宗教観の変容

写真は樹木葬のようすですが、最近わたしの知り合いがおこなった樹木葬で一区画30万円、埋葬費用が5万円、一年間の管理費が無料、あとの費用負担は一切なしというケースがありました。これなどは格安で良心的価格の部類かと思います。

近年、これまで何の疑問を持たず受け入れてきた冠婚葬祭、葬儀に対する価値観の変化は著しいものがあるし、お寺が破綻する事例も全国的に出てきています。

理由は、これまでの葬儀内容では墓石だけで百数十万、墓地代が発生すれば更に百数十万以上の費用がかさむスタイルに代わり、最近の葬儀方法や埋葬料などは比較的小予算でできるメリットがあることと、人々の死生観の変化が背景にあるところがその理由でしょうか。

したがって現在、僧職にある人にとっては、これまでの方法で檀家制度に安住していることが難しい時代となってきたところがあります。

さて、私がこれまでブログ上で取り上げてきた話題には宗教に関する問題もあります。

一般的にはあまり知られていないような諸問題が宗教の世界には数多く存在し、人々の苦悩を救済するはずの宗教に入信し、人格まで崩壊されてしまうような悪質なマインドコントロールによって翻弄され、人間関係や家族の破綻にまで追い込まれてしまうケースもあります。

宗教は人に押し付けるものであってはなりません。

本来、信仰は家族も他人もなく、個人の自由意思によるものであって、自分が信仰をもっているからといって必ずしも家族もということにはならないでしょう。

他者の信仰や他宗教に対しては敬意を払いたいところではありますが、しかし、それ以前に、社会常識という観点からしても疑問をもたざるを得ないような教義や団体の行動も見受けられる点を考えますと、やはり是は是、非は非として現実を見極めていかなければならないでしょう。

私は、人々の信仰を否定しませんが、押しつけがましく勧誘したり、選択の自由、信仰の自由が侵されたり、悪質なマインドコントロールに陥ったり、危険な宗教団体に入信するのだけは気をつけなくては思います。

宗教界も布教、あるいは宣教したいのなら、布教、宣教の方法を考え直すべきでしょう。

心の学び、時には救済ということもあるであろうはずの宗教が、個人の人格や社会を破壊し、家庭を崩壊させ、人間の心を蝕むようなものであってはなりません。

そして、私たちが知っているか否かにかかわらず、私たちの精神性や、社会における常識・文化・慣習などといったものは、良くも悪くも多分に宗教が礎になっています。

これは世界に共通することかと思います。

但し、それは古来の日本の神道や渡来の仏教、正統派のキリスト教などの伝統宗教によるところが大きいでしょう。

例えば、先祖を敬う心は神道の祖先崇拝に端を発していますし、「いただきます」「ごちそうさま」といった食べ物への感謝は、仏教の教えによるところがありますし、こういった思想はキリスト教にもあるでしょう。

気を付けなくてはならないことは、宗教に入信することによって、あまりにも傾倒しすぎるがために、これまでとは違って不自然で偏った言動がでてくるようでは、その宗教の弊害でしかないということです。

こうなると妄信、狂信といわざるを得ません。

入信したものの、何かしら疑問をもちながら集団心理に流され、洗脳され、自分の依存心ゆえにすがって盲信していきます。

近年は、残念なことに商業ベースで宗教を利用する団体が多くなりました。

多くの新興宗教では、多額の布施や献金を求め、信者数を増やすことがノルマにもなっています。

信者はマインドコントロールのために従いますが、気がついたときは取り返しのつかないほど心に傷を負った人や、金銭的負担を強いられて家庭が破綻した人もいます。

宗教に対するイメージが悪くなってしまったのは、こうした事実が背景にあることも否めません。

「信教の自由」は選択の自由という意味においては好都合なのですが、それだけに無法地帯になりやすい部分でもあります。

かつては〇ー〇真理教が法を犯して殺人まで行われるまで法の手が下せなかったという悲しい教訓があります。

社会的にも、道義的にも、法的にも許されることではありません。

長時間人を監禁したり、押しつけがましく勧誘したりする行為は、本来は犯罪になるはずです。

広くいえば結構な数の存在がみられる霊感商法も宗教被害の範ちゅうに入るでしょう。

どんな宗教も、そして宗派を問わず、自分の外に心を向けさせて、自己の内面にある原点を探究させない、学びをさせないという意味からいえば他力信仰といえます。

他力信仰はそのままご利益信仰のスタイルをとります。

他力信仰は、信者の心を教祖に向けさせ、あるいはご本尊と称して仏像や曼荼羅(まんだら)や写真に向けさせ、祈ることによって幸せになれると説くことや、運命が良くなる、業が解消される、病気が治るなどと説くことも他力信仰の特徴であり、それが依存信仰の土壌となり健全な人間の心を弱体化させることにあります。

日本国内の宗教でも、多くの宗教がご利益を説いていることも事実です。

宗教にご利益を求めるのではなく、人生をいかにすれば心安らかに生きることができるのかを学び、そして人間の苦悩の原因であるエゴの姿の真実を知っていくことこそが宗教で学ぶことだろうと思います。

人間の生老病死について、如何にすれば苦悩せず生きられるかを説いたゴーダマシッダルタ釈迦無尼仏は一言もご利益があるなどとは説いていないはずです。

私たちは自身の心の在り方によって、どのようにも生きられる可能性を秘めた、尊い心をいただいた存在であることを忘れてはならないと思うのです。

そういった意味では、宗教団体に入信していなくても自分自身の心の尊さを知り、日頃の生活を学びの糧として心を調和し、明るく生きている人たちもいます。

こういった人たちこそ自分の人生の真の達成者となるでろうと確信します。

このブログを読まれている方でも宗教に疑問を持たれた方もいるかも知れません。

「“宗教” ではなく、“まちがった宗教団体” と書くべきでしょうか。

宗教界では億単位のお金をかけた立派な金ピカの神殿、社殿、伽藍が競って建立されています。

私は「地球こそ大神殿」だと考えていますから、立派な伽藍(がらん)や社殿は心の在り方を学ぶのに全く不必要であると捉えています。

心の成長、気づき、悟りを目指すときに、立派な寺院や神社、教会に拘るほど本来の目的からは遠ざかるでしょう。

地球こそ神殿であり、心こそ大神殿ではないでしょうか。

この大神殿という心こそが神仏の宿る唯一の場所だと思うのです。

建物やご本尊に神仏が居るが如くそれを人々に拝ませるようなことであってはならないし、そのようにして拝することが真の宗教だとは思えません。

そして宗教被害の絶えない中身のない、偽りの教団ほど立派な数十億もの建物を建てる傾向にあり、形に目を奪われた信者たちは自分が闇を迷走していることに気づけないでいる。

他力信仰を捨て、自力を歩む、すなわち真実の自己探究に入るということの、なんと困難なことでしょう。

教団の教えを観念的に理解し、知識は豊富なのですが、教団の意のままに盲目的な実践を続けることが、どんなに危ういことかを思い知らされることでしょう。

時代の変革とともに人々の価値観はいつも変わってきましたし、これからも変わっていきます。

そしてこの世も時の流れとともに無常なものです。

それは般若心経にも示されるように、色不異空、空不異色、色即是空、空即是色と、自然界における循環の法則、輪廻転生、そして人間の心と肉体の関係にもいえることだろうと思います。

※きょうも最後までお読みくださいまして感謝もうしあげます。

孤独と心の成長

寂しさ

苦しい現実をあれこれ語り、ご主人への不満と愚痴、お金のこと、自分の体の不調、それらを全部悪いものと位置付けて並べていたら本当に心も体もおかしくなってしまう。

楽しいこと、嬉しいこと、優越感を感じられるような事、お金に不自由しないことだけが自分を成長させるものでしょうか。

少なくても私の人生経験では、そのときだけをみれば非常に辛く受け容れがたいこと、いわゆる試練という言葉の意味するような状況におかれたときのほうが自分を成長させてくれたと後で気づかされます。

一人が寂しくて嫌だという考え方もありますが、寂しいと思う気持ちの延長上には、そのことによって自分がみえなくなり道を見失うこともあります。

当人にすればその気持ちは本当に切実ですから何かで埋めようとするか、その現実から目をそらすために見ないように抑圧してしまうこともあるでしょう。

この寂しさ、というのは人間が本来もっている感情の一面であることが多く、気づかずとも抑圧していることが当たり前になっていることだって少なくありません。

相談者と話していると、ご本人は意識していないとは言いながらも結構、深い寂しさや孤独感といった感情をうかがい知ることがあります。

これは言葉以前の感覚ですが、割と的外れではありません。

その感覚、その空気がその方にとっては日常的で当たり前すぎて「何も感じない・意識しない」ようになってしまっているのかもしれません。

こういった波動というものは、否定しきれない心のエネルギーとして発生しています。

寂しさというのは必ずしも一人だから寂しいということでもなく、周りに大勢の人がいるのに寂しいと思う人、思う時があります。

むしろ一人の時より、大勢の人がいるなかでの寂しさが余計に身にこたえるということもあるでしょう。

その理由、感じ方は千差万別、人によって状況も違い、内容にも違いがあります。

人は何かに依存して生きていると言ったら間違いでしょうか。

観方を変えたら、人は相互関係のなかで生かされているともいえるでしょう。

人の輪から離れてしまってる感覚としての分離観が孤独を感じて寂しいという感情となって湧きあがってくることもあります。

必要なこと

この世に無駄なものはないとすれば、寂しいという感情にも存在意義があります。

そういう目で見ていくと、喪失感、悲しみや嫉妬、怒りや罪悪感といった感情にもそれ以降の心を成長させるということを考えれば意味はあると思うのです。

ネガティブな感情を経験することで、このままではいけないなということに気づき、そこから前に向くことの大切さを知るとなればネガティブ思考の経験も生かされることになります。

そして孤独の時間が自分を成長させてくれる時間でもあるというように捉えますと、一人の時間もいいものです。

しかし、人間、寂しいときは人恋しいものであることはかわりません。

他の存在があることで自分の存在を感じたいのかもしれません。

同時に、自分が必要とされている実感を求めたくなることもあるでしょう。

否定や、無視、非協力的、自分が認められていない、大切なものを失ったときの寂しさ、誰かといても湧き上がる寂しさもあります。

人は、何かと繋がりたく思うのですが、これも寂しさという感情の一つの裏返しかもしれませんね。

それだけに、得た繋がりはとてもかけがえのないもののように感じることでしょう。

その存在に喜怒哀楽を感じたり、大切にしよう・・・と心に誓ったり。

人間の心に潜在する寂しさの原点は人によって違いがあります。

幼少の頃の家庭環境も少なからず影響しているものです。

誰もが味わう感情としての寂しさ。

しかし、人間はこの寂しさの中でも成長します。

寂しさを感じるということは。

これまで寂しさを感じなかったときには気づくこともなかった

自分の無力や

耐えることの限界を知り

自分以外の人たちと自分との間にある

距離を実感し、そこで考え、悩み、苦しんだりします。

寂しさということを実感し

はじめて、他人もまた味わっているであろう孤独感への

心穏やかな、

優しい、思い遣りの心をもてるのだろうと思います。

※きょうも最後までお読みくださいまして感謝もうしあげます。

苦悩する人間の業

苦悩

『死んだら楽になれるかもしれない』そう思った時もあると告白する相談者。

人間の苦悩というものについて相談者と向き合うと、必ずでてくる問題が、悩み苦しみの元となっている心の使い方、その人の癖が表面化してきます。

うつ病と診断されて向精神薬を服用している人。

時々パニック症状に陥る人。

対人関係において問題を抱えやすい人。

何かと新たな問題が発生しやすい人。

抱える問題は異なっていても、その問題の原因を深く探っていってたどり着くところが、その人の人生観、心の在り方、生きかたということになってくるケースが多くあります。

相談者と向き合うときにいつも思うのですが、心の仕組みについて、心の偉大さについて、尊厳というものについて知っていただき、これまでの生き方を少しだけ変えていければ随分と安らぎのある生活ができるのにと。

人間は心の安らぎがあってこそ平和も実感できるものであろうし、幸せと思えるものではないでしょうか。

初夏に、我が家のまわりで子育てをしているスズメたちをみていると、微笑ましいほどに一生懸命にヒナを育てている姿に感動します。

本能のままに生きている姿は、知恵ある人間であるはずの不調和な生きかたよりも、ときとして純粋にさえ思えることがあります。

人間は知恵のある動物という意味において他の動物とは異なった存在ですが、しかし、万物の霊長ともいわれる人間でありながら、その人生には苦楽があるのは何故だろうか。

苦楽の原点は、私たち自身の心の在り方、この一点にかかっています。

あの人が悪い、あの人のせいだ、霊のせいだ、あのことを切っ掛けにこうなってしまったといって他に責任転嫁をしているうちは心の安らぎが生まれることはない。

どうしてこうまで人間は他を許せないのだろうか。

他を許せないということは、そのまま自分を自縛していることに気づかなくてはならないと思うのです。

実際に相談にくる方々の内情を確認すると、決して他人のせいばかりではなく、多少なりとも自分自身にも原因があることも浮き彫りになってきます。

真剣に事態を改善することを考えるならば、たとえ相手に少しの落ち度、多くの落ち度があったにしても、そのことを理由にしたり、相手のせいにしたり、責めていては決して自分自身の心が苦楽からの解放はないということです。

人間は、往々にして自分自身の対応を変えるということで事態改善の最も有効な方法であることには気づけず、相手が変わることを望んでいる場合があるものですが、しかし、これでは事態の好転はのぞめないことのほうが多い。

それでは自分の何を変えるのかということですが、「私は間違っていない」「相手が間違っている」というこの気持ちを主張するほどに距離感がうまれてくるというリスクを考えますと、先ずは自分が正しいという気持ちがあっても謙虚に相手を受け入れるという姿勢をみせること。

ここから事態が変わってきます。

しかし、これができないのも自我心をもった人間ゆえの愚かさなのでしょうか。

仏教の教えにある「五蘊ごうんという言葉、般若心経にもでてくるこの五蘊という言葉。

これは、人間は肉体五官に心が傾き、形あるものに囚われ、心が外にのみ関心が移ってきますと、ものの本質を知ることもなく、やがては争いや、足ることを忘れた欲望がつのってくるようにできているということを教えています。

私たちの身の回り、現実社会にはそういった場面が数え切れないほどに存在します。

物質至上の考えが人々の心を支配し、かつては高度経済成長の名の下に、物と金の渦の中に巻き込まれていきました。

結果、公害、インフレ、物不足、そして、人びとの心は荒み、エゴと争いが巷にあふれ出ることになりました。

それは今でも世界のあちこちで見られる現象であり変わりません。

歴史は繰り返すといいますが、人が物にとらわれ、五官六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)に心が片寄り、自分を失って来ますと、残るものは争いと、苦しみ、悲しみだけとなります。

こういった人間の欲望は個人の問題だけではなく、国レベルでも行われ世論の反発をかっています。

中国が海を埋め立てて軍事拠点をつくるという既成事実を元に、我が国の領海だと主張する強引な行動が近隣諸国との摩擦を生みだしていることがそれです。

いつまでも過去に拘り、いつまでも相手を責め立てる手法は、自分の利益を目論んでの策略である場合が少なくありません。

何かのせいにすれば都合がよいという自己保存の心理と策略です。

こうしてみると人類の歴史は、五官におぼれた苦楽の歴史といっていいかも知れません。

人が苦楽の中におぼれるかぎり、人も社会も、世界も安らぎあるものとはなりません。

このことを根本的な心の仕組みとしてよく理解していかなければなならないと思うのです。

心の不安は、心を外に向け、その出来事、すなわち事象にとらわれ執着すると起こり、自分の肉体感覚に執着すると起こります。

苦しいからとそのことの一つ一つに心を向けていては苦しみから脱するどころか、更に不安や恐怖心の中に埋没することになります。

こういう心の使い方を私は「心の傾向性・癖」といっていってきました。

安らぎは、心を内に向け、自分の心の状況をどういった傾向性があるのか把握し、偏りがあれば、それを正しい心の法則に適った反省と実践の積み重ね生活から生まれてきます。

自分を変えることができるのは他人ではなく、最後は自分自身であるということ。

学んでも学んでも同じところをグルグルと回って、自分の悪しき癖から脱出できないでいる、不要な拘りのある生き方はいつも苦しみしかなく、それは学びそのものが知識でしかないということでもあり、何ら生活の中に実践されていない結果でしかないということ。

結果がでてこないと嘆いている人の生活ぶりを見聞きしますと、やはり学んだことを知識としては知っているから理屈はたつのですが、行いが伴っていない場合が多いものです。

そして、でも、しかし、だって、と言葉のまえに言い訳が先に口をついて出てくる。

これを称して「業・カルマ」ともいえる。

人間は誰もが未完成のままなのかもしれませんが、せめて、さまざまな人との巡り会いのなかでたくさんの経験をして、そして自分に気づいて、自分自身のパーソナリティを築いていきたいものです。

※きょうも最後までお読みくださいまして感謝もうしあげます。

母の愛

11月9日 受信

先生おはようございます。N子です。
最近更新がなかったので心配していましたが、お元気そうで何よりです。

今回の「死んだ娘に会いたいⅠ・Ⅱ」とても勉強になりました。
なんとなく理解できてはいますが、かわいい盛りの娘さんを亡くされた御夫婦の疑問はあの世の実感の少ない私も自然に抱く疑問ばかりです。

スピリチュアムブームで変に飾られたパフォーマンスで、誤解を受けてきた供養や除霊や淨霊なども、先生に出会ってからは残された家族が仲良く生活することが供養であり、あの世の人と私達はなんら変わりがなく恐れる必要がないと思うようになりました。

先生に出会えて私達は本当に恵まれています。有り難うございます。

義父が生前のとき相談に乗っていただき、お祈りしてくださり有り難うございました。
月〇に亡くなって以来、家族の悲しみの中でもやらなければならないことが多くあり、家族間で一騒動もありました。

義母は今後年金生活になりますが、義父が社会保険料を掛けている期間が少なく自分のと合わせても最少額になると嘆きました。

同居している主人に泣き泣き病院代がかかるから生活費がほしいとか電話代や携帯代は払ってくれないかと一週間もたっていないのにお金の話をするので、主人と口喧嘩になりました。

しかし義父は生前より「あんたが老人ホームに入るくらいは残しているから心配しんさんな」と常々言っていましたが、どれだけの財産があるのか誰も知りませんでしたのでその手続きを主人が引き受け整理したところ1億近い預貯金がありました。

それを知って安心した義母ですが、今度は私が母に借金しているのを全額返済を要求してきました。

以前弁護士に相談したいといったら、「お金はもう要らないしどうせ私が生きとる間に返せんのだから毎月くれるだけでいい」と言われ今日まで毎月返済をしてきました。

義父が亡くなって預貯金の全ては妻に相続するとの遺言書の通り従いましたが「これは私のお金ではない。お父さんが一生懸命贅沢もせずに貯めてきたお金。

私は使わずに子供らに残したい」と生前贈与や非課税になるからと多額の保険に加入したり、相続税を子供たちが少なく払えるようにとしました。

そしてこの度、私の返済も要求してきたので、主人がお金のことで言われるのはかなわないと残額200数十万を一括返済してくれ、私は返済先が主人へと変わりました。

今まで返済が十分にできない分、義父母を大切にしようとお世話をしてきましたが、いざ返済が終わり縛りから解放され安堵しましたが、長年葛藤しながらの同居でも義父母に掛けてきた愛情はしっかり育っており、変わらず接することにしました。

それが義父が喜ぶことだと思ったからです。

一騒動の中、49日前の義父の祭壇の花瓶が夜中に片方だけ2回倒れました。

一度は花が重たいのかと落ちないように工夫しましたが、また夜中に同じ花瓶が倒れました。
義母は「お父さん私何か間違っているんかねぇ」と気にはしていましたが、私はきっと義父が義母の今後の生活を憂える姿に「あんたが生活するだけの財産は残しているのに何を心配しているのか」と伝えたいのだと思いました。

21日ごろまでは義父が家の中にいる実感がありましたが今は居ないような気がします。

きっと義父は預貯金を相続税を払いたくないと義母が行っている生前贈与や非課税の保険など望んではおらず、税金を払えるのも幸せなことと言うような気がしてなりません。

また、義母は生前のように食事をテーブルに用意し義父が椅子に座っているかのように抱えて某宗教団体のお経を体にさするようにして唱えています。

きっと成仏するように願ってのことだと思います。

先生の教えからは程遠い我が家ですが、私自身義母に振り回されることなく先生のブログで学ばせていただいて家族に接していきたいと思います。

文章がまとまりがなく、上手にかけなくて申し訳ありません。

これからもお体に気をつけて御自愛ください。

返信

N子こさん。こんにちは。

お久しぶりです。メールをありがとうございます。

お義父さんが亡くなって以来ですね。

この頃あなたのことが気になっていたところにメールをいただいて何かしらホッとしました。

しかし、何かとご苦労が絶えませんね。

お義母さんにも困ったものです。

このままではお義母さんは自らして報いを受ける時がくるでしょう。

この世でその時がこなくても、あの世ではきっちりと清算しなければならないときがきます。

なかなか気づけませんね。

N子こさんは今までのように自分の心を信じて生きてくださいね。

あなたのこれまでの心の成長は必ずや実を結ぶ時が来ます。

否、あなたがこれまで務めてきた努力があるからこそ、お子さんたちやご主人が今のような生活ができているのですよ。

そういう意味ではすでに実を結んでいるのです。

あなたの心と努力は私が一番よく知っております。

だからあなたに「拍手~」です。

受信

お忙しい中御返事下さり有難うございました。
先生から御返事を頂いて、何かしらほっとして思わず込み上げるものがありました。

今、中三の次女は受験生なのですが、勉強をやろうとしません。

焦ってはいるようですが、勉強嫌いなので受験生とは程遠いです。

私も同じようだったので、似てるなぁと思うのですが大学院卒の主人は勉強しないと将来後悔すると、努力家の人ですから次女が怠けているようにしか思えず、腹立たしいようです。
それが原因で主人はアルコールも入っていたため大声で怒鳴り、恐怖心で次女が泣き出して私が間に入って代わりに叱られました。

そんなことが二度ありました。

私は今もたいして知識も教養もなく今日まで人様に迷惑も掛け色々ありましたが、不思議に後悔したことがありません。

しいて言えば、実家暮らしの時、両親をもっと助けてあげれば良かったと思うことでしょうか。

学歴社会の中で、勉強しないことは責められる世の中になり、勉強嫌いな子は生きづらいなと思います。

親はつい失敗しない様に、先に先に言ってしまいますが、私も苦い経験から学ぶことが多くあると思うと、親は真面目に生きて子供を暖かい気持ちで見守るしかないんだなと、先生に相談したくてメールを書いてるのに自分の中で答えが出てきました。

先生有難うございます。

こうして先生との交流が私にとって貴重な時間です。
これからもどうぞよろしくお願いします!

返信

だまっていても勉強する子、言われても勉強しない子、苦手な子、不得手な子、切羽詰まってようやく動き出す子、最後まで勉強の嫌いな子、しかし、こういったことと学校の成績に優劣であることとは必ずしもイコールではないようです。

それほど勉強しなくてもそこそこの成績で卒業したり、進学する子もいることでしょう。

私などは、自分が学問を苦手としていたこともあって、成績などいつもワースト記録ばかりでした。

それもあってか、自分の子供には「勉強しなさい」なんて言ったことがありません。

しかし、有り難いことに、学問が苦手な私のような人間でもこうして社会に生かされ、生きています。

育った「時代が違う」といわれればそれまでです。

確かに今の社会に巣立って生きていくのは容易いことではなく、ご苦労も多いかと思います。

必ずしも学歴があるから就職が約束されるということでもなく、大学を出て就職できないから大学院や専門学校へ進むという子たちもいますね。

学業も、就職も、順風満帆とはいかないことのほうが多いと思うし、そういった試練がまた人を成長させるところもあるのでしょう。

結局は親が子供に代わることができないですから、あなたが言うように、暖かい気持ちで見守ることしかできないできないのですよね。

ご主人がお酒の勢いをかりて娘に怒鳴るのはいただけませんが、あなたが中に入って代わりに叱られたというのは立派な行動だったと思います。

あなたが娘さんの代わりに身を挺したことによって、娘さんの恐怖心は治まったと思いますし、そのことでどれだけ娘さんが救われたことでしょう。

そして、そのことによって少しは勉強にも気持ちが向けられるかもしれませんね。

お義母さんのお金に対する執着、〇〇の〇という宗教への拘りによる偏った供養のあり方、一生懸命供養している姿とは裏腹な家族への不調和な我欲からくる言動。

自身の心調えずして、真に故人の供養などできようがはずがありません。

人間は弱いものですね。

そして愚かなものですね。

自分がみえないのですから。

しかし、愛あるのもまた人間ですね。

あっても無くていい物ならない方がいいでしょう。

しかし、愛はあったほうがいいですね。

私はN子さんがこれまで辛抱してきたご苦労を知っています。

家族で自分自身を知っているのは、N子さん。あなたですよ。

だから今の家族でいられるのです。

あなたがいなかったらおそらく家族は離散していたことでしょう。

勉強が得意ではなかったというあなたが家族の大きな支えになっている。

素晴らしいことだとは思いませんか?

そして、相談のつもりでメールを書いていたら、いつの間にか自分で答えをだしている。ここにもあなたの成長があるからこそです。

こういったことが何よりも素晴らしい心のステージアップですね。

平和

家庭でも、社会でも平和を言葉にする人、唱える人、また、そういう機会はたくさんあります。

それでも現実の行動をみると、他人に対して感情的になったり、家族につらく当ったりすることがたくさんあるでしょう。

宗教に入信して一生懸命に指導されたことに夢中になってはいても、実生活ではお金に執着したり、嫁姑問題で確執がうまれたりという事例もたくさんあります。

こうしてみると、どれほど宗教的な知識を学び得ても、実生活にそれが活かされていなければ、それは単なる宗教的パフォーマンスに過ぎず、絵に描いた餅でしかないですね。

結局、食べられません。

人と人の心のやり取りのなかには、共感することもあり、反発して分裂することもあります。

ここには価値観の違いや、気が合わない、肌が合わない、ウマが合わない、自己中心的、等々いろいろな理由があるかと思います。

真に平和を願うなら、理屈や知識ではなく、ほんの少しだけ心を向けてあげて、言葉をかけてあげられたらそれでいいのではないだろうか。

悲しみのあるところには慰めを、分裂のあるところには温かい言葉を、そして怒りのあるところにこそ安らぎの心を傾けてあげたいですね。

あなたはご自分のことを、「たいして知識も教養もなく」といっておられますが、しかし、私から見れば、何よりも一番大切なのものをもっていると思っております。

「無償の愛」これです。

この世でもあの世でも、生きるにあたっての最大の持つべき武器は無償の愛です。

あなたはこの愛をもって家族の心を支え癒しているのでしょう。

どれほど学問知識が優れていても、愛ある行動ができるか否かは別ですね。

ときとしてご主人の乱暴な言葉を受け止め、お義母さんの心ない言葉にも翻弄されずに許しておられる。

こういったあなたの人生観がどれほど大切であるか、また素晴らしいことであるか、その結果と評価は既に現象となってみえているはずです。

そして次元を超えてあの世にいったときに、魂の兄弟姉妹たちに最大の称賛をいただくことになるでしょう。

どうぞ、これまでどうり自分を信じて、家族を愛して生きてくださいね。観童

※きょうも最後までお読みくださいまして感謝もうしあげます。

旧家にある霊的問題

A精神疾患者やノイローゼの一因

家柄の古い所、その古い血筋、その血縁者に精神を病むケースが多いという一面は実際にあります。

それは旧家ほど家柄や、子孫、土地、財産、名誉などに執着をもったままで死んでいった場合に、死んだ後もそういったものを守るという想念が強いがために自分の心を縛りつけてしまうことによるものです。

物や場所、果ては人間にまで執着してしまうと、執着された人間の場合は病院にいっても説明できない疾患、つまり原因不明の病気という場合があります。

どんなに社会的に立派な職業に就いているといわれている人でも、どんなに財産があって立派な豪邸に住んで人生を謳歌していても、名誉や地位が高かろうとも、心に曇りを生じさせてしまうと霊体は光りを失ってしまい、自らのなかに地獄をつくりだしてしまいます。

ある高齢者の家族の話しですが「おらあ~死んだらお墓にいるから」「私が死んだら仏壇のなかに納まってるよ」とかいうのですが、死んだ後は仏壇にも、お墓にもいてはならないし、そこに執着してはなりません。

生と死

人間は死ぬ時、生きていた間に思い、且つ、行ったことの全てを心に記憶して持って逝きます。

そしてやがて、あの世にいって時がたつと、自分の生前のすべてをまるで映画でも見るように記憶がよみがえってくる。

他人の行動をみるように、自分の行動の全てを記憶した心が再生するわけです。

なぜそうなるのかというと、それは自分自身の内面にある善なる心がそうさせるわけです。

生きている間にどんなに巧妙に人を欺いて財を成しても、偽善を為して人の上に立っても、自分の心はそれが偽りであることを知っているのですから、こういう人生の末路は地獄の境涯であり、しばらくは地上生活とは真逆の、反省と苦悩の生活をしなくてはならないでしょう。

この地上における物質文明は人間がつくったものですが、それは滅びやすく、儚いものです。

私たち人間は、どうしてもその儚い物に強く価値観を見ようとし、拘り、執着しがちです。

た、物や金には執着しない人であっても、自身の業ゆえに、人間関係で劣悪な人生を送っている場合もあります。

この世で生きていくということは、直接的にも間接的にも人との関わりが必ずどこかでつながっております。

それだけに他人や社会との協調性も欠かせないことですが、しかし、自分本位の気持ちが強い為にこの協調性が足りず、人間関係に支障をきたして自分の立場を不利な方へと追いやっていることもあります。

人間がつくりだした物は変わりやすくうつろいやすいが、絶対唯一なる存在が創造した大宇宙の法則と、私たちの魂に刻まれた、愛と慈悲心は誰の心にも内在されて消えうせるものではありません。

また、その愛があるからこそ、悲しみの人には慰めをもち、怒れる人には安らぎをもち、恐れる人には温かく寄り添うことができるものです。

人間は間違いなく時が来れば肉体から離れなくてはなりません。

つまり、死です。

死の刹那に心に浮かぶことは、自分の人生がどうであったかでしょう。

その時に、ある者は悲しみ、ある者は悔いの涙を流し、ある者は死を恐れ、ある者は未練の淵に沈み、ある者は感謝と喜びのうちに息を引き取る人もいるでしょう。

死後の世界における自分の境涯は、生前における心の基準と言う意味においていうならば、如何に人間らしく、広く豊かな心をづくりをしたか、人々の為に尽くしたか、また如何に真剣に今を生きて努力したかでしょう。

たとえ失敗しても、その努力は評価され、それらは良き業となって来世に持ち越されることになる。

過去や過ぎた事を引きずってそこに拘り、更に先を案じ、不安感を増し、恐怖心におののき、今を真剣に生き切っていないことで精神を病むケースは非常に多いのです。

これもまた自分自身の一つの心の傾向性、すなわち癖、業といえるでしょう。

癖を修正するには勇気と決心があれば、必ずや希望の光明が見えてくるものです。

霊的なものの影響によって、自分の心が不安定になったりするのは、根本的には、己自身の心のなかに翻弄されるだけの原因があるからということを真摯に受け止めて、心の傾向性(癖)を修正すべく精進しなければならない。

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死んだ娘に会いたい2

天使きょうは前回投稿した「死んだ娘に会いたい」の後半のやり取りを掲載させていただきます。以下。

返信

ME様。おはようございます。

昨日あなたのことが心に浮かびまして、どうしておられるかなと案じておりました。

親子の情、これは月日を限定して割り切れるものではありませんね。

ですからあなたの寂しさ、悲しみ、悔しさを思いますと言葉など無力を感じてしまいます。

お子さんが夢に出てきてくれてよかったですね。

今回の霊夢はあなたの心情を思っての霊界のはからいと理解してよろしいかと思います。

私の心に映る娘さんの世界は間違いなく天上界です。

ご安心ください。

あなたのご質問にお答えしますが、生まれ変わり、輪廻転生は一定の時期が来れば必ず下生してきます。

これは地上人間の都合ではなく、霊界の仕組みとしての秩序です。

但し、地獄界からは地上には生まれてくることは叶いません。

輪廻転生の事実は地上に存在する宗教、宗派とはまったく関係なく霊界の仕組み、そして、宇宙の仕組みとして変えることのできない法則として存在するものです。

仏教であろうが、キリスト教であろうが、新興宗教であろうが、それらとは関係なく霊界の秩序と仕組みは厳然として営まれています。

天国、極楽、これは言葉としては教義の問題であり、解釈の問題でしかありませんが、実態は各個人の魂のステージによって居住する段階に違いがあるものです。

霊界の仕組みは、私たち地上に肉体をもって生きる人間の解釈やルール、律法で変えられるものでもありません。

宗派によって行ける世界が違うとすれば、それは間違った教義を信じて亡くなった場合、学んだことと、死後の世界の実情とのギャップに戸惑い、意識がついていけないということが迷いとなり、幽界にとどまるということになる場合があるということです。

現代日本の仏教は、本来の教えから逸脱した教義、習慣、伝統がたくさんあります。

それはキリスト教にもあります。

葬儀、戒名、香典、ご法事、供養の習慣と実態、諸々あります。

これらについても私のブログ内で検索すればそれに関する記事がでてきます。

例えば、「供養」 「戒名」 「葬儀」というようにです。

修行という言葉のもつイメージは、とても重く、厳しく、厳粛なものという感じがしないでもありません。

ただ、修行という言葉の本来の意味は、人生そのものが修行だと私は理解しております。

執着せず、調和して、生活すること。

このなかには艱難辛苦あり、喜びあり、悲しみ有りです。

これほどの修行があるでしょうか。

現に、あなたがいまおかれた状況が一番厳しい修行の局面にあると思いませんか?

修行というものは特別なことを指していうのでもなく、宗教的な行為や行事をおこなうことが修行なのではないと思うのです。

ある意味において、出家して宗教の世界に生きるより、私たちのように在家で生きることのほうがたくさんの試練、厳しさがあります。

霊界にも段階あり、天国にも段階あり、あの世は厳然として魂のステージによって居住世界が異なります。

私たちの死後は、宗派の違いによって決まることはありません。

あくまでも個人の魂のステージによって決まるだけです。

宗教に入信することは心の在り方、執着のない生き方を学ぶ点においては有効かと思います。

しかし、間違った習慣、文化、伝統を習うことにもなりますからその辺はよくよく客観視することも肝要かと思います。

伝統ある宗教、教団だからといっても間違った伝統もあります。

私はこれまで日本の宗教界における問題点を記述してきました。

そういった記事も参考になさってみてください。

ME様の心安らかなることをお祈り申し上げます。

観童

2015/10/5 受信

観童様

お疲れ様です。

丁寧なお返事ありがとうございました。

主人は観童様の言葉を聞きスッキリしたと言っていました。

間違って解釈しているかもしれませんが…死後の世界への入口は宗教などによって表される形が違う。

しかしその先は、天国であり極楽浄土であり、行き着く先は皆同じ。といった所でしょうか?

地獄…行きたくないですね。

今日は特に浮き沈みが激しいです。

娘を思い出し、失った重圧に耐えられず泣きっぱなしな夜となっています。

昼間は晴天だったのに、夕方から雨が降り出したからかもしれませんね。

観童様、納骨というのは本当に必要なんでしょうか?

主人は魂と肉体は違うから、あるべき場所に置いた方が良いと。

私はやはりそばに置いておきたい気持ちがあります。

魂はいつもそばに居る。

肉体にはもう魂がないわけだから、骨はいわゆる抜け殻、主人はそういう考えのようです。

私もそれは理解出来ますが、まだ割り切れません。

娘は生きている間、ぬいぐるみ付きのおしゃぶりを片時も離しませんでした。

事故を起こした際も手にはおしゃぶりを持っていました。

2つあったので、1つは棺桶に、もう1つは私のそばにあります。

先日観童様に送った写真で娘が持っていたライオンのぬいぐるみがその1つです。

私は事故の時持ってたイヌの方を形見として貰いました。

火葬後、金属やオモチャ類は全て燃えたのに、おしゃぶりの口にくわえる一部分だけが骨と一緒に残っていました。

これも娘が何か伝えようとしたのでしょうか?

娘との思い出の場所へはもう行けそうもありません。

しかしそれは娘にとってどういう想いになりますか?

受信

ME様。こんばんは。

ご質問の

「納骨というのは本当に必要なんでしょうか?」

これはご主人の言う通りです。

問題は、いつかはお骨を土に返してやること。

その時期はあなた自身が心が落ち着いてからでもいいのですよ。

但し、長くお骨に執着しないことです。

愛することと、執着することのちがいをしっかりと区別してくださいね。

「おしゃぶりの口にくわえる一部分だけが骨と一緒に残っていました。」

これはお子さんが伝えようとしたのではなく、最後までおしゃぶりを大事にしていたということの想念の証です。

「 娘との思い出の場所へはもう行けそうもありません。しかしそれは娘にとってどういう想いになりますか? 」

思い出の場所に行けなくてもそのこと自体は問題ではなく、悪影響もありませんから何らの心配もいりません。

ご安心ください。観童

受信

観童様

お返事ありがとうございます。

そうですね、やはり納骨はしなくてはいけませんね。

魂はいつもそばにいる…まだ実感出来ないから、骨に執着してしまってるのかもしれません。

娘が大切にしていたおしゃぶり、私も大切にします。

私が死んだ時は一緒に持って行って、娘と再会する時に返そうと思います。

いつも丁寧な対応に感謝しております。

主人も観童様の言葉に救われたと言っています。

ぜひ今度はそちらに伺わせてください。

背骨が曲がっていて、腰痛がヒドイです(笑)

季節の変わり目ですので体調を崩さぬようお気を付けください。

ME

返信

あなた自身が辛いのに優しいお言葉を掛けていただいて、お心づかい、ありがとうございます。

胸を切り開いて見ることができるならその寂しさ、悲しみ、悔しさを確認できるのに、どんなに苦しくても通常は心を肉眼で見ることは叶わないことですね。

お子さんのお写真を見ると本当に天使のお顔に心が震えてしまいます。

心からご冥福をお祈りします。

そして、あなたのお心が癒えますように。

合掌。

神よ、ME様のお心に光をお与えください。

心に安らぎをお与えください。

愛娘の心に、安らぎと、神の光をお与えください。

天上界の光りの天使たちよ、この子を然るべき天上界においてお守りください。

観童

2015/10/16受信

観童様 おはようございます。

先日はありがとうございました。大勢でおしかけてしまい申し訳ありません。

観童様の言葉は深く、とても心に残りました。

 私は中絶をしています。

自らの手で子供を亡くした私は、きっと子供のいる天国には行けないと思っていました。

地獄に行くんだろうなと・・・・。

なので観童様には何度も娘と会えるのか確認してしまったのです。

主人は事故以来、友人との連絡を絶っています。

私はそんな主人に『気晴らしになるなら外に出てほしい』『元気を出してほしい』と思っていました。

しかし昨日1階にいる私に気遣い、2階で泣いていた主人を見て『なんて私は浅はかな考えてだったんだろう』と申し訳なくなりました。

主人の哀しみは、私の想像をはるかに超えています。

主人が「子供は自分で母親を選んで魂が宿る。羨ましい。」と言っていました。

娘が亡くなったのは運命だったのかもしれません。

でもその運命を変えることも出来たはずです。

まだ後悔や無念が強いので、娘を引き止めてしまっているのではないかと心配です。

やはり娘のことを想うなら、しっかり供養しなくてはいけないのですが…。 ME

返信

ME様。こんばんは。

先日は遠く岩手まで足を運んでいただき、ほんとうにご苦労様でした。

狭苦しいところで何のもてなしもできずに申し訳ありませんでした。

MEの中絶のお話し、どれほど悔いても過去に戻ることができません。

当時はどうにもならないご事情もあったことでしょう。

しかし、あなたはその事実を心から悔いて懺悔しております。

そして、心が調和されています。もう許されましたよ。

あなたは地獄にはいきません。

だから子どもたちのために、ご主人のために明るく生きてくださいね。

ご主人が二階の部屋で一人泣いておられたとのこと。

お気持ちが痛いほど理解できます。

でもね、泣きたいときは泣いてください。

泣かせてやってください。

ご主人が泣いているときに、そっと傍に寄り添ってあげることが可能ならそうしてあげてください。

あなたの愛が伝わります。

無言でいいのです。

あなたも一緒に泣いてもいいのです。

言葉では表現のしようがありませんが、私にはご主人のお気持ちがわかります。

苦しいほどに。

あなたのご主人に対する心づかいは浅はかではありません。

それでいいのです。

今はお互い何をしても亡くなったお子さんへの思いが優先されていますから致し方ないのですよ。

決してご自分を責めることだけはしないでくださいね。

供養は、心からお子さんへ声を掛けてあげてくださることでいいのです。

それ以上の供養はありません。

決してこれまでのような仏教界のやり方で成仏するとかいうことではありません。

そのことを正しく理解してください。

ご覧になったかも知れませんが、私のブログないで「供養」と検索してみてください。

ゆっくりでいいのです。

心の落ち着く日がくるまで、ゆっくりでいいのです。

観童

追伸

ご主人様がくださった「志」ですが、後で拝見してあまりの金額の多さに驚いております。

私はこれまで一度もお金を頂戴したことがありませんし、初めてのことで戸惑いました。

そして考えました。

結果、私が居住する自治体の社会福祉への全額寄付をと考えましたがいかがでしょうか。

障害者児童の支援、要介護者への支援に使われることになろうかと思います。

お許しをいただけましたらそのようにしたいと思います。観童

受信

観童様

主人に伝えましたところ、ぜひそのようにお願いしますとのことです。

主人は後々考えたら、無理矢理渡してしまった事を気にしていました。

観童様が今までお金を貰わないというスタイルだったのに、こちらのエゴで押し切った事で、今まで積み上げてきた事を崩してしまい申し訳ありませんと言っています。

本当に必要とされている方々の力に、微力ながらも協力出来て嬉しいです。

ありがとうございます。

娘のおかげで、観童様という素晴らしい方と出会えた事に感謝しています。

私自身まだ浮き沈みがありますので、また辛くなった時はメールしてもよろしいでしょうか? ME

返信

ME様。

おはようございます。

頂戴したお金の事に関しては、ご主人さまに心から感謝をしております。

御許可をいただいたということで、福祉のほうに全額寄付をさせていただきますね。

ありがとうございます。

私が感じたご主人様のお心はとても穏やかで温かなお人柄と思いました。

同性からみても包容力と優しさのある素晴らしい方です。

あなた自身は浮き沈みがあるとおっしゃいましたが、当然のことです。

そう簡単に割り切れることではありません。

いつでも、何でも結構ですから、遠慮なさらずにメールをしてください。

私にできることであればお応えさせていただきます。観童

 

観童様

こんばんは。こんな時間に申し訳ありません。

3歳の娘の様子がおかしくて、今主人が病院へ連れて行きました。
夜泣きにしては尋常ではなく、本人は「目が痛い」と左のコメカミ辺りを押さえて泣き続けています。

はじめは頭を抱え込んでいた様子でした。
それを見た主人は思わず「Kか?」と。

正直私も一瞬考えてしまいましたが、亡くなった娘がそういう事をするはずがないと信じたいのです。

しかし何か伝えたい事があるのではないかと思えてなりません。

今はただ娘が何事もなく帰宅してくれるのを待つばかりです。ME

同日受信

観童様 娘が帰宅しました。落ち着きを取り戻したようです。

診断結果としては左目がカブれているのが原因ではないかと…正直腑に落ちない所がありますが、医学的観念からだとそういう診断になるのかもしれません。

小さい子供が言う事なのでどこまでが真実なのかは分かりませんが、どうやら娘にはKが見えるようです。

よく「Kちゃんココにいるー」とか「Kちゃん笑ってる」なんて言うので、私達夫婦も思わず「Kどこにいる?」なんて聞いてしまいます。

しかし一昨日くらいから「Kどこ?」って聞いたら「んーわかんない」と言うようになりました。

だからついに天上界へ旅立ったんだと思い、寂しいながらも気持ちの整理をしていました。

でもふとした瞬間に「Kちゃんママの髪の毛引っ張ってるよー」とか言うので、『やっぱり側にいるんだ』と嬉しさの反面、成仏出来ずにいるのではと心配な気持ちで複雑です。

今日たまたま主人と、四十九日が過ぎたらもう娘にKの事を聞くのはやめようと話していたんです。

娘は天上界にいるけど心は私達の側にいる…それで十分だと思ったからです。

もちろん娘が自分からKの話をする時は受け止めてあげようと思います。

お寺さんの都合等で、四十九日に納骨出来そうにありません。

準備が出来次第すぐにやる予定ですが、今は家族全員で寝る寝室に骨壷を運んで枕元に置いています。

この行為は大丈夫でしょうか? こんな時間にお騒がせし申し訳ありません。ME

返信。

今回の頭痛についてですが、

医学的な解釈で説明できる問題ではないと理解していただいてよろしいかと思います。

明らかに、Kちゃんのメッセージによる影響と思っていいかと思います。

Kちゃんは頭痛をおこしたくてやったわけではありませんが、もうすぐ天上界に旅立たなくてはならない時期がくるために、

いまのうちにたくさん甘えたいだけです。

こういう方法でしか自分の存在を知らせる術がないのです。

一番わかりやすい手段として感受性の強いお姉ちゃんを選んだということです。

幼い子供ほど霊界とつながりやすく、大人になるにつれてその霊道が閉じられてきます。

よく幼い子が「見える」というのはそういう理由があるからです。

簡単にいうと心に穢れが無く純粋ということがあります。

先入観がないということです。

余分な知識や分別がないということです。

実は、昨夜はいつもとは違う肉体感覚があり、深夜2時半頃に意識が働きだし、3時に一度起きました。

今朝7時にメールの着信を確認して納得できました。

今度何かしら緊急の事態がありましたらご連絡いただければ対処させていただきます。

遠隔浄化で事態を治められたらと思います。

何か質問などありましたらご連絡ください。観童

追伸

とりあえず、Kちゃんのお写真を頼りに、Kちゃんの霊体と魂に光を送らせていただきました。

受信

観童様

やはりそうでしたか…なんとなくそんな気はしていました。

事故以来、娘は3日に2日は夜泣きをします。

起き上がって「Kちゃんどこー?」なんて泣く日もありました。

その度にKが夢に出てきているのかなって思ってたのですが、もしかしたらその時はいつもKが存在をアピールしていたのかもしれません。

昨日の泣き方は尋常ではなく、痛がる様子はまさにKを連想させました。

『もしかしたらKは今もなお痛み苦しんでるのかもしれない』と思いました。

私は“憑依”という言葉にあまり良い印象がありません。

だから昨夜は『Kはそんな事するはずがない』と正直信じたくない気持ちがありました。

しかし今考えると、やっぱり昨日居たのはKだったと思います。

痛い痛いと泣き叫ぶ姿はとても辛く、抱きしめて「大丈夫だよ」と言う事しかできませんでした。

Kとして接してあげれば良かったと後悔しています。

もしかしてこれがこちらの世界では最後の意思表示だったのではないかと思えてなりません。

浄化という行為はやはり必要でしょうか?

また昨夜のような事があった際は、「K」と呼んで接しても問題はありませんか?

ME

2015/10/23 受信

観童様 こんにちは。

こちらは随分涼しくなり、青空の広がった秋晴れとなりました。

先日のメールは読んでいただけましたか?

その後まだ3日しか経っていませんが、娘は夜泣きをしていません。

主人が観童様に聞いてほしい事があるそうです。

降霊術でよく見かけますが、ほとんどの死者は泣いています。

先日の事もありますし、やはりKもそうなんでしょうか?

自分が死んでしまった事を嘆き悲しんでいるのではないかと心配しています。ME

返信

ME様。こんばんわ。

10/20に頂いたメールは拝見しました。

今回の「浄化という行為はやはり必要でしょうか?また昨夜のような事があった際は、「K」と呼んで接しても問題はありませんか?」ということについてですが、もし、何かしらKちゃんが傍にきているような気がしたときは声をかけてあげていいですよ。

そして、最後にはちゃんと祈ってあげてください。

「神様、私の娘、Kちゃんを天国へ導いてやってください。Kちゃんの守護霊様。どうかKちゃんを然るべき天上界に連れて行ってください。

Kちゃん。天国へ行ってね。ママもパパもKちゃんを愛しているから安心していいからね。」

こういうようなお気持ちで語りかけてやってください。

特別な経文を唱和するとか、特別な浄化をするとかはお考えにならないほうがよろしいです。

ごく普通に家族が調和した生活を心がけてくさればそれが何よりだし、充分です。

Kちゃんのことは私が浄化の供養をさせていただきます。

それとメディアでおこなわれている降霊の件ですが、信憑性という観点からすれば極めて少ないと受け止めたほうがよろしいのではないでしょうか。

泣いているとは言っても、涙にはさまざまな理由があります。

寂しさの涙、悲しみの涙、会えた嬉しさの涙、怒りの涙、悔いることの涙と。

しかし、故人ではなく、降霊する人の想いが入った場合は信憑性に欠けてきます。

特に、メディアでのパフォーマンスは視聴率の問題があり、内容が最初からショーアップした構成になっている部分が多いと思います。

前にもお伝えしましたが、Kちゃんの場合は魂のステージが高いために天上界に行くことはあっても幽界や地獄でさ迷うようなことはありません。

ご安心ください。

私もできる限りサポートさせていただきます。観童

2015/10/23 受信

観童様

お忙しい中お返事ありがとうございました。

ちょっと気になったのですが、あのようにKが娘を通して自分の存在をアピールするっていうことは、やはりまだ成仏出来ていないということなんでしょうか?

あれが俗に言う憑依ですか?

憑依というのは悪意があるイメージでしたが、Kが私を恨んでいるからだと考えられませんか?

そして、今後成仏したであろうKが、またあのように苦しみ憑依したりしてしまうのでしょうか?

私は昨日からとても落ちています。

Kの肉体を失った現実を再確認し、色々な感情が入り混ざった状態です。

この気持ちはなんだか恐怖心に似ていて、 緊張している時みたいに心臓がドキドキ高鳴りギュッと詰まります。

亡くなってから初めて感じる感情です。

時間が経てば経つほど、Kの成長がこちらの世界で見れないことを悔いています。

こんな状態だからKは後ろ髪を引かれているのかもしれませんね。ME

返信

成仏ということは通常は簡単なことではありません。

特に数十年間生きた大人の場合はどうしても執着が強い傾向にあり、死後においてそれを断ち切るまでに時間を要するのです。

Kちゃんは幼児です。

心に穢れがありません。

あの世に居る時の綺麗なままの心です。

ですから大人よりもはるかに速く天に昇りやすいのです。

大切な事は、Kちゃんの天上界での生活を祈ってやることです。

肉体がない今は、これまでのような家族としての生活ができません。

どれほど愛情が強くてもそれは叶わないことです。

Kちゃんが天上界に召されることの邪魔にならないような心構えが必要です。

厳しく、寂しいことですが、愛することと、執着することの違いを悟らなくてはなりません。

くれぐれも動揺しないように、拘りをもたず、いまいる子どもたちとご主人にも心を向けて行くようにしましょう。

Kちゃんは目に入れても痛くないほど可愛いお子さんですが生活する世界が違います。

そこのところを納得することも大切です。

心臓がドキドキする高鳴りは心配や、動揺、不安感、恐怖心からそうなります。

何も恐れる必要はありません。

ご安心ください。

憑依を心配されていましたが、今回のお姉ちゃんの頭痛やKちゃん姿を見たことなどは憑依とはまったく異なるものですから心配には及びません。

それに通常であれば、成仏できた故人の魂は人間としての喜怒哀楽という感情はあるものの、だからといって憑依することもなく、人を苦しめるようなこともありません。観童

観童様

やはり私がKに執着する気持ちが強いがばっかりに、Kは成仏出来ずにいるのかもしれませんね。

観童様の『死んだ子どもに会いたい』というブログを読んで、私なりの言葉で故人供養の手紙を書き読んでいました。

しかし21日を過ぎたこともあり最近は読んでいません。

私の中でこの2〜3日間は特に苦しく辛く、言葉では言い表せられない気持ちが溢れています…あの手紙はKに宛てたはずでしたが、私自身に言い聞かせていたんだと思います。

自分の為にも、まだ手紙を読む必要がありますね。

もう肉体のある生活を共にできないのは、身に染みて分かっているはずなんです。なのに求めてしまいます。

2歳に満たない年月でしたが、深い深い思い出が沢山あって辛いです。

思い出すと辛いのに、忘れてしまう事も出来ません。忘れたくないんです

せめて夢でも良いから会いに来てほしい…切なる願いです。

もう1つ。観童様にお聞きしたかったことがあります。

先日お会いした時に、娘は「即死に近い状態だったと思う」とおっしゃいましたよね。

私のメールの内容からはそういった表現はしていませんでしたし、まず私が即死したとは思っていません。

むしろ苦しまないでほしい気持ちから『即死だったらせめてもの救い』という願いがありました。

観童様はどうしてそう思われたのですか?もしかして娘を感じられたのかなって思ったんです。

あの時観童様は、私達と一緒に娘が居るかのような話し方だった気がします。「彼女」とか「あの子」ではなく、Kを「この子」と呼んでいたので…。

以上。ここまでがご相談者ME様とのメールのやり取り全文です。

最後のメールには返信をしておりませんでしたが、即死状態であったかどうかについていうならば、たとえ心臓の鼓動があったとしても肉体感覚としての意識は完全に失われていたという状態であっただろうと思われます。

私のなかに「即死」というメッセージが入ってきたことを言葉にしたということでした。

ME様ご夫婦が整体を希望されて岩手においでになり、直接お話ができましたときに、亡くなられたKちゃんがお母さんのひざ元にしがみついて束の間の甘えを許されていました。

とても可愛いお子さんです。

その後、ME様もご主人さまも辛く寂しい中でも、少しずつ安らかな心を取り戻してきておられるご様子、何よりと思っております。

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死んだ娘に会いたい

多忙のため原稿を書く時間がなかなかとれず、二週間ほどブログの投稿をお休みしましたが、勿体なくも、読者から安否のお言葉を頂き有り難く思います。

きょうは幼いわが子(1歳9カ月)を亡くされた若いお母さんとお父さんの悲痛な心の叫びを二回に分けて投稿(承諾を得て)させていただきます。以下。

TFLB_016ME 2015/9/15受信

はじめまして。ブログを拝見し、ぜひ話を聞いていただきたくて勝手ながらメールを送らせてもらいました。

私は一週間前、最愛なる娘(1才9か月)を事故で亡くしました。

過失は母親の私にあります。

悔いても悔いても悔やみ切れず、最も大切にしていた存在を自らの手で失ってしまいました。

色々な方のブログを見ては、娘の冥福を祈るために前を向かないとって毎回思うんです。

しかし毎日何度もあの事故を思い出します。

娘の声や温もりは薄れていくのに、事故をした瞬間の娘の顔は今もハッキリと鮮明に覚えています。

その時の心情は言葉では言い表せません。

私にはまだ小学生と幼稚園と生後間もない3か月の子供がいます。

しっかりしなくてはいけない。

他の子供達も同じように想ってあげなくちゃって思うんですが、亡くなった娘のことばかり考えています。

主人も失った哀しみに耐えられずにいます。

二人して『死後の世界』『死者に会う方法』などをネット検索し、娘の動画や写真を繰り返し見ています。

自殺さえ考えました。

しかし亡くなった娘に再会するには、定められた寿命を全うしなくてはいけないと聞き、なんとか思い止まっています。

情けないですよね。

残された子供を捨て、背負った十字架の呪縛から逃れようとしました。

その事故が起こる前、私は死についてよく考えていました。

なぜでしょう?

決して望んでいたわけではありません。

しかし「子供達の誰かが死んだら…」と考えた事もありました。

そして生きている子供達を見てホッとするのです。

失いたくないと強く強く願っていました。

反抗期な小学生、言うことを聞けない幼稚園児、そして生まれたばかりの3か月。

イライラばかりして一人一人としっかり向き合えていませんでした。

精神的に追い詰められていた私は母親として失格です。

その中でも特別私の心の支えになっていたのは、まだ言葉もままならない甘えん坊な1才の娘でした。

もちろん子供達をランク付けするつもりはありませんが、もしかしたらそーゆう余裕のない気持ちでいたから罰が当たったんでしょうね。

前に1才の娘が死んでしまった夢を見たことがあります。

亡くなってから思い出しました…正夢になったと。

そして2日前お墓を探していた際、近所の神社で相談していた場面はまさしくデジャヴでした。

危険信号はもう出ていたはずなのに、なぜ防げなかったんだろうと思えてなりません。

主人は再婚で、娘の連れ子がいます。

もう社会に出ていて一緒には暮らしていません。

年の離れた兄妹達をとても可愛がっています。

事故を聞いた日も、仕事を終えすぐに駆けつけてくれました。

娘は見えるんです。

6日間、わが家で亡くなった娘の声を私達に伝えてくれました。

それがとても救いになり、たくさんのことを学び、今後どうあるべきか、そして自分の死への恐怖も打ち消してくれました。

しかし都合の良いことは信じ、そうでないことは疑うという私もいます。

だから娘以外の人からも声を聞きたいと願ってしまうのです。

娘の存在を私自身が見たいと。

死後、本当に娘と再会出来るのだろうか?今はそれが心配でなりません。

近い将来かもしれないし、まだまだ先の話かもしれない。

私はこれからどうあるべきなのでしょう?

随分乱文となりましたが、私の想いを精一杯言葉にしました。

お時間のある時で構いませんので目を通していただけると幸いです。

ME 女31歳  〇〇県在住

 

2015/9/15 返信

ME様。こんばんわ。

仕事が終わって、遅い時間になりましたが夜分にお返事を書かせていただきました。

可愛いさかりの娘さんを失った悲しみの心情は、とても言葉にすることができないものと思います。

まして他人の私などがどのような言葉を掛けられましょうか。

察するに余りあるものがあります。

あなたからのメールを拝見しまして、私の胸が張り裂けるほどの想いと痛みを感じました。

事故があって間もない今は、どのような言葉もむなしくなるような気がします。

今回の事故は、仮に、他人の運転する車の犠牲になったとしても、悲しみ、怒り、やり場のない気持ちに変わりはないだろうと思うのです。

このことは、ME様自身の運転する事故であっても同じなのでしょう。

計り知れないほどご自分を責めたのでしょう。

そして、ご主人にも申し訳ないと思われたことでしょう。

様々な思いが心にいっぱいになって苦しい思いをされたと思います。

いまでもそのお気持ちがあろうかとお察しいたします。

「悔いても、悔いても悔やみきれず」という言葉が、あなたのすべての心情を語っているのでしょう。

このような辛い思いをしておられるときに不謹慎かもしれませんが、小学生、幼稚園児、生後3カ月のお子さんがいらっしゃるとのこと。

このお子さんたちの存在が、どれほどあなたとご主人にとって心の拠り所になったかと思われてなりません。

あなたが、事故前に死についてお考えになられていたこと。

このことは、実は、今回の事故が発生することの予知現象があなたの心に生じたものであったと思います。

「子どもたちの誰かが死んだら」と考えたことも予知した結果の感情だったのです。

こういう大切な出来事の場合は総じて、守護霊があなたの心にメッセージを送っている場合が多いものです。

しかし、現実にはなかなかそういったメッセージの意図には気づけません。

幼い三人のお子さんを育てることは大変な心労と労力を要します。

間違っても「母親失格」などと自分を責めてはなりません。

自責の念は自分の心身を蝕んでいき、体調を崩していきます。

それだけはしないでください。

あなたが健康で傍にいてくれることが、ご主人もそうだし、お子さんたちも嬉しくあり、幸せなのです。

家族にとって、妻の存在、母の存在は計り知れないほどとても大きなものです。

私がいまのあなたにお伝えしたい言葉が一つだけあります。

それは「Kちゃんの分まで子どもたちを愛していくからね!」と言ってやってほしいと思います。

この言葉によって亡くなったお子さんは、自分への愛を確信するでしょう。

先に逝ったお子さんへの供養、それは、あなたが泣き崩れる日々を長らえることではなく、一年と九カ月というちょっとの間だけ親子になれたことへの感謝の思いをもって、今を生きること。

その姿を亡くなられたお子さんに見てもらうこと。

いかがでしょうか。

人間、地上の生命は80年程度の瞬く間の人生です。

誰もが、やがては寿命を終えてあの世に帰る時がきます。

その時は成長した大人のお子さんがあなたをお迎えにくることでしょう。

再びお子さんと巡り会うときに、胸を張って「精いっぱい生きたよ」と言える人生にしたいものですね。

亡くなられた娘さんは、あの世で成長をします。

特にお子さんの場合は、心がきれいなままで帰りますから、天上界に導かれます。

たとえ地上の家族の前に姿を見せたとしても、それはほんの束の間の許された限りある時間でしかありません。

亡くなったお子さんは、あの世の魂の兄弟姉妹たちが迎えに来ます。(死後21日目~49日迄に)

それまではこの世にとどまることができ、家族との関わりも許されます。

ですから、それまでにはあなたも、心を安らかにできるように準備をされてください。

あなたはお子さんたちの心と身体を育てる役目があります。

それが終わるまではこの世にとどまって人生を全うしてください。

いまはできなくても必ず笑顔になれる日がきます。

あなたと、娘さんはこのようなお別れになりましたが、それも地上の人生という意味においては束の間です。

永遠に親子の絆は切れるものではありません。

心がお辛い時期に、このようにつらつらと書き連ねてしまいましたことお許しください。

心より、Kちゃんのご冥福を心よりお祈りいたします。合掌  観童

2015/09/16 受信

観童様

いえ、お気になさらないでください。

不慮の事故…そう割り切れるのは大変難しいですが、娘の運命だったと私の実母が言っていました。

私の不注意での事故だったので、私を想って追ってきた娘の姿に答えてあげられなかった事が本当に悔やまれます。

こんな考えはいけないと分かってはいるのですが、まだまだ娘を想う気持ちが間違った方向にいってしまいます。

存在を感じたい。

せめて夢に出てきてほしいと願っていますが、いまだ見れていません。

寂しいです。

21日目を過ぎると娘はどうなるのですか?

もう私のそばには居なくなってしまうのでしょうか?

次にいく所が決まった場合、生まれ変わるという事になるのなら、私が死んでしまっても娘とは会えないのでは?

もし魂だけが霊界に残っているとしても、人類が誕生してからたくさんの人が亡くなっているわけで、ものすごい数の魂がいますよね?

決して死後の世界を信じていないわけではないんです。

ただ本当に娘に会えるのか不安で仕方ありません。

死後の世界でもまた生まれ変わる時に離れ離れになってしまうのが悲しいのです。

もう二度とあの手を離したくない。

観童様、私は娘とまた会えますか?

それともう1つ。最後に聞いても宜しいでしょうか?

ある人の書き込みで、2〜3年以内に身ごもると死んだ人の生まれ変わりが生まれるなんて書いてありました。

娘の生まれ変わりが欲しいわけではありません。娘は娘ですから。

でももし生まれ変わり説が本当なら、他の人の所にわが子が生まれ変わってしまうなら、やはり自分の所にと思うんです。

色々調べれば調べるほど、よく分からなくてパニックになります。

何を信じてこれからの寿命を全うすればいいのか教えてください。ME

返信

ME様。こんにちわ。

子どもの幼い時期はまた特に可愛いものです。

ですから、このまま成長しないでいて欲しいと思うあなたの親心も十分に理解できます。

しかし、そのことが子どもの成長を止めてしまうことになり、死に至ることになったとお考えならば、それは全く違うとお伝えしておきます。

何故なら、人間の生命というものは、親の思いや感情によって寿命が決まってしまうようなものではないからです。

不慮の事故、と受け止めてほしいものです。

「亡くなったら成長が止まる」

これは霊界の実相を知らない方が言ったことだと思います。

ごく普通にシンプルに考えてみてください。

生命は生まれたては死に、死んでは生まれる。

このことを繰り返すなかで生かされています。

このことは人間だけに当てはまることではなく、宇宙に存在する全てのものにいえることです。

あらゆる生命体が、循環するなかで生かされていることは、科学でも実証できることです。

あの世でも、子どもは成長します。

あの世でも、この世の子どもと同じように成長していきます。

あの世だから成長しないという論理や解釈には無知と無理があります。

幼い子が死んだ場合、あの世で迷子になることは決してありません。

この世に生まれる前は、あの世では立派な大人でした。

お腹の胎児に宿った瞬間から赤ちゃんからスタートするのです。

年月をかけて大人に成るのは、この世も、あの世も何ら変わるものではありません。

あなたのお子さんは、魂の兄弟姉妹が迎えに来て、あの世の養育施設で手厚く育てられます。

そういう仕組みはこの世にもありますね。

あの世のそれは、この世のものよりももっと行き届いた内容ですから心配いりません。

魂の汚れていない幼児は、心を汚した霊界にしかいけない大人に比べたら遥かに高い天上界に導かれます。

この世との区切りとして原則死後21日ですが、世間では49日という習慣が一般的でしょう。

しかし、霊界の実相は基本的に死後21日まではこの世に関わることが許されています。

49日というのは、あくまでもこの世の人間が取り決めた習慣であり、あの世に存在する秩序とは別だと言うことをご理解いただければと思います。

そうはいっても、この世の習慣を無視しなさいということではありません。

但し、自分の心の中では、21日までにお子さんとのお別れをしなくてはというお気持ちで準備をされたほうがいいでしょう。

最長でも49日という受け止め方でもよろしいかと思います。

霊界の実相として、21日、及び49日を過ぎてこの世に関わっている霊は自縛霊、地縛霊、浮遊霊ということになります。

つまり、娑婆(この世)に未練があり、心の内にたくさんの拘り、執着、つまりエゴがある人がそうなる場合が多いものです。

あなたがお子さんのことを思えば、Kちゃんはあなたの心のなかにいつでもいます。

しかし、それは泣きすがるのではなく、母として愛娘を思う、調和された愛へと昇華していきたいものですね。

亡くなったお子さんと再会するには一つだけクリアしなければならないことがあります。

あなたの心を冷静に、穏やかに調えることです。

感情を取り乱している状態ではあの世とのコンタクトはもちろん、自分の死後も会えなくなってしまいます。

心を調和することの大切さがご理解いただけますでしょうか。

時間が掛かっていいと思います。

ゆっくりと安らかになれることを願っています。

観童 合掌

2015/9/17 受信

観童様

大変貴重なお時間を私の為に費やしていただきありがとうございました。

まだ哀しみは癒えません。

しかし『信じる者は救われる』ということわざがあるように、信じていなければ決して娘には会えませんよね。

絶対にまた再会できると信じ、残りの人生を他の子供達と共に過ごしていこうと思います。

娘への愛情は消えることはありません。

あちらの世界では成長するようですが、私の中ではずっと1才9か月の小さな小さな赤ちゃんのままです。

娘をまた抱きしめることが出来る日がとても楽しみです。

たくさんのお言葉、本当に感謝しております。

どうあるべきか…実行するには時間がかかりますが、しっかり理解したつもりです。

21日目まで残りわずか。娘を送り出す準備をしていこうと思います。

ありがとうございました。

ME

返信

ME様

おはようございます。

悲しみはなかなか癒えないものですね。

とくに幼い子の先立ちは特にそうでしょう・・・・・・・・・。

あなたの周囲の人たちは心優しい人たちだと思います。

あなたのお母様がいう、娘の運命だった、という言葉にはお母様のあなたへの思いやりが感じられます。

ありがたいですね。

以前にもお伝えしましたが、亡くなった人たちが、この地上にとどまることは限りがあります。

それが21日であろうが、49日であろうが、いずれにしても時がくれば然るべき世界に移住することになります。

今後の娘さんの行く先は前回お伝えしたとおりです。

それでも心に娘さんがいることは何らかわりませんね。

肉体が有る、無し、ということも大きなことですが、もっと大事なことは、心の世界がどうあるかということでしょう。

あなたが寿命を全うしてあの世に行ったときに、娘に会えないのでは?

というご心配がおありのようですが、まずその心配はありません。

何故なら、人間の魂の殆んどは、輪廻転生の一定のサイクルがあって、その法則の元に生れてきます。

そのサイクルは、通常は数百年から千年以上です。

個人の都合で生まれるような仕組みにはなっていなのです。

それが宇宙における輪廻転生の法則であり、霊界の秩序というものです。

しかし、極まれには輪廻転生の事実を知らせる役目をもって早い時期に生まれ変り、それを世に知らしめるということもあります。

通常はないことです。

地球圏内の4次元に存在する魂の数は、地上で生活している人口に比べますとかなりの倍数になります。

世界の人口は70億に近づいていますが、地球上では、九十億人が最大許容人口の限界であろうと言われています。

しかし、あの世、4次元の場合は地球のスペースより居住できる範囲がはるかに広い為に飽和状態にはなりません。

あなたの御事情はよくわかりますが、ネットサーフィンをして調べれば調べるほどあなたの心に混乱が生じてくるでしょう。

証明のしようのないことに拘り、大切なことを見失わないよう、理性を以って生活してほしいと願います。

おそらく、ネットでいくら答えを求めても、あなたが満足できる答えを得ることはできないでしょう。

何故なら、肉眼でみることができないこと、そしてそれを証明できないことを探すことに無理があるからです。

普通に考えれば、死者に会うことができないのは、3次元と4次元がそういう仕組みの別次元だからということが理解いただけるのではないでしょうか。

死者に会うこと、見ること、話せること、こういったことができる人は限られた存在です。

しかし、だからといって特別な人間ではありません。

本来、地上の人間は誰もが4次元とコンタクトできる魂なのですが、心の想念帯に曇りがあるためにそれができなくいなったということです。

仮に、会うこと、見ること、話すことができたとしても、程度の差、精度の差、能力の差があります。

人間は、何の為に生れてくるのか、人生とは何か、そして、あなたの生きる目的は何か。

ここに人生の意義が含まれています。

その事をよくお考えいただいて日々を迷うことなく正しく生きてほしいと願います。

今の現実に悲しみ、悔いて、自分を責め、一番大切な事を見失うことのないよう生きてください。

私のブログにもあります。

人生についての目的、を検索して参考にしていただければと思います。

観童

返信

ME様。こんにちわ。

岩手のきょうは曇り空ではありますが、晴れて太陽の光も差し温かい日であります。

本日10:00頃にヤマト運輸でクッキーが届きました。

先ずはお礼を申し上げます。

ありがとうございます。

メールのやり取りで、このようなお気づかいを頂きほんとうに申し訳なく思います。

遠慮なくスタッフのみんなで、ご馳走になりますね。

ところで、お話しは変わりますが、差し支えがなければ、亡くなられたお子さんのお写真、氏名、生年月日、命日などをいただければ少しでも楽に天上界に入れるよう、微力ながらもお祈り、供養をさせていただきたいと思いますがいかがでしょうか。

勿論、個人情報ですので守秘義務は心得ております。

無用のことであればこのお話しはスルーしてください。

観童

2015/9/20受信

観童様

無事に届き安心しました。

やり切れない気持ちで今だにまだ哀しみに暮れていますが、観童様との何度かのメールのやり取りで私はこうあるべきなんだと道しるべを教えていただきました。

なので、たいした物ではありませんがほんの気持ちです。

こちらこそありがとうございます。

供養の件、ぜひお願いします。娘の写真を送らせていただきます。

返信 ME

こんばんわ。

お写真をありがとうございます。

Kちゃんのお顔を拝見しまして、ほんとうに光りの天使だと感じました。

同時に、淋しさと、悲しみと、悔しさと、感謝の気持ちが湧きあがりました。

これは、あなたのお気持ちと、Kちゃんの気持ちが同時に伝わってきたものです。

こうしてあなたのお気持ち、ご主人のお気持ちを察しますと、私は随分と簡単に偉そうなことを申し上げたかもしれません。

どうぞお許しください。

これまでのKちゃんとの思い出や、過去の記憶が鮮明に蘇るのも当然のことです。

どうぞ21日のことはあまり気になさらず 、ゆっくりと時間をかけてお心の整理をされてください。

Kちゃんはほんとうに可愛い天使です。

ME様、どうぞお子さんたちに、ゆっくりと穏やかな愛を向けてやってください。

宜しくお願い致します。

ありがとうございます。

観童

 

受信 観童様

ありがとうございます。

本当いつもニコニコしていて、家族みんなを癒してくれていました。

まさしく天使ですね。

観童様、これからもブログを読ませていただきます。色々学ばせてください。

そして、まずは娘と夢の中で会えるのを楽しみにして過ごしていきます。

もし観童様が娘のことで何か感じ取られた際は、ぜひご連絡いただけますでしょうか?

厚かましいお願いですが、宜しくお願いします。ME

 

2015/10/4 受信

観童様 おはようございます。

お忙しい中、またメールをしてしまい申し訳ありません。

事故の事を思い出さないと言ったら嘘になりますが、なるべく娘の笑ってる姿を思い出すようにしています。

肉体が無くて寂しいのは今も変わりません。

哀しみは突然やってきて耐えるに堪え難い状態です。

まだ現実を受け止められずにいます。

先日、21日目を迎える前に娘の夢を見ました。

また抱きしめる事が出来て本当に嬉しかったです。

『一度で良いから、もう一度…』なんて思っていましたが、一度見てしまうと『また見たい!』という欲求が出てしまいますね。

毎日見れたらどんなに救いになるか…欲張りになってしまいます。

そして今朝は死後の入口でしょうか?紫のようなピンクのような、一面花畑の綺麗な景色を見ました。

娘には会えませんでしたが、娘が見た景色だと思いました。

神様のような人が3人いました。1人はニコニコした人、もう1人は多分地獄の人。

もう1人の人は女性で、何かを伝えようとしていました。

行くべき場所に行けなくなってしまう理由を教えてくれようとしてた気がします。

なんだか悲しい顔をしてました。

話を聞けず目が覚めてしまったのが残念です。

昨日主人と死後の世界の話をしたからそんな夢を見たのかもしれませんね。

今日メールしたのも、死後の世界についてお聞きしたかったのです。

天国と極楽浄土は違うと読みました。

浄土真宗大谷派に入団するつもりでしたが、浄土真宗は輪廻転生を唱えていますよね。

つまり生まれ変わる事を願っています。

キリスト教であれば神様や天使がいて、天国という神の国に行ける。

これは私はイメージですが…天国は素敵な所、極楽は修行の場という感じがあります。

宗派によって行ける死後の世界が違うのでしょうか? ME

以上。ここまでがやり取りの約半分くらいになりますが、次回は後半の半分のやり取りをアップする予定でおります。

※きょうも最後までお読みくださいまして感謝もうしあげます。何かしら参考になることが有りましたら下のバナーをポチッとクリックして頂ければ有り難く思います。

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