旅
日本の狩猟時代、人々は食糧採集のために旅をしており、鳥獣を追って山野を歩き、魚をとるために川を上下したであろう古代。
弥生時代に入ると農民は定住したものの、猟人、山人、漁師などによって食糧採集の旅はつづけられ、農民以外の職は行商人であったり、歩き職人であったりしたようである。
50数年前、私が子供の頃は富山の薬売り、魚の行商、鍋釜、傘の修理、様々な行商が訪ねてきたものだ。
このように昔の旅は生活の糧としての手段であった様相が強く、現代のように観光や慰安目的とは随分かけ離れていたことがうかがえる。
民衆の旅は伊勢参りや四国遍路などの巡礼や信仰のためであったり、僧侶は修業や伝道の旅というようなものであった。
過去3千年前のモーゼも奴隷解放のために長い年月旅をした。インド2500有余年前のゴーダマシッダルタ釈迦牟尼仏もやはり衆生済度の為に慈悲をもって伝道の旅を繰り返し、民衆の心暖かい布施だけが命をつなぐか糧であった。 イスラエルでは2000年前のイエスキリストも愛をもって人の道を説きながら各地を旅している。
まさに旅は人生そのもの、生活の糧としての旅も、巡礼の旅も、伝道の旅も、そこには意思の発動がある。
生きるための意思、生かすための意思がある。
人間は意思することで行いを為す。
善も悪も。
人間は心が主で体は従であることを忘れ
体が主になったときに欲で為す。
五官は危険から身を守るために必要な器官ではあるが眼、耳、鼻、舌、身の便利という感覚に翻弄された時に苦悩を背負うことになる。
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