孤独と心の成長

寂しさ
苦しい現実をあれこれ語り、ご主人への不満と愚痴、お金のこと、自分の体の不調、それらを全部悪いものと位置付けて並べていたら本当に心も体もおかしくなってしまう。
楽しいこと、嬉しいこと、優越感を感じられるような事、お金に不自由しないことだけが自分を成長させるものでしょうか。
少なくても私の人生経験では、そのときだけをみれば非常に辛く受け容れがたいこと、いわゆる試練という言葉の意味するような状況におかれたときのほうが自分を成長させてくれたと後で気づかされます。
一人が寂しくて嫌だという考え方もありますが、寂しいと思う気持ちの延長上には、そのことによって自分がみえなくなり道を見失うこともあります。
当人にすればその気持ちは本当に切実ですから何かで埋めようとするか、その現実から目をそらすために見ないように抑圧してしまうこともあるでしょう。
この寂しさ、というのは人間が本来もっている感情の一面であることが多く、気づかずとも抑圧していることが当たり前になっていることだって少なくありません。
相談者と話していると、ご本人は意識していないとは言いながらも結構、深い寂しさや孤独感といった感情をうかがい知ることがあります。
これは言葉以前の感覚ですが、割と的外れではありません。
その感覚、その空気がその方にとっては日常的で当たり前すぎて「何も感じない・意識しない」ようになってしまっているのかもしれません。
こういった波動というものは、否定しきれない心のエネルギーとして発生しています。
寂しさというのは必ずしも一人だから寂しいということでもなく、周りに大勢の人がいるのに寂しいと思う人、思う時があります。
むしろ一人の時より、大勢の人がいるなかでの寂しさが余計に身にこたえるということもあるでしょう。
その理由、感じ方は千差万別、人によって状況も違い、内容にも違いがあります。
人は何かに依存して生きていると言ったら間違いでしょうか。
観方を変えたら、人は相互関係のなかで生かされているともいえるでしょう。
人の輪から離れてしまってる感覚としての分離観が孤独を感じて寂しいという感情となって湧きあがってくることもあります。
必要なこと
この世に無駄なものはないとすれば、寂しいという感情にも存在意義があります。
そういう目で見ていくと、喪失感、悲しみや嫉妬、怒りや罪悪感といった感情にもそれ以降の心を成長させるということを考えれば意味はあると思うのです。
ネガティブな感情を経験することで、このままではいけないなということに気づき、そこから前に向くことの大切さを知るとなればネガティブ思考の経験も生かされることになります。
そして孤独の時間が自分を成長させてくれる時間でもあるというように捉えますと、一人の時間もいいものです。
しかし、人間、寂しいときは人恋しいものであることはかわりません。
他の存在があることで自分の存在を感じたいのかもしれません。
同時に、自分が必要とされている実感を求めたくなることもあるでしょう。
否定や、無視、非協力的、自分が認められていない、大切なものを失ったときの寂しさ、誰かといても湧き上がる寂しさもあります。
人は、何かと繋がりたく思うのですが、これも寂しさという感情の一つの裏返しかもしれませんね。
それだけに、得た繋がりはとてもかけがえのないもののように感じることでしょう。
その存在に喜怒哀楽を感じたり、大切にしよう・・・と心に誓ったり。
人間の心に潜在する寂しさの原点は人によって違いがあります。
幼少の頃の家庭環境も少なからず影響しているものです。
誰もが味わう感情としての寂しさ。
しかし、人間はこの寂しさの中でも成長します。
寂しさを感じるということは。
これまで寂しさを感じなかったときには気づくこともなかった
自分の無力や
耐えることの限界を知り
自分以外の人たちと自分との間にある
距離を実感し、そこで考え、悩み、苦しんだりします。
寂しさということを実感し
はじめて、他人もまた味わっているであろう孤独感への
心穏やかな、
優しい、思い遣りの心をもてるのだろうと思います。
※きょうも最後までお読みくださいまして感謝もうしあげます。