離婚・進行する家庭崩壊
統計局調査によると、アメリカでは一年間の結婚件数のほぼ半分が離婚するとのことであるが、その詳細についてふれてみますと、96%の人が結婚を望み、90%が結婚する。
そして、その半数が離婚するが、それでも、「結婚はもうたくさん」というわけではなく、「相手を変えればうまくいくだろう」と、離婚経験者の75%が再婚し、そのうち10組に6組は離婚する。
アメリカでの年間の離婚件数は120万。20代の3人に1人は親の離婚を経験しているし、なかにはシングルで通す人も多い。
それが“選択”になり、以前より社会に受け入れられやすく変化をしてきているようだ。
しかし、、そういう生き方を積極的に選んでいる人が多いというよりは、パートナーに求めるものが大きく変わったため、妥協して結婚するくらいなら、ひとりでいた方がいい、という事情の人が増えたということのようです。
成人としての人生のなかで、結婚している期間は減っているということも浮き彫りになってきて、結婚している成人の割合も減っているが、それは男女とも婚期が遅くなり、離婚が増加していることによるという。
同棲が増えているのは、スウェーデンやデンマークなどの北欧と違い、それがライフスタイルとして定着したと捉えるよりは、一般的には結婚の前段階と見る方が正しいようです。
子どもたちが十八歳になるまでに親の離婚を経験させられているアメリカやソ連の実態。
先進国といわれる人々のなかには、これ以外にも、まだまだ別な形での旋風がはげしく吹き荒れている。
正式の結婚を嫌って恒久的に同棲生活をつづける人、未婚のままで子どもを産むことを選ぶ人、独身を固持する人、同性同士で夫婦になる人達。
1990年十月にアメリカ政府はホモを夫婦として戸籍に登録することを決めたから、今後ますます男同士の結婚は増えるであろう。
親の離婚によって傷つけられた子ども達が、非行、暴力、麻薬に走り、中学校の高学年になると教室で女教師を犯そうとする者も現われたりして、アメリカ政府はアメリカの教育の失敗を認めた。
日本の教育のあり方を学ぼうというので、1984年(昭和五十九年)9月、「日米教育委員会」を提唱したのである。
アメリカ政府は、アメリカの教育が失敗したといっているのであるが、日本政府はこの事実を日本国民に公表していないし、全国の教育関係者にも公表していないので、日本人、なかんずく教育関係者のほとんどは依然としてアメリカ式の教育に学ぼうとしていることは問題視しなければならない。
いずれにしてもアメリカは、アメリカが最上の教育法だといっている「カリキュラム制度」も失敗だということに気づくであろう。
カリキュラム制度がよいか、悪いかを論ずる前に知っておかなければならないことは、日本と西洋の「教育」というものについての考え方の違いである。
西洋、キリスト教社会では、躾、道徳は家庭で親がすべきであって、学校教育は、人間が生きてゆく上に必要な学科だけを教えればよいという式で教育が行なわれてきた。
学校の教師達が主張するのはこのような西洋社会の文化伝統をとらえて「学校は道徳教育をする所ではない、それは家庭でやって下さい」というのである。
日本は、西洋と文化伝統が違う。
日本では家庭で親がいろいろ教えてきたが、明治以前は寺子屋で学問と同時に人間が処して行くべき道徳教育も行なわれ、教育といえば、学科を覚えることよりも人間らしい人間になるための人格教育、道徳教育というものに重点がおかれてきた。
だから明治になって学校教育制度が決められる時、学校教育では、知育、徳育、体育の三大方針が決められたのである。
実際問題として、明治初期の親達は、家庭で子どもをりっぱに教育する才能も時間もなかったので、それらすべてのことは学校にお願いするという伝統がつくられた。
今になってアメリカの家庭は、本来子どもを充分に接し、道徳教育しなければならない機能を失ってしまい、さらに親達は自分たち夫婦が離婚するかどうかで、子どものことまでは考えられなくなってしまった。
学校でもそういうことは全く教育してくれないという状態になって子ども達の非行、暴力事件、近年は性に関する事件が多発することになって、教師も親も手がつけられない状態になってきている。
そういう子ども達が成長して大人になった時、一体アメリカはどういう国になるであろうか。
現在、日本で、子どものことで困っているという家庭は、戦前の家庭のように家庭で躾も道徳教育もせず、その上、終戦後の文部省のカリキュラム制度導入のために、誤った自由主義思想による自由放任主義で、親としてなすべき責任を放棄してしまった家庭に多い。
人間は人間として躾、教育をしなければまともな人間にならないということを忘れてはならならないであろう。
日本もアメリカも、ともに教育問題について真剣に再検討しなければならないことになってきた。
アメリカに比べて日本の家庭が比較的健全であるのは、日本の家庭にはまだまだ明治初期に定められた日本の教育の伝統が、家庭においても、さらに一部の健全な教師の間にも守られてきているからである。
そして、たとえ家庭や学校においてそれらの躾、教育が行なわれなかったとしても、学校を卒業して社会人となった時、人間が社会人として生きてゆくのに必要な最低の道徳教育が企業内教育として行なわれているからである。
この企業教育が日本の国全体としての運命に大きく寄与していることは感謝しなければならない。
アメリカは企業内教育においても道徳教育というようなものは殆どなく、それが日米の経済較差になって現われてきたのであり、国の安定につながってきたといえよう。
しかしもとはといえば西洋キリスト教と日本神道が教えている「労働観」の違いにもあるだろう。
ウーマンーリヴ運動はどうして起こったか
その原因を知ることは、その結果を是正することに大いに役立つ。
まさかと思われるであろうが、1960年(昭和三十五年)頃までアメリカの女性は夫から家計を全面的に委ねられていなかったという背景がある。
財布を握っているのは夫で、スーパー・マーケットまで夫が同行しチェックし、支払いにサインする。
女性は自分名儀のクレジットーカードを持つことができなかった。
そうなると、夫にチェックされないで家計を自分の思い通りに管理してみたい、自分の財布を持ってみたい、そういう背景があるところへ、インフレが進行し消費の支払いが増え、夫の収入だけではやっていけなくなった。
当然、共働きをして女性が社会に進出することになっていくのである。
生活できなくなったこと、コンピュータ時代になって高学歴を必要とする、女性でもやれる職場が増えたこと、離婚をしても母子保護法が充実していて充分に生活できるようになったことなどにより、一挙に女性の要求が高まってきた。
そして、それに火がつけられたのである。
日本の女性達は、アメリカは自由の国で、日本の女性とは比較にならない自由を謳歌していると考えていたところもあるのだが、それはマスコミに欺された錯覚だったのである。
ウーマンーリヴ運動の男女同権、男女平等の掛け声に乗せられて、女性達は勇敢に離婚していき、男に奉仕したくないということで結婚しない女性、子どもだけ欲しいといって私生子を産む女性も増えていった。
そして、女が強くなりすぎた結果、女にアプローチするのがこわくなって男同士で関係するホモが増え、その結果、青少年の非行、暴力、麻薬常習等、その他に黒人達を職場から追い出して暴力犯罪に走らせるという人種差別問題にまで発展してきてしまった。
日本のウーマンーリヴ運動がアメリカほどの盛り上がりを見せなかったのは、日本の主婦達のほとんどは夫から家計の全権を委されて財布を握っていた家庭が多かったという背景がある。
夫が買物までついて行くということはほとんどなく、妻に財布を委せられない男は男社会の中では一番懐の狭い男とされていた。
だからアメリカからウーマンーリヴ運動が入ってきた時に財布を委されているほとんどの主婦は参加しなかったのである。
ウーマンーリヴ運動のリーダーを務めたのは、結婚していない評論家や作家か、結婚はしても失敗した評論家、作家達であって、健全な家庭を持つている人達は一切参加しなかった。
そのいわば、日本では不健全だと思われている女性評論家や作家達に踊らされたのは、精神的に未熟な結婚したての若い主婦達、一般社会常識からいえば正常でないと思われる家庭環境の中で育つ若い女性達であったことは否めない。
明治維新以来、日本人は舶来といえばなんでも「すばらしいもの」と思ってきた。
その傾向は、昭和二十年の敗戦によりいっそう拍車をかけられ、「アメリカが」とか、「アメリカでは」といえば、全く無批判によいものとして受入れる傾向ができてしまった。
しかし、永い間、これが正しいとされてきた西洋的、アメリカ的な唯物医学による出産、育児は間違いであったことにアメリカの産婦人科の医師達は気づき、かつて日本の母親がやってきた「自然分娩」、「母乳を飲ませる」等のことが正しいとわかってきた。
現在はとなると、日本の産婦人科の医師達も、昔と同じような出産育児に帰れと指導しているのである。
すなわち、アメリカが教えてくれたものの中には、正しくないものがあったことにも気づいてきたのである。
それと同じように、アメリカにおける男女同権、男女平等という思想も、アメリカ国内に家庭崩壊、離婚の増加、その結果としての子どもの非行・暴力等を生み出しているが、日本にも同じような現象が起こってきており、その思想が果たして正しいのかどうかの疑問も、出てきているのである。
既に、賢明な人達は気づいておられるはずである。「なにも今さら、アメリカが失敗したことを真似する必要はないでしょう」と。
熟練工というのは、失敗した仕事の仕方、また製品を、二度としないし、失敗作品を造らない人をいうのである。
先ほど申し上げたように、アメリカが教えてくれたものの中には、よいものもあったが、間違ったものもあった。
敗戦によって捨てたものの中には、悪いものもあったが捨ててはならない良いものもあったのである。
だからして、われわれは、戦争に勝った者がみな正しく、戦争に負けた者はみな悪いのであるという硬直化した価値判断はやめて、真理によって正しく判断するという自由な判断をしなければならないだろうと思う。
そうした価値判断の仕方を日本人が身につけた時に、日本人はこの21世紀をりっぱに生きつづけることになる民族と、私は信ずる。
正しいということの最低の判断の基準は、「やってみて幸福になる方法、やってみて心が安らぐ事」それが正しいことの基準だということだ。
いくら正しいと思ってやってみても、やってみた結果、自分も、他人も心に苦しみがあり、不幸になるのであったらそれは正しくない。
だから、人間が幸福になりたいと思われるならば、幸福になっている人のものの考え方、生き方に学ばれるとよいということになる。
そうなると幸福の根本は
自分自身を 苦しめることをしないこと。
自分を愛し 自分を愛するが如く 他を愛さなくてはならない。
他の喜び喜びは 自分の喜びであること。
他の苦しみは 自分の苦しみであること。
私たちの命は両親からいただいたものであるが
同時に宇宙意識の子であることに目覚めなくてはならない。
自分のなかにある神我に目覚めなくてはならない。
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