのです。
南無は帰依する。阿弥陀は仏の名称。仏は悟られた方。という意味かと思います。
何遍も、何遍も南無阿弥陀仏を唱えるということは、阿弥陀様の教えに帰依します。阿弥陀様の教えに帰依します。阿弥陀様の教えに帰依します。と限りなく唱えていることになります。
よくよく考えてみれば滑稽な話しです。
これが本来の信仰のあるべき姿でしょうか。
私はそうは思いません。
阿弥陀如来の教えに帰依されるなら、その尊い阿弥陀経の教えを日々の生活に実践することこそが信仰ではないでしょうか。
Tom様の御質問から脱線したようですが、今回、親鸞聖人の教えがあなたの文章内にありましたので敢えて触れさせていただきました。
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Tom様のおっしゃる「喫茶喫飯」
この禅語は私も好きです。
お茶がでれば、お茶を飲む。
飯がでれば、飯を食べる。
人生をそのまま味わう境地。
禅の世界では衣食住と日々の作務を非常に尊び、また規範ともしました。
人間の分別など大したことはない。
損得・良し悪し・好き嫌いを消滅させれば、道を極めるのは、難しく無いと教えておられます。
眼、耳、鼻、舌、身の五官に囚われるから心を病むのだということでしょう。
実際にこれまで対峙してきた悩める人たちの心はいつも、何かに拘り、手放せず、自分を卑下し、人を信じることもできず、疑念と猜疑心を持ち、不満と、愚痴と、怒りと、悲しみと、渇愛を抱えています。
「受けた被害を強調する人の心には、隠れた敵意があります。」
どんなに素晴らしい著書、知識を得、集積しても自分の心が救われることはなく、勇気と、日々の行いと、継続の中にしか大悟はありませんし、心の癖(傾向性)は修正不可能であります。
失礼いたしました。
観童
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