自己を知る

人生には、幸せな運命もあれば、禍や不幸や様々なトラブルもやってきます。

成功哲学の元祖ともいわれているナポレオン・ヒルの『思考は現実化する』では人間は自分が考えているような人間になるとあります。

100年以上前のイギリスの謎の哲学者ジェームズ・アレンの大ベストセラー『原因と結果の法則』には、心は創造の達人ですとあります。

私たちは心があり、その心によって思いという力を用いて自分の人生を形づくり、そのなかで様々な喜びやまた悲しみを自分で生み出しています。

その生み出すプロセスをもう少し詳しくみてみますと、の三つになり

で色々思うこと。

で色々しゃべること。

で色々やること。

ということは、思いと、言葉と、行動で

  心⇒身  心⇒行動 このように心が発信元だということがわかります。

そしてこの心、口、体の三つの中でも、最も重要なのはです。

なぜなら、口や体の行いは、心が元になっているからです。

人間は心が思わないことを言ったりしないし、心が思わないことをやったりもしないでしょう。

口が悪いことを言ったら、それは心が命じたこと。

体が悪いことをしたら、やはり心が命じたからです。

その意味で言葉や体より心を重要視するのは大切なことです。

未来の自分を知らんと欲すれば、現在の自分を見よです。

秋に豊かな作物を望む自分が今、何をしているのか。

「未来の運命を知りたければ、現在の自分の思いと姿を見つめたい。」

本当の自分の心はどんな姿をしているのか。
「自分のことは自分が一番よく知っている」と、みんな思いがちです。
ところが、本当は、自分ほどよくわからないものはありません。

たとえば、ギリシャのデルフォイの神殿には、2000年以上昔から、
「汝自身を知れ」という格言が刻まれているとされています。
それほど、自分自身とはわからないものなのでしょう。

日本でも、ことわざに「なくて七癖」と言われますが、どんなにくせのない人でも七つの癖がある。といいます。

では、「自分のくせはどんなくせ?」と聞かれたら、すぐ答えられるでしょうか。
おそらく即答できない人が多いでしょう。

「じゃあ、あの人のくせは?」と聞くと、「あの人なら、あれとあれとあれと……」
といった具合にいくらでもあがります。

私たちは、人のことはわかりますが、自分についてはまったくの無知なのです。

哲学者キルケゴールは『自分自身を忘れるという、もっとも危険なことが世間では、いとも簡単になされている』と警告しています。

自分自身がわからなければ、私たちは本当の意味での向上も進歩もありませんから、気づきもないでしょうし幸せにも気付けないでしょう。

人間生きている以上は幸福にならなければなりませんが、先ずは真実の自己を知ることが非常に重要なことです。

約1000年前の源信和尚は、『よもすがら仏の道に入りぬれば 我が心にぞ たずねいりぬる』という歌をよんでいます。

夜を徹して一筋に仏の教えを学べば自分の心にたどり着くということですが、最後は自分の心が知らされてくるのです。かつてゴーダマ・シッダルタが悟られて釈迦如来となられたように。

では、真実の自分の姿をどのように知ればいいのでしょうか。

世の中には、自分の心をうつす鏡が3枚あると言われます。
1―他人という鏡

2―自分という鏡

3―覚者という鏡
の3枚です。

では、これらは一体どんな鏡で、それぞれ、どんな自分の姿が映し出されているのだろうか。

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人はうまくいかない時にどのように生きるかで評価が決まるともいいます。

またうまくいっている時ほど危険が多いともいいます。

いつの世も家庭内でのトラブルや社会の中での人間関係、仕事上のトラブル、そして病気による心の浮き沈みや死に直面した人、経済的な悩みなど諸問題に事欠かないなかで懸命に努力をしながら生きる人もいるし、不満や愚痴に明け暮れている者もいます。

少し順調にいっている時は油断しやすく心に隙ができやすいために驕りや傲慢な言動になりやすいのも人間であろうし、そのことによって事態が悪化することも多々あります。『好事、魔が多し』という言葉が如実にそれを言い表している。

逆境の中にあれば周りみな妙薬』という言葉があります。逆境の時の苦労はすべて後になって自分の薬になるものだということですが、しかし逆境の渦中にあるときは、苦しさゆえになかなかそのことに気づきません。

かといって逆に順境のときには多くのものを失いやすく、やはりそのことに気づかないものです。

私自身の人生を顧みると努力の割には30過ぎまで仕事でも経済面でも苦しいことだけで何一つ陽の目を見ることはなかった。しかし、今の自分は若いときの逆境が成長させてくれたからこそと自覚している。

少し上昇して有頂天になっていた私を待っていたのは死を予感させるほどに倒れて動けず食事もできない状態が続き、数か月で肋骨が浮き出るまで痩せた体だった。全く機能しない体に精神的に焦りが出てきて自分を冷静に保つことにもようやくだったし、鏡に映るわが身に愕然としたことを鮮明に憶えている。

良い時こそ自分の足元をしっかり見据えて生活していかないと必ず落とし穴に落ちることを身を以て体験したことになります。

人生に試練はつきもの、逆境のときに不満や愚痴や怒りを思い、またそれを人にぶっつける生き方は更に自分に返ってくるし、結果はますます環境を悪化させるだけである。

しかし、このような時こそが人間の器を成長させるチャンスでもあることは間違いない。成功するものとしないものを二分するものがあるとすればそれは才能ではなく逆境や試練から学べるかどうかではないだろうか。

いま思えば人生の岐路は生きる過程においてあらゆる場面で遭遇してきたが、逆境や試練を乗り越えず避けてきたら今の私はなかったと確信するに至った。

逆境が偉業を成すこともある。逆境や不遇の状況に置かれていると、つい後ろ向きな考えになってしまうものです。

ですが歴史上にも、身近な人のなかにも環境が恵まれない中で自身の分を知り心安らかに生きる人もいるし、偉業を成した人もいる。

先人たちの不遇や逆境を学びの糧とする生き方は多くのことを気づかせてくれますが、いざ自分がそのような環境にあるとき実践できなければ所詮、絵に描いた餅で終わることになる。

うつ病と言霊Ⅱ

うつ病のために心身ともに弱っていった医師の高田氏は藁にもすがる思いで、あっちこっちの禅僧の老師方を訪ね歩き質問をした。

仏教では因果律を説いていますが『良い言葉を発すればよいことがありますか?』と。

しかし、誰一人とし明確な答えをされた方はいなかった。

結局、外に答えを求めて歩いても答えがないと知り、自分で乗り切るしかないと決心した瞬間であった。

不思議なもので、この時に自分の心が軽くなったことを深く実感したという。

『全ては良くなる』、『悪い事は起こらない』こうは言ってもこの世の中いいことばかりではない、現実は辛いことの方が多い。言葉だけの空回りではないのかと思うだろうが、実際にこれを言葉にするとその瞬間にホットした安心感から安らげたといいます。

地獄から自らの力で這い上がった高田氏の言葉には真実がある。知識ではない。

これが逆に『自分はダメだ、何もいいことなんかない、全ては悪くなる』と思ったり、言葉にしたらどうだろうか。ほぼ間違いなく気分が落ちていくだろう。

塩の辛さ、砂糖の甘さは学問では理解できないが、なめてみればすぐ分かる。

言葉の力は疑念を挟むより実践してみるとわかる。それが言霊です。

失敗したところでやめてしまうから失敗になる。成功するところまで続ければ、それは成功になる。自分の心を奮い立たせる最高の妙薬、それが言霊である。

言葉の力は、何も宗教の世界だけの特権ではない。これまで成功された先駆者たちの信念には必ず心から発する良い言霊として実践から湧き出た前向きな積極思想がある。

努力する人は希望を語り、怠ける人は不満を語る。

しかし、努力したことがが全て報われるとは限らないだろうが成功した者は皆すべからく努力している!

富や地位や名誉を得たものを成功者とは言わない。私がいう成功者とは心の富に気づいた人のことです。

言葉は大切に使いたい。希望と安らぎを与える光として。

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うつと言霊

岩手県 盛岡市 うつ病

高田明和氏 昭和10年生れ76歳 医学博士

ニューヨーク州立大学名誉教授 浜松医科大学生理学教授を歴任、同大学名誉教授。昭和女子大学客員教授。アジアパシフィック血栓止血学会名誉理事長。著書多数。高田氏は40歳のときに、うつ病を患い闘病生活にはいる。

アンドリュー・ソロモンというアメリカの作家がいます。彼は自分のうつ病体験を『真昼の悪魔―うつの解剖学』という著書に記していますが、その中で、うつになって失った最も大切なものは友人であると告白しています。

 『生きながら死んでいた私』と言い、高田氏も多くの友人を失ったと告白しています。アメリカの留学生活を終えて日本に帰り、周囲の環境にカルチャーショックを受け『どうして生きていけばよいのか』に悩み、次第にうつになっていった時期の苦しい経験は忘れられないとある。

鬱になると非常に不安になる。自責の念が強くなり、いつも自分を責める。そのことを身近な人に話し『そんなに気にすることないよ、』『自分を責めないで』『大丈夫だから』などと言ってもらいたいと思うようになる。

高田氏はあまりの苦しさに誰かれ構わず電話をして苦境を話し、相手の迷惑もかえりみず、くどくどと気持ちを訴えたといい、友人と食事をするときなどは酒の勢いを借りて変なことを言い、後から『なぜあんなことを言ってしまったか』と激しい後悔に襲われた。

そのことで再び電話をして弁解をするから、一層、あいては遠ざけるように離れていった。

高田氏のうつの理由の一つは自信喪失だという。『自分を信じる』という気持ちが失われ『心が無くなった』という感じが一番言い表しているという。

高田氏は友人の精神科医に相談して薬物療法を試みたが悪化するだけで薬の副作用にも苦しんだ末に意を決して断薬し、学生時代に経験した禅に再度の救いを求めた。

しかし、禅に対する捉え方を心得違いして教条的に解釈したためにかえって迷うことも味わった。(教条的―守るべき教え、知識だけの理解)

結局、迷い苦しみの末に『積極思想』の本に出会い一念発起、『溺れる者藁にもすがる』の気持ちで取り入れ『全ては良くなる』、『悪い事は起こらない』と毎日何度も念じ続けたといいます。

前向きな言葉、明るい言葉、積極的な言葉に頼り続けていくことで自分の心が楽になり体が癒えていくことを実感できたということです。

『何をしたか』は大事ですがこれが全てではない。『何を思ったか』『何を言葉にしたか』も大事であることを、立ち直ってみて確信が持てたと言いきっています。

言葉の力は頭で解釈する以上に素晴らしい結果が現実となって顕れることを高田氏は『言霊』の力は自分のうつを立ち直らせたと紹介している。

続きは次回まで

 

仏心

母と子の二人は仕事先のホテルで一緒に温泉に浸かりながら外の景色に見入ってくつろいでいた。                                                            子『お母さん、幸せ?』と問いかける。                                       母『しあわせよ。』                                                   子『うれしい?』                                                     母『とっても嬉しいよ。』                                                子『楽しい?』                                                      母『うん 楽しいよ。』この言葉を返す時、母の眼には幸せな涙が溢れていて声にならなかった。外の景色も涙で見えなかったと母の泰子さんは述べた。

金沢翔子さん26歳ダウン症の書家 5歳から母の泰子さん9段に師事して人並み以上の努力の末に花開いた素敵な女性。彼女の努力をみるならばメディアでいう奇跡の天才ダウン症書家とは言いたくないのだが、しかし、やはり非凡で天才的な才能には脱帽のかぎりです。

彼女の作品を評価する専門的知識も判断力も私は持ち合わせていないが、ただ彼女の作品は優しく力強いオーラで満ち溢れているのが観える。

               金沢翔子さんの『仏心』

中国、唐の時代(約1300年前)の高僧、道吾禅師とその弟子の漸源(ぜんげん)は一緒に葬式に行った。弟子の漸源が棺桶を軽く叩いて中の遺体を指して『生か死か?』と師に質問した。師は『死とも言わじ、生とも言わじ』と答えた。

このように応えた師に、弟子は『師よ何故はっきり答えてくれないのですか?』と迫ります。すると師は『やはり言わじ、言わじだ』としか答えません。

この話は生死の問題を問うた場面を示しています。

師は遺体を示し『死んでるとも言えないし、生きてるとも言えない』と言いたかったのです。何故なのでしょうか。

一方2500有余年前のインドで釈尊が亡くなるときに、息子のラーフラは悲しみにくれ、竹やぶのなかで一人で泣いていました。ラーフラがいない事に気づいた釈尊はラーフラを呼びにいかせます。

そばに来たラーフラに釈尊は『今まではそなたと離れて暮らさなければならないことも多かった。しかし、肉体を失い宇宙と一体になれば、心は常にそなたと一緒にあって、もう永遠に離れることはないのだ。決して悲しむにはあたらない』と言われた。

宇宙即我の悟りを開かれた釈尊ですが、現在この宇宙観については様々な名前で呼ばれています。宇宙、神、心、仏心などです。

先の師と弟子の問答で死か生かという話もこの宇宙観を示した公案(問題)です。

肉体をみればただの亡骸ですが、しかし当人の心(魂)は生きていることを解っているから死とも生とも言えないとの意味で老師は答えたのです。

私たちは肉体を意識するあまりその場の別れがこの世の終わりの如く受け止めてしまう傾向にありますが、実際は本人は死んでなどいないのです。

生きているのです。肉体はあくまでもこの世で生きるための肉体船に過ぎず、人生航路の船長は自分の心であるということです。

何をもって死とするか、生とするか。

見方を変えるなら、この世での死はあの世の誕生でもあり、あの世での死は、この世への誕生でもある。死と誕生は永遠に続く春夏秋冬と同じで宇宙の法則に沿った循環を繰り返す。

人間の心は本来清らかなもので過ぎた欲や妄想が雲のように心に覆いかぶさるから自分の素晴らしさに気づかないのだ、人間の心は仏心に満ちた宇宙とつながっており、その心は肉体が滅びても永遠に続くのだと釈尊は臨終の際に息子ラーフラに言いたかったのです。

私の父も母も、いつも私の心にいます。生きています。

単なる思い込みや観念論ではない。

日本の狩猟時代、人々は食糧採集のために旅をしており、鳥獣を追って山野を歩き、魚をとるために川を上下したであろう古代。

弥生時代に入ると農民は定住したものの、猟人、山人、漁師などによって食糧採集の旅はつづけられ、農民以外の職は行商人であったり、歩き職人であったりしたようである。

50数年前、私が子供の頃は富山の薬売り、魚の行商、鍋釜、傘の修理、様々な行商が訪ねてきたものだ。

このように昔の旅は生活の糧としての手段であった様相が強く、現代のように観光や慰安目的とは随分かけ離れていたことがうかがえる。

民衆の旅は伊勢参りや四国遍路などの巡礼や信仰のためであったり、僧侶は修業や伝道の旅というようなものであった。

過去3千年前のモーゼも奴隷解放のために長い年月旅をした。インド2500有余年前のゴーダマシッダルタ釈迦牟尼仏もやはり衆生済度の為に慈悲をもって伝道の旅を繰り返し、民衆の心暖かい布施だけが命をつなぐか糧であった。 イスラエルでは2000年前のイエスキリストも愛をもって人の道を説きながら各地を旅している。

まさに旅は人生そのもの、生活の糧としての旅も、巡礼の旅も、伝道の旅も、そこには意思の発動がある。

生きるための意思、生かすための意思がある。

人間は意思することで行いを為す。

善も悪も。

人間は心が主体は従であることを忘れ

体が主になったときに欲で為す。

五官は危険から身を守るために必要な器官ではあるが眼、耳、鼻、舌、身の便利という感覚に翻弄された時に苦悩を背負うことになる。

再虐待

子どもへの虐待を禁じた「児童虐待防止法」が施行されて今年で10年になる。社会の児童虐待に関する高まりと共に、児童相談所に寄せられる相談件数も増加の一途をたどり、昨年度は4万4千件を超えている。

こうしたなか、いま深刻な問題になっているのが、いったん児童相談所で保護し、親への指導などを行った後に、再び子どもが虐待される「再虐待」が増えているという。NHKが全国すべての児童相談所にアンケート調査を行った結果、去年1年間で8000人を越す子どもが「再虐待」にあっていることが初めて明らかになった。子どもの心により深い傷を残す「再虐待」を、なぜ防ぐことができないのか。これまで明らかにされてこなかった「再虐待」の実態を浮き彫りにし、対策を考える取り組みが始まってきている。

『職員の声』                                             もう本当に、言い難いほど深刻で、本当に痛々しいほど傷ついて、子どもたちは戻ってきていますから、だからもう、やり場のない激しい怒りを、どうしようもない怒りを、始終、何かにぶつけているとかですね、暴力行為だったり破壊的行為だったり、あるいは場合によっては、自分自身を傷つける自傷行為が、すごく激しい自傷行為を振るう子どもたち、たくさん見てきてますね。やっぱり2度、3度、親から裏切られ、あるいは見捨てられるという体験とか、あるいは施設からも見捨てられた、児童相談所も自分を見捨てたみたいな、そういう、二重に、三重に見捨てられる経験をしてきた子どもたちですよね。 かなりひどい状態になることが多いと思います。

再虐待する親の心理(職員の話し)
虐待というのは、基本的に、意思の力でやってるものではないので、意思に基づいてやっているものではないので、いくら約束をしても、もう抑えられない怒りとか、その他さまざまな心理的な要因、本人自身も、親御さん自身も気づいていないようなもの、そういったものが虐待に向かわせますから、約束をしていても、それはあまり意味がないということになりますよね。

児童相談所の話し
個々の児童相談所の職員たちは本当に努力はしていると思います。すり切れるほどに努力していると思うんですけれども、やはり基本的にケース数が、欧米に比べると、1人が担当するケース数が10倍、20倍という状況で、かつ今は、すごく増えてる、通報の件数が増えていることは周知のとおりだと思うんですが、新たに通報が入った場合に、48時間ルールといいまして、児童相談所の職員が直接、子どもの状況を確認しなきゃいけないという、だから新たな通報されるケースの対応だけでも手いっぱいで、それだけで一日が終わってしまうということも珍しくないような状況ですよね。ちゃんとした支援とか、そういうことが、やりたくてもやれないという現状があると思います。         ここまでは現場の声。

このような児童福祉の状況をみて私(観童)は思う。

虐待、再虐待の実態を見聞きし、虐待された子供が心身ともに傷ついている被害者であるのは勿論なのですが、実はその親御さん自身が過去において幼少の頃、家庭環境や学生時代などに、とても傷つき暖かい愛情を味わうことなく大人になり子供をもったことが最大の要因であることを把握しきれていないように思えてならない。忙しい職員や支援団体の方々は事件が起きたことに対応するのが精いっぱいで被害にあった子たちや親御さんの心のケアーには不十分どころか全く足りていない現状がある。

私はメディアの質問に答えた責任あるポスト職員の『意思の力でやってるものではないので、意思に基づいてやっているものではないので』という言葉をどうしても理解できないでいた。虐待は怒りを対象にぶつけた結果の悲しい事実です。その怒りの背景には自己中心という自我がある。満たされた者は分け与えもするが、喉の渇いた者は水を求める。虐待をする親は自分が渇いているのです。心が。虐待から再虐待への防止には親の渇きを潤してやるべく対策、対応が急務ではないだろうか。              心の闇の部分を放置はできないであろう。

私がこれまで、こどもに関する親御さんからの相談のなかでいつも注目してきたのは親御さん自身の子供に対する接し方であり、その為の自身の愛情(心)の在り方です。その時にいつも浮き彫りになってくるのが親御さんの生い立ちでした。そこまで遡らないと虐待の真の原因が見えてこないことが多いし、根本的解決にはつながらないでしょう。

暴力も虐待も意思がなくてやっているのではない。意思に基づいてやっているのです。 人間は意思があって行動する生き物です。人間の五体を動かすの脳ではあるがその脳を働かしめるのは心(精神)であり魂です。人間が人間である所以は心があるからでしょう。

心は全ての言動の発信源です。意思のない、意思に基づかない行動はないのです。発作的にという表現が意思のない行動というのは、何かにいらっとした衝動的行動ということで意思のない虐待という表現かもしれませんが、実際は衝動的行動にも意思はある。   無意識とはいってもその根底にはしっかりと意識は働いている。

衝動的虐待は根底に怒りがあり、その怒りはブレーキの役目である理性の欠如にあり理性や知性の欠如は幼少期の歪んだ愛の産物です。

これまでの社会福祉の流れと実情はこの辺の専門性に乏しく今後の更なる行政の支援が急務だと思うが、そのなかでも心の問題は組織づくり以上に基本中の基本だと叫ぶ社会福祉の関係者もいるのは心強いかぎりです。

頻繁に報道される子殺しのニュースはあまりにも悲しい。

″よい子の破綻″

勉強が出来て、しつけも行き届いた自慢の子が、突然、学校に通わなくなったり、自室に閉じこもってしまう、いわゆる“よい子の破綻”

原因が分からずに苦しむ親が多い中、研究者がその多くに共通する問題として注目しているのが、親による「やさしい虐待」だ。

一般的な児童虐待は、暴力や暴言などで直接子どもを傷つけるものだが、一見こどもにはプラスに思える教育やしつけも過度に押しつけると、こどもをがんじがらめにし、虐待と同様に心を蝕んでいくという。

「やさしい虐待」によって損なわれたこどもの心や親子関係をどうすれば修復できるか?その模索を見つめる。という内容でNHKのクローズアップ現代で放映されていた。

わずか30分のこの番組から感じたキーワードは、しつけ、教育、心、抑圧、愛、親子関係といくつかの大きな課題が見えてくる。

私もこれまで不登校の子供たちや親と話しあう機会を得ていつも行きつくところは決まって家庭環境のなかでの親子の関係である。

いつの時代も親は子の将来を案じて豊かに幸せに暮らすことを願う。それゆえに厳しく躾け、教育をし、習い事を強要することになっていく。幼少の頃は素直に親の言うことを聞いていた子がいつしか言うことを聞かない子であったり、反抗したり、拒否したり、言葉さえも交わさなくなってくる。

そんな子に親はますます厳しくあたることになっていき、やがては学校さえも登校しなくなる。

これまで子供たちが話してくれた内容は様々。『お母さんは立派なことを言うけどおかしい』この言葉の背景には強要するお母さんの言行不一致に対する不満の思いが隠されていました。『お父さんは怒るだけで本当は心配なんかしていない、僕なんかいない方がいいんだ』この言葉の背景には父への渇愛、愛を求める12歳の少年の叫びがあった。

子供たちとやり取りするなかで浮き彫りになってくるのは子供自身に原因があり問題になるケースは少なく、根本的な原因として親との関係に起因するケースが多いということ。

躾け、教育、習い事に夢中になりすぎるあまり躾けではなく押し付けになっている。  子供たちに強要する親御さんの言葉は実は自分たちが子供の頃にお父さん、お母さんに言われて強要されていたことだった。

躾や教育の名を借りた『優しい?虐待』であったのです。現在、不登校や引きこもりをした子供たちが大人になって子供をもったらまた同じことを繰り返す可能性は大きいだろうと懸念する。

正しい愛を頂けない子は何らかのサインを出す。大人になっても社会に順応できないケースもありまた自身も親子関係につまづくことにもなる。

子供を育て教育する。躾をするということに過ぎては子供の自主性や愛を知らない成長をたどることになりかねない。親の価値観をストレートに子供に向けることで心の触れ合いを欠いてしまい取り返しのつかない状態まで至った例は多い。

失ってみて初めて大切なものに気づかされるのも人間ではあろうが、効率主義に偏重した親の価値観での押し付け教育、躾け、習い事は子供の心だけではなく親自身の心まで蝕んでしまうこと。結果、家庭崩壊もあった。

生れたばかりの我が子におっぱいをあげているお母さんの笑みは無償の愛に満たされていたはずである。若いお父さんはそんな妻と我が子を見て力が湧き大きな愛で守ると奮起したものでしょう。

押し付けは愛ではない。支える愛を思い出していただきたいと心から願う。

井戸掘り名人

昭和の20年代頃までの農家では自家用水や農業用水は手掘りの井戸でまかなっていたのを憶えている。私が小学生の頃、父は反対する母の心配を押切り親戚などに井戸掘りを頼まれてよく出かけていったものでした。

落盤すれば命の保証がない危険な井戸掘り。私も何度か作業を見たものだが、深さが10メートル近くにまでなると光が少ししか届かなくなり、さすがに上から見ていても怖くて足元がすくんでしまう。せいぜい1メートルぐらいの幅でスコップとツルハシだけ、そして勘だけで曲がることなく正確にまっすぐ掘り下がっていく達人技だ。

1週間から土質の状況によっては2週間ぐらいも危険と隣り合わせの作業をもくもくと続けて、ついに綺麗な澄んだ水が湧き出してくる瞬間はみんなで歓喜の声をあげていたものでした。完成すれば労いの夕食に酒盛りとなった。無賃金奉仕である。当時は助け合いの一環であったでしょうが今の時代なら考えられないことです。

井戸掘りは簡単にはいかない、粘土質の層があったり、砂利の層があったり岩盤があったりで困難を極める作業です。

このような困難な井戸掘りの完成後には命を育む澄みきった水がいただける。なんと素晴らしいことだろう。まさに生命線である。

井戸掘りも人生なら、心を掘り下げることもまた人生に必要ではないだろうか。

人生には困難がつきものです。だからこそ無限に輝く心に誰もが気づき感動するのではないだろうか。

ただ心は見えないもの、計れないものです。どれほど愛する人にも私はあなたを50センチ愛しています。私の心は100センチあります。とは言わない。この地上に存在する物ならば寸法や重量や質量を測ることができますが心は測れない。

しかし存在するから表現もできるし、行動によって心を現すことができます。

人間が人間である所以は心があるからで、心が無かったならば心ない人になってしまう。心ない人とはエゴです。

いつもではないにしても時にエゴの人になってしまう人間。だから心を掘り下げて自分の本質を見失わない為の点検が必要だろうと思うのです。

本質とは傲慢や自己主張、虚栄、貪欲、不満、愚痴、そして最悪の怒りのない善なる澄み切った心のことです。人間には悪もあるが善もあります。しかし、自分の真の善を発見するために一度、掘り下げてたどり着いてみると綺麗な澄みきった水が湧き出す自分の心を発見できます。この心の井戸は自分を生かし、他を生かす無限供給の源泉です。

この源泉にたどり着くには方法がひとつある。

日々の自分の言葉と行いを客観的にみてチェックして間違いがあれば次から同じことをしないように改めることで達成できます。このような作業を毎日10分間、休む前に静かな状態で自己点検することです。ただ最小限、次の基準がある。正しく見ること、正しく思うこと、正しく語ることの三つに沿って自分を省みる必要があります。

しかし、心が大切だからといっても現実的な生活を支えているのは経済です。

日本はこれまで繁栄の一途をたどってきました。でも豊かさを求めて先を急ぐ経済的効率だけを追求して大切なことを過去に置き忘れてきたように思います。

大切なもの、それが心です。お金は必要ですが、しかしお金で幸せは買えません。幸せに単位はありません。私は幸せだとは言うが、私は10キロ幸せだとは言わない。心に単位がないのだから幸せを数値には表せない。

幸せは夫々が感じることで気づくことです。人が羨むような豊かな暮らしをしてはいるが平和でなく、争っている。反面、貧しいが家族に笑顔があって幸せを実感している人たちがいます。

幸せも心も共通するのは肉眼で見えることとは違う点です。

大事なことを失っていない家族があることに無限供給の源泉をみることができて私まで心がほっこりとしあわせになる。

このしあわせは空のように広がる。

そう。無限大に。

 

逆縁と望郷

これまで毎日のように放映されてきたテレビ画面の東日本大震災情報は多くの人の涙を誘い私たちに何かを考えさせる。この何かは人夫々の立場にもあり、思いは様々であろう。          そして画面には入りきらない、また放映できないことのほうが遥かに多いのではないか。

今朝、私は震災により亡くなられた多くの方々の家族に思いを寄せてみた。

この様な出来事と死は悲しみの極致であることは勿論です。親を失った子供の姿はとても不憫で心が痛むのは誰もが共感するところであろう。また仏教でいうところの逆縁という先に我が子を失った方々の心情を思えば余計にやりきれなく胸がせつなく如何ともしがたい。

本来なら震災がある無しに関わらず、誰もが年の順に逝くことを暗黙のうちに願って生きているものでしょうが、被災された方々とお話しをする機会はあっても何も話すことはできない。

いま生きていることに御苦労さまとしか言葉をかけられないのです。

この世に生れた者の定めとして親しい人や愛する人との別れも避けられない愛別離苦があるとは言え、とても受け止めがたいものでしょう。

 しかし、人間には忘却もある。                                           どれほど悲しみに打ちひしがれても、時の流れは人間の心を少しずつ静めてくれる。毎日、朝昼晩なく悲しみ、苦しんでいても、やがて前を向いて歩く時間が悲しみを一時でも忘れさせてくれる。

この一時が長くなれば、その分だけ悲しみから離れられる。そして月日の流れは、悲しみを少しずつ忘れさせてくれるでしょう。この忘れる時間のことは人間が神仏から頂いた恩寵(おんちょう、慈しみ、恵み)でもあろうと思う。

心には残っていても、そのことばかり考えては生きられないのも人間。

生きる道を歩くことで、悲しみを心に留め置かない時間を増やしていかなければならない。

今はまだ生きるためだけに生きる、被災の地はそれが精いっぱいであろう。