人間の想念エネルギー

想 念
併せて「真実の言魂」
想念領域・(表面意識・潜在意識)を参照ください。
魂の光り想念は、本来は円である心の中心部(赤の部分)に位置しているのが理想的である。
しかし、各人の心のステージによってその想念領域の位置が異なってくる。
魂のステージが低ければ表面のに近い青の部分に想念領域が位置してくる。
ふつう想念というと、さまざまな想像、空想、雑念、正念など、いろいろな想いを指していう。
したがって想念と一口にいっても、その想念の概念をとらえることは非常にむずかしいものです。
そこで、ここでいう想念とは、理性本能感情意志にまで発展する以前の、エネルギー活動の場としてとらえるとわかり易くなるのではないかと思う。
まず、人間が肉体という魂の乗り舟を誤まりなくあやつっていくには、その肉体を運用するところの魂、意識がなければならない。
私たちは、昼めざめている時は、肉体は自分自身であると思いこんで生活している。
ところが夜、眠ってしまうと、そうした考えは消えてしまう。
つまり、なにもわからなくなってしまう。
このことはなにを意味するかといえば、肉体をあやつる魂意識は、夜やすむ時に、次元の違うあの世で、明日のエネルギーを補給するために肉体から離脱するのである。
そうして翌朝目がさめるまで、4次元にいる。
もちろん、肉体と意識は、霊子線でつながっており、肉体に危険がある場合は意識は目覚める。
それが私の場合は、どれほど熟睡していても地震がくるときは揺れが発生する数分前に、あるいは、数十秒前に殆んど必ずといってよいほど目がパチッと覚める。
だから来るな!とわかってしまう。まれには同じような感覚を持つ人もいるが、大抵はこいうことは少ないだろう。
一般的には夜が明けるまでは何も分からず眠りつずける。そうして、朝が来て、眼が覚め、肉体と意識が密着して、はじめて一日の生活活動を行うわけである。
そこで、人間の魂、意識をして意識たらしめているものはなにかというと、意識の中心であるところの想念という場であり、その想念の場に、あの世で補給したエネルギーが貯えられ、その貯えたエネルギーを放出しながら想念活動をしてゆくわけである。
このためどんな超人でも、仮に、一週間一睡もとらずに働いたとすれば、その人は死を招くことになるだろう。
何故なら、肉体というものは、口から補給した食物以外に、想念の場から放出されるエネルギーによって維持されているので、そのエネルギーが消えれば肉体の持続は不可能になってしまうからである。
ここで重大なことは、あの世の人のエネルギーの消費量と、この世の人の消費量とでは大きなへだたりがあるということである。
それは何故かというと、この世の人は原子肉体を持っているために、その霊的4次元のエネルギー消費量は非常に大きいのである。
それだけに眠ることによるエネルギーの補給は絶対に欠かせない人間生命活動のプロセスといえる。
否、この世の一切の生物は、すべてそうした睡眠によるエネルギーの補給を受けるように仕組まれている。
さて、想念は、このように生命活動に必要なエネルギーを補給する場としてご理解いただけたと思います。
そうして補給され貯えられたエネルギーは、想念という形に変えてゆく場所でもあるのです。
エネルギーがエネルギーのままではなんの作用も生まれてこない。
自然界からいただいたエネルギーが動力にかわり、機械を動かすことによって、はじめてそのエネルギーの真価が生まれてくるように、人間の想念も、大宇宙を統べる意識(神)から与えられたエネルギーを動力とし、肉体を動かし、意識活動ができるように仕組まれている。
したがって想念という場は、あらゆる意識活動、行為の源であるといえるでしょう。
それ故、想念は本来、美醜、善悪、黒白のない透明な、自由な、創造的なエネルギーの場であるはずである。
ところが人間は、幼児から子どもに、子どもから青年、壮年へと進んでいくと、外界から入ってくるもろもろの諸現象に反応を示し、想念の場は、いろいろ変色し、勝手な作動をはじめてゆく。
すなわち、五官を通して入ってきた外界の諸現象にたいして、想念はそれを受けとめ、本能や感情、知性にエネルギーを送る。
すると、もしその人が、本能感情にたいして知性が遅れているとすれば、感情がまさって異常に働き、動物的、衝動的な性格を形作ってゆくことになるだろう。
同じ物を見、同じことを聞いても、人によってその反応の仕方はちがっている。
これは、知性、感情などの各々の分野が、転生輪廻という魂の遍歴と同時に、今世おいて作り出した意識の姿が、想念という場を通して活動するからである。
したがって、人それぞれの想念の姿はみな違っているだろうし、想念の浄化ということは非常に大事になってくるのである。
自分の心を省(かえり)みるとは、「止観」である。
「止観」とは、浮かんでは消えてゆくさまざまな動きをみせる想念の動きをとめて、まず、自分の過去をふりかえり、過去の想念の動きが、本能にたいして、知性にたいしてより強く、弱く働きかけていなかったかどうか。
強く働いた理由はなんであるのか、弱い原因はどんな理由からかということをみつめることである。
そうして、円型であるべき心の姿が、凹凸があったり、三角▲であるとすれば、その部分を修正し、二度と再び想念化しないようにすることである。
想念化とは、想念は行為を伴うので、凹凸をつくる想念の芽を育てないように理性を持って行為することである。
想念は行為を意味する。
箸一本上げおろしするにも意識の命令なくては行えないの である。
目の前に財布が落ちていたのを見て、誰もいなければポケットしよう、などという想念が芽生えたらその時点で減点である。
それ故、人の道は神の道でもあり、現実の行為以前の想念が問題になるということだ。
この世の法律では、想像は自由で、行為があってはじめて罰せられるが、真の人の道、神の道はちがう。
心の中で悪を思ってもいけないし、悪とは調和を乱す想念であり、新たな業を重ね塗りするからだ。
人間は、慈悲、愛、寛容、勇気、協調などの想念から離れると、その離れた想念の分量だけ、自分で自分を痛めることになるということを知っておかなければならない。
これまでの説明から想念を要約すると、想念とは、神からいただくエネルギーのいわば蓄電器の役目を果たす場であり、そうして、その充電されたエネルギーを放出しながら生活活動を行なう大事なもう一つの機能を持つ場であるということがおわかりいただけると思います。
人間の心を称して、それは発信機であり、受信機であるというのもこうした想念の場を通していえるわけである。
以心伝心とか、精神感応(テレパシー)というものも、想念という発信装置、受信装置が活動されてはじめていえるのであり、これがなければ、人間の意識活動は不可能になっ てしまう。
もう一つ、想念について大事なことは、人間の心は発信、受信器のほかに発電装置という自らがその生命活動を行なうエネルギーを生み出す場を持っているということである。
植物、動物にも心はある。
植物、動物は神の創造物であるからだ。
人間も神の創造物にちがいないが、人間は神の子である。
神の子ということは、自分の意識が拡大されたとき、それは宇宙大にまで広がり、自分が宇宙そのものという自覚が生まれてくる。
人間こそが宇宙即我という神の心を具有しているからにほかならない。
神は自らその叡知と無限のエネルギーを生み出し、貯え、放出してこの大宇宙をつくられた。
そうして、その創作した天地に、中道という「法則」に生命をふきこみ、そのなかに、姿を内臓(潜在)された。
万生万物は、中道という「法」を通して生かされ、生きてゆく生命体となったのである。
しかし人間は神の子として、神の意を体し、この地上をユートピアとすべく、何千何百という人類が誕生したのである。
人類の目的は、ユートピアという「法則」の具現化であり、心の調和を反映した社会をつくることである。
神がその姿を以って万生万物を生かすエネルギーにかえると同時に、人類という姿にかわられたわけである。
人間が神の子であるというその事実は、天地創造と同時に生まれたものである。
しかし、人類の歴史は暗く悲惨なものであった。……時に応じて、さまざまな天使がこの地上に誕生して神の道、すなわち愛であり、慈しみを説いていった。
神の使徒として時の聖者は、人類が神の子にあるまじき想念にふりまわされるにしのびず、人類を救うという立場から、その折り折りの時代に合わせ、それぞれの目的にそって光をかかげてき たわけである。
神は必要とあれば、その姿を現わす。
しかし、人類と神との距離はあまりにもかけ離れ、あの世とこの世を含めた地球人類のなかで、神と直接交信を持ち得る天使は、過去にも限られている。
一升のマスには一升の水しか入らないように、それ以上入れようとすれば水はあふれ出てしまうからである。
神と人間とのかけ橋の役をされるのが大天使といわれる人びとである。
人間が神の子であるという事実は、ブッダ(釈迦)の宇宙即我によって証明されるところであるが、さらには、天地創造の過程と人間の役割を一別することによっても、おおよその見当がついたと思 う。
人間の想念という場は、神の子としてのエネルギーを生み出す発電所であるという意味がおわかりいただけたであろうか。
こうみてくると、想念という場は、発電所であり、発信所であり、受信所の三つを兼ね備えた場所であるともいえる。
そうして、想念は、心と肉体を維持する大事な役目をも同時に持っているといえる。
それはエネルギーとしてとらえられるからで、想念が想念として働いている場合は、単なるエネルギーだから問題はない。
問題は知性、感情、本能といった心の機能に働いた場合に、理性というあの世の意識が中和されている時はいいが、そうでないとエネルギーに色がついてくる。
想念の流れを水に譬(たと)えてみると、水は無色透明である。
次々と湧き出る水は無色無臭の水だ。
その清水に、知性という青色の染料、感情という赤色の染料、本能という黄色の染料があって、それぞれが意志を通して勝手な行動をとり、青や赤や黄色の染料が流れ出たとすれば、水はそれぞれの色に染まってゆくであろう。
そうして無色透明の水は次第に清水としての機能を失ってゆく。
しかし、水が色々な色彩を付けたからと言っても、水そのものの本質は変わりないはずだ。
清水に色が付着したということにすぎないからである。
水はどんどん流れ出ており、青、赤、黄の染料の流出をとめれば、ただちに元の清水にかえるであろう。
青、赤、黄の染料の流出を、誰がセーブしてゆくか。
つまり、清水にもどしたり、中和させる働きは、どの部門かと言えば、それは理性なのである。
理性という中和剤が、三つの染料を清水に変え、あるいは清水に近いものにして意志に働くときに、人間の想念の行為は、本来の姿に戻ってゆくのである。
中道の心は、私心のないことである。
色のつかない心だ。
丸く大きい、そして、理性の働きが各部門に万遍なくゆきわたり、それぞれの染料を中和させてしまう状態をいう。
こうした時に、心全体を覆っていた諸々の色彩がうすれて、神からの直接の光を受けることになるのである。
いうなれば無色透明な水に還ってゆくのである。
このように想念という清水、エネルギーは、人間の心と肉体を形作っている源であり、想念の浄化こそ神の子にかえる唯一の道であるということがいえる。

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