念力と祈り

霊能力

ある宗教指導者が、ある本で次のように述べておりました。

「念力と、真実の祈りとの区別のわからない宗教者はかなり多いのであります。念力とは、思い、すなわち想念や思念の力であって、神とは直接関係のない力なのであり、祈りとは生命(神)を宣(の)り出す方法、つまり、自己の生命の働きを、神の生命として宣言し、真直ぐに発顕することなのです」といっていますが、このブログを読んでくださっているあなたは、このような説明をどう理解されるだろうか。

そして、祈りは神に通じるものかどうか。

きょうは、念力祈り違いについて考えてみましょう。

さて、念力も祈りも、ともに想念の働きです。

想念を科学的に説明するならば、エネルギーという電気的波動に乗って生まれるものだといえるでしょう。

人間の、思う、考える力の根源は、神から与えられたエネルギーであるからです。

上の著書では、念力はひと口にいって我欲の想念であり、祈りは神の生命の宣言だとしていますが、人間の本当の姿を知ると、言葉の概念にとらわれることの無意味さを知らされます。

信じるか否かは皆さんの心に委ねるところですが、大宇宙は神が創造したものです。

光あれといって光をつくり、地球をつくり、海をつくり、草木をつくり、人間をつくられた。

これは神の一念によるものです。

そして人間は神の子です。

その証拠に、自分にウソはつけません。

またこの地上にユートピアを創造してゆく力を与えられています。

文明文化は人間の一念の産物です。

問題は、その一念に、人間は我欲を上乗せして生活している、という実態です。

だから、念力は我欲のそれだというふうにみられてきたわけです。

しかし、念力のエネルギーは、神の子の創造力を意味し、したがって本来は、その念力を「正念」として使わなければならないものです。

だから、八つの正しい生き方である八正道の一つに「正念」が入っているわけです。

ところで、人間はこの地上に生まれると10%の表面意識で生活するため、一寸先さえわかりません。

このため、神の子の自覚を求める姿勢、神への郷愁、神への感謝が、祈りという形式をとってきたのです。

本当の祈りは「真心」の発露であり、「反省」であり、そうして、それにもとづく行為であり、神の意識との共鳴であり、対話を意味します。

真心のない祈りは、神に通じません。

反省と行為のない祈りも、神はきいてくれません。

祈りが高まると守護・指導霊とのコンタクトが可能になります。

執着のない境地にまで心が高まると、こうしたことが実際にできるようになるのです。

これまでの考えは、祈れば救われる、拝めばなんでもかなえられるといわれてきましたが、そんなことはないのです。

まず、人間は、神の子であり、したがって、正念を知って、その調和をはかり、環境を調和してゆくものです。

またそうすると、神は、祈らなくてもその人の心の深層に常に存在するようになるもので、本来そういうものです。

祀るところに神が居るのではありません。

念力は我欲、祈りは神の生命の宣言と、観念的に片づけられるのは感心しません。

また、想念の意味についても、言葉のアヤで解釈されては誤解を招きます。

この点を、しっかり心に入れておかなければなりません。

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